【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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第2回アンケートで採用されたお話です。

※見返してみると内容があまりに酷かったので、一部シーンを大きく改訂しました。ストーリーの内容に変更点はありません。


EX4「賢者さんの憂鬱 その2」

「――――今、なんと?」

 

 竹林の奥地にぽつんと佇む、不気味なほどに整理された古い日本屋敷の中。つい先日、月をすり替える異変を引き起こした人物との、和平会談での出来事だった。

 腰まで伸びる輝かしい銀の三つ編みが特徴的な不老不死の女性、八意永琳の口から飛び出した衝撃的な言葉を前に、私は思わず自分の耳を疑ってしまい、何とも間抜けな返事を返してしまった。

 しかし彼女は、絶世の美貌と例えられても何ら遜色のない麗しき顔貌に波風一つ立たせること無く、私を驚愕の渦に突き落とした言葉を、美しい声色で再び並べていく。まるで、私の反応が想定内であったとでも言うかのように。

 

「ナハトと言う男は、言うまでも無くただの吸血鬼ではないわ。彼のルーツは人間の幻想によるものではなく、もっと根本的なもの―――即ち、八百万の神々も含め全ての存在に例外なく平等に降りかかる、万物の終点たる『消滅』……その概念から奇跡とも呼べる確率でバグが生じ、自我を得て、妖怪としての身にまで格を落とした存在。それが彼の正体なの」

 

 もっとも、概念から発生したとはいえ生まれた時期は長くても二千年かその付近の様だけど、と彼女は情報をつけ足していく。

 

 そんな馬鹿げた話があるものか、と声を大にして反論を返したかった。しかし、彼女の述べた発言には抗い難い説得力が滲み出ていて、私の反論を喉の奥に押し戻してしまう。

 理由は、そもそも私が何故あそこまで理不尽極まりない恐怖を、彼を目にしただけで無条件に感じてしまったのかと言う点だ。

 私もそれなりには長い時間を生きて来た。そんな妖怪生の中で、月の民や閻魔、神仏の類に鬼、更に天魔などを筆頭とした猛者達と巡り合う機会は、勿論数多く存在した。しかしだ。それらの経験の中でも、ただ目にしただけで危機感を体感した事など一度たりとも無い。あの圧倒的な力を持つ月の使者に対してだって、この目でその惨劇を、どうしようもない格の差を見せつけられたその時までは、危機感を抱いたことは無かったのだ。ましてや一個人に対して、思考を鈍らされる程の怖れを対面するだけで抱かされるなど、客観的に見ても経験したことは無い。

 なのにあの男は違った。姿形を目にするだけで、声を耳に受け入れるだけで。どうしようもなく体と心が縛り上げられてしまい、明らかに普段の私ではいられなくなってしまった。これが異常と言えずして、何と言うのか。

 

 その原因が『消滅の概念』の欠片から生まれたが故となれば、かなり突飛かつ奇天烈な理論ではあるが、理不尽な怖れを抱かされた理由は説明出来る。証拠に、魂を不滅化させ完全な不死身と化した彼女たち蓬莱人ですら明瞭な恐怖を感じたと言う。八意永琳の弁によると、完全な不死による副作用とでも言うべきか、蓬莱人は真っ先に恐怖の感情を失くしてしまう傾向にあるらしい。そんな存在に例外なく恐怖を呼び覚まさせる彼が、ただ強い魔たる性質を持ち合わせただけの妖怪程度である筈が無く、事実述べた通りの馬鹿げた存在であったからこそ、恐怖を感じ取ったとの事である。

 

 呑み込むにはあまりに難解な真実を前にして、私は辟易とした感情を抱かざるを得なかった。

 と同時に、ある疑問が水泡の如く胸の奥底から浮上してくる。

 あの男の存在を認めた瞬間からずっと抱き続けてきたもの。それは、彼が幻想郷へ入り込んだ目的とは一体全体どういったものなのかという、至極単純な疑問だ。

 

