ちょっと分かり辛い話かもしれません(汗)
7.「そして彼はいなくなった」
―――――――永夜異変・三日前
◆
真夜中の図書館にて。いつものように紅茶を飲みながらゆったりと本を読んでいた私は、同席しているレミリアに向かって徐に呟いた。
「少し散歩に行って来ても良いかね」
「そう言えばおじ様、以前お話になっていたオリジナルティーの事なのですが……」
――――外出許可を得ようとレミリアに尋ね続けること、早二週間弱。この様にはぐらかされるか話題をすり替えられるかで、今の今まで私は紅魔館から出る事が出来ずにいた。
紫に出会い、彼女の反応を見て幻想郷では友達が出来る可能性が非常に高いと考えた私は、一刻も早く外へ出て様々な人妖達と交流を育みたい気持ちでいっぱいになっている。しかし今私を取り囲んでいる現実は、誰かと遭遇するどころか紅魔館から先の世界を知ることは許されないと言わんばかりの有様である。何だかここまでくるとお預けを食らっている気分になってしまうのだが、致し方のない事ではないだろうか。
まぁ、彼女たちが何故私を頑なに外へ出そうとしないのかは分かる。そこまで鈍感であるつもりはない。言うまでも無く、私の魔性が及ぼす影響を危惧しての事なのだろう。
レミリアは私が紅魔館に住んでいた時の、私に対する周囲からの評価をよく知っている。全くもって遺憾極まりないが、私は当時の吸血鬼達からは恐怖の大王の如く扱われていた。廊下を歩けば道を譲られるどころか例外なく膝を突かれ、さらには一度も頼んだ覚えが無いのに背後に側近が付いてくる始末。一応弁解しておくが、私は何もしていない。力で同胞達を制圧した訳でも、攻めて来た妖怪を単体で一掃した訳でも、吸血鬼狩りの軍団を虐殺した訳でも無い。ただ毎日通りすがる皆に挨拶をして歩いていただけである。それなのにいつの間にか魔王になっていると来た。当時の私は遠い目をしていた時が多かった気がする。唯一、まともに対応してくれた義娘二人がいなければどうなっていた事だろうか。多分ずっと不貞寝していたに違いない。
話を軌道修正しよう。魔性の影響が幻想郷の住民たちを刺激し、何らかのアクシデントを生み出す事を恐れて私を外に出したくないと言う意見は至極真っ当な考えではあるのだが、それで納得できるかと言われれば、答えはノーである。この希望の地で私は必ず友達を作るのだ。そして何気ない日常を友と共に穏やかに過ごしていくと言う夢がある。
「レミリア。君は私から話題を逸らす時、あからさまに敬語になる癖があると気づいているかね」
「うっ……」
「そうはぐらかさなくても、君の言いたいことはよく分かっているつもりだ。私の力が及ぼす影響がどれだけの規模となるのか、想像がつかなくて怖いのだろう? 安心しなさい、大丈夫だ。前にも言ったように、紫は私と対等に接する事が出来たのだ。彼女だけが普通に接する事が出来る、なんてことはあるまい」
「……おじ様は自分の持つカリスマ性がどれだけ凄まじいのか分かっていないのよ。それに、八雲紫がどれだけインチキな存在なのかもまるで理解していないわ。本当に八雲紫と対等に渡り合えたのか、ある意味信じられない位なんだから」
紫とはそんなに恐れられている妖怪なのだろうか。私から見れば、幻想郷のルールをわざわざ教えに来てくれた親切な妖怪さんのイメージしかないのだが。
しかし、レミリアよ。そのカリスマ性云々は誤解だと何度も言っているのに……。魔性が声や仕草にも反映されるから、他者からはそう感じるのかもしれないが、私は友達が欲しいだけの吸血鬼である。カリスマどころか友達一人もまともに作れないのに、他者の心を惹き付ける代名詞を与えられるとは如何なものか。こうして普通に話が出来る家族を得た事すら、私にとっては奇跡に等しいと言うのに。
まぁ、長く生きたが故に少しばかり特異なのは流石に自覚しているが、それでも心は寂しがり屋の吸血鬼だ。そこだけは譲らない。
「……ねぇ、ナハト」
今までじっと本を読み続けていたパチュリーが、徐に口を開いた。彼女は読書をする時にしばしば掛けている眼鏡の位置を正しながら、私へ視線を向ける。
「あなたの言う、魔性? は無くすことが出来なくても、軽減する事は出来ないのかしら」
「……ふむ」
今まで色々な手段を使ってこの疎ましい能力を克服しようと試してきたが、めぼしい効果は得られなかった。出来たとしてもその場凌ぎである。魔法道具の類を使って抑え込んでも、道具がキャパシティの限界を迎えて短時間の内に破壊されてしまうのだ。しかもその反動なのか、抑えられていた分の瘴気が一斉に放たれてしまうと言う最悪のデメリットがある。昔道具を駆使して魔性を抑え、とある人間の町に足を踏み入れたことがあったが、途中道具の効果が瘴気に破壊されて、閉じ込められていた瘴気が一気に蔓延したことがある。災害が起こったわけでも何でもないのに、その町は民が逃げ惑い泡を吹いて倒れる阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。以来、無暗に押さえつける方針は取っていない。ただでさえ大きな爆弾を更に強化する様な真似になるからだ。
