【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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※演出のために、幻想郷縁起風の紹介が挿し込まれています。ご了承下さい。


EX5「幻想のサヴァンと邪悪な吸血鬼」

 事の発端は四年前。ナハトが妖怪の山の祭りへ赴いた十五夜にまで遡る。

 レミィやフランと共に満月のお茶会を楽しんでいた夜の事だった。ナハトのお目付け役として同行していた美鈴が、突如現れたスキマから飛び出して来たかと思えば、普段の穏やかな彼女からは考えられない取り乱し様で、ナハトに何が起こったのかを説明したのが始まりだ。

 彼女曰く、終わらない花見の異変で私はおろかあのレミィにまで苦戦を強いらせた小鬼と一戦交えたらしいナハトは、戦闘そのものは実質勝利を勝ち取ったものの、その後肉体が原因不明の崩壊を起こし、緊急を要する容態になっているとの事だった。

 その話を耳にしたフランは元より、レミィまでもが美鈴に詰め寄ったが、直後に現れたスキマ妖怪によって沈静化させられる。

 

『レミリア・スカーレット。代表として、まず貴女に真相をお話します。その内容を他の者へ語るかどうかは、貴女の裁量で判断なさい』

 

 その言葉と共にレミィがスキマへ消えて四半刻(30分)。解放された彼女は、意外な事に平素と変わらない穏やかな表情で顔を出し、軽々とした口調でこう言った。

 

『おじ様はどうやら、萃香との戦いで魔力を使い過ぎて調子を崩しただけらしいわ。だから心配は要らないみたいよ。ったく、あのスキマ妖怪め迫真の演技まで付けてくれちゃって。冗談にしても質が悪いわ。美鈴、お前も焦り過ぎ。変な心配しちゃったじゃない』

 

 おじ様は疲れてるらしいから、体力回復の為に長く眠るらしいわ。だから美鈴、就寝用の棺桶を用意なさい――――あの時レミィはそう言い切って、部屋を飄々と後にしてしまった。

 四年経った今でもはっきり覚えている。胸の内で今にも飛び出そうと暴れ狂う心を必死に押し殺して、愛しい妹に余計な心配を掛けさせまいと気丈に振る舞う、我が親友の小さくて大きな背中を。

 レミィの名演技の甲斐あってか、どうやらフランはそれで納得してくれたらしかった。だからその時は、一先ず一件落着に至った……のだが。

 当然、直ぐに私と美鈴は自室へ引き籠ったレミィの元に話を着けに向かった。

 嘘だなんて分かり切っていたし、まだ精神が成長しきっていないフランの為の配慮だと言う事も容易に察せた。察せたからこそ、私は彼女の後を追わずにはいられなかったのだ。

 

 解散のタイミングを見計らい、美鈴と共に彼女の部屋へ転送魔法で入り込めば、豪勢な寝台の上に置かれた黒棺に腰かけ、憂いの目を浮かべる吸血鬼が居て。

 

『パチェ……っ』

 

 私と目を合わせた瞬間、今にも壊れてしまいそうな儚さを、彼女は静かに浮かべて言った。

 

『わ、私はっ、どうすれば良いのかなぁっ……』

 

 スカーレット卿に仕組まれた悲劇によって一族全てを失いながらも、四百年の長きに渡りこの館を治めて来た偉大な当主が、私に向かって初めて零した少女の弱音。

 それが、如何に事が深刻であるかを切実に物語っていた。

 

 彼女はポツリポツリと、振り絞る様に言葉を吐いた。当主としてではなく、一人のヴァンパイアとしてのレミィがそこに居た。

 消滅の概念と言う、途方もないナハトのルーツ。

 向けられる親愛を毒に、恐怖を糧に変えて吸収する異常な性質。

 幻想郷の結界に隔てられたことによる恐怖の供給遮断。その二次被害として生じた、加速的な存在の崩壊。

 そして彼の命を最も蝕んでいるモノの正体が、他ならない我々の存在だと言う事。

 

 ……強烈な葛藤に遭っているのだと、直ぐに感じ取った。

 彼女は元々、ナハトを心の底から嫌っていたらしい。父と母を亡くし、肉親は妹だけとなった幼い身に紅魔館を背負わされる運命を押し付けられて、そこを狙ったかのようなタイミングで殆ど素性の知らない強大な吸血鬼が近づいて来たのだ。警戒するのも無理はなかっただろう。

 しかしその嫌悪感は、百年近い年月の果てにナハトの行動の真実を見出した事で解消されたのだ。けれど彼は館から姿を消し、舞い戻るまでの四百年間一度も顔を合わせる事は無かった。故にもうどこかで息絶えたと思い込み、記憶の底へ封印していたと言う。事実、レミィは義父の存在を、ナハトが戻るまで一度たりとも私に話したことは無かったのだから。

 

 だがナハトが予想を外して現代に復活した事で、今まで封じ込めていた感情とフランの抱える闇へ向き合わざるを得なくなった。

 その結果、レミィは彼に対する感情を未だ定め切れずにいたのだと言う。

 尊敬はある。感謝の念もある。フランを救ってくれた恩義も感じている。しかしまた同時に、彼女は理不尽と自覚しながらも、何故ナハトが自分たちを長く放置しておいたのか、その点に憤りを感じずにはいられなかったのだ。

 

 敬意と嫌悪。憤慨と感謝。過去と現在の感情が入り乱れ、喉に魚の骨が引っ掛かったような不快感を抱える日々。そんな中へ投げ込まれたナハトの厄介すぎる性質と生命問題は、鎮火しかけていた火種へ油を注ぐ結果となってしまったのである。