 私は初め、彼は幻想郷を手中に収めようとしているのかと疑った。かつてレミリア・スカーレットが吸血鬼異変を起こした時の様に、彼もまた、幻想郷の環境を笑顔の裏で狙っているのではないかと。しかしその疑いは、あの永夜の晩に霧散した。否、正確には『幻想郷に対して』直接何かをしようとしている様には見えなくなったのだ。もし幻想郷を乗っ取ろうと考えているのであれば、あの様に自分を異変の主と疑ってくれと言わんばかりのパフォーマンスを繰り広げ、冤罪をわざと被らせる様に仕向けて私に謝罪の場を設けさせようと画策してまで私と接触する機会を生むなど、回りくどい事をする必要は無いからだ。その圧倒的な魔性で水面下に仲間を増やし、隙を見て決起する方針を取る方がよっぽど成功率は高い。

 しかし奴はそれを選択しなかった。奴は着々と誰にも気づかれぬよう計画を進行すると言った動きに出ず、ただ私と接触する為だけに、あまりにも面倒臭いが嵌れば確実に実を結べる行動へと打って出て来たのだ。この事から、奴は『幻想郷そのもの』ではなく『八雲紫』……もっと言えば、八意永琳と接触した点から考察するに『力ある者』を何らかの理由で狙っている可能性が非常に高い。

 

 そしてこの要素が顔を覗かせてきてしまったからこそ、奴の目的が濃霧の奥に存在するかのように見えて来ないでいるのだ。

 

 何故彼が積極的に他者と接点を持ち、恐怖の威圧を振りまきながらも、血を流す事の無い『平和的な交渉』を持ち出してくるのかが分からない。あの夜、奴はやろうと思えば私と幽々子に傷を負わせることも出来ただろう。だが奴は牽制するだけに攻撃を留め、実質本気で敵意の籠った刃を向けてくることは無かった。まるで、それが最後の一線だとでも意識しているかのように。

 

「……貴女は彼の事を知りたがっている様だけれど、ナハトに対して友好的な感情は持ち合わせているの?」

 

 八意永琳が、底の知れない瞳を私に向けながら、何の前触れも無く唐突に伺ってきた。

 

「いいえ。現状、腹の底に抱えている真意を掴めない彼は、私にとって一つの警戒対象……それも、最も警戒に値する人物に過ぎません。友好的など、もっての外ですわ」

 

 そう、と八意永琳は相槌を打つ。その表情はどこか安堵しているような、どこか愁いを帯びているような、複雑な色を湛えていた。だがそれもすぐに、元の凛とした表情へと戻る。

 

「友好的に思っていないのならその方が良い。彼とはなるべく関わるべきではないわ。これは貴女に限った話ではなく、幻想郷の全員に言える事よ。……可能なら、第三者が彼と関わろうとする火種を消していく事をお勧めするわね。特に、人間の集落に対しては」

「その心は?」

「…………危険だから、よ」

 

 その危険とは、一体何を指す言葉なのか。まぁそのままの意味で受け取れば、出会う事でナハトの影響下に置かれてしまう者達が危険に晒されると言う事だろう。幾ら妖怪の範疇に収まっているとはいえ、中身が未知の素材で構成されている事に変わりはない。不確定要素である以上、下手に接触を許容して想像も出来ない結果を生み出さないよう厳重に注意せねばならない事に変わりはないのだ。

 

 今後の課題の一つとして、情報操作を決行しなければならないか。幻想郷縁起に彼を記載するよう仕向け、少なくとも人間の里の間には、あの男へ不用意に近づこうと言う気を起こさせないよう、印象を植え付けねばなるまい。最近はスペルカードルールが適用され、弾幕の輝きに彩られた、目の癒しになる決闘劇を人間も目にする機会が増え、遠目から見る分には十分楽しめる要素として認識されてしまっているせいか、人間が妖怪に対してフランクになり過ぎつつある傾向にある。何時愚かな考えに囚われた人間が、物珍しさにあの男へ接触を試みようとするか分からない。かつて風見幽香に対して人間たちが楽観視し過ぎたが故に起きた、あの様な事故を繰り返さない為にも、先手は打っておくに限るだろう。

