【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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15.「小鬼の策謀」

「ぶひゃっひゃっひゃっひゃ! ひーっひひっひひひひ、ぶはっ、あはっ、あっはっはっはっは! な、何これ面白すぎるだろ! やばいっお腹捩れて千切れそう! 紫助けてぇっひっひひひひひ!!」

 

 妖怪の山最深部にある、山の元締めたる天魔の大屋敷。そのまた奥の、天魔の座す間。

 ある事情からその場に集った私と藍、天魔、萃香の四名で酒を飲み交わしていたところ、何の前触れも無く腐れ縁の小鬼が発狂した。下品な笑い声を張り裂けんばかりに上げながら、文字通り抱腹絶倒の状態となり床を転がっている。酒の飲み過ぎでとうとう頭がおかしくなったのだろうか、ガツンガツンと角が当たろうがお構いなしだ。天魔も藍もあまりの豹変ぶりに驚きを越して白い目を向ける始末である。

 溜息。

 

「いきなり何を笑い出してるのよ、気色悪い」

「いやさぁ、聞いてよ紫! い、今ね、アイツが山に到着したところなのさ!」

 

 アイツという単語に、酒を啜る口を閉じる。萃香が指し示している人物は他でもない、例のヴァンパイアの事だろう。どうやら萃香は能力を使って分身を飛ばし、あの男のいる光景を生中継しているらしい。

 そしてこの反応から、また奴が何かしらアクションを起こしたと見て良いか。

 

「そしたらさ、白狼天狗と戦争になってやがんの! 面白すぎるにも程があるって!」

 

 どうやら悪い方向に予想が的中してしまったらしい。戦争と言う単語が耳に入り、私は二重の意味で額に手を当てずにはいられなかった。一つは萃香の笑いのツボが度し難かったこと。もう一つは、幾らこちらが――――正確には萃香が招いたからとはいえ、あの男はそれほどまでに場を引っ掻き回すのが好きなのだろうかと憂鬱な気分にさせられた点だ。想定内ではあるけれど、やはり穏便に事が進む訳が無いと再認識させられて気が重くなる。

 

「萃香……貴女そうなると分かってて、文の伝言を遅らせる為にわざと酒を煽らせたの?」

「いやぁ、うん、半分は正解さね。もう半分は文の野郎が私に嘘を吐いていた罰さ。でもここまで大事になるとは思ってなかったけど」

「……私の部下は無事なのでしょうな、萃香殿?」

 

 黙々と日本酒を喉に通していた天魔が、不意に口を開いた。鼻から顔の上半分を覆うマスクのせいで詳細な表情は読み取れないが、どことなく心配の気を帯びている様に伺える。

 

「ああ、無事だよ。ナハトに食ってかかってる奴は全員無傷だ。でも付き人の紅い髪の奴と相手してる子らはやられてるね。仕留められてはいないけどさ。いやー紅髪の奴強いなぁ、畜生。見てるとウズいちまうよ」

 

 萃香の抱く欲求が、そわそわとした態度となって現れる。もう待ちきれないと言った表情だ。ここで誰かが弾幕ごっこの一つでもしようかと口にすれば最後、たちまち百花繚乱の如き光弾で溢れ返る事になるだろう。

 

「てかあの野郎、なに臨戦態勢に入っておきながらボサッとしたまま動かないんだよう、焦れったいなぁ! あーもう待てん! 無理っ! 文も遅いし、私が迎えに行くっ!」

「行くのはいいけど、あの男には気をつけなさいよ。何をされようとも喧嘩なんかしたら駄目だからね」

「分かってるって。約束は破らないさ、鬼だからね。んじゃあちょっくら行ってくるよっと」

 

 最後にお猪口の酒を勢いよく煽った萃香は、そのまま霧散して姿を消した。妖力の残り香も直ぐに消えてしまった事から、どうやら完全にこの場を去っていった様である。

 藍が私の空いた猪口に酒を注いでくれた。ありがとうと礼を言って、透き通る液体を口にする。心地良い灼熱感が喉を癒した。

 

「そう言えば天魔さん。幾ら鬼のお願いとは言え、よく萃香の頼みを受諾したわね。無茶な難題だったでしょうに」

「……」

「理由を聞いても?」

 

 天魔は暫しの間沈黙を浮かばせ、何かを考える様な仕草を見せた。もしかしたら、萃香の耳に入る事を警戒していたのかもしれない。

 数拍の後、仮面の下の唇が動く。

 

「今この山は、鬼が留守の間、我ら天狗を筆頭とした妖怪連合が預かっている状況下にあるのは存じておるな?」

「ええ」

「つまり、この山は真に我らの物ではない。只の預かり物に過ぎんのだ。裏を返せば、我々は未だ鬼に縛られている身の上であると言うこと」

 

 天魔が酒を注ぎ足す。丁度、徳利の中身が空となった。

 

「萃香殿の頼みは、まさに鬼の如き難解な願いではあった。しかしあの方は私と約束を交わして下さったのだ。この頼みを受諾した暁には、我らに山を譲り今後関わる真似をしないと」