 レミィは彼に対して、先祖に対するものと似た畏敬を強く抱いている。だからこそ、彼女は感謝と共に生まれてしまった負の感情から、そろそろ決別を果たすべきだと腹を括っていた。そこに来てこれだ。負の感情を捨てて心から向き合おうとした矢先に、正の感情を向ければ瀕死のナハトの命へ更に刃を突き立てる結果になると来た。

 レミィの持つ仁義と誇り、そして敬愛へ現実とのギャップが生じ、矛盾と言う名の妖怪の天敵が、心の内に生み出されてしまったのである。

 かつて蛇蝎の如く嫌っていた異形の吸血鬼が、実は裏で百年もの間姉妹を守り続け、そして現代になってなお最愛の妹を救い出した。そんな義父を再び嫌わなければ、いずれ命を食い破ってしまうかもしれないと言う恐怖が、レミィの精神に木の杭を叩き込んだのだ。

 

 あれから早くも四年の月日が流れていった。そろそろフランにも、ナハトは力の強い吸血鬼だから長く眠らなければならないと言う誤魔化しも通用しなくなってきた所である。日々葛藤を続けているレミィも、表では気丈に振る舞ってはいるが限界が近いかもしれない。

 そう思っていた矢先に、ナハトが目を覚ました。前触れも無く、平素となんら変わらない様子で棺桶から身を起こした彼は、四年前に重体へ陥っていた者とはとても思えない健康体で。

 彼の復活がレミィやフランの不安を少しでも取り除いてくれるだろうと嬉しく思う半面、記憶の底から浮かび上がった厄介すぎる彼の性質が、私にまで悶々とした歯痒さを齎した。

 

 正直なところ、彼とどう接すればいいのか分からないと言うのが率直な感想だ。レミィは敢えて多くを語らなかったし、私も訊くことが出来なかった。故に、ナハトとの正確な距離を上手く測れずにいる。

 だがまぁ、それはレミィも同じことだろう。むしろ彼女の方が数倍複雑な筈だ。それは態度へ如実に表れている。彼女は、以前よりもナハトに対して余所余所しくなってしまった。

 レミィの葛藤が解けるまでに、まだしばらく時間がかかりそうである。親友としてどうにか支えてあげたい所なのだけれど……。

 

「……ん?」

 

 どうにも気分が晴れなくて館を散策していたら、ナハトの自室から声が聞こえて来た。フランの声だ。事実を耳にしていないあの子は、レミィと違って何の気兼ねも無く接している。ボードゲームの特訓でもしているのかもしれない。

 少し様子が気になって、ドアをノックしてみた。

 

「入ってもいいかしら」

 

 ……返事は無い。

 と言うより、聞こえていない様子だ。中から声はするのにこちらへ反応が無いのだ。普通なら、ドタドタと足音を立ててフランが開けてくる筈なのだが。

 取り合えずノックはしたので、ドアを開けて中を伺ってみる。

 

 

 紙の台風が巻き起こっていた。

 

 

「……は?」

 

 比喩では無く、本当に紙の台風である。何百もの紙面が意思を持つかのように宙を浮かび、台風の目に居座るナハトの周囲をくるくると旋回しているのだ。

 恐らくこの現象を引き起こしているだろうナハトの全身にはいたる箇所に目が生み出されており、全方位から周囲を漂う紙面へと目を通していた。

 

「……何をやってるのよ貴方は」

「ん? パチュリーか」

「こんばんはパチュリー。お散歩?」

 

 いや、パチュリーかじゃなくて。こんばんはでもなくて。

 

「……ああ、これか」

 

 多分、それだ。

 

「私が眠っている間に、友人からの手紙が山の様に溜まっていてね。流石に全てへ返事を書く事は出来ないが、誠意に応えて目を通しておこうと思ったのだよ。フランには『文々。新聞』を捲って貰って、この四年で幻想郷に起こった出来事を把握するための手伝いをして貰っている所だ」

 

 余程私の表情が困惑に満ち溢れていたのか、ナハトは私の疑問を察して懇切丁寧にそう答えた。フランが『お手伝いー』と屈託のない笑顔を浮かべつつ合の手を入れる。

 なんというか、やはり彼は常識で推し量りがたい存在だ。どこの世界にこんな、目と手が足りないから目を生やしつつ魔法を駆使して一気に情報を吸い取ろうと考える者が居ると言うのか。

 元より、彼の性質が分かったところで彼の思考や真意などは欠片も理解することは出来ないのだ。理解しようとしても無理な話だろう。

 

「四年間で起こった幻想郷の情報、ねぇ」

 

 思考の視点を切り替える。

 あの鴉天狗が書く新聞は、別に捏造された情報が書かれている訳ではないのだが、いかんせん情報媒体として力不足気味だ。正確な情報を得るには、他の情報媒体を絡めた方がより精度を増すだろう。同じ分野で他の著者が書いた本を読み漁るようなものである。その方が良い知識を得られる事は間違いない。少なくとも、誰よりも多くの書物を漁って魔導を体得した私はそう思っている。

 何か、良い情報の供給源となるものが地下の図書館に無かっただろうか。図書館の現管理人として、良い情報媒体の一つや二つ提供できなければ沽券にかかわる。

 

 しばし記憶を探り、そして一つの書を思い出す。

 そう言えば確か、大分前に咲夜が人里で配布されていた本を持ち帰っていた様な気がする。幻想郷縁起と言う、主に幻想郷の妖怪に対する対抗策や考察等が書かれた書物の最新版だ。なんでも人里の人間たちに、著者とその側近がやたら忙しく配っていたものを序でに受け取ったらしい。

 それを興味本位で流し読みしたレミィが、紅魔館の住人は元よりナハトについての記述が書いてあると言っていた記憶がある。私は自分の載っている記事を目にするのが気恥ずかしくてまだ読めずにいるが、レミィの言う通りならば、ナハトに対する人間の考察から新たに情報を得る事が可能なのではないだろうか。それに、咲夜曰く縁起は幻想郷のガイドブックであるそうだから、異変や事件について記されている可能性もある。提供する品として悪くないのではなかろうか。

