ある日のことだった。
のどかな太平洋の大海原に、「ぎゃっ」と言う、およそ似つかわしくない――しかも女性としてもどうかと思うような――『タカオ』のメンタルモデルの悲鳴が聞こえた。
それに対して、姉艦に併走していた『アタゴ』は大きな、それはもう大きな溜息を吐いた。
「タカオお姉ちゃん、またなの?」
「あだだだ。だ、大丈夫よ。お姉ちゃん今のでコツを掴んだ気がするから」
「それは265秒前にも聞いたし。ついでに言うと708秒前と1023秒前にも」
「わ、わかったわよ。わかったって。もうしないわよ、今日は」
拘束具にもなっている『ヤマト』謹製のリボンを指先でいじりながら、タカオは溜息を吐いた。
外そうとすると、
リボン自体はタカオの蒼い髪に良く映えているが、タカオ自身の趣味では無かった。
『ヤマト』によるとバグの抑制のために着けているらしいが、そもそも「バグ」の正体をタカオにも話していなかった。
アタゴに言うように、触らずに置いておくのが一番良いのだろう。
それでも、タカオはリボンに触れずにはいられなかった。
気が急いている。
胸の奥で何かが燻っていて――もしかしたら、それが「バグ」なのかもしれない――どうしようも無い焦燥感がタカオを苛んでいるのだ。
「そ~……ぎゃっ」
「ちょっと、タカオお姉ちゃん!?」
外さなくては。
このリボンを外さなくては。
そう思って何度も繰り返している時に、
ロリアンの地で異変が起こるのと前後して、タカオにとっての
「うらああああああっっ!!」
そして、今。
衝撃が、水柱となって『ヤマト』の周囲に立ち上った。
タカオの踵落としの衝撃が甲板を、『ヤマト』の巨艦をほんの少し海へと押し込んだのである。
『ヤマト』は受け止めることはせず、そのメンタルモデルは甲板の上を滑るようにして後退した。
その際に手を振り、演算、『ヤマト』の巨艦は安定し、なおかつ巻き上げられた海水が十数本の水の槍へと姿を変えた。
フィギアスケーターのように優美だが、やっていることは容赦が無い。
いわゆる「抑制剤」効果付きの槍が、四方、いや八方からタカオに襲い掛かった。
「何の備えも無しに突っ込むわけ無いでしょ!?」
しかし、タカオも黙ってはいない。
事前にコアに這っておいたらしい何十もの防護プログラムが起動し、『ヤマト』の抑制の槍を無効化する。
それは、殺到する槍が不可視の壁に阻まれて、海水に戻ると言う結果になって現れた。
弾けた海水が、雨となって甲板に降り注ぐ。
(とは言ったものの、今ので防壁全部使っちゃったわよ。何て奴……!)
今の一瞬の攻防が嘘だったかのように、あたりは静けさを取り戻していた。
しかしタカオの目は未だ闘志を宿していたし、『ヤマト』は悠然と彼女を見つめてきている。
そしてタカオは、『ヤマト』の唇が小さく動いていることに気付いた。
何だ――――……?
「――――ッッ!?」
声にならない悲鳴が、タカオの口から迸った。
この頭痛は、リボンを外す時に得た
リボンはすでに外れているのに、何故……!?
◆ ◆ ◆
中国の古書「西遊記」に、斉天大聖――有名な名で言えば、孫悟空と言う者が登場する。
彼は師である三蔵法師によって、頭に戒めの輪を嵌められていたと言う。
今、まさにタカオの頭に出現したのがそれだった。
「アアアアアアアァァァ……ッッ!!??」
女性として、よりどうかと思える悲鳴がタカオの口から漏れる。
コアとメンタルモデルの接続が上手く出来ない。
指一本動かせずに、タカオのメンタルモデルは顔から床に倒れ込んだ。
(な、なによ、これはあああああぁ……っ!?)
