蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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Depth044:「憎悪の種」

 

 村の様子がおかしい。

 アマリアがそう思ったのは、アースヴェルドの滞在から3日程が過ぎた時だった。

 ちょうど、スコットランド自治政府――イギリスの四大自治国(カントリー)の1つ――からの物資の配給日だった。

 

 

「また少なく……」

「だんだん量が……」

「こんなんじゃ生活が……」

 

 

 雰囲気が暗いと言うか、ギスギスしている。

 苛立っているような雰囲気がそこかしこで見えて、アマリアは心持ち通りの端を歩いた。

 いくら神職とは言え、肌にピリピリとしたものを感じれば少しは警戒もする。

 伊達に一人で孤児院を切り盛りしていない。

 

 

 それに、これはここ毎週のことだった。

 スコットランド政府の配給は週に一度あって、その度に村の空気は悪くなる。

 ただ今日は、いつもより雰囲気が暗い。

 何かが変わりつつあるような気さえして、アマリアは不安を覚えた。

 

 

「シスター、どうしたの?」

 

 

 それでも、リエルが不安そうな顔で覗き込んでくると、アマリアは笑顔を浮かべた。

 自身の不安などおくびにも出さない。

 その笑顔にリエルも少し安心したようで、ほっとした顔をした。

 それに安心して前を向いたアマリアは、しかしすぐに表情を真面目なものに変えた。

 

 

「シスター、今日は何だかみんな元気が無いね」

「そう? いつも通りよ」

「そうかなぁ」

 

 

 嘘は吐いていない。

 何故なら村の様子は()()()()()だからだ、常よりも深刻だと言う以外は。

 村は、すでにずっと以前からこんな状態だった。

 ただ、やはり何かが微妙に崩れてしまいそうな、そんな気はしていた。

 

 

「心配しなくても大丈夫」

 

 

 だからそれは、どちらかと言うと自分に言い聞かせていたのかもしれない。

 それでもリエルを、そして孤児院の子供達に自分の不安を移すわけにはいかなかった。

 

 

「さぁ、それよりもお仕事よ。次は村長さんのお宅だから、粗相(そそう)をしないで頂戴ね」

「わかってるよ」

 

 

 子ども扱いされたのが不満だったのか、リエルは唇を尖らせて頬を膨らませた。

 その様子がおかしくて、アマリアは今度は本当にくすりと笑った。

 大丈夫。

 先程は気休めにしか過ぎなかった言葉だが、今は実を伴っているように思えた。

 足取りを僅かに軽くして、アマリアは繕い物を載せた荷車を引いた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 村長は、村が危機的な状況にあることを良くわかっていた。

 村人達は欠乏気味な物資だけで無く、だんだんと悪くなっていく生活自体に痺れを切らし始めたのだ。

 そしてそう言うところに、今回の事態である。

 

 

「村長、このままじゃみんな飢え死にしちまいますよ!」

「こんな量の配給で、どうやって生活していけばいいのよ!」

 

 

 スコットランド政府からの配給が、今月から半分になったのである。

 ただでさえ物資は足りないのに、ほとんど唯一の供給源である配給が断たれてしまえば、後は僅かな備蓄だけが頼りだった。

 ただその備蓄も、村人全員が冬を越せるほど潤沢にあるわけでは無い。

 

 

 このままでは、遠からず村人達は飢え始めてしまうだろう。

 ただ、それは村長にもどうすることも出来ない問題だった。

 こんな辺境の村で、村長と村民の生活の質にそれほど差があるわけも無いのだから。

 しかしこのまま放置していれば、最悪の事態になりかねない。

 抗議を繰り返す村人達を前に、村長は深刻な顔で考え込んだ。

 

 

「こんにちはー」

「こ、こんにちは……」

 

 

 その時だった。

 アマリアとリエルが控えめにノックをして、村長の家を訪ねて来たのは。

 アマリアは愛想良く笑顔で、そしてリエルは少しびくびくした様子でアマリアの後ろに隠れていた。

 彼女達は繕いものとお布施の入れ物を持っていて、それを見て村長が「おお」と立ち上がった。

 

 

「いつもすまんな、シスター」

「いえ、お仕事を頂けてとても有難いです。村長さんに神のご加護がありますように」

「お前もご苦労様じゃの」

「……ど、どうも」

 

 