 

「成程。月の頭脳のご忠告、しかと胸に刻みましたわ」

「やっぱり、バレていたのね。月に対して理解があるからもしかしたら、と思っていたけれど」

「八意の名前はかつて耳にした覚えがあったの。そこで月が関連してくるとくれば、流石にね」

「でも一つだけ誤解しないでほしいのだけれど、今の私はもう月の民ではないの。ただの一人の薬師よ」

 

 彼女が言わんとしていることは容易に把握できる。私たちに対して敵意は無いと告げたいのだ。それに関しては、彼女が現在月から遠ざかろうとしている行動から簡単に察せるだろう。敵の敵は味方である。即ち、同じく月をあまり良く思っていない者同士、いがみ合う意味も無く利害も一致している所から、彼女を―――正確には彼女が仕えている主人を筆頭とした永遠亭は、幻想郷へ正式に帰属する事が決定したも同然なのだ。

 

 そしてそんな彼女たちには、医療の発達が少々遅れている幻想郷で、八意永琳の知識と力を活かした人妖共同の診療所をオープンして貰う事にした。その代り、幻想郷から追い出す事もこちらから何かを仕掛ける事もしない。働いてくれさえすれば、双方無暗に干渉し合わない取り決めである。要は平和的な不可侵条約と言ったところだろう。実は、今回の会談はこちらの方がメインの話し合いだったりする。

 

 私は更に条約を確かなものとするべく、細かな決め事を永琳と共に提案し、語り合った。 

 思考の片隅で、未だ紐解ける兆しの見えて来ない謎――――ナハトの抱く真の目的、その内容について考察しながら。

 

 ひたひたひた。

 足袋が埃一つないフローリングを滑る音が、大きな屋敷の廊下を駆けていた。

 有って無いような足音の正体は、八雲藍の式神、橙である。化け猫少女は今、敬愛する主人からある重大な任務を仰せつかっていた。

 重大な任務とは、八雲藍の主人である八雲紫――つまり橙にとってはご主人様のご主人様にあたる人物を、長い微睡みの中から連れ出してくる事だった。

 

 橙は普段、八雲の姓を持つ者達が住まう『本拠地』で寝食を共にしてはいない。普段の少女は山の中にひっそりと建つマヨヒガと呼ばれる屋敷にて、日々修練の時間を過ごしている。

 しかし今日は珍しく事情の違う日だったらしい。橙は時折八雲藍へ呼び出され、こうして任務を与えられることが度々あるのだ。それについて橙は別段苦に思ってなどいない。むしろ尊敬する藍の役に立てることが、彼女にとって小さな誇りでもあった。

 

 そんな訳で、橙は任務を果たそうと張り切っている。目的地の襖にまで辿り着いた橙は、猫らしく音を立てない仕草で襖をそっと開き、偉大なる大妖怪の寝室へと入り込んだ。

 飾り気のない、一つの布団だけが存在する和室。八雲紫の仮眠所である。紫が疲労を貯めた時、床に就く時にのみ使用される部屋だ。けれど橙には、自分の想像の遥か高みに立つ妖怪の部屋であるからか、どこか神聖な場所にすら感じていた。

 

「失礼しまーす……」

 

 小声で挨拶。そして忍び足で部屋を進む。以前に同じ任務を任された際、橙は大胆不敵に部屋へと突撃して、藍から無礼だと怒られた事があった。だから今度は怒られないよう、物音立てずに侵入した。橙は同じ失敗を繰り返さない子なのである。

 そそくさと布団にまで進み、橙は紫の隣へ鎮座した。

 覗き込むと、境界の妖怪は寝息一つすら立てずに眠っている。どこか儚く、そして美しい寝顔だった。微動だにもせず聖女のような寝顔を披露している彼女は、傍目から見れば死んでいると勘違いされてもおかしくないかもしれない。

 

「紫さま。お夕餉の時間でございますよ」

 