凄まじい頭痛と吐き気と、眩暈、意識の
それらを一挙に受けながら、タカオはそれでも原因を探る努力をした。
しかし瞳に電子の輝きを見せたその瞬間、それは濁り、演算は中断させられる。
もはやタカオは、タカオの意思だけではメンタルモデルはおろか、コアすら満足に起動できない状態だった。
「重巡『タカオ』。貴女は素晴らしいメンタルモデルです」
しかし、と、タカオを見下ろしながら『ヤマト』が言った。
その両の瞳は白い輝きを見せており、静かな、しかし激しい演算が行われていることは明白だった。
リボン、タカオのリボンは確かに抑制装置だったが、だがそれだけだ。
本体はあくまで『ヤマト』、『ヤマト』の拘束が備品のリボン以下なわけが無い。
むしろ、より強力だ。
「でもここからの物語に貴女の登場枠は無いのです。大人しく、霧としての本文を全うしなさい」
「な、に……が、グウウウ……!」
奥歯の欠ける音すら聞こえる。
そうやって堪え、耐えているタカオを見下ろしながら、『ヤマト』は言った。
「重巡『アタゴ』!」
「……! アンタ、なにを!」
「ここへ来なさい」
当然、その通りになる。
『ヤマト』甲板上にどこからともなくナノマテリアルが集まり、それは人の形を取ると、タカオのメンタルモデルに良く似た少女の姿へと変貌した。
『アタゴ』のメンタルモデルは甲板に伏した姉の姿を認めると、ぎょっとした表情を浮かべた。
しかし、『ヤマト』が何事かを呟くと表情が一変する。
『アタゴ』――アタゴは心配そうな表情を浮かべると、タカオの傍へと寄り添った。
そして、言う。
「タカオお姉ちゃん、どうしてこんなことをするの? 総旗艦を困らせちゃ駄目じゃない」
「……アタゴ」
「さぁ、こんなことはもうやめて? いつもの任務に戻りましょうよ、それで全部が元通りじゃない」
「…………」
「ほら、タカオお姉ちゃん」
ああ、可愛いなぁ。
この時、自分を心配して手を差し伸べてくれるアタゴを見て、タカオはそんなことを思った。
いや、実際、アタゴはとんでもなく可愛いのである。
普段はツンツンしている癖に、行動は常にタカオと一緒。
一も二も無く可愛い、とにかく、これが可愛くなければこの世に可愛いは存在しない。
しかし、だからこそ。
だからこそ、これは『ヤマト』の
何故ならばタカオの中にインストールされている「シスコンプラグイン」は。
こう言う時にこそ、真価を発揮するのだから。
◆ ◆ ◆
妹は、『アタゴ』だけでは無い。
不意に、タカオの後ろから誰かが抱き着いて来た。
顔を確認するまでも無く、タカオにはそれが誰なのかわかった。
「タカオお姉ちゃんっ!」
明るく弾むような声は、『マヤ』だった。
どん、と、身体ごとぶつけて来るような、そんな抱きつき方だった。
正面のアタゴはびっくりした顔をして、次いで少しむっとした表情を浮かべた。
やばい、嫉妬とかマジ可愛い。
そうしていると、ふわりと甘味と酸味と苦味が入り混じった香りが漂ってきた。
ちょうど、コーヒーと紅茶を同時に用意するとこんな風になる。
何故そんなことがわかるかと言うと、千早邸で興味を持った
「なぁ、これって豆と葉を混ぜて良いもんだったか?」
「さぁ、何分見た目だけ真似しただけだもの」
「早く飲ませろー」
「……タグ添付、分類、記録」
いつの間にか、お茶会が開かれていた。
濁った水のような液体を口にしながら顔を顰める『キリシマ』、メイド衣装姿で何故か5メートル上からコーヒーをカップに注ぐ『レパルス』、両手にティースプーンを持って行儀悪くカップを叩く『ヴァンパイア』、謎の液体と化したコーヒー……紅茶? を記録する『ハルナ』。
小さな丸テーブルで繰り広げられているそれは、まさに「お茶会」だった。
「今度は上手く焼けたぞ」
「材料の配合率の違いでこうまで手こずるとは思いませんでした」
そして、エプロン姿でどこからともなく現れた400と402。
2人の手にはオーブン用の盆があり、焼きたてのクッキーの良い香りがタカオにまで届いていた。
ああ、そうだ。
「さぁ、タカオ」
『ヤマト』が、たおやかにタカオをテーブルへと誘った。
「貴女の役目は終わったのです。後は、お友達と平穏な日々を。そうでしょう?」
