蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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Depth073:「暗闇の中で」

 とにかく、このままじっとしていても仕方が無い。

 そう判断した紀沙達だったが、一方で明確な指針があったわけでは無かった。

 何しろ、セヴァストポリの街は広大である。

 市街地だけでも相当の広さで、隈なく探そうと思えば何日かかるかわからなかった。

 

 

「なんつーか、何ヶ月か前までは人が住んでましたって感じだな」

 

 

 民家に入ると、随分と空気が篭っていた。

 長い間換気をしていないし、掃除もしていない、人がいた気配が僅かに残っているくらいだ。

 台所等は腐海と化しているので、近付く気にはなれなかった。

 埃も積もっていて、歩くと足跡がくっきりと残る程だ。

 

 

 冬馬の言う通り、何ヶ月か前までは人が住んでいた、と言った様子だ。

 ただ1軒や2軒ならともかく、街全体がこんな様子なのだ。

 何の前触れも無く、突然消えたと言われれば納得も出来るだろう。

 しかし、そんなことが起こり得るのだろうか。

 

 

「うーわ。服にキノコとかほんとに生えるんだなー冬なのに」

「何をやっているんですか……」

 

 

 ダイニングでソファ――もちろん、埃塗れだ――のあたりにいた冬馬が、脱ぎ捨てられていた衣服らしきものを持っていた。

 女性物だったので一瞬呆れた紀沙だったが、ダイニングの他の場所に、おそらく男物と子ども物の衣服が無造作に()()()()()()、表情を変えた。

 洗濯物を放置している、にしては余りにも不自然だった。

 

 

「非常時と言うことであれば、普通は住人全体に避難勧告が出されるのでは?」

「まぁ、そうですよね」

 

 

 黙り込んだ紀沙に、静菜がそう言ってくる。

 確かに、<騎士団>侵攻に合わせて避難勧告が出ていても不思議では無い。

 しかし目の前の状況は、そう言うものとは違う気もした。

 だが今は、静菜の説に乗って行動する他に指針が無かった。

 

 

「蒔絵ちゃん、このあたりで大人数が避難できる場所ってどこかある? 今の時代、この規模の都市ならシェルターくらいあると思うんだけど」

『んー、ちょっと待ってね……うーん、シェルターとはちょっと違うけど』

「なに? どこ?」

 

 

 セヴァストポリは広い、その市域は市街地だけでは無く、近隣の無人地帯にまで広がっている。

 かつては軍事都市として閉鎖されていた場所もあるくらいだ、シェルターくらいあってもおかしくは無い。

 あるいは、全員とは言わなくとも、いくらかの住民はそこにいるのかもしれない。

 

 

『それだけの大規模な人数を収容できそうな空間は、街の東側――バラクラヴァ』

 

 

 セヴァストポリを構成する区域のひとつ、都市の東端だ。

 そこに、セヴァストポリの人々はいるのだろうか。

 言いようの無い不安と共に、紀沙は東へと向かうのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 バラクラヴァ地区の「大規模な人数を収容できそうな空間」は、実際に広かった。

 意外に奥深い空間で、内陸の山をくり貫いて空間を広げているのでは無いかと思われた。

 ただ、ここに人々が現在も避難しているのかと言うと、そうとは思えなかった。 

 

 

「なぁ、ここってひょっとしなくてもヤバいんじゃないか?」

 

 

 施設自体には、簡単に入ることが出来た。

 沿岸部の蒔絵が示した座標に行くと、岩盤に偽装した入口を発見した。

 と言っても、擬装用の岩を模した鋼板は剥がれ落ちていて、電気が通っていないのか電子式のロックは手動で破壊するしか無かった。

 

 

 中は真っ暗だが、ライトで照らした限りは鋼鉄の箱をいくつも溶接したような構造だった。

 シェルターと言うよりは、車両や航空機の駐機場と言った方がイメージしやすいかもしれない。

 繰り返すが、ここはシェルターでは無い。

 明らかに、絶対にだ。

 何故なら。

 

 

核の(ハザード)シンボル……」

 

 

 黄色時に、黒い3つの扇のマークが、3人の目の前にあった。

 大多数の人間を避難させようと言う場所に、こんなものは描かない。

 むしろこのマークは、逆に効果をもたらすために描かれるものだ。

 ただ、少し気になる部分もあった。

 

 

「……古いですね」

 

 