「軽減する方法は難しくてね。出来ることは出来るが、デメリットが大きいんだ。さらにこの力は制御が効かないものだから、私の意思ではどうしようもないと来ている」
「じゃあ、中和はどう?」
中和? つまり魔性の瘴気を反対の属性をもって打ち消そうと言う手段はどうなのかと聞いているのか。
それも一応、試す事はしたのだが……これもボツだ。魔性はどうやら禍の性質を兼ねているらしく、ある程度強力な浄化の力を持つ聖遺物などを用いて相殺することは出来る。出来るのだが、魔性を永続的に中和できる代物を今までに見た事が無い。必ず耐え切れなくなって壊れてしまう。聖遺物を塩基に、魔性を酸に例えると、私が身に着けた聖遺物には酸が絶えず流し込まれている状態になる。当然、何時かは性質が逆転してしまうのは自明の理だ。
「それも難しい。半永久的に祝福を受けた聖遺物でもないと、完全な中和は恐らく不可能だろう」
「……あまりに規格外で出鱈目な話だけど、納得してしまってる自分が怖くなるわ」
はぁ、とパチュリーはうんざりしたように溜息を吐いた。私も溜息を吐きたいが、幸せが逃げてしまうので口を閉じる。日頃の行いは大切である。
彼女は本を静かに閉じると、眼鏡を取って真剣な表情を私へと向けた。
「ナハト。少しだけ試してみたい事があるのだけれど、協力してくれる?」
「別に構わないが」
「ありがとう。……あの夜、フランに取り憑いたスカーレット卿とあなたが戦った時の事なのだけれど」
一瞬、レミリアが明確に顔を顰めたが、私はそれを手で制した。あの話は紅魔館にとってタブー染みた暗黙の了解に包まれているが、パチュリーが何の意味も無くこの話題を引き出してくるわけがない。何か考えがあるのだろう。
「あの時、あなたは自分から漏れ出した瘴気の影響から私たちを守るために、グラムから放たれる高濃度の魔力を使って瘴気を相殺していたわよね?」
「正確には相互に妨害作用を起こさせて、度が過ぎた影響が出ないようにしていたのだ。毒を以て毒を制すると言ったところかね」
「それよ。軽減が出来ないのなら、別の効果で上書きしてしまえば良いのよ」
……成程。瘴気の影響を打ち消すのではなく、別の力で誤魔化すと言う事か。それは考えた事が無かった。私はずっと魔性の悪影響を取り除く事しか頭に無かったものだから、これは思いがけない盲点だ。あの手段は魔力による圧が生まれるため、魔性とはまた違った影響が出ると考えて無意識に選択肢から除外していた。思えばその方法を試した事が無かったな。
この方法なら、魔力による圧迫感は新たに生まれるだろうが魔性の力は最小限に抑えられる筈だ。まともに会話が成立する機会がぐっと上がるかもしれない。
やはり他者と思考を交換できるのは素晴らしい。自分では見えない部分を発掘してくれる。これぞ会話の醍醐味というものだろう。
「今まで試そうと思わなかったが、改めて考えると良い案だね。少し試してみようかな」
「そう言ってくれて助かったわ。これが無駄にならずに済んで良かった」
そう言って、パチュリーは懐から何かを取り出した。
それは、灰色の金属質の基盤と中央部分に装飾された大きな卵形の赤い石が特徴的な、実にシンプルなデザインの腕輪だった。
これはなに? と私より先にレミリアが問う。
「一種の魔力増幅装置よ。中心の魔晶石には、魔力を内側で増幅させて放出する性質がある。腕に装着して魔力を流し続ければ、魔力が枯渇しない限り妨害作用を発動できるんじゃないかしら」
着けてみてと言われ、私は腕輪を装着し、手始めに少量の魔力を石に流し込む。すると、パチュリーの言う通り一際強くなった魔力が放出され、私の体表を覆うように展開されたのが分かった。魔力は余程高密度かつ一点に凝固させなければ目に見えないので、傍目から見ても変化は無いかもしれない。
「具合はどうかな?」
「うーん……以前と比べて随分慣れてしまっている私たちじゃあ、おじ様の変化をいまいち掴めないわね」
レミリアが難しそうな表情で言った。それはつまり、腕輪が全く意味を成していないと言う事なのだろうか。だとしたら、効果の程を期待していただけにかなりショックなのだが。
すると、パチュリーが静かに手を叩いた。乾いた音が広大な図書館へ響き渡る。応じて、バタバタと慌ただしく小悪魔が本棚の森から姿を現した。
「お呼びでしょうか、パチュリー様」
「ええ。一つ質問があるのだけれど、あなた確かナハトが未だに心底怖いのよね?」
「ぴぃっ!? あああああのパチュリー様そんな誤解を招くような言い方は止めてください私は生来臆病なのでお力の強いナハト様を前にすると妙に緊張しちゃうだけでべべ別に恐ろしいと思っている訳じゃなくてですねあのあの誤解しないでくださいナハト様私は別にナハト様を怪物の様に思っている訳では無くていやあの今のは言葉の綾と言いますか本当にそんな事は思ってないんですああああごめんなさいぃ――――っ!!」
パチュリーの一言が引き金となり、錯乱を起こしてわんわんと泣き出してしまう小悪魔。私は何もしていない潔白の身である筈なのだが、こんなにも罪悪感が胸を突き刺してくるのは何故だろう。何だか無性にベッドの上で膝を抱えたくなる衝動に駆られた。