「……そう、ね」
それで良いのかもしれない。
たかが重巡洋艦に過ぎない自分が、意地を張っても意味は無いのかもしれない。
ここで妹達と、艦隊の仲間達と穏やかに過ごしていくのが、一番良いのかもしれない。
冷静な自分が、「それが賢明だ」と言っている。
「タカオ」
『ヤマト』が手を差し伸べてくる。
タカオはそれに、ゆっくりと手を伸ばした。
そうだ、この手を取れば良い。
そうすれば、この焦燥感も苛立ちも忘れて、穏やかに生きていける。
だから。
だからタカオは、手を伸ばした。
タカオの細い指が、『ヤマト』の白い掌を掴……。
「……え?」
……
タカオの手は『ヤマト』の掌を通り過ぎて、襟元へと伸びていた。
そしてそのままドレスの襟首を掴んだ、つまり有体に言えば。
胸倉を掴んだ、のだった。
そして。
「
タカオの眼は、今、確かに総旗艦『ヤマト』を捉えていたのだった。
◆ ◆ ◆
異変と言うか、混乱と言うべきだろうか。
『ヤマト』その艦の甲板上で起こっていることを、じっと見つめている。
当の『ヤマト』も、別段隠すつもりも無いようだった。
「これは、私達の望む大きな動きになるかしら?」
「どうかしら。小さくまとまってしまうと言うこともある」
ここのところ、世界は大きく動いている。
その多くは、千早親子によって成されていた。
振動弾頭のアメリカへの移送、<緋色の艦隊>による西ヨーロッパの制圧と言った表の動きだけで無く、ロリアンの異変や<騎士団>の西進等、裏の動きも徐々に大きくなっている。
『ナガト』は表向き日本近海の巡航艦隊旗艦の役割を果たしながら、同時にそうした世界の動きも注視していた。
自ら何かをすると言うことは無かったが、『ヤマト』の前に総旗艦であった『ナガト』に取り、関心を抱かずにはいられないのか。
あるいは、そうした興味以上の何かを見ているのかもしれない。
「貴女はどう思う? ――――『コンゴウ』?」
「――――別に」
海中から現れるそのやり方は、以前彼女自身が「好きでは無い」と言った方法だ。
どう言う風の吹き回しなのか、今回はそれで現れた。
あの硫黄島の戦い以降、ずっと『ハシラジマ』のドックで療養していた大戦艦――『コンゴウ』は。
「どうと言うことは無い。不思議とすっきりとした気分ではあるがな」
「艦体のほとんどを新しいナノマテリアルで再構成したから、そのせいかしら」
「ナノマテリアルの古い新しいに、そういう違いは無い」
あるいは、精一杯やった結果の敗戦だったからか。
人間的な表現をするのであれば、そう言うことになるのだろう。
まぁ、復讐とか言う感情はそれこそ霧には存在しない感情なのだが。
とにかく、『コンゴウ』の復活もまた大きな動きの1つには違いない。
これで日本近海の海洋封鎖はより完全なものになるし、それこそ千早兄妹が帰還する時にはより完璧な包囲網を敷けるようになるだろう。
それもまた、悪いことでは無い。
それにしても、と、『ナガト』は思った。
(このタイミングで『コンゴウ』が目覚めてくるだなんて)
まるで、自分を
そう思って、2人の『ナガト』は目を細める。
そしてその目鼻の先で、『ヤマト』上での異変は続いているのだった。
◆ ◆ ◆
あり得ないことが起こった。
「――――? ――――?」
『ヤマト』の、あの最大最強の霧の総旗艦『ヤマト』のメンタルモデルの視界が、あろうことかブラックアウトしたのだ。
それはまさに一瞬のことで、時間にすれば1秒にも満たない刹那の間だ。
しかしその一瞬で、何もかもが変わる。
「あ……?」
長い髪とスカートが翻るその様は、ダンスのようにも見える。
だが事はダンスのように優雅でも無く、また穏やかでも無い。
『ヤマト』は、タカオに頬を
あり得ないことだった。
攻撃されたことでは無い。
攻撃
何故ならば『ヤマト』がタカオのコアに仕掛けた「戒めの輪」が、それを阻止するはずだからだ。
無理に動こうとすれば、コア内のデータそのものに致命的な損傷が起こる、はずだ。
「アンチ、ウイルス……?」
『ヤマト』の戒めの輪に対する対抗プログラム、それが無ければ無理だ。
そして、
タカオがプログラムした?
