彼女と出会ったのは、本当に偶然だった。
何しろ自分は軍人で、彼女は鳥類学者だった。
普通なら何の接点も無く、出会うことも無かったはずだ。
もし運命と言うものがあるのなら、2人の出会いはまさに運命だったのだろう。
「一般参加の方はこちらでーす」
確か、護衛艦――海上自衛隊時代は、軍艦では無く護衛艦と呼んでいた――の一般公開イベントの時だった。
当時の自分は、任官したばかりの新米士官だった。
右も左もわからないままに、雑務に追われる日々を過ごしていた。
イベントの時も、護衛艦を間近で見れると集まって来た人々を前に、交通整理のようなことをしていた。
夏の盛りで、やたらに暑かったことを覚えている。
拭っても拭っても汗が噴き出してきて、最後には汗を拭くことを諦めた程だった。
そうやって忙しさの中にいる時、傍にいた同僚が声をかけて来た。
「おい見ろよ、変な女がいるぜ」
「変な女?」
先程も言ったが、この日は護衛艦の一般公開の日だった。
普段は近くで見られない護衛艦を間近で見たり、自衛官と交流したりするイベントだ。
なので、多くの人々は悠然と港に停泊している護衛艦を仰ぎ見て感嘆の声を上げたり、写真を撮ったりしている。
そんな中で、ひとりだけ明後日の方向を向いている人物がいた。
後ろ姿からは女性としかわからないが、すらりと伸びた四肢は躍動感に満ちていて、パンツルックの出で立ちと麦藁帽子が清潔な印象を与えていた。
それだけならまだ良かったのだが、時折、双眼鏡を覗き込みながらふらふらしているのだ。
(何を見ているんだろう?)
同僚は面白がっているだけで、特に不審人物と思っているわけでは無さそうだった。
まぁ、やましいことがあるならわざわざ自衛隊の基地に来たりはしないだろうし、スパイか何かだとすれば余りにも目立っているし、そもそも見るべきものが間違っている。
ただ、その女性は空――海鳥が鳴きながら飛んでいる――ばかり見ているので、足元がかなり危なかった。
「あの、危ないですよ」
「え、なに?」
気が付けば、声をかけていた。
何かに吸い寄せられるように、そうしてしまった。
そして彼女が振り向いた時、彼の中で時が止まった。
彼女と目を合わせた時、彼の胸にこれまで感じたことの無い痺れのようなものを感じたのだ。
「……あの」
「はい?」
「お名前を、教えて頂けないでしょうか……?」
後で聞いた話だが。
この時、彼女はアカアシカツオドリとか言う珍しい鳥を追いかけて海辺を散策していただけで、イベントの客でも何でも無かったそうである。
その鳥のことについては、彼は今でも良く理解できていない。
◆ ◆ ◆
懐かしい夢を見た。
一瞬、立ったままで見た蜃気楼のような夢だ。
「…………む」
ふと掌に温もりを感じて、翔像の意識は現実へと引き戻された。
視線を下げると、そこにはムサシがいた。
造り物めいた
大丈夫だと、そう伝えるように頷きを返した。
掌の温もりと、蜃気楼の夢。
そのふたつが、翔像にとっては不思議と力強く感じられた。
今も昔も、自身が誰かに支えられていることを再確認させてくれる。
少し情けなくも気恥ずかしくもあるが、それもあと少しで終わると思えば許せるような気がした。
「群像も紀沙も、良い艦に出会えた」
艦船を女性形で呼ぶのは、古くから続く慣習だ。
霧のメンタルモデルは、人類のその慣習から女性の姿をしているとされている。
それはおそらく、船乗りの多くが歴史的に男性であったことも関係しているのだろう。
艦長にとって、艦とは生命と名誉を預ける伴侶のような存在なのだ。
だから海軍の人事担当者も、艦長の職にある者に異動の辞令を出す時は色々と気を遣うのである。
「お父様と一緒よ」
「うん?」
