0.「その男、帰還」
夜の闇が支配する静寂があった。
獣も虫も草も、生きるもの全てが眠りについているような、あらゆる音が存在しない空間がそこにあった。
満月の光に当てられ、妖しく照り輝く草木の中に、音が一つ。
植物に覆われ、お世辞にも人が住むようなところではない地に彼は現れた。
野生が織り成す幻想的な光景と似つかわしくない、中世の貴族を彷彿させる黒のマントとスーツを纏い、革靴で土を踏みしめながら彼は歩き続ける。
身の丈190センチ以上はあろうその男は、一寸先の足元も怪しい暗闇の中を、まるで昼間の町を散歩しているかのように軽やかに、静かに、一つの汚れも擦り付ける事無く、瀟洒に歩を進めていく。
木々の間を風が吹く。つられて癖のある灰色の髪が靡き、紫水晶を思わせる様な、透き通った紫の瞳が前髪の間から月光を反射した。
ガサリ、と男は森を難なく通過する。
開けた先に現れた情景を前に、男は思わず感嘆の息を漏らした。
月明かりが周囲に立ち込める濃霧のせいでモヤモヤと反射し、鬱屈ながらもこの世のものとは思えない、神秘的な演出が施された大きな湖だった。
その先には、まるでわざとその存在を主張するために血液でも塗布しているかのような、紅い洋風の屋敷が一つ鎮座している。
男はふわりとした笑みを浮かべた。毒々しい紅を放つ屋敷を見つけて喜んでいるのか。はたまた妖しくも美しいこの光景を前に感動しているのか。
おそらく、その両方だったのではないだろうか。
ただ一つだけ、男は端的に、誰に言うでもなく呟いた。
「随分と久しい光景だ」
息が、晩夏の蒸し暑さが肌に吸い付く闇夜の空気に溶け込んでいく。それがまるで引き金となったかのように、背後の森から、今の今まで夢の世界へ浸っていた鳥獣や
バタバタと、バサバサと。しかし一切の声は聞こえず、ただ生き物たちの立ち去る羽音と足音だけが反響する。まるで草食動物の群れの中に、突然肉食獣が放り込まれたかのような反応だった。
男はそれをまるで意に介さずに、目を細めて館を見つめた。獣から本能的に恐れられた男は慈愛の色を瞳に宿す。
視線の先にあるものは館ではなく、おそらくその中へ住まう住民へと向けられているのだろう。
彼は言葉を再び紡ぐ。
「帰ったぞ、紅魔館。そして初めまして、幻想郷」
応えるように、草木がざわざわと揺れ動く。湖に波紋が走り、風が一際強く吹き荒れた。それはまるで、自然そのものがこの男の到来に騒然としているかのようだった。
一話目はそれなりにありますのでご安心を!