【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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11.「ただ、潤いを求めて」

「さて、人形師アリス。約束通りおじ様に代わって私が彼の知り得た情報を代弁するわ。貴女はまず何から聞いてみたいの?」

 

 首と胴体、それぞれ別々に遭遇するという珍妙怪奇な出会いを果たした謎の男に促され、更にレミリアの言葉に誘われるがまま紅魔館へと訪れた私は、魔理沙の介抱を成し遂げた後、レミリアと座談会を館の一室にて行っていた。

 内容は勿論、あの男と今回の異変について、だ。

 

「月がすり替えられた異変の詳細について説明して貰えないかしら」

 

 あの時、魔理沙が行動不能な状況に陥ったからこそ、レミリアと彼女がおじ様と呼ぶ男の言葉に従って撤退する方針を取ったが、それで納得もしろと言うのは無理な話だ。何故月があと少しで元に戻るのか、説明をしてもらわねばならない。

 

「異変の元凶は、竹林の先に居る宇宙人よ」

「宇宙人?」

 

 あまりに耳に馴染まない言葉を前に、私は首を傾げる。話し手のレミリア自身も、どこか信用出来ていない節がある様だ。

 

「正確には、月から亡命してきた民らしいわ。満月の夜―――つまり今晩にここへ迎えを寄越すって信号を、その月の民の一員が傍受したらしくてね。それを阻止する事が異変の発端となったのよ」

「……と言う事は、偽の月とすり替えて使者の通り道を塞ごうとしたと?」

「そう。お迎えさんが来られないよう、幻想郷を一時的な密室にしたってワケ」

 

 ……成程、それなら月があと少しで戻ると言うのも頷ける。その月の使者とやらがこちらへ来れる期間が満月の夜のみならば、朝を迎えてしまえば自ずと使者の妨害に成功したと言う意味に繋がるのだから。

 …………? しかしそうすると、紫や亡霊姫が異変解決―――即ち本物の月の奪還に赴いたと言うのは、かなり不都合なのではないか?

 

「心配いらないわ。おじ様の記憶……と言うより、記憶にある八雲の言葉によれば、博麗大結界が宇宙人の考えた策略と同じ効果を持っているらしいの。だから月の奪還が八雲紫の手によって遂行されたとしても、結果は変わらないとの事よ。つまりこの異変自体が、最初から無意味な事だったの」

「……私の考えてることがよく分かったわね」

「だって貴女、パチェと似てるんだもん。なんとなく次はこう考えそうだなぁって思って口に出したら当たってたワケ」

 

 読みが当たったことが嬉しいのか、幼気な面影が残る顔貌にレミリアは笑みを浮かべ、楽しそうにカラカラと笑った。そんなに私と彼女は似ているのだろうか。私からしてみればインドア派とアウトドア派、更に魔法の系統等がキッパリ分かれている点から見て、似ているとは思えないのだけれど。

 そう言えば、最近図書館へ行っていないと思い至った。件の彼女の顔を見に行く序でに、本の貸し出し予約を帰りにでもしていこうか。

 

「じゃあ、次に私が質問したい事も、言わずとも分かるのね?」

「勿論。おじ様の事でしょう?」

 

 またも正解だ。まぁ、流石にこれ以外に尋ねるものは見当たらないか。

 しかし件の男……思い出すだけで背筋に鳥肌が立つかのようだ。大妖怪と冥界の管理者二人を同時に相手取っても引けを取らない、近くに居るだけで胃の内容物が逆流してしまいそうになる禍々しい瘴気を常に放ちながら、言動はその対極。柔らかで紳士的な態度を決して崩さず、それがあまりに不気味に思えてくる。はっきり言って気色が悪い。

 

 想像してみて欲しい。どこからどう見ても魔王としか言いようの無い風格を持ち、事実一人の少女の意識を容易く刈り取った怪物が、ニコニコと涼し気な笑みを浮かべながら柔和に他者と接している光景を。結論は語るまでも無いだろう。

 

「おじ様はただ、偶然に月の民と会って異変の全貌を知った。本当にそれだけよ。異変自体とは関係が無いわ。八雲たちに誤解されて一戦交えたのも、まさしく運命の巡り合わせと言えばいいのかしらね」

 

 レミリアが運命と言う言葉を使えば、妙な説得力が湧いてくるのは何故だろうか。恐らく真実だけを述べているだろうから、余計に信憑性が湧いてくる。

 しかし私が知りたいのは、その先なのだ。

 

「では、何故異変と無関係の彼があの場に? 異変を起こしていないにせよ、あんな瘴気を放ちながら上空に居座っていたら、誰だって疑いの目を向けるわ。むしろ疑って貰う事を目的にしているのかと勘繰る程よ」

「人を探していたのよ。あの人はただ、探し人を見つけ易くするために、よく見渡せる空を飛んでいただけに過ぎない」

「ではその人探しをしていた理由は?」

「さぁ? そこまでは見せて貰えなかったわ」

 

 そう言って、彼女は咲夜が置いて行った紅茶を一口、口へと含む。

 おそらく、今の発言は嘘だろう。人を探していた事を知っていて、その理由を知れない訳が無い。つまり知られたらマズいのか、知らない方がいい情報なのだろうか。どちらにせよ、良い情報でないことに変わりはないに違いない。

 

「アリス」

「なに?」

 

 紅茶を置いたレミリアが、先ほどまでの余裕のあった笑みを掻き消し、真剣な表情を浮かべて私を射抜くように見た。

 思わず、糸の魔力が通るか動作確認を無意識下で行ってしまう。

 

「念の為に言っておくけれど、おじ様について探るのは止めた方が良い」

 

 紅い瞳が爛々と輝いている。紛うこと無く、彼女は本気で告げていた。

 受け取れる意味としては、下手に探って来れば容赦はしないと言う宣告、そして知らない方が自身の身のためだと言う警告の二つか。どちらに解釈すればいいのかまだ判断するには早いが、それ程までに秘密裏にしておかなければならないものなのだろうか。