 それに序でだ。この機会に私も読んでしまおう。効率的に一石二鳥である。

 

 私は転送魔法を発動し、地下の図書館から幻想郷縁起を手元に呼び出した。

 

「ナハト、情報が欲しいならこれを読んでみて。何か知れるものがあるかもしれない」

「ほう」

 

 彼はすぐさま興味を示し、こちらへと視線を幾つか向けた。

 ……黒魔術の演習でグロテスクなものは見慣れているつもりだったけど、相変わらず喉が引き攣りそうになる瘴気に加えてそんな異形の姿を見せられたら気味が悪いわ。

 

「取り敢えず普通に座って、落ち着いて読んだらどう? 焦っていたら頭に入るものも入らないわよ」

「焦っているわけではないのだが……ふむ、一理ある。少し休憩と行こうか」

 

 舞っていた手紙が次々と便箋へ帰宅を始め、無数の眼球が瞼を閉じて姿を消した。これで漸く落ち着いてナハトを視野に入れられる。それでも、四年と言うブランクが生まれたせいか鳥肌が止まらないのだけれど。

 縁起を手渡し、受け取った彼が椅子へ腰かけると、私とフランは後ろからそっと書物を覗き込む。

 

「……どうした?」

「私、この本をまだ読んでないの。序でに読ませて」

「私も私も。お姉様が愉快そうに笑ってたから気になってたのよね」

 

 そうか、と呟いた彼は指を弾き、二つの椅子を部屋の隅から呼び出した。どうやらこの部屋はもうナハトの支配下に置かれてしまっている様である。

 椅子に座り直し、改めて本を見た。

 

「では、早速拝読と行こうか」

 

 

 ――――遡ること四年前

 

 

「ねぇねぇ阿求」

「なに? 小鈴」

「この間のアレ、見た?」

「アレ? ……あー、あの光の事ね」

 

 いつものように、貸本屋の鈴奈庵で借りる本を探していた時の事だった。その店の番をしている友人、本居小鈴が、丸眼鏡の位置を正しながら徐に私へ問いを投げかけて来た。

 その問いを反芻しつつ、私は該当する情報を導き出していく。

 

 先日――正確には、第一十九季神無月の十五の晩――私は不可解な現象を目撃した。

 

 きっかけは丑の刻を過ぎた真夜中の事だった。当時夜の里が嫌に騒がしく、ついつい気になって寝床から抜け出したのが始まりだ。

 外へと出て見れば案の定、喧騒に見合う人だかりが出来上がっていた。皆口々に何かを相談し合い、そして視線をある一ヵ所へと集中させていたのである。

 住人たちの目を釘付けにしていたのは、遠くに鬱蒼と佇む不可侵の土地、妖怪の山と呼ばれる場所だった。

 その山の頂が、山とかなり距離のあるこの人里からでもはっきりと視認できるほどの、強烈なフラッシュを何度も瞬かせていたのである。

 

「アレがどうかしたの?」

「いやね。阿求はあの光の事をどう思ってるのかなぁって気になって」

「どう、ねぇ」

 

 再び、あの時の光景を鮮明に思い浮かべていく。

 

 虹色に輝く雨の様な煌めき。山火事を彷彿させる灼熱の赤。竜の昇天かと見紛う光の上昇。そして、落雷に匹敵する白の閃光。

 一度見聞きした情報を絶対に忘れない私でも、ここ最近の出来事の中で一際強く脳細胞に焼き付けられた光景だった。

 しかし不思議な事に、あの現象は莫大な光こそ伴えども、付随するはずの音波は欠片も耳を揺さぶってこなかった。仮にあの光がスペルカードルールにのっとった決闘によるものならば、少なくとも花火に似た炸裂音は聞こえてくる筈なのにだ。それも山の噴火かと勘違いしてしまう規模のものなら、尚の事である。

 この不可解な現象から……と言うより妖怪の山が発生源という所から、語るまでも無く妖怪の仕業なのは容易に察する事が出来るだろう。

 ただ、私の記憶では今まであんな出来事が起こった覚えは無い。非常に珍しく、またそれ故に不吉の前触れかと思わされる様な出来事だった。

 

「そう言われても、妖怪の仕業としか解釈のしようがないわね。犯人を特定できれば縁起の編集に役立つ情報になるけど、流石に妖怪の山へ取材なんて行けないし、気にしない事にしているわ」

「その事なんだけど……私、犯人の目星が着いたかもしれないの」

「え?」

 

 予想外の小鈴の言葉に、私は思わず数秒硬直してしまった。

 

「それって、どういう意味?」

「……あのさ、先月慧音先生が倒れた事件があったじゃない?」

 

 どこかおどろおどろしい表情を浮かべつつ、小鈴は意図的に質問を質問で返してみせた。応じて、私は再び記憶を掘り返す作業を始める。

 先月、夜が中々明けない異変――後に永夜異変と名付けられた怪現象が巻き起こった。

当時、迷いの竹林に住む藤原妹紅と言う名の謎多き少女が友人である慧音さんに告げた『近いうちに妖怪が里を攻めてくるかもしれない』と言う警告から、三日ほど里に夜間外出禁止令が発令されたのは記憶に新しい。あの時は確か、慧音さんと藤原妹紅が里の守護に当たっていたんだっけ。

