とうとう、帰って来た。
横須賀の外壁がメインスクリーンに映ると、より強くそう思うことが出来た。
感慨深いなどと言うレベルでは無く、本当に身体の芯から力が抜ける心地だった。
安堵した、本当に紀沙は安堵していた。
色々なことがあったし、何度も危機的状況に陥った。
だが結果的に、誰ひとり欠けること無く――密航者の蒔絵を含めて――日本に帰り着いた。
一旦、佐世保に入港してから、横須賀に向かった。
側面に『ナガト』艦隊が現れないか警戒しながら太平洋側沿いに進んだが、幸い、霧の艦艇が姿を見せることは無かった。
「イ404、浮上」
「了解。イ404浮上します」
横須賀港の外壁が開いていく。
それに合わせて、紀沙はイ404の浮上を指示した。
港湾管制局のビーコンを待っていると、それよりも先に通信が入った。
それは艦船用の識別コードから発されたもので、相手は……。
「『白鯨』より通信」
『白鯨』だった。
太平洋で別れて以降、かなり久しぶりに名前を聞いた気がする。
わざわざ外壁の近くまで出航して、出迎えてくれていたようだった。
駒城達や真瑠璃は元気にしているだろうかと、そんなことを思った。
「『英雄の帰国を歓迎する』とのことです」
「……出迎えを感謝すると返して下さい」
「了解です。英雄艦長」
恋はこんな茶目っ気があっただろうか。
沈着な青年も、久しぶりの帰国に少し興奮しているのだろうか。
ただ、英雄と呼ばれるのは少し違うと言う気はした。
自分は碌なことを出来ていない。
ここまで来れたのは、ひとえに運が良かったことと、クルー達の尽力だった。
「港湾管制局のビーコンに乗りました。7番のドライドックに入港許可です」
横須賀に、入った。
後は地下ドックに入り、イ404――イ401も、長い航海に一区切りをつけることになる。
そして紀沙にとっては、長い任務の完遂を意味した。
大きな、本当に大きな息を吐いて、紀沙は口を開いた。
「皆さん」
機関室や医務室への通信も開き、発令所のクルーも見渡して、紀沙は言った。
「有難うございます」
本当はもっと気の利いたことを言いたかったのだが、思いつかなかった。
だから、これまでの航海のすべての総括として、単純な礼を言った。
反応は様々だった。
照れ臭そうに笑う者、鼻の頭を掻く者、小さく吐息を漏らす者……。
「入港シークエンス、開始」
そんな中、おそらく「皆さん」の中に含まれていないだろうスミノがそう言った。
あえて言うところがスミノらしく、彼女達らしいとも言えた。
そうして、イ404は横須賀に入港した。
◆ ◆ ◆
揉みくちゃにされた。
最初は格式ばった挨拶などもあったのだが、いつの間にか大騒ぎになっていた。
四方八方から頭を叩かれ肩を叩かれ、最終的には胴上げまでされて、上陰が止めに来なければそのまま宴会でも始まりかねない雰囲気だった。
『とんだ災難だったようだね』
ここに来るまでに多少整え直したが、軍礼装の端々に乱れの跡を見つけて、楓首相はクスリと笑った。
笑われて、少し気恥ずかしくなった。
だが出航前に会った時に比べると、楓首相もやはりどこか柔らかだった。
それだけ、イ号艦隊の成し遂げたことが大きかったと言うことだろう。
もちろん、まだまだ楽観は出来ない。
霧の海洋封鎖は未だ続いているし、日本国内の状況が好転したわけでは無い。
それに、2年後のこともある。
未来はまだまだ暗い。
だがそれでも、出航前に比べればずっと希望が見えているように思えた。
「ローレンス!」
「蒔絵お嬢様……」
そう信じられるのは、蒔絵が長髪の男性に飛びつく姿を見たからだ。
旅の最中は機関室を手伝ったり発令所の手伝いをしたり、時には紀沙を励ましたりと、年齢不相応に振る舞うことも多かった蒔絵が、
当初の約束とは違う形だったが、それでも紀沙は目の前の光景に喜びを感じていた。
「ありがとう」
お礼なんて良いと、紀沙は思った。
本当の約束は、
「
……嗚呼。
何て賢い娘なのだろうと、そう思った。
涙を浮かべた笑顔でそんなことを言われてしまうと、紀沙にはもう何も言えなかった。
刑部博士も同じことを思ったのだろう、目頭を押さえて俯いていた。
『私は席を外した方が良いかな?』
「あ……し、失礼致しました!」
『ああ、いや、構わないさ。ただ、キミの意見を聞いておきたい案件があってね』
「何でしょうか?」