 

「素性を探るなと言いたい訳?」

「そうじゃないわ。関わらない方が身のためだと言うことよ」

「……そこまで危険と捉えているなら、何故貴女達が共に暮らしているのかが分からないわね」

「違う違う、危険と言う意味じゃない。何が起こるか分からないから不用意に近づくなと言っているのよ」

 

 レミリアは、静かに息を吐き出した。それは、まるで過去の光景を思い出し、その記憶に愁いを感じているかのようだった。

 

「貴女は見たことがある? 木端妖怪の群れ如きなら腕っぷしだけで叩きのめす事の出来る吸血鬼達が、皆頭を垂れている光景を。その中でも最強と謳われた吸血鬼でさえもが、悲鳴を上げて許しを請う光景を」

「……、」

「おじ様は優しいわ。本当に悪魔とは思えないくらいの人格者よ。でもね、彼が持つ力も、カリスマ性も、そして大勢の悪魔を無条件に屈服させる程のモノを持っている事も事実。史上最凶最古の吸血鬼である事も歪みない現実なの。もし……もし万が一、貴女がおじ様の逆鱗に触れでもしたらもう止められないわ。紅魔館全戦力を持ってしても貴女の命は……いいえ、魂は助けられない。彼の怒りを買うことは即ち死を意味する。だから、あまり不快を買う様な真似をしでかさないよう、無暗に接触する事は避けた方が無難だと言いたかったの。魔法使いは突飛な奴が多いから、念には念をね」

「警告ありがとう。肝に銘じておくわ」

「賢明ね。貴女はパチェの数少ない友人だから死なれたりしたら困るのよ。パチェが泣いちゃうわ」

 

 そう言って、レミリアはまたカラカラと笑った。そこにはもう刺々しい気配はどこにもない。いつもの小悪魔的な笑みを浮かべるレミリア・スカーレットだった。

 私もパチュリーが涙を流すと言う、億が一にも起こり得ない事態を想像して思わず笑みを零しながら、レミリアが発言した言葉を脳裏で回転させていく。

 

 今でこそ丸くなったが、幻想入り直後の彼女は他の追随を許さない程傲慢な性格の少女だった……らしい。魔理沙やパチュリー曰く、少し前まで自分以外は全て下等と決めつけるどこぞの帝王の様な振る舞いをしていたとの事だ。

 そんな彼女がここまで念入りに警告してくる男とは、果たしてどれ程の怪物なのか。だがそうと分かった以上、対策は練っておくべきだろう。レミリアの言う通り、念には念を入れておかなければなるまい。

 

 私は紅茶を飲み干しながら、今後の予定を組み替えるべく思考の海に身を投げ出した。

 

 

 不死の霊薬を飲み、呪いを受けてから私は、人間の一生から見れば途方もない時を……実に千と三百年近い時を過ごし続けてきた。

 

 初めの三百年は閑散とした地獄だった。幾年過ぎようとも変わらぬ容姿に幽鬼の如く白い髪、そして血の如く赤い瞳は、当時の人間を遠ざけるには十分すぎる効果を持っていた。故郷を追われ、一ヵ所に安住する事が出来ずに転々とする日々。無論私の傍には誰一人の影も無く、ただその身一つで、己の過ちと不遇に苛まされる日々を送った。

 私は、いつも孤独だった。

 

 次の三百年は血に濡れた地獄だった。世を恨み、こんな体になってしまった不条理を恨み、何より全ての元凶たる蓬莱山輝夜を恨み、積もり積もる恨みをどこにぶつけていいのか分からない日々を過ごしていた。そんな時だ。妖共は風の噂で私が不死と知るや否や、自身もその不死にあやかろうと私に襲い掛かって来た。

 初めの頃は全身を引き裂かれ、食われた。しかし私は死にながら戦う術を学び、妖術を習得していった。徐々に戦いで負う傷の数が減っていくと、遂に私は並の妖怪からは油断しても負けない程の力を手に入れた。流れるように私は、今までに抱き続けた恨みの全てを妖怪に叩きつける日々を送り続ける事となった。

 私は、意味の無い力に虚無を垣間見た。

 

 次の三百年は乾ききった地獄だった。妖怪退治に意味を見出せなくなり、自身の存在に意味を見出せなくなり、そろそろ終わりたいと何度も願った。けれど、何が起ころうとも何をしようとも死ねなくて、そんな体を心底呪った。何時しかこの世の全てに興味を失くし、絶望と言う概念……理性を保つ最後の砦すらも失いかけていた。

 食事は摂らず、水も飲まず、座り込んだままの日々も過ごした。餓死して蘇り、また空虚な時を過ごす。行く当てなどある筈も無く、まるで呪術に操られた死体の様に大和を彷徨い続けた。

 その先で偶然、輝夜と出会った。

 

 私の父を奪った女郎。私をこんな体にした張本人。月に帰った筈の、会う事などとうの昔に諦めていた怨敵。

 だが彼女もまた、私と同じ蓬莱の不死者であり、そして月の民から身を隠している身の上だと知った。

 怨敵に出会ったせいか、同じ境遇の者を見つけたせいか。乾いた井戸から水が再び湧き上がって来る様な感覚が、私の胸の内に芽吹いた。そして思考が生じたのだ。思う存分、積年の恨みをぶつける事が出来るのだと。私の今までの生が無駄ではなかったのだと。

 

 永遠の渇きを、分かち合う者がまだこの世に居たのだと。

 

 歪んでいるなんてとうの昔から理解していた。狂ってるなんて他の誰よりも分かり切っている事だった。

 それでも、例え誰が何と言おうとも。

 私の世界が、再び色を取り戻した瞬間だった。

 

 