 アマリアに僅かな代金を支払った後、それよりも少し多めにお布施を入れる。

 お布施持ちのリエルは縮こまってそれを受けて、入れ物の中で小銭の音が響いた。

 それはいつものことだったが、今日に限っては少し違った。

 特に他の村人達の存在を気にしていた店長は、それに気付いた。

 

 

「……」

「…………」

「………………」

 

 

 村人達の目が、じっとアマリア達に注がれていたのを。

 いや、厳密には違う。

 彼らは、リエルの持つお布施の入れ物を見つめていたのだ。

 それを本能的に感じていたのか、リエルはぶるっと身を震わせて、不安そうな顔をしたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 次の日から、奇妙なことが起こるようになった。

 教会に、食べ物を分けてほしいと言う人が来るようになったのである。

 施しは教会の重要な教えの1つではあるが、それとは違うと言うのはすぐにわかった。

 1人2人ならそう言うこともあるかと思ったが、3日続けば異常だった。

 

 

「教会が食い物を蓄えてるって聞いたぞ!」

「少しでいいの、少しだけでも」

「いえ、ですから……」

 

 

 もちろん、孤児院を兼ねる教会に蓄え等は無い。

 お布施にしたところで、礼拝や教会の維持修繕で右から左である。

 孤児院の裏手に家庭菜園レベルの畑があるが、実りが豊かとは言えない。

 つまるところ、他人に分け与えられるものは何も無いのだった。

 

 

 それは、村の人々も良く理解しているはずだった。

 だから、どうして急に人々が施しを求めてやって来るようになったのかわからなかった。

 追い返す形になるアマリアも、最初は申し訳なさそうにしていたのだが、午後に差し掛かってくると疲れた表情を隠すことも出来ずに応対するようになった。

 

 

「シスター、あの、今日の分」

「ああ、リエル。ごめんなさいね、今日はリエル1人で行ってきてもらえないかしら」

「え……」

 

 

 朝からずっとそうした人々の相手をしていたため、日課である繕い物の届け物も出来ずにいた。

 本来ならもう出なければならないのだが、次々に来る村人達にアマリアが身動きを取れなくなってしまったのだ。

 それでリエルに行ってきてほしいとなるわけだが、リエル自身は明らかにしり込みしていた。

 

 

「ごめんね、でも……」

「すみませーん」

「あ、はーい」

 

 

 どんどん、とまた扉が叩かれた。

 用件はわかっているが、アマリアは努めて明るい声で返事をした。

 この様子である、とても教会の外で届けものなど出来そうに無い。

 と言って、他の幼年の子供達ではおつかいすら出来るか怪しい。

 リエルにもそれはわかっているのだが、人見知りが激しいのである。

 

 

「大丈夫、いつも行ってる場所だから。声をかけて繕い物を渡して、それだけで良いの」

「うん……」

 

 

 とは言え、アマリアが大変そうなのもわかる。

 困らせたくなかった。

 だからリエルは頷いて、了承の意思を示した。

 

 

「何で、こんなことになっちゃったんだろうね」

「大丈夫よリエル。誤解はいつか解けるもの、皆わかってくれるわ」

「どうしてそう思うの?」

 

 

 リエルには、あの村人達のアマリアを見る顔が忘れられない。

 苛立ち、アマリアに嫌悪や怒りの感情を向けて来る者もいた。

 そう言う者達に対して信頼を向けることの出来るアマリアは、リエルには手の届かない存在のように思えた。

 それこそ、その意思は天上にあるのでは無いかと思える程に。

 

 

「そんなに大した話では無いのよ」

 

 

 礼拝堂の十字架を見上げながら、アマリアは言った。

 その視線を追って、リエルも十字架を見上げる。

 人の罪の象徴であり、同時に祈りを捧げる方向を示す道標でもある。

 これ自体が神を示すわけでは無いが、神聖なものではあった。

 

 

 それを見上げる時、アマリアの目が酷く澄むのをリエルは知っていた。

 神へ祈る。

 それは己の平安であったり、他者の平穏であったり、様々だ。

 だが神の教えを守る善く生きていくことは、アマリアの指針になっていることは確かだった。

 リエルには、やはりわからない。

 

 

「こんなご時勢だもの。人が人を信じなくなったらおしまいだわ、そうでしょう?」

 

 

