紀沙が
少なくとも紀沙の目に映る光景は、元のままだった。
イ404の発令所、そして艦体はいつも通りの姿だ。
クルー達の様子が少しおかしかったことと、戦闘が終わっているらしいことは不思議に思ったが。
「覚えていないのですか?」
「え……?」
恋の言葉に思い出そうとするも、『シナノ』と戦っていたことしか覚えていない。
そうだ、と紀沙は顔を上げた。
どうやら戦闘の気配は消えているようだが、『シナノ』はどうなったのか。
顔を上げると、スクリーン上に『シナノ』は健在のままだった、が……。
「…………え?」
スクリーンに映る『シナノ』の姿は、半分になっていた。
まず艦体、正面から何かに抉られたかのように、綺麗に削ぎ落とされていたのだ。
あんな状態になっても浮いていられるのは、『シナイ』が霧の艦艇であればこそだろう。
しかし、それよりも目を引いたのはメンタルモデルの方だった。
立ち位置が悪かったのか、メンタルモデルの右側3分の1ほどが失われていた。
ナノマテリアルの修復の光が煌いていたが、右肩から先が上手く直せていない。
もしかすると、コアに損傷を受けているのかもしれない。
あたりには、元の位置に戻ろうと海底に落ち続ける水の音が響いている。
「……これが、ヨハネスとグレーテルの『コード』を持つ者の力、と言うわけね」
よろめきながらも立ち上がり、『シナノ』は言った。
不思議とその声は、発令所の中にも綺麗に聞こえた。
弱っている風にも聞こえないが、その代わり、何かを諦めたような声だった。
いずれにしても、紀沙には『シナノ』の言葉の意味が良くわからなかった。
「通って良いわ」
ただ1つわかったことは、『シナノ』にもう戦いの意思が無いと言うことだった。
彼女は、紀沙達のインド洋の通行を認めたのだ。
先に進めと、そう言ったのだ。
それが傲慢から出たことなのか、それとも他の感情に起因するものなのかは、それこそ紀沙にはわからないことだった。
「ムサシ姉の仇は通せない。けれど、妹を通さないわけにはいかないもの」
だから、『シナノ』のその言葉の意味も、紀沙にはわからないのだった。
紀沙はまだ、己に起きた本当の変化について、あまりにも無知であった。
◆ ◆ ◆
恐るべき、畏れるべき力だった。
霧の超戦艦『シナノ』がそう思わざるを得ない程、紀沙――第四の超戦艦『紀伊』の力は強大だった。
『シナノ』の艦体の半分を削り、そのメンタルモデルの片腕を奪い去ってしまう程に。
しかもあれで、まだ完全では無い。
「末恐ろしい妹ね」
風にはためく衣服の腕部分――中身は無い――を見つめて、そう呟く。
最も、千早紀沙は自分が『シナノ』達の妹だとはけして認めないだろう。
哀しいことに、それこそが紀沙の力の源であり、同時に強力な枷とも言えた。
もしその枷を紀沙が自ら外すことが出来たなら、彼女はまさに、霧史上で最大最強の存在になる――かも、しれない。
「ムサシ姉が未来を託した人間達、か」
『……気は済んだ? シナノ』
「ヤマト姉」
人間の中には、死んだ人間が空に昇ると信じている者達もいるらしい。
空を見上げ、彼岸より死者が自分達を見守っていると信じて、今日を生き抜く力とするのだと言う。
しかし『シナノ』は、空を見上げても『ムサシ』の存在を感じることは出来ない。
そもそも死者の行き先など、生者にわかるはずも無い。
それなのに死者が自分達を見守っていると信じられる気持ちが、『シナノ』は理解できなかった。
「ヤマト姉、ムサシ姉が正しかったのかはわからないけれど。でも、ムサシ姉が頑張ってくれたのは本当だよね」
けれど、少しだけわかる気もするのだ。
死んで終わり、沈んで終わり……それでは、余りにも寂しい。
寂しすぎるから、続きがあると思いたい。
そう言う気持ちは、今の『シナノ』にも少しだけわかる。
だから、紀沙達の力を試したのだ。
八つ当たりと言われれば、そうだったかもしれない。
三大洋に分かれた『シナノ』達は、互いに援護することが難しい。
あの時、『ムサシ』を助けに行けなかった……ああ、これが「後悔」と言う感情なのだろう。