 退屈。

 そんな感覚すらも曖昧になったのは、一体何時の頃からだっただろうか。ふと何気なくそんな疑問が浮かんでも、木から枯葉が一枚落ちた程度にしか気に留めなくなってしまったのは、本当に何時の頃からだっただろうか。

 

 私はこれでも、永い、永すぎる時の中を生き続けて来た。月で生まれ、月の潔癖さに飽きを覚え、地上の穢れに憧れを見出し、禁忌の秘薬を受け入れ不死となり、極罪を犯したとして処刑され、しかし私の力と薬の効力が相まって死なないが故に地上への流刑を受け、堕ちた先で翁達と瞬きの間を共に過ごし、刑期を終え迎えに来た月の使者を永琳と共に葬り、そして月の民から身を隠す逃亡者として竹林に身を潜め続け、ひょんな事から同じ不死者となっていた妹紅と偶然の再会を果たし、今日の今日まで殺し合いを続ける様な日々を過ごして来た。

 不老不死として過ごした期間を省いても、私は本当に永い時を生きたと思う。永琳には及ばないけれど、本当に本当に、私は気の遠くなるような永劫を歩み続けて来た。そしてこれからも、私は永遠を彷徨い歩いていく。終わりのない果てまで――いや他の全て、その何もかもが終わってしまう果ての果てまで、私は今の様にずっと、のんびりと全ての終焉を眺めていくのだろう。

 

 そんな想像を思い浮かべるたびに、私はふと思うのだ。最果てまで辿り着いた私は、その時までに経過した過去をどの様に振り返るのだろうかと。

 私はきっと、第三者から見て想像もつかない時間を、『須臾』と例えて一蹴してしまうに違いない。以前は色々あったけれど、それはほんの瞬きをするような一瞬の出来事だったのだと。

 昔、ふとした拍子に翁達と過ごした僅か十数年余りの時を振り返った時。私はそれが本当に小さな、儚すぎる時間だったのだと気がついた。当時はこの時間が永遠に続くのかもしれないと、淡く甘い錯覚すらも抱いていたのに。とても煌びやかで、この世のどんな美しいものよりも輝いていたのに。それは風雨に晒され腐食した金属の様に、時間の流れと共に残酷なほど劣化していった。

 その瞬間から、もはや私にとって『思い出』とは、フィルムに焼き付けられた『画』の連続にしか思えなくなっていた。

 

 枯れ果てた思い出を自覚した時。途端に今までの出来事全てが、本当にちっぽけなものの様に思えてしまった。同時にこれからも作られていくだろう思い出も、何時の日か時の流れに削られて、砂粒として指の中からすり抜けていくのだろうと悟った。

 時は残酷なまでに流れていく。激流の様に、清流の様に、暴風の様に、そよ風の様に。時間の流動は決して止まらない。流されていく物も止まらない。『物』は時間の流れを受けて『変化』を起こし、形を変えて流されていく。この世でただ一つ時間に流されない例外は、私や永琳、妹紅の様に変化を拒絶した……いや、『時の流れから逃げ出した』蓬莱人のみなのだ。

 私達だけは、他の全てが枯渇しても何もかもが瑞々しいままで存在し続ける。変わらぬ容姿。変わらぬ体。変わらぬ魂。未来永劫不変の個として地に足を着け続けるのだ。

 不老不死とは変化を受け入れまいとした者だ。絶対的な『個』となり、時の流れが作る『輪』の中から抜け出した脱走者だ。

 そう。変わらないのは蓬莱人と言う究極の個人だけ。変化を拒絶した愚か者だけ。その他は全て形を変え、流れていく。土は草へ。草は虫へ、虫は蛙へ、蛙は蛇へ、蛇は鳥へ、鳥は死して土へと還る様に、万物は時間と共に移ろっていくのだ。

 

 ありとあらゆる者達は不老不死を求めている。時間から逸脱し、変わる事を拒んだ逃亡者を。しかしその先に待つのは極限の孤独に他ならない。周りの物が、関わってきた者達が、果ては心に残る思い出さえもが次々と朽ち果てていく中で、私たちは取り残されてしまう未来が決定しているのだから。

 

 その事実を理解してしまった瞬間から、私の心から色が消え、音は完全な消滅を迎えた。

 耳を癒した春風の音は只の現象に置き換わり、確かな輝きを持つ色とりどりの草花や景色は無残な灰を被った。極め付けには、最近一番心が躍っていたと思う妹紅との殺し合いすらも、ただ日々を過ごす上での機能となってしまったのだ。精神の衰弱は、一度発症すれば疫病よりも早く私の心を蝕んだ。

 

 何を見ても、何を聞いても、何を感じても、心が拍動する事の無くなった私は、正真正銘のゾンビなのかもしれない。老いる事も死ぬ事も無く、同時に生きてすらもいない。まさに生ける屍と言う奴だ。それ以外に、この状況をどう例えられようか。

 しかしそれを自覚しても、特に感じるものは何も無かった。悲しいとも、虚しいとさえも思えない。これが薬を飲んだ罰なのだろうかと思っても、後悔の念すら湧いてこない。ただ目の前に『事実』と言う名のシャボン玉が浮かんでいるのを眺めている……そんな感覚が漠然と存在しているだけだった。そして自覚するほどの心の衰退に、私は危機感も何も抱いていない。

 風化し内側が枯れ果てた自分が。そして風化を予定している『物』が、目の前にある。それだけ。他には何も思わない。何も感じない。私はただ、成り行きを眺めているだけでしかなくなったのだ。

 

 生も。死も。変化も。時間も。色も。音も。光も。感情も。私自身も。

 この世の全てを枯れ果てた心で眺める事だけが、私に残された唯一の『出来る事』だった。

 

