蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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Depth052:「飽和攻撃」

 

 ロシアに入国するに際して、紀沙はある程度の覚悟を決めていた。

 カリーニングラード入港からの艦内隔離に対しても、当然のことと甘受した。

 流石に列車に乗れと言われた時には逡巡したが、必要なことと我慢した。

 静菜と良治の2人がついて来てくれたのも、心強くなった理由だ。

 

 

 列車は窓や扉が封印されていたので、外の景色は全くわからなかった。

 ただ時間と食事の回数はわかったので、時間経過だけは正確にわかった。

 道中、同じコンパートメントで良治が「シベリアだけは勘弁してください」と言い続けていたのが非常に鬱陶しかったこと以外は、特に問題は無かった。

 目的地がモスクワであることは、降車のちょうど1時間前に知らされた。

 

 

「ようこそモスクワへ。ロシア国民は貴女方を歓迎する」

 

 

 モスクワのターミナル駅の一つベラルースリ駅に降り立った紀沙達を待っていたのは、民衆の歓呼だった。

 繰り返すが、ロシア国民の歓呼の声が紀沙達を迎えた。

 通りの両側を占拠した――通りの中央はロシア軍が規制している――人々の手にはロシアと日本の国旗が握られており、声や口笛と共に大きく振られていた。

 

 

「さぁ」

 

 

 この時点で、紀沙は自分の頭が真っ白になったことを悟った。

 静菜や良治もそうだっただろう。

 アメリカでも民衆に歓迎されると言うことは無かったから、これは初めての経験だった。

 

 

 こうなってしまうと、紀沙はアレクサンドル中佐に導かれるままに、深緑のオープンカーに乗せられるしかなかった。

 その動きは見るからにぎこちなく、二度ほどつんのめりそうになった。

 明らかに呑まれている。

 

 

「全体、進め!」

 

 

 前の席に立ちアレクサンドル中佐がそう告げるのを、紀沙は後部座席から見ていた。

 そしてこの段階に至って、紀沙は自分達がどう言う状況に置かれているのかを悟った。

 曇天に覆われた空から小さな雪がちらほらと見えて、防寒具を身に纏った白面の人々が日露の国旗を振って歓声を上げ、白と赤の建物が連なる通りは熱気を孕んでいる。

 

 

 そして軍隊によって空けられた通りの中央には、様々な軍装を身に纏い、一糸乱れぬ隊伍を組んだ軍人達がいる。

 そんな彼らの側には、深緑にカラーリングされた無数の戦車や自走砲、巨大なミサイルがずらりと並んでいた。

 曇天を裂くが如く轟音を立てながら航空機が空を舞い、ロシア国歌が軍楽隊によって奏でられる。

 

 

「こ、これは……」

 

 

 四方八方から聞こえてくる爆音に身を竦めながら、紀沙は確信した。

 これは出迎えでも歓迎でもない。

 ロシア軍の精強さをこれでもかと見せ付けるこの陣容はもっと別のものだ、つまり。

 ――――それは、軍事パレードだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 パレードは通り一本分、日本でも有名な「赤の広場」まで続いた。

 別に呼び名通りに広場が赤いわけでも無く、長さ数百メートル規模の広場は石造りで、戦車等は広場に入る前に反転した。

 規制されているのか、広場には軍人以外の人々の姿は見えなかった。

 

 

 正面に葱の形の尖塔の(ワシリー)大聖堂を見据えながら進むと、左手に古びた博物館や城砦のような建物が姿を現し、右手側にはなるほど広場に相応しい赤いレンガ造りの霊廟と、さらにその奥に城壁があった。

 いくらロシアに疎いと言っても、赤の広場とそこにそびえる城の名前くらいは知っている。

 いわゆる、大統領宮殿(クレムリン)である。

 

 

「さぁさ、時間がありませんよ! すぐに準備して頂きませんと!」

「…………はい?」

 

 

 それだけでも一杯一杯だったのだが、正門で車から下ろされて、軍楽隊の演奏の中で儀仗兵が立て銃の体勢になった段階でピークに達した。

 このままでは不味いと頭の中で警告音が鳴り響いているのだが、どうすることも出来ない。

 導かれるままに、イベントに遭遇していくだけだ。

 

 

