――――最後の容器を設置し終えると、その老人は椅子に深く座り込んだ。
深々と吐き出された吐息は、疲労の色が色濃く現れていた。
足下には空の注射器が何本も転がっていて、一部は中身の
良く見てみると老人のむき出しの腕は、二の腕から手首にかけて、血管が青黒く浮き上がっているようだった。
「所詮、私にはあの2人のような適正は無かった。これは、やむを得ない結果なのだ……」
白い眉と髭に覆われた皺だらけの顔が、苦しげに歪められた。
時計の無いその空間――いくつかの容器の光だけが、室内を照らしている――では、今がいつなのか、朝なのか夜なのかもわからない。
それに、その老人がどのような状態なのかも実のところわからない。
ただ、弱っている。
老衰や病気とは明らかに違う、肉体の各所が破壊されている。
吐き出された呼吸も、どこか、引っかかるような吐き出し方だった。
いつしか、老人の眼も閉ざされていた。
「いつか……いつか、私の残した仕掛けに気がつく者がここを訪れるだろう。その時、その者はキミに会いに行くことになるはずだ……」
浅い呼吸を繰り返しながら、老人は誰かに向けて言葉を紡いでいた。
話し相手の姿は、室内には見えない。
あるいは、命を使いきりつつある老人の戯言であったのかもしれない。
しかし、戯言にしては真に迫っていた。
「その時にこそ、本当の意味で人類評定が始まる……人類に、この先があるのかどう、か……」
老人の、苦しげな咳が続いた。
乾いた呼吸音が続き、そうしていると、不思議なことが起こり始めた。
老人の身体が淡い輝きを放ち始めたのだ。
そして体の端から、光の粒子がぽろぽろと零れ始めている。
まるで、砂時計の砂のように……。
「どうか……導いてやってくれ。そして、あの2人の愛した世界を……」
……消えていく。
老人の肉体が、この世に存在していたことが嘘か何かのように、粒子となって消えていった。
深く、老人が息を吐き出す。
それが、最後の呼吸だった。
「いつか、必ず、人類は学ぶ……そのはず、だから……」
そして、その空間から誰もいなくなった。
まるで最初からそうであったかのように、無人の空間となり、やがて照明すら消えて。
そんな中で一瞬だけ、ぼう、と、亡霊か何かのように、老人が座っていた椅子の前に何かの姿が見えたような気がした。
それは、白い宇宙服のように見えた――――……。
◆ ◆ ◆
女だった。
宇宙服のメットを外した後、紀沙達の前に晒された素顔である。
美人、なのだろう。
長い金髪に白磁の肌、はっきりとした目鼻立ちは西洋人のそれだ。
アメリカ人、らしい。
良く見れば、宇宙服にアメリカの国旗が刻印されていた。
それにしても古めかしい宇宙服だった。
今の時代、有人での宇宙探査は愚か、人工衛星を打ち上げることすら出来ない。
最後の宇宙飛行士など、20年以上も前の話だ。
「わかるよ。お前……メンタルモデルだ」
顔を顰めて、紀沙はそう言った。
むしろ、ここまで来て普通の人間であれば逆に驚く。
紀沙は、「宇宙服の女」の肉体がナノマテリアルで構成されていることに気付いていた。
それ自体はもはや驚くに値しない、問題なのは――――頭痛だ。
脳の奥を抉り取られるような、言葉に出来ない程の激痛が突如として襲ってきた。
(あいつが、メットを取ってからだ)
宇宙服の女が素顔を晒したその時から、紀沙の頭に刺すような傷みが走り始めた。
知らず、拳を握り締めていた。
指に爪が喰い込んで痛いが、少しでも頭痛から意識を逸らしたかった。
余りの痛みに、額に嫌な汗が滲んできていた。
そして、思い出すことがあった。
あの時だ。
焼失事件当時、ここで琴乃と共に
あの時、琴乃は激しい頭痛に見舞われて動くことすら出来なかった。
当時は不思議に思ったものだが――――
「……っ」
「紀沙? 大丈夫か」
「だいじょうぶ……」
兄に手を上げてみせつつ、宇宙服の女を睨み据える。
嫌なことを考えさせてくれる。
とても、不愉快だった。
そして、紀沙が不愉快を感じ取ったと言うことは。
「当然、ボクも不快だよ」
突如、視界に光の線が走った。
それは宇宙服の女の背後に現れたスミノによるもので、より言えば彼女の手刀によるものだった。
手刀の軌跡は宇宙服の女の首に及んでいたはずだが、床に落ちたのは、メットだった。
コツン、と、乾いた音がその場にいる全員の耳に届いた時。
「――――」
宇宙服の女の眼が、電子の光を灯した。
メットが打った床を起点として、いきなりの変化が生まれた。
そこから一気に、世界が反転したのだ。
オセロの白が、黒になるように――――だ。
次の瞬間、紀沙達は
――――は?