 シンボルマークが、薄汚れて半分近く消えていたのだ。

 静菜が手の甲でざっと拭き取ると、埃と土が混じり合った塊がこそげ落ちた。

 足元を良く照らしてみると、枯れた葉や樹脂の塊のようなものがそこかしこに落ちていた。

 どこか、ぬるぬるとした感触も足裏に感じる。

 ヘドロか何かだろうが、気持ちの良いものでは無かった。

 

 

「今日び原子力発電所なんて古い施設、動かしてるとこはねーだろ」

「そうですね。言われてみれば」

 

 

 ロシアならあり得るかもしれないが、天然資源の輸送に支障をきたしている今の時代、太陽光や風力等が人類のエネルギー源だ。

 火力や原子力のような、資源依存型の発電所を稼動させている国はほとんど存在しない。

 後の可能性として考えられるのは、軍事施設だろう。

 

 

「でも、クリミアに核兵器の施設なんて無いだろ。紛争地帯だぞ」

「それも、そうなんですよね」

 

 

 先にも言ったが、クリミア半島はロシアを含む近隣諸国の争奪の地だ。

 そんな場所に核兵器を貯蔵すると言うのは、余りにもリスクが高い。

 だから、ここはロシア軍の施設では無い。

 しかしシェルターでは無い、いったいここは何なのだろうか。

 

 

「蒔絵ちゃん、ここは? ……蒔絵ちゃん?」

『……おかし……報……違う。そこに……な物、ある……け……」

「……通信が」

 

 

 施設の中だからか?

 いや、霧の通信にそんな障害は存在しない。

 ならば、いやまさか、そんな。

 ()()()()()()()()()

 

 

「おい」

 

 

 緊張を孕んだ声で、冬馬が紀沙の肩を叩いた。

 ライトの光で照らされた顔は、いや紀沙と冬馬の間に、埃とは違う白いもやのようなものがあった。

 

 

()()()()()()()()?」

 

 

 瞬間、遠くで重い金属が動く音が聞こえて来た。

 まだ遠い、くぐもった重厚な音だ。

 それは紀沙達が通って来た入口の方から聞こえて来た。

 ――――罠だ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 自分達の領域への侵入を、<騎士団(彼ら)>が気付かないはずが無い。

 そしてもう一つ、彼らはクリミア半島内部を完全に掌握している。

 だからクリミア半島の中にある施設で、彼らが知らないものは存在しないのだ。

 

 

「半世紀以上も前のことになると、人間は自分達の持ち物のことすら忘れるらしい」

 

 

 グルルル、と、獣の唸り声が聞こえた。

 それは男の足元にすり寄ってきている数匹の犬……いや、オオカミが発したものだった。

 唸り声のように聞こえていたのは、甘えて喉を鳴らす音だったようだ。

 男はオオカミ達の鼻先に手の先を向けて、手指の動きで何か指示をしていた。

 

 

 周りのオオカミ達は、ふんふんと鼻を動かしながら男の手指の動きを追っている。

 どうやら、何かの匂いを感じ取っているらしい。

 灰色の、冷たい毛色のオオカミ達がゆっくりと奥へ進んでいく。

 オオカミ達が背にしているのは男と、朽ち果てつつある施設への入口。

 そして正面には、何人か――おそらく3、4人――の足跡。

 

 

「人間の意識をトレースするなどわけは無い。居住区の住民が消えてしまえば、近くに移動したと考えるだろう。そしてここは、空間的にはうってつけだ」

 

 

 この施設が稼動していたのは、半世紀以上も昔のことだ。

 しかし、その事実を隣接するセヴァストポリの住民でさえ()()()()()()

 セヴァストポリは軍事都市であり、表には艦隊の大規模な基地も設営されていた。

 だからセヴァストポリの住民も、海軍と言えばそれだと思い込んでいた。

 しかし、事実は違う。

 

 

「隠蔽された()()()()だよ、ここは」

 

 

 この施設はかつて、原子力潜水艦の秘密基地があった場所だ。

 とは言え『白鯨』のような完全に制御されたものでは無く、不完全な「海面下の原子炉」でしか無い代物だったが……とにかく、ここは原潜の基地だった。

 もはや、ロシア人ですら存在を忘れている場所だ。

 もちろん、原潜本体はとっくの昔に撤去されており、完全に放棄されて久しい。

 

 

「良し……もう良いだろう。……行け!」

 

 