「落ち着きなさい。配慮が足りなかったのは謝るわ。ただ、あなたに少し訊ねたい事があるのよ」
「グスッ……はい、何でしょう」
「あなたは今、ナハトを見て寒気が止まらなかったり、無性に逃げ出したくなったりしない?」
ズバズバと率直に物を言う性格故、パチュリーに悪意は全く無い事は分かっているのだが、改めて私の影響下に置かれた者の心情を他者から聞くと泣きたくなってくる。
小悪魔がチラチラと、様子を伺うように目線を向けて来た。怖い上司さんを前に意見を言えない子の気持ちなのだろうか。兎に角助け舟を出さねばなるまい。
「小悪魔、君の意見はむしろ私の助けになるんだ。気に病む必要は無いのだよ。だから、正直に意見を言ってくれると嬉しい」
「うぅ……分かりました。えっと、正直に申し上げますと、ちょっぴり、ほんのちょっぴりだけ怖いですが……何時もより威圧感が感じられない気がします」
小悪魔の弁明から、私たちは腕輪に効果があったのだと確信した。
どうも100%阻害する事は出来ない様だが、それでも軽減させる効果はあったらしい。パチュリーの仮説は正しかったと言う訳だ。
頑張って意見を述べてくれた小悪魔に礼を言い、このままでは心臓に悪いだろうから下がって貰った。いずれは彼女とも何気なく会話ができる日が来ればいいのだが。
さて、それでは本題に戻るとしようか。とは言っても、最早結果は見えたようなものだけれど。
「さて、レミリアよ。改めて効果が証明された事だから、少し外出をしてきても問題ないかね?」
この日初めて、私は紅魔館の外へと足を踏み出せる切符を手に入れた。
◆
「……パチェ。これからどうなると思う?」
ナハトが図書館から退出した後、我が親友が憂鬱そうな表情を浮かべながら話を振って来た。考えるまでも無いが、ナハトが外へ出た結果生じる影響の事だろう。
「さぁ。意外となるようになるんじゃないかしら。それこそ、あなたの得意な運命操作を応用してナハトの近い将来を見てみればいいのに」
「見たわ。だから不安なの」
なに? と私は活字の海からレミィへ視線を移した。
彼女は『運命を操る程度の能力』と言う仰々しい能力を持っているが、言ってしまえば軽い未来予知と、ほんの少し手を加えて運命にバタフライエフェクトを生じさせる能力らしい。
運命とは、あらゆる因果が絡みついた末に生じる道筋である。計算で言えば途中式と言ったところか。1と1を足せば無論2になるが、そこでさらに1を3回足せば5になる。レミィの能力は、この途中式に少しだけ手を加えて自分の望んだ数値に近いものに書き換える力なのだ。それは、レミィと関係が近くエフェクトを操作しやすければしやすい程強い効果を発揮する。逆を言えば、自分の力が及ばない範囲では効果が無い。
しかし応用すると、自らを含めた対象者と言う名の計算式からどの様な答えが生じるのかを見る事が出来、また制限付きだがある程度の操作も可能となる。なんだか小難しい講釈をしてしまったが、要は自分の意思で結果を少し弄れる占いの力だと思って良い。それも、軽い未来予知と言う点に限ればどんな占いよりも的確に将来を当ててみせる程の。
そんな彼女が、不安だと言ってのけた。つまり自分の力に自信が持てていないのだ。正確無比である筈の未来予知が。
「もともと、他人の運命は断片的にしか見えないと言うのもあるんだけど……今回ばかりは、ちょっと訳が分からないのよ」
「……一体何を見たの?」
レミィは眉間に皺をよせて、紅茶を含んで唇を湿らせる。先ほどナハトと随分話し込んでいたせいで、紅茶はすっかり温くなってしまっている様だ。
「満月の中に訪れる、津波の如き凄まじい光と二つの大きな力。一面を覆い尽くす業火に、それを呑みこむ暗黒の闇。最後に見えたのは……矢だったわ」
訳が分かんないわ、と彼女は呟いた。全くもってその通りだ。まるで訳が分からない。
未来予知と言う事はつまり、今彼女が述べたこと全てが近い将来に起きる出来事であると意味している。何をどう過ごしたら、光の波やら業火やら暗黒やらと遭遇する様な未来に辿り着くと言うのだ。本当にそんな未来があるとしたら最早戦争の域である。
…………いや、そんな筈はない。思い付きで例えたけれど、戦争なんてそんな馬鹿な事がある筈はない。彼は散歩に行っただけだ。散歩に行って争いが起こるなんて阿呆みたいなことがある訳がない。
と、そこで一つ、彼についての疑問が浮上してきた。
そう言えば、彼は何故今になって幻想郷にやって来たのだろうか。
彼は紅魔館をふらりと出て行ってから実に400年近くも姿を消し、たった一人で人外には住み辛くなった外の世界を生き延びて、またもふらりと舞い戻って来ている。帰省の為と言ってしまえば簡単だが、あの底が全く見えない深淵そのものの様な男が、何の理由も無く幻想郷へやって来るだろうか?
彼は思う所があってこの館へ帰って来たと言っていた。つまり、外で忘却され自然に幻想入りを果たした訳では無い。意図的に入り込んだのだ。博麗大結界を突破したことに対しては別に驚きはしないが、私が疑問を抱かざるを得ないのは彼が幻想入りを決行すると決意した理由である。
何故彼は、この幻想郷へ足を踏み入れたのだ?
頑なに幻想郷へ出歩きたいと訴え続けて来た理由は何だ?
