アリス・マーガトロイドと言う名の魔法使い……いや、人形使いか? どっちで呼ぶべきなのか迷うけれど、まぁいい。
とにかくアリスと言う名の友人から突然イブニングコールを貰い、これまた唐突に、無視できない異変が起こっているから原因を探すのを手伝えとご指名を受けて、私は晩夏の夜を箒に腰かけて飛んでいた。
当然隣には、私の美容の邪魔をしてくれたアリスが、数多の人形とグリモワールを携え浮遊している。
「もう、夜に起こしたのは悪かったって謝ってるじゃない。だからそんなにジトっとした眼で何時までも睨まないで頂戴。言ったように人間の貴女にはピンと来なくても、これは本当に無視できないレベルの異変なの。……でも良い機会だから、これを機に月の有難さを知っておくべきだわ。貴女も魔法使いの端くれなんだし」
「へいへい、私には月を愛でる乙女心なんか無いですよーだ。ところで、こうして私が肌寿命を削ってまで異変解決を手伝ってるんだからさ、終わった暁には何か私にくれちゃったりするのかい?」
「都合のいい時は本当に厚かましいわね貴女は。だから頼りたくなかったのに……はぁ、しょうがないわね。少し珍しい魔法素材をあげるわ。それで良い?」
「魔理沙さんはアリスの愛の籠ったフルーツタルトもご所望だぜ」
「……了解。それで良いなら安いものよ」
「えっ? お前、まさか本当にソッチの気が……?」
「貴女をここで一度解体して意識を残したまま人形にしてやってもいいのだけれど、どうする?」
「せ、折角だが遠慮しておくぜ。人形は好きだけど眺めるに限る」
アリスの相棒とも言うべき、フリルをふんだんに施された衣装を身に纏う上海人形達が、槍やらナイフやら鋏やらを構えこちらに突き付けて来た。操り主たるアリスは、光の無い目をこちらに向けて底の知れない黒い笑みを湛えている。どうやらちょっとからかい過ぎてしまったらしいので、素直に手を引いた。引き際を見極めるのは肝心だ。私だってまだ剥製モドキにされたくはない。
ふと、人間の里から少しだけ外れた所を通過しそうな時だった。
私たちの高度より遥か上空で弾幕ごっこが開催され始めた事に気がつき、私は飛行を止めて、首を上へと向けた。
丁度満月と重なる絶妙な位置で光の応酬が繰り広げられている……弾幕ごっこか?
首を傾げる。私の知っているスペルカードのみたいな決まった法則性が全く見受けられないからだ。
とにかく派手で、とにかく速く、とにかく濃い――そんな印象を受ける空中戦だった。
よく見ると、空を引き裂かんばかりの妖力弾を撃ちまくっている犯人は、幻想郷でも屈指の実力者たる紫と幽々子の二人ではないか。私は思わずぽかんと口を開けてしまった。
互いに本気の弾幕戦をしているんじゃない。何やら二人で一つの飛行物体を撃墜しようとしているように見えた。
飛行物体はあまりに速すぎて私の眼では全く追えない。なんて例えれば良いのか分からないが、とにかく物凄く速いナニカがびゅんびゅんと弾幕を潜り続けているのである。
一体全体どんな化け物があいつらの本気弾幕をいなし続けているのかと注目していたら、彼女らは突然動きを止めた。
どうやら何かを話しているらしい。止まってくれたお陰で、私は謎の飛行物体の姿を遠巻きに確認することが出来た。
そいつは男の妖怪だった。月光の反射であまりよく見えないけれど、夜空で丈の長い服を靡かせている長身の男―――――
「――――っ!!」
「……魔理沙、どうしたの? 顔が青くて赤いわよ」
どんな状態だそれは、と突っ込みたかったが、今の私にそんな余裕は欠片も存在していなかった。
何故かは分からない。全くもって理解不能だが、あの男を眺めていたら無性に怖くて恥ずかしい気持ちが腹の底からマグマの如く込み上がって来たのだ。
まるで昔書いた恋文をふとした拍子に読み返した時のような羞恥心の激流と、ヘビに睨まれた蛙の気持ちをごちゃごちゃに混ぜた、絶対不可避とも言える恐怖の触手が同時に押し寄せてきた。呼吸は全力疾走後のように荒くなって、心臓の打ち鳴らす音が二重の意味で喧しくなった。
何だこれは。何だこれは。何だこれは。
何故あの男を見た瞬間、まるでトラウマの映像を見せつけられたが如く心が掻き乱されたんだ? まさか視界に捉えると不味い類の術でも展開しているじゃないだろうな。
異常事態が不安を呼び、私はアリスに縋り付くような声で言った。
「アリ、ス。お前、何ともないか……?」
「ちょっと、本当にどうしたのよ。さっきから本当に様子が変よ?」
「お前は、あの男を見て何も感じないのか?」
「男……いや、感じるわ。禍々しい気配がこの距離でも伝わってくる。あの男と相対している二人からも、凄まじい妖気が溢れ出しているわね。……まさか、あの男がこの異変の元凶なのかしら。だとしたら賢者が動いているのも説明がつくけれど、あそこまで賢者を本気にさせるあの男は一体―――」
