蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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Depth076:「繭」

 

 気を失っていたのは、ほんの数分のことだったと思う。

 身体の痛みで、紀沙は目を覚ました。

 頬や手に当たる水滴も、鬱陶(うっとう)しかった。

 

 

「う……?」

 

 

 大分、身体が濡れていた。

 身を起こすために手をかけた岩肌もぬるりとしていて、随分と水気の多いところにいるのだな、と思った。

 そして痛む頭を押さえながら周囲に目をやった紀沙は、宮殿との環境の違いに驚いた。

 本当に同じ場所なのかと、そう思える程だった。

 

 

 遠くに見える天井の光……と言うにはぼんやりとし過ぎているが、あれが元いた場所だろうか。

 あの位置から落ちて無事と言うのは、よほど運が良かったのだろう。

 周りは黒い岩壁しかなく、灯りなのか、ところどころの割れ目や隙間に何かが光っていた。

 岩壁は等しく濡れていて、どうやら上から水が流れ落ちてきているようだった。

 

 

「宮殿の下に、こんな空間が……」

 

 

 紀沙がいる場所は、まだ底ではなかった。

 どうやら下へ行く程に狭くなっているのか、外延部は斜面になっていた。

 落ちた距離に対して怪我が少ないのは、途中から斜面を転がり落ちる形になったためだろう。

 それでも岩の斜面を転がる以上、ノーダメージとはいかない。

 そうだ、冬馬と静菜は無事だろうか――何となくあの2人は大丈夫そうな気がするが、一応。

 

 

「ふ」

「敵地で大声を出すのは感心しないな」

「……っ、あ、ゾルダン。……さん」

「敬称はいらない。友軍と言うわけじゃないからな」

 

 

 岩陰から、ゾルダンが姿を現した。

 一番爆心地に近かったはずだが、むしろ紀沙よりも無傷な様子だ。

 あたりを警戒しているのか、それとも冬馬と静菜の姿を一応探しているのか、左右を見回している。

 

 

「もう気付いているだろうが、ここが<騎士団>の本当の本拠地だ」

 

 

 気付いている、と言うのは、周りの環境だけでは無い。

 先程は灯りと言ったが、岩壁の間から漏れているのはナノマテリアルの光だ。

 そして大木の根の如く、岩壁を貫いているのは、同じくナノマテリアルの構成体(ケーブル)だ。

 なるほど、<騎士団>の本拠地。

 <騎士団>は、このケーブルを通してナノマテリアルを供給されているのだろう。

 

 

 だが、気になることがある。

 霧の艦艇は広い海洋のいくつかのポイントにナノマテリアルの補給地を築いている、<蒼き鋼>の硫黄島がそうだったようにだ。

 だが彼女達は、海中のナノマテリアルを使用可能な状態に()()している。

 だが海の無い陸地で、<騎士団>はどうやってナノマテリアルを精製しているのだろうか。

 

 

「この先に奴らの中枢がある。行くぞ」

 

 

 ゾルダンは、さらに下層を示した。

 中枢、<騎士団>の心臓部。

 そこはかとない不安を抱いたまま、紀沙は痛む身体を押して、先へと進むのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 何だあれは。

 それが、「底」まで降りた時の紀沙の率直な感想だった。

 

 

「まるで繭だな」

 

 

 (まゆ)、それはゾルダンの表現だった。

 それに紀沙はなるほどと思った。

 実際、それは確かに繭に似ていた。

 ただし白く柔らかな繭のイメージとは程遠く、その「繭」は黒い蔓に覆われた禍々しい姿をしていた。

 

 

 穴の底、地底に根を張り、確かな脈動を足裏から伝えてくる。

 脈動、そう、その繭は生きていた。

 内側に抱えた何かの力強さを、いやでも感じさせた。

 しかもその感覚は、早鐘を打つ心臓の如く、徐々に狭まってきている。

 

 

「ここが中枢だ」

 

 

 先に降りたゾルダンが手を差し伸べてきたがそれは無視して、紀沙も降りた。

 底に、足を踏み入れた。

 香りからして海水のようで、入ると紀沙の太腿(ふともも)までの深さがあった。

 冬の海水は、肌を刺すように冷たい。

 

 

