蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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ドイツより帰還致しました。
今回は前回後書きで言ったように、過去編です。
全2話の予定。
では、どうぞ。


Depth061:「出航前・前編」

 

 海洋技術総合学院。

 海洋技術の継承を目的として設立された軍直轄の学校で、毎年優秀な人材を輩出している。

 現在、統制軍の士官学校を除けば最も優秀な学生が集まる学校である。

 そして冬の終わりを感じさせるその日、学院からの卒業を間近に控えたある1人の少女がいた。

 

 

「はっ……ふっ!」

 

 

 武術の訓練――()()()()だろうが、近接格闘術は軍系列校の必須科目だ――に用いる室内訓練場で、紀沙は小刻みに身体を振り、動かしていた。

 学院指定の体操着に身を包んでいるためか、手足の筋肉がしなやかに動く様子が良くわかり、若い躍動感を見る者に感じさせた。

 

 

「とぉ……!」

 

 

 今のは危なかった。

 掠めたのだろう、頬のあたりに感じるちりちりとし感触に冷や汗を流しつつ、紀沙は正面から目を離さなかった。

 目一杯に見開かれたその目は、視界に映る黒い軌跡を見逃すまいとしていた。

 

 

 考える間に、次の一撃が来た。

 それは刃渡り25センチ程の、黒い樹脂製のトレーニングナイフだった。

 腕を伸ばして飛ぶ込む形で繰り出されたそれは、紀沙の胸を狙っていた。

 身体を左に振り、さらに右足を下げて流した。

 

 

「お」

 

 

 相手の男が、まさに「お」と言う顔をした。

 構わずに、左の掌で相手の腕を叩く。

 すると紀沙の身体は左に抜けて、相手のナイフは腕ごと右に流れてしまった。

 下げた右足で地面を蹴り、気合一発、呼気を止めて身体を回し、右肘を相手の首の真後ろに叩きつけた。

 

 

 いわゆるナイフ格闘術と言うものだが、だからと言ってナイフだけで戦うわけでは無い。

 むしろ、ナイフ以外の動きで勝敗が決する場合が多い。

 ちょうど、今のようにだ。

 首を打たれて倒せた相手の背中を押さえ、腕をねじ上げながら首筋にナイフを当てる。

 そのまま、少し待った。

 

 

「参った」

 

 

 相手――近接格闘術の教師は、紀沙の下でそう言った。

 もし両手が自由であれば、お手上げと言うようなジェスチャーをしたことだろう。

 その言葉を聞いて初めて、紀沙は身体から力を抜いた。

 緊張感のある空気が和らぎ、同時に、わぁ、と周囲がざわついた。

 

 

 よくよく見てみれば、訓練場には紀沙と同じ体操着を着た男女が他に十数人いた。

 紀沙のクラスメート達で、今日が近接格闘の最後の授業で、成績トップの紀沙が教官と一勝負をしていたと言う形だった。

 興奮冷めやらぬと言った様子の級友達を横目に見て、紀沙は「はぁ」と溜息を吐いた。

 ああ、疲れた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 武道館の外に出ると、燦燦(さんさん)と太陽が輝いていた。

 春も間近のまだまだ涼しい気候、などと言われていたのは昔の話。

 今の日本は温暖化の影響で、夏冬が長く春秋が異常に短いのだ。

 

 

「あっつ……」

 

 

 手をかざすと、血管が浮き出て見えるような気さえした。

 ぞろぞろと武道館から歩き去っていく級友達を横目に、紀沙は余分な運動でかいた汗に辟易としていた。

 卒業間近の最後の授業とは言え、教官と一騎打ちの伝統など誰が考えたのか。

 運動は嫌いでは無いが、する必要の無い運動は好きでは無い。

 

 

 ふと何かに気がついて、紀沙は懐を探った。

 取り出したのは携帯電話で、何かのアニメキャラクターをデフォルメしたストラップがついていた。

 それが何のキャラクターであるかは、実は紀沙も良く知らない。

 級友――かつて級友だった者からのプレゼントと言うか、ダブりのおすそ分けだった。

 