『うむ……』
不意に空気が固くなるのを感じて、紀沙は背筋を伸ばした。
楓首相があえて自分に聞きたいこととなると、諸外国の情勢か、あるいは霧のことか、2年後のことか。
色々と考えを巡らせてみたが、紀沙の予想はいずれも外れた。
『イ401の処遇について。キミの所見を聞きたい、千早紀沙
楓首相のその言葉に、紀沙は全身が冷たくなっていくのを感じた。
バイザー越しに見える楓首相の目は、じっと紀沙を見つめていた。
◆ ◆ ◆
イ401は、日本にとって常に懸念材料だ。
日本政府の意に従わないだけで無く、脅威的な
群像がその気になれば、彼は世界中の国々を脅迫することも出来るのだ。
かつて核兵器が
『例えばイ401――群像艦長に何かを要求された場合、我々は非常に断りにくい状態になるだろう』
いや、群像艦長が<蒼き鋼>を今のままにするなら、まだ良い。
もし他国に属したり、<緋色の艦隊>のように他国と同盟を結んだりしたら?
もし超重力砲で脅迫したり、他の霧と結託して人類にさらなる圧迫を加えてきたら?
あるいは<蒼き鋼>が各国政府の上に立ち、国際社会における「
群像を知っている人間であれば、鼻で笑ってしまう
だが、他の人間にとってはそうでは無い。
それに群像が変質しないなどと、それこそ紀沙にだって保証は出来ないだろう。
人は変わる、力を持ってしまった人間ならなおのこと変わってしまうのだ。
『一歩間違えれば、イ401は世界の脅威になりかねない』
結局のところ、これは千早群像と言う少年の唯一と言って良い弱点であったのかもしれない。
それは、かつて天羽琴乃が懸念し、真瑠璃がイ401を降りた理由とまったく同じもの。
千早群像の、歪んだ部分。
頼らない、あるいは必要としない。
忘れがちだが、僧や杏平達イ401のクルーは最初に
本当なら、群像はイオナと2人きりで海に乗り出していたはずだった。
副長もソナーも、水雷長も機関長も、群像は必要としていなかった。
せいぜい、いれば助かる、ぐらいなものだろう。
「……兄は、良くも悪くも自立した人間です」
勘違いしてはならないのは、だからと言って群像が冷血漢と言うわけでは無いと言うことだ。
友情を感じるし、義理堅いところもある、人間らしい感情があるのだ。
ただ群像は、拠って立つ、と言うことをしないのだ。
最後に頼れるのは自分だけだと、心根のところで理解している、決めている。
一般的な物言いをすれば……そう、「他人に仕事を任せることが出来ないタイプ」、なのだ。
「
だから群像に尽くそうとする人間は、疲れてしまうのだ。
徒労感を感じてしまって、真瑠璃のように辛くなって離れてしまう。
群像への想いが強ければ強いほど、そうなってしまうのだ。
痛いほど、良くわかっている。
「でも、だからこそ」
そんな群像だからこそ。
「そんな兄だからこそ、首相のご懸念には当たらない。私はそう思っています」
『それは、群像艦長の妹君としての言葉かな?』
「違います。……と言えば、嘘になるかもしれません。でもたとえ赤の他人であったとしても、今までの航海の中で、私は同じ判断をしたと思います」
そう、実の妹でありながら、赤の他人が抱くだろうと同じ感想を紀沙は得ていた。
それは、実の妹でさえ群像に近付くことが出来ない哀しさを象徴していた。
『それでも、イ401が人類の脅威となった時には?』
「…………そのときは」
一方で、紀沙には確信があった。
予感、と言っても良い。
それはこの一年弱の世界航海の中で、日々強まっていった予感。
いつか来るその日。
「その時は、私が――――……」
訣別の日。
自分と兄が、向かい合うであろうその日を。
紀沙は、強く予感しているのだった。
◆ ◆ ◆
紀沙が退出した執務室で、楓首相は壁一面に広がる横須賀の水面を見つめていた。
昨年、イ号艦隊を見送った時と同じ景色だった。
しかし一方で、海が優しくなったとも激しくなったとも思える。
まるで、先行きの見えないこの世界の行く末を暗示しているかのようだった。
『蒔絵嬢はいかがですか、博士』
「今、ラボで検診を受けています。特に問題は無いようです」
『そうですか、それは良かった』
物陰から姿を現したのは、刑部博士だった。
再会をひとしきり喜んだ後、蒔絵はラボを兼ねる刑部邸に一旦戻っている。
