人類が天文と言う形で宇宙を意識し始めたのは、4000年以上も前のこととされる。
最初は暦と言う形で、そして現代に近付くにつれて科学的な観測へと移り変わっていった。
そして世界でも代表的な天体観測所の1つが、アメリカのケンブリッジにある。
そこでは今も、世界中に設置した天体カメラによって宇宙の観測が行われている。
「な、何が起こっているんだ……?」
研究員の1人が、無数のディスプレイを前に戦慄の表情を浮かべていた。
世界中の観測データを何年にも渡って見つめ続けてきた彼をして、顔色を青ざめさせている。
それだけ、彼の目に映っている数値が異常だと言うことだ。
ほんの少し前まで、いつもと変わるところが無かったと言うのに。
普段は気にすることは無いが、地球は常に宇宙の影響を受けている。
太陽フレアによる磁気嵐は、代表例の1つだろう。
暦、時間、気候――すべて、宇宙との関係で決まると言っても良い。
だが今、それが無茶苦茶になりつつあった。
「おいおい、不味いだろ。このままじゃ異常気象どころじゃないぞ」
太陽から地球へ届く光量が、減衰している。
それは熱量の低下へと繋がり、また月にも影響を与え、星々は狂ったような輝きを放つだろう。
つまり、地球の気温が急速に――やがて、
氷河期など問題にならない規模の、寒気や寒波と言った言葉が霞む程の事態だ。
大気さえも変化するだろう、それはすなわち、地球が地球でなくなると言うことだ。
「他の観測所は気付いているのか? 気付いていないとしたら……いや、気付いていて?」
この状況だ、どこも正常に機能していないだろう。
もしかすると、この観測データを得ているのはここだけなのかもしれない。
そう思った研究員は、急いで内線の電話を手に取った。
しかし何度コールしても、その電話が鳴ることは無かった。
こんな時に故障か?
研究員が苛立たし気に受話器を見ると、目の前をパラパラと何かが落ちた。
粉のようなそれは、天井から落ちてきていた。
気のせいか、足裏から揺れを感じるような気もしてきた。
いや、それは頻度と強さをだんだんと増しているようにも思えてきて。
「……うお」
悲鳴を上げる暇も無かった。
己の身に迫る脅威に気が付いた時、彼の視界には崩落する天井と。
天井を突き破って落ちてくる、グロテスクな黒い触手の肌でいっぱいになっていたからだ。
◆ ◆ ◆
戦闘開始から、8時間が経過していた。
戦線は膠着し始めていた。
原因は、位置と回復力の差である。
「おいっ、大丈夫か!? 誰か、タンカを持って来るのじゃ!」
『ダンケルク』甲板上、波飛沫から乗員を庇いながら、彼女は倒れた乗員を抱え起こしていた。
何か――多分、大丈夫とかそう言う類――言おうとしているようだが、相当に疲労しているのだろう、唇が僅かに動く程度だった。
無理も無い、と、『ダンケルク』は思った。
「もう少し……ぎゅって……感触……」
「大丈夫そうじゃな。そのへんに転がしておけ」
何しろ、霧でも
ほとんど休息も食事も摂れずにいる人間が倒れてしまうのは、無理もないことだった。
しかも彼らのほとんどは正規の軍人でも無く、元々は志願の民兵だったのだ。
体力も精神力も、良く言って人並でしかない。
そして、霧も疲弊し始めていた。
この状況では補給と整備は『ハシラジマ』に交代で入るしか無いが、それなりに時間もかかるし、ドックの数には限りがある。
『シレトコ』ら補給艦を総動員しても、限界はあるのだ。
そもそも、ナノマテリアルも無尽蔵では無い。
「『ミズーリ』、撃ち過ぎよ! エネルギーが保たなくなる!」
「わかっているけど、戦艦が撃たずにどうする!?」
焦燥感、メンタルモデル保有艦はそれを感じ始めていた。
特に『ミズーリ』のように、前線を支えようと大口径の主砲を撃ち続けている者はそうだ。
何しろ彼女達の一撃は強力であるが故に、エネルギーの消費も激しい。
それでも、