 ただ、アマリアの在り方には憧れを抱いていた。

 神は信じていないが、アマリアは信じていた。

 だから、手を組んで祈りを捧げるアマリアの隣に膝をついて、リエルも神に祈りを捧げた。

 アマリアのために祈ろうと、そう思った。

 ――――そう、思っていたのに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――教会が、燃えていた。

 アマリアの言いつけ通り、リエルが繕い物の届け物をして、戻って来た時のことだ。

 やはり時間がかかってしまって、夕食の時間も大分過ぎてしまった。

 そうして戻って来た時、教会の空が赤く染まっていた。

 

 

「…………」

 

 

 言葉にならなかった。

 今、目の前で起こっていることが信じられなかったからだ。

 突然過ぎて。

 唐突過ぎて。

 いきなり、過ぎて。

 

 

 何だこれは、と、リエルは思った。

 いったい何が起こっているのか、俄かには理解できなかった。

 頭では理解しているが、認識することができなかった。

 だって、余りにもあっさりと、事が起こってしまって。

 

 

「……シスター」

 

 

 ようやく、それだけを搾り出した。

 教会が燃えている。

 夜空を焦がすように火柱が上がっていて、夜でも煙がはっきりとわかる。

 火事、その言葉が警報のように頭の中に鳴り響いていた。

 

 

「……みんな」

 

 

 次に出てきたのは、年少の子供達を思う言葉だった。

 そうだ、と、今さらながらに気付く。

 あの教会には、シスターと孤児院の子供達がいる。

 あの炎の下に。

 

 

「――――!」

 

 

 気付いた時、リエルは走り出していた。

 荷物をその場に投げ捨てて――「善意」である寄付も、音を立てて地面に零れた――身一つで、駆け出していた。

 視界には、赤茶けたレンガ造りの建物が燃え崩れていく様が映っている。

 

 

 どうして、どうしてこんなことに。

 冬の寒さの中、火の熱は顔に感じるまでになっている。

 この熱さが、リエルに目の前で起こっていることが現実であると教えてくれている。

 ハッ、ハッ、と、息を乱しながら駆けて行く。

 

 

(――――神様)

 

 

 この時、リエルは祈った。

 今度はアマリアのためでは無く、紛れも無く自分の意思で祈っていた。

 神様、どうか。

 これまでの不信心を謝罪するから、どうか。

 どうか、皆が無事でありますようにと、祈って――――。

 

 

「シスター! みん……ガッ!?」

 

 

 そして、その祈りへの答えは無慈悲なものだった。

 燃え盛る教会の前に辿り着いたリエルに与えられたのは、神の慈悲などでは無かった。

 リエルに与えられたもの、それは。

 土と鉄の匂いがする、重いスコップの一撃だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 リエルは、()()を見下ろしていた。

 現実世界とは一枚壁を隔てた異質な空間、とでも言うべきか。

 そんな世界にあって、リエルは村人達に殴打される自分自身を見つめていた。

 ここは死後の世界だろうかと、そうも思った。

 

 

「こっちにもいたぞ!」

「食い物を独占する強欲な教会のガキだ!」

「俺達の善意を利用しやがって!」

 

 

 村人達が、口にしている言葉は良く理解できなかった。

 もしかしたら、教会が寄付を名目に財を蓄えているというデマに踊らされたのかもしれない。

 もしかしたら、食糧危機の前に口減らしをしたかったのかもしれない。

 もしかしたら、単に不安と不満をぶつけるはけ口が欲しかったのかもしれない。

 もしかしたら――――彼らもまた、正気では無かったのかもしれない。

 

 

『もう遅いから、今日は泊まって行きなさい』

 

 

 繕い物を届けた時、村長がリエルにそう言っていた。

 それも、もう意味が無い。

 もしかしたら、単に善意で言っていたのかもしれないし。

 もしかしたら、すべてを知って言っていたのかもしれない。

 

 

(――――何だ、これは)

 

 

 人が人を信じなくなったら終わりだと、アマリアは言った。

 だが、人を信じた結果がこれでは無いか。

 村人に殴打される自分自身を見下ろしながら、リエルは不思議と冷静な自分に気付いた。

 と言うより、殴打されている自分が他人のように思えていた。

 

 

 殴られる自分から視線を動かすと、燃え盛る教会が見えた。

 ゆらゆらと揺れる炎に、不意に心引かれた。

 どうしてか、あんな激しい炎をどこかで見たことがあった気がした。

 リエル()()()()()()には、無い。

 

 

『…………』

 

 

 ザザザ、と、砂嵐のような記憶の向こう。

 いや、これは記憶では無く記録か?