「……要するに、萃香の最後の我儘って訳ね」

「そうだな。最後で最大の我儘だ」

 

 だが得られる物は大きい、と天魔は言った。山を譲ると言うことは即ち、鬼の支配から完全に解放される意味と繋がる。真の意味で自由になれる以上、引き受けない訳にはいかなかったのだろう。

 

「さて、次は八雲殿の番であろう」

「あら」

「誤解なきよう予め言っておくが、力の無い我々の補助を買って出てくれた事は理解しておるし、感謝もしておる。しかし貴女が純粋な善意のみで我々へ手を差し伸べる様な人物でない事も承知しておるのだ。何故貴女がこの場に居るのか、その理由が知りたい」

「知りたい事があるからですわ」

 

 あっけらかんと私は返答する。別に、隠す様な事でもない。今回に限っては至極単純な策しか講じていないのだ。喋らずとも天魔には見抜かれるだろう。そして見抜かれた所で何の意味も無いのだ。喋る事が害に繋がらない以上、黙る方が余計な弊害を生む場合もある。

 

「萃香が招いた男は、少しばかり特殊な妖怪なの。しかも何らかの目的を持って幻想入りを果たした妖怪。その目的の全貌を掴むことが、私には叶わなかった」

「ほう、あの八雲殿が」

「ええ、お恥ずかしながら。でも最近になって、漸くその片鱗らしきものを掴むことが出来た。私はそれを確かめたい。ただそれだけよ」

 

 萃香の計画は、否が応でもあの男の本性を暴き出す事になる。狡猾な策謀も精神干渉も全て押しのけ、丸裸の奴と対面する事になるのだ。

 その時こそチャンスと言えよう。機会に乗じて今度こそ奴の目的を暴き出す。真実さえ掴む事が出来れば、あの男の脅威度を著しく引き下げる事が可能となるのだ。この機会を逃す訳にはいかない。正真正銘の勝負どころである。

 だがその反面、大きな危険も伴う事になるのだけれど。

 

「……それにしても、遅いわね。伝えておいた時間はとっくに過ぎているのに、全く」

「紫様、天魔様」

 

 未だ到着を匂わせない、もう一人の人物への愚痴を吐いた直後。まるで打ち合わせでもしたかのようなタイミングで藍が口を開いた。横目で見れば、連絡用の式神が藍の傍を漂っている。噂をすればなんとやら、か。

 

「漸く着いた様ね」

「はい。直ぐ近くまで来ております」

「出迎え……は必要ない様だな」

 

 天魔が片手を上げ、隅に控えていた側近の天狗へ合図を送ったと同時に扉が開く。

 私は扇で火照った頬を煽ぎながら、最後の待ち人へ向けて微笑んだ。

 

「久しぶり」

 

 

 

 

 土の匂いがする。

 

「…………うっ……く」

 

 目が覚めると、真夜中の森の中だった。

 

「…………どこですか、ここ」

 

 この場に自分が居る脈絡が理解出来ていない時点で察せる事ではあるが、私は何故こんな所で横たわっているのか思い出す事が出来なかった。さながら陽炎の如く記憶が揺らめいているせいで、思い出せそうなのに思い出せないモヤモヤとした状態に陥ってしまっている。

 

 おまけに体が重く、頭が内側から破裂しそうなくらい痛い。喉は咽頭を切り取って日干しでもされたかの如く渇き切っていて、段々と意識が明瞭になっていく程に、体が水を要求し始めて来た。

 その癖、胃に石でも詰められたかと錯覚する程にお腹が重苦しく、地面に内容物を晒してしまいそうになった。

 

 土を握りしめながら、私は懸命に上体を起こして周囲を見渡す。

 暗くてあまりよく見えない。恐らく山の麓辺りだろうか。この木の立ち並びには少し見覚えがある。

 

 私は何故こんなところで寝そべっていたのだろう。何だか、胸に絡み付くムカムカがそのまま靄になって頭に張り付いているようで、上手く記憶を掘り起こせずにいた。

 

 ……ん? ムカムカ?

 …………ああ、そうか。私はさっきまで、あの方に泥酔するほど飲まされていたんだっけか。

 

 記憶に久しい二日酔いの症状をヒントに、頭蓋の内側から太鼓でも叩いているのかと思わされる頭痛を手で押さえつつ、私は自分の身に何が起こったのかを断片的に思い出していく。

 

 確か、三日ほど前に大天狗から何の前触れも無く祭りの準備をしろと山中に言い渡され、急遽始まった謎の祝宴での出来事だったか。祭り好きな私は思いがけない幸福を存分に楽しもうと意気込んでいたのだが、祭りが始まった直後――つまり先ほど、これまた突然天魔様の屋敷へ呼び出しを食らい、強制連行されてしまった。

 

 最近は重鎮に呼び出される様な問題行動など起こしていないのにと不満を抱きながら向かえば、相変わらず無駄に広い間に我らの天魔様が鎮座していた。

 

 だがそれだけではなかった。その間にはあのスキマ妖怪とその式の姿があり、更にはもう大昔に山を離れたはずの元上司―――伊吹萃香様が、大広間の中央で胡坐をかいて座っていたのである。