 近くで見ると、その繭は思ったよりも機械的であることに気付いた。

 木の蔓のように見えたものは樹脂製のケーブルで、それがとぐろを巻く形で何かを覆い隠していたのだ。

 手すりや階段の名残が見えるから、ケーブルの下には何かの設備があるのだろう。

 部屋なのかカプセルなのか、それは窺い知ることは出来なかった。

 

 

「気をつけろ」

「わかってる」

 

 

 とは言っても、何を気をつければ良いのかは微妙なところだ。

 何しろ、この繭がいったい何なのかわからないのだ。

 わかっていることは、他と違い、底を覆うケーブルが実物であると言うことだ。

 これは意外だった。

 

 

「ロシア語、かな。いや、ドイツ語……?」

 

 

 錆と苔で覆われたケーブルの表面には、人類の言語が見える。

 ナノマテリアル製ではない、実物であることを示すものだ。

 ただ、紀沙には読めない言語だ。

 いつの時代のものかもわからない。

 

 

 不気味だ。

 いや、この空間の雰囲気もそうだが、<騎士団>がひとりも出てこないことが不気味だった。

 ここは<騎士団>の心臓部なのではなかったのか?

 そこに近付く者がいることに気がつかないわけが無いだろうに、何故誰も出てこないのか。

 

 

「なっ!?」

 

 

 その時だった。

 ケーブルに触れたまま立ち上がり、顔を上げた瞬間だった。

 <騎士団>? 『ビスマルク』?

 いや、そのどちらでも無い。

 

 

 腕だ。

 

 

 人間の腕が、繭を突き破って出てきたのだ。

 それはまさに紀沙の目の前、鼻先を掠める程の位置にまで伸びてきて、驚いた紀沙が身を下げなければ、顔を掴まれたかもしれない。

 何かの粘液に濡れているその腕は、何かを求めるように掌を開閉させていた……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 反射的に、飛びずさった。

 その判断は間違っていなかった。

 繭の中から突き出てきた「腕」は、()()()()()()()()

 幾本も幾本も、ケーブルの隙間から、あるいはケーブルを突き破って、何かを求めるように蠢いていた。

 

 

「腕!?」

 

 

 中には、明らかにスペースが無いのに、ほぼ同じ場所から「腕」が蠢いている箇所があった。

 「腕」はそれぞれに違う。

 男のようであり、女のようであり、老人のようであり、子どものようでもあった。

 ただ、一様に何かを求めるように掌を開閉させている。

 繭の下の方から生えた「腕」など、床の海水を掻いては捨てると言うことを繰り返していた。

 

 

「繭だけでは無いな」

「え……ッ!」

 

 

 ゾルダンの言葉に顔を上げれば、目を覆いたくなるような光景がそこに広がっていた。

 岩壁を覆うように根を張っていたナノマテリアルのケーブル、その内側から、無数の「腕」が次々に生えてきていた。

 何かを求めるように蠢く「腕」が、一体となって掌を開閉し、肘を曲げている。

 まるで、出来の悪いB級映画のようだ。

 

 

 自然、紀沙とゾルダンは背中を合わせる形になった。

 お互いと言う名の足場しか、もはや紀沙達には残されていなかったからだ。

 足元のケーブルからも、「腕」が伸びている。

 水面下にもいるようで、何かが蠢いている気配を感じることが出来る。

 

 

「不味いな、これでは動きが取れん」

「これっていったいどう言う状況!?」

「わからん。だが、一つだけ言えることがある。こいつらがクリミアの住民達だと言うことだ」

「……は?」

 

 

 クリミアの住民達?

 脳裏を掠めるのは、突然住人が消えたかのような家々。

 セヴァストポリ、そしてヤルタ。

 その住民達が、この腕だと?

 

 

「言ったはずだ。お前なら心当たりがあるだろうと」

 

 

 心当たり……?

 ゾルダンとクリミアや<騎士団>占領地の住人に関して会話をした時も、違和感を持った。

 紀沙ならばある心当たりとは、何だ。

 考えてみたが、すぐには思い当たらなかった。

 と、言うより……。

 

 

「……………………まさか」

「ええ、そのまさか」

 

 

 ……単純に、思考の埒外に()()()押しのけていたからか。

 そしてその「まさか」を肯定するかのように、繭の陰から、太陽と月の時計を腰に下げた、双子が姿を現した。

 双子――『ビスマルク』は言った。

 

 

「彼らはすでに、肉体のすべてをナノマテリアルに還元されている」

「すなわち、我らが父の御為に」

 

 

 残酷で、醜悪な現実を。

 数百万と言う命を我が物にしたと、冷たい目と表情でそう告げたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 はじまった。

 はじまってしまった。

 ――――はじまってしまった!

