なるほど、と、『ヒエイ』は思った。
話には聞いていたが、
人間と霧のメンタルモデルが異なるように、霧と
実際に
「
霧の瞳で視ると言うことは、高度に解析すると言うことでもある。
『ハシラジマ』のドックに侵入してきた
『ボイジャー2号』の攻撃は、独特なものだった。
今もそうだが、彫像のようにじっとしてこちらの様子を窺っている。
かと思えば、次の瞬間には視界から消えている。
肉眼に頼っていたなら、完全に見失っていたかもしれない。
一方で、『ヒエイ』が『ボイジャー2号』を見失うことも無かった。
「……!」
膝を折り、後ろに身を倒す。
そうすると、『ボイジャー2号』の腕が――『ヒエイ』の顔を掴もうとしていたのだろう――が目前を擦過して、鼻筋を掠めそうになった。
掴まれる、と言うのは、避けるべきだった。
『ヒエイ』は、倒れ込みながら軽く跳んだ。
滞空しながら、身体を回す。
片足が鞭のようにしなり、上から『ボイジャー2号』の頭上へと吸い込まれていく。
『ボイジャー2号』は、身を捻って回避しようとしていた。
(
報告にあった
だが『ボイジャー2号』は違うらしい、避けると言うことはそう言うことだろう。
あるいは、何か条件があるのかもしれない。
「でも、今は当てても大丈夫ってことでしょ?」
避けた先に、『イセ』がいた。
登場よりも後になって、がろん、と言う鈴の音が聞こえてくる。
そして音が届いた時には、衝撃が『ボイジャー2号』を吹き飛ばしていた。
ただし、『イセ』の拳は『ボイジャー2号』が掌で受け止めていた。
だから『イセ』の攻撃自体では、ダメージはさほど。
「はい、ようこそぉっ!」
『アカシ』が、彼女の背丈の倍はあろうかと言うスパナで『ボイジャー2号』を殴り飛ばした。
流石にこれには虚を突かれたのだろう、『ボイジャー2号』は今度は防御が間に合わず、『アカシ』に横殴られるままに、今度こそ吹き飛んでいった。
床に落ちずに『ハシラジマ』の壁を突き破り、身体の上半分が壁の向こう側に消える程だった。
「……『レキシントン』! そちらはどうか!?」
流石に大戦艦級2隻を含む複数で戦えば、
とは言えそれは、しっかりとした足場やスペースがあればのこと。
艦上、あるいは海上と言う限定的かつ不安定な場所では、条件が変わってくる。
そして、『ハシラジマ』に
◆ ◆ ◆
最初はただ押し寄せてくると言う風だったのだが、ここに来て動きに変化が出てきたのだ。
とは言え、それは戦略や戦術の変更と言うわけでは無いようだった。
「んん~? 何か変だよお」
「そうですわね。敵の様子が変わったようにも見えますわ」
『ハシラジマ』南西の海域を支えていた『ラミリーズ』と『リシュリュー』が、最初に気付いた。
南の戦線では最も
力押し――と言うより、まさに
例えばこちらが押し込んだ時に引き、逆にこちらが引いた時に押してくる。
ただ動きが単調に過ぎて、戦術的に反応していると言うよりは。
「<大海戦>の際のわたくし達の動きに似ていますわね」
『リシュリュー』の指摘は正しい。
つまり全体が1つの身体のように動いていると言うことで、叩かれた手を引くように、霧の攻撃を浴びた部分を後退させる……と言う風に動くのだ。
まさに群体、<大海戦>の際の霧がまさにそうだった。
つまり今の
目の前で攻撃している一体は、つまり小指の先を削っているようなものだ。
致命の一撃には程遠く、決着はまだ目途すら立たなかった。
「そうだとすれば、少し不味いかもしれんな」
2隻と同じ南の戦線にいる『プリンス・オブ・ウェールズ』は、そう疑問した。
隣接艦隊の『ウォースパイト』が「どう言うことだ?」と眼を向けてくると、彼女は言った。
「我々が<大海戦>時の状態になったのは、霧として生まれてから何年後のことだった?