「こちらは『ハシラジマ』を守らなければならない。これも辛いな」
自らを喰わんと触手を広げた
彼女もまた、ナノマテリアルの欠乏を感じ始めていた。
だがそれ以上に気になるのは、霧と
『ハシラジマ』と言う点を守る霧に対し、
つまり、霧は
しかも包囲の幅は、今ようやく膠着していると言う状態だった。
補給に限界のある霧より、無尽蔵とも思える
このままではジリ貧だと、その場の霧の誰もが考え始めていた……。
◆ ◆ ◆
イ401の発令所は、静まり返っていた。
「……と、言うわけだ」
唯一聞こえていた群像の声も、淡々としている。
それが終われば、しんとした空気がより強く感じられた。
このまま誰も口を開かないのではないか、そう思いかけた時だ。
「……正気かよ?」
「オレはいつでも正気だよ、杏平」
砲雷長の言葉に肩を竦める艦長。
それは一見すれば、ユーモアな会話でも交わしているように見えるかもしれない。
しかし杏平の表情は――いつもは
「そんな顔をするな、杏平。オレだって、別に
「それは、そうだろうけどよ」
「でも、そうなるかもしれないとは思ってるんだよね?」
これも珍しく、発令所にいたいおりが群像を見つめていた。
半ば睨んでいるとも取れるような、厳しい視線だった。
杏平やいおりだけでは無い、僧はマスク越しでもわかる程にピリピリとしていて、静は戸惑ったような視線を群像に向けている。
ただひとり、イオナだけが、いつもと変わらない様子で群像の傍にいた。
「……否定は、できないな」
「なんで……っ!?」
普段は声を荒げるなどと言うことの無い静が、声を上げた。
席から立ちあがらんばかりのその様子は、やはり穏やかでは無い。
別に、イ401のクルーとて仲良しこよしでやってきたわけでは無い。
意見の対立だって、時にはある。
しかしこれは、意見の対立とはまた別の何かだった。
「必要だからだ」
イ401のメンバーは大小の差こそあれ、その想いで一致している。
それは今も変わらない、彼らにとってイ401だけが世界の閉塞感を打破する手段だった。
今、それは目の前にあるように思えた。
人類と霧が対等の関係で共存する、そんな新世界の扉に手をかけていると感じる。
良かろうと悪かろうと関係なく、そうすべきなのだと信じていた。
その一致点だけが、彼らを仲間として繋ぎとめているのだ。
「戦略目的は変わらない。世界を変えるために、オレ達は今まで戦ってきたはずだ」
もし、それを邪魔する者がいるのであれば。
それは、打ち破っていくしか無い。
これまでが、どうだったように。
「家族なのに……?」
「……家族だからだ、静」
そう言って、群像は席を立った。
発令所の面々を見渡して。
「時間だ。出撃準備に入ろう」
あくまでも、これまでそうしてきたように、そう言った。
◆ ◆ ◆
群像は、先程のクルー達の表情を思い出していた。
いつものことだが、彼とて面白く思っているわけでは無かった。
一方で、
彼もまた、複雑な精神構造をした人間なのだった。
「群像」
通路を歩いていると、不意に呼び止められた。
イオナだった。
いつもと変わらない、無機質さと無垢を同居させたような瞳で群像を見上げていた。
不意に、さっき話した群像の考えについてどう思っているのか、聞いてみたいと思った。
それは、誘惑にも似た感覚だった。
しかし首を振って、すぐにその考えを振り払った。
肯定されても否定されても、結局、自分が考えを変えないことを知っていたからだ。
ここで聞くのは弱さだと、そう思った。
「それで良い」
直接、言葉にしたわけでは無いのに。
イオナは、そう言った。
「お前が考え抜いて出した答えなら、私はそれで良い。私は群像の
善悪は関係ない。
2人の関係性だけを頼りに、ここまで来た。
ここまで来る道のりに、正義も悪徳も無かったではないか。
だからこれからもそうなのだと、イオナは言いたかったのだろう。