 枕元にしゃがんで、肩を叩きながら起こしてみた。返事はない。

 橙は、紫が寝坊助さんだという事を知っている。なので今度は揺すろうと思い立った。

 肩を掴み、優しく揺れ動かす。けれど目覚める気配は無い。どうしたものかと橙は困惑した。いっそ飛び込んでやろうかと思ったけれど、また藍さまに怒られてしまうと頭を振って考えを捨てる。

 となれば、頑張って起こすしかない。頑張ればいつか起きてくれる。なので橙はもっと頑張る事にした。

 

「紫さま、起きて下さ――わひゃっ!?」

 

 ミッションを再度遂行しようとした瞬間、布の中から細い腕がにゅっと伸びてきて、まるで蝦蛄のように橙を毛布へと引き摺りこんでしまった。

 視界が回り、心地のいい温もりに包まれる。恐る恐る目を開けば、紫の顔がそこにあった。金糸のようにサラリと輝く前髪が表情を隠しているが、僅かに下から覗く桃色の唇は、優しい微笑みを浮かべている。

 

「おはよう橙。起こしに来てくれたの?」

「おっ、おはようございます紫さま。起きてられたんですね」

「ええ。眠りが浅かったの」

 

 いつもは熟睡しているのに珍しいなぁと、橙は布団の中で首を傾げる。すると背中に手を回され、ぎゅっと抱き締められてしまった。

 突然のアクションに驚いて、ひゃっ、と変な声が出る。けれど勿論、橙が逆らう事など出来ないので、成すがままにされてしまう。

 いつもとは違う紫の様子に、橙は再度クエスチョンマークを浮かべた。

 

「紫さま、何か嫌な事でもあったんですか?」

「……色々と、ね」

 

 何か含みのあるニュアンスで、紫はそうポツリと零す。妖怪としての経験が浅く、紫はおろか藍の足元にすら及ばない橙には、紫の抱える事情へ深く踏み込めるほどの洞察力は無かったが、何か嫌な事があったんだと直感的に察知した。

 けれどどうすれば良いのか分からなかったので、取り敢えず紫の背へと手を伸ばし、子供のように抱き付いてみる事にした。こうすると胸の辺りがぽかぽか温かくなるので、紫さまもきっと温かくなる筈――そう考えての行動である。

 

「紫さまに何があったのかは分かりませんが、元気出してください。藍さまも心配しちゃいます」

 

 橙の言動に驚いたのか、一瞬目を丸くする紫。しかし直ぐにクスクスと笑いながら、更に橙を抱き返した。

 

「そうね。元気出して、頑張らなくちゃあ駄目よね。ふふ、ありがとう橙」

「お役に立てて光栄です」

 

 子供は時として、最も察知能力の高い生き物へと変化する。妖怪として見れば幼子に等しい橙は、無意識の内に紫が最も欲しているものを察したのかもしれない。

 ともあれ。橙の行動によって、紫の内に溜まっていたナハトに対する心労は幾許か取り除かれた様子だった。目覚めよりもすっきりとした微笑みを浮かべる紫を見て、自然と橙も笑顔になる。

 あー、と紫の間延びした声が橙の耳をくすぐった。

 

「でも今は、もうちょっとこのままで居たいわ。そうだ、橙。このまま一緒にお昼寝しない?」

「ええっ。今はもう夕方ですよ? お夕餉の支度ももうすぐ終わるって藍さまが」

「いいからいいから。もし本当に時間が来たら、藍が直々に起こしに来るわよ」

「ええ。慧眼通り、起こしに来ましたよ、紫さま」

「あらぁー……」

 

 パッと光が差し込んできたかと思えば、突然肌寒い空気が橙の肌をするりと撫でた。急に寒くなったせいで反射的に紫へと引っ付くが、寒気を招き入れた元凶を目にして、橙はすぐさま布団の上へと正座する。

 言うまでもなく、団欒毛布を剝ぎ取ったのは橙の直属的上司にあたる藍である。クールビューティーな印象を受けるその顔貌は苦味を加えられた表情をしていて、橙はしまったと俯いた。

 