「何もしていなくても、
艦長にとって、どのような艦と出会うかは重要だ。
その意味で、群像と紀沙は良い艦と出会えたと思う。
自分がかつて、『ヤマト』と『ムサシ』に出会えたのと同じように。
まるで、運命に導かれるように。
――――最も、それは
「ロリアンに到達した時、401と404は自分の本当の役割を知るだろう」
だから、翔像は日本を離れた。
「その時に必要なのは、艦長と艦の間の強い絆だ。何があっても折れない程の、真っ直ぐな、不屈の信頼が必要だ」
「それは、私とお父様のような?」
「……まぁ、そうかもしれないな」
ふふふと笑うムサシに、翔像もほんの僅かに表情を和らげた。
だがそれもすぐに引き締められて、雰囲気の変化に気付いたのだろう、ムサシもそっと翔像から離れた。
温もりが掌から離れたことに、翔像は、自分自身で驚く程に寂寥感を覚えた。
ただ彼は、もうそんな寂寥感にしがみ付くような年齢では無かった。
「行くぞ、ムサシ」
「はい。――――
これがおそらく、1人と1隻――いや。
2人にとっての――――……。
◆ ◆ ◆
対話。
千早群像が霧に対して行う、ほとんど唯一のアクションがそれだ。
だから今回も、群像は霧の艦艇と対話することに全ての時間を使った。
それは、あくまで人との関わりに主軸を置いた紀沙とは真逆の行動だった。
「でもぶっちゃけ、ナノマテリアル分けて貰いに行ってきただけだよな」
「そう言う身も蓋も無い言い方はやめましょうよ」
車のガソリンを分けてもらったようなニュアンスで言った杏平に、僧が嗜めるように言った。
機関室のいおりが発令所にいれば、もっと辛辣な言葉を浴びせただろう。
もう1人の女性クルーである静は慎ましい性格をしているので、クスリと笑うだけだった。
ある意味、そちらの方が辛いと言う意見もあるのかもしれないが。
いずれにせよ、群像とイ401は北欧の海域に潜みながら、時期を見計らっていた。
そして、ちょうどその海域に駐留していた霧の戦艦『ティルピッツ』に会いに行った。
賭けだったが、『ビスマルク』の姉妹艦でありながら欧州艦隊の内紛から距離を取っている様子の『ティルピッツ』なら大丈夫と踏んでの行動だった。
そしてその賭けに、群像は勝った。
「紀沙が目立っていた分、オレ達への監視の目が緩んでいたからな」
あの時、『ムサシ』の超重力砲の余波に紛れながらイ401は姿を晦ませた。
リエル=『クイーン・エリザベス』が盾になってくれたことも、無事に海域を抜け出せた要因だった。
「ロシアの国営放送に出てたもんなぁ」
からからと笑う杏平。
実際、ロシアは紀沙達の存在を最大限に利用するつもりだったようで、軍事パレードやその他諸々のイベントの映像を全世界に配信していた。
似たようなことはアメリカもやっていたのだから、その対抗と言う意味もあったのかもしれない。
ただその後、紀沙がロンドンに向かったことは少し意外だった。
「さて」
まぁ、今はそれも良い。
群像は今日、リベンジに来たのだ。
他にもいろいろと考えるべきこと、考えていたこともあったが、一番はそれだった。
「イオナ」
「ああ」
いつもの定位置に座っているイオナと、頷きを交わす。
珍しく難しいことを考えずに、群像とイオナはこの海域にまでやって来ていた。
今日この時、この1人と1隻は。
「潜行開始だ、潜れ」
「了解。きゅーそくせんこー」
ただの負けず嫌いとして、そこにいた。
◆ ◆ ◆
元々、霧の大西洋方面欧州艦隊は3つの勢力に別れていた。
『ビスマルク』に同調した者達、『フッド』に共感した者達、そしてどちらにも加担しなかった者達だ。
『ビスマルク』は緋色の艦隊に協力し、『フッド』が『ビスマルク』に敗れたことで、現在は緋色の艦隊に属しているかいないかの2つに別れる形になっている。