「情報自体は以前から集めていたのだろう」
「それもあるのかもしれん。だが……」
霧が霧として生まれて、20年余り。
それが長いのか短いのかはわからないが、
その成長性は、明らかな脅威だった。
「……はたして、それだけかしらね」
『ヒエイ』に代わり北の戦線の総指揮を執る『レキシントン』が、杖の先でコンと甲板を叩く。
すると次の瞬間、側面装甲がスライドして無数の魚雷が海に投下された。
魚雷の航走跡を見送りながら、『レキシントン』は思う。
『プリンス・オブ・ウェールズ』の言うように、この星では霧が先輩かもしれない。
「でも、
霧には無い遥かな
つまり、だ。
◆ ◆ ◆
蟻地獄の半ばで、まだ底では無いと言われること程に面白くないことは無い。
ドンッ、と、すぐ側で水柱が立つのを横目に、『ダンケルク』はそう思った。
今でさえ一杯一杯だと言うのに、これ以上があってたまるものか。
「『レキシントン』の予測が外れてくれることを祈るばかりじゃが、あれは学者じゃからなぁ」
「学者! そう言うのもあるのか」
「マンツーマン、講義……!」
「それはもちろん夜にやるんだよな!?」
「お前らはいったい、何の話をしているんじゃ?」
甲板上の男衆が、一斉に『ダンケルク』から顔を逸らした。
しかし次の瞬間には、新たな水柱が立って波をかぶり、元の大騒ぎになった。
南の戦線の中枢で戦う『ダンケルク』の周囲でもこれだ、最前線で戦う『ガングート』や『ペトロパブロフスク』はどうなっていることやら。
まぁ、戦場にいて危険度の多い少ないなど言ってもいられないのだが。
「まぁ、『ガングート』や『ペトロパブロフスク』は軍人調じゃからなぁ」
「女将軍! それもアリだな」
「失態を演じてからの、懲罰……!」
「それはもちろん地下の監獄でやるんだよな!?」
「お前ら、本当に何の話をしているんじゃ?」
また目を逸らされた。
こいつらを自分に乗せていて良いものか本気で考えたが、今ここで放り出すわけにもいかないので保留することにした。
仮にこれが人類のサンプリングだとして、対象はこれで良いのだろうか。
しかし、懸命だ。
『ダンケルク』から見ればもちろん、無駄な動きが多く見える。
でも、無意味な動きをしている者は誰もいない。
見張ったり持ち運んだり、掴んだり駆け回ったり、忙しないことだ。
「……っと、感慨に耽っている場合でもないの」
何度目かの衝撃を受け流しながら、『ダンケルク』は反撃の応射も同時に行っていた。
どれほど効果があるのかはわからないが、撃たないよりはずっと良い。
霧の総力をかけているだけに、今のところは優勢になりつつある気がする。
しかしそうは言っても、すでに戦闘開始からそれなりの時間が経過していた。
「次の手は打っておるんじゃろうな……?」
呟くように、そう言った。
「おい、『ヤマト』!」
自分達をこの戦場に遣わした、張本人に対して。
◆ ◆ ◆
『ヤマト』こと『コトノ』にしてみれば、『ダンケルク』の指摘は、まさに「言われるまでもない」ことだった。
『ダンケルク』が考えていることは、『コトノ』だってすでに考えている。
とは言え、だからこそ事態はより深刻だとも言える。
「って言うか、『ヤマト』じゃねーよって」
毒吐いても、状況が変わるわけでは無い。
まだ『ヤマト』が消えたことを知っている霧はほとんどいないのだから、『コトノ』に対して『ヤマト』と呼びかけてくるのは仕方が無いことだった。
もちろん、気付いている霧は気付いているだろうが、一般の霧を混乱させるわけにもいかない。
『アドミラリティ・コード』を失った霧が『ムサシ』に続き『ヤマト』まで失っては、道標を失ってしまう。
まぁ、そうは言っても『コトノ』も誰かを導くようなタイプでは無いが。
今、『コトノ』は動けない状態にあった。
先の200隻強制転移の後、次の転移に備えた演算を行っているためだ。
次に送る数は流石に200隻もいないが、実は先程よりも難しい部分があった。