◆ ◆ ◆
もし仮に宇宙船に乗っていたとして、窓の外に見える光景はこんなものだろう。
そうとしか思えない光景が、紀沙達の周囲に突如として現れた。
幻……にしては、現実感が強すぎる。
漆黒の空間に、いくつも燃える小さな点――星々が見える。
ある星は激しく燃えて周囲を明るく照らし、またある星は歪んだ闇の空間の中に存在している。
漆黒の世界を引き裂く箒星がある一方で、不動のまま動かない岩のようなものもある。
ああ、無数の岩石や氷が集まって帯状に広がっているところもある。
明るい色を放つ大きな星がいくつか見えるが、あれは惑星と言うものだろうか……?
「あれは木星ですね」
表面に幾何学的な模様を浮かび上がらせる大きな惑星が見えた時、不意に上陰がそんなことを言った。
楓首相や北がやや意外そうな視線を向けると、取り繕うように咳払いをしていた。
心なしか、耳が少しばかり紅潮していた。
『詳しいね』
「まぁ、幼い頃に少々……」
まぁ、上陰の幼少時の趣味はともかくとして。
木星と言われれば、流石に今どこにいるのかは確信が持てる。
今、紀沙達は宇宙空間にいるのだ。
……改めて考えてみると、こんなにも非現実的な言葉も無いものである。
「スミノ、私達の現在位置は?」
「勿論、変わらず旧第四施設跡さ」
紀沙が視ても、座標に変化は無い。
つまり、自分達は一歩も動いていない。
360度を宇宙空間が覆い、視界は激しく――太陽らしき輝きが高速で遠ざかり、あたりは寒々しい暗い空間に変わり始める――移動しているにも関わらず、足下を見失うことが無いことからも、明らかだ。
これはあの女が、「宇宙服の女」が見せている幻覚だ。
『幻覚デハ無イ』
頭に、針を刺したような痛みが走った。
いや、それ以前に。
今のは、声……なのだろうか。
『北さん、聞こえましたか?』
「うむ。今のは……?」
どうやら、他の者にも聞こえたらしい。
声と言うには頭に響き過ぎるし、テレパシーと言うには鼓膜に響き過ぎる。
宇宙服の女の意思の発信方法を何と表現するべきなのか、紀沙にはわからなかった。
しかし、それが宇宙服の女の
そのタイミングで、紀沙達は青い惑星――地球では無い、地球以上に青以外の色が見えない――の側を通り過ぎた。
やがて、無数の岩石や塵、ガスの塊のような物体が円盤状に集まった空間に辿り着いた。
ここでまた上陰が「カイパーベルト……?」とか呟くのだが、今度はそれに反応する者はいなかった。
おそらく、宇宙を構成する何かしかなのだろう。
『私ハ警告ヲ伝エルタメニ来タ』
警告を伝えるために来た。
どこから?
何を求めて?