 

 あの時は本当に参ったものだ。本気で逃げ出してやろうかと逃走ルートを確認した程だった。尤も萃香様の能力の前には、どこへ逃げたって最終的に必ず吸い寄せられてしまうので、逃走したところで何の意味も無い。

 むしろ逃げるとは何事かと余計に逆鱗を撫でてしまい、制裁されて終わりだ。やはり四天王のリーダーを担っていたお方は格も能力も理不尽極まりない。だから鬼は昔から苦手なのだ。

 

 閑話休題。

 

 どうやら私が呼び出されたのは、理由は不明ながら山へ戻って来た萃香様が私に用があったかららしい。

 曰く、肩書の無い身で使い勝手がよく、旧知の仲だったから頼ろうと思ったのだそうだ。用事があると語られた時は、大昔に嘘をついた事でも咎められるのかと戦々恐々としたものだが、普通に白狼天狗宛への伝言を頼まれるのみで終わった。

 

 しかしほっとしたのも束の間。そこで私は、緊張が解けた開放感のあまりとんでもない失態を犯してしまう事になる。

 いや、もしかしたら私の裏を察知した萃香様が、私の『裏』を表へ吸い寄せたのかもしれないが兎に角、

 

『な、なーんだ伝言ですか。私が昔伊吹瓢を失敬してその時に嘘吐いた事をお咎めになろうとした訳ではなかったんですね――――――』

 

 と言った具合に、私は思い切り自分の首を絞めるような真似をしてしまった。

 この馬鹿げた失言の後、視界一杯に萃香様の拳が広がった辺りから鮮明な記憶は途切れている。

 

 正確には、断片的ながら許してもらう代わりに鬼の酒を浴びるほど飲まされたこと、そして酒気に歪められた世界の中、椛を探して飛んで行った事を覚えているのみだ。その後何がどうなって地面に伏していたのかは分からない。

 

「……そうだ、伝言」

 

 思い出した重要案件を口に出しながら、渋る頭を懸命に動かして思考を巡らせる。

 恐らく、この体たらくでは椛に伝言を伝えられていないだろう。伝言は萃香様から下された命令だ。やり遂げると約束した以上、完遂しなければ今度こそ命に関わる。こんな下らない事で死にたくはない。

 

 鳴り響く頭痛を気合で押し込み、私は何とか立ち上がった。まずは自分の居場所を確認する事が先決だ。そこから椛の担当区域を見つけ出さないと。

 

「今は大体あそこの辺りだろうから、椛の担当は、ええと」

『ここはその椛とやらの担当区だよ』

「うっひょあ!?」

 

 突如耳元から囁かれた声に、私は肩を跳ね上げん勢いで驚き尻餅を着いた。

 声の元へ目を向ければ、案の定霧が立ち込めている。そして私は、この霧の正体を知っている。

 

 噂をすれば何とやら。そして何故このタイミングで現れるのか。上で酒を飲んでいたのではなかったのか。

 小さな百鬼夜行と謳われた、決して見た目で侮ってはならない怪力無双の大妖怪伊吹萃香様が、自らを『疎』にした状態で現れた。

 

「す、萃香様!? どうしてこちらに!?」

『お前帰ってくるの遅いんだよう。スピードが自慢だって言ってたのに、ぜーんぜん帰ってこないじゃんか。だから直接見に来たのさ。……それで、伝言は哨戒天狗に伝えられたのかい?』

 

 萃香様の質問に、私の世界が凍った。やべぇ、と頬が引き攣る。マジやべぇ、と冷や汗が止まらない。

 ここで嘘を吐くのは論外だ。それは自ら斬首台へ首を置く行為に他ならない。であれば、誠実に本当の事を話すべきなのはわざわざ語るまでも無いだろう。

 

 ……でも、長生きな天狗の癖にあの程度で酔って寝るなと言った感じで一発拳骨を落とされそうだ。

 ああ逃げたい。萃香様の拳骨は本当に痛いのだ。一夜で二発も貰いたくないのだが、背に腹は代えられない。腹を括るしか道は無いか。

 

「すみません、酔って気を失ってたみたいで……そもそも伝えられたかどうかも記憶が曖昧でして」

『あー? 寝ぼけて伝えられてない?』

 

 あぁ、殴られる。記憶が飛ばないと良いなぁ。恐ろしさのあまり思わず白目を剥きそうになった。

 

 衝撃に備え、歯を食いしばって目を瞑る。完全防御体制に移行。我ながらまるで親に叱られる子供の様だ。

 しかし、幾ら待てども岩で殴られたような拳骨は飛んでこない。

 目を開けると、未だ霧のままの萃香様。

 

『うむ、正直者でよろしい。意地悪して悪かったね』

「……あの、お咎めにならないのですか?」

『ん? いや、酔わせたのは私だからね。元はと言えば文が私に嘘を吐いてたのが原因だけど……まぁいいのさ。お前が伝言を伝えそびれたお蔭で、愉快なモン見せて貰えたからチャラにしとくよ』