 だからこそ、今朝は本当に驚いたものだった。

 ナハトと言う青年。陽の光を嫌う本物の吸血鬼さん。日光を避け、永遠亭の門の日陰で休んでいた彼を見た時、本当に久しぶりに心が動かされた。

 率直に言って、私は彼を怖いと思った……のだと思う。多分、これが『恐怖』というやつだったんだろうなと感じた。死を完璧に取り除かれた蓬莱人は、一番初めに恐怖を失くす傾向があるらしい。私もその例に漏れず、大昔から死の恐怖を感じなかったものだから、久方ぶりに本気で怖いと感じた事実に驚いたものだった。

 

 理由は分からないけれど、多分彼から放たれている今までに感じた事の無い程の穢れに似たナニカ……彼は瘴気と言っていたかしら? それが原因だと思う。視界が映像として彼を捉えた瞬間に、全身を支える骨の髄へ氷を叩き込まれたかと勘違いするほどの悪寒が走り抜けたのだ。

 それ故に、私は彼に興味を抱いた。切っ掛けは些細な疑問だったのかもしれない。何故蓬莱人たる私がよりによって『恐怖』を感じたのかが、気になった。私が『気になった』と言う事実も気になった。

 

 だからちょっと彼と話をしてみる事にしたのだ。もしかしたら面白いと思えるかもしれないと。久方ぶりに、この心の渇きが潤うのかもしれないと。何かを感じる事が出来るのかもしれないと。乾ききった獣が水辺を見つけ、引き寄せられるのに似た本能に近い行動だったのかもしれない。

 そして結果は大方成功を収めた。彼の言葉は、声は、比喩表現を抜きに精神へ直接入り込んで来て、それが連鎖的に冷えた精神を解凍させてくるのだ。彼の口から物語が紡がれる度に、砂漠と化した心に雨が降ったような心地を得た。例えそれが小雨でも、私はその変化を『面白い』と感じていた。

 彼を見れば背筋が凍る。彼の瘴気は鳥肌を生み出す。彼の声は心を揺さぶる。それら全てが、とてもとても新鮮で。何時振りかは忘れてしまったけれど、時間を忘れるなんて体験をもう一度感じる事が出来たのだ。

 

 彼が友達になってくれと言って来た時は、好機だと思った。もっと私はこの躍動を楽しみたかった。恐怖に震える足の感覚を、鳥肌が布を擦る感覚を、喉が干上がる緊張感を、もっともっと堪能したいと思ったのだ。

 だから私は彼に難題を吹っ掛けた。別にすんなりと友達になっても良かったのだけれど、やっぱりこの『出会い』を引き伸ばしたいと思った。そうすれば、思い出としての一ページの時間が長くなる。長くなればそれだけ思い出の風化が遅れる。即ち、余韻を長く楽しめると言う事だ。

 難題に彼がどの様に挑戦するのかシミュレートするのもまた新鮮だ。私の下した『蓬莱人の死』と言う難題を攻略するには、文字通り蓬莱人の死体でも持ってくるか、もしくは蓬莱人の死を概念的に突き止める二種類の方法がある。彼は殺生に対して苦い顔をしていたので、恐らく後者を取るだろう。どんな答えを出してくるのか、それもまた楽しみとなった。

 

 だがそんな時、永琳はもし彼が本当の意味で妹紅を殺して来たらどうするのかと尋ねて来た。正直なところ、そこまで考えていなかった。だって蓬莱人が不滅だという弁を私に説いたのは、他ならない永琳自身なのだ。私の教師にして、姉にして、母にして、月の都の創設者の一人でもある彼女がそう答えたのならば、それが絶対である事に変わりはない。蓬莱人が死ぬだなんて考える方が可笑しいというものだろう。

 

 でもそう考えると、永琳が危惧したのにはちゃんとした理由がある訳で。つまり本当に妹紅が死ぬ可能性が出てくるわけで。

 それに気がついた私は内心、自分の過失に対して焦るかなと思っていたけれど、驚くほど心は平坦そのものだった。

 妹紅が死んで、いなくなる。私に野犬の如く食らい付いて来た彼女がいなくなる。同じ不死仲間の彼女が………………―――――――、

 

 

 

 

 

 まぁ、いいや。

 

 

 

 

 

 それが私の抱いた感想だった。

 いなくなったのなら、それで良し。その代り、妹紅の分までナハトに暇潰しをさせて貰おうと思った。妖怪を蓬莱人にする実験でもやってみようかなとも、私は思考に耽っていた。

 気がつけば、笑みまで浮かんでくる始末だった。とにかく心が動くもののほうが良い。渇きを潤せるものが良い。そしてそれを見つけられた。他の事など、考える意味も無いと思った。と言うより、考える事など出来なかった。

 

「…………永琳とイナバ、今頃戦ってるのかなぁ」

 

 座敷にポツンと座り込んでいる中で、私はシャボン玉を眺めるように、今しがた起こった出来事を思い返していた。

 先ほど永遠亭に月を取り返すべく侵入してきたらしい、妖怪と巫女、幽霊と侍の相手をしているだろう永琳の事だ。

 永琳は上手い事、本物の月を隠している私の部屋が露見するのを防いだみたいだけれど、どうせならここへ連れて来ても良かったのに。ああ、いや駄目なのか。月を取り返されたらイナバが月の民に連れ去られちゃうから阻止していたのだった。序でに私の存在もバレてしまう可能性が高まるから、尚の事永琳は張り切っているんだろう。

 

 しかし別に連れ去られてもどうでもいいと思えてしまうあたり、やっぱり私はおかしくなっているのだろうと霞の様な思考を浮かべた。直後にまぁいいかと、脳の隅へ放り投げてしまう。それよりも今は、早くナハトが見つけて来た難題の答えを聞く方が大事なのだ。

 正直、難題の答えなんてどうでも良かったりする。ただ彼の行動が私の心を再び揺するのか、それだけが気になる事項なのだ。

 