群像が目をつけたのは、まさにそこだった。
緋色の艦隊に属していない霧の艦艇は大型艦が多く、つまりメンタルモデル保有艦が多い。
北洋の『ティルピッツ』の他、各海域でじっとしている霧の艦艇達と話し合った。
メンタルモデルを保有しているだけに、対話が可能になっていたのが大きかった。
「それにしても面白かったわねぇ、あの男の子」
大戦艦『デューク・オブ・ヨーク』も、その内の1隻だった。
4万トン級の大型戦艦であり、当然メンタルモデルを保有している。
広大な甲板にぽつんと置かれたビーチチェアに寝そべる女性がそれで、側にトロピカルフルーツやジュースを載せたサイドテーブルがあり、北海と言うよりは南洋にでもいるかのようだった。
長くサラリとした銀髪をチェアから零すようにして寝そべる彼女は、おへそを晒したお腹の上で、片手でトランプの束を弄んでいた。
いやに露出度の高い黒のディーラー衣装と相まって、どこかのカジノにいたとしても違和感が無い。
そしてだからこそ、軍艦の甲板にいるには不自然極まりない出で立ちでもあった。
「ポーカーで勝ったら話を聞いてあげるって言ったらあっさり受けるものだから、てっきり強いのかと思うじゃない? それでカード配った後に一言、「で、この後なにをするゲームなんだ?」って、知らないのかよって思わず突っ込んじゃったもの」
片手でトランプの束を切りながら、誰もいない甲板の上で喋り続ける『デューク・オブ・ヨーク』。
もちろん返事などあるわけも無いのだが、何故か彼女は不満げに眉を上げてみせた。
「ねぇ、聞いてるー? 『アンソン』ちゃんー? おーい」
『デューク・オブ・ヨーク』の艦体から少し遅れて、瓜二つな艦艇が航行していた。
彼女は自身の甲板に敷いたカーペットの上で膝を揃えて座っていて、姉と違い行儀良く本を読んでいた。
金髪蒼眼の美しい少女の姿をしており、露出の少ない普通のディーラー衣装を着ていた。
「『アンソン』? 『アンソン』ちゃんってばー」
「…………姉さん」
ハードカバーの本を熱心に読んでいた『アンソン』は、しつこく自分を呼ぶ姉に嘆息を返した。
「わたし、いま本を読んでるんですけど」
「お姉ちゃんは『アンソン』ちゃんとお話したいなー」
「いや、だから」
「まぁ、『ムサシ』みたいな極東の艦に大きな顔をさせとくって言うのも、あたし達的には面子潰されてたわけだし」
「…………」
話を聞いてくれない姉にやれやれと首を振る『アンソン』。
その様子を感じながら、『デューク・オブ・ヨーク』は面白げに目を細めていた。
「あの緋色の艦隊を潰せるって言うなら、潰しておきたいって言うのが本音よね」
「あの人間を信じるの?」
「少し違うわ。あの人間を使ってあげるの」
それはどう違うのだろうと思いつつ、『アンソン』は周囲を見渡した。
そこには、緋色の艦隊に従わなかった欧州艦隊の霧の艦艇達がいる。
『ティルピッツ』――千早群像の召集に応じた、反緋色の艦隊とも言うべき集団がそこにいた。
彼女達は今、まさに、決戦に入ろうとしていたのだった。
◆ ◆ ◆
多数の霧の艦艇――緋色の艦隊では無い――の接近を知って、『フューリアス』達は姿を消した。
自分達の艦体の方へ言ったのだろう、紀沙が思っているよりも戦力が拮抗しているのかもしれない。
何しろ、自分達に構う余裕が無いと言うことだろうから。
「さて、キミはどうするね?」
そして、ゾルダンだ。
彼は当然のように翔像に味方するだろう、それこそ愚問と言うべきだ。
U-2501の艦体を呼び、それに乗り込んで群像と戦うのだろう。
だからこそ、ゾルダンは問うてきたのだ。