「まっ、お肌すべすべ! お化粧のし甲斐がありますわね!」

「え、いや、あの、ちょ?」

 

 

 外からは三階建てに見えるが、内側は二階建て。

 そんな不思議な造りの建物に導かれれば、すぐに別室へと通された。

 元々は別の部屋だった様子で、明らかに場違いな鏡や化粧台、ハンガーラックが持ち込まれていた。

 背景にモスクワ市内が見える窓がある分、場違い感が半端無かった。

 

 

「さぁさ、こんな飾り気の無い軍服なんて脱いで脱いで!」

「いや、私はこれが正装なんで」

「時間がありませんから、失礼しますねぇ!」

「あ、ちょ、ひあ、ひああああ~っ」

 

 

 どうにかしなければと思いつつも、紀沙はメイド達によってもみくちゃにされるのだった。

 そんな紀沙の様子を、何気に一緒に来ていた静菜が部屋の隅からじっと見守っていた。

 彼女にちょっかいをかける人間はおらず、半ば放置されている状態だ。

 そして、静菜は紀沙と違ってかなり冷静だった。

 

 

 静菜は室外を含む宮殿全体の兵力を推定していたし、ここまでの道順もしっかりと覚えている。

 つまり逃げる算段を常に立てているわけだが、そんな彼女の目下の悩みとしては、良治が別室に連れて行かれていることだろうか。

 まぁ、最悪の場合は紀沙だけでも確保できれば良く、自身すらも保護の範疇外。

 そう言う()()だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 フォーマルドレスなど、生まれて初めて着た。

 膝丈のパステルブルーのイブニングドレスは胸下の切り替えになっていて、胸元をふわりと豊かに見せる造りになっていた。

 材質は総シルク、肩には透明感のある白のストール、足元は履きなれないヒールパンプス。

 

 

「これはお美しいお嬢さんだ、ぜひ私と一曲踊って頂けませんか」

「いや、ここはぜひ私と。その後お話でも」

「お腹は空いていませんか、伝統のロシア料理をご馳走しますよ」

 

 

 気が付けば夜、気が付けば宮殿宴会場《バンケットホール》、気が付けばダンスパーティー。

 楽団がロシアの民族舞踊や歌謡楽曲を演奏する中で、100人以上の人間が談笑している。

 挨拶をしていた人間がロシアの大物政治家だったり、パートナーと踊っている男性が政府高官だったり、食事を楽しんでいる女性が国営企業の取締役だったりする、そんな空間だ。

 

 

 そんな空間に外国軍の士官に過ぎない、小娘に過ぎない自分がいる。

 しかもだ、何故か知らないが自分にどんどん人が寄って来るのである。

 何とかガスの誰それだとか、何とかオイルの誰それだとか、何とか製鉄の誰それだとか、ロシアの企業事情には詳しくないがとにかく大物だと言うのはわかる。

 

 

「あの、いえ……私ダンスはちょっと」

 

 

 加えて言うと、どいつもこいつもイケメンだった。

 ばしっとタキシードを着こなした金髪やら赤髪やらの高身長男子が、我も我もと紀沙を取り囲んでいるのである。

 やれダンスをとか、食事をご一緒にどうですかとか誘ってくる。

 

 

(こんな時に静菜さんと良治君はどこに行ったんだよ~)

 

 

 頑として軍服を脱がなかった静菜は、パーティーの花となることなく雑踏の中に消えた。

 正直アジア人の軍人がこの会場にいれば相当に目立つはずだが、不思議とそうはなっていない。

 最近、実は忍者か何かなのでは無いかと思うようになった。

 

 

 良治はわかりやすかった。

 長身で体格の良いロシア美女に囲まれてあわあわしているのが見えて、紀沙は天井の無駄に豪奢なシャンデリアを見上げた。

 目つきが悪い割に可愛いので気に入られているのだろう、今は頼りにならなかった。

 

 

(くっそ、イケメン並べたからって私を懐柔できると思わないでよね)

 

 

 ここまであからさまだと、要は国を挙げて接待されているのだとわかってきた。

 民衆の歓迎、豪華なパーティーと侍るイケメン。

 しかし皮肉なことに、ロシア人イケメン達の存在が紀沙を少し落ち着けさせることになった。

 何しろ紀沙は、生まれた時からイケメンを見慣れているのだ。

 誰の差し金かは知らないが、迂闊なことをしたものである。

 