眉間に皺を寄せたと思ったら、ぶつぶつと何かを独り呟きながら考え始めるアリス。こんな時でも自分の世界に浸れる都会派インテリの思考には着いていけない。
私は謎の男の姿をなるべく目の中心に入れないようにして、再び開戦された弾幕合戦を目に焼き付ける事にした。
まだ動揺がナリを潜めてはいないが、あの二人の本気弾幕を拝めるチャンスを逃す訳にはいかない。
しかし、改めて見てみると何て凄まじい攻防だろう。男が月を背景に生み出した黒い剣が、たった十数本で二人の弾幕を捌き続けている。
けれどそれを踏まえて見ても、二人の攻撃の熾烈さは目に余るほどだった。だって弾の密度が濃すぎて最早レーザーにしか見えないのだ。それが、男の何倍もの質量を持ってノンストップで放たれている始末である。
加えて、全方位に出現した何十何百のスキマが一斉射撃を絶えず行い、負けず劣らずの桜吹雪の台風が夜を蹂躙するという、ありとあらゆる手を駆使した妖力弾の一斉射撃が男を仕留めにかかっていた。
それはもはや、スペルカードルールなんて置き去りにした被弾必至の―――いや、必死の回避不可能弾幕である。
少なくとも、あれはゲームなんかじゃ決して無い。例えるなら戦争だ。あんな弾幕、普通なら展開されただけで絶望してもおかしくない。
でも男はその全てを凌ぎ切っていた。止まっていないと言った方が正しいか。
一度もひるむことなく、文字通り目にも止まらぬ速さで弾の嵐を剣撃で切り伏せ、薙ぎ払い、防ぎ切っている。斬撃のスピードが速過ぎて、何百もの黒い線が弾幕を呑みこんでいるかのようだった。
男が剣を放ち、反撃を開始してから暫くして、再び三者は遥か上空で動きを止めた。決着がついたのかは知らないが、十数本の剣は月明りに溶け込むようにして姿を消し、戦闘の気配が薄れ始めている。
……なんだか随分呆気ない終わり方だなぁ、と言うのが率直な感想だった。
どちらかが撃墜されるかと思っていたのだけれど、まさかドローで終了だとは。後半、男が剣に二人を追尾させたときは紫の珍しい撃墜姿が見られるのかと思ったのだけれど。
――期待外れの結末に溜息を漏らしそうになった、その時だ。
何やら上空で影が新たに生じたかと思えば、それがどんどん視界一杯に広がってきて。
影が近づいてくるごとに、私の体は何故か氷の中に閉じ込められたかのように動かなくなった。
ボスン、と何かが私の背後―――正確には箒の上に落下してきた音と感触があった。
途端に私を侵食し始める神経毒のような悪寒の波濤。どこかデジャヴを覚える感覚を噛み締めながら、私は圧倒的な恐怖に呑みこまれた。
振り返りたくない。振り返りたくない。振り返りたくない。
何度も心の中で願い続けているのに、気持ちに反して勝手に首が後方へと曲がっていく。危険な不確定要素を視認しなければならないと本能が訴え、私の肉体の自由を奪ってしまっていた。
映りこむ。
首の無い死体だった。
月光を照り返す白い肌の、私なんか簡単に抱えてしまえそうな大男。首から上に存在するはずの物体は見当たらず、一滴の血も流れない断面は、中身の有無が確認できない程の黒い靄に覆われていた。
声が出なかった。脊髄反射に近い行動だった。
気がついた時には、私は帽子の中からミニ八卦炉を取り出して、遺体に向けて零距離射撃を始めていた。
横から『何をしてるの!? 早く振りほどきなさい!』と言うアリスの怒声が聞こえたが、耳の穴から綺麗に抜け出していく。冷静さを完全に欠いた私は、ただただ眩い光の連続を遺体に向けて浴びせ続けた。
この前偶然我が家で発見した退魔効果を高める金属で八卦炉を強化してもらったお蔭か、光線が打ち抜くたびに、頑丈な妖怪から肉の溶解していく生々しい音が生み出されていく。
その時だった。ただ撃たれ続けるだけだった男の体が腕を伸ばし、私の八卦炉を掴み取ったのだ。
しかし男の指が八卦炉の
次の瞬間、怪物は思いもよらない行動をとった。首の無い体が跳ね上がるように上体を起こすと、これ以上私に八卦炉を撃たせないよう、抱えるように私を拘束したのである。
そのまま私を抱えた体は自由落下を始め、人里の入り口方面へ向けて夜空を流れるように滑空した。
「た、助けてぇええええ――――っ!!」
「魔理沙!」
振りほどこうにも、妖怪の力の前に私の細腕で敵う訳も無い。抵抗空しく、私は絶叫を上げながら首無しの肉体に連れ去られた。
首無しが放つ謎の瘴気に精神を蝕まれ、霞む視界が捉えた最後の映像は、魔法陣を展開するアリスの横を人間の頭程度のナニカが通り過ぎて、豪速でこっちに向かって来ているというものだった。