彼の運命の先にある異常な光景を、レミィが目撃したその意味は――――
そこまで考えて、私は頭を振った。いけない。不味い方向に思考が傾こうとしていた。彼は紅魔館をあるべき姿へ戻してくれた恩人だ。例え何かを企んでいたとしても、それが有害な事であるとは限らない。スカーレット姉妹の為にあそこまで怒り狂えるほど親愛を持つ彼が、彼女たちに危害を加えるような真似をする訳が無い。
けれど同時に、一つの確信を覚えた。
確実に、近い将来何かが起こる。
これは最早確定事項だ。彼を中心としてか、また彼が関わる出来事で、近いうちに予想だにしない大きな出来事が発生するのは間違いないだろう。それがどれ程の規模なのかは想像する由もないが、兎に角何かが起こる。私はレミィを筆頭とした紅魔館の古株と比べて彼をよく知らないが、彼の影響力を舐めて捉えない方が良いと言う事だけは明確に理解している。
対策を練る必要があるか。彼が何を思って幻想郷へ入り込んだのかは分からないし、問い詰めようとも思わないけれど、万が一に備えて準備を進めておかねばなるまい。
この館の住人は、どの様な形であれほぼ全員が彼の事を信頼している。ならば私だけが、唯一疑う疑心でいよう。彼の事は信用しているが、信じすぎて万が一の泥沼に落ち込んでしまわないように、その結果レミィが酷く傷ついてしまわないように、私だけが紅魔館の悪心となるのだ。
私にとっての一番は今も昔も、悪魔の癖にお人よしで妹想いな親友なのだから。
「ねぇ、パチェ」
「なに? レミィ」
彼女はクスクスと何故か屈託のない笑顔を浮かべながら、私に悪戯っ子のように囁いた。
「パチェって確か推理小説好きだったわよね? ここはひとつ、私の見た運命がどんな未来なのか、この断片から推理してみてよ。これを機に図書館探偵ノーレッジって名乗って、幻想郷の探偵になっちゃうのはどう?」
そんな無茶な。
◆
日付が変わった頃合いの幻想郷を歩き始めて、早くも数時間が経っただろうか。一歩一歩の歩幅が大きい私は、随分な距離を歩いているような気がする。
初めに紅魔館が見えなくなり、霧に覆われた湖を離れ、そして獣道に等しい道を歩き続けていると、見慣れない場所に出た。ここから先が、私の知らない幻想郷と言う事になるのだろう。何だか未開拓の大地に足を踏み込んだ探検家の気分だ。一歩一歩の足取りが、慎重且つ軽快なものとなっていく。
初めての幻想郷ウォーキングだが、今日は友達探しと言うよりはただの視察目的で歩いている。取り敢えず、この地がどんな地形をしているのか観察したかったのだ。大体の地形さえ把握すれば、立地からどの様な場所に多くの人々や妖怪が住んでいるか、大まかに割り出す事が出来る。住める場所と言うのは一見するとどこでも良いように感じられるかもしれないが、集団で暮らす所となると意外と限られたものなのだ。特に、外と違って殆ど整備されず、多く自然が残されているこの環境では特定しやすい。
そして思った通り、遠巻きだが道中に人間の里らしき集落を発見した。どんな所なのか非常に興味をそそられるが、我慢である。今日はあくまで様子見だ。ここで浮かれたまま調子づいて人里に入ろうものなら、レミリア達の呼ぶ『異変』として扱われてしまう可能性がある。そうなれば博麗の巫女さんが元凶を懲らしめにやって来るらしいので御免こうむりたい。なるべくなら、彼女とは穏便な接触を望みたいところなのだ。
しかし改めて観察してみると、成程妖怪たちが過ごし易いと言われるのも頷ける。緑の存在が大地の大半を占め、そのお蔭か空気は澄み渡り、微かに草木のスガスガしい香りが混ざっている。普通、活気のない印象を受けるのが夜ではあるが、虫の合唱と梟の何気ない会話が命の気配を感じさせた。川の水は全く淀んでおらず、月光の煌めきを美しく反射させている。最奥の上流まで行かずとも、そこそこ水の循環が速い場所では、人間でも十分飲める水なのだろう。
妖怪は人間の心から生まれた存在だが、同時に自然と密接な関係を持つ者も少なくない。主な例を挙げれば河童や天狗、狒々や妖獣、最たるもので言えば妖精だろう。これらはコンクリートジャングルで生きていく事は出来ない。そもそもコンクリートジャングルの中では、彼らは脅威として認識されにくいのだ。過去では熊が降りてくれば大騒ぎになったらしいが、今では分厚い家に守られている上に連絡手段が発達したため、昔より格段に安心を得られるからと言えば分かり易いだろうか。まぁ、科学技術が発達してオカルトが否定されているから、と言ってしまえば一括りに出来るのだけれど。
ともかく、この幻想郷は妖怪にとって過ごしやすい環境なのは間違いない。まさに楽園と称するに相応しい場所だ。
ただ、結構な距離を歩いた筈なのだが全く妖怪を見かけないな。物の怪の類は基本的に夜を主軸に生活している者が多い筈なのだが、幻想郷では昼行性の妖怪が多いのだろうか。人間に紛れて生活する妖怪が外と比べると格段に多いと言うし、まずレミリアが博麗の巫女へ会うために太陽の元を行動するほどなのだ。そうであっても不思議ではないか。
何気ない妄想を夜の空気に溶け込ませながら歩いていると、何やらいたく広大な竹林が見えて来た。視界一杯が竹、竹、竹である。外の世界でも、かなり奥地へ足を踏み入れなければこの様な光景は見られないのではないだろうか。微かな夜風が竹を扇ぎ、しなった幹がぶつかり合う事でカラコロと音楽を演奏している。何だか自然の和楽器演奏を聴いているような気分になって、思わず目を閉じて聞き入ってしまう。
そんな時だった。竹の奏でる音色とは別に、突然響いた凛とした声が、私の鼓膜を振動させた。
「そこのあんた。こんな時間に、こんな所で何をしているの」
「…………?」
「上よ、上」
声の主の弁を辿れば、そこには一人の少女が、輝く月の元を浮遊していた。