そして、そうした疑問を代弁するように一歩前に出たのは、やはりと言うか、群像だった。
「教えてくれ。キミは何を伝えに来たんだ」
移動は、まだ続いている。
地球はおろか太陽すら見えなくなり、いや太陽系すら離れて、外へ。
外へ、外へ……さらに外へ、宇宙の外へ。
遥かな外側へと、紀沙達は誘われていった。
◆ ◆ ◆
宇宙と言う無限大に広がる球体の中には、人類が未だ到達できていないだけで、知的生命体を有する惑星はいくつも存在していた。
もちろん
重要なのは、知的生命体が生まれる場所に、霧のコアもまた生まれる、と言うことだ。
それは人類に近い姿の時もあれば、海洋類のような姿の時も、あるいはガス状の生命体のような時、植物や菌糸類のような姿の時もあった。
そして、いつか必ずその惑星の知的生命体と衝突する。
いつでも、どの惑星も、そうだった。
『
一種、あるいは一種族とでも言うべきだろうか。
しかし、知的生命体と
少なくとも他の惑星に被害が及ぶことは無いし、広大な宇宙にとっては、たかだか一惑星の興亡に過ぎないからだ。
だがある時、宇宙にとってとてつもなく不幸なことが起こった。
『
脆弱で、そして生命力の強い知生体だった。
固体であればあらゆるものを依代とすることが出来、それでいて本体はミクロ単位のサイズ。
唯一、依代の急激な環境変化についていけないと言う弱点があった。
しかしその生命体の姿を模した
自らの惑星を文字通り
『
彼女達は、集団で宇宙を旅する。
斥候の1体が適当な惑星を見つけると
仲間が到着すれば、その惑星は瞬く間に侵蝕され、痕跡すらも残さずに宇宙から消えることになる。
今まで、いくつもの惑星が同じ運命を辿った。
『ソシテ今度ハ地球ヲ目指シテイル』
次にそうした運命に消えるのは、地球だった。
太陽系の惑星の中で最も豊かな生命力に満ちた蒼く美しい惑星は、彼女達にとって、垂涎のご馳走に見えることだろう。
そして、それはもはや止めることは出来ない。
彼女達は、可能な限り地球にある物質を模した姿でやって来るだろう。
それは例えば外宇宙を目指した探査機の残骸であったり、あるいは放棄された宇宙ステーションであったり、彼女達の
来るべき運命の日は決まった、泣こうが喚こうが変えることは出来ない。
◆ ◆ ◆
『
周囲の映像が、どこかの星の光景に切り替わった。
次々に映し出される光景は、紛れも無く「滅び」のものだった。
滅びの形は、すべて同じだった。
どの惑星も、どの世界も、どの時代も――すべて、
すべてが地球と同じとは言わないが、そんな違いは
ただ寄生し、内側から依代を破壊し乗っ取り、やがて依代のエネルギーを喰らい尽くす、これをただただ繰り返していく。
その果てにあるものはいつも同じ、荒廃した無人の惑星だけだ。
そしてその惑星すら、
『
たった1つの例外。
それは何だ?
『
ありとあらゆるものに寄生することが出来るミクロ単位の霧の生命体も、存在しないものに寄生することは出来ない。
意思の力だけが、
『私ト言ウ意思ヲ放ッタ者達ハモウ存在シナイ』
勿論、意思に意思を持たせて――矛盾する表現ではあるが――遥か彼方へと飛ばす。
それ自体が地球人類にしてみればあり得ない科学力だが、そんな脅威の科学力を持った惑星文明も
その事実は、それだけで地球人類にとって最悪の未来を予感させる。
しかし、ここに1つの幸運がある。
この「宇宙服の女」と言う意思が、地球に辿り着いていたと言う幸運だ。
これは、奇跡だった。
『アドミラリティ・コード』の覚醒が無ければ、おそらく彼女が地球を見つけることは出来なかった。
『ダカラコソ成就サセテヤリタイ』
意思に感情は宿らない。
だからそれは与えられた任務に対する責任感、言い換えれば己の
たとえ、自分と言う意思を飛ばした者達がすでにどこにもいないのだとしてもだ。
『備エロ』
これは警告だ。
遥か宇宙の彼方より届いた、たった1つのメッセージだ。
ヨハネス、グレーテル、出雲薫の3人だけが受け取ることが出来た。
その事実をついに、今、失われた3人以外の人類がはっきりと認識すべき時が来たのだ。