「だからここで沈められるようなら。そう思ったけれど」
でも、どんな形であれ、紀沙達は自分を凌いで行った。
『ムサシ』の願い通りなのかはわからない、が、彼女達はもはや超戦艦ですら退けることが出来るのだ。
その力だけは認めなければならないと、『シナノ』は思った。
――――嗚呼。
今日もインド洋の空は高い。
その片隅に『ムサシ』を感じることが出来ないかと、『シナノ』は空を見上げ続けていた。
◆ ◆ ◆
『シナノ』の海域を通り過ぎ、インド洋に潜行進出した後。
イ404の戦艦――『シナノ』や『ムサシ』に比する大きさと言うから、超戦艦級と言うことになる――形態への変化、そしてイ401の物をも超えるであろう威力の超重力砲。
イ401の戦闘ログをイ404の私室で確認した紀沙は、沈黙した。
「あれは、私がやったの……?」
そうとしか考えられなかった。
クリミアを出た直後、良治に視てもらった。
わかっていたことだが、あまり意味のある行為では無かった。
何故ならば、紀沙の肉体はすでにほとんどナノマテリアルへの置換が進んでしまっていたからである。
左目に始まった変化は、『コード』を得たことでほぼ全身に広がっていたのだ。
「父さんも、『ムサシ』の艦体を動かしていた」
ただ動かしている父とは、そのまま比べることは出来ない。
何しろ超戦艦への変化と『シナノ』を打ち負かす程の超重力砲である。
これは、
それよりは、このイ404そのものが紀沙のものになりつつあると、そう考えた方が……。
「それは少し違うね」
後ろ、両側から、ぬ……と、細い腕が突き出されてきた。
そしてその2本の腕は、当たり前のように紀沙の首元に回された。
肩に乗る重みを、もうすっかり覚えてしまった。
「
不安が、あった。
あの時、スミノがダウンした後、自分の意識も飛んでしまった。
そして、
はたしてこれは、どう言う意味を持つのだろう。
これまで聞き流してきたスミノの言葉が、今日は特に重く、意味深に聞こえる。
「うふふ……」
するりとお腹の下あたりに降りて来たスミノの手を、そのまま自由にさせておく。
撫でるその部分は、紀沙に残された
「それで、どうするんだい。艦長殿?」
耳元で、スミノが囁く。
どうするもこうするも無かった。
進むしか無い。
前に進み、祖国へ戻る、今の紀沙達に他に出来ることは無いのだ。
だが、戻った先に未来があるのか。
日本を出た時には、明日を、未来を信じることに疑いなど持たなかった。
けれど今は、素直に信じることは出来ない。
日本の、では無く。
◆ ◆ ◆
『シナノ』と別れた後、イ号艦隊の航行は、それまでの労苦が嘘のように順調なものになった。
補給が出来ないため、イ15と『マツシマ』の補修が出来ないのが厳しいが、速力を落としつつも東へと進む。
ジブチ出航から10日が過ぎる頃には、イ号艦隊は東インド洋――モルディブ沖に達していた。
「このへんってよお」
2週間近くにもなれば、流石に泳ぎや釣りでは暇も潰せなくなる。
甲板の手すりに身をかけながら、杏平は波間を眺めていた。
どこまでも続く、透き通るような海。
見ているだけで雄大な気分になるが、かつてこの海域はある国の勢力圏だった。
「モル……何だっけ、何か島があったんだろ」
「モルディブ、よ。少しは真面目に魚雷以外の勉強しなさいよ」
杏平といおりは、何かと
学院時代からそうだったし、そもそも杏平が群像の仲間になったのはいおりに誘われたからだ。
もちろん、雷撃の才能を認められたと言うのもあるが、きっかけはそうだった。
他にもいろいろと、いおりは抜けたところのある杏平を気にかけてやっていた。
それでも、この2人が色恋の関係に見られることは無かった。
出来の悪い弟と面倒見の良い姉、とでも言おうか――同学年だが。
男女間の友情、と言うのが、一番2人にとってはしっくる来るのかもしれない。
簡単に切れる仲では無い、が、互いに最も深い位置は触れさせない、と言う意味で。
「温暖化でいくつも島が沈んじまったんだってな」