「だーれも私の言うことを聞いてくれないってね」
先の200隻は、『ヤマト』の総旗艦命令によって馳せ参じた形だ。
より簡単に言ってしまえば、「ヤマトの言うことを聞いた」のである。
それは強制転移――「強制」と言っても、文字通りのものでは無い――においても、抵抗の余地があることを示しているとも言える。
つまり、『コトノ』が転移をさせたい後半の霧の艦艇達は、『ヤマト』の命令を拒否しているのである。
これもメンタルモデルを得た恩恵と言えばそうなのだろうが、裏目に出た形だ。
まさか、まさか霧の艦艇が己の「階級」を無視するとは。
2年前であれば、総旗艦『ヤマト』の命令を拒否する霧の艦艇など存在しなかっただろう。
「でもね、変なの。嬉しいんだよね、私」
親しい誰かに話しかけるように、『コトノ』は言った。
メンタルモデルを与えた
いや、メンタルモデルを得た
だから『コトノ』は、今の状況をけして後悔したりはしていなかった。
「もうすぐ……会えるかな。群像くん」
この役割を終えれば、いよいよこの海域に留まる意味も無くなる。
……まぁ、残りの
「……うん?」
その時だった。
『ヤマト』の艦体から程近い海面が盛り上がり、その下から巨大な艦艇――『ヤマト』程では無いが――が飛び出してきた。
潜行状態でここまで来たのか、演算に集中していて接近に気付かなかった。
そして、『コトノ』はその霧の艦艇を知っている。
「『ナガト』?」
霧の大戦艦『ナガト』、彼女もまた『コトノ』の呼びかけに応じていなかった。
何事かと目を丸くしていると、『ナガト』甲板上のメンタルモデルが目に入った。
袴姿のメンタルモデルは――――。
「『ヤマト』……ッ、避けて――――ッッ!!」
――――必死な、形相で。
『ヤマト』じゃねーよと、軽口を思うよりも早く、『コトノ』は上を見た。
艦上に誰も感知できない以上、他に見るべき場所は無かった。
そして、その予測は当たっていた。
「『ナガト』」
はだけた花魁衣装の、もう1人の『ナガト』がそこにいた。
しかし、その眼にはもう『ナガト』の意思は見えなかった。
そこにあるのは、海の水底のように深く昏い何かだった。
その視界を遮るように、頭上から降りてきた『ナガト』の腕が――――……。
(……群像くんに、会えるかな)
……『コトノ』の目の前を、覆った。
◆ ◆ ◆
霧の艦隊への<大反攻>計画は、そもそも対海上戦闘を想定していた。
仮想敵である霧の艦艇が海洋勢力なのだから、当たり前と言えば当たり前だった。
大まかな計画は、どの国も大体は同じようなものだ。
霧に対して有効な
ここで言う
振動弾頭は現在、日米両国でしか開発・量産――厳密には日本開発、アメリカ量産であって、事実上のアメリカ単独生産――できないが、原理的に似たような兵器は各国で開発・保有されている。
人間は個人では大きな差が出るが、集団になると不思議と差が出なくなる。
霧のフィールドを突破しようと思えば、自然と発想は近いものになってくる。
「こいつが噂の新型ミサイルねぇ」
ドイツ陸軍の将軍マルグレーテは、ホルツドルフ――ドイツ中部ザクセン=アンハルト州――
ドイツは北部のニーダーザクセン州からベルリン郊外にかけて黒い触手が降下しており、ホルツドルフ吉はいわば最前線の基地だった。
空軍基地ではあるが、陸軍航空隊の基地でもある。
だから、マルグレーテがいてもおかしく無い。
「オレはあまり、戦闘機ってのは好きじゃねーだんだよなぁ」
「はぁ……」
マルグレーテの言葉に、海兵隊のジークが曖昧な返答を返す。
駐機場に整然と並べられているのは、戦車では無く航空機だった。
デルタ翼タイプのシャープな戦闘機で、マルグレーテが見上げているのは、両翼合わせて6発のミサイルだった。
鈍い輝きを放つそれには、薔薇の棘にも似た突起物がついている。
「こいつが、本当に霧に効果があるのか?」
「技術班によると、霧のフィールドを擦り抜けるのだそうです」