 

「母さん?」

 

 

 母からの電話だった。

 まぁ、紀沙に電話をかけてくる人間は他にいない。

 卒業が間近なので、いろいろと心配されているのかもしれない。

 

 

「うん……うん。まだ授業中、大丈夫」

 

 

 さしもの紀沙も、母親との会話の間は表情が柔らかくなった。

 年齢相応と言うか、年頃の娘だった。

 10代の少女なのだから当たり前と言えば、当たり前なのだが。

 そうは単純では無いのが、千早紀沙と言う少女だった。

 

 

「心配しないで、母さん。じゃあ、切るから。うん、夜に電話するね」

 

 

 そして電話を切ってしまうと、元の固い雰囲気に戻ってしまう。

 誰も寄せ付けない、と言う雰囲気になってしまった。

 母の声に見せていたあの姿は幻だったのかと、そんな風に思ってしまう程だった。

 実際、幻だったのかもしれない。

 

 

「ああ、行かないと。次の授業が始まっちゃうや」

 

 

 海洋技術総合学院。

 そこはもちろん、紀沙の母校である。

 本来ならば、青春の記憶の中に暖かに保管されているべきものだ。

 しかし、紀沙にとっては必ずしもそうでは無い。

 

 

 父は軍から出奔し。

 そして兄は、やはりこの学院から出奔して。

 早い話が、紀沙はこの学院で少し、いやかなり特殊な立場にいるのだった。

 それは、()()()()()が健やかに生活するには、聊か条件が悪かった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ひそひそ声が聞こえる。

 1人きりになった時から、紀沙はずっとその声を聞いていた。

 

 

「……ね。すごいよね……」

「……でも、ちょっと怖……」

「……り難いよね、何か……」

 

 

 シャワーの音は激しいが、それでも聞こえてくる。

 入学時から良くあることだが、最近のある時点からは質が違ってきた。

 尊敬と言うよりは、忌避。

 ひそひそと話しながらもこちらを窺う視線には、はっきりと畏怖の色が見て取れる。

 紀沙が視線を向ければ、すぐに逸らされてしまうのだ。

 

 

 侮られぬようにと訓練に励んだ。

 何者にも貶められぬようにと勉学に励んだ。

 気が付けば、前にも後ろにも誰もいなくなっていた。

 遠巻きに、奇異の目を向けて来るばかり。

 

 

(兄さんも、こんな感じだった?)

 

 

 語りかけられるのは、過去にだけだ。

 シャワーを止めると、赤らんだ肌をいくらかの水滴が滑り落ちて、ポタポタと音を立てた。

 仕切りの扉を開けて外に出れば、やはりこちらを見ていた生徒達が、見ていなかったかのような顔で級友との会話を再開していた。

 

 

「……あ、ねぇ……」

「……わ、こっち来た……」

 

 

 脱衣所の籠や鏡台の前に行けば、決まって他の使用者がそそくさと立ち去る。

 もう慣れたとは言え、こうまであからさまだと逆に笑えてくる。

 まぁ、順番待ちをする必要が無くなると思えば、少しは得に思えないことも無い。

 ――――10代の若者として不健全であると言う、ただ一点を除けばの話だが。

 

 

「あ、紀沙ちゃ――んっ!」

 

 

 大浴場を出た直後あたりで、声をかけられた。

 しかも、割と親しげに。

 先程の生徒達の様子からわかるように、紀沙にこんな風に話しかけてくる相手はそう多くは無い。

 おそらく、片手で数えられる数人くらいなものだろう。

 

 

「何か用、良治くん」

 

 

 軍医候補生の良治、同学年だが年は1つ上だ。

 他の生徒がああなので、あまり誰かと親しげに話すのを紀沙は好まなかった。

 話し相手まで奇異の目で見られるのが気が引けるからだが、良治はそのあたりは気にしないらしい。

 あるいは、彼自身が留年生のため、紀沙とは違う意味ですでにそう言う目に慣れているだけかもしれない。

 

 

「お風呂上がり眼福です」

「……たぶん、別のことを言おうとしたんじゃないかな」

「あ、ごめん。学長先生が呼んでたよ」

「学長が? こんな時間に?」

 