 ……そう、当たっていたのだけれど、不幸な事に事件が起こってしまった。それが、慧音さんの意識喪失である。

 意識を失った原因は、正体不明の妖怪に遭遇、そして戦闘の末、濃い邪気に当てられせいと言う噂だ。

 幸い同伴していた藤原妹紅は不死者故に難を逃れたようだが、瘴気を放った妖怪を同定する為にインタビューをしても、彼女は事の顛末を多くは語ってくれなかった。故に、未だ妖怪の正体を掴めずにいるのだが。

 

「もしかして、その妖怪の正体が分かったとでも?」

「違う違う、正体を掴めたとかそんなんじゃないわ。ただ、変わった人からちょっと気になる話を聞いて」

「変わった人……?」 

「うん。金色の髪で紫の着物が似合う凄い美人と、二股に分かれた不思議な帽子の美人さんが井戸端会議をしてて、それを小耳に挟んだのよ。なんでも、あの光は山の妖怪と吸血鬼が争ったものだとかなんとか」

「吸血鬼……レミリア・スカーレットかしら」

「それが、そうじゃないらしいのよ」

 

 吸血鬼と言うワードから紅魔館に住む二人の吸血鬼を思い浮かべていたところ、小鈴の言葉によってその思考は切断されてしまった。

 

「幻想郷に混乱をもたらした吸血鬼異変。あれって確か、レミリア・スカーレットが首謀者として動いていたって話よね」

「そうね。少なくとも私はそう考えてるわ」

「実はそれが間違いで、本当は黒幕が裏に居たらしいの」

 

 すっと、小鈴は一息深く吸いこんで、

 

「噂ではその黒幕こそが、ナハトと言う名の吸血鬼。永夜異変を起こした犯人であり、慧音先生を襲った怪物であり、山の妖怪と争った大妖怪であり、吸血鬼異変の真の首謀者なんだって」

 

 

 小鈴が井戸端会議で耳にしたと言う吸血鬼ナハト。噂すら全く耳にした事も無い妖怪だった。

 幻想郷には未だ存在を確認されていない妖怪が意外と多く存在する。妖怪とは少し違うが、幻想郷の最高神である龍神様がその例の一つだ。だから、私の知らない吸血鬼が幻想郷に居たとしてもなんら不思議ではない。

 問題なのは、何故それを里の者が知っていたのかと言う事だ。

 私は恐らく、話をしていたと言う二人組は妖怪なのではないかと推測している。恐ろしい話だが、人間の里にはしばしば妖怪が紛れ込んでいる事例があるのだ。先の光が本当に山の妖怪と吸血鬼が争ったものならば、力の弱い妖が難を逃れる為に人里へ紛れ込んだとしても不思議ではないだろう。

 ともかく、小鈴の話がただの眉唾物では無い可能性が出て来たわけだ。であれば私も私なりに調査をして、事の真偽をこの目と耳で確かめなければならない。未だ整理されていない永夜異変のデータを確立させる事も出来るし、吸血鬼異変の真相にも迫れる。更には芋づる式に、慧音さんを襲った妖怪の正体も解る事だろう。それになにより、話を聞く限り吸血鬼ナハトは相当凶悪な妖怪の可能性もある。なにせ吸血鬼異変の裏を操っていたと言うのだ。誇り高く傲慢で有名なレミリア・スカーレットが、実は吸血鬼ナハトの傀儡である可能性だって浮上してしまう。そうであれば、かなりの大問題である。

 

 だからまず私は、事の真実を見極めるために聞き込みを行う事にした。

 初めのターゲットは藤原妹紅だ。気絶した慧音さんの近くに居合わせた彼女なら、有益な情報を知っていること間違いなしである。

 けれど私は普段竹林付近に居る彼女の元へ行く術を持ち合わせていないうえに、そもそも彼女の所在地を知らないので、

 

「――こうして剣聖大和は暗黒四天王を見事打ち倒し、諸悪の根源である大魔王との壮絶な戦いへと身を投じるのでした。はい、今日はここでおしまーい!」

「えぇーっ!」

「良いところなのに!」

「やまとはっ? そのあとやまとはどうなったのっ?」

「ふっふっふ、行く末が気になるかいチビッ子ども。でも話が一気に終わってしまってはつまらないでしょう? だから今度私が里に来るまで、良い子にして待ってなさいな。次は感動の決着編よー」

「気になるー!!」

 

 藤原妹紅と接点があるらしく、そして最近よく人里へ姿を見せる様になった蓬莱山輝夜へコンタクトを取り、藤原妹紅の居場所を聞き出す事にした。

 

「こんにちは、蓬莱山輝夜さん」

「あら、貴女は?」

 

 続き続き―! と子供たちから物語の催促を受けつつも笑顔で窘めながら、彼女はこちらへと振り向いた。

 

「稗田阿求と言います。妖怪の学者を務めている者です」

「へぇー、学者さんなの。でもそんな学者さんが私に何の用?」

「藤原妹紅さんの居場所を教えて頂きたくて」

「へっ、妹紅の?」

 

 私がその名を口にしたことが意外だったのか、ぱちぱちと彼女は瞬きをして、

 

「それまた何故」

「妖怪についての調査です。藤原妹紅さんがある妖怪の情報を握っている可能性があるので、インタビューをしたいなと」

「そうなの。うーん残念だけど、あの不死身の焼き鳥ウーマンは神出鬼没だから、今どこにいるかまでは流石に分からないわねぇ」

「誰が不死身の焼き鳥ウーマンよ、ミレニアム男たらしが」

 

 噂をすれば、とは正にこの事だろうか。蓬莱山輝夜の背後から、棘を含んだ女性の声が聞こえて来た。

 案の定、その声の主は藤原妹紅だった。日光を反射させる白い長髪を靡かせながら、鋭い目つきで蓬莱山輝夜を後ろから睨み付けている。噂通り、どうやらあまり仲がよろしくないらしい。

 