「難しい理屈は良い、エンジニア共の言うだけの効果があればな」
簡単に言うと、限りなく無機物に近い状態に誤認させ、無害なものとしてフィールドを擦り抜けるミサイル、らしい。
航空機搭載型にした理由は、<大海戦>の際、航空戦だけは比較的にマシに戦えたからだ。
射程も長い――最も、霧に射程などあって無いようなものだが――ため、アウトレンジから攻撃できるのが大きい。
もちろん、実戦投入はこれが初めてだ。
「15機90発、虎の子のミサイルだ。霧の奴らに叩き込めないのだけが残念だが、な」
悔しい話だが、と、マルグレーテは思った。
ヨーロッパは今回は主役にはなれない、欧州大戦の消耗は未だヨーロッパ諸国を傷つけている。
欧州諸国は兵力が足りず、ロシアは対霧の決戦兵器を持たず。
だから、人類側の主力はあくまでも……。
◆ ◆ ◆
生産力と言う一点において、この国に及ぶ国家はおそらく存在しない。
資源に溢れるロシアでも、人力に優れる中国でも、この国には及ばない。
同品質のモノを大量に生産すると言う意味で、この国は他を圧倒している。
単品種大量生産とでも言うべき資質が、連綿と受け継がれているのだ。
「大統領! 良くぞご無事で……!」
「挨拶は良いわ司令官。それよりも、例の部隊は?」
「はっ、いつでも出られるよう戦闘待機しております!」
バージニア州ラングレー空軍基地、アメリカ空軍第一戦闘航空団の本拠地でもある。
アメリカでも最精鋭にして最新鋭の装備が供給される部隊であり、訓練は死者が出る程に厳しい。
人員の練度も他とは段違いだが、<大海戦>以後は碌に出番が無かった。
だからこそ隊員達にはフラストレーションが溜まっており、言うなればアメリカで最も戦いに飢えている集団なのである。
「私はすぐにペンタゴンに入ります。その前に、一目見て確かめておきたくて。何度か試射には同席したけれど、実際に使用に耐え得るのかどうか」
「問題ありません。いつでも行けます」
基地司令官は――あるいは、基地の軍人達は――出撃したくてうずうずしている、と言う風だった。
軍人と言うものは、多かれ少なかれそう言うところがあるものだ。
度し難いと思いつつも、そうなってしまう。
どんな人間もそんな風になってしまうので、軍隊と言う組織は罪深いのだ。
そしてエリザベス大統領がやってきたのは、囲いに覆われた倉庫だった。
その中には、可変デルタ翼に水平尾翼持ちの戦闘機がずらりと並んでいた。
ドイツにも似たような――マルグレーテが見ていたような――場所はあるだろうが、他と違うのは、
また、同時にある物もずらりとその
「この倉庫だけで20発。
振動弾頭の量産については、アメリカは最優先で行っていた。
同時に艦搭載型、航空機搭載型、地上発射型のミサイルを開発した。
各ミサイルに搭載可能な弾頭の生産にやや時間がかかったものの、僅か半年で実用化した。
1年以上に渡り量産を続けた結果、今やアメリカは世界最大の振動弾頭保有国となっている。
航空機搭載型は1機につき3発と搭載数は少ないものの、大型化により通常の空対地ミサイルよりも遥かに
威力が増している。
この倉庫だけで20発、同じ倉庫が10か所あり、ラングレー基地だけで計200発のミサイルがある。
同じような基地が、アメリカ全土にさらに他に6か所ある――つまり航空機搭載型の振動弾頭ミサイルだけで、アメリカ国内には1400発以上のミサイルがある計算にある。
艦搭載や地上発射型を含めれば、天文学的な数字になる。
「停戦中の霧に試験攻撃をするわけにもいかなかったので、
「代替手段が無い以上、使う以外の選択肢は無いわ」
倉庫の手すりに手をかけながら、エリザベス大統領は物憂げな表情を浮かべた。
かつて上院議員として、娘が死ぬことになる<大海戦>の作戦案に賛成した彼女だ。
そして今、同じように――いや、より責任ある立場で、超常の存在に対する作戦を指導している。
もしこれが運命なのだとしたら、何と言う皮肉なのだろう。
「でも、まだ希望はあるわ」