 

 すでに放課後を過ぎて夕食前である。

 呼び出しの時間にはやや遅い気もするが、わざわざ良治が――他の生徒は嫌がるだろう――言いに来たのだから、嘘では無いだろう。

 ……こう言う場合は、だいたい面白くない話のような気がする。

 

 

「あーい、失礼しますよーっと」

「あ、すみません。まぁ、じゃあ行ってくるよ。学長室で良いの?」

「僕は保健室が良いと思うな」

「それは良治くんの願望じゃないかな……」

 

 

 通路を掃除していた清掃員の横を通り過ぎて、紀沙は学長室に向かった。

 何故かついて来る良治の相手をしつつ歩いていく紀沙は、気付いていなかった。

 擦れ違った清掃員が掃除の手を止めて、紀沙のことをじっと見つめていたことに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 清掃員の名は、碇冬馬と言った。

 青い作業着に身を包んだ彼は後にイ404のクルーとなるのだが、この時点では、もちろんそうはなっていない。

 しかし彼は、実はクルーとして紀沙の前に現れるずっと前から紀沙の近くにいたのだった。

 

 

「お友達が少ないってのはアレだが、ボーイフレンドがいるってのは健全で良いじゃねぇの」

 

 

 かなりの誤解を孕んだ見解だが、傍目から見るとそう言う風に見えるのかもしれない。

 清掃員の格好をしているが、作業着の下には清掃員には似合わない厚い筋肉や傷痕が見えて、少なくとも一般人には見えない。

 それはそうだろう、彼は軍人なのだから。

 

 

 冬馬はそのまま掃除用具の入ったカートを押したまま歩き、角を曲がると、周りに誰もいないことを確認してから懐に手を忍ばせた。

 懐から小さな携帯端末を取り出してそれを起動し、いくつか操作する。

 すると、画面に写真や文字が出てきた。

 

 

「女子高生を見張るってのは、ドキド……気が滅入るね、やっぱ」

 

 

 そこに映し出されたのは、紀沙の写真だった。

 昼間の教官とナイフ戦闘を行っているところもあれば、食事中のもの、それ以外のものもある。

 色々な写真があるが、共通項はひとつ、一つとして目線がカメラ側に無い。

 さらに画面をスライドすれば、分単位で紀沙の予定や行動が書き込まれているのがわかる。

 

 

 心理学者でなくとも、ここまで細かく記録してれば、千早紀沙と言う少女の行動様式が丸裸だった。

 はっきり言って異常だが、冬馬は別に紀沙に異常な感情を抱いているわけでは無い。

 むしろもっと救いの無い、もっと嫌な類のものだった。

 冬馬は紀沙個人には関心が無く、ただ淡々と千早紀沙と言う人物を見ているのだ。

 

 

「気が引けるね、裏切り者候補の監視なんてさ」

 

 

 裏切り者候補。

 監視。

 いずれも物騒な言葉だが、考えてみれば当たり前のこと。

 ある立場からすれば、紀沙は監視されて当然の存在なのである。

 

 

「本人に罪は無かろうにねぇ」

 

 

 父、兄、家族の2人が人類の敵である霧の艦艇と共に国を出奔した。

 こんなことになっていて、いくら軍系列の学校にいるからと行って、野放しに出来るだろうか?

 出来るわけが無い。

 だからこそ、冬馬のような監視員が各所に配置されているのだった。

 

 

「悪く思わないでくれよな、お嬢ちゃん」

 

 

 見る者と、見られる者。

 冬馬と紀沙の関係は、この時点ではそれだけでしかなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「なんだった?」

 

 

 校長室から出てきた紀沙に対して、良治が開口一番にそう言った。

 メッセンジャーの役目を終えた以上は待っている必要は無かったのだが、彼は普通に待っていた。

 ここまで徹底されると、いっそ笑いたくなってくる。

 出会った頃はここまででは無かったのだが、ある時期から良く構ってくるようになった。

 

 