見た目の年齢は大体十代半ばと言ったところか。月明りを美しく反射させる白のロングヘアーに、頭頂部に飾り付けられた白地に赤い模様が描かれているリボンが特徴的な、どこか熟練の覇気を感じさせる女の子。カッターシャツの様な服を着ていて、サスペンダー着きのズボンを装着していた。いや、あれは確か、指貫袴とかいう履物だったか? 記憶が正しければ、極東に住んでいた昔の貴族の服装だったように思える。
服のいたるところにお札が張り付けられ、さらにリボン代わりとして髪の先を束ねる為に結び付けられている点や、人間特有の霊力が感じられるところから見て陰陽師関係の者だろうか。微かに妖力の気も感じられるが、まさか散歩の初日で東の国の退魔師に遭遇するとは思わなかった。
取り敢えず、敵意は無い事を証明しておこうか。見た所力を持った人間の様だし、魔性や魔力の圧を抜きにしても、妖怪に少なからず敵対心を抱いている事だろう。現に、彼女は凄まじい気迫を漲らせている。まずは矛を収めて貰えるように努めねばならないな。
「こんばんは」
「こんばんは。さて、親切にもう一度だけ聞いてあげるわ。あなたは何者? ここに何の用?」
明らかに力の放出が強くなった。何故だ。やはり人間の彼女には、夜を闊歩する私が不審者以外の何物でもないのだろうか。魔性の影響故に致し方のない事とは分かっているのだが、ちょっと凹んでしまう。
それはともかくとして、これは素晴らしい。何が素晴らしいのかと聞かれれば、このパチュリー発案の腕輪の効果に対してとしか言いようがない。彼女は明らかに敵対心を滾らせてはいるが、こうして初手の会話がちゃんと成立している。これは地味だが非常に大きな成果なのだ。
私に友達が出来ない最大の要因は、魔性によって会話が全く成立しないと言う点が大きい。この様に攻撃的な感情を覚えている者に挨拶すると、高確率で『こんばんは』から『こんばんは死ね』と攻撃されるのが今までのテンプレだった。だが今、その流れが無い。誰も銀の槍で突いてきたり魔法で火を放ったり矢を射ったりしてきていないのである。腕輪が放つ魔力が魔性を誤魔化しているお蔭で、普段の三割近く影響力が削られていると見ていいだろうか。
よし、早速だが彼女との接触を続行しよう。慎重に行けば上手く交流の橋を掛けられるかもしれない。
「夜分に失礼した。私はナハト。最近幻想郷にやって来た新人の妖怪だ。私は、日光を受け付けない体質でね。夜にしかあまり動けないものだから、この時間に散歩しているんだ。偶然ここへ辿り着いただけで、他に他意は無いよ」
「そんなに力を振りまいて、周りを鼓舞させているのに?」
……ふーむ、魔性の影響が減ってもその穴埋めとして魔力の圧が強く働くのか。しかし、周りを鼓舞させているとはどういう事だろう? 周囲を見渡しても、誰かが勢いづいている様子などは見当たらないのだが。
と言う事は、もしや煽られていると勘違いしているのだろうか。
「誤解だよ。私は少々厄介な能力を持っていて、どうも私を見る者は敵対心や恐怖を覚えてしまうらしいのだ。これがまた難儀な力で、私の意思では到底制御できないでいる。心の底から誓って、君や周囲の者達に危害を加えるつもりは無いよ」
「……、」
「ところで、ここで会ったのも何かの縁だ。良ければ君の名前を聞かせてはくれないか?」
少々の間が空き、やがて彼女は口を開いた。
「藤原妹紅よ。妖怪さん」
「妹紅か。良い響きだな」
「それはどうも。……ところで、あんたはこれからどこへ行くつもり?」
「当てはないな。気の向くままに歩いていこうと考えている。何か指標になる目的地でもあれば良いのだが、新人の身の上なので土地勘が無くてね」
「そう。じゃあ、この竹林をお勧めするわ。上手く抜ける事が出来れば面白いものが見れるかもよ」
「そうなのか。それは良い事を教えて貰った。さっそく行ってみるとするよ」
「……せいぜい迷わないように気をつける事ね」
それだけを告げると、彼女は足早に空を駆けて去って行った。
出来れば、その面白いものが見られると言う場所まで案内をして欲しかったのだが、考えてみれば人間の彼女が安易に妖怪たる私へ近づく訳が無いか。退魔師に縁があるだろう彼女なら尚の事であるし、ましてや今は夜である。余程酔狂な者でも無い限り誘いに乗ることは無いだろう。ファーストコンタクトが良かっただけに、少しばかり残念な気分になった。
ともあれ、腕輪の効果が実証されたのはかなりの収穫だった。これがあれば、本当に近いうちに友達が出来るのも夢ではないのではなかろうか。そう考えると何だか足取りが軽くなった気分だ。また今度彼女に会った時に友達になって貰えるか聞いてみようか。丁寧に誤解を解いて行けば、もしかしたら史上初めてで人間の友達が出来るかもしれない。
脳裏に浮かぶ素晴らしき未来図はさておいて、まずは鬱蒼とした竹林へと目を向ける。一応、僅かながら獣道の様なルートが見えているが他に道らしき道は見当たらない。では、この獣道を歩いていけば件の場所へ辿り着けると言う事なのだろうか。
折角彼女が親切に教えてくれたのだ。本当はこの辺りで引き返そうかとも思っていたのだが、少し覗いてみるとしようか。幸い、夜明けまで時間に余裕はある。
足に一層力を籠めて、竹林へと足を踏み入れる。ざわざわと揺らぐ竹たちが、何だか私の来訪に驚いているかのような錯覚を覚えた。
◆
男の存在を察知したのは、竹林の古小屋の中で仮眠をとっていた時の事だった。
元より色々思う所があってあまり深く眠らない質なのだけれど、その時は普段より鮮明に意識が覚醒したのを覚えている。目を瞑って微睡みの中に溶け込んでいたら、首筋に電気を当てられたかのような感覚が走ったのだ。
それは大昔に妖怪退治を生業としていた時に幾度か経験した、大妖怪独特の覇気だった。しかも、人間と本気で争う時に見せる必殺の威圧感だ。