「失礼するよ」

 

 ふと。

 何の前触れもなく、突然響いた澄み渡る様な声と共に、視線の先にある襖が開かれた。

 途端に肌を打つ、禍々しい穢れに酷似した瘴気の渦。心臓が悲鳴を上げ、喉が瞬く間に乾き始めた。不愉快で愉快な感覚が体を包み込んでいく。

 そんな実感を経て、私は瞬時に訪問者の正体を突き止めた。別に考えるまでも無い事なのだけれど、顔を覗かせたのはやはり、今しがた思い浮かべていたナハト本人の姿だった。

 

 まさか、もう難題の答えを導き出したのだろうか。あれから数時間と経っていないというのに。

 期待と同時に、早すぎてつまらないとさえ感じる。けれど、そんな風に思えるのだから収穫か。

 

「早いわね。もう答えを見つけて来たの?」

「ああ。少しばかり手間取ったがね」

「難題を手間取ったの一言で済ませられたのは初めてよ。……そう言えば、よくこの部屋に私が居るって分かったわね?」

「親切な兎さんに部屋を教えて貰ったんだ」

 

 この位の、と彼は手で道案内された兎の背丈を示す。多分てゐの事だろう。彼女はイナバの中ではイナバ―――ややこしい―――鈴仙の次に背が高い。丁度彼の手が示す程の高さだ。

 彼は襖を閉め、私の前へと移動した。座ってと勧めると、このままで良いと返される。そのまま彼は、神妙な顔つきをしたまま、私へ問いかけて来た。

 

「一つ聞きたい。本当に良かったのかね?」

 

 質問の意味が分からなかった。

 

「何のこと?」

「難題の事だよ。君は『蓬莱人の死』を望んだ。本当にそれで良かったのかと気になってね」

「……? ごめんなさい、貴方の言っている事の意図がいまいち分からないわ。具体的に何が気がかりになっているの?」

「この結果となったのが、果たして最良なのかと思ったのだよ」

 

 そう言って彼は、パチンと指を軽快に鳴らした。

 黒い靄が、畳の上に滲み出てくるように姿を現す。およそ人一人が寝転がる程度の大きさにまで広がると、靄は畳の中へ吸い込まれる様に消えていった。

 

 現れたのは、人の形をしたモノだった。

 サスペンダー付きの赤いモンペに、内側に覗く白いシャツ。袖口から顔を出しているのは、雪の様に白くすらりと伸びた造形美を感じさせる手指。

 目に映った瞬間に、それが妹紅であると識別は出来た。

 しかし、私はそれが妹紅であるのか、認める事に躊躇を覚えてしまった。

 

 頭が無かったのだ。

 

 彼女自身は呪われているも同然と疎ましがっていたけれど、雪の様に儚く透き通った、手櫛を通せば指の間からするりと抜け出していくだろう美しき白髪はどこにも見当たらず、中性寄りで目鼻立ちの整った顔貌は完全に消滅していた。

 例えるまでも無い。首の無い妹紅が、私の前に横たわっていたのだ。

 

「君の望んだとおり、『蓬莱人の死』を用意した」

 

 脳を包み込むような彼の声に、ドクンと心臓が一際強く脈を打った。血液が体中を駆け回るのと同じくして、脳裏に永琳の言葉が浮かび上がり渦を巻く。

 

『あの男が、本当に妹紅を殺せるような存在だとしても?』

 

 他でもないあの永琳が、そう言った。月の頭脳と称えられ、月夜見様と同等に近い時を生き続けたと言う、最も偉大な賢者がそう言ってのけたのだ。

 それが示す所は、つまり。

 妹紅は本当に……?

 

 力なく畳に置かれた白磁の肌の手を握る。それは凍り付いているのではと勘繰る程に冷たく、そしてビクとも動かない。完全に死後硬直を終えた肉体の硬さだった。

 蓬莱人が死後硬直を起こすなんてことは有り得ない。言うまでも無く、薬効で不滅と化した魂を基盤に、肉体は何度でも復活するからだ。その際に『以前の肉体』は細かな粒子と化して消えてしまう。まるで同じ存在はこの世に存在してはならないと、世界が拒絶するかの様に。

 しかし現に妹紅の肉体は目の前にあって、血の流れも、命の温もりも消えてしまっている。

 余計な事など、考えるまでも無かった。

 

「本当に……死んでしまったの?」

「君の希望だろう。それを実行したまでに過ぎないよ」

 

 余りにも穏やかな声に、どこかむず痒い違和感を覚えて顔を上げれば、彼は笑みを浮かべていた―――のだと思う。

 天井から照らされる光の加減なのか、はたまた背後の月の光の反射か。彼の顔は影に覆われ、口元が歪んでいる様にしか見えなかった。

 気がつけば、私は思わず震えた声で口に出していた。

 

「何故こんな事を……? 私は妹紅を殺せとは一言も―――」

「どうして焦っているのかね?」

 

 私の発言を遮った彼の言葉が、精神の中枢をずぶりと貫いた。

 焦っている? 私が? 

 妹紅の死を目撃して、焦っていると?

 私は平常通りだ。ドクドクと心臓が脈を打って、足が震えそうになって、額の辺りがじんわりと湿ってきているけれど、焦っている何てことはない。そんな心は多分、もう忘れてしまっている筈だ。一人の死で簡単に揺れ動く様な心は。

 

 心は。

 

 …………?