「もちろんであります閣下。必ずや、大統領のご期待に応えて見せます!」
司令官は意気込んでいたが、そう言うことでは無いのだ。
戦いに勝利することも大事だが、それは最終的な目的では無い。
そこに、未来の希望があると思う。
「これは、そのための戦いなのです」
希望を守るための戦い。
<大海戦>の時とは違う、確かな希望がそこにある。
エリザベス大統領は、心に強くそう思ったのだった。
◆ ◆ ◆
逆に言えば、そのためにアメリカに振動弾頭を提供したのだ。
北は、軍用ヘリの中にいた。
振動弾頭の開発――つまり、霧に対して有効な兵器の開発――は、霧が支配するこの世界において、人類諸国の盟主にさえなり得る歴史的な快挙だった。
あまつさえ、日本はイ号潜水艦を占有していたのである。
「それでも、北首相は私の計画案に賛同して下さいました」
「エリザベス大統領のお人柄と志を知っていたからだ。そうで無ければ、やはり反対しただろう」
ヘリには上陰が同乗していた。
政官のトップがこの事態に協議することは、奇妙なことでは無い。
むしろこの場に前首相である楓がいないことの方が、違和感ですらあった。
楓はすでに政治家としては引退しており、この場にはいない。
正直、北と上陰は互いを好いてはいなかった。
むしろ嫌い、場合によっては疎ましく思ってすらいる。
と言うか、さっさと失脚しろとさえ思っているだろう。
それでもただ一点、日本という国のために動いていると言う一点においてだけは、この2人はお互いを認めているのだった。
「それでも、次の選挙で出てくるのがミハエル大統領のような人物と言う可能性もあるのでは?」
「そうなった時のために、お前達が
「……なるほど」
日本は世界の盟主で無くても良い、人類の発展に貢献できる国家であれば良い。
他国から脅威に思われず、そして侮られることも無い。
その程度の国家で良いのだと、その一点だけで、この2人は一致している。
だからこそ、嫌い合いながらも同じヘリに乗っているのだ。
「それよりも、被害の方はどうなのだ」
北は、話題を日本国内の被害状況に変えた。
日本本土にも巨大な触手が降下しており、主な降下地点である西日本は大変な状況になっていた。
外で戦っている者達のためにも、本国を守るのは北達の役目だった。
後方を守る程度のことすら出来ないで、何のための自分達かと、そう北は思っていた。
「……何だと? すまない、上手く聞き取れなかった。もう一度言ってくれ」
その時だった、ヘリ内部の通信機のコールが響き渡った。
受話器を取って対応した上陰が、怪訝な表情を浮かべた。
「旧第四施設が、どうした?」
後方を守れずして、いったい何のために留守を預かっているのか。
北は腕を組み、上陰の通話に耳を澄ませたのだった。
◆ ◆ ◆
旧第四施設は、その
しかし今なお日本政府による隠匿は続いており、今なお存在し続けている。
それはまるで、これから起こる何事かを待っているかのようでもあった。
ナノマテリアルで再構成された建造物は、仄かな輝きを放っていた。
『ようこそ、と言うべきなのか。判断に困るところだな』
楓首相――いや、楓前首相と呼ぶべきか――は、生命維持装置を兼ねる車椅子に座ったまま、旧第四施設に再現された
照明も無いのに視界が取れているのは、ナノマテリアルの発光のせいか。
2年が経過していても、楓の容姿は何も変わっていなかった。
車椅子から聞こえてくる音声も、同じだ。
視覚補助用のバイザーの先には、通路から副管制室へ入るための扉が見える。
そしてその扉を背にして、つまりすでに中に入っているのは、中性的な、黒い軍服に似た衣装を身に纏った人物だった。
いや、
『キミは私に興味など無いだろうが……私は楓信義と言う者だ。せめて名前を聞かせてくれないか』
そんな楓の言葉をどう感じたのか、と言うかヘッドホンをしている相手が「聞く」のかも不明だが、とにかく
空色の髪と銀の瞳、手には白手袋と、肌の露出が少ないために中性的な印象になっている。