 

 そんな事よりあっち見てみろ、と霧の流動で方向を示され、促されるまま私は眼を向ける。

 

 森の奥に、椛が居た。

 膝を着き、荒々しい呼吸を繰り返しながら、視線を一切前方から動かさない椛の姿があった。月の輝きを反射する白い頭髪を逆立たせ、射殺さんばかりの眼でナニカを睨むその様は、まるで外敵と遭遇した狼のようだ。

 

 鳥目を凝らして周りを見てみれば、椛以外の白狼天狗達の姿。

 皆同じように足を曲げ、しかし椛と違って力無く項垂れている。傍から見ても明らかに異様な光景だった。

 

 何が起こっている? ―――――そう思考が一巡するよりも先に、私はこの異常事態を引き起こしたのだろう元凶を見つけ出してしまう。

 

 異常な光景の中心には、一人の男が立っていた。

 全身に何本もの刃が突き刺さっているにもかかわらず、まるでその状態が日常なのだと言わんばかりに平然としている異形の男。

 だが見た目よりも問題なのは、男から放たれる、形容しがたい瘴気のようなナニカにあった。

 

 見れば見るほど、男の姿に水晶体のピントが合わされば合わさるほど。まるで膿んだ傷から滲む漿液の様なナニカが、私の脳髄をみるみる満たしていき―――

 

『おっと、それ以上視界に入れるんじゃないよ。お前にまで錯乱されたら事が進まなくなる』

 

 完全に思考が黒色で汚染されるその直前。萃香様が自らの霧で私の視界を覆い隠し、男から感じた謎の呪縛から解き放たれた。

 

 どうやら私は息を止めていたらしい。それも僅か数秒の出来事の筈なのに、自発呼吸を取り戻した反動で大きく咽返り咳込んだ。酸素が奪われ、頭がくらりと揺らぐ。

 一息。漸く正気を取り戻す。

 

「……あの男は、一体全体何者なんですか? 明らかに山の妖怪じゃない。雰囲気が厄神様に似ていましたが、なんでしょう、アレはもっと、怖ろしいモノの類に思えます」

『厄神? あっはっは! 違う違う。アイツは神なんかじゃないさ。私たちと同じ妖怪だよ。何百年振りかも分からない、見てるだけでゾクゾクが込み上げてくる稀有な奴だけど、それは間違いない。まぁ、私もそれ以上アイツの詳しいプロフィールは知らんが』

 

 と言うか知ったのはここ数ヶ月の間だもん、と彼女は付け加えて。

 

『さておき、アイツが私の招いた客人だ。アイツの瘴気に当てられて敵だと勘違いした白狼ちゃん達が一斉攻撃しちまってるけど客人なんだ。あはははっ、いやぁ、面白いね。余興を用意してたつもりだったのに、まさか余興の余興に巡り合うなんて』

「笑い事ではないですよ、萃香様。このままでは白狼天狗達が全滅してしまう……っ!」

『あ? あー、それは無いから安心しな。私としては気に食わないけど。いっそ戦争起こしてくれた方が観客の身としては愉快なんだがねぇ。幸か不幸か、あの男は手なんて出さないよ。多分』

 

 けど、と萃香様は再び話に区切りを入れる。

 

『白狼ちゃん側は仕掛けるだろうね。特にあの顔を下げてない根性が座った奴、アレは食って掛かるよ。野獣の目をしている。ただ、もしあの子がアイツに手を出した場合、どんな結果になるかは分かんないが』

 

 萃香様の言葉で、脳裏に映し出される未来予想図。私の頭脳が描いたそれは、椛が反撃を食らい男から致命傷を負わされている、凄惨な現場の画だった。

 サッと、血の気が引いていく。

 

「っ!! 止めないと……っ!」

『その方が良いね。これ以上長引かれても面倒極まりないしな』

 

 萃香様の霧中から、跳ね飛ぶようにして脱出。そのまま私は『風を操る程度の能力』を行使し、全速力で椛の元へ飛んだ。酒の酔いなど、とうの昔に置き去りになっていた。

 

 椛の方にも動きがあった。彼女はまるで野生を取り戻したかのように爪と牙を剥き出しにして、男へ食って掛かったのだ。

 

 地を蹴り、土を巻き上げ、目にも止まらぬ俊敏な動きで突撃する彼女へ立ち塞がって止めるには時間が足りない。ならば、音を使って距離を補うしか方法は無い。

 

「椛! 待ちなさいッ!!」

 

 

 

 深く深く、息を吸い込んだ。

 大きな鉈の如き刃を掲げ、喉を張り裂かんばかりの怒号を爆発させた。

 

「同志達よ、戦いの時だ! 山を汚す愚か者共に、我らの力を思い知らせてやれッ!!」

「ォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお―――――――――ッ!!」

 

 私の号令と共に、四方八方から同士の咆哮が炸裂する。白狼天狗達が地を、木々を、空を駆け、二つの標的に向けて散開し、刃を携え物量と連携を最大限に活用した攻撃が始まった。