「そうだな……ああ、そうだ」
群像とイオナだけで、始めた旅だ。
元々は何も持たず、唯一持っていたものは、信念だけだった。
そんな群像にとって、イオナは己の信念そのものだ。
だからイオナさえ傍にいてくれるのであれば、恐るべきものなど何も無かった。
そのことを、群像は改めて認識したのだった。
「たとえオレのこの考えが、人倫にもとるものなのだとしても。それは、オレが足を止めて良い理由にはならない」
「それは群像が決めることだ」
「ああ、だからオレは止まらない。オレは見たいんだ、これからも……この世界の可能性を」
「なら、勝つしかないな」
「ああ、だから」
イオナの華奢な身体を見下ろして、その瞳を覗き込むながら、群像は言った。
「勝とう、イオナ。最後まで」
「わかった、群像。お前が勝利を欲するなら、私は最後まで勝者でいてみせる」
勝者、それは常に1人しか存在しない。
イオナと群像が最後の勝者となるのであれば、他の者は敗者になるしかない。
たとえそれが、自分達以外の破滅を意味しているのだとしても。
群像は、己が望む世界のために歩みを止めることは無い。
そもそも、それが生きると言うことだろう。
戦うと言うことだろう。
そして戦うと言うことは、犠牲を払うと言うことだ。
自分も、そして相手も……。
◆ ◆ ◆
『ペトロパブロフスク』は、最前線に立ち続けていた。
姉である『ガングート』からの後退の呼びかけにも、ほとんど応えていない。
ただひたすらに、鬼にでもなったかのように戦い続けていた。
「ぎゃっ、今年の新作だったのに!」
「『ゴリツィア』! コートの汚れなんて気にしていたら沈むわよ!」
「ちまちま育ててるブランドなの~!」
僚艦の重巡洋艦が黒い触手に覆われかけて、そちらに主砲を向けた。
回頭させた主砲で黒い触手を吹き飛ばすと、その欠片が雨のように降り注いで『ゴリツィア』のメンタルモデルを汚した。
そのことに文句を言う『ゴリツィア』だが、そこまで細かいところにまで気を遣ってはやれなかった。
倒さなければならない敵は他にもいて、助けなければならない味方は他にもいるのだ。
紅い瞳で戦場を睨み据えて、海面を覆いつつある黒い泥に眉を顰める。
倒したと思っている黒い触手も、形を変えているだけでは無いのか。
そんな風に思えてしまう程に、この戦いには終わりが見えなかった。
「危ない!」
「……ッ」
一瞬の吐息、その隙を突かれたか。
次の瞬間、『ペトロパブロフスク』は海中にいた。
厳密には左側面に黒い触手が乗り上げてきて、爪で引っ掛けるように引っ張ったのだ。
結果として、『ペトロパブロフスク』の艦体が海上で回転したのである。
戦艦のような大質量のものを回転させるのは、相当な力が必要のはずだった。
「しつ、こいのよ……ッ。この、バケモノがあ!!」
『ゴリツィア』の呼びかけのおかげで、一瞬早くフィールドを展開できた。
だから、海底から伸びてくる黒い触手――いや、触腕の群れを目の当たりにした。
どこから伸びてきているのだろう?
深く暗い深淵から伸びてくるそれは限りが無いように見えて、『ペトロパブロフスク』の艦体を飲み込もうと喰らいついてきていた。
『ペトロパブロフスク』は、すべて吹き飛ばした。
瞳を白く輝かせて、コアを活性化、艦体に絡みつく黒い触手をエネルギーの圧力で引き剥がす。
それから装甲側面のミサイル発射管をスライド、侵蝕弾頭ミサイル多数で周辺を制圧した。
重力波の網に捉われて、すべてが圧殺されていく。
側面の発射管を噴射器に切り替え、海面に戻ろうとする。
「がっ……! この」
艦底側から、鈍い衝撃が来た。
メンタルモデルの肉眼に頼る必要も無く、何が起こったかはわかる。
海上側から別の黒い触手が乗り上げてきたのだ、見れば海底側からも次が来ている。
一刻も早く海上に戻らないと、不味い。
機関の出力が上がらない、ここに来て……!
