【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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21.「魂魄の病」

「いやー、この札を着けてると本当にバレないな。ちょっとは守矢を信奉しても良い気がしてきたぜ」

「おおっ、遂に魔理沙さんが我らの信徒にっ」

「いや、ならないけどな?」

「折角ですから一緒に風祝やりましょうよ。魔理沙さんほどのお力があれば、きっと素晴らしい祝子になれますよ! そうと決まれば新しい巫女服を調達しなきゃですねー。ふふふ、久しぶりに裁縫張り切っちゃいますかーっ」

「だから、ならないからな?」

 

 またもやスイッチが入ってしまった様子の早苗。しかしこの熱意から察するに、もしかしたら同年代の同業者が欲しいのかもしれない。大分幻想郷に馴染んだとはいえ、外との関係を全て捨てねばならなかったこいつは潜在的な寂しさを抱えているのだろう。今度、宴会とかじゃなく普通に遊びに行ってやろうかな。妖夢あたりを引っ張り込んだら面白いことになりそうだ。

 

 それはそれとして、私は風祝なんぞになる気はない。再三の訂正を経て早苗は『そんなー』とがっくり肩を落とすが、私の夢は立派な魔法使いなので巫女なんかになる訳にはいかないのだ。それに巫女なんぞになってしまったら、絶対に霊夢の奴から茶々を入れられるに決まってる。それは御免だ。アイツと私は対等に立てる立場でなくちゃいけないのだ。

 

「しかし、目的の魔王様が一向に見つからないな」

「そうですねぇ。これはとうとう、本当に目覚めているかどうかも怪しくなってきました。いや、別に封印されているならそれに越したことは無いんですけれど」

「全くもってその通りだが、そもそもこの屋敷が広すぎるせいもあると思う。どうやって維持してるんだろうなぁ、謎だぜ」

「確か咲夜さんの力で空間を拡張してるんでしたっけ? しかも彼女は時まで止められるんですよね。いいなー、私も時間操作能力欲しいなぁ」

 

 一度でいいから時よ止まれって力いっぱい叫びたいです、と早苗は力こぶを作りつつ、どこか興奮気味に力説した。何故『ファウスト』の名言がここで出てくるのだろう。相変わらずよく分からない奴だ。

 

「……にしても、さっきから嫌に諏訪子が大人しいな。飽きて寝てるのか?」

「あれ、そう言えば静かですね。いつもならお話に混ざってこられる筈ですが。……ん? おかしいな、何故か諏訪子様に繋がりません。本当に寝てるのかもしれないですね」

「相変わらず呑気な奴だな。祟り神の癖に」

「おっと、それは間違いですよ魔理沙さん。厳密には諏訪子様自身が祟り神なのではなく元は祟り神たるミジャグジ様を操る山の神こそが諏訪子様であり――」

 

 どうやら、早苗にとって譲れない一線に触れてしまったらしい。唐突な正しい神様講座が始まってしまった。

 早苗の言いたい事は分かるんだが、私にとって祟りを起こす神なんて皆等しく祟り神である。……ん? そうなると日本の神様はほぼ全員祟り神か? まぁどうでもいいや。ここは自分の耳を馬の耳へ変身させて、のんびりとやり過ごす事にしよう。

 

 と、思った矢先のことだった。

 

「そうも言ってられないみたいだ。早苗、止まれ」

「はい? どうしまし――あっ」

 

 私が歩を止めると、早苗も釣られて動きを止めた。そして気付く。何故私が、札の効果によって誰にもバレる筈の無いこの状況で早苗に注意を促したのかを。

 レミリアだ。

 紅い絨毯が道のりの中央を飾る、紅魔館二階層へと続く豪華な階段。その踊り場からゆっくりと、館の主レミリア・スカーレットが、軽やかな靴音を奏でつつ下って来ているのである。

 

「まさかレミリアさんまで起きているとは……吸血鬼ってなんでしたっけ」

「どうやら本気で生活リズムを変えているらしいな。動機は霊夢の奴ってところか。まぁなんにせよ誤算だったぜ」

 

 だが起きてしまっているものは仕方がない。慎重に行動して、アイツをやり過ごすとしよう。大丈夫、こっちは守矢の護符と早苗の能力がある。追いかけっこに夢中だったとは言え、フランと咲夜の目を潜り抜けられたのだ。見つかるわけが無い。

 

 心を強く保ちつつ、私たちは前進する。もちろん、既に二人の間に会話は無い。流石に吸血鬼の前を通り過ぎる時に油断など出来ないからだ。

 手に汗を滲ませながら、そっと抜き足差し足。やっとの気持ちで階段の陰に身を潜める。これで死角に入り込めただろう。

 