新たなる『アドミラリティ・コード』を覚醒させよ。
急げ。
備えろ。
……警告は、以上だった。
◆ ◆ ◆
警告と言うものは、扱いが難しいものだ。
する側もさることながら、受け取る側にとってもそうだ。
何故ならば警告とは、往々にして未来に起こる出来事について注意を促すことだからだ。
そしてまだ起きていない未来の事態に対して、人は……
「……むぅ」
『まさか、これほどの事態とは……』
楓首相や北であっても、そうだった。
まず、事態が飲み込めない。
何しろ、「お前達の惑星にヤバいのが来るから気をつけろ」と言う、およそ荒唐無稽な話なのだ。
クリミアで起こった事件は聞いていても、それとはまた種類が違う。
衛星が落ちてくる、と言う話では無い。
星々を喰らい尽くす化物がやって来る、と言う話なのだ。
しかも、これまでにいくつもの銀河を滅ぼしてきたのだと言う。
今時、B級SF映画だってもっとマシな脚本を書くだろう。
「キミのその話が、事実だと言う証拠は?」
『証拠トハ何ダ?』
「その、証明してほしいと言うか」
『スデニ起キテイルコトヲ証明スルトハ何ダ?』
「む……」
上陰の問いは、「宇宙服の女」との間の意識のズレを浮き彫りにしただけだった。
例えば、目の前で起きていることに対して「それが起こった証拠を見せろ」と言う人間はいないだろう。
「宇宙服の女」にとっては、その「目の前」が宇宙の果てだと言うことなのだ。
だから証明だ証拠だと言われても、「お前は何を言っているんだ?」と言う反応にしかならないのだ。
鈍い、反応が鈍かった。
今から起こるだろうことがわかってはいても、想像が、認識が追いついて来ないのだ。
それは、あるいは国と言う大きなものを動かしてきた大人だからこそ、そうなのかもしれない。
余りにも大きな影響を持つ出来事に対して、内心が反射的に抵抗を示してしまうのだ。
「
こんな時、いつだって若者の方がレスポンスが早い。
切り替えと言うか、開き直りが早いのだろう。
まだ拠って立つべき理が少ないが故に、自然とそうなるのかもしれない。
「
紀沙の言葉に、「宇宙服の女」はゆっくりと視線を向けて来た。
受け止める。
星を収めたような無機質な瞳が、紀沙の電子の瞳と視線を交わした。
と言って、「宇宙服の女」は紀沙の言葉に対して是非を言ったりはしない。
紀沙の言葉の方に反応したのは。
「いや、戦って勝てる相手じゃない」
同じ人間の若者の、群像の方だった。
◆ ◆ ◆
ありとあらゆる文明。
ありとあらゆる惑星。
ありとあらゆる宇宙。
そのすべてが、敗北し滅亡した。
「率直に言って、そんな相手を戦うと言う選択肢は取れない」
そんな惑星でも
そうでなくとも、戦えば甚大な被害が出ることは間違いなかった。
「和解……和平の可能性は無いのか?」
『
当たり前だ、と紀沙は思った。
違う国同士の人間が分かり合うことだって難しいのに、宇宙規模になればなおさらだ。
そんなことは群像にもわかっているはずだ。
それでもこの兄は、わかり合えると本気で思っているのだろうか……?
「戦うしか無いよ」
だから、自然と口を突いて出ていた。
と言うより、普通に考えてそれしか選択肢は無いように思えた。
何故ならこれは、こちらに選択権の無い選択なのだから。
向こうが来るなら、迎え撃つ、それだけのことではないか。
「兄さんは、本気で
「正直、自信は無いな。だが紀沙、他ならぬお前を見て、オレは不可能では無いと感じられる」
「私を?」
「ああ。霧と強い繋がりを持つようになったお前を見て、オレは新しい可能性を見たような気がした」
強い繋がりと言えば、そうなのだろう。
何しろ紀沙の肉体はほとんどすべてがナノマテリアルだ、人間と言うよりほぼ霧と言った方が良いかもしれない。
霧の力を持つばかりか、第四の超戦艦の片鱗さえ見せて、あまつさえ『アドミラリティ・コード』の欠片さえも持っている。
繋がりと言われれば、それは否定しようの無い事実だった。
もしかすると、群像は羨ましいのだろうか?