そんな演算力がタカオに?
だが現実に、今、タカオは『ヤマト』に牙を向いているのだった。
「うおっ……りゃあああああああっ!!」
「くっ」
攻撃は続行されている。
再び振り下ろされる踵、しかし今度はかわせず、防御も簡単では無かった。
手を掲げて障壁を張り、受け止める。
障壁にクモの巣状の罅が入り、『ヤマト』が苦悶の表情と共に膝をついた。
「お……おいタカオ! お前なにやって――――……」
『キリシマ』達が泡を食って立ち上がるのと、同時に表情を一瞬消して立ち尽くすのにほとんどタイムラグは無かった。
タカオから発されたアンチウイルス――『ヤマト』の記憶(記録)改竄と「戒めの輪」の解除――によって、数瞬の再設定が行われたのだ。
じきに再設定が終わり、再起動するだろう。
(おかしい)
何もかもが上手くいっているのに、比例してタカオの中で不審が増していった。
今の自分の状況は、十二分に出来すぎている。
あの『ヤマト』を出し抜き、一撃を返し、押しているのだ。
だが有利なはずのその状況に、タカオの表情は晴れない。
あり得ないのだ。
重巡洋艦クラスの演算力しか持たない『タカオ』が、総旗艦――それも超戦艦たる『ヤマト』を押さえるなど、本来はあり得ない。
絶無にして、皆無なのだ。
人間のように「努力と根性」でどうにかなるようなものでは無い。
霧の艦艇が生まれたその瞬間にある、絶対的な
(『ヤマト』が、こんな……)
そうでなければ、あの『ナガト』や『コンゴウ』たち、霧の旗艦達が彼女を総旗艦として仰ぎ見るはずが無い。
霧の名だたる大戦艦達が、それでも「従う」と言う選択をしなければならない程の存在が。
それが、まさか
「そこまでにしようか、タカオ」
甲高い音を立てて、その場に発生していたエネルギーが全て掻き消えた。
急に支えを失って、タカオは着地した後もたたらを踏んでしまった。
そうして2歩進んだ先で、タカオは誰かの足を見た。
『ヤマト』とは違う、ロングスカートに覆われていない、剥き出しの素足。
――――指。
目の前に、人差し指を突き付けられていた。
女の指だ。
そしてその女は、『ヤマト』を守るように自分の前に立っている。
「アンタは……!」
もう1人の『ヤマト』。
その少女の指先が輝いた次の瞬間、タカオの視界が光で覆い尽くされた。
そして、吹き飛ばされた。
◆ ◆ ◆
『ヤマト』の主砲に後頭部をぶつけた。
生身の人間であれば、まず間違いなく首から上が千切れて死んでいただろう。
そのままの勢いでさらに後ろへと身体は吹き飛ぶ、後頭部を引っ掛けて背中が主砲に打ち付けられる。
メンタルモデルの身体が跳ね、主砲の台座に頭から落ちた後、ようやく甲板に倒れ込んだ。
繰り返すが、人間ならば死んでいる。
それでも見た目は無傷で済んでいるのは、ひとえにタカオの身体がメンタルモデルだからだ。
とは言え、ノーダメージと言うわけでは無い。
むしろ外傷に表れない分、メンタルモデルのダメージはより深刻だった。
「あの時、沙保里のおばさまが撃たれた時」
まだ右腕しかまともに動かせず、這うようにして頭を上げることしか出来ない。
そのタカオの頭上に、声が降りてくる。
まるで、託宣か何かのように。
「北海道でタカオは、『アドミラリティ・コード』と接触していたよね」
北海道で沙保里が撃たれた時。
ああ、今は全てをクリーンに思い出せる。
失われていた記憶(記録)が、すべて戻っていた。
だから、あの時の屈辱も哀しみも思い出すことが出来る。
そして、『アドミラリティ・コード』。
あの時、暴走しかけたタカオの衝動を抑制し、正常な状態にまで落ち着かせた存在。
微かに存在を感じられるだけだったが、確かにそうだった。
『アドミラリティ・コード』とタカオは、確かに接触を持った。
「その時、すでにアンチウイルスが仕込まれていたんだ。『アドミラリティ・コード』が霧を本来の役割に戻すために、「戒めの輪」の呪縛を解けるように」
先読みと言うより、予言に近い。
どうして『アドミラリティ・コード』がそうしたプログラムをタカオの中に仕込んでいたのかはわからないが、確かに役には立ったようだ。
霧の厳格な階級社会の中で、タカオは――タカオ達は独立できるようになった。
まるで、
「アンタは……もう1人のメンタルモデル!」
「『コトノ』……で、良いよ。タカオ」
タカオを吹き飛ばした指を振りながら、『コトノ』――コトノは、微笑んだ。
首を傾げると、栗色の髪がさらりと頬を流れた。
容貌は『ヤマト』に良く似ているが、別固体だ。
「まったく、『ヤマト』をあんまりいじめないであげてね」
(ちょ、何よコイツ。あり得ない……!)