デザインチャイルドである彼女の身体は普通とは違うため、病院では診ることが出来ないためだ。
イ404に乗っていた間、医官の良治を悩ませていたことでもある。
『博士の目から見て、いかがですか。紀沙艦長は』
「私には、人を見極める眼力はありません。ただ……」
『ただ?』
「何故、彼女にあのような質問を?」
蒔絵のことがあるので、刑部博士は紀沙に対して好意的な思いがあるのかもしれない。
この会話で、楓首相はそう思った。
もしかすると、蒔絵から何かを聞いたのかもしれない。
かつて野心に溺れたが故に人道から外れた人物とは、同一人物とは思えなかった。
そして同時に、見抜いてもいる。
実際のところ、楓首相にはイ401をすぐにどうこうしようと言う気は無かった。
するメリットが無いためだ。
だから今回のことは、単に紀沙の意思を確認――有体に言えば、踏み絵を踏ませたに過ぎない。
『ああ言うタイプは、事あるごとに確認しておいた方が良いのですよ』
もうすぐ在職四年目になるこの首相は、そろそろ次のことを考えなければならない。
楓が「首相」と呼ばれる期間は、あまり残されていないのだ。
だから今の内に、と言う思いもある。
楓首相が危惧しているのは、イ401のことだけでは無いのだから。
『今回、紀沙艦長はイ15と言う霧も連れて帰って来た。諸外国は日本が霧の戦力を囲っていると、疑惑の目を向けてきているのですよ』
それも事実だ。
表向き各国は何も言わないが、不満はあるだろう。
<緋色の艦隊>と同盟したイギリスの例が無ければ、表立って非難してきたかもしれない。
イ401が脅威と言うことは真実だが、同時に……と言うことでもあるのだ。
『それに、2年後のこともあります』
2年後に宇宙から何者かがやって来る。
まるで三流のSF映画のような展開だが、事実となれば笑ってもいられない。
紀沙や刑部博士はもちろん、次の大きな戦いに向けて国力を絞り尽くさなければならないだろう。
そこにはベストな状態のイ401も含まれる。
だから、
『とりあえずは、明日……』
欧州大戦が終わり、世界から戦火は徐々に消えていくだろう。
しかしそれは、恒久平和を必ずしも意味しない。
2年後までの、休戦に過ぎないのだ。
いまは、まだ。
◆ ◆ ◆
もちろん、何もかもが思い通りに行ったわけでは無い。
ただ、大きく外れることは無いように努めてきたつもりだった。
そのために官職に就くこと無く、自由に行動できる傭兵としての地位を保って来たのだから。
「珍しいな、群像がそんな泣き言を言うのは」
そんなつもりは無かったのだが、そう言ってイオナはこちらを見つめてきていた。
イオナが鋭いのか、あるいは群像がわかりやすいのか。
イ401の私室でコーヒーを飲んでいた群像は、ベッドに腰掛けた姿勢でこちらを真っ直ぐに見つめるイオナと目を合わせた。
そして、はたして自分は泣き言を言っただろうかと考える。
言ったのかもしれない。
確かに、<蒼き鋼>は群像の自由を体現するためのチームだ。
しかし一方で、<蒼き鋼>であるが故に手の届かない場所と言うのもある。
「ここ最近、響と連絡が取れていない」
「真瑠璃か。確かお前達は私の端末で連絡を取り合っていたな」
「ああ。ただ、インド洋に入ったあたりから返信が無くなった」
群像と真瑠璃は、別に喧嘩別れしたわけでは無い。
真瑠璃が艦を降りたのは、あくまで2人の関係が行き詰ったからに過ぎない。
それは個人としては辛いものではあったが、真瑠璃が群像を否定することを意味しない。
艦を降りた跡も、真瑠璃は群像の協力者であり続けた。
協力者であって理解者では無かったところは、琴乃とは真逆だった。
「何かあったと考えるのが妥当だろうな」
「ああ」
問題は、その「何か」が何か、と言うことだった。
真瑠璃とは連絡を取り合っていたし、時には情報のやり取りをすることもあった。
霧の仕様での通信を人類の技術で傍受できるはずが無い、そうタカを括り過ぎたのが不味かったのか。
しかし、そうだとすれば……信憑性が増す件もある。
「振動弾頭の時から不思議だったんだ。開発者……あるいは開発グループは、どうやって霧の装甲の破砕振動数値を把握したのか」
霧の技術が人類のそれを圧倒する以上、理論上は可能でも、実際に振動弾頭で破壊できる数値を理解しなければ、兵器の実用化など出来ない。
刑部蒔絵が人智を超えた天才だったから?