 おかしい。

 何かがおかしい。

 ついさっきまで妹紅の事なんてどうでも良かったのに、何故だか胸の内が締め付けられる様な感覚がする。彼女の冷たい手をとった瞬間から、砂漠の様だった景色が途端に青で染められたかと思った。

 何故私は、こんなにも手が震えているのだろう。ナハトの悍ましい瘴気のせい? 多分、それもある。それもあるけれど、根本的に別のナニカが私の心を激しく揺さぶっているせいだ。

 その揺さぶって来るものの正体が、分からない。これは一体何だ。五臓六腑を締め付けてくるものの正体は――――

 

「君は私に『蓬莱人の死』を望み、そして獲物に妹紅を提示した。だから私はそれに従って処理を行った。それだけではないか。君が私へ頼んだことだろう? 当然の結末だと言うのに、どうしてそんな風に狼狽えているのかね」

「待って、待って。分からない、分からないのよ……! 頭の中が、何故だか滅茶苦茶で……!」

「分からない? 私には君が、妹紅の死を悲しんでいるように見えるのだが」

 

 悲しむ?

 慣れない単語に、私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 この腸に氷を叩きつけられ、頭を強く打たれた様な感覚が、悲しいというものなのか?

 分からない。分からない。

 怒涛の如き混乱が、私の頭をぐちゃぐちゃに掻き回していく。

 

「輝夜―――」

「ッ! 寄らないで!!」

 

 伸ばされた手を、反射的に思い切り跳ね除けてしまった。月人の持つ本気の身体能力は彼の手を容易く捥ぎ取り、後方の襖まで吹っ飛ばしてしまう。

 ハッと我に返って、私は彼の手を見た。身に付ていた腕輪の部分まで見事に弾け飛んでいて、煙にも似た黒い靄が溢れ出している悲惨な腕の姿が、ざわざわと背筋を撫で返す。

 同時に、彼の放つ瘴気が明らかに勢いを増した。いや、『濃くなった』。まるで一酸化炭素中毒にかかった様に肺が酸素を取り込めなくなり、失くしたはずの防衛本能が全身の産毛を逆立たせる感覚が確かにあった。朝に感じたものの比では無い。直ぐに逃げ出さなければと、脳が私の体に訴える程のものだった。

 しかし、私の体は動かない。得体の知れない感覚はもとより、何故この様な気持ちが生まれているのか、当てのない自問自答が私の脳裏で絶えず繰り返されているせいだ。

 

 いや。だが。しかし。なぜ。

 

 湯水の如く湧き上がってくる得体の知れない激情の数々と、それを不審に感じてしまう枯れ果てた心が相反する反応を引き起こす。矛盾が生じた私の思考は泥の様な粘質さを持ち始め、何が正しいのかさえ判別がつかなくなっていた。

 そんな私を差し置いて、彼は言う。まるで別人の様に態度が豹変した彼は、私に次々と言葉を突きつける。

 

「何故そんなに怯える。難題を授けた君の口ぶりから、君はてっきり妹紅の事などどうでも良いと思っているのかと感じていたのだが、もしかして私の勘違いだったのか?」

「わ、私、私は……っ!」

「動揺しているが、それはつまり確信を得たからではないのかね。自分の心は自分が一番よく分かっている筈だろう。君は機械ではない。死者ではない。ましてや人形などでは決してない。君は生きて、感じて、考える事が出来る生き物だ。どれだけ長い時を生きようとも、終わりの無い不死であろうとも、君は今を生きる人間なのだ。ならば君が今感じている心の正体も解る筈だろうに」

 

 今を生きる、人間。

 この言葉が、私の胸に深々と突き刺さった。たかが一言で何故ここまで、彼の言う動揺が強くなったのかは分からない。本当に分からない。

 でも何だかほんの少しだけ、自分が一体何をしたのか、どんな状況下に置かれているのか、霧が晴れ陽の光が少しずつ竹林に差し込んで来るかのように、胸の内で鮮明になりつつあった。

 途端に私は恐怖した。ナハトの近くに居る事で感じる類のモノでは無い。これの正体を知ってしまえば、私は今の私ではいられなくなる―――そんな恐ろしさ。未曽有の新天地を恐れる恐怖と酷似していた。

 だから私は、それを思い切り封じ込めた。ただでさえ波風一つ絶たなかった心が、突然の嵐に襲われているのだ。キャパシティオーバーと言っていい。私は、この感覚を受け止める事が出来なかった。受け止める勇気が無かったのだ。

 

「分かんない……!」

 

 頭を抱えて、私は振り絞るような声で言った。それを聞いたナハトは、ただ静かに、『そうか』と相槌を打つのみだった

 

「ところで、私は難題を無事にクリアできたと言う事で良いのか?」

 

 ――――沈黙。

 彼が何故、こんなタイミングで訊ねて来たのか、処理落ちを起こした脳ミソでは把握する事さえ叶わなかった。

 混乱しきっている頭は彼の質問に対する答えを弾きだす事すら出来ない。ただただ、震える視界で彼を捉えることが精一杯だった。

 ふと。

 彼の顔に二つ、紫色の輝きが瞬いた様な気がした。

 それを目にしたとき。私は初めて彼を疑った。

 

 彼は、何だ?

 今私の前に立っているこの男は、本当にあのナハトと同一人物なのか?

 

「沈黙は肯定と捉えさせてもらう。では、改めて申告させて頂こうか。輝夜よ、難題も無事達成できたことだ」

 

 ナハトの腕が、こちらに向かって伸びて来る。それは正に、悪魔が魂を奪い取らんと迫る腕の様で。

 全身を震え上がらせる瘴気を纏う彼は、魂を魅惑の底に突き落とすかのような甘い声で、私の耳へと柔らかく囁き、

 

 

「―――――約束を果たしてもらおうか」

 

 

 ぞわりと、首筋に百足が這いまわったかのような悪寒が走り抜けた。

 

「――――うァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 私がとった行動は、絶叫と共に彼を跡形も無く吹き飛ばす事だった。それはまさに、身を守るの為の自衛行動に他ならなかった。

 弾幕を形成する莫大な力を、無我夢中に前方へ放出する。心の中心へ纏わりついてくる彼の言葉に心底恐怖を覚えた私は、気がつけば脊髄反射の要領で彼の体を木端微塵に打ち砕いていた。