「実感なんてほとんど湧かないけどね」
2人は若い――と、言うより、幼いと言って良い年齢だった。
それは千早兄妹もそうなのだが、2人には千早家のような霧との因縁などは無い。
野心家なのか、お人好しなのか、こんなところまでついて来ている。
傍から見れば、不思議で仕方が無いかもしれない。
得るものの少ない旅に、どうしてそこまで付き合うのか、と。
「2年後には、世界が全部沈むかもしれないんだな」
「なに、怖いの?」
「いや怖いだろ、普通に」
「……そりゃそうね」
ただひとつわかるのは、2人がけして嫌々付き合っているわけでは無い、と言うことだ。
杏平といおりは、自分で望んでイ401に乗っている。
それだけは確かだった。
そしてもうひとつ。
「群像と紀沙、ほとんど話さないみたいだな」
「まぁ、しかたないでしょ」
嘆息混じりに、いおりが言った。
それはどこか、杏平に対しての言葉では無いようにも思えた。
「
そして、もうひとつ。
杏平もいおりも、千早兄妹の行く末が気がかりなのだった。
だから、彼女達はここにいる。
◆ ◆ ◆
さらに1週間ほどを進むと、イ号艦隊の姿は
寄港地はスリランカ南部の港湾都市ハンバントタ、インド洋を抜けて最初の補給だった。
インド亜大陸でも良かったのだが、海洋封鎖以後インドは政情不安に陥っていて、アメリカの時のように妙な政治の争いに巻き込まれることを避けたのだ。
ジョンの情報によると、イ号艦隊の接近に一部の勢力が動きを見せていたらしい。
スリランカは、特に都市部においては政府側の影響力が強く、政治的には安定していた。
ハンバントタ港はそうした都市の1つで、コンパクトな造りながらも軍港としての機能も維持していた。
スリランカの他の港湾都市と比べて圏内人口が少ないことも、寄港地としては最適だった。
最も、小さな島国であるスリランカでの補給は、質・量共に満足のいくものでは無かった。
「はぁ……。まぁ、薬品関係はどこも足りないよね」
特に、医療関係の補給は期待のしようも無かった。
穀物や生鮮食品はまだしも、閉ざされた島国が苦しいのは日本もイギリスも一緒だ。
医薬品、軍需物資については、期待する方がおかしいのかもしれない。
それでもスリランカ政府がイ号艦隊に出来得る限りの配慮をしているのは、畏れと期待、あとは保身だ。
「ただでさえ人数増えたしなぁ。日本までもつか?」
「コックは気楽で良いね。正直、これ以上予定が遅れると予防用のワクチンが切れそうだよ」
「あの錠剤の量の方がヤバい気もするけどな」
イ404へ搬入される木箱を横目に、良治と冬馬は軍医と料理長と言う立場でそこにいた。
どちらも、艦内生活を支える上では重要だ。
ただ先程も言ったように、食品より医薬品の方が補充の難易度が高い。
そう言う意味では、良治は気の休まる暇も無かった。
「まぁ、少なくとも……な」
良治を気にしてか、冬馬もその先は言わなかった。
言いたいことはわかる。
少なくとも、艦長が病気や怪我で戦線離脱と言うリスクはイ404には無い。
それはある意味で、幸いであると言えた。
(それでも、僕は……)
ふと顔を上げれば、スリランカ側の役人と話している紀沙の姿が見える。
イ404の搬入口側にいるため、港側にいる良治からその表情を窺い知ることは出来ない。
それでも、彼女がもう学生時代の千早紀沙のままでは無いことはわかる。
けれど良治は、変わることなく紀沙の傍にいる。
それは……。
「……うん?」
「どうした?」
「いや、何か……気のせいかな」
何となく首元にちりちりとした気配を、つまり誰かに見られているような視線を感じて、良治があたりを見回した。
しかし、誰もいない。
「…………?」
まぁ、良治たち日本人は珍しいだろうから、港の
だからこの時は、良治は気にしないことにした。
しかしこうしてあたりを見渡して見ると、意外と漢字の看板が多いことに気付く。
ひらがなやカタカナが無いので、日本語と言うわけでは無さそうだが……。
◆ ◆ ◆