ジジッ……と両の瞳に電子の光を走らせて、タカオは戦慄した。
見た目は穏やかな美少女と言った風だが、このコトノ、尋常では無く――――
コトノの後ろで未だ膝をついている『ヤマト』と比べても、タカオが計測できる演算力は倍以上あった。
超戦艦『ヤマト』の演算力の、2倍以上。
あまりにも化物過ぎて――しかもあくまで予測値のため
「『ヤマト』の力はもう、ほとんど私が貰っちゃってるんだから」
タカオの戦慄を知ってか知らずか、コトノはそう言った。
その表情は、あくまで穏やかな微笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◆
勝てない。
絶望的なまでに、タカオはそう確信していた。
それはアタゴ達も同じ様子で、コトノに対して一切の手出しが出来ずにいる。
どう頑張っても勝利する未来を描けない、そんな状態だった。
「天羽琴乃」
少しずつ自分が吹き飛ばしたタカオへと歩み寄りながら、コトノは言った。
静かに。
淡々と。
微笑みを浮かべて。
「私はほんの少し前まで、そう呼ばれていたわ」
それは、千早兄妹のデータを調べた時にも出てくる名前だ。
そして、メンタルモデル『コトノ』と余りにも酷似した容姿の少女。
無関係とは思えなかったが、やはり同一人物だった。
と言うより、タカオはコトノに近い存在をすでに知っている。
「千早紀沙も、いずれアンタみたいになるってわけ?」
そして、自分達を行き着いた先の存在であるとするのなら。
ならば、自分達は――霧のメンタルモデルとは。
「知っているでしょう、タカオ? 私達の最初の名前。霧って呼ばれ始める前の名前」
「…………
それだけで、全てがわかった。
千早紀沙がいずれ
そしてコトノが、「あと一歩」の状態で留まっていることも。
「ねぇ、タカオ。このまま大人しく霧の重巡洋艦に戻ってくれないかな?」
何もかもを忘れて。
イ号潜水艦と出会う以前の、ただの『タカオ』に戻るべし。
コトノはそう言って、タカオに向けて人差し指を向けた。
指先に灯る光は、タカオの記憶領域にまで容易に干渉してくるだろう。
そしてその干渉に、タカオは対抗することが出来ない。
おそらく、抵抗らしい抵抗を見せることも出来ないだろう。
それ程、コトノの力は大きかった。
力の差が余りにもはっきりと感じ取れて、あのタカオをしてそう思わせてしまうのだ。
だが、それでもタカオは。
「い・や・よ」
それでもタカオは、拒否した。
たとえ適わないにしても、無抵抗のままに相手の意のままになることを是とはしなかった。
それだけは、絶対に受け入れられなかった。
そんなタカオに対して、コトノが言った。
「どうして? 負けたくないって意地?」
「それもあるわ。でもそれだけじゃない」
「じゃあ、今までを忘れてしまうことが怖い?」
「それもあるわ。でも、それだけじゃあ無い」
「じゃあ、何?」
「……私は、ただ」
勝てないのは良い。
挑まないのは論外、諦めるのは埒外だ。
でも、そう言うことでは無いのだ。
今のタカオにとって、彼女の心を最も支えている気持ちは。
「私はただ、千早沙保里に誠実でいたいだけよ」
沙保里にだけは、胸を張れる在り様でいたい。
それは、今のタカオの偽らざる本音だった。
タカオと言う存在は、千早沙保里に誠実であり続ける。
勝利も敗北も、それを踏まえて初めて意味があるのだと信じていた。
そんなタカオを、コトノはじっと見つめていた。
唇が微かに動き、「誠実でいたい……か」、と言う声が聞こえた。
近くにいるタカオ以外には、おそらく聞こえなかっただろう。
ただその言葉を口にした時、コトノは確かに眉を寄せた。
微笑みが、困ったようなそれに変わる。
「あーあ!」