 男が手を振って命じると、オオカミ達は男の周りを一周走って、それから施設の奥へと駆けて行った。

 床に不用意に残された足音と、微かに残った人間の匂いを追いかけて。

 人間の血肉で()()()()()彼らならば、短時間で獲物を見つけるだろう。

 人類軍の先駆けともされる存在だ、万が一にも逃がすわけにはいかない。

 

 

「さて、これで上手く狩り出されれば良し。オオカミ共がしくじっても、それはそれで良し」

 

 

 男は長身だった、180は越えている、2メートル近いかもしれない。

 軍帽に厚手のロングコートの男で、眼鏡のフレームには『IS-2』と刻まれていた。

 おそらく、それが名前なのだろう。

 霧と共に現れたその男は、隠すつもりも無い、<騎士団>の男だった。

 

 

「労力は、出来る限り少なくしたいものだな」

 

 

 先に紀沙達の前に姿を見せた『トルディ』達とは違う、重厚感のある雰囲気。

 霧に妖しく身を包ませているため、ともすればその身体は溶けて消えてしまいそうだ。

 そしてその中で、両の瞳だけが眼鏡の奥で白く妖しく輝いていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「……何か、獣の類のようですね。野犬のような」

 

 

 床に耳を当てていた静菜が、囁くような声でそう言った。

 野犬と言われると日本の野良犬を想像してしまうが、おそらく違うのだろう。

 多くの場合、外国の動物や昆虫は日本より大型で凶暴だったりする。

 大陸と島国の競争の激しさの違いとでも言おうが、そう言う傾向がある。

 と言って、単純なスケールアップと言うわけでも無いところが難しい。

 

 

「つまり何だ、野生の動物が入り込んで来たってことか?」

「それでは理由の半分です。何者かが放ったと言った感じです」

 

 

 静菜がそう判断した理由は2つ。

 第一、この施設――特に紀沙達がは海岸に面した岩盤に入口が築かれていること。

 つまり、野生の獣が自ら進んで入って来るような構造をしていない。

 第二、床の振動から感じる獣達の足音が、どこか訓練された足運びに聞こえたからだ。

 足音から、正確な数を割り出すことが出来ない。

 

 

「……こちらに、近付いてきているようですが」

 

 

 それも、真っ直ぐにだ。

 おそらくは自分達の足音を追ってきている、施設の構造も理解しているのかもしれない。

 だとすれば、やはりこれは罠だったのだ。

 

 

 ここだけでは無いだろうが、街の人々を探しに来ると踏んで張っていたのだろう。

 今にして思えば、<騎士団>側がこんな広大な空間を放置しているはずが無かったのだ。

 何らかの方法で自分達の動向を掴み、獣をけしかけてくる。

 今までに無いパターンだ、古くて新しいと言える。

 

 

「……足音が消えました」

 

 

 床から感じる振動すらも、消えた。

 これが何を意味するのかを考える、狩ら(ハントさ)れる側の心理で考える。

 そうすると、自ずから答えは出てくる。

 つまり、走る必要が無い距離にまで近付いてきたと言うことだ。

 

 

「危険です」

 

 

 今の自分達の状況を簡潔に伝えて、静菜は顔を上げた。

 もはや相手の足音を調べるまでも無い、と言うより、調べる意味が無い。

 迎え撃つか逃げるかの判断をするべき時だ。

 ただ、相手の数も種類もわからない以上、迎え撃つのは難しいのかもしれない。

 

 

「とりあえず、逃げましょう」

 

 

 そのため、紀沙の判断も簡潔だった。

 何が来るのかわからない以上、迎え撃つ選択肢は取れない。

 仮に本当に野犬だとしても、素手で相手にするのは御免被りたかった。

 

 

「ひとまず奥の方へ進みましょう、そこならまだ安全かもしれません」

 

 

 相手は入口側から来ているわけだから、奥に進めば距離を取れるはずだ。

 そう考えて、ひとまず奥へと角を一路進んだ、次の瞬間。

 

 

「――――ガウッ!」

 

 

 すでにそこに潜んでいた野犬……では無く、オオカミが、紀沙の顔目掛けて跳びかかってきた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 獣と言うものは、厄介である。

 人間と違って、「戦い」はほとんどしない。

 人間の言う「戦い」は相手との力比べのことだが、獣の「戦い」はそうでは無い。

 獣は、ただ相手を()()

 

 

「……ッ!」

 

 