 何の記録だろう、忘れてはならないもののように思える。

 炎の向こう側にいる誰かは、誰だっただろう。

 

 

『……哀れですね』

 

 

 あの姉妹は、誰だっただろう――――爆ぜる鋼の音が聞こえる。

 いや、それ以前に自分は誰だったか――――潮騒の飛沫が聞こえる。

 自分はこんなに無力な存在では無く――――轟音の砲声が聞こえる。

 嗚呼、嗚呼、そうか。

 

 

『あなたには()()の声が聞こえないのだな、『○○○○・○○○○○』』

 

 

 私は、強大なる者。

 私は、この海の支配者。

 私は、私は――――……。

 

 

 ――――海の音が聞こえる。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 もし一つ村人達にアドバイスをするのであれば、物事をもう少し慎重に観察すべきだったと言うことだろう。

 例えば、いくら殴打しても傷一つつかない少女の身体であるとか。

 

 

「――――何故だ!!」

 

 

 教会の火は消えていた。

 それでも建物は半壊していて、今にも崩れ落ちそうだった。

 そして教会の火が消えている一方で、村が燃えていた。

 数百年の歴史を誇る村が、大火に襲われて悲鳴を上げていた。

 

 

 だが、リエルはそちらには全く目を向けなかった。

 半分が焼け焦げてしまっている教会は、村の炎てオレンジ色に照らし出されていた。

 先程は逆だった。

 しかし今、教会は燃えていない。

 

 

「何故だ、神よ!」

 

 

 しかし教会に併設していた孤児院は、すでに焼け落ちてしまっていた。

 そこにいたであろう子供達は、誰も逃げられなかった。

 リエルの手の中に残っているのは、アマリアの肉体だけだった。

 身体に目だった傷は無く、火傷も見えない。

 

 

 無傷だった、奇跡だと思った。

 何の意味も無い奇跡だ。

 欲しかったのは、そんなものでは無かった。

 バチバチと音を立てて、リエルの身体にスパークが走っていた。

 まるで、少女の慟哭を表そうとしているかのように。

 

 

「ば、ばけもの……」

「――――ッ!」

 

 

 振り向いて、声のした方向を睨んだ。

 それだけの行動で衝撃波が走り、レンガの壁ごと吹き飛ばした。

 円形に崩れた壁の向こう側から、聞き覚えの無い男の悲鳴が聞こえる。

 まだ仲間がいたのだろう、それきり声は聞こえなくなった。

 

 

「化け物は、お前らだ……!」

 

 

 教会の鎮火と村の大火は、リエルがやった。

 今、彼女の周囲には幾何学的な光の紋様が浮かんでは消えていて、それはどこか複雑な数式のようにも、あるいは光の翼のようにも見えた。

 リエルは、慟哭していた。

 動かぬアマリアを腕に抱き、彼女が祈りを向けた十字架を仰ぎ見て。

 

 

「これが答えか、神よ」

 

 

 アマリアも、子供達も、真摯に神に祈りを捧げていた。

 にも関わらず、神はそれに報いるどころか仇を返してきた。

 彼女達を守らなかった。

 あれほどまでに神を信じ、人を信じていたアマリアに加護を与えなかった。

 

 

 いや、そもそも分かっていたはずでは無いか。

 この世に神などいないと。

 神は死んだのでは無く、そもそも生まれてすらいない。

 いもしない神が何を守り、何に加護を与えると言うのか。

 ……いや。

 

 

「そうか」

 

 

 わかった。

 リエルは唐突に理解した。

 この世に神はいるのだと。

 

 

「貴女こそが、神だったんだ」

 

 

 誰よりも清らかだったアマリア。

 だが彼女は1つだけ過ちを犯した。

 自分自身が神であることに気付かず、いもしない他の神に祈ったことだ。

 これは誤りだった、誤りは正さなくてはならない。

 

 

 リエルは十字架に手を向けると、何かを握り潰すように拳を握った。

 次の瞬間、不可視の円が十字架を抉り取った。

 同時に、リエルの腕のアマリアの身体にもキラキラとした輝きがまとわり付き始める。

 そして、身に纏っていた質素な服が分解されて、豪奢なゴシック・ドレスへと再変換されていった。

 

 

「それなら私は、貴女を神とする……!」

 

 

 そのためには、()()()()()()()は邪魔だ。

 リエルは自らの首に手をかざす、すると光の粒子が――()()()()()()()が集まり、チョーカーの形を取った。

 リエルの瞳から人として最初の、そして最後の涙が流れたその時。

 大火の中で、人々は教会に光の粒子が空から舞い降りる様を見たのである――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 重々しい空気が、アースヴェルドと紀沙の間に流れていた。