もちろん、それもあるだろう。
一方で、より信頼性の高い仮説もある。
「親父が言っていた、出雲薫の遺産。それが関係しているのかもしれない」
はたしてそれがどんなものなのか。
2年後には滅びると言うこの世界で、この絶望で、それは
真瑠璃の安否を気遣うと同時に、群像はそうしたことも考えていたのだった。
◆ ◆ ◆
危なかった。
突然、恋から連絡が入って何事かと思ったが、連絡が無ければそのままお別れになるところだった。
もはやイ404の
彼が今日の内に
「こんなに早く行っちゃうなんて……」
「オーウ。本当はもっとクールに消えるはずだったのヨ」
クルーも含めて、全員で見送ることになった。
何しろアメリカからこっち、ジョンの情報に助けられたことは一度や二度では無い。
本来なら協力者としてしかるべき待遇をされるべきなのだろうが、ジョンはそれを望まなかった。
まぁ、確かにジョンとの契約はそう言うものでは無かった。
日本まで連れて行くこと。
それが、紀沙達とジョンの約束だった。
理由はあえて深く聞かなかったが、ジョンが日本行きにこだわっていたことは確かだ。
「実は……ユー達には内緒にしていたことがあるネ」
サングラスを外しながら、ジョンは深刻な顔をした。
素顔を初めて見たが、意外と根は真面目そうな顔をしていた。
何しろ中途半端な金髪と無精髭、胡散臭い笑顔がデフォルトだったがために、気さくなようでとっつきにくいところがあった。
こうして見ると、少しは気安げに見えてきた。
「実は、ミーは……ミーは、アメリカ人では無かったのヨー」
(((知ってたよ)))
「黙っていて、本当にソーリーネー」
(((いや、知ってたから)))
何を言いにくそうにしているのかと思ったら、最初から皆が気付いていることだった。
ジョンと言う名前とは裏腹に完全にアジア系と言うか、日系と言うか、いやぶっちゃけ日本人だろと思っていた。
ただ、お約束とばかりに誰も口にしなかっただけである。
「アメリカに単身赴任していた最中に海上封鎖が完成して、アイムホームし損ねてしまったのヨ」
「そうだったんだ……」
これは初耳だった。
何しろ、今までジョンは自分の事情については頑として話そうとしなかったからだ。
「本当はユー達をもっとヘルプしたかったけど、ミーもファミリーを探さないといけないからネ」
家族、と言う言葉に思うところがあった。
海洋封鎖の前に帰れなくなったと言うことは、少なく見積もっても17年は音信不通だったことになる。
稀代の情報屋と言えども、この荒れた日本で見つけられるかどうか。
「……きっと、ご家族もジョンのことを待ってるよ」
「サンキューネ。ユー達も大変だけど、頑張ってネ」
「うん。有難う――艦長として、お礼を言います。本当に有難う」
握手をしてみると、ゴツゴツとした固い手触りの掌だった。
苦労していると言うか、手仕事をしている手だった。
手伝いたい気持ちもあったが、ジョン自身がそれを望んでいないことはわかった。
もしかすると、普通の人生に戻りたいとでも考えているのかもしれない。
それは尊重したいと、紀沙は思った。
「ジョン、最後に……貴方の名前を、教えて貰っても良い?」
「そう、そうネ。ミーのソウルネームは――――……」
ジョンはもう戻っては来ないだろうし、蒔絵も刑部博士の下に戻るだろう。
元々正規のクルーでは無いとは言え、少なくない時間を共に過ごした。
だからだろうか、別れた後のイ404は、いつもより広く思えた。
◆ ◆ ◆
紀沙達イ号艦隊が戻った時、そこにいるべき人間が1人いなかった。
その人物は未だ入院中のため、ドックへ向かうことが出来なかったのである。
そしてその人物とは、次官である上陰が直接出向かなければならないような重鎮だった。