 

 

「黒海の対<騎士団>決戦艦隊以外の霧の艦艇に告げます」

 

 

 『ヤマト』が隣でそう口にするのを、コトノは黙って聞いていた。

 他の旗艦級の霧にコトノの存在を知られるのは好ましいことでは無いし、『ヤマト』は立派に総旗艦をやれているのだから、あえてコトノがちょっかいをかける必要は無いのだ。

 だからコトノは、黙って黒海の様子を窺っていた。

 

 

 黒海には『ユキカゼ』や『イ8』という、コトノの眼になってくれる霧の艦艇が何隻かいる。

 それらを通して、コトノはクリミアの戦況を窺い知ることが出来た。

 そして今は、『ヤマト』に代わって『ムサシ』がいる。

 あの千早翔像が、かつて奇跡を起こそうとして果たせなかった()()()()()()()()()

 

 

「総旗艦命令です。霧の艦隊は、現時点・現時刻を以って人類への海洋封鎖のローテーションを停止。現在の海域にて航行を停止しなさい」

 

 

 群像は、そして紀沙は、最終勝利者になれるだろうか。

 コトノが望むのはもちろん、完全無欠のハッピーエンド。

 主人公が悪を倒し、世界に平和をもたらす最高のエンディングだ。

 コトノは()()()()()、「めでたしめでたし」、と言いたいのだ。

 

 

「繰り返します、これは総旗艦命令です」

 

 

 はじまってしまった。

 クライマックスだ。

 カウントダウンだ。

 最期の時間だ。

 ついに来た。

 

 

「そして重ねて命じます。黒き海に逆十字が見えた時、各艦最大限の警戒を以って」

 

 

 約束の時だ。

 天羽琴乃が、コトノとして転生を余儀なくされた理由。

 日本政府が、旧第四施設をあれほどまでに隠蔽しようとした理由。

 それは、すべては、今この時のため。

 

 

 それは、すべては、運命だったのだ。

 ()()が遥かなあの場所から、コトノの前に現れた時から定められていたこと。

 あの時、天羽琴乃が死を迎えた時に、いやそれよりもずっと以前に。

 ヨハネスとグレーテル、そして出雲薫が()()の存在に気付いた時から、ずっと決まっていたこと。

 

 

「各艦は、己が全能力を以って」

(さぁ、約束通りだよ)

 

 

 『ヤマト』が空を指差し、『コトノ』が天を仰ぎ見た。

 太平洋の空。

 否。

 ()()()

 

 

「――――宇宙(ソラ)を、警戒しなさい」

 

 

 ()()()()()へ。

 約束の時だ。

 

 

(宇宙服の(ヒト)……!)

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 クリミア半島、そしてイタリア北部にまで至る<騎士団>の占領地の住民は、一千万人に達する。

 もし<騎士団>が目的地――ロリアンまでの()()()にこだわらず、面で制圧していたのならば、この数字はもっと大きなものになっていただろう。

 それでも、バルカン半島を一直線に貫く<騎士団>領にいた人間は、それだけの数に上る。

 

 

「身体をナノマテリアルに還元された……って」

「そもそも」

 

 

 戦慄する紀沙に対して、『ビスマルク』の()の方が言った。

 両手で輪を作り、それを左胸の前に置く。

 まるで心臓を掴むかのような仕草だが、メンタルモデルに心臓は無い。

 心臓に該当する部分はコアだが、それは必ずしも左胸にあるわけでは無い。

 

 

「そもそも<霧の艦艇>とは、海から来たもの」

 

 

 深く昏い海の底、深海の海流の中でのみ育まれる特殊粒子、ナノマテリアル。

 コアとはその結晶体であり、コアは活性化することで他のナノマテリアルを自在に操ることが出来る。

 

 

「そして私達が起動した当時、人類にとって海とは戦場であり、戦場の覇者とは軍艦だった」

 

 

 だから、霧の艦艇は当時の軍艦の姿を取る。

 当時の人類の心に深く刻まれていたからこそ、その形を取った。

 <騎士団>が戦車の姿を取るのも、同じような理由からだ。

 そして、メンタルモデル。

 