――そのナニカが頭であると理解した瞬間。私は闇夜の中に、呆気なく意識を手放した。
◆
三日前の晩の事だ。
あの夜、突然友人の妹紅が私の家に転がり込んできたかと思えば、直ぐに夜間外出禁止令を出すよう里の長や稗田家に掛け合ってくれと頼みこまれた。
普段から人に対して関心を持とうとはせず、それどころか避けるような姿勢を取っていた妹紅がこの様な頼みを託してきた事に心底驚いた私は、彼女からその様な発想に至った事情を聞き出した。
彼女曰く、その晩、あまりに奇妙な男と出会ったという。
その男は見るだけで心の奥底から不安を駆り立てるような瘴気を発しており、また同時に、何故か片時も目を離す事が出来なくなる、魅了にも似た魔性を兼ね備えた妖怪らしい。背後に百鬼夜行を従え、里からそう遠くない距離を不自然にうろついていたとのことだ。
永い時を生き、時には妖怪退治で生計を立てていた期間もあったという妹紅が不安を覚えるような妖怪で、百鬼夜行を従えていたとあれば動かない訳にはいかない。私は直ぐに里の有力者へと掛け合い、五日間だけ様子見として、夜間の間里の中であっても外出する事を禁止した。
幸い里の者達はすんなりと納得してくれて、五日間は夜間営業をする事も控えてくれた。
今では、妹紅の意見に耳を傾けていて良かったと心の底から思える。
妹紅の話していた件の男では無いが、紅い館の吸血鬼が従者を引き連れ、突然里へ侵入しようとしてきたのだ。
そして私は今、妹紅と共に彼女たちと交戦している状況下に置かれていた。
「不死『火の鳥-鳳翼天翔-』――――ッ!」
妹紅がスペルカード宣言と共に、火炎で生み出された怪鳥型弾幕を豪速と共に撃ち放つ。夜を斬り裂く火の鳥は、そのまま幼い吸血鬼の体を呑みこもうと大口を開けて突進した。
対する吸血鬼は紅蓮の瞳を輝かせ、火の鳥の一撃を目にも止まらぬ速さで潜り抜ける。しかし、火の鳥の軌跡から拡散して放たれた弾幕の一発に被弾しよろめいた。彼女はすぐさま体勢を立て直したかと思えば、お返しと言わんばかりに稲妻状のエネルギーを放つ光球を妹紅に向けて投擲した。光球はあまりの速度に槍の如く引き伸ばされ、絶大な威力と共に妹紅の体を穿ち抜ける。
「妹紅っ!」
私が叫ぶと同時に、原形を失った妹紅の肉体は、すぐさま凄まじい炎を纏って再び元の姿へと復活した。その光景は、自らを灰にして生まれ変わる不死鳥の如き絢爛さを醸し出していた。
「大丈夫だって。と言うより慧音、今勝負中だって事忘れてない?」
そう言って彼女は、私の背後に迫っていたナイフの弾幕を業火をもって打ち払った。
すまない、と私は告げて、相手をしていた吸血鬼の従者と再び相対する。だが内心、私は何時まで経っても慣れない感覚に歯噛みしていた。原因は、妹紅の歪んでしまった姿勢にある。
昔から妹紅は、例え手足が無くなろうとも平気だと、あっけらかんとした調子で言う。それは冗談でも何でもなくて、老いる事も死ぬことも無い特性を持ってしまった蓬莱人故に彼女は死生観が極限にまで薄まってしまい、自分を犠牲にすることに躊躇が無くなってしまっているのだ。先ほどの一撃だって、妹紅なら避ける事だって出来たはずだ。それを彼女は身を挺して受け止めた。私が心配の情を向けて妹紅へと意識を逸らしてしまった為に、吸血鬼の従者から攻撃される隙を作って妹紅の手を借りるような事にならなければ、復活で意表を突くと共に吸血鬼へ攻撃していただろう。それほどまでに、彼女は自身の安否に対して頓着が無い。
それが何だか、自分は人間ではない形だけが似ているナニカだと諦めているように見えるのだ。例え、自分の口では人間だと言っていたとしても。
彼女の歩んできた、人としては長すぎる生と過酷な経験がこの価値観を育んだのは分かっている。私が何を言ってもどうしようもない事だとは理解している。それでも、私は彼女の身を案じない訳にはいかないのだ。友人の怪我をする姿を好き好んでみたい者がどこにいると言うのか。
だが心の中でどう思ったとしても、何も変えられない無力な自分が歯がゆくて、戦闘に集中しなければならないのについ思考が掻き乱されてしまう。
「私に被弾させた上に、粉々になっても死なないだなんてやるじゃない。見た所は人間っぽいけれど、お前は本当に人間なのかしら」
唐突に、幼き吸血鬼がパタパタと蝙蝠に似た翼をはばたかせつつ顎に手を当てて言った。声色はどこか楽し気な雰囲気を孕んでいて、それを示すように顔には無邪気な笑顔が浮かんでいる。只の人間の子供であればさぞかし愛らしいと思えるのだろうが、吸血鬼の要素を付け加えると、それが途端に不気味に思えてくる。
「私は少し火が使えて、死なないだけの人間よ」