最近は妖怪関係の荒事が減っていたから、一体何事かと思わず力の放たれる方向へ頭を向けた。時間帯も時間帯だった事から、もしかしたら大妖怪同士が珍しく争っているのかと思って、私は取り敢えず状況の確認をしてみる事にした。力の発生源がかなり近いものだから、こっちにまで飛び火が移らないよう見張らなければならない。ただでさえ輝夜の奴と盛大な喧嘩をして疲れたばかりだと言うのに、大妖怪の戦いに巻き込まれるなんて御免だ。
竹林の上空にまで浮遊して、周囲を観察する。しかし特に争った形跡も、これから争いが起こる兆候も見当たらなかった。いつもと変わらない、閑散とした夜の幻想郷が広がっている。
気のせいかとも思ったが、今も尚、力の余波が肌をビリビリさせているのにそんな訳がある筈も無く。私は直ぐに、力の発生源が竹林の手前にあると言う事を察知した。
空中浮遊状態を保ったまま、私は発生源の元へと向かった。そして竹林の影の裏側に、件の男が佇んでいたのである。
突然だが、私には腐れ縁と言うべきか宿敵と言うべきか、蓬莱山輝夜と言う名の殺し合う程度の関係を持った因縁の相手がいる。アイツと初めて会った時、私は思わず父上が寵愛の情を向けるのも無理はないと納得してしまった。それくらい素晴らしい美貌の持ち主なのである。本人にこんな事を言えば必ずドヤ顔で煽ってくるだろうから絶対に言わないが、見てくれだけは女の『美』の極点と言っても過言ではない奴なのだ。
一体全体この弁と男が何の関係があるのかと聞かれれば、それはこの男がその対―――即ち、男の『美』の集大成の様な容貌をしていたからだ。肌に纏わりつく膨大な力の不快感を忘れてしまう程の、不気味なくらい美麗な姿をした男だったからだ。
目を瞑ったまま夜の闇と一体化しようとしているかの如く微動だにしない彼は、間違いなく大和の出身ではない。女の私よりも白い肌に、月の光を食らう灰色の癖毛。全身を包む黒装束は西洋の貴族を彷彿させた。
ただ静かに佇んでいるだけなのにその様があまりに画になっていて、思いがけず思考を空白にして、吸いこまれる様に見惚れてしまう。そんな自分に気がついて、頭を振って神経を男に集中させた。
だが奴がこんな所で目を瞑ったまま何をしているのかと疑問を浮かべるより先に、私の意識へ滑り込んできたものは、彼の背後に広がる、あまりに異様な光景だった。
妖怪の群れだ。
草の影に。木の根元に。樹上の枝に。男から離れた至る箇所に無数の眼が、まるで夜に煌めく猫眼の如く、ギラギラと光を放っていたのである。
数も多ければ種類も多い。パッと見渡しただけでも人の形をしていない下級妖怪をはじめ、人間を食らって力を得た様々な妖獣や妖蟲、さらに妖精の類までもが、まるで男を遠巻きに見守るように隠れ潜んでいるのだ。
それはまさに、過去に見た百鬼夜行を記憶の底から蘇らせる光景で。
私は思わず、この尋常ではない景色を前に生唾を飲み込んだ。
一体全体、ここで何が起きている。
あの妖怪たちは、それ程知能も高くなければ群れる習性すらない者ばかりだ。それなのに、提灯の灯に吸い寄せられた羽虫の大群の様に、細かな塊りとなって一堂に会している。どこからどう見てもただ事ではないのは明らかだ。まさか本当に、あの男を筆頭とした百鬼夜行が新しく編成されているとでも言うのか。
私は出不精の自覚はあるがそれでも、あんな男を幻想郷で一度も見たことが無い。もしかしたら最近幻想入りを果たした新人なのかもしれないが、そうなると余計に事態は深刻さを増してくる。ほんの少し前に、湖の辺りに突如引っ越してきた吸血鬼が、妖怪を従えて一揆を起こしたことがあったばかりだ。私には、この光景が再び起こるかもしれない妖怪反乱の狼煙にしか見えなかった。
こんなものを目撃してしまった以上見過ごす訳にはいかない。私は訳あって絶対に死ぬ事の無い身の上だが、ここから近い人里に住む連中は違う。ただの人間は、妖怪が軽く腕を振るうだけで首をぽっきり折られて死んでしまうのだ。あんな数の魑魅魍魎が人里に雪崩れ込んだら、不幸中の幸いにも人間の死傷者は出なかったらしい吸血鬼異変の時とは、比べ物にならない被害が生じてしまう。そう思った私は、気がつけば男に向かって言葉を発してしまっていた。
「そこのあんた。こんな時間に、こんな所で何をしているの」
男は静かに瞼を開いて、ゆったりとした動きで周囲を見渡す。全く動揺の色が見えない所から見て、わざとやっているのだろうか。
「上よ、上」
奴は声を辿り私の姿を視認すると、月光に照り返された百合の花の様に神秘的な笑みを浮かべた。
「こんばんは」
ビリリ、と奴の声が電気の様に鼓膜を刺激したかと思えば、そのまま脳にまで滑り込んで来て、思わず奥歯を噛み締めた。
一瞬だけだが、何故か妙に心が安らいだ感覚があった。恐ろしい師父から賛辞の言葉を掛けられた時の様な安堵感が、奴の言葉を耳にした瞬間に胸の内側で拡散したのである。それがあまりに不気味な感触で、私はその気味の悪さを上書きするように、苛立ちを露わにした。
「こんばんは。さて、親切にもう一度だけ聞いてあげるわ。あなたは何者? ここに何の用?」
奴は笑顔を崩さない。本当に妖怪なのかと疑うくらい物腰柔らかに、彼は言葉を紡ぐ。
「夜分に失礼した。私はナハト。最近幻想郷にやって来た新人の妖怪だ。私は、日光を受け付けない体質でね。夜にしかあまり動けないものだから、この時間に散歩しているんだ。偶然ここへ辿り着いただけで、他に他意は無いよ」
他意は無い? じゃああの後ろの魑魅魍魎の群れは何だ。誰がどう見ても今から戦争に行きますと言わんばかりの態勢だろうに。流石にその嘘を他人に信じ込ませるには無理があるだろう。
「そんなに力を振りまいて、周りを鼓舞させているのに?」
ナハトと名乗った彼は、私の言葉を噛み締めるとゆっくり振り返った。