 

 ここでひとつ、メンタルモデルについて訂正させて貰うとしよう。

 それは、「重巡洋艦以上の演算力を持つ艦は、メンタルモデルを持てる」と言うルール。

 違う。

 これが違う。

 訂正する、()()

 

 

「演算力の高いコアを有するからこそ、重巡洋艦以上の姿を取ることができる」

「同じ意味に聞こえる? そうかもしれない、でも違う。まったく違う」

 

 

 姉の言葉を引き継ぐように、『ビスマルク』の妹の方が口を開いた。

 同じように両手で輪を作り、心臓の位置へ。

 そして、言う。

 では何故、コアの演算力に差が生まれるのか?

 

 

「もう、わかっているでしょう?」

 

 

 人間。

 人間の肉体をナノマテリアルに置換して生まれたメンタルモデルは、強大な演算力を有することが出来る。

 コアに人間と言うプラスアルファを加えることで、演算力は飛躍的に高まる。

 1世紀前のコアの一斉起動時、それが起こったのだ。

 

 

 記録は無い。

 あったとしても、ただの行方不明者として処理されているだろう。

 何故か?

 当時は戦争中、それも世界大戦と称される程の戦争中、いなくなった人間など、掃いて捨てる程いた。

 その中のたかだが数十人や数百人のことなど、誰も気にしていなかった。

 

 

「ほとんどの霧は、それを忘れているけれど」

 

 

 グレーテルと言うイレギュラーによって、『アドミラリティ・コード』の起動が不完全になった。

 そのため、霧のメンタルモデル達は未だに霧へ転化した際の記憶を失っている。

 自分というメンタルモデルが何故、今の姿なのかを理解しようともせずに。

 それは、『ビスマルク』にとってはひどく滑稽なものに見えていたことだろう。

 

 

「そして今日、新たな福音は成される」

 

 

 ボンッ、と、大きな音を立てて繭が弾けた。

 ケーブルの塊が内側から弾け跳び、黒いオーラを纏った、青白い光が立ち上ったのだ。

 それは一直線に天を目指し、地表の宮殿すら吹き飛ばして――パラパラガラガラと、瓦礫が僅かながら落ちてくる――いつか見た光景とダブる。

 天を引き裂く、逆十字。

 

 

「容れものをここへ」

 

 

 そして光の柱の中に、あるものを見た。

 容れものと呼ばれたそれは、紀沙の良くしる者だった。

 

 

「スミノ!」

「『ヤマト』の()()()()()なら、容れ物にはぴったりでしょう」

 

 

 超戦艦『ヤマト』の半身の半身?

 また意味のわからない言葉が飛び出して来た。

 だが、ヤバいと言うのはわかる。

 あの繭から、何か良くないものを感じる。

 

 

 何かが、出てこようとしている。

 無数の「腕」に讃えられて、一千万人の人間をナノマテリアルに置換して。

 良くないものが、砕けた繭の縁に手をかける。

 その指先が、僅かに見えたその時。

 

 

「させるか……!」

 

 

 紀沙の両目の霧の瞳が、もうひとつの世界を開いた。

 すなわち、霧の世界へ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 現実の世界とは異なる、霧の力を持つ者だけが入れる世界。

 何かの覚醒を止めるのであれば、あれが霧の力に由来するものである以上、こちらから干渉するしか無い。

 そう思って意識を霧の世界へとダイブさせた紀沙だったが、あまり意味は無かったかもしれない。

 

 

「……!」

 

 

 自分の手には負えない。

 その事実がわかっただけだからだ。

 ヂ、ヂ、と、電子の音が時刻を刻むように響き渡る。

 紀沙の頬を、一筋の汗が滴り落ちていった。

 

 

 はじまりの3人。

 グレーテルがそうであったように、ヨハネスもまた『アドミラリティ・コード』の半身と融合していた。

 そしてグレーテルの『コード』が<霧の艦隊>を生み出したように、ヨハネスの『コード』は<騎士団>を生み出した。

 それは、グレーテルとヨハネスの命令(コード)を果たそうとする意思に基づいて行われた。

 

 

「言ったでしょう、ヨハネス・ガウスの『アドミラリティ・コード』――『ヨハネス・コード』は、すでに一千万の人間を置換していると」

 