紀沙はどうするのか、と。
兄・群像につくのか。
父・翔像につくのか。
それとも、どちらの味方もしないのか。
何れの判断も、誰かに責められる類のものでは無い。
ただ、何かを選び、何かを決めないわけにはいかないのだった。
「前にも言ったかもしれないが、私としては千早提督の側に来て欲しい。最も、それを強要するつもりも無い」
そんなことを言われても、紀沙にはどちらかを選ぶことは出来ない。
母・沙保里のことを抜きにしても、父と兄。
家族を取り戻すために戦っていた紀沙にとって、どちらも欠くことが出来ない存在なのだ。
どちらかが失われてしまえば、今度こそ、「家族」は二度と揃わなくなるのだから。
「キミと話せて良かった。たぶん、もうこうして話すことは無いだろう」
そう言って、ゾルダンは去って行った。
「楽しかったよ……さらばだ」
そして、ゾルダンに対しても紀沙はついに何も言えなかった。
お礼なり何なり言えば良いだろうに、言葉が胸につかえてしまって、結局は何も言えなかった。
自分はもう少し雄弁な方だと思っていたのだが、いざと言う時になるとそうではないことに気付かされた。
そして今、紀沙は選択を迫られている。
兄か父か。
どうしてこんなことになってしまうのか、もう本当にわからなかった。
辛い、苦しい、変われるものなら誰かに変わって欲しい。
けれど、これは紀沙に突きつけられた選択なのだった。
「さぁ、艦長殿」
他の誰にも、代わりをすることは出来ない。
「命令しておくれよ」
紀沙にだけ、その資格がある。
自分自身が、それを痛い程に理解していた。
◆ ◆ ◆
グレートブリテン島の東、北海を南下して来た
近隣に配置された艦艇をすぐに呼び集め、迎撃の構えを取ったのである。
そして17時52分、長射程の戦艦同士の砲撃と言う形で戦いは始まった。
欧州海域の覇権を決する海戦は、極めてオーソドックスな形で開始されたのである。
「戦艦の砲火を掻い潜りながら中小艦艇を接近させ、格闘戦に移行する……ってところでしょうか?」
海上が騒々しくなっている中、『ユキカゼ』はふむふむと頷いていた。
海底はまだ静かなものだが、いずれは双方の艦隊の潜水艦によって激しい戦闘が行われるだろう。
何しろ千早翔像の
息子が父親に挑む、この海戦は、本質的にはそう言う戦いだった。
特に『ユキカゼ』はずっと群像の後を尾けていたので、彼がどう言うつもりで戦力をかき集めていたのかを知っている。
単艦での戦闘では圧倒されてしまったので、艦隊戦の中でチャンスを窺うつもりなのだろう。
「ん? 介入するのか? いやあ、今のところそんなつもりは無いですよ、イ8」
『ユキカゼ』の傍らには、総旗艦艦隊に所属する潜水艦であるイ8がいる。
総旗艦『ヤマト』は世界各地の海に「目」を持っていて、イ8もその1隻だった。
今は同じ立場の『ユキカゼ』と合流し、今に至ると言うわけだ。
「ただ、まぁそうですね。そうした方が面白そうなら、そうしてみるのも良いかも」
着物の袖で口元を隠しながら、クスクスと笑う『ユキカゼ』。
イ8はメンタルモデルを持っていないので、傍目には独り言で笑っているようにも見える。
「その方が、コトノ様もお喜びになります。……おっと、下がりましょうかイ8」
小さな艦艇の気配を感じて、『ユキカゼ』は岩場の陰へと自身の艦体を隠した。
潜水艦程の隠蔽率は無理だが、エンジンを切って潜んでいるだけでも大分見つかりにくくなる。
そうしていると、『ユキカゼ』達の頭上を小型の潜水艦のようなものが通り過ぎていった。
U-2501の特殊潜航艇『ゼーフント』だ、いよいよ動き出したと言うわけか。
「はたして、群像くんはパパを超えられるのでしょうか?」