その瞬間。彼が振り返るよりも早く、そして音も立てることなく、魑魅魍魎の気配が一気に闇夜へ溶け込んでいったのである。
まるで、天敵に睨まれた動物の群れが、蜘蛛の子を散らして逃げ出したかのように。
彼は私へ紫に輝く瞳を向ける。表情は、私の神経が凍り付くほど穏やかなものだった。
「誤解だよ。私は少々厄介な能力を持っていて、どうも私を見る者は敵対心や恐怖を覚えてしまうらしいのだ。これがまた難儀な力で、私の意思では到底制御できないでいる。心の底から誓って、君や周囲の者達に危害を加えるつもりは無いよ」
……どうやら、素直に白状する気は無いらしい。それもそうか。何か企んでいるんですかと聞かれて、はい私はこんな事を企んでいますと口外するような奴は、余程の間抜けでしかない。しかし話の感触からするに、奴は幻想郷を偵察する目的で歩いているのではないだろうか。見知らぬ土地で反乱を起こすよりは、一度地形を理解してから事を起こした方が成功率は高い。その為に、なるべく私たち幻想郷の住人に企みを悟られぬよう、柔和な態度で接して警戒心を剥がそうとしている。つまり、今の所彼は戦うつもりだとか、そう言った考えは無いと言う事か。あくまで、現段階においてではあるけれど。
次のアクションをどうするか考えるのも束の間、今度は自分の手番だとでも言う様に、彼は私へ言葉を投げた。
「ところで、ここで会ったのも何かの縁だ。良ければ君の名前を聞かせてはくれないか?」
聞き入るものを魅了するかのような声が、私の脳を揺さぶる。永遠亭の兎の一匹が使う、狂気の幻術を浴びた時の様な感覚があった。この男の声を聴くと、強い不安感を抱くと同時に無条件に心が安らぐのだ。彼が穏やかに話している内は無事でいられる――そう思わされてしまう、言葉の魔力の様な力が確かにあった。
「藤原妹紅よ。妖怪さん」
気がつけば、私は言うつもりのない名前を口に出していた。塞ごうとしてももう遅く、自白剤を飲まされたように言葉が流れ出て、その事実に背筋がゾッとした。
「妹紅か。良い響きだな」
彼は笑った。それがまた、酷い安心感を生み出した。
同時に私は確信する。この男は危険だと。もし、このまま男が人里へ向かうようなことがあれば、想像を絶する事態を招く事になるだろうと。
私は、自惚れでも何でもなく精神的にはかなり打たれ強い方だ。それなのに、奴の言葉を耳にしてこうも簡単にブレている。奴の声に何らかの術が混じっているのかは定かではないが、兎に角人里の人間が耳にしてはいけないと言う事は分かった。耳にすれば、もしかすると先ほどの妖怪たちの様に懐柔されてしまうかもしれない。何より、慧音をそんな目に遭わせるわけには絶対にいかない。
奴はどうやら新人の様だから、人里へ意識を向けさせないようにする必要がある。慣れないけれど少しだけ、意識を誘導させてもらおう。幸い奴は計画の下準備をしている様子だから、私の言葉を無暗に拒否して敵対心を
「それはどうも。……ところで、あんたはこれからどこへ行くつもり?」
「当てはないな。気の向くままに歩いていこうと考えている。何か指標になる目的地でもあれば良いのだが、新人の身の上なので土地勘が無くてね」
驚くほど簡単に望んだ言葉を吐いてくれた。後は、アイツの居る所へ誘導すればいい。輝夜は私と同じ完全な不老不死だ。輝夜の従者である月の薬師も同じ不死の身で、しかも相当頭が切れる。彼女らなら万が一と言う事は絶対に起こり得ないし、上手く行けばこの男を対処してくれるかもしれない。
「そう。じゃあ、この竹林をお勧めするわ。上手く抜ける事が出来れば面白いものが見れるかもよ」
「そうなのか。それは良い事を教えて貰った。さっそく行ってみるとするよ」
尤も、この竹林を突破する事が出来ればの話なのだけれど。
「……せいぜい迷わないように気をつける事ね」
誘導は終えた。奴は敵対しないために確実に竹林の中へと足を踏み入れる。私が気配を察知して存在に勘付いたと奴も気付いているだろうから、私が離れても意見を無視して何処かへ行くことは無いだろう。大妖怪はそこまで迂闊な存在じゃない。狡猾な部分は怖ろしく狡猾なのだ。何せ、人間と違って持っている時間の量は文字通り桁が違う。年単位を誤差としているような奴だって居るのだ。ここが妖怪と人間の感覚の差である。これが、今回ばかりは幸いしたと言ったところだろう。
私は急いで人里へ進路を変えた。正確には慧音の家だ。彼女に彼の存在を知らせて、早いうちに防護策を練っておかないといけない。吸血鬼異変よりもさらに大きなクーデターが起きないうちに、守れる身はちゃんと守れる様にしておかなければ。
そうしないと多分、きっと、私は後悔するだろうから。
だって慧音は、私と違って呆気なく死んでしまうのだから。
◆
―――――永夜異変・当日
◆
月の様子がおかしいと気がついたのは、つい数刻前の事だった。
今夜は綺麗な満月だから、月に一度の楽しみにと月光浴を堪能しつつ夜のティータイムを楽しんでいた訳なのだけれど、ふと、月の光から感じる魔力が異様に強くなっている事に気がついたのだ。異変はそれだけではない。月が少しだけだが欠けている。自然現象として起こる月の変形ではなく、明らかに不自然な欠け方をしているのである。それは、月そのものが贋作の月と入れ替えられてしまっているかのような強い違和感だった。
しかも、だ。月の異常事態もさることながら、まるで時間が止まっている様に夜が明ける様子を見せない。星や月の位置が、微動だに動いていないのである。
妖怪にとって月とは魔力の源泉ともいえる存在であり、また同時に狂気の象徴であるとも言える。
月の光は妖怪に力を与える。代表的な例は、満月で覚醒する狼男だろう。私たち吸血鬼も例外ではなく、満月の時期には力が増大し、同時に食欲も上がる。新月であれば真逆の現象が起きるのだ。