まぁ、北のことである。
「そうか、戻ったか」
そして紀沙達の帰還のことを話した時、北の反応はむしろ淡々としていた。
実際のところ、上陰が足しげく報せなくとも、北ならば独自の情報ルートを持っていてもおかしくは無いので、おそらくは知っていただろうと思う。
それでも今初めて聞いたかのように接してくるのは、流石は年の功と言ったところか。
とは言え、上陰としても特別な反応を期待したわけでは無い。
そもそも上陰と北は、言わば楓首相への影響力を競う間柄でもある。
政敵、とまでは言わないまでも、それなりの緊張感を孕んだ関係ではある。
それでも上陰が北の下を訪れたのは、今後のことについていくつか擦り合わせておかなければならないことがあるからだ。
「……
「はい」
北と上陰の会話において、
「出雲薫の研究所」と、「旧第四施設」である。
時の首相と、たった1人の側近しか知り得ないこの国の秘密だ。
北の目覚めにより一時的に2人になっているが、これは異例なことだった。
「どう思った」
「……正直、悩みました。しかし私も公僕である以上、国のために清濁を併せ呑む覚悟はあります」
「若いな」
「そうなのかもしれません」
若い、のだろうか。
次官まで上がった上陰は年齢的には若いとは言えないが、北のような人間からすれば、まだ若造と言うことなのだろう。
いつかは、そう呼ばれなくなる日が来るのだろうか。
「楓首相は明日、群像・紀沙両艦長にそれらを開放するようです」
「む……」
「北議員には、何かご懸念な点が?」
「いや、楓首相の判断に従おう。確かに良い時期だと思う」
個人的な関係において、北と楓の関係は北の方が上位にある。
元艦長と副長と言うのもあるし、北の方が軍歴も政治家としてのキャリアも上だからだ。
一方で、首相と与党幹事長と言う関係で関わる際、北はきちんと序列を守る言動をする。
だから今も、楓首相の判断を尊重したのだろう。
官僚の上陰からすると、そうした北の姿勢はむしろ好ましいものだった。
「明日は私も同行するつもりです。北議員は……」
その時、北の病室がノックされた。
当たり前の話だが、誰も入れるなと伝えてある。
それでもなお入室が許されるとなると、思い当たる相手は1人しかいなかった。
入室を特別に許されたその人物は、北と話し込む上陰の姿を認めると、少し慌てた仕草で敬礼した。
「失礼致しました。お話の途中でしたでしょうか」
「いや、構わん。終わったところだ」
千早紀沙が、そこにいた。
◆ ◆ ◆
北が怪我をしているとは、知らなかった。
驚いてやって来てみれば、北自身は事のほか元気そうだった。
上陰が退出するのを待って、紀沙はベッド脇まで近付いた。
そこに至って、紀沙は思った。
「……」
「…………」
何と声をかけよう。
北は上官では無いので、「戻りました」と報告するのは違う。
そもそもここに来たのも、北が怪我をしたと言う話を聞いて飛び出して来た、と言うのが正しい。
居ても立ってもいられずに、とやって来たのは良いのだが……。
「あの……」
「…………」
話したいことが無かったわけでは無い。
いや、むしろ話したいことはたくさんあった。
ただそれをいざ言葉にしようとすると、上手く口を突いて出てきてくれない。
話したいと言う気持ちばかりが先行して、空回りしていた。
そして北も、何も言ってくれなかった。
と言うか、紀沙の方を向いてもくれなかった。
ずっと瞑目して、自分の手元に顔を向けていた。
北が何も言ってくれないことも、紀沙の沈黙に拍車をかけていた。
(怒ってる……のとは、ちょっと違う気もする、けど)
北と過ごした時間の長さから、怒っているわけでは無いと言うのはわかる。
ただ気難しいところもあるから、そう言う時には気を遣った。