うふふと笑って、『ユキカゼ』は海底の闇の中へと身を消した。
それはそれは、楽しそうな顔で海上の様子を見つめていた。
◆ ◆ ◆
オーソドックスな形で始まった海戦だが、両艦隊の戦力はおおよそ互角だった。
本来なら旧欧州艦隊の7割が属している緋色の艦隊の戦力の方が上なのだが、イベリア方面に戦力を割いているため、数に劣る反緋色の艦隊「艦隊」と同程度の艦艇数しかドーバー方面にいなかったのだ。
西ヨーロッパへの影響力を維持するためにも、戦力を割いておく必要があったのだ。
そして『ムサシ』や『フューリアス』を除いて中型以下の艦艇が多い緋色の艦隊に対して、『デューク・オブ・ヨーク』や『ティルピッツ』等の大型艦艇が揃う反緋色の艦隊「艦隊」の方が火力では勝っている。
演算力の差がほとんど戦力の差となる霧にとって、大型艦艇の数はそのまま艦隊の力となる。
皮肉な話だが、『フッド』の呼びかけに彼女達が応じなかったことが、戦力の温存に繋がったのだ。
「……暇ねぇ」
「姉さん、真面目にやって下さい」
散発的に砲撃を繰り返す中で1時間が経過し、『デューク・オブ・ヨーク』は1人神経衰弱を始めた。
戦闘に入る前とは姉妹の戦意が逆転している様子だったが、実際、戦況の推移は大人しいものだった。
互いの戦艦・重巡洋艦が遠距離から砲撃を行っているが、一行に軽巡洋艦・駆逐艦が距離を詰めて来ない。
機会を潰されていると言うよりは、そもそも機会を作っていないようだった。
「き、霧同士で戦うだなんて……」
理由としてはまず、同胞と戦うことに拒絶感を持つ艦艇が実は相当数いたためだ。
これはメンタルモデル保有艦に多く、感情を理解したがために躊躇を覚えたのだ。
元『フッド』艦隊で今は反緋色の艦隊「艦隊」に属する巡洋戦艦『レナウン』は、自身の火力と速力で戦線を維持しつつも、その砲弾が相手艦隊の艦艇に直撃することは無かった。
姉妹艦『レパルス』のメンタルモデルと同様にメイド衣装を着た女性の姿をしていて、おどおどとしているところも同じだった。
側には配下にとつけられているリバー級フリゲート3隻がいるが、位置は『レパルス』の後ろだ。
元々、軍艦でありながら戦いには向かない性格だったのかもしれない。
ただ『レナウン』のように戦いに消極的な艦艇ばかりと言うわけでも無い。
「とは言え、ここまで戦況が動かないとは」
緋色の艦隊側の指揮を執る『フューリアス』は、明らかに戦意が高かった。
艦艇の格としては『デューク・オブ・ヨーク』と伍する彼女だが、火力の劣勢は認めざるを得ないところだった。
そして水雷戦隊の投入タイミングが掴めない時間が続く中、こうしたゆっくりとした展開は、徐々に緋色の艦隊側に圧力を加えることになった。
「いつまでも膠着させるわけにはいかない。『デヴォンシャー』、『シュロップシャー』!」
圧力を嫌ったのだろう、『フューリアス』は配下の重巡戦隊を動かした。
重巡洋艦であればそれなりに火力も速度もあるし、陽動戦力になると考えたのだ。
しかしそれは、逆説的に本陣の戦力を割くと言うことに他ならない。
そして、群像がその隙を見逃すはずも無かった。
◆ ◆ ◆
<
それは霧の大戦艦にして『ビスマルク』の姉妹艦『ティルピッツ』の異名であると同時に、彼女が装備している
直接的な破壊力こそ無いものの、彼女が単艦で欧州北方の海域を制圧できた理由がそこにあった。
「……出撃」
海水を凍らせて素材とし、ナノマテリアルで補強して艦体とする。
無尽蔵かつ無数に生み出された氷の艦艇群は、それだけで緋色の艦隊と反緋色の艦隊「艦隊」の合計数を超えていた。
1隻1隻はの戦闘力はもちろん霧の艦艇に及ぶべくも無いが、それでもこの物量は脅威だった。