 我に帰った頃には、視界にもう誰も存在しておらず。

 弾幕の大仰なエネルギーに焼け焦がされた物体が、部屋中に散乱している惨たらしい光景が広がっていた。

 

「は、はっ、はぁっ……ああ……!」

 

 音を立てて黒い煙と化し、彼だったものが消滅していく様を見届けながら、私は荒い呼吸を繰り返し続ける。

 私の頭はぐちゃぐちゃだった。つい数分前まで砂漠の如く乾ききり、何もかもが平坦だった心象風景は天変地異に見舞われたが如く荒らされ、その反動なのか湧水が噴出してくるかのように、次から次へと感情の暴発が巻き起こった。忘れていた心の原風景が、全て舞い戻ってくるかのように感じ、思わず頭を抑える。

 そして私は、胸の内に押さえつけられていた感情の爆発とともに、認めようとしなかった心の正体を掴む。掴んでしまう。

 

 悲哀。

 それは、例えようのない悲しみだった。

 失ってから気付く……その極限と言うべきか。私は眼を向けたくなかった心の色を前にして、目の奥の灼熱感を確かに感じとった。

 ここまで来て漸く、私は自分が犯してしまった事の深刻さを完璧に理解したのだ。

 

 死なない事に慢心を覚え、ただ乾いた心を潤す為に、因縁の宿敵であり数少ない蓬莱人の理解者である妹紅を手に掛けた。例え殺し殺される様な関係であったとしても、私は彼女の命を、一番に信じるべき永琳の警告すら楽観視して『難題』と言う遊び目的の為に利用した。

 その結果がこれだ。ナハトは悪くない。彼はただ、友達が欲しくて難題をこなしただけ。彼もまた、心の渇きを潤す為に実行に移しただけに過ぎない。

 悪いのは、彼女を殺したのは。同じ境遇を持った友達を殺したのは、他でもない私自身だ。

 渇きを潤す為に血を啜ろうとした吸血鬼は、目の前に君臨していた彼ではなく、この私自身だったのだ。

 

 逃れようのない事実が、私の心へ突き刺さる。気がつけば妹紅の遺体に寄り添って、ただただ謝罪と後悔の涙を流すだけとなっていく。

 

「……ごめん……ごめんなさい……」

 

 私は不死ゆえに全てが果てた未来が怖かった。私は不死ゆえに朽ちていく過去が怖かった。

 その結果、私は究極の現実逃避を実行してしまった。それは『現在』を捨てる行為。永琳も、イナバ達も、妹紅も。周囲の全てを拒絶して、ただ風化していく事に慣れようとする逃避行。周りの心など考えるのも馬鹿らしいと、いつか訪れる結末に怯えてただ目を背けてしまったのだ。

 これは、その我儘が(もたら)した罰なのだろう。私よりも遥か長い時を生きた永琳の様に強く在れなかった、臆病な私に対するツケが回って来たのだろう。

 それのなんと、滑稽な事か。

 

「私、馬鹿だった。あんたがこんなに冷たくなって、やっと気がついた。逃げてたの。不死身を言い訳にずっと逃げてたの。あ、あんただって同じ思いをしてた筈なのに、ううん、身寄りを失くしたあんたの方が、私より強く生きていた筈なのに、私は自分だけ取り残されるんだって決めつけて、目を背けた。それがあんたを死なせてしまった。本当に、ごめんなさい……っ!」

 

 懺悔とは正に、今の様な状況を指すのだろうか。しかしどれ程悔いようとも、失われた命は戻らない。

 そんな事、分かり切っていた筈なのに。だからこそ、現在から目を背けていた筈なのに。

 我儘の雫は、絶えず頬を濡らし続けた。

 戻らない唯一無二の友人へ、送ることしか出来ない涙を。

 

「輝夜」

 

 声が聞こえる。もう二度と、罵声も挑発も喧嘩口上も聞くことが叶わなくなった妹紅の声が。

 罪悪感が生み出した幻聴か。やっぱり私は、どこまでも弱い。

 

「おーい、輝夜。聞こえてる?」

 

 頭を叩かれた。ぺちぺちと、まるで寝ぼけている子供を叩き起こすかのような感覚で。

 幻覚まで感じ始めたのかと、私は一層強く、冷たい妹紅の体に縋り付いた。

 

「ああもう! こっちを見なさいっての!」

 

 頭を勢いよく掴まれ、思い切り持ち上げられた。

 何事かと目を見開けば、そこには、もう二度と見る事は叶わなくなったはずの妹紅が。不機嫌そうな顔で私を睨んでいた。

 ぽかん、と思考停止した私は、何が起こっているのか分からないまま、考えた事を直接口に出していた。

 

「……妹紅なの?」

「そうよ」

「本当に?」

「本当に」

「本当の本当の本当に?」

「本当の本当の本当によ」

 

 ほら、と妹紅は私の手を掴み、両手でそれを覆った。血が巡り、暖かみを持つ柔らかな肌。人肌の温もりが、確かにそこへ存在していた。

 幻覚ではない。彼女は、本物の藤原妹紅だ。

 では、では、では。

 この首無し妹紅の死体は、一体全体何なのか?