 ある時期、と言うか、兄・群像が出奔してからだ。

 紀沙が現在、孤立一歩手前――完全なる孤立では無い――で済んでいるのは、良治のような物好きがいてくれるからこそだ。

 一応は感謝しているものの、たまにやるせない気持ちにさせられるのも事実だった。

 

 

「……新しいシミュレータのプレゼンをしてくれって」

「新しいシミュレータって、何か先々月くらいから第五施設で工事してる?」

「そ。それで、そのお披露目の模擬戦をしてほしいってさ」

「流石、首席は違うね」

「…………まぁね」

 

 

 紀沙は、首席での卒業がすでに決まっていた。

 群像を含めた上位陣が軒並みいなくなってしまったので、自然とそうなってしまうのだ。

 努力を惜しんだことは無い。

 そしてそれ以上に、素質があったのだろう。

 あの父の娘であり、あの兄の妹なのだから。

 

 

「来賓の子とか来て、結構なイベントになるんだって」

「そこで紀沙ちゃんにデモンストレーション的なことをしてほしいってこと?」

「らしいね」

 

 

 まぁ、要は偉い人の前で模擬戦をしろとのお達しだった。

 表向きは首席だからと言うことだったが、それだけが理由では無いことは明白だった。

 紀沙があの「千早」だから、と言うのが大きな理由だろう。

 そうでなければ、首席の紀沙だけで無く次席を含む成績優秀者が呼び集められるはずだ。

 

 

 まぁ、どうでも良かった。

 そう言う事情がどのように複雑に絡んでいようと、紀沙にとってはどうでも良かった。

 興味など無かったし、仮に合ったとしても紀沙に出来ることなど無いのだ。

 ただ、流されるままに生きていれば良い。

 

 

「あ、ところで紀沙ちゃん。シミュレータの艦種は?」

「潜水艦」

「まぁ、そりゃそうか。でも僕、ひとつ気になってることがあるんだけどさ」

「なに?」

 

 

 普通にシミュレーション戦をやって、適当に勝てば良い。

 流石に負けると言うのは、考えられなかった。

 紀沙がそう考えていることはわかっているのか、良治は何とも言えない顔をしていた。

 そして、彼は核心部分を告げた。

 

 

 

「クルーの目星はついているのかい?」

 

 

 

 シミュレータを使った模擬戦は、文字通り実戦を想定して行われる。

 そのため艦船の発令所を模した造りになっており、当然、艦種によって操艦に必要な人数は異なる。

 つまり、潜水艦のシミュレータ戦をするには、潜水艦を動かすのに必要な人手が要るのである。

 はたして、紀沙が苦も無くそうしたメンバーを集めることが出来るのかと言えば。

 

 

「…………うぐ」

 

 

 必ずしも、そうでは無いのだった。

 初めて紀沙は、難題を前にして顔を顰めることになったのである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 組織と言うものは、えてして一枚岩では無い。

 個人と言うものは、えてして公益のためには動かない。

 そして軍隊と言うものでは、必ずしも国益のためには動かない。

 

 

「ええ、ええ。そのように、はい……」

 

 

 軍系列の学校ともなれば、人事には当然のように統制軍の意思が入ってくる。

 特に学長などは、軍人経験者がなるのが常だった。

 現在の学長も、統制軍では将軍などと呼ばれる立場の人間である。

 表向きは、軍人出身者の方が将来の士官を育成するのに向いているだろうと言うことだが、現実は軍内部のポスト調整のひとつでもあった。

 

 

 しかし「千早紀沙」の場合は、それだけでは無い。

 様々な勢力の様々な思惑や利害が複雑に絡み合うため、学院側の対処も難しくなるのだ。

 中には母親と同じように軟禁すべしと言う声もある、卒業が間近な今、そうした声が強まるのも無理は無い。

 むしろ、そちらの声の方が大きいくらいだ。

 

 

「あれだけ優秀な成績を収めている生徒です。きっとお眼鏡に適うかと……ああいえ、そのような。滅相もございません」

 

 