 

「……いかがですか」

「戸惑っているようで腰は引けていない。なかなかに肝の据わったお嬢さんのようだ」

「伊達に2つの大洋を越えてやって来たと言うわけでは無いでしょう」

 

 

 その様子を、隅からじっと見つめている男がいる。

 観察するように、いや実際に観察しているのだ。

 1人はアレクサンドル、そしてもう1人はがっちりとした身体をタキシードに包んだ男だ。

 グラス片手に紀沙の様子を窺っていた彼の眼差しは、品定めをする商人のそれに似ていた。

 

 

「どうなさいます」

「そうだな、とりあえずアメリカ大統領に倣うことにしよう」

「は……?」

 

 

 言葉の意味がわからなかったのだろう、アレクサンドルは眉を潜めた。

 そんな彼に、男はニヤリと笑ってみせたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 まったく眠れなかった。

 クレムリン近くの五つ星ホテル、しかもスイートルーム。

 シックで落ち着いた造りの部屋はベッドはダブルでふわふわ、丸いバスタブなど初めて見たし、ホールは宮殿のよう――本物の宮殿を見た後だが――だった。

 

 

「空が、眩しい……」

 

 

 昨日の積雪が嘘のように、モスクワは快晴に恵まれていた。

 歴史的な建造物と現代的な摩天楼が同居する大都市、それがまさに白日の下に晒されているわけで、アメリカのワシントンとは違った趣があった。

 ただ、寝不足の目にはこの快晴は少々辛かった。

 

 

「き、紀沙ちゃん。大丈夫かい……」

「……良治君の方が大丈夫じゃなさそうに見えるけど。そして静菜さんはいつも通りで凄いですね」

「恐縮です」

 

 

 ホテルのロビーで合流した良治は、気のせいか昨日の今日でげっそりとやつれていた。

 紀沙と同じように壮絶な美女攻勢(ハニートラップ)に晒されていた様子だが、まさか夜通し追いかけられていたわけでもあるまい。

 静菜がけろりとしているのは、何だかもう慣れた。

 

 

 しかし、疲れた。

 ベッドが合わない、水と食事が合わない、とかそう言うものでは無く、単純に疲れていた。

 封印列車の長距離移動、軍事パレード、大統領宮殿での歓迎パーティー。

 どこへ行くにもこれ見よがしにロシアの軍人か諜報員らしき人間が監視含みの警護をしていて、気が休まらない。

 

 

(と言うか私、ここに何しに来たんだっけなぁ)

 

 

 結局、昨夜はクレムリンでパーティーに参加していただけで、ロシア側の政治家や軍部との会見は無かった。

 ロシアに支援を求めに来た身とは言え、一応は招待を受けた身だ。

 紀沙としては何かしらあるだろうと思っていたのだが、何も無かったと言う形だった。

 

 

 そして今日は、アレクサンドル中佐から「部下にモスクワを案内させる」と言われていた。

 正直そんな余裕は無いのだが、無下に断ることも出来ない。

 モスクワの日本大使館に行く必要もあるからと自分を納得させて、今朝は出てきたのだ。

 そんなこんなでホテルの前で待っていると、半端でない勢いで黒塗りの車が滑り込んできた。

 甲高いブレーキ音を立てて数メートル行き過ぎたその車は、やはり甲高い音を立てて急バックした。

 

 

「お待たせして申し訳ありまっせん!!」

 

 

 車のドアを蹴り開けて、中から筋肉質な身体つきをした男が出てきた。

 ヨーロッパ人だからか、顔立ちから若いのかそうでないのかは判別がしにくい。

 ただ良く言えば快活そうなその男は、ばたばたとした足取りで紀沙達の前に立つと、実に大仰そうな仕草で敬礼してきた。

 

 

「本日モスクワをご案内させて頂きます、ポドリスク中尉でありまっす!」

 

 

 よろしくお願いしまっす! と元気良く言ってくる相手に、紀沙は力なく日本海軍式の敬礼を返した。

 これは、今日も不安な時間を過ごさなければならないのかもしれない。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 モスクワは科学に裏付けされた現代都市だが、景観を保護するためにあえて開発を抑制した歴史都市でもある。