彼は霧と……イオナと仲間にはなれても、本当の意味で繋がることは出来ない。
霧の世界に入れる紀沙とは、根本的に違うのだ。
しかし。
「……ふざけたこと、言わないでくれる……?」
しかし、それは紀沙にとって最も言われたくないことだった。
紀沙にとって、最も、
あるいは、以前からわかり切っていたことが表面化しただけなのかもしれない。
つまりこれは、避けて通れないことだったのだ。
千早兄妹と言う、2人の少年少女にとって。
◆ ◆ ◆
兄は天才だ。
霧と伍するその知略と視野の広さは、人類屈指の天賦の才だろう。
それこそ、紀沙はそのことを良く知っているつもりだった。
そしてもう1つ、群像の、おそらく唯一にして最大の欠陥についても。
千早群像には、
群像が言うことはいつも正論だ。
霧を絶滅させることは出来ない、だから共存の道を探る。
正論だ、反論の余地も無い、だが、しかし。
人間の感情は、そんな単純なものでは無いはずだった。
「私が……私が、どんな想いで……!」
まして。
まして、紀沙は自ら望んで
どいつもこいつも、勝手に紀沙を選んで託して来ただけだ。
両親、兄、北、ヨハネスにグレーテル、そして出雲薫……。
もちろんそれは、紀沙自身を迫る脅威から援けもした、そのためのものでもあった。
「こんな力……私は……!」
霧の力。
第四の超戦艦の力。
『アドミラリティ・コード』の力。
どれひとつだって、望んで手に入れたものでは無かった。
しかし、この力が自分のものだと言う現実は受け入れなければならない。
だから紀沙は、この力を人類を守るために使おうと決めた。
そして、決意したのだ。
もし自分のこの力が、
「こんなものは、あっちゃいけない」
千早紀沙こそが、
「霧は……霧に纏わるものは、あっちゃいけない……!」
滅ぼすと言うのなら、霧こそが滅びるべきだ。
だから。
湧き上がるもどかしさは、激情となって言葉を放った。
「だから、霧は……私が。霧に纏わるすべてを、消すよ」
最強の霧の力でもって、霧と言う存在を滅ぼす。
それが、千早紀沙の霧の艦隊に対する最終判断だった。
その結論が、解決不能な矛盾を孕んでいると気付いていたとしても。
「霧は、私が滅ぼすよ」
電子の――霧の瞳で、紀沙は群像を見つめた。
群像は、人の――当たり前だが――瞳で、見つめ返していた。
おかしいな、と、紀沙は哀しみと共に思った。
こんなに見つめ合っていても、同じものを見ることが出来ない。
どうして、こんなことになってしまったんだろう――――……。
◆ ◆ ◆
その時、不穏な気配を漂わせる千早兄妹を前に、1人だけ
「宇宙服の女」?
いいや、彼女はむしろ何の反応も示していない。
(嗚呼……良い、良いなぁ、本当に美味しいなぁ)
自然と、自分の身を抱き締めていた。
二の腕を掴んで擦っていなければ、どこかへ飛んで行ってしまいそうな程の快楽。
ぞくぞくとした感覚を隠そうともせずに、吊り上がる口角を隠そうともせずに。
スミノは、紀沙のことをじっと見つめていた。
快楽、そう、これは快楽としか言いようの無いものだった。
いや、だって考えてみてほしい。
あの紀沙が、家族を取り戻すために戦い続けていた紀沙が。
今、自分の意思で兄と決別しようとしているのだ……!
(感じるよ、艦長殿。キミの絶望、悲哀、憤怒……)
けして、決して兄を憎んでいるわけでも嫌っているわけでも、まして敵対したいわけでも無い。
霧への視点。
たったその一点のために、紀沙は群像と決別しなければならなかった。
だがそれは、ずっと以前から見えていたことだった。
ただ、紀沙があえて目を逸らしていただけだ。
(ついにキミは、霧への憎しみを克服できなかった)
自分自身が霧と化してなお、紀沙は霧の艦艇を憎んでいる。
兄の群像が結局、人間でありながら人の心を理解できなかったのとは対照的だ。
何と面白い、何と心地良い、何と愉快で、何と言う悦楽か!