 アースヴェルドの話は、それだけ重大な話だった。 

 

 

「私が事の顛末(てんまつ)を知ったのは、すべてが終わった後だった」

 

 

 再びカークウォールを訪れたアースヴェルドが見たものは、現在の半分焼失した村だった。

 リエルが――リエルとしての「人の記憶」を封じ、霧の『クイーン・エリザベス』として覚醒した少女――アマリアを神として奉り、生き残りの人々が霧の超常の力に神性を見出している。

 そんな状況を見て、アースヴェルドが痛切な想いに駆られないはずが無かった。

 

 

 今のこの状況を生み出した責任を、感じないはずが無かった。

 だが、アースヴェルドにはもはやどうすることも出来ない。

 彼には霧の『クイーン・エリザベス』を倒す術など無いし、また人々の目を覚まさせることも出来ない。

 だからこそ、彼は紀沙達に懸けるしか無かったのだ。

 

 

「無理なことを言っていることはわかっている」

 

 

 その場に手をつきさえして、アースヴェルドは言った。

 

 

「私に出来ることなら何でもしよう」

 

 

 アースヴェルドには、現状を見続けることは苦痛でしか無い。

 そんな彼の前に現れた霧の力を持つ人間、すなわち紀沙達は、まさに神の遣わした存在のように見えたのだろう。

 運命なのか偶然なのかはこの際どうでも良かった、(わら)にも(すが)る思いだった。

 

 

「頼む、あの子を殺してやってくれ」

 

 

 リエルはもはや、アマリアを女神として人々を支配することしか考えていない。

 人としての記憶を封じて、どうして自分がそうしているのかもわかっていないのに。

 その姿は余りにも痛ましく、苦しささえ覚える。

 それでも、今はまだ良い方なのかもしれない。

 

 

「あの子がリエルとしての記憶を取り戻す前に」

 

 

 アマリアを女神と崇める人々を率いて、人を憎むリエルが何をするのかなど、考えるまでも無い。

 そうなる前に、リエルが人としての生きていた間の記憶を取り戻す前に、そうする必要があった。

 すなわち、リエルを。

 

 

「あの子を、終わらせてやってほしい……」

 

 

 紀沙は、手をついて『クイーン・エリザベス』を殺してくれと頼むアースヴェルドを、紀沙は見下ろしていた。

 もしアースヴェルドが憎しみから『クイーン・エリザベス』を倒してくれと依頼してきていたなら、紀沙は何の疑問も抱かずに受けていただろう。

 イギリス軍部との繋がりも出来るのだから、断る理由は無かった。

 

 

 だけど、アースヴェルドは違う。

 彼は『クイーン・エリザベス』が憎いわけでも、まして殺意を覚えているわけでも無い。

 むしろ、逆だ。

 アースヴェルドにとって、『クイーン・エリザベス』は、リエルはきっと、とても大切で。

 だからこそ、今のリエルを見ていることが出来なくて、それで……。

 

 

(……霧)

 

 

 霧は、人類の脅威だ。

 人類を海洋から追放し、窮地に追いやった元凶だ。

 打破すべきくびきであり、打倒すべき天敵である。

 そのはずなのに、どうして霧と関わる人間は皆、霧に惹かれるのだろうか。

 

 

 千早翔像しかり、千早群像しかり、千早沙保里しかり。

 少なくない人間が、霧と深く交わることで大きな影響を受けている。

 紀沙はそれに嫌悪を覚えるが、しかし、と心のどこかで思う自分もいた。

 翔像にとってのムサシ、群像にとってのイオナ、沙保里にとってのタカオ。

 そして、自分にとってのスミノ。

 

 

(霧の、メンタルモデル)

 

 

 はたして自分は、最初の頃の純粋な憎悪を、今も持ち続けているだろうか。

 長い時間を霧の艦艇で過ごす内に、心のどこかが変わってやしないか。

 自分もまた、霧の影響から逃れられていないのではないか。

 私は今も、スミノのことをちゃんと。

 

 

「……なんだ?」

 

 

 その時、足元が揺らいだ。

 足裏から体内へと響くそれは、地震と言うには規則正し過ぎる。

 むしろ、鼓動のような。

 

 

「まさか」

 

 

 ミシミシと軋む天井を仰ぎ見て、アースヴェルドは顔を青ざめさせた。

 