「あら、もこたん。奇遇ね。独り寂しくお散歩かしら?」

「もこたん言うなバ輝夜。依頼された竹炭の納品に来てたのよ。てか、そう言うアンタこそ独りぼっちじゃない」

「ぶぶー、私はイナバと一緒に子供たちへお話を聞かせに来てるんですー。だからもこたんと違って独りじゃありませんー」

 

 ビキッ。

 藤原妹紅の芸術作品の様に整った顔貌へ、怒りの皺が刻まれた。

 

「もこたん言うなって言ってるでしょうがこの貧乳! 三秒前の話も忘れちゃうような安っぽい脳ミソしてるからそんな貧しい体なのかしらね!?」

 

 ブチッ。

 なよ竹のかぐや姫を彷彿させる蓬莱山輝夜の麗しい顔立ちに、青い血管が走り抜けた。

 

「どぅァあれが貧乳だとコラァァ――ッ!! そもそもアンタと私はそんな変わんないでしょうがァーッ!!」

「ハンッ。とうとう目まで節穴になってしまったのね。どう見たって私とアンタじゃ歴然とした差があるっつーの!」

「節穴はお前だこの切り干し大根め! その燃え尽きた脳細胞に現実を思い知らせてやるわ!!」

「上等よ受けて立ってやるわこの酢昆布女!!」

「お、お二方、里で喧嘩は不味いですってえっ!」

「うっさい乳兎!」

「邪魔するなら捥ぐわよ!!」

「ぴぃっ!?」

 

 仲が良いのか悪いのかはともかく、藤原妹紅が出現した途端、まるで雪だるまのように事態が膨らんでしまい、遂には取っ組み合いの喧嘩にまで発展してしまった。今までちょこんと隅に居たので目立たなかったが、唐傘頭巾を被った蓬莱山輝夜の付き人らしい人物が仲裁に入るも二人の凄まじい剣幕に当てられあえなく撃沈してしまう。

 遂には子供たちの『ひめさまがんばれーっ』や『もこたんまけるなーっ』などの声援が加わり、不死人同士の喧嘩は増々ヒートアップ。とても取材が出来る雰囲気ではなくなった。

 

 しかし案外簡単に、二人の熾烈な戦いは幕を下ろす事と成る。

 喧嘩の間に現れたのは、腰程まで伸びる青のメッシュが入った銀の髪。

 髪の持ち主の胸元に咲く赤いリボンが、ふわりと揺れて。

 

「里の中で」

 

 ぐわしっ、と猫の様な決闘を繰り広げている二人の頭を容易く掴み取ったかと思えば。

 

「喧嘩をするなと言ってるだろうが、この馬鹿者どもッ!!」

 

 鐘の様に鈍い轟音が、里一帯へ轟いた。

 猛烈な頭突きで額を射抜かれた二人は、語るまでも無く一撃KOに終わり。

 崩れ落ちた二人の間に君臨する慧音さんが、なんだか目から光を放つ歴戦の猛者のように見えてしまった。

 

 

「私はあなた達二人の関係に口出しをしようとしている訳ではありません。その程度の理解力は持ち合わせているつもりです。でも人里で喧嘩はするなとあれ程言ってるでしょうが! もう今月で何度目になりますか! 目を合わせるたびに大暴れして、少しは節操のある態度を心がけて頂きたい!」

「はい……ごめんなさい……」

「誠に申し訳ありません……」

 

 服や髪が土埃で汚れるだとか、そんな事はお構いなしに公衆の真っただ中で正座をさせられる蓬莱人と、二人を叱りつける上白沢慧音。

 一体全体どうしてこうなってしまったのか。私は取材をしたかっただけなのに。

 そう、取材。取材である。よくよく考えてみれば、永夜異変で吸血鬼ナハトに襲撃されたと想定される慧音さんと藤原妹紅が今、目の前に揃っているのだ。これは千載一遇のチャンスではないだろうか。

 しかしこのままだと慧音さんが二人を連行してしまいそうなので、私は仲裁を買って出る事にした。

 

「まぁまぁ慧音さん。今日の所はその辺にしてあげましょう。もとはと言えば私が火種を作ってしまった様なものなのですから、二人に代わって私が謝罪しますので、どうか穏便に」

「むう……。しかし阿求殿、この二人のいざこざは今に始まった事じゃあなくてだな」

「喧嘩するほど仲が良いと言いますし、誰も巻き込まれて怪我をしていませんから、今回は大目に見ましょう? ね?」

「待って、勘違いしてるみたいだけどこいつはただの腐れ縁であって友達だとかそんなんじゃあ」

「ちょっと黙れ」

「いえすまむ」

 

 猛獣の様な目をした慧音さんに睨まれ、背筋をピンと伸ばして石像化する藤原妹紅。この二人は普通に仲が良いらしい。多分蓬莱山輝夜と藤原妹紅も仲が良いとは思うのだけれど。

 っと、いけないまた話が脱線してしまった。

 

「ところで藤原妹紅さん」

「妹紅で良いわ。私も阿求って呼ぶから」

「―――妹紅さん。少し質問をさせて頂いても?」

「ああ、良いわよ。何が聞きたいの?」

「ナハトと言う名の吸血鬼に、覚えはありませんか?」

 

 

 空気が凍った。

 そう形容せざるを得ない程に、その場の雰囲気が凍結してしまった。

 妹紅さんだけじゃない。慧音さんも、蓬莱山輝夜も、先ほどまでの喧騒が嘘の様に無表情と化してしまったのだ。

 重々しい緊張が支配する中、封を切ったのは妹紅さんだった。

 

「その名前、どこで聞いたの?」

 

 ビリビリと、得体の知れない緊迫感が私を支配する。それは彼女が吸血鬼ナハトの情報を認知しており、更に架空のヴァンパイアがこの世の存在であると言う証拠を確立させていた。

 禁忌の類なのだろうか。この先に踏み入るのが、三人の尋常ではない雰囲気と相まって怖くなる。

 けれどここで退く訳にはいかない。私の使命は幻想郷縁起をより良い物へ昇華し、綴り続ける事なのだ。

 女は度胸。掴んだ機会は引き寄せる!