こんなにも
「霧に纏わるすべてを、私は滅ぼすよ――兄さん」
「……もしそれが、お前の
嗚呼!
向かい合い対峙する2人!
これだ! これをずっと見たかった!
紀沙が自らの意思で、自ら求めたものを否定する姿を見たかった。
そうなった時、コアで繋がるスミノには紀沙の心象がそのまま流れ込んでくる。
そしてスミノの予想の通り、紀沙から流れ込んでくる感情の何と膨大なことか。
余りにも大きな感情の触れ幅に、スミノは前後不覚になってしまいそうだった。
二の腕を掴んでいた両手で頬を覆うと、熱暴走でもしたかのように熱かった。
(良いよ、艦長殿。キミの望む通りにしてあげる)
ぞくぞくと肌を這う快楽に涙すら浮かべて、スミノは紀沙に
(キミの気持ちを裏切ったそいつを、千早群像を)
――――
群像が信じた《霧の手》でそうしてこそ、復讐の密度は上がる。
それはさぞ、今よりも大きな感情を紀沙にもたらすだろう。
きっと、きっと、どんな蜜よりも甘い味がすることだろう。
◆ ◆ ◆
頭の奥が、痺れているような気がした。
あるいはどこかで、信じていたのかもしれない。
信じたかったのだ。
群像はきっと、最後は自分を選んでくれると。
「2人とも、よすんだ。今はそんな時では無いだろう……」
だから北が肩を掴んできた時も、心のどこかで群像を信じていた。
しかし、群像と視線が外れた時に、「ああ」と思った。
違えてしまった、決定的な何かが違えてしまったのだ、と。
表向き北に従って群像から離れた、が、心の距離はそれ以上に離れていた。
群像は、あの後にこう言った。
紀沙が考えを変えないのなら、紀沙を止めるしか無いと。
紀沙を止める?
それは、つまり。
「……私と、戦うってこと?」
「そうしなければ、ならないのなら」
嗚呼、と、紀沙は天を仰ぎたかった。
それで見えるのはナノマテリアルの天井だけで、それもまた救いが無いように思えた。
まるで、自分の未来を暗示しているようで。
不意に、スミノのことが気になった。
しかし見なかった、愉悦に歪んでいるだろう顔を見たくなかったからだ。
「最後に聞いておきたいのだが、その。貴女は我々の味方なのか」
『味方? 分カラナイ。私ハ警告ヲ告ゲルダケダ』
「助言はくれると言うわけだな。それなら、それで十分だ」
北の話も、今の紀沙には遠かった。
今までの紀沙には、いつか家族と一緒になるんだと言う支えがあった。
しかしそれも、今からは無い。
今からは、紀沙はひとりきりで歩かなければならなかった。
「とにかく、まずは
2年……そう、とりあえずは2年間だ。
流石の紀沙も、さっきの光景を見せられてしまっては、人類独力でどうこう出来る事態では無いことはわかる。
これからの2年間は、きっと群像が望むような展開になるのだろう。
紀沙も耐えよう。
これまでの2年間を耐えたのだから、これからの2年間を耐えるなど何でも無かった。
だが結局、その後は元通りになるに決まっている。
再び人と霧は対立する、どうせそうなる。
その時にこそ、霧に纏わるすべてを葬り去って、人類の生存圏を取り戻す。
(私のこの手で、2年後、必ず霧を滅ぼしてやる)
この時、紀沙は心の底からそう思っていた。
これからの2年間を、彼女はこの一念で耐えていくことになるのだろう。
それは、想像しているよりもずっと厳しいことのはずだった。
だが、彼女はそれを耐え抜いてしまうのだった。
この2年間で、世界は目まぐるしく変わることになる。
国連の復活と、新たな人類連合軍の創設。
霧の各艦隊との休戦交渉と、人類連合との秘密同盟の締結。
そうした流れの中で、
そして――――……。
――――そして、2年の時が流れて行った。
最後までお読み頂き有難うございます。
やや無理くりですが現在編終了、次回から2年後編の予定です。
よーし、最終決戦しましょう(え)
そして現在「やつら」の投稿募集中です。
ぜひやたらに強いラスボスを作ってください!(え)
それでは、また次回。