「そう? 私には無理して人間の真似をしている人の形の様に見えるけれど」
途端に、妹紅の表情が曇る。会話の渦中にいない私も、脳裏に浮かべていた不安を見透かされたかのように思えて、無性に息苦しく感じてしまう。
「…………で、アンタ等は何故こんな時に、人里へ侵入しようとしているわけ? ついこの間賢者にこっぴどく叱られたって聞いたけど、もう幻想郷のルールを忘れたのかしら」
「まさか。忘れてなんかいないわ。私達はただ、あの月をすり替えた元凶を探し出す道中にこの里を通ろうとしただけ。別に人間を襲うためじゃないわ、お腹空いて無いもの。それなのに、お前たちが通せんぼしたんじゃない」
「当然だ。こんな怪しい夜に、里へ悪魔を通す訳が無いだろう」
前へ踏み出すも、吸血鬼の言葉に私は思い当たる節があった。
月のすり替え……そんな事が出来る人物は、妹紅と馴染み深いかぐや姫に仕えるあの従者しか私は知らない。月より飛来し、莫大な月の知恵を保有すると言う彼女しか。
そう言えば妹紅がつい先日言っていたな。満月に訪れるらしい月の使いを跳ね除ける為に、八意永琳女史が一晩だけ、偽の月と本物の月を入れ替える術を行使する計画を練っていると。すり替えるのは一晩だけ……要するに次の満月の晩のみ、私の白沢としての力が不完全になる事を許容してくれと頼まれていたのだった。
吸血鬼の発言と妹紅の伝言。そして月の力の不安定化。
これらの要素から考えるとつまり、彼女たちは別に人里を襲おうとしていた訳では無かったと言う事になるのだろうか。
甘言を用いて人を惑わす悪魔の特性を考えると判断を下すにはまだ早いが、日の光を嫌い月の満ち欠けに力を左右されるという吸血鬼なら、月の異常を解決する為に動いたとしても不思議ではないか。
では里の安全を確実に守る事を考えると、元凶の方へ視点を誘導する事が得策だろう。
「しかし、月をすり替えた者の居る場所は知っている」
「慧音?」
「大丈夫、何の考えも無しにこんな事を言ったわけではないさ」
因縁の宿敵だと言ってはいるが、誰よりも共に時間を過ごし、腐れ縁とも悪友とも言える奇妙な友情を持ったかぐや姫が月の使者に連れ去られる事態になることを懸念したのか、妹紅は冷えた声で私に耳打ちした。私は、大丈夫だと宥めるようにして告げる。
永琳女史はかつて月の頭脳と謳われていた偉大な賢人だと、かぐや姫―――蓬莱山輝夜が豪語するほどに頭の良いお方だ。それこそ寺子屋の一教師を務めている私程度じゃあ遠く及ばない位に。
現に月をすり替える案も術も、全て永琳女史が自力で発案、開発したものらしい。その知力の高さは、あの妖怪の賢者にすら匹敵……いや、もしかしたらそれを上回るのではないかとすら考えている。
そんな彼女が、一妖怪に後れを取るとは思えない。例えそれが、かつて幻想郷の妖怪を絶大な力をもって統率した吸血鬼を相手にしたとしてもだ。
相当な実力を持つ妹紅ですら、過去に一度だけ永琳と戦った際、手も足も出なかったと言っていた。だから私は永琳女史の力を信じて彼女たちを誘導する。
こんな他人に縋るだけの様な真似は主義に反するが、里に無用な混乱と危険を招く訳にはいかないのだ。
「竹林だ。あちらの方角にある林の先に、元凶は居る」
「ふぅん」
値踏みする様な視線を、吸血鬼は私に向けた。ここが誘導における最大の難所と言って良い。彼女が私の言葉を信じずに無理やり里を突破しようとすれば、戦闘は避けられないのだ。その時は、覚悟を決めるしかない。
しかし私の覚悟とは裏腹に、彼女はパタパタと翼を動かして竹林へと向かい始めた。
「行くわよ、咲夜」
「よろしいのですか?」
「ええ。だって不完全な状態の半獣が月をすり替えられる訳が無いし、別に人里自体に用事は無いからね」
私が半分白沢であるとバレていたのか。しかしここはその洞察力の高さに助けられたと言ったところだろう。お蔭で、余計な混乱を生み出さずに済んだ。
そう思っていた矢先だった。
不意に、背中に氷が放り込まれたのかのような正体不明の感覚が襲い掛かって来たのだ。
ぞわりと背筋を這いまわる悪寒は全身にまで迸り、何が起こっているのかも分からないまま、私の体は一瞬で機能停止を引き起こして石像の如く固まってしまう。
私だけなのかと必死に視線を動かせば、妹紅も眉間に皺を寄せ、その背に業火の翼を生み出していた。完全な戦闘態勢に入っている。
彼女は唸るような声で、周りを見渡しながら言った。
「この底冷えする様な感覚……! 慧音、奴が近くに居る! 前に話したあの男よ!」
対して、その場を立ち去ろうとした吸血鬼と従者は、何かを察したような表情を浮かべていた。
「お嬢様、この気配は……」
「ええ、間違いなくおじ様ね」
「上でしょうか」
「上っぽいわね」