 

「さてと」

 

 レミリアが、私達の隠れている大仰な手摺の傍を通過しようとする、まさにその時だった。

 不意に動きを止めると、その場に幾らかの間を生んで。

 

 途端に、あの可愛げのある童女の様な容姿からは考えられない程の圧迫感が、周囲一帯を圧し潰す様に解き放たれた。

 

 ビリビリとした莫大な妖気が、私の肌を遮蔽物越しに掻き毟る。まるで、私たちの状況をレミリアに全て察知されているかの様な錯覚まで覚えた。

 例えようもない緊張が走る。そんな中でも、大きな手摺越しに彼女は言う。

 お見通しだと言わんばかりに、吸血鬼特有の魅惑の声を弾ませながら。

 

「その程度で、このレミリアの目から逃れられると本気で思っているのか?」

 

 ――ぞわりと、緊張の悪寒が脊髄を走り抜けた。

 バレている。何故だか分からないが、札の効果がこいつに全く効いていない。

 いや、もしかして音と気配は掻き消せていても、()()までは消せていなかったのか?

 吸血鬼は人間を襲って血を啜り上げる捕食者だ。しかもその身体能力は我々ホモサピエンスを軽々と超越している。この至近距離だと、()()()()()()匂いで感づかれてしまっていてもおかしくない。

 

 ああ畜生。そうとなると、アイツの反応は間違いない。完璧にこちらの存在がばれている!

 

「――しょうがねぇ。一丁強行突破といかせてもらうぜッ!」

 

 懐から八卦炉を取り出し、物陰から身を乗り出しながら瞬時に構えた。魔力を注ぎ込みつつ箒を握り、今すぐにでも弾幕戦を始められる準備を整える。

 だがレミリアの目はこちらを捉えておらず、どこか別の方向へと、その鮮紅の瞳は向けられていた。

 

 紅い当主の視線に違和感を覚えたその瞬間。私は大きな過ちを犯してしまったのだと、この時漸く気がついた。

 私の過失を知らせるように、背後から早苗の叫びが炸裂して。

 

「駄目です魔理沙さん!! これは彼女の――――」

「あら」

 

 しかしそれを遮るように、風鈴の様な声が鼓膜をそよいだ。

 それはまるで、ずっと待ち続けていた釣り竿にやっと魚が食い掛かったと言わんばかりの、忍耐の喜びを孕んだ声色で。

 

()()()()()()()。ああ、認識したらぼんやりとだけど段々見えてきたわ。その特徴的な帽子の輪郭と魔力、霧雨魔理沙ね?」

「――――!」

「やられました……! 今の言葉は全部フェイクだったんだ! もう札はダメです、一度認識されてしまった以上、気配遮断の効果は解けてしまう!」 

 

 早苗の言う通り、私たちの腕に張り付いていた札は、力無く地面へと剥がれ落ちてしまった。流石に一度認識された気配を、もう一度消すことまでは出来ないのか。

 ああ畜生、見事に一本取られてしまった。よく思い出してみれば、先ほど私たちを探していた妖精メイドも、美鈴から大まかな位置を教えられていたではないか。札を貼って気配を遮断する前の位置を掴まれていたのであれば、私たちの平均的な移動速度から大体の範囲を予測して、絞り込まれていてもおかしくはない。

 無論、私の推測通り『人間の気配』もあったんだろう。だからこいつは、確信をもって滑稽なフェイクを演じられたんだ。

 

 敗北の苦味を噛み締めつつ、私はレミリアと向き合った。

 

「ようレミリア、久しぶりだな」

「久しぶりね。以前ここへ訪れたのは初夏だったかしら?」

「そんな所だな。だがんな事よりレミリアよ。まさか、今の演技をずっと繰り返しながら館中を歩き回って、私たちを探してたのか?」

「そんなワケ無いでしょ、まだ二回目よ。私の能力を忘れたのかしら?」

 

 ……あー、成程。運命を操る程度の能力ってヤツか。力の概要は詳しく知らないが、恐らく私たちの来訪を特定しただとか、ほんの少し未来視をやってのけただとか、そんな感じだろう。さっきから予測が見事に外れっぱなしでちょっとだけ悔しくなる。

 