 そのためモダンなサンディエゴと違い、観光地となると聖堂や修道院、博物館などになる。

 ただ町を車で走るだけでも、そうした世界遺産級の史跡がごろごろあるのだ。

 

 

 このあたりは、横須賀には無い部分だ。

 アメリカは史跡と言う意味では少なく、むしろ広大な自然こそが遺産のようなところがあった。

 あるいは、これがヨーロッパの都市と言うものなのかもしれない。

 しかも聞くところによれば、モスクワ市の人口はニ千万人を超えると言う。

 

 

「二千万人!?」

「はい! ここ数年の欧州大戦の煽りで、西部国境付近の同胞が移住してきましった!」

 

 

 玉葱のような尖塔の大聖堂や市内を走る路面電車、橋を渡れば川辺でレクリエーションを楽しむ多くの人の姿が見せる。

 二千万人。

 横須賀で、いや日本でそれだけの都市人口を支えられるインフラはもうほとんど無い。

 

 

「どこか行きたいところはありまっすか!」

「えっと、じゃあ公園とか」

「公園! それはまた変わったところに!」

 

 

 わかりまっした! と、車が方向転換する。

 公園を選んだのは、ふと北の言葉を思い出したからだ。

 曰く、その国のことを知るには公園を見ろ、だ。

 北が言うには、公園の状態でその国の状態を知ることが出来るらしい。

 日本の公園は、なるほど碌な状態ではなかった。

 

 

 ちょうど、近くにゴーリキイと言う公園があるらしい。

 遊園地も併設されている大きな公園で、休日には多くの人で賑わうらしい。

 何でも、運転手(ポドリスク)が一番好きな場所なのだそうだ。

 特に行く当てがあるわけでも無く、疲れてもいたので、公園がちょうど良かったのだ。

 

 

「あ、そうだ。ポドリスク中尉、ひとつ聞いてもいいですか?」

「はい! なんでしょうっか!」

 

 

 ふと気になって、紀沙はポドリスクに聞いてみた。

 それは、エリザベス大統領の受け売りでもあるのだが。

 

 

「ポドリスク中尉にとって、お国(ロシア)はどんな国ですか?」

「そうですね、一言で言うのは難しいのでっすが!」

 

 

 前を向いて運転したまま、ポドリスクは答えた。

 

 

「……守るべき祖国、さ」

 

 

 そこだけは、それまでと異なる声音だった。

 バックミラー越しに見える表情は、しかし変わらない笑顔だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ゴーリキイ公園は、穏やかな場所だった。

 遊園地だけで無くコンサート会場やキャンプ場まで備えた大きな公園で、モスクワ川に沿ってかなりの範囲に広がる大きな公園だ。

 大学が近くにあるそうで、今日のような晴れた日には家族連れやカップルで賑わうのだった。

 

 

「綺麗に整備されているんですね」

「はい! それはもう、ここはモスクワ市民の憩いの場でっす!」

 

 

 こちらに向けられる奇異の目は、ロシア系がほとんどな中では仕方が無いと言える。

 それよりも紀沙が驚いたのは、芝生や植樹がしっかりと整備されていたことだ。

 砂利は綺麗に均されていたし、川の水にもゴミ一つ浮かんでおらず、きちんとされている。

 しっかりとした人手と予算が確保されていなければ、こうはならないだろう。

 

 

「日本にもこういう公園があれば良いんだけどね」

「軍系列の施設以外はなかなか」

 

 

 良治と静菜も、紀沙と同じような感想を抱いているようだった。

 アメリカもそうだったが、ロシアを見ても思う。

 改めて、天然の大国が羨ましいと。

 

 

 日本は経済大国と言われるが、自給自足が可能な天然の大国とは違う。

 人口は多く市場こそ大きいが、需要を満足させるだけの供給力(資源)が無い。

 アメリカやロシアのような、大きな市場と大きな供給力を併せ持つ国家とは地力が違い過ぎる。

 大きい。

 膨大な人口と資源、そして広大な大地とあらゆるものを受け入れられる空間。

 

 

(大きな国が羨ましい。国の皆が飢えないで済む国が)

 

 

 その時だった、道の向こうから小さな影がこちらに駆けて来ていた。

 男の子と女の子、10歳にもなっていない子供だろう。

 アジア人が珍しいから、と言う理由で近付いてくるわけでは無いことはすぐにわかった。

 何故ならその子供達は紀沙達を通り過ぎて、ポドリスクの下へと走っていたからだ。

 そして、言った。

 