旗艦装備<亡霊艦隊>は、大戦艦のコア演算力による多数の擬似艦艇の展開・操艦能力を有するのだ。
灰色の海を、無数の氷結艦艇が進む。
それは『フューリアス』の攻勢命令によって伸びきった緋色の艦隊の横腹を突く形となり、緋色の艦隊側の陣形が寸断されていった。
それに加えて正面から反緋色の艦隊「艦隊」が圧力を加えてくる、身動きが取れなかった。
「くっ、『ティルピッツ』! 『ビスマルク』の姉妹艦が何故!」
苦し紛れの『フューリアス』の言葉は、正論ではあった。
緋色の艦隊への協力を決めた欧州艦隊旗艦『ビスマルク』は、『ティルピッツ』の姉にあたる。
普通に考えるのであれば、むしろ緋色の艦隊に参加していてもおかしくは無い。
しかし、『ティルピッツ』にはそれが出来なかった。
何故だろうか。
あの『ビスマルク』の妹が緋色の艦隊に参加せず、千早群像の誘いに乗ってこの戦いに参加した理由。
それは一言で言うと、「緋色の艦隊に誘われなかった」ためである。
では、何故誘われなかったのか?
「……仲間はずれ」
理由は単純、忘れられていたからだ。
繰り返すが、『ティルピッツ』はその旗艦装備故に単艦で欧州北方の海域を押さえていた。
そのために人類側に孤独の女王などと呼ばれていた――畏怖と揶揄を込めて――『ティルピッツ』だが、まさか仲間達から忘れられているとは思わなかった。
孤独の女王は、まさしく
「……お仕置き」
イオナから「お前、共有ネットワークで一度も名前出てないぞ」と指摘されるまで気付かなかった彼女自身もどうかと思うが、『フューリアス』達も『ティルピッツ』が戦場に現れるまでその存在を忘れていたので、お互い様と言う見方も出来る。
とにかく、『ティルピッツ』の<亡霊艦隊>は一時的に緋色の艦隊を劣勢に追い込むことに成功した。
しかしその優勢も、長くは続かなかった。
緋色の艦隊の後方、ロンドン方面から放たれた砲撃によって、氷結艦隊が攻撃されたためだ。
幾重にも拡散するビームが、海面を撫でるように氷結艦隊を溶融させ、破壊した。
このビームは――――……。
◆ ◆ ◆
『ムサシ』の拡散超重力砲。
それを認識した時の群像の反応は、流石に早かった。
「ダウントリムいっぱい、取舵! 潜れ!」
『ムサシ』に限らず、霧の超重力砲は海――次元を貫いて襲ってくる。
事実、海を八つ裂きにする形で擦過する超重力砲は、海中に潜むイ404をも狙っていた。
潜行深度を下げることでそれを回避しつつ、同時に海上の様子も探る。
それは、イオナの役割だった。
霧であるイオナは、共有ネットワークにリアルタイムで書き込まれる情報を閲覧することで海上の様子を窺い見ることが出来る。
これは、一時的にしろ他の霧の艦艇と手を組んだことで可能になった。
対緋色の艦隊と言う利害が一致したからこその、いわば同盟である。
「第2射、来ます!」
「面舵! 1番から4番、デコイ発射!」
「やっぱ半端ねぇな、超戦艦様は!」
超重力砲の連射、イ404には不可能なことだ。
『マツシマ』のような支援艦の存在も必要としない、単艦のポテンシャルが圧倒的なのだ。
だが、そんなことはわかり切っていたこと。
小刻みに振動するシートの肘掛けを握り締めながら、群像は正面のモニターを見据えていた。
そこには、次々と反応を消していく氷結艦隊の様子が映し出されていた。
半ば予測していたことだが、緋色の艦隊――翔像には、数だけを恃みとした戦術は通用しない。
もし『ムサシ』のような規格外の存在がいなければ、『ティルピッツ』によって緋色の艦隊はかなり劣勢に立たされていたはずだ。
そう言う意味では、『ティルピッツ』は流石に『ビスマルク』の姉妹艦だと言える。
「しかし、戦術的効果が一瞬で覆されるのは厳しいですね」