 目の前を、オオカミの顔が擦過して行った。

 噛み合わされた牙、波打つ灰色の毛、こちらを睨む目、息遣いまでもが、すぐ間近に感じられた。

 もう一瞬気がつくのが遅れていれば、腕に噛み付かれていた。

 と言うか、腕を持っていかれていたかもしれない。

 

 

「どるぁっ!」

 

 

 紀沙を通り過ぎたオオカミに、冬馬が蹴りを加えていた。

 だがもちろん当たるはずも無く、オオカミは俊敏な動きでそれをかわした。

 距離を取ったオオカミは身を低くして、唸り声を上げる。

 

 

「冬馬さん!」

「走れ!」

 

 

 静菜が先頭を行き、紀沙、冬馬と続いた。

 後ろからはオオカミの呻き声が聞こえ続けていて、一定の距離でついて来ている気がした。

 と言うより、確実にそうしている。

 つまり追い立てられている。

 

 

 そう気がついていても、逃げないわけにも走らないわけにもいかない。

 床の振動で相手を探るという静菜のスキル――アメリカの時と言い正直、最近は忍者か何かなのでは無いかと思い始めている――が無ければ、さっきのも確実に噛まれていた。

 ただ、施設の間取りもわからずに走っているので、どこかで不味い事態になりかねない。

 

 

「ガウッ!」

「ガウガウルルルッ!」

 

 

 十字路に差し掛かった時、左右の道からオオカミが飛び出して来た。

 それは静菜と紀沙の間を遮る形でやって来て、しかも一匹が紀沙に唸り声を上げている間に、一匹が静菜に向かっていった。

 当然、静菜は逃げるしかない。

 最後には二匹ともが静菜の後を追って、通路の向こうに消えて行く静菜に紀沙は叫んだ。

 

 

「静菜さん!」

「よせ、後で合流すりゃ良い! あいつはニンジャガールだから大丈夫だろ!」

 

 

 理屈はともかく、追いかけられないのはわかった。

 むしろ静菜はこのために先を行っていたところもある、紀沙は歯軋りした。

 しかしぼうっともしていられない、すぐ後ろにさっきの一匹が迫っているのだ。

 ただ、静菜が駆けていった正面と後ろを除けば、左右にしか道は無い。

 左右は、さっき二匹のオオカミが駆けて来た通路だ。

 

 

「……右へ」

 

 

 ガタン、と、音がした。

 何事かと思って後ろを振り向けば、()()()()()()()()

 ああ、いや、足元に冬馬が持っていたライトが落ちている。

 だが、冬馬はいない。

 

 

「先に行ってろ、艦長! あ、そこのライト持ってけ!」

「冬馬さん、どこですか!?」

「俺のこたぁ良い! 後で追いかける――――行け!」

 

 

 暗闇の中から声だけが聞こえる。

 だが、近くにいる感じはしない。

 それと獣の唸り声、一匹のものでは無いように思う。

 逡巡。

 その後、ライトを拾って駆け出した。

 

 

「……ッ、誰が」

 

 

 右の通路を駆けながら、紀沙は呟いた。

 静菜は言っていた、あのオオカミ達は何者かが放ったものだと。

 ならば、その何者かがどこかにいるはずだ。

 しかし、今の紀沙にその居場所を突き止めることは出来ない。

 

 

『――――教えてやろうか、敵の居場所を』

 

 

 ……!

 蒔絵としか繋がっていないはずの――そして、蒔絵との通信が切れた今となっては誰とも繋がっていないはずの――通信機から、男の声が聞こえた。

 そして、もうひとつ驚くべきことに。

 紀沙は、その男のことを知っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 こと「狩り」において、獣ほど効率的に相手を追い詰める者はいない。

 現代の人間が行う狩りは趣味に過ぎないが、彼らにとっての狩りは生存戦略そのものだからだ。

 中でもオオカミの狩りは、執拗で容赦が無く、そして狡猾(こうかつ)だ。

 

 

「はっ……はっ……」

 

 

 少女が走る息遣いが、暗闇の通路に響いている。

 ライトは少女の先を照らしているから、その姿を視認することは出来なかった。

 ただ、真っ暗な空間で何かが動いていることはわかる。

 だがいくらライトがあるとは言っても、頼りない一本の光の線でしか無い。

 

 