意外なことに、
「『アスカ』、と言う」
『アスカ』、その存在は自身をそう名乗った。
名乗られたからと言って、楓に何が出来るでも無かった。
しかし意思の疎通が可能であるのならば、問いかけることは出来る。
『ここに何をしに来たのか、教えて貰いたいな』
そして問いかければ、やはり意外なことに、『アスカ』は答えを返してくるのだった。
「そいつの、処理」
『ああ、なるほど。やはりそう言うことか』
得心がいったと言うように頷く楓の後ろには、宇宙服を着た何者かが立っていた。
古い宇宙服だが、その輪郭は淡く光を放っている。
遠い遠い宇宙の果てから、地球に警告をもたらしてくれた彼女。
今の楓は、そんな彼女を守る盾だった。
『ならば私は、未来を守るためにキミを止めなければならない』
「…………」
『一つだけ、忠告をしておこう』
『アスカ』が首を傾げるのを見て、楓は苦笑した。
盾? そんな大仰な存在なものか。
せいぜい小石だ、『アスカ』が
『人間を、甘く見ない方が良い』
だがこの小石は、<大海戦>と言う地獄を生き抜いた小石だった。
激流の中で身を削られながらも、砕けることなく今日まで存在し続けてきたのだ。
この世界で、最も強靭な小石のひとつだ。
そんな小石が、ただ踏みつけられるだけで終わるだろうか?
答えは、もう出ていた。
◆ ◆ ◆
もどかしさの中に、紀沙はいた。
断片的な情報しか得られない中で、イ404は慎重に海中を進んでいる。
すでに太平洋中部には差し掛かっているので、『ハシラジマ』の戦場は目と鼻の先と言える。
本来ならば、このまま一直線に向かいたいところだったが。
「停止ぃ!?」
その気持ちを押して、紀沙は艦の停止を命令した。
冬馬などは、あからさまに驚いた顔をした。
しかし、そんな彼の鼻先にびしっと小さな指先を突きつける存在がいた。
「飛ばし過ぎなのよ!」
蒔絵だった。
すっかりツナギ姿――頬にオイルや煤をこびり付かせているところも――が似合うようになった小さな少女は、眉を立てていた。
何しろ、これまでエンジン全開で飛ばして来たのである。
それも北極から常夏の海へ、だ。
「このままじゃエンジンが保たないの! もしかしたら『ハシラジマ』までは保つかもしれないけど、そのまま戦闘なんてとてもじゃないけど無理!」
そう言われてしまえば、専門外の人間には反論のしようも無かった。
冬馬は助けを求めるようにあおい――最近、保護者然としてきたようにも見える――を見たが、そのあおいも頬に手を当てて首を傾げるばかりだった。
つまり、蒔絵の言っていることは機関室の総意だと言うことだ。
これでは、どうしようも無い。
機関室の意見を無視して進める程、イ404は無謀では無かった。
それにイ404のクルーはともかく、『白鯨』級の3隻は休息も必要だ。
一度情報を取りまとめて、分析する時間も要る。
「エンジンの調整と、仮眠と食事。4時間だけですが、皆も休んで下さい。イ401とも相談済みです」
「4時間って……大丈夫なのか?」
「信じましょう」
冬馬の懸念もわかるが、疲労困憊したまま戦場に飛び込むわけにもいかない。
ここは艦長として提督として、苦渋ではあるが、決断すべきところだった。
4時間後にどうなっているのか、不安が無いわけでは無い。
しかし、人類と霧の底力を信じるしか他に手が無かった。
「信じましょう、間に合うって」
半ば自分に言い聞かせるように、紀沙はそう言った。
今少し沈黙しなければならないこの状況で、クルーの不満を宥めながら。
最ももどかしく感じているのは、紀沙自身だった。
そのことに気付いているのは、おそらく1人……いや、1隻だけだった。
投稿キャラクター:
カイン大佐様より『アスカ』
有難うございます。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
ここで主人公足止め。
まだまだ霧のターン。
それでは、また次回。