「『ペトロパブロフスク』!」
その時、浅く潜行した『ガングート』が来た。
斜め下から『ペトロパブロフスク』をかち上げる形で、海上へ飛び出した。
多少のダメージは覚悟の上で、副砲のレーザーを乱射しながら触手の網を焼き切った。
焦げ臭い匂いが漂う中、『ペトロパブロフスク』が体勢をを整えた。
「助けてなんて、言ってないわよ……!」
「無茶をするな」
冷や冷やものだ。
しかし大戦艦ですらこうなのだから、他は推して知るべしだろう。
正直、今の戦線を維持することも難しくなってきていた。
――――その時、『ガングート』のすぐ側で何かが焦げるような音が聞こえてきた。
◆ ◆ ◆
『ガングート』が振り向いた時、甲板の縁が溶けていた。
焦げ臭い匂いは、溶かされた甲板の縁から発せられていた。
ただの鋼鉄では無い、強制波動装甲に守られた霧の装甲を溶かすとは。
「『コロンビア』とか言う奴か!」
包帯と病衣に全身を覆った女の姿をした
彼女の触れている地点から、何かを焼くような異音が絶えず聞こえてくる。
顔の包帯の隙間から、緑色の眼光が狂的な輝きを放っていた。
何かを求めるように、『コロンビア』が飛び掛かった。
跳ねのけるべく、『ガングート』が迎え撃った。
『コロンビア』と『ガングート』の右手が、掠めた。
次の瞬間、『ガングート』の表情が歪んだ。
「『ガングート』!!」
『ペトロパブロフスク』が悲鳴を上げた。
姉である『ガングート』の右手、その薬指から外側が、スプーンで抉られたかのように、肘のあたりまで削ぎ落とされてしまったからだ。
『コロンビア』の右掌が高熱を放ち、
「『ガングート』が
『ガングート』艦隊の戦況は、『ダンケルク』の下にも届いていた。
『ガングート』と『ペトロパブロフスク』の艦隊は最前線にいて、すぐには援護に行けない。
こちらも手一杯なのだ。
しかし、最前線の2艦隊がこのまま孤立するに任せるわけにもいかない。
「『リシュリュー』、『ガングート』の援護に行けんか!?」
『可能な限り配慮はしますけれど、あまり過度の期待をされても困りますわ』
まぁ、そんなものだろう。
まさに、崖っぷちだ。
そろそろプラスアルファが無ければ、本格的に不味い。
「だ、大丈夫だよ『ダンケルク』。皆がんばっているんだから」
「カルロ……」
暗い顔をする『ダンケルク』の肩に手を置いて、カルロが励ましてくれた。
思えばトリエステで<騎士団>との戦いの最中に出会って、2年共に過ごしている。
カルロとイタリア民兵達とは、ほぼ地中海だけだが、一緒に航海をしてきた。
彼らひとりひとりの生い立ちや好物まで、『ダンケルク』は知っている。
「……そうじゃな」
目を伏せて、『ダンケルク』は頷いた。
確かに、「まだ大丈夫」であって「もう駄目だ」では無い。
追い詰められつつあるが、まだ追い詰められてはいない。
もう、と思うよりも、まだ、と思った方が気が楽になると言うものだ。
霧らしくないその考えに、『ダンケルク』はクスリと笑った。
イ401やイ404では無いが、人間じみた考えだった。
自分もだいぶ、変わってきたのかもしれない。
「しかしな、『ダンケルク』では無くミルフィーユと呼べ。前からそう言っておるじゃろ、カルロ」
だから、固有の名前と言うものにこだわるのかもしれない。
そう思って、『ダンケルク』は自ら初めて認めた乗員、カルロに振り向いた。
しかし、そこにカルロは
「――――――――――――え?」
「やあ、初めまして。少し道を聞きたいのだけれど、良いかな?」
穏やかな顔をした青年が、いつの間にか立っていた。