 対峙する紅髪の妖怪が、拳を突き出し覇気を放つ。

 

「来いッ! 何匹でも相手になってやる!」

「いいや、私は貴様とは戦わない。白狼の名を、山の誇りを汚した貴様は八つ裂きにしてやりたい所だが、それは我が同胞達に譲ろう。先ずはお前の先に立つ男を狩らねばならん! それが最善手だ!!」

 

 眼前の紅髪妖怪は同士に任せ、私は最大の脅威である黒尽くめの男の元へ向かうべく地を蹴った。土煙が舞い、視界が急加速によって歪んでいく。

 

「行かせません!」

 

 間髪入れず、虹色のエネルギーを纏う紅髪の腕が私を通すまいと振り下ろされる。だが直後に同士の盾が紅髪を打ち、軌道を逸らした。まともに食らえば岩を両断するだろう威力を秘めた剛撃は私の髪を掠めるに留め、一次戦線から通過させる。

 

 こちらには地と数の利がある。その優位性を活用すれば、この戦いに負ける道理など存在しない。

 奴との距離が縮まる毎にざわざわと毛が逆立ってくる感覚を押し殺し、そう心に言い聞かせながら、指を銜え口笛を吹き鳴らす。指令を受けた数名の同士が私の背後に着き、挙動させる暇も与えず男を包囲した。

 

 男の周囲を素早く旋回し、攪乱する。奴は視界に映すだけで、心の柱をポッキリと折られそうになる程の禍々しい瘴気を放つ男だ。相手の隙を奪うと共に、こちらの隙も与えぬ様にせねばならない。

 

 男は動かない。視線すらも――いや、瞼すらも開こうとしていなかった。

 

「その首、貰い受ける! 覚悟ッ!!」

 

 柄を握りしめ、旋回の輪より飛び出し刀を振るう。銀に煌めく武骨な刃は、寸分違わず男の首元めがけて一気に叩き込まれた。

 

 ドカッ、と金属が肉を断ち骨まで食い込む生々しい感触が刃を伝う。それは確かな手ごたえとなって、恐怖と焦燥に支配された私の心に幾つかの安心を生み出していく。

 

 私の行動に乗じて同士が動く。男を囲う白狼の輪は崩れ、銀の閃光が次々と闇夜を斬り裂いた。

 腕へ、腹へ、背中へ、足へ、肩へ。次々と男の体へ凶器が突き刺さっていく。

 鉄砲水のような血飛沫が舞った。粘質な液体が降りかかる。それは確かな勝利の狼煙となって、私たちの視界を彩った。

 

「どうした。何故動かない。何故躱そうともしない。それとも我らの連携が、貴様の予想を上回っていたの―――――――――!?」

 

 だが。

 そこで私は気づいてしまう。

 確かな攻撃、確かな手ごたえ。それは紛れも無く『確かなモノ』であった。疑いようの無い実感である筈だった。

 なのに、私はこの感触が、現実のものとは思えなくなってしまっていた。

 

 ――――妖怪の剛力をもってしても、肉に切れ込みを入れる程度で刃が止まっている。

 いやそれどころか、これだけの攻撃を叩き込まれたにも関わらず、男の体が一ミリも動いていないではないか。

 

 ゾクリ。

 背筋に百足が這う様な感覚が走り抜けた。

 

 男を視界に映すと問答無用で纏わりついて来る、言いようの無い圧迫感では無い。それとはまた気色の違った、不気味な『未知』と相対したかの様な恐怖が、私の中身を蹂躙しつつあった。

 

「白狼天狗の諸君」

 

 蝋燭の火を吹き消すように、音が消えて無くなった。

 否、この男の囁き以外が、私の耳に入らなくなってしまったのだ。

 

「私の話に耳を傾けてはくれないか」

 

 刹那。男が初めて発したその声は質量を伴い、まるで爆風にでも直撃したかのような圧迫感を私に与えた。

 

 何だ、音響系能力の類か。いや違う。これは、眼前の男の声だ。

 鼓膜を伝い、聴覚も平衡感覚もごちゃ混ぜに掻き回しながら、神経を経て脳髄へ侵食してくる魅惑的で悍ましいこの音波は、口から絶える事の無い赤い液体を滴らせ、もう満足に声帯を震わせることも叶わない筈の、彼から発せられた純真な声以外の何物でもなかった。

 

 脳漿が麻痺を起こし、放たれた言葉の持つ意味を解釈する事が出来ない。奴が何を私たちへ言い放ったのかが欠片も理解出来なかった。

 

 ただ、奴の言葉を耳にしたその瞬間。腐敗ガスで泡立つ沼の様な皮膚に、数えきれない程の眼球が張り付けられた悍ましい怪物の腕が、私の首へ纏わりついているイメージが、はっきりと脳裏に浮かんできて。

 気がつくと私は、男と離れた地に膝を着いていた。荒れ狂う呼吸を必死に整え、汗で滲む視界を必死に拭い取りながら。

 