 

 『ビスマルク』、姉か妹かはわからないが、来た。

 紀沙を阻止しに来たのか。

 いや、おそらくは違う。

 何故なら彼女にも、紀沙の力でどうこうできる事態では無いとわかっているのだから。

 

 

 例えるならば、そこにあるのは宇宙だった。

 『コード』と言う巨大な太陽の周囲で、一千万の命と言う星々が輝いている。

 太陽は青白い逆十字の光を放っており、ともすればそれは柱と言うより、もはや光の巨人だった。

 紀沙1人と比べても、いや比べることすら馬鹿らしくなるくらい、それは大きい。

 

 

「父さんは、こんなものをどうやって」

 

 

 10年前、父は『アドミラリティ・コード』の起動を止めた。

 その結果が『ヤマト』と『ムサシ』が得たメンタルモデルであって、『ヤマト』の帰還と『ムサシ』の離脱であった。

 こんな手に負えないものを、翔像はどうやって鎮めたと言うのか。

 

 

「千早翔像の時と同じでは無い。今回は『コード』は2つ揃っている」

 

 

 いや、条件はさらに悪い。

 ヨハネスとグレーテル、ロリアンとクリミアの『コード』が共に揃っている。

 つまり、力は翔像の時の倍だ。

 ますます手に負えない。

 こんなもの、本当にどうしたら良いと言うのか。

 

 

『千早紀沙!』

 

 

 その時、現実の世界でゾルダンが自分を呼ぶのが聞こえた。

 彼は言った。

 

 

『イ404を呼べ!!』

 

 

 イ404を、スミノを呼べと。

 この窮地を脱するために、スミノを取り戻せと。

 紀沙はその意図を正確に理解した。

 しかし、それは――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 そもそもである。

 メンタルモデルには、いわゆる人格は無い。

 感情や個性に見えるものも、ただのプログラムに過ぎない。

 書き換えればすぐに消えてしまう、そんな程度のものでしか無い。

 『タカオ』のシスコンプラグインは、その最たるものであろう。

 

 

 そもそも、ネットワークを通じて意識の一部を互いにリンクさせているような存在を、「個人」とは呼ばない。

 どちらかと言えば、多重人格(人間)に近い。

 1人の人間には多様な面があり、言ってしまえば1人1人格と言うのはあり得ない。

 人間が、天使のように優しくもなれれば、悪魔のように残忍にもなれるように。

 個々の艦艇は、「霧」と言う集合人格の中の1面でしか無いのだ。

 

 

「それは、艦長殿にとってあり得ない選択だね」

 

 

 しかしその中で、独自の動きを見せていた()()がいた。

 イオナとスミノ。

 霧の規範に縛られること無く、今日まで航海してきた彼女達。

 『アドミラリティ・コード』の完全起動に伴って、同時に彼女達も()()していた。

 

 

「と言うかさ、皆なにか勘違いしているみたいだけれど」

 

「艦長殿は、霧が大嫌いなんだよ。家族を奪われたと今でも思っているからね」

 

「ボクやトーコと絡んでいるから、それを克服したとでも思っているのかな?」

 

「だとしたら、とんだお笑い種だね」

 

「たとえ世界が滅びるとしても、艦長殿が(ボク)を頼るなんてことは無いんだ」

 

「そんなこともわからないから、どいつもこいつも艦長殿のことがわからないんだよ」

 

 

 イ号404。

 スミノ。

 太陽と月の智の紋章(イデアクレスト)が煌く世界にたゆたいながら、彼女は目を覚ました。

 『アドミラリティ・コード』の起動と共に目を覚ます、そのようにプログラムされていたからだ。

 

 

「いいのか?」

 

 

 そんなスミノだが、普段とは容貌がやや異なっていた。

 髪色、衣装、纏う雰囲気が別人のようだった。

 だがそれは、むしろ()()()()()に近い姿だと言える。

 それは、スミノの隣にいるイオナも同じだった。

 末広がりの、不可思議な紋様(クレスト)が刻まれたロングドレス――どこかの姫のようだ。

 

 

 霧の姫。

 あるいは今の2人は、そう呼ばれてもおかしく無いだけの存在感を醸し出していた。

 太陽と月の紋章(クレスト)が輝く、この世界においては。

 とは言え、所作までそうなっているかと言えばそうでも無い様子で。

 