 

「閣下、おはよう(ドーブラエ)ございます(・ウトラ)!」

「すごい、本物だ!」

 

 

 閣下。

 およそ中尉には似つかわしくない呼び名だ。

 ポドリスクは軍帽を取ると膝を折り、子供達の頭に手を置いた。

 その手つきは優しく、表情はとても穏やかだった。

 軍帽を取ったポドリスクは、思っていたよりも若くは無かった。

 

 

「貴方はいったい、誰ですか?」

「あ、何だよ姉ちゃん! 知らないで一緒にいたのかよ!」

 

 

 男の子が憤慨してポケットの中から出したのは、少し傷んだプロマイドだった。

 そこに映っている男とポドリスクは、紀沙の目には似ているのかどうかちょっとわかりにくい。

 しかし、言われて見ればとは思う。

 そしてそのプロマイドに書かれている名前は、少なくとも「ポドリスク」などと言う名前では無い。

 

 

「……ポドリスクは、私の故郷の名前さ」

 

 

 悪戯がバレた子供のような顔で、ポドリスク――いや、彼はそう言った。

 プロマイドを信じるのであれば、彼の本当の名はこうだ。

 第9代、ロシア連邦大統領。

 ――――ミハイル・アンドーレエヴィチ・シュガノフ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 気が付けば、公園には人っ子ひとりいなくなっていた。

 ベンチに座って軍帽を指でくるくると回しながら人払い完了の連絡を待っていたミハイル大統領は、その間、特に紀沙達に話しかけることは無かった。

 やがてアレクサンドル中佐が報告に来て、その段階でようやく紀沙達に笑顔を向けた。

 

 

「いやすまない。騙すようなつもりは無かったんだ、素のままのキミ達の反応を見てみたくてね」

 

 

 などと言っているが、まさかあんなキャラで一国の元首が出てくるとは思っていなかった紀沙達にして見れば、ドン引きどころの話では無かった。

 同時に警戒心も湧いてくる。

 何しろここはロシアの首都であり、この公園の周囲はロシア側の手によって封鎖されているのだから。

 

 

「そんなに警戒しなくても良い、キミ達に危害を加えるつもりは無い……と言っても、まぁ信じられないだろうが」

 

 

 アレクサンドルを傍らに立たせたまま、顎を撫でながらミハイル大統領が言う。

 それが本心なのかどうなのかは、やはり紀沙にはわからなかった。

 とは言え、疑ってみてどうにかなる問題でも無い。

 静菜がそれとなく周囲を見渡している気配が感じられるので、それなりの人数が包囲しているのかもしれない。

 

 

「それで、私達の評価はいかがでしたでしょうか。大統領閣下」

「評価などと大げさなものでは無いよ。ただエリザベス大統領がキミに国内散策をさせたと聞いてね、対抗してみたかっただけなんだ」

 

 

 かんらかんらと笑って、ミハイル大統領は身体を前に倒した。

 肘を膝につける形で、下から紀沙達を見上げる形になる。

 それだけなのだが、見下ろされているような威圧感じみた何かを感じた。

 

 

『艦長殿』

 

 

 ずきっ、と頭痛がして、頭の中に声が響いた。

 ()()()()から、スミノが話しかけてきた。

 

 

『何なら、撃とうか。艦長殿の命令があればモスクワを』

(……余計なことを、しないで)

『……りょーかい。何かあったら言ってよね』

 

 

 目をぐっと閉じて、眉間に皺を寄せてから開けた。

 両目の瞳の輪郭が一瞬、淡く輝いたが、すぐに消えた。

 良治の視線を頬のあたりに感じながら、紀沙はミハイル大統領の目を真っ直ぐに見つめた。

 それは、()()()()受けるだけでも厳しい目だ。

 

 

「……ご用件を伺いましょう、ミハイル大統領」

 

 

 父・翔像の率いる緋色の艦隊を何とかすること。

 そして兄を見つけ、航路はともかく日本へと戻ること。

 そのいずれも、まずはロシアの後援を得ないことには始まらない。

 ミハイル大統領は、口元に笑みを浮かべて。

 

 

「用件は無い」

 

 