今は、それとも違う気がする。
何かを堪えているような、そんな気配だった。
「……屋敷の」
「はい!」
と思っていたら不意に北が口を開いて、紀沙は飛び上がりそうなほどに驚いた。
「屋敷の女中達が、お前のことを心配していた」
「あ、はい……」
北の屋敷の使用人達には、本当にお世話になっていた。
皆、何かと紀沙のことを気にかけてくれていたからだ。
紀沙の事情を知っていて、それでいて優しくしてくれた人達だ。
それはもちろん安否が気になるところだが、今この場での話題としてはどうなのか。
その後しばらくまた沈黙が続いて、だんだんと胃が痛くなって来た。
すると、また北が口を開いた。
北にしては珍しくまごついた様子で、何かと思って待っていると。
「……お前の」
「……?」
何かと思って首を傾げると、北が言った。
「お前の作る食事を、久しく食べていないな」
それは、まぁ、そうだろうなと思う。
何しろ紀沙がいないのだから。
ただ、紀沙の胸中に温かいものが生まれたのは確かだった。
自然、目尻に熱い雫が零れてきた。
「はい……はい、北さん。帰ったら、是非」
「…………ん」
帰って来た。
改めて、紀沙はそう思うことが出来た。
北との時間が、思い出させてくれたのだ。
◆ ◆ ◆
千早紀沙は、人間が好きだ。
少なくとも本人はそう思い込もうとしていて、どんな目に合おうとも、結局は許してしまう。
アメリカでもロシアでも、クリミアでもそうだった。
人間のしたことについては、驚く程に柔軟な受け止め方が出来るのだ。
「まぁ、つまりね。脇が甘いって言う話なんだよ。ああ、ちなみに艦長殿の弱点は脇だよ。実際ね」
言うと怒るんだけどね、と、スミノは言った。
そんな彼女は北が入院している――つまり紀沙が訪れている――病院の屋上にいるのだが、様子が聊かおかしかった。
と言うのも、スミノは
もちろん、病院の屋上に山があるはずも無い。
だから山と言うのは比喩であって、正確には、
折り重なるように倒れている兵士達をお尻の下に敷いて、スミノは夜空に広がる大きな、大きな月を見上げていた。
月光を受けるその瞳は、神秘的な光を
「まぁ、それでもね。キミ達みたいな方がわかりやすくて好きだよ、ボ」
こめかみのあたり、メンタルモデルが纏ったクラインフィールドが銃弾を受け止めた。
ぐらり、と、少しだけスミノの身体が揺れる。
「ば……ばけもの、め……ガッ!?」
弾き返された銃弾で、屋上の隅に倒れていた兵士は沈黙した。
スミノは、そちらを見もしなかった。
「反
紀沙は人間が好きだ。
だからそれまで自分を冷遇していたり、あるいは遠巻きに後ろ指を指していた人間達の掌返しも受け入れてしまうのだ。
皆それぞれに事情があったのだから、自分の家族がそうだったのだから、と。
嗚呼、何と人間にとって都合の良い救世主様なのだろう! 聖女様とでも呼ぼうか?
スミノは別に人間が好きと言うわけでは無い。
仮に人類が滅びてしまったところで、「へえ、そう」で済ませる自信があった。
スミノとしては紀沙にもそうなって欲しいところだが、望み薄かもしれない。
まぁ、それならそれで構わない。
「やぁ、今日はとても良い夜だね」
永遠の時間を持つ霧なればこそ、気長にもなる。
今日のところは、久しぶりに見る日本の月を愉しむことにした。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
やっと日本に戻って来れました。
長かった……後は最終話まで進めていくだけですね。
その前にもう少し日本編があるので、お付き合い下さい。
なお、次回あたりで最後の募集をする予定です。
宜しければ、ぜひご参加下さい。
それでは、また次回。