「橙、駄目じゃないか。言われた事はちゃんと成し遂げなければ」

「はい、ごめんなさい藍さま……」

「まぁまぁ。私が引き留めちゃったのが悪いんだし、大目に見てあげて」

「紫様も紫様です。いつまで眠っておられるつもりですか。もうとっくに夕陽が射し込む時間帯ですよ」

「ふふ、ごめんね。どうも疲れが取れなくて」

「……夕餉と湯浴み、どちらになさいますか。両方すぐに準備できるようにしてあります」

「お風呂湧かしてくれたの? 良いわねー、目覚めのひとっ風呂と行きたいわ」

「畏まりました」

「あっそうだ。どうせなら、橙も来る?」

 

 ふぇっ、と、急に話を振られた橙は素っ頓狂な声を上げた。紫が橙には到底推し量る事の出来ない存在であるせいか、何故自分を湯浴みへ誘ったのか、まるで理解出来なかったからだ。

 クスクスと紫は笑う。まるでその反応を待ってましたと言わんばかりに。

 反して、藍は冷静だった。

 

「紫様、橙は化け猫故に水に弱く、更に橙に着く式もまた水に弱いのです。入浴は中々難しいのではないかと」

「あら、まだ式に完全防水を着けるまで届いてなかったの? まだまだね」

「うぐっ……め、面目ないです」

 

 目に見えてしょんぼりとする藍。『八雲』の姓を与えられた――つまり一人前と認められた九尾の狐であっても、やはり主人から呆れられるのは堪える様だ。

 微笑みで受け流し、紫は言う。

 

「境界操作でその辺りはどうとでも出来るわよ。さぁどうする橙? あっちでお話の続きでもしない?」

 

 暫く、橙は迷った。と言うのも、何度も述べたように橙にとって八雲紫とは遥か雲の上に位置する大妖怪である。自分の主人すら軽々と上回る実力に、人知を凌駕する思考能力。更には幻想郷と言う楽園を作り上げ、それを維持する圧倒的手腕。藍は時折紫の事を『たまにポンコツになる変な主人』と言うけれど、橙には逆立ちしても妖怪の神様にしか見えない訳で。

 

 つまるところ、恐れ多くてとても即答できるものではなかったのだ。本心で言えば、このような誘いは光栄極まりないので是非受けたい。ただ自分如きがそれでいいものかと、橙の小さな葛藤が答えを喉元で食い止めていたのである。 

 すると、黙りこくっていた藍が紫と橙へ視線を交差させ、

 

「橙。今日は紫様に付き合いなさい。それでさっきの失敗は帳消しとする」

 

 助け舟をひっそりと差し出した。

 あら、と微笑む紫。パッと表情を輝かせる橙。

 

「はい! 紫さま、よろしくお願いしますっ!」

「ええ、こちらこそ」

「では準備をしてきますので、暫しお待ちくださいませ」

 

 藍は一礼して、スキマの中へと消えていく。橙は憧れの妖怪と湯を共に出来る事に、まるで遠足を控えた小学生のような気持ちになるのだった。

 

 

 

 可愛げのある化け猫の式に癒された後の事。全ての用件を済ませた私は一人、博麗神社の屋根上に腰かけていた。

 涼しげな天蓋には、初秋を思わせる仄かに輝きを増した本物の月が夜空で自らを主張していて、御身を流れる雲に隠されても、彼の光は懸命に幻想郷を照らしている。

 

 ここは私にとって、所謂特別な場所だ。何百年も前から幻想郷の景色を眺めて来た、思い出と歴史の詰まった場所。ここから一望できる風景だけは変わらなくて、一人考え事に浸りたい時は結構足を運んでいたりする。霊夢に見つかれば、屋根に上るなと怒られてしまうけれど。

 

 私がコオロギの合唱を耳に挟みながら物思いに耽っているのは、言うまでもなく、未だ顔すら覗かせてこないあの男の目的についてだ。

 

 先ほどの事だった。先日の異変時にて、冤罪を吹っ掛けてしまった件を形式的にも謝罪せねばならない状況に追い込まれていた私は紅魔館を訪ねたのだが、その訪問は全く予想もしていなかった結果に終わったのである。