 と、言った。

 色々な意味に取れる言葉で首を傾げていると、ミハイル大統領は指を一本立てた。

 

 

「ただ、依頼はある」

「依頼、ですか」

 

 

 それを用件と言うのではと思ったが、これは政治だ。

 言葉尻一つで、意味が変わる。

 

 

「実は今、我が軍の頭を悩ませている問題があってね。キミ達イ404には、その解決を手伝って貰いたいんだ」

「問題と言うと。一介の潜水艦乗りに過ぎない私達に解決できるような問題は少ないと思いますが」

「日本人らしい謙遜だが、霧の潜水艦乗りを一介の海兵と同格には置けない。キミ達は最強の潜水艦乗りだ」

 

 

 (おだ)てが過ぎるなと思ったが、表情には出さなかった。

 一方で、どこまで踏み込むべきかと考えた。

 ロシアからの正式な依頼となれば、見返りの支援はそれなりに期待できるはずだ。

 しかし同時に、()()()士官である紀沙にどこまでの判断が許されるかは気にかけていた。

 

 

 艦の行動に関する限りは、艦長である紀沙の権限の内だと考えて良いと思っている。

 だが、事が外交や政治に影響するとなると難しい。

 判断が、難しい。

 太平洋を渡った時は『白鯨』がいたが、今は兄とすらはぐれて単艦――『マツシマ』はいるが――となっている。

 

 

「そんなに難しい話では無い。これから我が軍はある作戦を行うが、それに手を貸してほしい」

「閣下、それは」

「……実を言うとこの作戦はすでに第四次作戦、つまり四回目なのだが、我々の力だけでは成功が危ぶまれていてね」

 

 

 アレクサンドルを手で制しつつ、ミハイル大統領は言った。

 

 

「キミ達には、我が軍の第四次クリミア解放作戦『スヴォーロフ』に協力して欲しい」

 

 

 クリミア解放作戦。

 その言葉に、紀沙は小さく息を吸ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クリミアは黒海北岸に位置する小さな半島で、広さは四国よりやや大きい。

 人口はおよそ300万人、ロシア人は7割程で、残りはウクライナ系ロシア人とタタール人が占める。

 <クリミアの天使>フローレンス・ナイチンゲールで有名なクリミア戦争の舞台でもあり、今世紀の初めにロシアが隣国ウクライナから奪い取った領土でもある。

 

 

「スヴォーロフ、作戦?」

「現在、我がクリミアはある敵対勢力によって制圧されている」

 

 

 ロシアが領土を奪われると言うのは、よほどのことだ。

 ただ、クリミア半島――つまり黒海に面する国で、ロシアの領土を制圧できるような国は存在しない。

 ウクライナ、ブルガリア、ルーマニア、トルコ、ジョージア(グルジア)

 いずれの国も、ロシアに対して軍事力で圧倒的に劣っている。

 

 

 では、いったいどのような敵対勢力がクリミアを制圧したのか。

 まず叛乱が思い浮かんだが、その程度でロシア軍がイ404の助力を求めるとは思えない。

 霧の力を必要とするならば。

 

 

「……霧ですか?」

「違う、霧の艦艇では無い」

 

 

 違ったか。

 もっとも霧は陸の占領には関心が無いとされているので、元々確率は高く無かった。

 しかしそうなると、いったいどう言った勢力なのだろうか。

 

 

「霧の艦艇では無い……が、無関係でも無いかもしれない」

「と、言うと?」

「我々はその勢力を、<騎士団>と呼んでいる」

 

 

 騎士団。

 初めて聞く名だ、霧では無いが霧と無関係では無い勢力。

 いったい、何者なのか。

 

 

「残念ながら、過去3度の作戦はすべて失敗に終わった。クリミアは我々には理解できない奇妙な力に覆われていて、こちら側からの干渉を受け付けないのだ」

「そこで我々を、と言うことですか」

「そう、人智を超えた存在には人智を超えた存在をぶつけるべきだと考えてね」

 

 

 協力に対しては協力で返す。

 つまりこれは取引だ、ロシアの軍事作戦への助成を引き換えにイ404をロシアとして後援すると言う内容の取引だ。

 イ404、つまり紀沙としてはまたとないチャンスである。

 しかし、いくつか超えなければならないハードルがあった。

 

 