 しかし一方で、そうさせまいとする声もまた、あるのだった。

 そうした声を上げる人々は、彼らなりの利益や事情で主張している。

 ただ中には、利益や利害とは別のところで動いている者もいるのだ。

 少数ではあるが、いないわけでは無い。

 

 

「ええ、ええ、はい。では、当日お待ちしております……北議員」

 

 

 何度も頭を下げながら電話を切り、学長はふうと息を吐いた。

 すでに老齢の域に達している彼は、年甲斐も無く額に冷たい汗の玉を掻いていた。

 それほどに緊張を擁する相手だったのだろう。

 ハンカチで何度も額を拭って、机の上に置かれていたコップの水を飲み、そこまでしてようやく落ち着いたようだった。

 

 

「はぁ、やれやれ。千早くんがいるだけでこんなことになるなんて。最初はもっと楽な仕事だと思っていたのに……まぁ、それもあと少しの辛抱か」

 

 

 あの千早の娘を生徒として預かるとなると、やはり相当の圧力があるのだろう。

 教育者としては――と言っても、教師と言うよりはあくまでも軍人なわけだが――どうかと思うが、ひとりの人間としては、同情の余地はあったのかもしれない。

 多くの人間は、大過なく仕事を終えたいと思うものだからだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「あ、来たわねぇ」

 

 

 最新型のシミュレータが入る施設に行くと、迎えてくれたのは意外な人物だった。

 紀沙も良く知っているようで余り知らないその女性は、四月一日あおいと言う女性だった。

 紀沙達よりも年次が上ですでに卒業しているのだが、どうやら今回のプロジェクトに軍務として関わっているらしかった。

 

 

 このシミュレータで模擬戦をするに当たって、当然、概要の説明が入る。

 本来ならばもっと大人の、もっと階級が上の技術士官が説明しても良いのだろうが、相手が学生である。

 対面的にも先輩後輩の関係的にも、あおいが適任と判断されたのだろう。

 何しろこのあおいは、イ401クルーの四月一日いおりの実の姉なのだから。

 

 

「このシミュレータは、既存のシミュレータのアップグレードと言うだけでは無いの。新しい認識ソフトを搭載することで、より実戦に近い形で模擬戦を行うことができるのぉ」

 

 

 いおりがいた頃のあおいは、良くも悪くも目立つ女性だった。

 グラマラスな美人と言うのもあるが、こういう機械技術方面に圧倒的に明るかったのだ。

 ただひとつ難点があるとすれば、その技術力を他者に伝達できないと言うことだ。

 理論立てた技術では無く、思いつきや閃きがほとんどを占める彼女の「技術」は、誰にも理解できない。

 まぁ、つまり何が言いたいのかと言うと。

 

 

「まぁ、何かほわぁ~ってなって。それからここの数式があっちの数式とくっついてあれになるから」

 

 

 正直、説明を受けても何もわからなかった。

 あおいの説明は、徹頭徹尾これなのである。

 他の技術者は紀沙と係わり合い自体を持ちたがらないので、これはこれで絶体絶命のピンチと言えた。

 クルー、そして艦船。

 

 

(あれ、これってもしかして結構ヤバい?)

 

 

 いやいや、と、紀沙は思い直した。

 シミュレータについては、確かにあおいの説明はわかりにくかった。

 しかしこちらはきちんとしたマニュアルがあるのだから、そちらを読めば概ね解決するはずだった。

 後は試行回数、つまり慣れの問題であって、そう考えると案外何とかなるような気がして来た。

 

 

 そしてクルー。

 こちらも、よくよく考えて見れば誰かを誘うだけである。

 何も難しいことでは無い。

 いやむしろ、物凄く簡単なことのはずだった。

 何も深刻に考える必要は無い、はずだ。

 

 

(大丈夫、なんとかなる)

 

 

 この時点では、紀沙はまだそう言う希望的観測を持っていた。

 そう、まだ、この時点では。

 紀沙はまだ、何とかなると思っていたのである。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 がこん、と、自販機から缶ジュースが転がり落ちて来た。