ベンガル湾東部においては大陸への玄関口にもなっており、霧の海洋封鎖の前には、域内有数の経済都市として繁栄を極めていた。
現在はやや落ち着いてしまったが、それでもミャンマーでは大規模な都市であることには違いない。
「何か、雑然としている街ですね」
「ああ、まぁ、商の街ですからね」
本来、イ号艦隊はチャオピューに立ち寄る予定は無かった。
しかしスリランカでの良治の心配が的中したと言うべきか、杏平が耐え難い腹痛に訴えたのだ。
海魚を生煮えで食べたためだと思われるが、そうなると、艦レベルの医療では限界がある。
そのため、杏平は群像達と一緒にチャオピューの軍立病院に行っている。
その間、待機組は港で杏平の治療を待つことになる。
予定はますます遅れてしまうが、仕方が無かった。
まさか、イ401の砲雷長を置いて行くわけにもいかない。
そしてそのイ401の甲板には、今は僧と静の2人がいた。
「ただ、こういう装飾のキツい看板は故郷を思い出して逆に落ち着いちゃいます」
「故郷?」
「台湾の方です。今回の航路には入っていないから、ちょっと残念です」
台湾の名前を出すだけあって、確かに港や街並みに広がる店々――元は、港湾労働者を狙った商店だろう――の看板は、確かに漢字が多かった。
日本語では無く、中国語の方である。
何と書いてあるのかは大体は想像がつくが、読み方はわからない、そんな感じだ。
「この街はもともと、中国資本で作られたらしいですから。それでかもしれませんね」
最も、海洋封鎖で交易の旨味が無くなってからは、資本も引き揚げてしまったらしいが。
それでも投資が活発だった頃に入り込んで来た中国人労働者の多くは、本国に戻ることなく、そのまま居住を続けている。
今もビルマ系のミャンマー人よりは、より日本人に近しい外見の中国系の人種を多く見る。
そして彼らの多くは、物珍しさからか、物陰からこちらを窺っているようだった。
「そう言えば、副長は艦長と妹さんとは幼馴染の関係なんですよね?」
「まぁ、付き合いだけは長いですね」
「艦長達って、子供の頃はどんな風だったんですか?」
「いやぁ~……とんだクソガキでしたねぇ」
しかし、それだけ自国の文化圏に近付いている証拠でもある。
一抹の不安は感じるものの、あともう少しだ。
この旅も、あと、もう少しだ。
◆ ◆ ◆
「ねぇ、梓には「きょうだい」っているの?」
「ああん?」
洗濯当番だったその日、梓は甲板で洗濯物が乾くまでの間、トレーニングをしていた。
西方よりは過ごしやすいが、肌にべたつく高湿な気候は、梓の身体から水分を絞り尽くそうとでもするかのように汗を流させていた。
顎先に伝った汗を腕で拭いながら、甲板に腰掛けた体勢で蒔絵の方を見た。
黒のノースリーブインナーの胸元で、銀色のロケットが陽を受けて煌いた。
蒔絵は手すりに腰掛けて――危ないからやめろと言っても聞かない――足をプラプラと揺らしていた。
何を見ているのかと言えば、遠くに見える
遠目に街のようなものも見えて、有人島であることがわかる。
この海域を抜けてしまえば、日本まで本当に目と鼻の先だった。
「きょうだい?」
「うん」
「……いや、きょうだいはいないねぇ」
「そうなんだ」
実際、梓には
父親が彼女が幼い内に海軍で殉職してしまったし、母親は再婚などはしなかった。
食うために軍人になった梓だ、「自分にきょうだいがいたら」などと考える暇も無かった。
それにしても、どうしてそんなことを聞いてくるのだろうか。
「私にはきょうだいみたいな人が何人かいるみたいなんだけど、まともに会ったこと無いんだあ」
「ふーん」
我ながら気の無い返事で申し訳ないとは思うが、そもそも梓と蒔絵はほとんど接点が無い。
それこそ機関室の2人の方がずっと蒔絵と過ごしている時間が長いだろうし、良治や冬馬も検診や食事を通して交流があるだろう。
恋は……ちょっとわからないが、少なくとも彼女自身が考える限りにおいて、梓は蒔絵との繋がりが最も薄い人間のはずだった。
「家族みたいなのは、ローレンスくらいでさあ」
「はぁ、そうなの」
いや、本気で気の無い返事であった。