 

「風の噂で耳にしたんです。何でも永夜の異変と深く関わり、先の山での異常事態にも一枚噛んでいた妖怪だと」

「……敢えて聞くけど、知ってどうするの?」

「幻想郷縁起に記載します」

 

 一息、間を空けて。

 

「阿礼乙女である私の務めは、妖怪の実態や対策法を記録し人々の安全を確保する手伝いをする事です。話を聞く限り、吸血鬼ナハトは他の妖怪と比較しても恐ろしく危険度が高い妖怪であると想定しています。その存在が眉唾ではない以上、私は記録として残さなければなりません」

「……そうよね。それが貴女の仕事だもんね」

 

 はぁ、と妹紅さんは諦めたように息を吐き、真剣な光をその炎の様な瞳へ宿した。

 

「いいわ、奴について話してあげる。でも期待しないで。アイツは異様に謎の多い妖怪なの。だから私達の話を聞いても、完全な真実へ辿り着くことは出来ないかもしれないわ」

 

 

「ふう、こんな所かしら」

 

 蝋燭の火が闇夜を仄かに照らし出す中、私は書き上げた縁起の最新版を眺めつつ、緊張の解された息を吐いた。

 

「しかし、本当にこんな吸血鬼が存在するのかしら?」

 

 私はあの後、ナハトを知っていたらしい三人からそれぞれ話を伺った。だが不思議な事に、三人が話す内容はどれもこれも食い違いが起こっていたのだ。

 彼女たちが語るに、ナハトは妖怪の中でも飛び抜けて力の強い妖怪らしい。常に禍々しい瘴気を纏っていて、気の弱い者であれば視認するだけで失神してしまうと言う。事実、噂通り慧音さんは瘴気に当てられて気を失ってしまったらしく、遭遇した前後の記憶が曖昧になってしまったのだそうだ。

 これだけでは非常に危険で凶暴な妖怪だと判断せざるを得なかったのだが、蓬莱山輝夜の弁によると、ナハトは異常な雰囲気と反して非常に紳士的な妖怪だと私に言った。これは吸血鬼の種族自体に当て嵌る事項だ。吸血鬼は異変時を除けば穏やかかつ紳士的な妖怪であり、怒りを買わなければ危害を加えてくる事は無い。

 反して、妹紅さんの意見は異なった。確かにナハトは一見物腰穏やかではあるが、危険極まりない妖怪だと言うのだ。

 理由は、ナハトが有無を言わせない精神掌握能力を保有しているからとの事。

 曰く、ナハトは永夜異変の前日に数多の妖怪を率いて夜を闊歩していたらしい。それを目撃したが為に、慧音さんへ『妖怪が攻めてくるかもしれない』と忠告するきっかけとなったとそうなのだ。

 ここで反発が起こった。蓬莱山輝夜はナハトが危険な妖怪では無いと異議を申し立てたのだ。それからは例によって再び泥沼状態へと陥り、慧音さんの頭突きで沈静化され、強制お開きとなってしまったのである。

 

 結局、ナハトと言う妖怪の素性を知る事は出来なかった。だから一先ずはそう言う吸血鬼が存在すると項目を立て、今後追記を加えていく方針を執る事にしたのだった。

 

「ふあ……いけない。もう結構な時間になってる。寝ないと……」

 

 片づけを済ませ、私はいそいそと寝床へ向かう。自室の襖を開き、そして――――

 

「はぁい、阿礼乙女さん。こんばんは」

 

 ――――私の寝床に座り込み、柔和な笑顔を向けてくる侵入者と目が合った。

 しかも、その侵入者と言うのが。

 妖怪の賢者に名を連ね、数多の逸話を幻想郷に残した境界の大妖怪、八雲紫だったのである。

 

「―――――っ!?」

「慌てないで。大丈夫、あなたを食べに来たわけでも攫いに来たわけではありませんわ」

 

 声を上げる直前に、いつの間にか眼前へ移動していた八雲紫の扇子が、私の口を塞いでしまった。

 この世のものとは思えない眉目秀麗な顔貌が暗闇に映え、それが言いようの無い不気味さを私の心へ植え付けていく。

 

「落ち着いた?」

「…………、」

 

 冷静に状況を判断。どうやら本当に危害を加えようとしている訳では無い様だ。証拠は私が今も無事な事だろう。

 彼女の能力は境界操作。即ち論理的な創造と破壊の力である。彼女がこのタイミングで姿を現したのは、十中八九私がナハトの情報を掴んだからだろう。これが不都合なのであればとっくに私の記憶を消去し、今日体験したこと全てを不自然の生じないレベルで改修する筈である。それが無く私と対面したと言う事は、彼女の目的は私との『対話』であると絞られるのだ。

 

 首肯を示し、私は無抵抗を貫く。

 

「結構」

 

 ふわりとした笑みを浮かべた彼女は、直ぐに私の元から離れていった。

 

「さて。聡明な貴女の事だから、この場に何故私が姿を現したのか、おおよその見当は着いているのではなくて?」

「……吸血鬼ナハト、についてでしょうか」

「ええ、その通りですわ」

 

 パチン、と彼女は扇を畳んで、懐へと仕舞い込む。同時に私は問いを投げかけた。

 