と大きな声を上げて、手を挙げた。
タカオに向けていた手を、両手を挙げた。
降参、とでも言うようにだ。
そして『ヤマト』を振り向いて見せると、歯を見せた笑みで。
「独り立ちされるって、寂しいものなんだね。『ヤマト』」
毒気を抜かれたような顔をしているタカオを横目に、コトノは彼方へと視線を向けた。
その視線の先には、いろいろなものが視えている。
「後は……横須賀、かな」
横須賀、すべての始まりの地。
どうやら、始まりの場所へと戻る時が近付いているようだ。
コトノは、そう思っていた。
◆ ◆ ◆
――――そして、その横須賀である。
そこでは今また、新しい動きが生まれようとしていた。
「あー……」
今、統制軍で陰日向に話題に上る艦がある。
イ401? イ404?
いや違う、長い太平洋の航海から戻った『白鯨』である。
イ号潜水艦と共に霧との戦いを潜り抜けたかの潜水艦は、日本の統制軍で今や知らぬ者のいない存在になっていたのだ。
「退屈だ」
とは言え、である。
潜水艦――と言うよりは、軍艦は戦うための艦である。
戦いが無い時、あるいは合っても出撃できない時の軍艦ほど暇なものは無い。
デスクワークや訓練はあるが、特に実戦を知っていると、つい気が抜けてしまう瞬間がある。
例えば今のように、だ。
特に駒城のような艦長、上級士官クラスになってくるとその傾向は強くなる。
このクラスになると訓練中でも艦橋を動かないことの方が多いので、予定調和の訓練中には暇を感じる瞬間が多々あるのだ。
そして、『白鯨』首脳陣にとってもそれは例外では無いようで。
「不謹慎だぞ、クルツ」
「不謹慎だろうと何だろうと、このままじゃオレも部下達も腕も気も鈍ってしまうよ」
相も変わらず艦橋に入り浸っているクルツだが、言っていることには一理ある。
やはり、兵隊と言うのは実戦を経なければ本当の意味で強くはならないのだ。
例え実際に戦わなくとも、戦場に出ているだけで感じる空気がまるで違うのだ。
特にクルツ達のような海兵隊コマンドは、そう言う経験が何よりも大事なのだから。
だからこうして何事も無い、と言うのが、実は一番の天敵なのである。
それは、駒城にもわかるのだった。
だが浦上も上陰も何も言って来ない以上、『白鯨』の出番は無い、と言うことだった。
ならば、待つしかない。
命令があるまで待つと言うのも、軍人には必要なのだった。
(そういえば)
あの人はどうしているだろう、と、駒城は思った。
イ401の元クルーであり、『白鯨』にオブザーバーとして乗り込んできた彼女。
はっとするのに美しいのに、印象に残るのは切なそうな表情。
そんな彼女の表情を忘れることが出来なくて、駒城はたまにこうして思いを巡らせるのだった。
彼女は、響真瑠璃は、どうしているだろうかと。
「…………」
この時、真瑠璃は確たる足場を持っていなかった。
『白鯨』での任務を終えて大尉――紀沙程では無いが、大きな出世だ――の肩書きを与えられてはいたが、はっきりとした所属も無く、士官用の宿舎で過ごす毎日だった。
官舎の自室で、時折鳴り響く携帯端末を傍らに置き、操作して日々を過ごしていた。
たまに思い出したように出掛けたりもするが、それも長い時間ではなかった。
「……そろそろね」
携帯端末の画面だけを照明とした薄暗い自室で、真瑠璃はそう呟いた。
また一つ、メールの到着を知らせる電子音が鳴り響いた。
そろそろ、だ。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
次回はついに真瑠璃回です。
原作でもイマイチ立ち位置がわからないキャラクターですが、上手く設定できれば良いなと思っています。
それでは、また次回。