 

「あんた、何で? 死んじゃったんじゃ、あ、これ、どういう事なの……?」

「私が死ぬわけないでしょ。これは全部、アンタを夢から醒めさせる為の芝居よ」

「芝居?」

「そう、芝居。アンタ、自分の心が死にかけてた事に気づいて無かったんでしょ。いや、気づいてても自分じゃどうしようもなかったんじゃない? 違う?」

 

 心が、死にかけていた。

 妹紅の言葉に、つい先ほどまでの乾ききった心を思い出す。空虚で、乾燥して、何もかもが灰色に塗りたくられたあの心象風景。全てを拒絶した、まっさらな閉鎖空間。

 アレが、心の衰退だったのだろう。危機感が無かったものだから、当時は何も思わなかったけれど、今は不思議と怖く感じた。

 

「無敵の蓬莱人も精神衰弱だけには敵わないらしくてね。もう心が死ぬ一歩手前まで行っていたアンタを心配した永琳が、あの男に一芝居打つよう頼んだらしいわ。彼の瘴気を利用して強いショックを与えて、感情を呼び覚ます即席療法なんですって。でもまさかアンタが、死ぬわけのない私が本当に死んだと思い込むくらい思考能力を破壊されていたとは思わなかったけどね」

「じゃあ、この死体は……?」

「あの男が私の血を元に作ったデコイよ。よく出来てるわよね」

 

 似すぎてて気持ちが悪いわ、と妹紅はその人形を焼き払った。見た目や質感は人間のソレなのに、不思議と肉を焼く様な匂いは全然しなくて、炭と化した人形は黒い霧に姿を変えて霧散してしまう。残ったのは煤けた畳のみとなった。

 

「あんたは、何でここに?」

「アフターケアよ。頼まれたの。強いショックでトラウマを負ってしまったら意味が無いからね。私は生きているんだって事を示して安心させろってさ。全く、アンタが廃人になったら私の鬱憤を晴らす奴が居なくなっちゃうっての。手間かけさせんな」

 

 サバサバとした調子で、彼女は言う。悪態は吐いているがどこか優しい雰囲気がそこにあった。

 

「でも、これで少し……本当に、本当に癪なんだけど、アンタに借りを返せるのかね」

「え……?」

「実は私も、この間まで同じだったのよ」

 

 妹紅は語る。私が身を隠してから、妹紅が体験した日々の事を。

 知り合いがどんどん死んでいったこと。ふと気がついた時には一人ぼっちになってしまったこと。化け物扱いされたこと。死ねない事に絶望したこと。この世の全てを恨んだこと。妖怪を退治して回ったこと。全てが虚しくなったこと。何も感じる事が出来なくなったこと。

 そして私に偶然出会って、再び火が付いたこと。

 

 今まで喧嘩ばかりだったから知る由も無かった彼女に、知る由も無い心中を吐露されて、私は激しい共感を覚えた。

 同じだった。

 過程は違えども、方向は異なれども。同じ永遠を生きる者同士、似た様な悩みを抱えていた事を知った。もしかしたら妹紅もこうなのかな、と言った程度に漠然と想像していた事が、本当に当たっていたのだ。

 

「別に感謝なんてしてないわよ。ただアンタをどうやって殺してやろうかって考えたら、もう一度生きる気力が湧いて来た。それだけ。けれどそうしたら何故か、周りの物が少しづつ綺麗に見えるようになっていった。あれだけ灰を被ってた風景に色が着いたの。それに気がついた時、変な話……生まれ変わったような気分だったわ」

 

 アンタのせいで死ねない体になったってのに、皮肉なものよねと彼女は言う。

 

「そして今はアンタが前の私と同じように、内側の人間が死にかけていた。けどアンタにゃ今まで通り、高飛車で余裕たっぷりで、姫様姫様して貰わなきゃ捌け口が無くなっちゃって困るの。だから今生まれ変わりなさい。ただ生きるだけの蓬莱人じゃなくて、人間の蓬莱山輝夜にさ」

「っ」

 

 もしかして。

 彼が示したかった『蓬莱人の死』とは、本当はこの事だったのではないだろうか。

 生きながら死に、心が摩耗した『人の形をしたもの』を蓬莱人と例えるならば、それを激情のショックによって心も生きた人間へ戻す事―――即ち、『蓬莱人』を殺す事。

 これがもし、彼が永琳の頼みを聞き、承知した上でこれほど苛烈な手段を用いて、依頼も難題もクリアするよう計算した上で実行に移したのだとしたら――――

 

「―――妹紅」

「ん?」

「一発殴ってくれない?」

「あいよ」

 

 バチンッ、と景気の良い音がした。容赦なく叩き込まれた張り手の痛みが、頬からじわりと波紋状に広がっていく。

 その痛みと、躊躇なく頷いてくれた妹紅の優しさが、私の胸の内に残っていた蟠りを弾き飛ばした。

 彼女はこれでチャラにすると言ってくれているのだ。自分の事をどうでも良いと切って捨てて、難題の生贄にしようとした私の暴挙を、張り手一つで許すと。

 少し前まで分からなかった痛みの意味が、言葉無き彼女の心が、今は手に取る様に分かる。同時に、今はここで泣きべそをかいている場合ではないと理解した。私は、ここで立ち止まっているべきではない。

 

「……ありがとう。目、醒めたわ」

「うん」

「やらなきゃいけない事も、分かった」

「それでこそ輝夜よ」

 

 立ち上がり、自分の成すべき事を成し遂げるべく移動しようとした、その時だった。

 蹴破らんばかりに―――いや、実際思い切り蹴破られて、突如襖が足元にまで吹っ飛んできた。

 何者の襲撃かと前を見れば、そこには紅白を基調とした衣装を纏う巫女と、魂を周囲に浮遊させている剣士の姿が。

 瞬時に永琳が敗北したのだと悟った私は、先ずは客人を迎える事に思考を転換した。

 

「リハビリには丁度良いわ。妹紅、あんたも手伝って」

「仕方ないわね。今回だけ、老いぼれの介護の為に付き合ってやるわ」

「私は永遠の女の子よ。あんたも年だけ人間視点から見れば、老いぼれ通り越してミイラでしょうが」

「悪態吐ける位には治ってきてるじゃん。先にアンタからぶちのめしてやろうかと思ったけど、その調子よ輝夜」

「――るっさい。足手纏いになったら頭ぶちぬいてやるからね」

「それはこっちの台詞だっての!」

 


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