 

 奴は、私に何も要求してこなかったのだ。

 

 私は当初、奴はわざと私に異変の元凶と勘繰らせて攻撃させる事で、その冤罪を口実にこちらへ自分の望みを押し付けてくるものだとばかり考えていた。何か要求してくるようならばその要求から逆算して目的を暴き、逆手にとって釘を刺してやろうと思っていたのだけれど、奴が私に言った事と言えば『気にするな』や『何か飲むか』だとか、まるで仲違いをしてしまった友人と仲直りをしようとしているかのような言葉だけだった。他には、一切何もない。

 

 結局、あの男と紅魔館の小さな当主、そしてその妹君を交えた、ビリビリとした雰囲気のお茶会を済ませるのみで終わってしまったのである。何時本性を出すかと気を張り詰めていたのに、気がついた時には解散となっていたのだから、私は暫くスキマの中で動くことが出来なかった。それ程までに、あのお茶会の意味がまるで理解できなかったのだ。

 

 奴の行動には不可解な点が多すぎる。初対面時には私を試す様な真似をして罠に掛けたかと思えば、別段それ以上の行動を起こす事は無く。二度目の会合の際にも、またも私を策に嵌めたかと思えばその行動の先にあった筈の利益を掴み取ろうとしなかった。かと言って奴は何の目的も持たずに行動している訳でもなくて、確かに内に秘めた望みを現実のものにしようと動いているのだ。しかしその実態を欠片も掴ませようとはせず、口八丁手八丁で誤魔化して、まるで煙の様にうろうろとしている。

 

 分からない。ここまで来ても、奴の考えが分からない。あの男は一体全体、この幻想郷で何を成そうとしていると言うのか。何のために、今まであのような行動をわざわざとっていたと言うのか。

 

 今までの動きから分かっているのは、奴は私を含め、何かしらの能力を持った存在と関わる、もしくは探し出そうとしている事だ。理由は言わずもがな、奴の望みを叶えるために必要だからに違いない。

 更に記憶を振り返ると、あの男が私を初めて見た時口元を一瞬だけ歪めたのは、万能に近い境界操作能力を持った私との顔合わせが想定以上に早かったからか、むしろ想定内だったからだろう。奴はその時から明らかに私を―――正確には私の力を狙っている様な動きをするようになった。そうでなければ、あの晩にあのような行動へわざわざ打って出るわけが無い。大妖怪特有の気紛れにしてはメリットが無さ過ぎる。まさか、ただ散歩に出ていて偶然私と鉢合わせただけだなんてことはあるまいに。

 

 これらの要素から考えるに奴の目的は、万能性の高い私の能力を用いなければ―――要するに自分一人では達成できない類のモノであると言う事だ。だがそれはもう既に予測がついている。問題はその先にある。

 考えろ。奴の胸に秘められた目的を。何故奴は私の力を必要としている? 何故奴一人では目的を達成できない? 何故奴は―――――――――――――――――

 

 その時、電流が頭を駆け回るように、私の脳裏へ姿を現して来たものは、昨晩の会談にて八意永琳が語った言葉だった。

 彼女は言っていた。あの男はその真実を把握していないが、彼は大昔から存在する途方もない概念から生じたバグが、妖怪としての格にまで堕ちた存在であると。

 そして彼女はこうも言っていた。『関わるな』と。理由は『危険だから』だと。あの言葉は簡素ではあったが、鉄塊の様な重みが添えられていた。

 

 これまでに見つけて来た奴の要素を、頭の中でパズルを嵌めるように組み合わせていく。

 輪郭が、炙り出し文字の様に浮かび上がってくる。

 奴は自分の力ではどうにも出来ず、万能性に富んだ力を求めている。ここで一つの前提を覆すと、世にも悍ましい答えが色を持ち始めてくるのだ。

 

 永琳は言っていた。彼は自身の正体を把握していないと。

 だがもし、それが彼女の間違いであったとしたら? 正確に把握しておらずとも、何らかの形で自身の正体を察知していたとしたら?