 ふと、手元が軽くなっている事に気付く。眼球を動かせば我が手に白狼の刃は無く、盾も見当たらない。動悸で揺れる視界を必死に制御し、周囲を見渡せば、私と同じような状態に陥っている同志たちの姿が。

 震えが、止まらない。

 

「君たちの抱いているその気持ちは、痛い程に理解している。どうしようもなく私が恐ろしいのだろう。訳の分からない恐怖を抱いているのだろう。言いようも無い不安と悪寒が全身を蝕み、脳髄へ汚水を注射されたかのように思考が淀んでいるのだろう」

 

 失われた私たちの刃は、目の前に存在していた。血反吐を流しながらも流暢に言葉を紡ぐ、不気味な異形の体へ置き去りにされたままだったのだ。

 

 ズルリ、ズルズル、ベシャリ。

 

 大きな蛞蝓が体を引き摺ったかのような生理的嫌悪感を呼び起す音が、闇夜の中を這い回る。

 男の体から刃が押し出される音だった。体が蠢き、異物を押し出そうと躍動している。

 一本、また一本と、身も凍る粘質な音を私たちへ届けながら、刃は男の体から吐き出されていく。

 

「だが誤解しないで欲しい。私は君達の敵ではないのだ。君達と刃を交えるつもりも、血みどろの戦を繰り広げるつもりも毛頭ない」

 

 頬で何かが動いた感触があった。背筋が凍る不快感があった。それでも体を動かす事は叶わなかった。

 粘液の様な感触が頬を伝い、顎へ伝い、やがて地面へと零れ落ちる。そこで漸く、私は顔貌を這い回っていたモノの正体を目撃し、思わず喉を引き攣らせた。

 

 それは、私が浴びた奴の血液だった。

 

 血の雫が、まるで意思を持つアメーバのように動いている。行き先は語るまでも無く男の元。よく目を凝らせば、同志たちの白い衣服や髪からも赤い雫が剥がれ落ち、次々と主の元へ殺到しているではないか。

 

 背筋が、凍結を始める。

 

「故に私は動かない。君達へ一切の手を加えない。だから君達の心に巣食う靄が晴れるまで、存分に嬲ると良いさ。再生の調子が悪く見苦しい有様だが見ての通り、ちょっとやそっとじゃ死なない身の上だ。飽きるまで付き合おう」

 

 そして、と彼は繋げる。冬の木枯らしの様に冷たく、夏の熱帯夜の様な熱を帯びた、聞く者の意識を惹き付けて離さない魔性の声で。

 

「落ち着いたその時は、改めて私と話をしよう。不毛な争いは終わりにするべきとは思わないか?」

 

 全身に肉片を、蠢く赤を纏わりつかせた異形の怪物は、まるで私たちへ手を差し伸べるように両手を広げながら締め括った。

 

 どの口が、と反論したかった。そちらが我が物顔で人の領地を荒らしておいて、一体何を言っているんだと叫びたかった。

 それでも、今の私には声を出す事さえ許されない。たった数秒の交戦だけで、戦意を根こそぎ刈り取られたのも同然の状態だった。

 

 挑んでみて分かったのだ。脳裏に過ったあの凄惨な光景を、この男は再現出来る怪物なのだと言うことを。決して私達では敵わない化け物なのだと言う事を。

 

 恐怖に混じる諦めと脱力が、筋肉の力を奪った。敵を前に屈するとは、まさにこの様な心情を指し示すのだろうか。

 首を取られても良い、私には何も出来ないーーそう思い込まされてしまう。絶対的な力に弱い天狗の性と言う奴なのだろうか。

 

「気は済んだかね」

 

 男は言う。もう抵抗は止めるのかと。大人しく強大な力の前に膝を折るのかと。威勢よく啖呵を切ったお前達の力はその程度なのかと。

 

 反抗する気力も、言い返す気力も無く。私はただ、頭を垂れて山の土を見つめることしか出来なくなった。

 頭の中に浮かんでくるのは、奴がこの後どう行動するのかという、些細な疑問だけだ。

 

 この男は我々をどうする気だろうか。嬲り返すか。蹂躙するのか。それとも洗脳を施し軍門へ下らせるのか。

 これが一番濃い線と見て良いだろう。奴は山の歴史に名を残している、鬼と匹敵する程の力を持った化け物――それも精神系の干渉に長けた異形だ。私たちの心を圧し折り、あの百鬼夜行の群れと化していた下級妖怪の様に、隊列へ加えさせる事など造作も無いだろう。

 

 だがそうなったとして、後はどうなる? 

 操られた先の私たちは、一体どの様な結末を迎えてしまう?

 

 想像が膨らんでいく。傀儡となり果てた私たちが、この夜の畏怖と月の狂気を掻き混ぜて出来上がったような男に、何をさせられてしまうのだろうか。

 

 人質? 生温い。天狗の仲間意識は他の妖怪に比べて強いが、また同時に冷酷だ。個よりも集団を優先する性質がある。私たちの命と山の皆の命など、天秤に賭けるまでも無い。

 では都合の良い肉の盾として扱われるか? これも同上だ。敵に利用されるだけの仲間に、裏切り者に、山は一切の容赦をしない。

 

 ならば、私たちと山の仲間とを戦わせるか?