吸血鬼の少女が上を見上げた瞬間、反対に、何かが凄まじい勢いで地面に落下した。丁度紅い館の少女達と、私たちを隔てるような位置へと。
土煙が爆発の如く巻き上がり、思わず腕で目を庇う。すぐさま妹紅は炎を操作して硝煙を払いのけた。
私は、妹紅が警戒心を抱いたと言う『彼』の姿を目撃する事になる。
男には頭というものが無かった。
妹紅が言うには息を飲むほど美麗な男だったと言うが、首から上は完全に消失し、断面から黒い靄の様なものが溢れ出ている異形の姿となっている。
元々は紳士然としていただろう洋風の黒装束は背中を中心に破損が見当たり、どこか焦げた布のような匂いが砂煙の埃臭さと共に鼻を突いた。
しかし、何より驚愕すべき事案は。
彼の腕に、ぐったりと項垂れる少女の姿があったことだ。
魔法使いを思わせる帽子と衣装。金色の美しい髪に、共に抱えられている彼女の物なのだろう箒。
それは、到底間違えようのない少女で。
紛うこと無く、霧雨家から勘当され魔法使いとしての道を歩んだ少女―――霧雨魔理沙に他ならない。
ゾクッ、と。考えたくも無い推測が、煩わしく思えるほどの速度で脳裏に花を咲かせた。
目にするだけで膝と手が情けなく笑い始める圧倒的な瘴気を纏う妖怪が、明らかに意識の無い魔理沙を抱えている。
誰がどう見ても、彼女の状態が彼と無関係の様には思えない。そして魔理沙が無事であるようにも到底思えない。
それこそ、呼吸をしているかどうかすらも怪しく思えるほどで。
「ちぃっ!!」
「止まりなさい」
真っ先に事態の深刻さへ反応した妹紅が炎を纏い、続いて私も駆けだして、男から魔理沙を奪い返す為に攻撃を加えようとした瞬間だった。吸血鬼の少女が妹紅の前へ槍状に引き伸ばしたエネルギーを突きつけ、私の首筋には従者のナイフが置かれていた。
吸血鬼の少女からは先ほどの可憐な笑顔は失われ、明確な敵意を宿した鋭い表情が浮かんでいる。
妹紅は炎を消すことなく、吸血鬼の少女を睨んだ。
「やっぱり、アンタはこの男の仲間ってわけ?」
「仲間も何も、この方は紛うこと無き私の義父よ。攻撃する様な真似は許さないわ」
互いが互いを牽制し合い、微動だに出来ない張りつめた空気が辺りを支配する。
この場の誰かが一歩でも動けば、至近距離で凄まじい攻防が繰り広げられそうな勢いだ。緊迫感が喉を干上がらせ、私は思わず生唾を呑みこんだ。
「『そこまでだ』」
このまま永劫が続くかと錯覚するほどの静寂に杭を打ち込んだのは、頭上から鼓膜を射抜いた凛然たる声だった。
首無し妖怪から発せられる瘴気とは違う、花蜜の香のように脳髄を痺れさせる魔性の声。耳にすれば理不尽なまでに恐怖を増長させられるのに、心と体は声の方向へ吸い寄せられていく。さながらそれは、麻薬に似た魅惑の瘴気であった。
声の主へと目線を動かそうとしたその時、意識を逸らしたほんの一瞬、首無しの肉体がビクンと跳ね上がる。
何事かと視線を戻せば、頭部を得た完全無欠の青年の姿があった。
兆候も無く元通りになった灰色の髪の青年を前に、私と妹紅は茫然自失としていると、吸血鬼の少女がジトッとした眼を青年へと向けて。
「おじ様、今までどこにいってたの? 流石に三日ぶりの再会が胴体だけとは思わなかったわ」
「心配をかけて済まない。色々とやむを得ない事情があったのだよ」
「魔理沙を抱えている理由も?」
「不慮の事故だ。気を失っているだけで命に別状はない。……済まないが魔理沙の友人よ、この子を介抱してやってはくれないか」
彼が上に向けて放った言葉と共に、また一人、ふわりと少女が姿を現す。
金糸を思わせる滑らかな髪に琥珀の様な瞳。青を基調としたワンピースに丈の長いスカートを着こなし、肩にはケープが掛けられている。
頭には赤いリボンがあしらわれたヘアバンドが装着されていて、どこか無機質な冷たさを湛えるその姿は、傑作の人形とでも形容すべき美しい少女だった。
彼女の名はアリス・マーガトロイド。魔法使いであり人形使いでもあるらしく、稀に里を訪れて子供たちに人形劇を披露している姿を見かける。
彼女は無言のまま、周囲に従えている人形を駆使して魔理沙を受け取ると、直ぐに青年から距離を取った。
どうやら見知った間柄ではなく、彼女もまた青年を警戒している者の一人のようだ。青年は苦笑を浮かべ、アリスへ向けて言葉を紡ぐ。
「驚かせてしまって申し訳ない。ところで魔法使いよ、君と魔理沙はもしかして月の異変を解決しようと動いていたのかね」
「…………そうよ。月をすり替えた犯人を捜していたの」
「君たち二人も?」
「ええ。月が盗まれただなんて、妖怪にとっては前代未聞の大異変だもの。私たちも動かざるを得なかったわ」
「ふむ」
彼は顎に手を当てて、暫しの沈黙の後に、再び口を開いた。