当然、カルロとは似ても似つかない。
『ダンケルク』はその青年を知っている、『コスモス』と言う名の青年を、
「おい、貴様。その手に持っているものは何じゃ……?」
自分でも驚く程に、平坦な声だった。
「ああ、うん。恥ずかしいな」
本当に恥ずかしそうに、『コスモス』は言った。
それは、
そして、実際その通りだった。
「
左手――だ、それは。
人間の、男の、左腕だ、肘から先だけ。
切断面が異常なまでに綺麗で、血すら流れ落ちて来ない。
その切断面に、『コスモス』の並びの良い歯が喰いついた。
ぐちゃ、と、嫌な音が聞こえた。
咀嚼音、繰り返された。
みるみる内に、腕が無くなっていく。
「おい、やめろ」
どっ……と、汗を――メンタルモデルにも関わらず――吹き出しながら、『ダンケルク』が言った。
瞬きひとつせず、じっと見つめていた。
「カルロが、死んでしまうじゃろ」
おかしなことを言っている、と、わかってはいた。
だが、何がおかしいのかは理解したくなかった。
何かの間違いだと、大戦艦級のコアが導き出している結論を無視しようとした。
何故そうしようとしているのか、わかりたくなかった、だが。
「食べてしまったよ、もう」
なに?
何と言った? 食べてしまった? 何を? カルロを?
ついさっきまで、普通に会話をしていたのに、笑っていたのに?
もう話せない? 嘘だ。もう笑い合えない? 嫌だ。
カルロは、何も悪いことはしていない。
それが、こんな、こんな終わり方が許されるはずが無い。
ただの、祖国と友人を愛する普通の青年だった。
そして、きっと、もしかしたら、自分を、この『ダンケルク』を。
「き、キキ、さ……ま……!」
よくも。
よくも、よくも、よくも。
よ く も。
「――――――――――――ッッッッ!!!!」
獣が、叫び声をあげた。
◆ ◆ ◆
戦線の一角が崩れる。
『ヒエイ』がそう確信したのは、南の戦線で大戦艦級のコアの暴走を感じ取った時だった。
『ダンケルク』のコアが、霧の共有リンクから切断された。
戦線中枢の重しになっていた『ダンケルク』が、よもや真っ先に脱落することになるとは想定外だった。
「戦線を縮小する、南側のすべての艦隊は20キロ後退せよ!」
『それでは『ハシラジマ』に近付き過ぎる!』
『攻撃を受け流しながらの後退は、かえって被害を大きくしますわ!』
「わかっているが、中央がもう保たない。このままでは貴艦らが孤立する!」
『ハシラジマ』の砕けたコンクリートを足場に――『ボイジャー2号』との戦闘の余波、取り逃がしたが『イセ』が探索している――『ヒエイ』は、『ハシラジマ』南側にいた。
アメリカ方面艦隊が北を支えてくれているので、南に意識を向けることが出来ているのだ。
しかし彼女が気を向けた時には、南の戦線は取り返しのつかない事態になっていた。
『ダンケルク』は誤算だった。
彼女は人望――霧望とでも言うべきか――があったため、他の艦との間でクッション役として期待していたのだ。
だからこそ南の戦線の中枢にいてもらった、それが裏目になった。
何があったのかはわからないが、最悪の事態だった。
「くそ……!」
『ヒエイ』は文字通り頭を抱えた。
『プリンス・オブ・ウェールズ』も『リシュリュー』も、『ヒエイ』の言うことには従わない。
だが、南の艦隊を失えば『ハシラジマ』は丸裸に等しい。
北側から援軍を差し向けようにも、今からでは間に合わない。
「どうする。どうすれば良い……!」
南側の艦隊が独力で持ち直すのは不可能だ、北側からの援軍は間に合わない。