 私の刃を、仲間の血で濡らせるつもりか?

 

「…………」

 

 私の剣が……山を守る事を使命とされ、大天狗様より与えられた私の(誇り)が、友人や家族へ突き立てられるかもしれない――――想像がそこまで至ったその瞬間。私の心臓が、勢いよく跳ね上がったのを実感した。

 

 それは河童の作り出したエンジンに似た拍動だった。冷え切ってしまっていた血液が、心臓を介して熱を帯び、再び巡る様な感覚。血潮のエネルギーは私を内部から暖め直し、再び心の活性を取り戻させていく。

 

 私の名は犬走椛。しがなく平凡な下級天狗の一匹に過ぎない。

 力は大天狗様に到底及ばない。悔しい事に鴉天狗にさえも届かない。

 けれど、これだけは誰にも負けないと思える物が、一つだけ存在する。

 

 それは山への忠義に他ならない。腕が捥げようが足を吹き飛ばされようが、山の為に尽くすと剣を授与された時に誓ったのだ。

 例えそれが普段、山の見回り位しか内容の詰まっていない仕事であったとしても、山への忠を投げ捨てた事など一度たりとも無かった。

 

 だと言うのに、これは何だ。私は、あんな男の瘴気に当てられた程度で抵抗を諦めるのか。今までの私の誇りを、自ら泥水に漬け込むような真似をするのか。

 ――馬鹿馬鹿しい。ああ、あまりにも馬鹿馬鹿しい。こんなの、最高に格好悪いぞ。犬走椛!

 

「……まだ、終わってなどいない」

 

 自らの不甲斐なさが心の柱を建て直す。屈辱はバネへとすり替わる。

 文字通り、闘争心に火が付いた。それは私の膝を持ち上げる為の勇気となった。

 

「私は、山の前衛だ。この身が砕け灰塵に帰そうとも、この牙が貴様の命に届かずとも、最期の火が燃え尽きるまで戦ってやる。何度でも、貴様の喉笛を噛み切ってくれる」

 

 本能に擦り寄る恐怖? そんなもの捻じ伏せろ。

 勝利の見えない戦い? だから何だ。

 

  例え私が血の海に沈むことになったとしても、今は膝を着いている同志が勝ちを取るかもしれない。増援が訪れるまでの時間は稼げるかもしれない。

 生き残る事は考えるな。私の役目を果たす事だけを考えろ。

 

「覚悟しろ、化け物。追い詰められた獣の恐ろしさを、その身に一欠片でも味わっていけ」

 

 理性を外す。今まで眠っていた野生の部分が顔を覗かせ、私に変化を齎していく。

 牙は猛々しく、爪は鋭利に。野生の武器を、極限まで強化していく。

 妖と成り果てた白狼の一族が、理性を得る代わりに摩耗させた獣の性。それを今、私はこの身へ呼び起こした。

 

「ガァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

 

 全力で地面を蹴り飛ばし、牙と爪で男を掻き切るべく一直線に跳躍する。男は微塵も動く気配を見せない。好都合だ。奴が油断しきっているその間に、何回でも傷を植え付けてやろう。

 肉を裂くまでの距離、残り数メートル。

 

「椛! 待ちなさいッ!!」

 

 いよいよ私の攻撃が到達する、その瞬間。突然耳を穿つ声に、まるで首へ縄を掛けられ思い切り引っ張られたかのように、私の意識が男から外されてしまった。

 

 意識を逸らされた事でバランスを崩し、男に食いかかるどころかそのまま衝突してしまう。生身の弾力で跳ね返された私は落ち葉を巻き上げながら地面を転がったが、すぐさま体勢を立て直した。

 

 声の方向へ首を向け、発生源を確認する。

 私を引き留めたのは、先ほどまで酒気に当てられていた文さんの声だった。

 その場で心折れていた同志達や、紅髪と激闘を繰り広げていた者達が――果てには男と紅髪の意識までもが、文さん一点に集中していく。

 

 彼女は表情を青く染め上げたまま、必死に言葉を絞り出す。

 

「椛。そこの彼は、山へ押し入った敵ではありません。立派な客人なのです」

「…………どういう、事ですか?」

 

 言葉の意味を汲むことが、出来なかった。

 客人? 何を言っている。私たちはそんな伝令を受け取った覚えはない。

 

 天狗組織はズボラな態度を嫌悪する。山へ正式に招かれる客人……ましてやそれが高位の妖怪であれば、持て成しの準備や我々への伝令も含めて入念な準備が施されるのだ。

 

 友達との約束じゃあるまいし、今朝約束して夜迎えるなどと言った杜撰(ずさん)極まりない行為など有り得ない。三日前に突如決まった祭りでさえも相当なイレギュラーなのだ。今でさえ、何の記念で祭りが行われているのかすら分かっていないと言うのに。

 

「お言葉ですが、その発言は信用できません。大天狗様や天魔様が、我々に一報も知らせずこの様な者共を招くわけが無い。知らせなければこうして我々に排斥される結末が待っている事など、子供でも予測出来るものでしょう」