「君たちはもう家に帰りなさい。無論、異変の事は心配しなくていい。恐らくあと少しで異変は終息を迎え、夜明けの到来より前に月は元通りとなるだろう。これ以上は無暗に疲労を増やすだけの結果となる上、場を掻き乱しかねない」
まるで月に起こった異変、そしてその経緯の全てを知っているかのような口ぶりで彼は言った。もしかして、青年は八意女史と面識を持っているのだろうか。
類似した疑問を抱いたのは、当然私だけではない。
「……おじ様は、この異変と何か関係が?」
「と言うよりは、貴方がその元凶ではないのかしら」
アリスが、鋭い目つきでそう告げた。口から出まかせに言ったのではなく、その表情からは確証をもっているように見受けられる。力強い視線はまるで、証拠を突き止め犯人を追いつめる探偵のソレだ。
「見たのよ、貴方が紫と西行寺の亡霊姫を相手に戦っているところを。あの二人に本気を出させるなんて、それ相応の理由があるからではないの?」
その言葉に一番過敏な反応を示したのは、意外な事に吸血鬼の少女だった。彼女は驚きに目を見開くと、すぐに青年へと詰め寄っていく。
「まさか、さっき上で騒いでいたのっておじ様と八雲達だったの!?」
「そうだな。異変の元凶と誤解されてしまったのだよ」
「首を切られたのも、あの二人に?」
「いや、自ら切り落とした。彼女たちの誤解を解消するには、そうするしか方法が無くてね。ああ、服がボロボロなのは運悪く切り離した胴体が魔理沙の近くに落ちて、混乱した彼女が胴体を撃ったからだ。現場を見ていないから推測の域は出ないが、とにかくあの二人のせいではないよ。……すまないが、詳しく説明する時間が惜しい。これを見て納得してくれ」
彼は吸血鬼の少女の前に立つと、彼女の眼前に白く、大きな手を広げた。
黒い靄と共に光の泡のような物が放たれたかと思えば、泡が少女の額へ吸い込まれていく。
数拍の余韻が生じた後、少女は青年へ『任せて』とだけ、端的に呟いた。
全く話の内容が掴めずにいたのだが、それはどうやら私だけではないらしく、その場にいる全員が訝しそうな表情を浮かべている。
彼はそういった周囲の反応に慣れているのか、顔色一つ変えず直ぐに話の路線を修正した。
「先ほど、紫と幽々子が異変の元凶の元へ向かった。そう遠くないうちに月の異変が解決されるのは間違いない。君たちは帰りたまえ。そして魔理沙の友人―――」
「アリスよ」
「―――失礼した。アリスよ、再三に渡り押し付けてしまって申し訳ないが、魔理沙の面倒を見てはくれないか。彼女はどうも私の瘴気と相性が悪いらしくてね。恐らく、数時間は目を覚まさないだろう。かと言って放っておくわけにもいかない。本来ならば私が面倒を見るべきなのだろうが、私用が残っているためにそれが叶わないのだ。どうか頼みを聞き入れてはくれないか」
「なら、私の館に来なさい。おじ様が帰れと言うなら私が従わない理由は無いし、用件が無くなって暇だし」
返事をしたのは、吸血鬼の少女の方だった。
彼女はピリピリとした敵意を既に解除しており、従者に対して何らかのハンドサインを送っている。すると、指示を理解したのか一瞬にして従者の姿が消えてしまった。
「咲夜に来客の準備をしておくように言っておいた。我が館へ招待するわ、アリス。この状況下で、貴女もおじ様に色々と聞きたい話があるのでしょう? 無理も無いから、おじ様に代わって私が代弁してあげる」
「…………じゃあ、お言葉に甘えさせていただくとしましょうか」
アリスの同意を得た吸血鬼の少女は『邪魔したわね』と告げて翼を力強くはばたかせると、アリスと共に空中へ身を乗り出していく。ふと、彼女は思い出したようにこちらへと振り返った。
「おじ様! フランが寂しがってるから、終わったらちゃんと帰って来てよ!」
「埋め合わせは必ずすると伝えてくれ」
吸血鬼の少女は、返事を聞くと直ぐに湖の方角へ飛び去って行った。
嵐の様に出来事が終息していく中、残された私と妹紅は、いまだ処理が追いついていない頭を必死に整理しつつ青年へと目を向ける。
青年は相変わらず凄まじい魔力や瘴気を放ちながら、妹紅の元へと歩を寄せた。妹紅は思わず後ずさる。
……後ずさる?
死の恐怖など全く持ち合わせておらず、それどころか死を求める素振りすら見せ続けてきたあの妹紅が、明確に不安の色を濃厚に表情へ浮かべて後ずさっている?
本来ならば何も不自然では無いはずの光景に、私は違和感のような不思議な感覚を胸に抱いた。
だって妹紅は、避けられる筈の吸血鬼の槍を避けようともせずに受け止め、肉体の損壊など視界の外に追いやってしまっている少女なのだ。
そんな彼女が何故、ここまであからさまに焦っているのだ?