現在『ハシラジマ』でドック入りしている艦艇を編成して、派遣する手はどうか。
いや、補給と整備を終えていない艦を送り込んでも十分な戦力にならない、焼け石に水だ。
何か、打つ手は無いのか。
『ヒエイ』は、自身の思考が停止しつつあることを感じていた。
打開策が立てられず、対処に行き詰まり、現場の艦隊は指示に従わない。
足元が崩れていくような、不安定な心地だった。
ひとりで立っていることに、これほどまでに頼りなさを感じたのは初めての経験だった。
(いや、違うな。前に一度……)
頭を振って、雑念を振り払った。
託されたのだ、『ハシラジマ』を。
この世界の命運を決める重要な地点を、
そうだ、
「みな……」
「『ラミリーズ』、『ウォースパイト』。艦隊を中央に5キロ寄せろ。両翼は2艦隊の動きに合わせて運動し、相互に援護せよ」
不意に、後ろからそんな声が聞こえた。
はっとして振り向けば、癖のある金髪をピッグテールに結った長身の女性――メンタルモデルがいた。
片耳に手を当てるようにした彼女は、どこか遠くに声を飛ばすように。
「『ミョウコウ』、小規模な重巡戦隊を率いて『ダンケルク』艦隊の後方につけ。撤退してくる艦を迎え入れろ」
「コ……」
『コンゴウ』、『ハシラジマ』に到着。
「『コンゴウ』!」
「情けないぞ『ヒエイ』、この程度の事態を捌けなくてどうする」
大戦艦『コンゴウ』の到着により、『ハシラジマ』戦線は新たな転換点を迎える。
そして『コンゴウ』――『コンゴウ』と『コスモス』の到着は、嫌が応にも
イ号艦隊の、到着を。
◆ ◆ ◆
一時的に落ちていた艦内照明が、点灯を始めた。
機関に加えて電源も再起動し、まさに死んだように眠っていたイ404が目を覚ましたのである。
紀沙もまた、艦長室で目を開いた。
眠っていたわけでは無い。
「艦長殿、時間だよ」
ただ、考えていただけだ。
椅子に深く座り、目を伏せて、考えていた。
自分が、間違っていないのかどうか。
これからしようとしていることが、正しいことなのかどうか。
日本で、アメリカで、欧州で、ロリアンで、クリミアで。
そして再び、日本で――――様々なものを見て、聞いて、考えた。
この2年間、考え続けていた。
考え続けて出した答えは、結局、
「艦長殿、時間」
「……わかってるよ」
理解してくれる相手は、たぶん、いない。
だが、それでも良かった。
自分で出した答えだから、誰にも理解されずとも良かった。
それさえぶれなければ、紀沙はまだ戦うことが出来る。
「『ハシラジマ』は、まだ保っている?」
「未だ健在。少し危なかったけど、『コンゴウ』が戻って立て直したよ」
「そう」
ならば、征こう。
自惚れを承知で言わせてもらえれば、イ404が言ってこそあの防戦には意味がある。
だから行く、何もかもを終わらせるために。
きっとこれが、紀沙にとっても最後の戦いとなることだろう。
「スミノ、お前は良いの?」
「愚問だよ、艦長殿」
長かった。
今まで長かったと、そう思う。
ほんの数年間、でも、人生のすべてをかけてきたように感じる。
ああ、いや、違う。
ずっと止まっていた時間が、ようやく動き出すのだ。
だから今日、
「ボクのすべては、艦長殿のためにあるんだから」
それだけのために、イ404を駆る。
スミノの言葉を聞いて、紀沙は席を立った。
さあ、最後の戦いに挑むとしよう。
千早紀沙の、一世一代の――――大勝負を。
たとえ。
たとえ、この戦いの終わりが。
紀沙の終わりを、意味するのだとしても。
最後までお読み頂き有難うございます。
負け描写が楽しいです(え)
それでは、また次回。