 

「いいのかって? 何が?」

 

 

 少なくとも、スミノのシニカルな表情を姫と言うのは憚られた。

 

 

「ボクらにとっては、艦長殿の言葉だけが最重要。そうだろイ401」

 

 

 紀沙がスミノを呼ぶことは無い。

 ならばこのまま、世界が滅びるのを黙って見ているのか。

 そう言いたげなイオナの視線に、スミノはいつものように皮肉げな笑みを見せたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 超戦艦『ヤマト』と『ムサシ』は、霧の艦艇で最初にメンタルモデルを保有した艦だ。

 10年前、翔像が『アドミラリティ・コード』の起動を阻止した時だ。

 この時、同時にイオナが生まれている。

 そしてイオナは、この後10年間の休眠期間に入ることになる。

 

 

 だが、何故10年もの休眠期間が必要だったのか?

 

 

 翔像はあえて語らなかったが、イ401は彼が千早兄妹のために日本へ帰した艦だ。

 本来なら、子供達の都合に関わらず常に再出航できる状態になければならなかったはずだ。

 それが、10年――いや、下手をすれば千早兄妹が横須賀を離れてしまう可能性すらあった。

 群像が学生時代にイオナが覚醒したのは、実はギリギリのタイミングだったのだ。

 

 

イオナ(キミ)は、『ヤマト』の半身だ」

 

 

 10年前、千早翔像は『アドミラリティ・コード』を鎮めた。

 その方法は単純だ、グレーテルと同じように、2つの異なる命令(コード)を書き込んだのだ。

 「起きろ」、そして「眠れ」。

 ロリアンで休眠していた『コード』は、もちろん「眠れ」と命じられた方だ。

 

 

 では、「起きろ」と命じられた『コード』は?

 別の形で実行させたのだ。

 例えば『アドミラリティ・コード』に次ぐ優れたコア――超戦艦のコアを使い、コアと『コード』を融合した新たな存在(プログラム)を作り出せば良い。

 『ヤマト』はイオナを作り出し、そして『ムサシ』は『U-2501』を作り出した。

 

 

「そしてボクは、そんなイ401から生まれた()()()()()だ」

 

 

 だが、分割されたとは言え『アドミラリティ・コード』だ。

 イオナはその膨大で複雑なプログラムを処理し切れずに()()、10年を過ごした。

 長い休眠状態の中で出した答えは、さらなる分割。

 イ401は己のコアを分割し、イ404――スミノを作り出した。

 ちょうど、『U-2501』が己の補助として『U-2502』を作り出したように。

 

 

「だから正確には、ボク達は姉妹と言うよりは母娘と言った方が良いのだろうね」

 

 

 そして、「起きた」。

 『ヤマト』と『ムサシ』のコアから生まれた4隻のメンタルモデルは、『アドミラリティ・コード』の欠片を内包しながら、他の霧とは一線を画した存在として目覚めた。

 それぞれの艦長を仰ぎ、己の艦長の言葉と意思だけを絶対として、海を駆け続けてきた。

 これまでも、そしてこれからもだ。

 

 

「艦長殿はボクを呼ばない。絶対にね」

 

 

 ()()()()()()()()()

 紀沙の霧への憎悪を軽く見ている奴らに、スミノは言ってやりたい。

 愛情を裏返すと憎悪になるのかもしれないが。

 憎悪を引っ繰り返したところで、愛情にはならないのだ。

 

 

 天地が引っ繰り返ったところで、紀沙がスミノを呼ぶことは無い。

 絶対に無い。

 死んでも無い。

 だから。

 

 

「だから、()()()()()()()

 

 

 嗚呼、本当に手のかかる艦長だ――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 変化は、突然に起こった。

 出会った時からそうだった。

 あいつはいつも、紀沙の嫌がる方を選ぶのだ。

 だから、紀沙は自分の艦にも関わらず、彼女のことが大嫌いなのだった。

 

 

「馬鹿な、イ404のメンタルモデル・プログラムは停止しているはず」

 

 

 完璧な配列であったはずの『アドミラリティ・コード』の宇宙、しかしそこに綻びが生まれた。

 強烈な輝きを放つ太陽――『コード』の中に、黒点が生まれたのだ。

 滲み出るように大きくなっていくそれは、、やがて長方形を形作る。

 そして黒い長方形の真ん中に線が走ったかと思えば、外開きのドアのように2つに開いたのである。

 