しかし繰り返しになるが、梓と蒔絵との関係が薄すぎるのである。
だから梓としては、生返事しか出来ないのだ。
ただ一方で、梓としても考えはある。
それは、蒔絵が別に自分の、と言うか、誰かの返事を期待していないのだろう、と言うことだった。
「だからね、何て言ってあげれば良いか、わからないんだ」
言ってしまえば、声の大きい独り言を言っている、と言うことだ。
蒔絵なりに何かを悩んでいて、あるいはもどかしい思いでいるのだろう。
そう言う相手に梓を選んだのは、むしろ関係性が薄い方が後腐れが無くて良いと思ったのかもしれない。
そこまで考えが至れば、梓としてもとやかくは言えなくなってくる。
「家族と上手く行かない気持ちって、どんなのかなあ」
それは、梓にだってわからない。
梓にはもう、「上手く行かなく」なれる家族がいないのだから。
そして、今の蒔絵の言葉で彼女が言わんとしているところもわかった。
そちらは、それこそ梓にどうこう出来るような話では無い。
下手に触れれば大火になり兼ねない、これはそう言う類のものだからだ。
◆ ◆ ◆
いよいよ最後の寄港だ。
ベトナム共和国・カムラン湾。
南シナ海に面したベトナム屈指の軍事拠点であり、イ号艦隊の日本へ向けた最後の補給地だった。
ここを出た後、南シナ海からバシー海峡を抜け、沖縄へ、そして佐世保へ向かう。
「いよいよだね」
そう、いよいよ紀沙達は日本へと至る。
祖国への帰還だ、それも凱旋と言っても差し支え無いだろう。
振動弾頭の輸送。
<緋色の艦隊>との戦い。
そしてクリミアの戦いと、『アドミラリティ・コード』を巡る因縁。
「すべての任務を果たしての帰還だ、きっと艦長殿は英雄扱いだろうね。階級もまた上がるだろう、もしかすると10代で将官なんてこともあり得るんじゃないかな」
あながち、あり得ない話でも無かった。
「千早紀沙」を日本海軍の象徴にしようと言う動きは――排除しようと言う動きと同じ程度には――以前からあったし、海洋封鎖後に初めて世界一周を成し遂げた軍人を、上が放っておくとも思えない。
ここに至るまであまり考えたことは無かったが、考えたとして、しかし紀沙にどうこう出来る問題でも無かった。
「ふうん。これまで艦長殿を裏切り者扱いしていた連中を見返してやりたいとか、そう言うのは無いのかい?」
そんな心の狭いことを考えたことは無い。
「じゃあ、民衆の歓呼の声とやらに迎えられたいのかい? みんな、艦長殿のことを英雄だ救世主だと言い募るだろうね」
そんな心根の卑しいことを考えたことは無い。
「ふむふむ。ならいっそ、今回の功績を足がかりに統制軍の、いやいや国の頂点を目指すと言うのはどうだろう? 選挙とやらに出れば、みんなこぞって艦長殿に投票するんじゃないかな」
軍人は選挙に出られないし、紀沙はまだ政治家になれる年齢では無い。
そもそも、権力だとか、そう言うものには関心が無かった。
「よーし、じゃあ、お金はどうかな? これだけの偉業を成し遂げたんだから、国家予算から特別な恩賞が出てもおかしくは無いんじゃないかな?」
そんな俗物的な願望、それこそ唾棄すべきものだ。
お金も権力、名誉も栄誉も、称賛も歓呼も、紀沙にとっては何の価値も無い。
自分の傍に、いるべき人達がいないのならば、それらは何の意味も持たない。
水を求めている人間に、パンを与えるようなものだ。
「艦長殿はもしかして、聖人君子なのかな? 聖女様なんて呼ばれたりしてね」
そんなことになろうものなら、軍を辞めて隠棲することを考えるだろう。
「わからないなあ」
何が?
もう何度目になるかわからない軍礼装、その袖に腕を通しながら、紀沙は聞き返した。
紀沙の着替えの様子をベッドの上から見つめるのは、スミノだった。
だらしなくベッドに寝転がっているスミノは、紀沙が身に着ける予定の勲章――アメリカやヨーロッパでいくつか受章した――を指先で弄んでいた。
「結局、艦長殿にとって、この旅は何だったんだい?」
「そんなもの……」
「決まっている?」
ほんとうに?