 ふと、つい最近親友の亡霊姫が、興味本位で妖怪桜の封印を解こうとしたと言う話を思い出す。

 

 パチンと、何かが嵌りこむ音がした。

 

 導き出された答えは、とてもとても単純なもので。しかしその影響は、私ですらも計り知れないもので。

 まさかではあるのだが。まさかであって欲しいのだが。

 奴は自身の秘密に勘付いていて、元来持ち合わせていた筈の本当の力を、その身に取り戻そうとしているのではないか?

 森羅万象に対して平等に降りかかる、『消滅』の特性そのものを。

 

 ――――ゾワッッッ、と、例えようも無い悪寒が私の体でのたうち回った。まだほんのり暑さの残る残暑の夜風が、急に真冬の様な冷たさを持ち始める。

 もし、もしこれが奴の考えている内容だとすれば、これ程までに無い大惨事が幻想郷で巻き起こりかねない。否、大惨事どころでは済まない。終わりそのものが現れようとしているのだ。そこから波紋状に行き渡っていくだろう影響の強さは想像もつかない。そもそもソレがどの様な結果を齎すのかさえ、正確に掴み取る事は不可能だ。

 ただ一つ確実に言えるのは、奴が目的を完遂すればその先には『最悪』が口を開けて待ち構えていると言う事だけだ。

 

 ならば最悪の事態を想定し、可能な限りの手を打たねばなるまい。

 永琳は奴と関わるなと言っていたが、それはほぼ不可能だろう。奴の監視を徹底化し、事の真偽を確かめなければ。無論今すぐ手を下す事は容易だが、それは得策ではない。私の予測が正しいと100%の確証が持てない現状、迂闊に手を出せばまた以前の様に逆手に取られてしまいかねないからだ。慎重かつ念入りに、これまで以上に奴の警戒を強めなければならないか。

 同時に最悪の場合が起こってしまった時の対処法も考案せねばならないだろう。わざわざ丸腰で立ち向かってやれるほど、甘い事態では無くなりつつあるのだ。

 さて、どうしたものかと扇子で風を煽ぐ。未曽有の危機が迫りつつあるかもしれない恐ろしさなど、実に何時振りの事だろうか。

 

『紫ぃ~』

 

 不意に、どこか抑揚の外れた甲高い声が、緩やかに私の意識を其方へ注目させた。

 白い煙の様な物体が収束をはじめ、左隣に形を作り出していく。声から脳裏に浮かんだ想像通り、見知った仲が姿を現した。

 小柄な体躯に、その背丈ほどの長さもある薄茶色の髪。側頭部には身長と不釣り合いな捻じれた角が二本生えており、それが彼女の種族を物語っていた。

 かつて妖怪の山の頂に君臨し、その名を世に轟かせた大妖怪、鬼の四天王こと伊吹萃香である。

 

 そんなおどろおどろしい二つ名とは裏腹に童女の様な笑顔を浮かべつつ、常備している瓢箪から一気に酒を煽り、酒気の籠った呼気を軽快に吐き出した。見た目は子供でも、彼女は立派な鬼の頭領だ。彼女にとって酒は水であり、命である。

 

「こんばんは~っと。久しぶり、元気にしてたかい?」

「ええ。貴女も息災の様で何よりよ」

「鬼から元気取ったらそりゃ鬼じゃないからね。私は何時でも元気さ。……それはそうと、今日はソッチ(・・・)なのかぁ。アッチ(・・・)の紫の方が、からかい甲斐があって面白いんだけどねぇ」

「人を二重人格者みたいに呼ばないで。私はただメリハリをつけてるだけよ」

「いや、紫の場合それが自分の境界を弄っちゃうレベルだから極端すぎるんだって。霊夢も情緒不安定に見えるって言ってたぞ?」

 

 ぐさり、と言葉の刃が私の胸に深々と突き刺さった。承知してはいたが、直に言われると結構来るものがある。それでもはっちゃける時ははっちゃける主義なのだ。今後もこのスタンスを変えていくつもりは無い。

 