 まぁ、自販機とは言っても、学院内では無料となっている。

 ただし、卒業時に軍に入隊しないと在学中の他のお金と一緒に請求される。

 最もそれは、軍に入隊するしかない紀沙にとっては余り関係の無い話だったが。

 

 

「久しぶりねぇ。いおりちゃん達が出て行ってからは、ほとんど会う機会も無かったし」

 

 

 シミュレータの説明が終わると、施設の外の休憩所であおいがそんなことを言った。

 奢りとか言っていたが、紀沙が買う限りタダなわけだから、奢りも何も無いのだった。

 それでもあおいの言葉を聞いて、その点を指摘する気は紀沙には無かった。

 休憩所のベンチに座るあおいは、上半身はタンクトップだけと言う扇情的な格好をしていた。

 

 

「元気にしてると良いわねぇ」

 

 

 いおりは、紀沙の兄・群像と共に出奔した。

 どうしてそうしたのか、あおいも知らないのだろう。

 紀沙を誘ってこんな話をすると言うことは、もしかしたら紀沙になら連絡が来ているかもしれないとでも思っているのかもしれない。

 

 

 そんなことはあり得ないのに。

 

 

 紀沙が政府や統制軍に盗聴されていると言う理由も、もちろんある。

 しかしそれ以上に、群像の側から紀沙に接触を持つことは無い。

 そんな確信が、紀沙にはあった。

 

 

「紀沙ちゃんは、大丈夫?」

「大丈夫です。元気ですよ」

 

 

 問われて、反射的にそう答えた。

 反射的に答えると言うことは考えていないと言うことで、ある意味、本音とも取れる。

 だが、何が「大丈夫」なのかはわからないのだった。

 

 

「クラスの子達とも、仲良くできているかしら?」

「まぁ、それなりには」

 

 

 思い出すのは、遠巻きにひそひそと話す生徒達の姿。

 それなりと言えば、()()()()、だ。

 

 

「もし良かったら、お姉さんが相談に乗っちゃうわよ~」

「あはは」

 

 

 あははと笑って、おそらくは善意で言ってくれていることをかわす。

 近付かない、近づけさせない。

 だが一方で、こうも思っている。

 何とかしてくれ、と。

 この狭苦しい、息苦しい状況を誰か何とかしてくれ、と。

 

 

「今度の模擬戦、上手くいくと良いわねぇ」

「いつも通りだと思いますよ」

「うふふ、それは頼もしいわねぇ」

 

 

 そして、誰かが何とかしてくれることは無いと、紀沙は知っているのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そして、数日が過ぎた。

 シミュレーション戦で必要なクルーを集める。

 要は級友の中から適当な能力を持った者に声をかけ、誘えば良いわけだ。

 普通、これはそこまで難しいことでは無いはずだった。

 得手不得手はあるにしても、時間さえかければクリア出来る課題だ。

 

 

 第一、来賓を招いてのシミュレーション戦、それも最新設備を使ってのものとなれば、卒業生にとってこれ以上は無い程のアピールの場となる。

 そのため、少しでも向上心や野心を持っている生徒であれば、基本的には乗ってくるはずの勧誘なのだ。

 それが出来ないとなると、それはおそらく誘っている側の問題なのだろう。

 

 

「……ねぇ、紀沙ちゃん」

「…………なに」

「ここ食堂だよね、他の生徒いっぱいいるよね」

「…………そうだね」

 

 

 昼間の食堂となれば、多くの生徒で賑わうのが当然だ。

 実際、紀沙と良治の周囲は多くの生徒で賑わっている。

 ……のだが、どういうわけか、紀沙達の半径5席くらいががらがらの状態だった。

 つまり避けられている、明らかに、あからさまに。

 

 

 いや、これでも紀沙は努力したのである。

 クラスメートを始め、およそ優秀と思わしき生徒達に声をかけようとしたのだ。

 問題は、声のかけ方を知らなかった、と言うことだ。

 何しろ今までコミュニケーションを取ってこなかったがために、どう話を進めれば良いのかわからなかったのだ。

 

 

「あの、ちょっと良い?」

「え? あ、千早さん……」

「その、えーと……シミュレータ戦の」

「ご、ごめんなさい。ちょっと用事が」

「あ」

 