普通の人間や妖怪ならば、そこに不自然な要素などある筈がない。私だって、この男の傍に一秒でも居ようとは思わない。
後ろに守るべき里が無くて、大切な友人たる妹紅も居なければ、確実に撤退を下している所だ。不安や恐怖を覚えるのが正しい反応であり、妹紅が焦りを覚えている光景に違和感を覚える私の方こそおかしいのだろう。
違和感が風船に空気を入れるように膨らんでいく。それは最早妹紅に対してのものではなくなっていた。
否、正確には妹紅に対する印象への違和感が生まれ始めているのだ。
その正体が掴めないままでいる中、青年は妹紅の前へと立つ。
唇を動かし、緩やかに、扇情的に言葉を紡いでいく。
もやもやを胸の内に抱える私の鼓膜へ浸潤する彼の声はまるで、冷たく透き通った冬の清流のような声だった。
「さて、妹紅。君が今起きている事態をあまり掴めていないのは分かっているが、一つ私の頼みを聞いてくれないか。君にしか―――いや、君だからこそ頼める事なのだ」
「……嫌だと言ったら?」
「無論、説得させてもらう」
とても穏やかで、子供に語り掛けているような口調なのに、体から放たれている瘴気はまさに暴圧そのものだ。『優しく言っているうちに従わなければ只では済まない』――そう言っているようにすら私は感じた。
妹紅を擁護しようと口を開きかけるが、それを妹紅に手で制された。文字通り口出し無用と言いたいのだろう。私は再び唇を締めざるを得なかった。
「聞くだけ聞くわ。アンタは私を使って、一体全体何をしたいの?」
「蓬莱山輝夜の事で、少しね」
名を耳にした瞬間。あからさまに妹紅の雰囲気が豹変した。
目に宿るのは完全な敵意のそれだった。妹紅はこの男が輝夜に差し向けられた新しい刺客と思っているのだろう。
確かに、異変の詳細を知っている風で輝夜の名前が出てくれば、敵対心を向けるに値する理由となるだろう。
男はただ、冷静に告げていく。
「気持ちはわかるが、そう怯えないでくれ……いや、今は恐怖してもらわねば困るのか。承知の上で変な事を尋ねるが、妹紅よ。君は私が恐ろしいか?」
「誰が、アンタを恐れるって?」
「……そうか」
噛みつくように妹紅は返す。それに対して、彼は困ったような表情を浮かべるのみだ。
妹紅に纏わりつく火炎が勢いを増し、周囲に熱波と光を齎していく。私に飛び火しないよう調整してくれているのは分かっているけれど、傍で見る彼女の炎は、見る者を無差別にその業火で呑みこんでしまいそうな迫力があった。
彼は一切臆する様子を見せることなく、どこか悲しそうに『すまない、許してくれ』と告げたかと思えば、唐突に袖をまくり、晒された腕に装着してある紅い石が嵌め込まれた腕輪を徐に外した。
それが、変化のトリガーとなった。
放つ瘴気の圧が爆発的に上昇したのだ。今までの彼の瘴気が春風程度に思えるような、圧倒的で、理不尽で、暴力的な瘴気が一斉に解き放たれた。
視界が歪み、彼の静かな息遣いが夜風に乗って耳骨に直接這いずり寄って来る。神経が汚染されたかとさえ錯覚した。ありとあらゆる身体機能が正常に機能しない違和を覚え、膝がこれまでに無く笑いを起こす。
両腕で体を抱き締めずにはいられない。私の中の神獣白沢の因子とも言える要素が、悲鳴を上げているのがはっきりと分かった。
「う……あ……ッ!」
怪物。化け物。魔王。悪魔。
あらゆる恐怖の象徴が頭に浮かんでは消えていく。
しかしはっきりと分かるのは、この男が大妖怪八雲紫に匹敵するほどの怪物で、何故か私たちに凄まじい威圧を向けているという事実のみ。
私の身も心も蝕んだ恐怖が解けたのは、妹紅が反射的に爆炎を撃ち放った瞬間だった。弾幕ごっこの比ではない爆炎が植物を、大気を、青年を丸呑みにし、盛大な火の粉を辺りに撒き散らす。
「はぁ……はっ、はぁ……う……!」
激しい呼吸を繰り返し、滝の様に汗を流す妹紅は、未だに燃え続ける炎の塊から視線を離そうとはしなかった。
あの男が、威圧一つで魂を持って行かれそうになるほどの瘴気を放つ男が、この程度で力尽きるとは到底思えなかった。
案の定、炎は容易く引き裂かれた。
炎を呑みこまんばかりの―――いや、月の光すらも食らい尽くしてしまいそうな漆黒の闇が、炎を内側から纏めて飲み干したのだ。
「君は、どうやら輝夜ほど深刻ではいない様だな。まぁこれで一先ずは安心と言ったところか。後は引き金を引くのみだが」
悠然と、男は炎から歩み出す。
焼け爛れた肌や衣服を瞬く間に修復させながら、堂々と、一切の戸惑いも見せずに。
それはまさに、魔界の底より地上を支配するべく君臨した魔王のそれであった。
妹紅は追撃を加えるが、それでも男は怯まない。炎が着弾しても直ぐに修復する出鱈目な再生能力を持つ彼は、一身に爆炎を受けつつ話を進めていく。
「口で伝えても、恐らく私の行動に君たちが納得してくれる事はあるまい。それも私が不用意に怯えさせてしまったせいだとは分かっているのだが、致し方のない事なのだ。難しいだろうがどうか理解してほしい。そして妹紅。君にはあと少し付き合って貰わねばならない。厚かましいのは重々承知している。だが彼女の為に、これを見て事態を把握してくれ」
彼は再び腕輪の嵌められた腕を妹紅に伸ばし、もう片方の腕を私へと伸ばした。最早逃げる体力すら根こそぎ奪い取られた私と妹紅に、これから行われるナニカから逃れられる術がある筈が無く。