 まず、クリミアをロシアの軍事作戦に参加すると言うこと。

 同盟国でも無いロシアのために、日本の保有戦力を使うと言うこと。

 まして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そんな場所で作戦行動に出ると言うのは、紀沙の権限の範疇を越えかねない。

 

 

「黒海に行くためには、地中海に入らなければなりません」

「そして地中海に向かうためには、あの緋色の艦隊の海域を通らなければならない、かね?」

 

 

 そして、翔像率いる緋色の艦隊の勢力圏を通らなければならない。

 だがミハイル大統領は、それについては問題にならないと言った。

 ロシアには、緋色の艦隊を無力化する強力な手段があるのだと言う。

 それは何かと、紀沙は聞いた。

 ミハイル大統領は、笑って答えた。

 

 

 

「核兵器による飽和攻撃を行えば良い」

 

 

 

 ――――一瞬、相手の正気を疑った。

 今、ミハイル大統領は、この男は何と言ったか。

 

 

「飽和攻撃は我が軍の最も得意とするところだ、なぁ中佐?」

 

 

 大統領の言葉に、アレクサンドル中佐は目礼のみを返した。

 核兵器による飽和戦術は、アレクサンドル中佐の腹案なのだと紀沙は本能的に察した。

 飽和攻撃、相手の防御能力を上回る規模の攻撃を叩き込む物量戦術だ。

 

 

「まずイギリス――ああ、すでに降伏したフランスもかな――の沿岸に点在する霧の艦艇すべてに対して、我が国の核ミサイルを撃ち込む。自慢するわけでは無いが、数十発程で英仏共に壊滅するだろう。ああ、心配は要らない、英仏の核基地は間違いなく叩く。でないと向こうの核戦力で反撃されてしまうからな」

 

 

 核兵器保有国は、以前は核ミサイルを積んだ潜水艦を世界のどこかに潜ませていた。

 万が一本国が敵国の核攻撃に曝され壊滅した場合、海から相手に反撃することが出来るからだ。

 核ミサイル基地は地上にしろ地下にしろ先制攻撃で潰される可能性が高く、戦略航空機による爆撃は成功率が高くないから、潜水艦による核報復、つまり核抑止はかつて強力に機能していた。

 

 

 しかし霧の登場によって、世界の海から各国の艦艇は姿を消した。

 残ったのは、無防備を晒したミサイル基地・飛行場・港湾の核基地だ。

 そして英仏の核戦力は、ロシアには遠く及ばない。

 まして両国は霧の軍門に下った()()()()()()()()、大義名分はむしろロシアにある。

 

 

「そして伝え聞く霧の絶対防御、あれは核兵器も防ぎ得るかもしれないが、しかし無限では無い」

 

 

 強制波動装甲、クラインフィールドは、無尽蔵の盾では無い。

 人類側の通常兵器は全く効果が無いが、しかし核爆発に対してはどうだろう。

 いかな霧の艦艇と言えど、絶え間なく叩き込まれる核兵器の前には、無傷では済まないのでは無いか。

 飽和し、無敵の鎧も剥がされるのでは無いだろうか。

 そしてそこへ、もし量産された振動弾頭を撃ち放ったならば――――?

 

 

「クリミアでもこの手が使えれば良いんだが、流石に我が国民の頭上に核を降らせることは出来ない」

 

 

 イギリス人とフランス人の頭上に核を落とすと言った口で、ミハイル大統領はロシア人にはそれは出来ないと言った。

 彼は、言外にこうも言っているのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 正しい。

 ミハイル大統領は正しい、ロシアの大統領として圧倒的に正しい判断をしている。

 

 

「さぁ、どうかな?」

 

 

 だが。

 だが、紀沙は胸の中に溢れる苦々しい気持ちを抑えることが出来なかった。

 その気持ちに名前をつけて表現するのであれば、こう言うことになるだろう。

 

 

「答えを聞こうか、霧の艦長殿」

 

 

 紀沙は、ミハイル大統領を嫌悪していた。

 これは、エリザベス大統領とは対照的な印象をミハイル大統領に持ったことを意味していた。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

今回はロシア観光回でした。
そしてロシアのシビアさを表現する回でもありました。
目的のためには手段を選ばないロシア。
今も昔も恐ろしい国です……。

それでは、また次回。

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