 

 ……というような具合で、他の生徒も似たようなものだった。

 深刻に考えているから目や肩に力が入ってしまって、それが言いようも無い威圧感となって相手に伝わってしまっているのだ。

 まぁ、要するに怖いのである。

 

 

「どうするの、紀沙ちゃん」

「いま考えてる」

「考えてどうにかなる問題じゃなくない?」

 

 

 ピンチ、脳裏に浮かぶ言葉はそれだ。

 究極的には学長に言って、適当に人選して貰うという手もある。

 ただそれはあまりにもコミュニケーションスキルが無さ過ぎるし、ある程度の信頼が無いとクルーとしての連携も取りにくくなってくる。

 

 

「……あれ。ひょっとして私って、ヤバい?」

「まぁ……その……うん。まぁ、ね」

 

 

 良治も庇いようが無い事態。

 はたして紀沙は、この危機をどのようにして克服するのだろうか。

 本来は、そんなに苦労しない話だと言うのに――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の海洋封鎖は、物的な輸送だけで無く人的な移動をも困難にした。

 わかりやすく言えば、日本国内にいる外国人が本国に帰れなくなったと言うことだ。

 しかし生粋の外国人であれば、まだ扱いは単純だった。

 厄介なのは、日本人の血が混ざっている(混血の)場合である。

 

 

「……長! 兵長!」

 

 

 なまじ日本人の血を引き、日本風の名前や容姿を持っているが故に、他の外国人と同じような区別は難しかった。

 何より片親は同胞、その嘆願を無視するのはさらに困難だ。

 そして混血児達自身、自分達がどうすればまともに生きていけるかを良く理解していた。

 要は、日本(祖国)への忠誠心を示すことだ。

 

 

「おい、梓!」

「…………あ? あたし?」

 

 

 その場所には、硝煙の匂いが満ちていた。

 何列にも横に並んだ仕切り部屋と、数メートルから数十メートルまで離れた位置に人型の的が並んだ空間だ。

 いわゆる、射撃訓練場だ。

 

 

 海兵だろうと射撃が下手では軍人はやれない。

 そこは統制軍の海軍の施設で、兵士は皆が防音の耳当てをして射撃訓練に励んでいた。

 その内のひとり、梓=グロリオウスは、弾丸の装填中に肩を掴まれた。

 女性ながら筋肉質かつ豊満な身体が、黒のタンクトップに窮屈そうに押し込められている。

 何度か呼ばれていたようだが、そもそも声が通らない場所だ。

 

 

「隊長が呼んでる!」

「え? なに? 誰がなに!?」

「たーいちょーうがよーんでる!!」

「だから、なーあーにー!?」

 

 

 銃声の音が激しくて、鼻先が触れ合う距離まで近付いても声が聞こえない。

 それでもジェスチャーを交えて、とにかく射撃訓練場の外に出ろと言うのは伝わったらしい。

 梓は使用していた拳銃を片付けると、軍服の上着を引っつかんで、訓練場の外に出た。

 呼びに来た同僚――彼もまた、混血児だ――の話を改めて聞いて。

 

 

「海洋技術総合学院? 何それ」

「知るかよ。隊長がお前もついて来いってよ」

「なんで?」

「だから知らないって、詳しいことは隊長に聞いてくれよ。じゃあな」

 

 

 梓は、元々軍人志望だったわけじゃない。

 ただ死んだ父親が軍人だったと言うことと、日本への忠誠心を示すのに軍への志願が一番わかりやすかったから、なっただけだった。

 そのため優秀だが一本芯の入っていない部分もあって、隊長付きでどこかに行くと言うことは今まで無かった。

 

 

「海洋技術総合学院……って、何だっけ?」

 

 

 彼女もまた、この命令が自分の運命を大きく左右することになるとは、この時点では気付いていなかった。




最後までお読み頂き有難うございます。

思ったより寂しい学生生活になってしまいました。
オリキャラが当時の紀沙を認識する話になる気がするので、そのあたりも書けていければ良いと思います。

それでは、また次回。

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