 そして少女が駆けて行った後、少しして数匹の獣が暗闇を駆けて行った。

 もちろんそれらはライトなど持っていないので、まさに闇が蠢くと言った風だ。

 少女の後をほんの少し、それでいて僅かずつ距離を詰める形で彼らは少女を追っていた。

 その動きは、まさに狩る者のそれだった。

 

 

「きゃ……っ」

 

 

 少女の悲鳴と共に、ライトが床を転がった。

 囲まれたらしい。

 そして囲まれてしまえば、細腕の少女には何も出来ない。

 オオカミ達の動きが慌しく、残忍なものに変わったのがわかる。

 

 

 しばらくの間、少女のくぐもった声とオオカミ達の唸り声だけが暗闇に響いた。

 

 

 しかし、それもやがて聞こえなくなってくる。

 最後には聞こえてくるのはオオカミの唸り声だけになり、共に聞こえてくるのは、何かを引き千切るような音、咀嚼(そしゃく)するような音……。

 いずれにしても、聞いていて気持ちの良い音では無かった。

 

 

「労せずして、とはまさにこのことか」

 

 

 不意に、床に転がったライトを拾った者がいた。

 拾う必要など無いのにそうしたのは、興味か、あるいは単なる示威か、それとも気まぐれか。

 いずれにしても、眼鏡のフレームに『IS-2』と刻んだ<騎士団>の男は、未だ明かりを灯し続けるライトを手に取って佇んでいた。

 

 

「千早紀沙か。一目くらい顔を見ても良かったか」

 

 

 いや、やはり必要ない。

 そう言って、ライトを持ったまま男は踵を返した。

 通路の先では未だにオオカミ達の奏でる残酷な音が続いている。

 しかしそれすら興味が無いのか、男はそのまま一歩を踏み出そうとして。

 

 

「こんにちは」

 

 

 そして、待ち構えていたかのように立っていた少女に。

 

 

「夢でも見ていたんですか?」

 

 

 いや、実際に待ち構えていたのだ。

 そこにいたのは、()()()()だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「ああ、<騎士団(お前達)>もそんな顔をするんだな」

 

 

 心底驚いている、と言った顔をした『IS-2』に、紀沙は――()()()紀沙は、ほんの少し溜飲が下がった気分だった。

 しかしそれも束の間のことで、すぐに元の澄ました顔に戻った『IS-2』は、今もオオカミ達の唸り声が響く通路の奥へと目を向けた。

 人形じみた動きは、彼がまだメンタルモデルを得て日が浅いことを物語っていた。

 

 

「興味深い現象だ」

 

 

 『IS-2』自身に気取られない形で偽物と入れ替わっていたこともそうだが、単純に同じ人間が2人に増えたことに興味を抱いた様子だった。

 だが、彼はすぐにそれがナノマテリアルによって引き起こされた事態であると理解した。

 一方で、やはり疑問は残った。

 

 

 何故なら紀沙には、人体1個を偽装できる程の――それも、<騎士団>の眼を欺く程にリアルなものを用意できるだけのナノマテリアルは無いからだ。

 イ404に乗っていた頃ならいざ知らず、イ15にそんなナノマテリアルの余裕は無い。

 肉体の何割かがナノマテリアルに置き換わっているからと言って、それでも紀沙はメンタルモデルでは無いのだ。

 

 

「どうやったのだ? 私の眼から見て、お前にナノマテリアルを用いた偽装は出来ないはずだ」

 

 

 正直に言って、紀沙は『IS-2』にとって脅威では無い。

 今この瞬間にも、(くび)り殺そうとすれば簡単にそうできるはずだ。

 そうしないのは、余裕と言うよりは、単純な興味の方が強いのだろう。

 自身が持ち得ない答えを持っているかもしれない相手を前に、始末をつけることを保留したに過ぎない。

 

 

「そうだね、否定はしないよ」

 

 

 と言うか、否定しても意味が無い。

 イ404を失っている今、紀沙には拳銃の一つも無い。

 丸腰のまま敵地に乗り込み、獣に追いやられて()()()()()()()()()()のが今の紀沙だ。

 だから、これは紀沙の力によるものでは無い。

 

 

「私も意外だったんだ、まさかってさ」

「何だ、何を言っている?」

「なにって? それは今、お前が聞いてきたんだ。<騎士団>、お前が私に質問したんだ」

「お前の言っていることの意味がわからない」

「わからない? そうだろうさ、私だってわからなかったんだから」

 

 