 

「まさか――――!」

 

 

 霧への憎しみ。

 それは紀沙にとって、「自分自身」を形作る、いわば強さの象徴だった。

 スコットランド辺境部でのこの一件が、紀沙に何をもたらすことになるのか。

 この時点では、知る由も無いことだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像は、知らない。

 アースヴェルドが紀沙に話したような事情を、群像は知らない。

 『クイーン・エリザベス』がリエルとして過ごした記憶を封印していることも、もちろん知らない。

 

 

「この人が、キミにとって大切な人だと言うことはわかった」

 

 

 一方で群像は、そうした背景を求めているわけでは無かった。

 ただ、『クイーン・エリザベス』と言う存在をあるがままに理解したかった。

 彼女が何を望む存在なのかを、知りたかった。

 そう言う意味では、彼は必ずしも村人達を気にかけているわけでは無かった。

 

 

「ならキミは、このままここで過ごしていくつもりなのか?」

「…………」

「……そうか」

 

 

 結局、『クイーン・エリザベス』は群像とまともに会話をしようとはしなかった。

 ただ、彼女が現在のやり方だけを指針としていることは良くわかった。

 彼女はこの先も、この外界から閉ざされたスコットランドの辺境で生きていくのだろう。

 人も霧も無い、この小さな王国で。

 

 

「邪魔をして悪かった」

 

 

 群像はそれだけ言うと、ゆっくりと後ろに下がり、そして『クイーン・エリザベス』に背を向けた。

 『クイーン・エリザベス』は、振り向きもしなかった。

 そもそも群像に関心が無かったのだろう。

 彼女の視界に映っているのは、美しい女神だけだ。

 

 

 それも良いだろうと、群像は思う。

 それが『クイーン・エリザベス』の選んだ道なのだからと。

 霧の使命からは離れているが、そう言う霧が1ついても悪いことでは無い。

 むしろ関わらない方が彼女のためだろうと、群像はそう思った。

 だから――――……。

 

 

 

 ――――『困るんだよね、それじゃあ』――――

 

 

 

 ……――――何?

 その「声」は、群像に聞こえたわけでは無い。

 その「映像(ビジョン)」は、群像に見えたわけでは無い。

 しかし群像は確かに違和感を感じた。

 

 

「――――――――ッッ!!」

 

 

 『クイーン・エリザベス』が、悲鳴を上げていた。

 メンタルモデルを形成するナノマテリアルが活性化――それも、本人の意思によらず――しているようで、その身体が異常なまでに発光し、スパークと共に暴風を生み出し始めていた。

 反射的に駆け寄ろうとした群像の前をスパークの一つが走り、群像はよろめいて尻もちをついてしまった。

 

 

「何だ、これは!?」

 

 

 さしもの群像も、焦燥を露にしていた。

 余りにも急な変化に、理解が追いついていないのだ。

 そして『クイーン・エリザベス』には、群像には見えていないものが見えていた。

 いや、すべての霧に見えていた。

 

 

 それはかつて、『タカオ』の暴走が何者かによって止められた時に似ている。

 優しく包み込むようなあの感覚を、霧の多くは忘れていない。

 しかし今回は、逆だ。

 鳥肌が立つようなおぞましさが、覆いかぶさってきた感覚だ。

 

 

「よせ!」

 

 

 誰に対して叫んだのか、群像にもわからない。

 ただ1つ確かだったのは、『クイーン・エリザベス』の首元の錠前のチョーカーだ。

 カタカタカタと音を立てて錠前が震えている、今にもこじ開けられそうだ。

 直感的に感じたそれは、現実のものとなる。

 

 

 錠前が、砕け散った。

 その瞬間、爆風が起こった。

 半壊した教会が悲鳴の如く軋みを上げる程の衝撃で、群像はたまらずに吹っ飛ばされた。

 そして、『クイーン・エリザベス』だけが残り。

 

 

「――――人間」

 

 

 舞い上がった小石や砂が、女神(アマリア)の棺を叩く中で。

 

 

「人間がなんでここにいるうううぅぅ――――ッッ!!」

 

 

 憎しみに満ちた叫びが、教会に響き渡った。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

年の瀬ですね、今回が年内最後の更新になります。
皆様にはここまでお付き合い頂き、本当に有難うございます。
来年もまだまだ連載は続きますので、最後までお付き合い頂けると、嬉しく思います。

それでは、皆様よいお年を。

また次回。

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