「……それはそうと、貴女がわざわざ尋ねて来るなんて、何か私に用事があるのではなくて?」

「おっ、そうだったそうだった。ちょっと頼みごとがあってさ~。まぁ、話すと長くなって面倒だし、これ見て察してよ」

 

 ちんからほいっ、と萃香は奇妙な掛け声とともに、私の目の前へ一つの封筒を生み出した。彼女の『密と疎を操る程度の能力』も、中々応用性が高いと思い知らされる。この様に物体を『疎』にして色々なモノを持ち運べたりするのだから便利だ。恐らくだが、今すぐ宴会を開こうと言ったらよし来たと膨大な酒瓶を『密』にして取り出してくるに違いない。

 

 私は封を切り、中の手紙を取り出した。綴られた文字に目を通していく。

 比喩表現を抜きに、血の気が引いた。

 ぎぎっ、と錆び付いたブリキの様な仕草で首を動かせば、萃香は実に鬼らしい、愉悦に満ちた笑顔を浮かべているではないか。

 

「萃香、貴女、何時の間にこんな勝手な事を……!?」

「あー止めようったって無駄だよ。もうアッチの許可は取ってあるんだ。頷く頷かないじゃなくて、協力してくれないと困るんだよね」

 

 私もだけど、紫も……と彼女は言った。それはそれは楽しそうに、伊吹鬼は微笑んだ。

 

「……それでもこれはあまりに危険すぎる。止めなさい、取り下げればまだ間に合うわ」

「それで納得してくれるタマかねアイツは? ううん、アイツだけじゃなく私も納得しないよ。紫が手伝ってくれないなら、しょうがないから勝手にやるけど本当に良いの? 私は鬼だから、紫みたいな配慮なんて利かないよ?」

 

 萃香は剣呑な光を鮮紅の瞳に宿し、妖しく口角を釣り上げた。

 こうなってしまってはもう止められない事は、昔からの付き合いで骨身に染みるほど把握している。否、この場合、むしろ止めた方が被害は大きくなってしまうのだ。ここは素直に彼女の要望を聞き入れる方が吉と言ったところか。

 思わず、溜息。

 

「………………昔から勝手ねぇ、貴女は。ここ最近で随分丸くなったと思っていたのに」

「にゃははっ、(かど)が取れたらそれは鬼じゃないさねっ。勝手なのも鬼だからこそ、だ。褒めてくれてありがとよん」

「欠片も褒めてなんかないわよ」

 

 まぁまぁ、辛気臭い顔してないで一杯どうだい? と辛気臭い顔をさせた張本人が、凄まじい酒気を飲み口から漂わせる瓢箪を突き出して来た。

 避けられない未来を前に、スキマから猪口を取り出して半ばやけくそ気味に一口。途端に強烈な灼熱感が食道一帯へ襲い掛かった。

 

「相変わらず強いわね、コレ。外の世界でアルコールが危険視されつつある理由が分かる気がするわ」

「にひっ、天下のスキマ妖怪にも流石にキツかったかな? まぁでも嫌な事は飲んで忘れるに限るっさ!」

 

 がぶがぶと、萃香は再び瓢箪を煽る。いつもの事ながら酔ってはいるみたいだが、泥酔しないのが不思議だ。鬼の中でも一際強い彼女の酒好き具合には目を見張るものがある。

 私は再び手紙の文字に目を通し、再度内容を確認していく。

 そこでふと、もしかしてこれは利用できるのではないかと妙案が思い浮かんだ。

 奴に対しての対策を考案できる良い機会だし、何より一見すると危険極まりないが、用意さえしておけば鎮火は可能ではある。問題は萃香が余計に付け足してしまった彼女(・・)だが、まぁ、彼女は彼女で扱いやすいと言えば扱いやすいので、あの男ほど事態を掻き乱す様な事にはならないだろう。

 取り敢えず、こちらから話は着けておくべきか、と明日の予定を脳内で組み上げていく。

 

 最後にもう一度だけ萃香から酒を貰い、それを喉に流し込んだ。

 今度の灼熱感は、何だかさっきより一層強く感じた。

 


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