一見してみると、満月の時は良いこと尽くめな気がするが決してそうではない。月は力と共に、狂気のエネルギーも地上に降り注いでいる。満月の影響を最も受ける狼男が、覚醒すると尋常ではない凶暴性を手にするのはそのためだ。薬と毒は表裏一体とはよく言ったもので、力を授ける満月の光も永劫に浴び続けると精神崩壊を起こし、狂気に呑まれた怪物と化してしまう。
それが、つまる所この『異変』だろう現象の最たる危険性と言ったところか。このまま贋作の強い光を夜が明ける事無く浴び続ければ、まず間違いなく狂う。折角、妹の狂気問題が狂気に囚われたモノでは無いと分かり解決した直後だと言うのに、今度は本当に狂気に取り憑かれてしまうなんて堪ったものじゃない。早々にあの煩わしい月を退かしてしまわなければ。
こう言った異変解決専門家の霊夢は、まだ動いている様子を見せていない。人間である彼女には、この月の異常に気付くのは難しいか。まぁ、もしこのまま動かない様であれば、私が解決しに行けばいい話だ。妖怪が異変解決を行うのは暗黙の了解でご法度だが、今回ばかりは妖怪の存続に関わる話だ。恐らく八雲紫も既に動き始めているに違いない。
ならば、私も動かずにどうすると言うのか。
「咲夜」
「こちらに」
音も無く、時空を司る自慢の従者が傍に現れる。美しい銀色の髪が煌めく冷然とした立ち振る舞いは、月光の下で異様に映えて見えた。
「貴女、あの月がおかしいと思わない?」
「月……ですか?」
はて、と目をぱちくりさせて、彼女は満月を凝視する。何かを考えるように顎に手を当てて、そして徐に呟いた。
「月が綺麗ですね」
「お前は何を言っているの」
「冗談ですよ。いつもは菜の花色なのに、今日は山吹色になっている事でしょう?」
「違う! と言うか何でそんな細かい所に気がつくのに月の異常には気付かないの!? 私ですら色の変化なんて分かんなかったわよ」
「これも違いますか。……いつもの満月よりお団子度がアップしている、とか」
「…………貴女、わざと言っているんじゃないでしょうね」
滅相も無い、と揺れ動かない表情でメイドは言う。咲夜はとっても優秀な従者なのだけれど、時折トンチンカンな事を言ったり行動に移したりするのが困りものだ。しかもまるで悪意と故意が無いとくる。これが俗に言う天然ボケと言う奴なのだろうか。どうでも良いが、取り敢えず変な紅茶を淹れるのだけは止めて欲しい。フランとおじ様にはちゃんとしたものを淹れる癖に、私だけわざわざ専用のポットを使って変な紅茶を作る徹底ぶりだ。止めろと言っても間を置いてまた再開する所から見て、これに関しては最早わざとか。育て方を間違えたのかしら。
「満月の筈なのに、月が不自然に欠けているでしょう。貴女には分からないかもしれないけれど、月の魔力がおかしいの。明らかに魔力量が多いし、禍々しいわ。加えて夜までも完璧に止まっている」
「となると、異変でしょうか。しかし夜が止まっているのはかなりの問題ですね。このままでは洗濯物が効率よく乾きません」
「月の方も大問題よこの馬鹿。このままじゃあ、月の狂気に当てられ続けて、フランが正真正銘の狂気に蝕まれてしまう可能性があるのよ」
一瞬にして、咲夜の雰囲気がガラリと変わった。フランの身に何かが起こるかもしれない……そう認知して、ようやくスイッチが入ったのだろう。私たちの事になると直ぐ血の気が多くなるのが彼女の強みであり、同時に欠点でもある。忠誠心が強い事は喜ばしいけれど、こういった事態で冷静さを失ってはいけない。
「だからさっさとこの異変を終わらせたいのよ。夜が止まっているのなら好都合だわ。この夜が明けるまでに、何が何でも解決する。霊夢はまだ動いていないみたいだし、私たちで動くわよ」
「して、どの様に解決するおつもりで?」
「あれは忌まわしい偽物の月。誰かが本物の月を隠してしまっている。元凶を叩いて月を取り戻すわ。それしか方法は無い」
「と言う事は、いつもの異変解決になるのですね」
「そうなるわ。さぁ、準備なさい。夜は好きだけれど、この夜はさっさと終わらせなくちゃならないわ」
「準備完了しました。何時でも出撃できます」
間髪入れずに咲夜が答える。横目で見れば、先ほどの会話から一寸たりとも動いてはいないが、明らかに異なる覇気を携えた咲夜が居た。
……どうやら時間を止めて、文字通り一瞬の内に準備を終わらせて来たらしい。折角頑張って尊大っぽそうに仕上げたと言うのに、こうも余韻が無いと何だか調子を狂わされる。どうやら、フランや私に危険が及ぶと頭にインプットされたせいか、完全にやる気満々の様子だ。元凶を勢い余って、標本用に手足を展足された虫の様にしなければ良いのだけれど。この子、もしやフランより一足早く月の狂気に当てられたりしていないだろうか。
「その意気込みやよし。では直ぐに出発―――と言いたいところだけれど」
最後に、残った懸念に対して確認を取る。いや、懸念と言うよりは、現在進行形で動き続けている問題なのだけれど。
「最後に質問。おじ様はどう?」
「……いえ。まだお戻りになられておりません」
「……そう」
最早語るまでも無いかもしれないけれど、実は今現在、予想外の事態が紅魔館で巻き起こっている。
事件の発端は三日前に遡る。あの日、いつもの様におじ様は外を散歩したいと私に言ってきた。正直な話、あの莫大なオーラを放ちながら外を無暗に出歩かれると、霊夢に異変だと勘違いされて襲撃されかねないと私は思った。だからその三日前までは何とか言いくるめてきたのだけれど、とうとうそれも限界となり、パチェの案でおじ様の溢れ出る瘴気をどうにか軽減させる魔法道具を作って貰って、それを肌身離さず着けると言う条件のもと、外出を許可したと言う経緯がある。
敢えて、簡潔にその結果を述べさせて頂こう。
おじ様は三日前に外出したっきり、一度も紅魔館へ戻ってきていないのだ。
とどのつまり、行方不明である。