僧の言う通りだった。
『ティルピッツ』の<亡霊艦隊>は戦術的にはかなり有効だったが、『ムサシ』の一撃はそれを全て引っ繰り返してしまった。
積み上げたものを一瞬で崩される、冗談のようだがそれが超戦艦と言う存在だった。
「群像」
その時、氷結艦隊と入れ替わるように無数の反応が生まれた。
それは以前、何度か見たことがある反応だった。
小さな反応は小型艦艇を意味する、そして海中に出現する無数の小さな反応は、U-2501の『ゼーフント』以外には存在しない。
群狼戦術……。
「さぁ」
そしてU-2501の発令所で、いつものスタイルで、ゾルダンが言うのだ。
「我々の決着も着けるとしようか、千早群像」
戦いは、まだ始まったばかりだった。
終わりの形がどのようなものになるのかは、超戦艦であってもわからないことだった。
◆ ◆ ◆
戦っている。
戦っているのは、父と兄だった。
娘であり妹である自分がどうすべきなのか、戦いの音を聞きながら、紀沙は未だにどうするかを決め切れずにいた。
「好きにすれば良いじゃないか」
そんな耳元で、スミノが囁きを繰り返していた。
紀沙の望むままにすれば良いのだと。
他の煩わしい何もかもを無視して、ただ紀沙が望むままに。
それはまさに悪魔の囁きで、しかし紀沙はその誘惑に抗していた。
その時だった、海上に浮上したままのイ404が目に入った。
どうして目を引かれたのかと言えば、それはチカチカと何かが輝いていたからだ。
すぐに、ライトの光だと気付いた。
甲板に出た蒔絵が、手信号用のライトをこちらに向けていたのだ。
「蒔絵ちゃん……?」
遠目に見る蒔絵の表情は真剣で、何かを伝えようとしているのはすぐにわかった。
どこで覚えたのかはわからないが、ライトの信号も正確だった。
光の開閉と長さで、何を伝えようとしているのかはわかる。
海戦の音が遠くから雷鳴のように聞こえる中で、それだけが鮮明だった。
「ア・イ・ニ・イ・コ・ウ……」
会いに行こうよ、お父さんにとお兄さんに。
それが、蒔絵のメッセージだった。
後はそれが繰り返される、それだけを伝えに来たらしかった。
(あ、そうか)
蒔絵は元々、祖父――存在しない架空の祖父――に会うために密航したのだった。
会いたくとも会えない、そんな人物に会うために飛び出した人間だった。
その蒔絵からすれば、会いに行こうと思えば会いに行けるのにまごついている紀沙の姿は、酷くもどかしく見えたのだろう。
情けないなと、そう思った。
お姉さんぶって庇護しているような気持ちを普段から抱いておきながら、いざと言う時には蒔絵の方がずっと決断力があり、大胆だった。
そして蒔絵は、会いに行って何をしろとも言ってはいない。
会いに行くことそのものに意味があるのだ、それで何かが動くかもしれない。
「そうだよね」
父と兄が戦うと言うのなら、そこに娘の自分がいないわけにはいかない。
何かあるはずだった。
母の代わりに出来ること、娘の、妹の自分にしか出来ないことがあるはずだった。
ただし、これは明確な目標の無いままの航海。
思えばこれまでは、当たり前のことだが、何かの目的をもって航海をしていた。
「スミノ、機関始動」
何の目的もなく、ただ航海する。
不思議なことに、思ったよりも清々しい心地だった。
「戦闘海域へ」
読者投稿キャラクター
デューク・オブ・ヨーク(朔紗奈様)
アンソン(朔紗奈様)
レナウン(ライダー4号様)
有難うございます。
最後までお読み頂き有難うございます。
と言う訳で、ロンドン編も佳境って感じですね。
終わり方がまだ決まっていないことを除けば、特に問題ないはず。
……あれ、そこって最重要な気が。
それでは、また次回で。