「それは、我々の上層部が、招いた客人では、無いからですよ」

「……では仮にそうだとして、一体誰が?」

「…………」

 

 文さんが梅干しでも口に放り込んだかのように口籠ってしまう。何なのだ。一体彼女は、さっきから何を案じていると言うのか。

 

 血生臭かった雰囲気が、文さんの奇怪な言動に別の色を帯び始めていく。互いの覇気は薄れ、我々の置かれている状況は一体どういうことなのか、各々が疑問を浮かべ始めた。

 そんな時。ゆらりと動く、影が一つ。

 

 

『私だよ』

 

 否。それは影ではなく、まるで意思を持つ霧であった。言葉を発し、明らかな自由意識を持って行動する霧であった。

 

 霧の塊は文さんの体から噴き出る様に現れたかと思えば、まるでバラバラだった水蒸気が一ヵ所に凝縮されていくように姿を成していく。

 そして、遂に彼女は姿を現した。

 

 背丈は童女。薄茶の髪は腰より長く、先で荒々しく纏められている。腰や腕からは奇妙な形の分銅が接続された大仰な鎖が三本釣り下げられ、まるで拘束を引き千切って脱出した少女の様な印象を与えた。

 しかしそれよりも存在を主張しているのは、彼女の側頭にある、頭部と不釣り合いな長さの捻子くれた二本角だ。

 

 ……待て。この容姿には見覚えが……いや、聞き覚えと言うか、何かデジャブに似たものを感じるぞ。

 例え太刀を用いても切断する事は叶わなく思える猛々しい角。濃密な妖気の気配。大天狗様相手でも物怖じしない文さんの、縮こまり切ったこの態度。

 

 まさか、まさかではあるが。

 彼女は、かつて山の頂に君臨していた本物の鬼なのではないか?

 

 角の少女が何たるかを察知したその瞬間。男の禍々しいものとはまた種類の違う緊張感が私を包み込み、一気に毛を逆立てさせた。

 その昔、山を圧倒的な力を持って統率し、今の支配階級の基礎を築き上げた種族、鬼。だが大昔に……それも私がまだ私が小さかった頃に山を去った筈だが、何故鬼がこの山へ……!?

 

「そいつは、私の客人さ。私が山へ呼んだんだ」

 

 酒気を匂わせる口調から、相当酔っぱらっている事が伺える。彼女の手元には札の様なものが張り付けられた瓢箪があった。

 尋常では無く強い酒なのか、それとも私の鼻が良すぎるせいなのか。瓢箪から漂うアルコール独特の臭いは、離れた私の鼻を容易く突いた。一歩後ろに立つ文さんは、青い顔をして口元を覆っている。

 

 顔を朱に染め、だらしない笑みを浮かべる童女は、フラフラと前進を始めた。

 

「ちょっとした手違いで随分場が乱れたけど、持て成しご苦労! 白狼天狗の諸君。お前達の奮闘は、見守っていて心の底から清々しいものだったよ。ああ、特にお前が良かった。最後の最後に死力を振り絞って、よくぞ立ち上がったな! その勇気と根性を讃えて、後で何かプレゼントを上げよう。健闘賞って奴さね。にゃはは」

 

 謎の小鬼の登場によって、その場にどよめきが巻き起こる。それもそうだ。今は過去の存在となった鬼が山へ足を下ろしていて、あまつさえ先ほどまで血で血を洗う様な戦いを繰り広げた相手が、彼女の客だと言うのだ。混乱しない筈がない。

 

「さておきだ。妖怪の山へようこそ、吸血鬼とその付き人さん。私の手紙を怪しまず真摯に受け止めてくれた様で嬉しいよ」

 

 彼女は男の傍に近寄ると、腕を強引に掴み取って振り回さんばかりに握手を交わす。だが男は予期せぬ事態に遭遇していながら、不気味なほどに平静だった。

 

「こちらこそ、招いて頂いて光栄だ。私はナハト。君の名は?」

「私かい? 私は萃香。伊吹萃香だよ」

 

 ――――伊吹、萃香?

 今、彼女は伊吹萃香と名乗ったのか?

 

 その名はかつて、山の頂に君臨していた絶対王者の名だ。

 鬼の中でも更に秀でた力を持つ四人の怪物、『山の四天王』のリーダー格に収まっていた、名実ともに最強の鬼。その名に連なる伝説は数知れず、彼女が山より姿を消した今でも、お伽噺として若い妖怪の間に語り継がれている程の存在である。

 

 冷や汗が、決壊した川の鉄砲水の様に飛び出した。心臓が跳ね、歯がカチカチと楽曲を奏でる。男から感じる莫大な不安感と、最強最悪と謳われた鬼への畏怖のせいで、立ち上がったばかりの心柱が再び粉砕されそうになった。

 

 その可愛らしい細腕で山を砕く小鬼は笑う。さも愉快そうに。そしてこれから何かとびきりの楽しみが控えている時の子供の様に。

 

「よろしくね、丑三つ時の鬼さんよう」

 


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