妹紅は金色に輝く光の泡を突きつけられ、石像の様に動きを止めてしまった。
「しかし妹紅の友人よ。君はここで退場しておいた方が良いだろう。ここから先は、彼女たちの問題だ」
妹紅とは違う、青く輝く光の泡が視界の前に蛍火の様に現れて。
唐突に、視界が靄に包まれていく。爆発的に脳を侵していく睡魔が、無情なまでに私の意識を斬り裂き始めた。
フラフラと足の感覚が不鮮明になって来たと感じたその時、妹紅が私の背を支えた。彼女の顔を覗けば、先ほどまで彼に向けていた敵対心は何処にも見当たらない。何か決心を着けた様な、燃えるような眼を妹紅は湛えていた。
「妹紅。輝夜を救うにはまず君の血が必要なのだ。ほんの少し、私に分けてくれると嬉しいのだが……」
霞んでいく瞳が最後に捉えたものは、青年の口元から鋭い二本の牙が、炎に照らされ輝く光景で。
暗闇に呑まれていく中に妹紅が何かを青年へ訴える声が、最後まで熱く鼓膜を叩いていた。
◆
「どうやらまたも嵌められた様ね。何だか今夜は罠三昧だわ。暫くは遠慮したいくらい」
「きっとさっきの弾幕戦で疲れた後に甘いものを食べなかったから、頭が回らなかったのよ~」
「幽々子は呑気ねぇ」
竹林の奥で発見した物凄く怪しい屋敷に侵入し、美しい銀色の髪を三つ編みにした妙な女に誘い込まれたその先で、紫と幽々子がのんびりとした調子で呟いた。
目の前には銀髪の女が不敵な笑みを浮かべて浮遊している。どうやら月をすり替えた犯人は彼女で間違いない様だ。紫があの謎の男から聞き出したと言う情報は正しかった。
しかしどうやら私たちは、彼女にまんまと誘い込まれてしまったらしい。
果てしなく長い通路を追いかけ続けたと思ったら、いつの間にか偽の月が浮かぶ異空間の様な場所まで誘き寄せられていた。退路は絶たれ、今この場には紫と幽々子、私と妖夢、そしてあの女しか存在していない。
あの時、分かれ道で勘を頼りに行った方が良かったのだろうか。しかし何故だかあっちへ行ってはいけないような気もしたのだ。何か見てはならないと言うか、関わるべきではない何かが起こるような気がして已まなかった。
まぁ過ぎ去ったことは仕方ないので、目の前の敵をコテンパンにすることだけを考えるよう思考をリセットしておく。どちらにせよ元凶であることには変わりないのだ。倒せば月も返ってくるだろう。
「慌てなくても、朝になったら月は返すわ。でも今返す訳にはいかないのよ」
余裕たっぷりで言ってのける女に、私はお祓い棒を突きつける。同じように妖夢は刀へ手を掛けた。返すと言われても悠長に待っている理由なんて無いのだ。
「そう言う訳にはいかないわ。朝になる前に月を取り返すために来たんだから、さっさと返して貰うわよ」
「幽々子様の命ですので、斬らせて頂きます」
「最近の若い子ってせっかちね。まぁ、朝まで遊ぶこと位はできるわよ。どうせ貴女達はここから出られないのだから」
一気に威圧感が増した女と、今すぐにでも弾幕戦が開幕する空気が辺りを支配する。応じるように私は札と針を取り出し、妖夢が刀を構えた。
いざ突撃――という所で、唐突に紫が私の眼前で扇子を開き、割り込んだ。
なんで邪魔するのよ、と文句の一つでも言いたくなったが、紫の氷柱の様な瞳を見て口を閉じる。余程大事な事らしい。
「始める前に、貴女に一つ聞いておきたいことがある」
「何かしら。時間稼ぎは歓迎よ」
「ナハト、という男に心当たりは?」
途端に、女の表情が明らかな曇り模様を見せた。
紫の発言した『ナハト』と言う名前。おそらく先ほどの男の事だろう。元凶も知っているって事はやっぱり、異変の関係者だったのだろうか。さっきとっちめておけば良かった。
「知ってるわ。と言っても、つい数時間前に会った程度の顔見知りだけれど。貴女は彼の友人か何か?」
「いいえ、知り合いよ。素性を知らない程度の知り合い」
「……貴女、彼の正体を知らないのね」
意味深な事を女は言う。彼女の発言に対し、紫は扇子で口元を隠した。どうやら興味があるらしい。と言うより、その言葉を待っていましたと言う風だった。
「
「ええ、把握して本当に驚いたわ。知りたいのなら教えてあげても良いけれど」
「是非ご拝聴願いたいですわ。私も幻想郷を管理するものとして、奴の事を可能な限り把握しておかなければならないから」
「では、終わった後にでもゆっくり」
「ありがとう」
「私も貴女と話す事がそれなりにありそうだもの、お礼はいいわ」
何だか知らない間に話がトントン進んでいく。置いて行かれた私には何をそんなに真剣そうに話しているのかちんぷんかんぷんだった。
横目でチラリと見てみると、幽々子は―――分かっているのか分かっていないのか判別つかない。平常時と変わらずニコニコ微笑みながら宙に浮かんでいる。
反面、妖夢は全然理解できていない様子だった。頭上に沢山クエスチョンマークが浮かんでいるのが見えたから間違いない。
まぁ、一段落着いた様なので、私は改めて決闘を申し込む事にした。
「井戸端会議は終わり? それじゃあ早速ブチのめさせて貰うわよ、兎の頭領さん!」
「あ、え、ええっと、参ります! 覚悟しろ! 悪兎のボス女郎め!!」
「兎のボスはてゐなのだけれど……まぁいいわ。かかって来なさい、幻想郷の明けの明星達よ!」