「もしや、小鈴に入れ知恵して私へ情報が流れるよう仕組んだのも貴女の仕業で?」

「ご名答。と言っても、ほんの少し彼女の境界を弄って私達の会話に耳を傾けやすくなるようにしただけですが」

「でも全部計算通りだったのでしょう?」

「全部ではありません。竹林の姫は少し想定外でした」

 

 まさかあそこまでナハトを擁護するとは、と彼女は繋げて、

 

「ともかく、私がここに来たのは貴女に真実をお伝えする為です。ナハトと言う吸血鬼の、本当の裏側をね」

 

 妖しく、彼女は指で空をなぞりながら笑みを浮かべた。

 

「……一つ、腑に落ちない事があります」

「あら、なにかしら?」

「何故、ここまで回りくどい真似をしたのかなと。私にナハトの存在を伝えたいのであれば、今の様に直接訪れた方が効率は良かったはずなのに」

「大事なのは認知する事では無く、疑問を抱く事なのです。ただ知るだけでは、心の機微は浅く終わる。貴女には今日抱いた『疑問』を下火に、危機感を抱いて貰わねばならないのですから」

 

 ……? 

 今のは、どういう意味なのだろう。知ることが重要なのではなく、知るために私が好奇心を働かせることが重要だと言いたいのだろうか。

 では、その意図はなんだ? 彼女の言う危機感とは一体……?

 

「ともかく、これを見なさい」

 

 彼女は遊ばせていた指を、徐に止める。同時に、私の目の前の空間へ砕けた硝子の様な亀裂が放射状に走った。

 境界を操作したのか――――八雲紫の行動を認識した、まさにその瞬間。

 

 息が、止まった。

 

 亀裂の間から漂う、得体の知れない黒い靄。この世のものとは思えない悍ましいナニカ。

 背筋を引き剥がされ、骨に冷水を注がれたかと錯覚した。まるで虫が皮膚の下を這い回っているかのような悪寒が全身を蝕む。無意識の内に歯がカチカチと無様な楽曲を奏で始めた。一刻も早く目を逸らしたいと願っているのに、釘付けにされた眼球は一向に亀裂から視線を逸らす気配を見せない。

 舌が引き攣る。嗚咽の様な音が喉から漏れ出す。湯浴みをしたばかりなのに全身は汗でぐしゃぐしゃになり、太腿からは暖かな感触が伝わってくる。

 

 怖い。怖い。怖い。

 ただその一言が私の脳髄で無数の繁殖を繰り返し、遂には一色に染め上げて――――

 

「大丈夫」

 

 ぴたりと、額へ柔らかな感触が訪れた。

 すると、不思議な事に、病床へ伏せた時に感じる母親の温かさの様な、得も言われぬ安心感が身を包んで。

 安堵がやってくると、まるで息を止める競争でもしていたかの様に肺へ空気が雪崩れ込んできて、思わず私は盛大に咳込んだ。

 

「大丈夫よ。今見た光景は貴女の記憶に焼き付かせない。焼き付けば貴女の心が壊れてしまうもの。安心して。そう、大丈夫よ。怖がらせてごめんなさいね」

 

 子供をあやすように彼女は私の背を撫で、慰める。妖怪の手なのに、どうしようもなく暖かかくて、侵された心が彩を取り戻し始めていく。

 八雲紫の言う通り、恐怖の記憶が他の記憶と比べて不確かなものとなっていた。境界操作によるものだろう。暫くは忘れられそうにないが、いつかは時間が解消してくれると言う安心感があった。

 

「でもこれで貴女の『疑問』は『確信』へと変わった。今の貴女の心には、揺るがない芯が作られたはずよ」

「い、今のは……っ!?」

「もう分かっているのでしょう? あれがナハトよ。貴女が今見て、感じたモノ。それこそがナハトの正体なのよ」

「っ」

「改めて教えてあげましょう。今貴女が垣間見た、ナハトと言う妖怪の真実を。あの吸血鬼の持つ、真の恐ろしさを」

 

 ……これは、早急な対策が必要となるかもしれない。

 今、私は『確信』した。ナハトは決して安全な妖怪などではないと。妹紅さんの言う通りだった。今私が見たあの『闇』は、決して人間に安息を齎す様な代物では無い。

 今までの妖怪とはわけが違う。こんな怪物が幻想郷に存在していて、しかも噂通り様々な事件に関与しているのならば、賢者に守護された人里であっても他人事ではなくなってくる。

 寝ている場合じゃない。眠気なんてとうに吹っ飛んだ。今すぐにでも縁起の編集に尽力しなければ。

 ……でも。

 

「そ、その前に……」

「?」

「……湯浴みを……させてください」

 

 

 

「ナハトは吸血鬼異変の裏の首謀者であり、今の今まで我々の手によって封印されていたの」

 

「ナハトは非常に邪悪で凶悪極まりない妖怪であり、生けとし生ける者全てを支配下に置くことのみを目的に生きている魔の集合体の様な存在です」

 

「ナハトは、『片腕で樹齢千年の樹木を持ち上げる』や『一声で悪魔を大量に召喚する』と言った吸血鬼の逸話全てのルーツなのです」

 

「ナハトは人間を殺しません。人間は血を飲み干し、永遠の奴隷としてしまうから」

 

「ナハトは逆らう者も逆らわない者にも容赦しない。彼にとってすべては玩具と同じなの」

 

「ナハトは―――――」

 

 ◆

 

【幻想郷縁起・吸血鬼の項】

 

 闇夜の支配者  ナハト

 能力      命を邪悪で蝕む程度の能力

 危険度     最高

 人間友好度   皆無 

 主な活動場所  紅魔館

 