 落ち着いた声音で、紀沙は言った。

 紀沙がどうやって、この窮地を脱したのか。

 彼女がどうやって、オオカミ達の牙から逃れ、『IS-2』に悟られることなく、状況を自分に優位に運んだのか。

 

 

 ……いや、それは表現が正しくない。

 正しくは、紀沙は何もしていない。

 今のこの状況は、紀沙の意思によるものでは無い。

 紀沙はただ、流れに乗ったに過ぎない。

 だからだろうか、紀沙の表情に晴れやかさの類は少なかった。

 

 

「まさか」

 

 

 不意に、すべての音が消えた。

 つまり、オオカミ達の唸り声が消えて、静まり返った。

 

 

「まさか、お前に助けられるとは思わなかった――――()()()()

 

 

 紀沙がそう言った、次の瞬間。

 Uボート、U-2501のメンタルモデルが、無風の通路で金色の髪を靡かせながら『IS-2』の背後に姿を現した。

 『IS-2』の眼が、瞳の動きだけでその事実に気付き――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 目の前で繰り広げられた攻防は、紀沙の眼ではまだ追えないものだった。

 こちら側とあちら側、2つの世界で同時に行われたそれは、まさに電子の速度で行われていた。

 紀沙の眼には、ただ『IS-2』と『U-2501』が交錯したと言う事実だけが残った。

 暗い通路の中に、火花が散った。

 

 

「――――なるほど」

 

 

 得心がいったと言う風に、『IS-2』は頷いた。

 それは、紀沙の偽物の正体を知ったから出た言葉だ。

 どうやったのかはわからないが、紀沙と同時期か紀沙より先にこの施設の中に入り込み、『IS-2』の眼を欺いて紀沙と入れ替わったのだ。

 

 

「潜水艦風情にしては、器用な真似をする」

 

 

 オオカミ達がどうなったのか、『IS-2』には聞くつもりすら無かった。

 元々頼りにも恃みにもしていなかったし、人間のように動物に情を持ったりもしない。

 ただ、使えたから飼っていただけだ。

 使えないならば、どうなろうと知ったことでは無い。

 

 

 むしろ今は、『U-2501』が敵同士だったはずの――少なくとも、『IS-2』が知っている限りでは――紀沙を助けたことの方が疑問だった。

 昨日の敵は今日の友と言う言葉があるのは知っているが、それが言葉ほどに容易いものでは無いことは、それこそ言うまでも無い。

 しかし、現実に『U-2501』は紀沙を守っている。

 

 

「やりますか?」

「いや、やめておこう」

 

 

 先の一瞬の攻防の内に立ち位置が入れ替わり、紀沙を背にしている『U-2501』。

 戦って、勝てないほどに実力差があるわけでは無いだろう。

 しかし『IS-2』は、当初の予定に無い事態が起こったことを重要視していた。

 一度起こった「予定外」が二度、三度と続かない保証は無い。

 そうである以上、『IS-2』はこの場に長く留まるつもりは無かった。

 

 

「これは貸しにしておこう、霧のUボート」

「……ッ、待て!」

 

 

 何かを察した『U-2501』が駆け出すが、間に合わなかった。

 閃光弾かそれに類する何かをした『IS-2』が強烈な光を放ち――暗闇に慣れた目には相当に効いた――姿を消した。

 2歩進んだところで足を止めた『U-2501』は歯噛みして、後を追おうとしたようだが……。

 

 

「追わなくて良い」

 

 

 足音を隠すことなく、その男はやって来た。

 そして『U-2501』はその男の言葉を良く聞いた、『IS-2』を追うのをやめたのである。

 大人しそうに見えて好戦的な『U-2501』、そんな彼女が絶対的に盲従する相手が1人だけいる。

 己が所属する艦隊の長よりも、自身の艦長を優先すると言う妄信ぶり。

 

 

「久しぶり、と言うべきなのかな」

 

 

 『U-2501』の主は、じろりと紀沙へと目を向けて来た。

 

 

「千早紀沙」

「そうだね。久しぶり、ゾルダン・スターク」

 

 

 長身の男――ゾルダンは、片方の手をポケットにいれたまま、ぞんざいな態度でそこにいた。

 久しぶりと言うには、聊か早い再会であった。




投稿キャラクター:

IS-2 : ゲオザーグ様

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます。
ゾルダン再登場です。
彼にもまだまだ頑張って貰います。

それでは、また次回。

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