 

「確かに表のイ404は停止したよ、『ビスマルク』」

 

 

 そして、嗚呼、扉の向こう側の何と醜悪なことか。

 そこには、宇宙の如く君臨していた光の化身の本質が余すところなく存在していた。

 桑の実の色(マルベリーパープル)

 濁った黒色とでも言うべき色が、扉の向こう側で蠢いていた。

 

 

 言うなれば、濁った沼で巨大な蛇がのたうち回っているかのような。

 無数の、大小の触手が蠢き、ぬめりを帯びながらぐちゃぐちゃと音を立てている。

 言葉に出来ない程の腐臭と、吐き気を催す程の嫌悪感。

 100年に渡り積み重ねられた、1人の男の憎悪と怨念の苗床がそこにあった。

 

 

「でも、このボク(スミノ)は停止しようが無いじゃないか」

 

 

 驚愕する『ビスマルク』に、スミノはそう言ってのけた。

 『ヤマト』の四分の一と『アドミラリティ・コード』の三十二分の一を持つメンタルモデル。

 手の甲で銀の髪を()いながら、いつもの笑みを浮かべて。

 

 

「やぁ、艦長殿。似合ってないから早く立った方が良いね」

 

 

 手を貸そうか、と言うスミノに、紀沙は返した。

 

 

「いらないよ、お前の助けなんか」

「そうかい。まぁ、艦長殿ならボクの助けなんて必要ないだろうからね。でも今すぐは流石にキツいと思うから、もう少しボクが頑張るとしようかな」

 

 

 その時、扉の奥から触手が伸び、スミノの首に絡まった。

 行儀悪くスープを啜るような、そんな音がした。

 それに対して、スミノはどうとも反応を示さなかった。

 ただ、視線だけを扉の向こう側へと向けて。

 

 

「……ボクに」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「触るなよ」

 

 

 言葉の続きは、現実で聞こえた。

 スミノは、紀沙の目の前にいた。

 しかし同時に、紀沙の目の前で、スミノの全身は触手――ケーブルに絡め取られていた。

 首だけでは無い。

 頭、胸、二の腕、手首、腹、太股、膝、足首に至るまで、全身である。

 

 

 海水に濡れたそれは生物的で、肌の上を這っている様を見るだけで気味が悪かった。

 しかし、まさしく波が引くようにケーブルが退いた。

 まず頭から、スミノの顔のあたりから引いた。

 どうやら、この触手(ケーブル)には苦手なものがあるらしかった、それは。

 

 

「ああ、これは苦手かい? ビスマルク姉妹を()()()()()()()()、血を吐いて死んだんだっけ?」

 

 

 血だ。

 スミノの両目、人の部位から血の涙が零れ落ちたのだ。

 それはすなわち、スミノが自分本来のメンタルモデルを起動させたことの証明だった。

 あれが元は自分の肉体部分かと思うと、聊か複雑な気持ちになる紀沙だった。

 

 

「まぁ、どうでも良いけどね」

 

 

 その時、紀沙は確かに()()()

 声では無い。

 ただ、その場にいる何者か、『アドミラリティ・コード』の力を得た何かがの意思を感じた。

 そうだな、「何故」、そんな意思が聞こえて来た。

 あえて表現するなら、そう言うことになるのだろう。

 

 

「何故かって? ヨハネスともあろう者がわかりきったことを聞くんだね」

 

 

 薄ら笑いと共に、スミノはそう言った。

 彼女の身体から触手(ケーブル)が離れていく、まるで繋がりを断たれたように。

 その間にも、何か……ヨハネスは、こちらへと意思を叩きつけてきていた。

 いや、はたしてこれを意思と呼んで良いものかどうか。

 この剥き出しの感情を。

 

 

「しゃあ! 逆転の瞬間ってやつだな!」

「動けば折ります」

 

 

 そして、上から人が2人降ってきた。

 冬馬と静菜だった。

 2人共が『ビスマルク』の後ろに着地し、後ろから羽交い絞めにする。

 メンタルモデル相手に剛毅なことだと思うが、不思議と『ビスマルク』は振り払わなかった。

 振り払う必要を感じていないからか、あるいは。

 

 