 これまで紅魔館には二人の吸血鬼のみが暮らしていると思われていたが、最近になって新たな吸血鬼の存在が確認された。それがナハトである(※1)。

 彼は吸血鬼の保有する絶大な力や、付随する逸話の元となった怪物だ。その力はレミリア・スカーレットを遥かに凌駕し、凶暴性も比較にならないほど高い恐ろしい存在である。孕む危険性は幻想郷の賢者が自ら出向き、封印を施す程であったと言う(※2)。

 吸血鬼の概要にて、私は『異変時を除けば紳士的で大人しい』と記述したが、ナハトに関しては当てはまらないだろう。何故なら彼はこの世に生きる全ての生物を支配下に置く事のみを目的としており、それが最高の喜びだと考えているからだ。

 彼の狩猟対象は人間も妖怪も無く、目についた生き物へ気まぐれに虐殺や洗脳を行い、その命尽きるまで悪逆の限りを尽くす。特に子供を虐げる事を好み、剥ぎ取った心臓を蒐集する趣味を持つと言う、類稀に凶悪な妖怪なのである。

 

《悪行の数々》

・先の吸血鬼異変の真の首謀者、それがナハトである。彼は幻想郷を手中に収めようと暗躍し、賢者との激闘の末封印された。

 

・時を経て封印を破った彼は幻想郷の夜を止め、再び支配を目論んだ。しかしこれは博麗の巫女の活躍によって失敗に終わる。これが永夜異変の概要である。

 

・先の山の怪光の正体が彼である。永夜異変の計画が失敗に終わった彼は、次に妖怪の山へと目を付け、山で最強の妖怪と闘い、再び賢者の手によって封印された。

 

(※3)

 

 

《能力》

 彼は溢れる負のエネルギーを常に周囲へ向けて放出し続けている。それは高濃度の邪気となって無差別に生命を蝕み、枯らしてしまう。

 効果は彼の存在を認知した瞬間に発揮される。例を挙げれば視認だ。視界に捉えた瞬間から、彼の邪気に命を貪り食われてしまうのである(※4)。

 若く生命力に溢れた者ならば、辛うじて正気を保つことが出来るかもしれない。しかし子供や老人、病人であれば瞬く間にあの世行きだ。いや、もしかせずとも血を抜き取られ、永遠にゾンビとして従属させられてしまう可能性の方が高いだろう。つまりナハトに目を着けられた場合、死神のお迎えが最高峰の持て成しと思えるような最期を迎える事となる。

 

《対策》

 現状、遭遇した場合人間が対策出来る術は無い。運よく博麗の巫女が通りかかるか、ナハトの気紛れがあなたを生かすしか、助かる見込みはゼロに等しいだろう(※5)。

 ただし、今現在は妖怪の賢者たちの手によって紅魔館に封印されている。当分復活の見込みは無いとの事だが、復活してしまえば手に負えないのは間違いない。これは決して我々里の人間に無関係な話ではないのだ。

 彼の復活を阻止するためには、人間の恐怖が必要である。しかし普通、人間の恐怖によって妖怪は生を得る。それは周知の事実だと思う。だから怖がればナハトの力が増すのではないか? と不安に思われる事だろう。実はそこを逆手に取り、妖怪の賢者が知恵を働かせたのだ。

 ナハトのような妖怪を親しめと言う方が難しい。恐怖を覚える方が遥かに容易である。それはつまり、親しみ等の正の感情や精神的対策によって妖怪としての存在感を弱める手法が困難だと言う意味に繋がるのだ。

 そこで妖怪の賢者は、ある術を用いた。それは恐怖を反転させ、親しみに交換する封印術である。つまり我々が恐れれば恐れるほど、施された逆転の術によって恐怖は親愛に変わり、ナハトの力を弱め、封印を長引かせる結果へと繋がるのだ。

 これを読んだあなたは、まずナハトを恐怖して欲しい。彼を恐れれば恐れるほど封印は長引き、我々の生活は大きな安全を約束されるのである。

 

 素敵な貴方に安全な幻想郷ライフを。

 

 

(※1)背の高い美麗な男の容姿をしているらしい。甘い見た目はカモフラージュなので騙されてはいけない。

(※2)八雲紫のお墨付きである。

(※3)これらの行動に加え残虐極まりない性格と非常に強力なパワーから、危険度は例外的に最も高い、即ち『最高』と定義した。

(※4)邪気に当てられると失禁するほどの恐怖に襲われる。逃げられない。

(※5)なので不運に巡り合わないためにも日頃の行いは良くしておこう。

 

 

 

 

「……………………、」

「うわー、凄いね。おじさまの項目嘘ばっかり」

「この著者は、どこからこんなにも曲がった情報を掻き集めて来たのかしら。化け物染みた挿絵(イメージ)と言い、最早エンターテイメントの領域にすら届いている様に思えるわ」

「でも面白いわねっ。悪名高き吸血鬼も悪くないんじゃないかしら。だっておじさまはこれくらい、いえ、もっともっと凄い吸血鬼なんだもの――――って、おじさまどこへ行くの? おじさまー? ……行っちゃったわ」

「……まるで苦虫100%のスムージーを鼻から飲んだみたいな顔をしてたわね。それほど記事が不愉快だったのかしら」

「お、怒ってるのかな? どうしようパチュリー、怒ってる時のおじさまは凄く怖いのよ」

「骨身に染みるほど理解しているわ。取り敢えず、今はそっとしておいた方が双方の為にも良さそうね。人里に攻め込んだりしなければいいのだけれど」

 

 

 

 

 

 

 

 

「あらおじ様。こんな時間にどうしたの?」

「レミリアか。なに、少しばかり全力で走りたい気分になったのさ。ところで、今太陽は出ているかね?」

「なに言ってるの? もうとっくに月の支配時間よ」

「……そうか。残念だ」

「変なおじ様。あ、一応言っておくけれどまだ外出禁止だから。お散歩はご遠慮くださいな」

「………………」


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