そう聞いてくるスミノの顔を、紀沙は見ることが出来なかった。
いや、姿見で身なりを整えることを優先しただけだ。
自分に、そう言い聞かせた。
上着の留め具を嵌めて、首の後ろに両手を回し、髪を背中に流した。
紀沙の目的は今も変わらない。
家族を取り戻し、霧を打倒する。
母は亡く、父は欧州に留まったが、それでも兄は一緒に日本に来てくれた。
「あれを「一緒に帰る」と言って良いのかは、甚だ疑問だけどね」
とにかく、日本だ。
スミノの声を振り払うように、紀沙は目を閉じた。
瞼の向こう側に日本の光景を思い描こうとしたが、上手くいかなかった。
もう、5月が目前に迫ろうとしていた。
◆ ◆ ◆
ベトナムでの入港式典を一晩で切り上げて、イ号艦隊は翌日の早朝にはカムラン湾を出航した。
日本の艦船が同湾を訪問するのは20年ぶりの快挙だが、感慨に浸る間も無かった。
先にも言ったが、予定が遅れているのである。
せめて5月に入るまでには、横須賀まで戻りたかった。
何しろ、2年後の
一刻も早く日本に戻り、政府・軍の首脳部に伝えなければならない。
そして翔像が言った、「出雲薫の遺した何か」を見つけ出さなければならない。
だから、これ以上の時間のロスは何としても避けたかった。
「船首を北東へ、60ノット。深度そのまま」
「了解。速力60ノット。深度そのまま」
イ404の発令所には、もはや聞き慣れた潜行音だけが響いている。
梓と冬馬はそれぞれの席についていて、紀沙の隣には恋が座り、傍にスミノが立っている。
至って平穏な航行、だった。
そのことに何となく妙な座りの悪さを感じるのは、それだけこれまでの航海が厳しいものだった、と言うことなのかもしれない。
「このまま行けば、あと数日で佐世保だな。いや、まさか生きて帰れるとは思わなかったな」
「馬鹿、まだ途中だよ。最後まで気を抜くんじゃないよ」
そしていよいよ終わりが見えてきたからだろう、クルーの空気も穏やかなものだった。
太平洋、大西洋、インド洋での激闘を経て、今さら何があるものかと思っているのだろう。
それは、紀沙も同じだった。
正直なところ、今さら何かがあるとは思えない。
唯一、懸念があるとすれば……日本近海の『ナガト』艦隊か。
「『ナガト』は東北沖から動く様子は無いね」
こちらの思考を読んだように、スミノが言った。
唯一の懸念である『ナガト』が動かないのであれば、とりあえず、佐世保には問題なく入れるだろう。
九州は『ナガラ』の件以来だ、あれから随分と時間が経ったようにも感じる。
それでも横須賀に向かう時には警戒しなければならない相手だから、『ナガト』の動向にだけは目を光らせておく必要があるだろう。
「私室にいるので、何かあれば言って下さい」
「わかりました」
発令所のクルーに言付けてから、紀沙は席を立った。
後は南シナ海を真っ直ぐ抜けるだけ、霧の艦艇も遠巻きに見てくるだけで仕掛けてくる様子は無い。
そうなってくると、紀沙が発令所ですることも余り無い。
ただいるだけの艦長など、クルーの緊張を煽るだけの存在でしか無いだろう。
「うん? 何だ……?」
その時、冬馬がヘッドホンを耳に押し当てた。
どうやら何か音を拾ったらしいが、酷く微妙な表情を浮かべていた。
どうしたのかと聞きたかったが、冬馬は音を聞くのに集中している、彼の報告を待つべきだった。
「こいつは、モールスか? また古めかしい……えーと」
信号を聞いているのだろう、ヘッドホンを耳に押し当てたまま、手元のメモに何かを書き留めていた。
それを何度か繰り返していく内に、「ううむ」だの「なにい?」だとと呟いていた。
そうして少し経って、冬馬は難しい顔で紀沙達の方を見た。
「艦長、ちょっと面倒事かもしれねぇ」
「何です?」
「浮上命令だとよ」
「……浮上命令?」
「要約すると、ここは自分らの縄張りだから面みせろ、だとさ」
「…………縄張り?」
ここは南シナ海、それも公海――要するに誰のものでも無い海――だ。
第一、内陸からかなり離れている位置でもある。
にも関わらず、海中を行くイ404にそんな命令を出す存在がいるのか。
冬馬の様子からすると、霧では無いようだが。
「発信元は?」
「発信元はだな……
人民解放軍、その名前はアジアでは1つしか無い。
しかし、何故?
「中国人民解放軍海軍所属――――
何故、中国海軍がこの海域でイ号艦隊に食指を動かすのか?
ここに来て浮かぶ上がった新たな問題に、紀沙は困惑の色を浮かべたのだった。
投稿キャラクター:楊紫薇(ひがつち様)
有難うございます。
最後までお読み頂き有難うございます。
今回は構成が難しかったですねー。
と言うわけで、次回は中国がちょっかいをかけてきます。
日本までの最後のイベント?かもしれません。
それでは、また次回。