「『ビスマルク』ともあろう者が何て様だい」

 

 

 あるいは、力を使い果たしてしまっているのか。

 いずれにしても、状況は確かに逆転と言って良いものだった。

 ヨハネスの『コード』は未だ起動状態であるものの、スミノはこちらへ戻った。

 静菜と冬馬が無事で、ゾルダンもいる。

 だが、そのような好転した状況の中で。

 

 

「…………」

 

 

 ひとり、紀沙だけがヨハネス――だろう何かの塊――へと視線を向けていた。

 その表情は、何かを聞こうとしているもののように思えた。

 いや、実際、聞こえていたのだ。

 ()()()()が。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 不思議だった。

 ことここに及んで、紀沙はある感情を得ていた。

 嫌悪? 憤怒? いや、そう言うマイナスの感情では無い。

 ()()()()を耳にしてから、紀沙はヨハネスに視線を向けていた。

 

 

 ヨハネス――ヨハネス・ガウス。

 100年前に『アドミラリティ・コード』を起動させた、いわば霧の父とも言うべき存在。

 グレーテルの()()――ヨハネスにしてみれば妨害だろう――され、枝分かれた『コード』と融合し、クリミアの地に流れ着いた。

 そして今、ロリアンの『コード』を取り込んで完全なる覚醒を果たそうとしている。

 

 

「お……おい、何か様子がおかしくないか?」

「言ったはずだ。容れものが必要だと」

 

 

 砕け開いた繭の穴。

 そこには何の姿も見えないが、()()()()()

 霧の世界で、スミノが出てきた扉の向こう側がおぞましい触手で満ちていたことを思い出した。

 あれと同じものが、あの繭の中にはある、人間の目には見えないだけだ。

 

 

「イ404の覚醒によって、その容れものが無くなった」

「卵の中身が割れた殻の中に留まれないのと同じだ。受け皿を失った中身は溢れるしか無い」

「「つまり」」

 

 

 『ビスマルク』姉妹の言葉には、諦観の色さえ含まれているように感じた。

 疲労と諦め。

 思えば、『ビスマルク』姉妹はいつから活動していたのだろう。

 100年前か、17年前か、10年前か、あるいは2年前か。

 

 

 ロリアンやカークウォールで相見えた時には、底知れない強さと大きさを感じた。

 それが今はどうだ。

 対峙するだけで肌が粟立つ程の寒気と、息苦しくなる程の凄み。

 そうしたものが全て消えて、紀沙と変わらぬただの小娘に成り下がっている。

 思えばこの場で姿を見せてから、『ビスマルク』姉妹は直接的に攻撃を仕掛けてきていない。

 

 

「世界が」

「終わる」

 

 

 ごぽ、と、何かが溢れる音がした。

 それは今度は、はっきりと目に見える形で現れた。

 砕けた繭の穴の中、どこまでも底が無いのではないかと思える程に暗いそこから。

 桑の実の色(マルベリーパープル)の、ドロリとした液体が溢れ出てきた。

 

 

 海底のヘドロが地表に溢れ出てきた、そんな表現が合うのかもしれない。

 それは見た目以上の早さで噴き出し始め、瞬く間に空間を制圧していく。

 このまま行けば、いや確実に紀沙達をも飲み込もうとするだろう。

 下手をすれば、この空間だけで済まないかもしれない。

 しかしこの期に及んでもまだ、紀沙は自分に危機感が欠如していることを意識していた。

 

 

「ヨハネス……」

 

 

 何故なら、この危機的状況において紀沙が感じていたのは、マイナスの感情などでは無かったからだ。

 紀沙が感じていたのは、もっと別なもの。

 今、紀沙はこの場にいる誰よりも()()()()()()()()()()()()()()()

 何故かそうだった、そう。

 紀沙は、ヨハネスに()()()()()()()()――――……。




最期までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

ええと、つまり……。

100年前:アドミラリティ・コードがヨハネスとグレーテルにより2つに分割。

10年前:グレーテル(ロリアン)のコードが再起動。さらに2分割。
     この際、ヤマト・ムサシで「起きる」側をさらに2分割。
     その上、イオナ・スミノ、U-2501・2502で分割。

……つまりスミノが持っているのは『コード』の何分の一?
1/32で合ってる……?(算数がとても出来ない)。

それでは、また次回。

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