「お前の能力って、そんなに応用の利く代物だったんだな。私はてっきりお嬢様の壮大な夢物語だと思ってたぜ」

「どれだけ皮肉を吐こうとも、今となっては負け犬の遠吠えにしかならないわよ。まぁこれで、お前も運命を操る我が力が如何に恐ろしいものか、よーく理解できた事でしょう」

「ああ、明日の運勢を占って欲しいくらいには理解出来た。なんなら昔のよしみで占ってくれてもいいぜ?」

 

 茶目っ気交りに頼んでみれば、相変わらず図々しい女ね、とジト目で返された。代わりに私はとびっきりの笑顔を送り返してやった。

 レミリアは私を見下ろしつつも、余裕を孕んだ態度で腕を組む。

 

「しかし、二回目のチャレンジでお前たちが出てきてくれて良かったわ。不発に終わると凄く恥ずかしいのよ、コレ」

「だろうな。傍から見れば、誰も居ない所で敵を威圧する練習に励んでるチビコウモリにしか見えないもん」

「き、客観的に解説するんじゃないわよ羞恥心が舞い戻って来たじゃない! と言うか誰がチビコウモリだ誰が! 私はこれでもお前の何十倍も生きてるんだぞ!」

 

 日に当たる事を知らない雪原のような柔肌を紅魔の名に相応しい朱色に染め上げながら、レミリアはキーキーと憤慨した。

 しかし直ぐに、ハッとした様に冷静さを取り戻して、

 

「ゴホン。さておき、小童魔法使いと……えっと、」

「あ、東風谷早苗です」

「そうそう、早苗。――小童魔法使いと新参巫女よ、早急にここから立ち去りなさい。今なら吸い殺さずに見逃してやるわ」

「小食の癖によく言うぜ。しかしその口ぶり、私たちに探られたら不味い物がこの先にありますと言ってる様なもんだよな。美鈴の警護が固いのも不自然だ。そうなると、お前を突っ切ってでもソイツを拝みたくなっちまうのが、人情って奴なんだよなぁ」

 

 こんな事ではいそうですかと食い下がっていたら、異変解決なんて出来やしない。箒へ腰かけ、私は浮遊の準備を整えた。

 同じく、早苗もまた臨戦態勢へと突入する。風一つない廊下に突風が巻き起こり、五芒星の印が早苗を囲むように空間へと浮き上がった。

 

「これも里の人々の平穏を守る為です。押し通らせて頂きますッ!」

「……愚かな人間共め。大人しく言う事を聞いていれば良いものを。わざわざ茨の道を選んだことを後悔するがいいわ」

 

 放たれる威圧感が、目に見えて増大していく。フェイクを仕掛けてきた時の比ではない。全身全霊の敵意を私達へとぶつけているのだ。相対するだけで心臓を握りつぶされてしまいそうな圧迫感が私たちへと襲い掛かった。それはあの紅い霧の異変を想起させられ、体の芯から武者震いを引き起こされる。

 

 私たちの戦いが弾幕ごっことは言っても、相手は人外。それも指先一つで人間の命を容易く刈り取ってしまうような存在だ。どれだけ経験値を積もうとも、大妖怪を相手にこの緊張感が失われてしまう事は無いだろう。

 

 だが。

 だからこそ、私は強敵(ぎゃっきょう)に向かって笑顔を浮かべる。

 いつの時代も、難しいゲームの方がやり甲斐を感じるモノだから。

 

「これは異変解決だ。我儘な妖怪お嬢に勝ち目は無い」

「何時も人間が勝ち続けられるとは思わないことよ。弾幕ごっこは人妖公平なお遊戯合戦。だからたまには、人間側にもゲームオーバーが必要だとは思わない?」

「残念ながら、昔お前の妹にコンテニューは出来ないと言われたんでな。まだゲームを楽しみたい私としては、このままお前をブチのめさせてもらう以外に選択肢はないんだぜ。レミリア!」

「ハン、今日はよく吠えるわね霧雨魔理沙。面倒だから二人纏めて相手をしてあげましょう。何を解決しに来たのかは知らないけど、ここから先へ行かせるわけにはいかないの」

 

 レミリアの黒翼が広がる。紅い霧が仄かに広がり、奴の使い魔である蝙蝠の群れが姿を現した。

 

「さぁ。白昼の紅い悪夢を前に、無様に泣いて帰るがいいわ!」

「里の安眠を守るため……その悪夢ッ! 打ち砕いて見せましょう!」

 

 互いの雄叫びを合図として、夥しい数の光の玉が両陣営に展開されていく。

 人数はこちらの方が勝っているが、相手は夜の帝王レミリアだ。しかも何か訳アリらしく、紅霧異変の時よりも本気の気迫を滲ませている。そんな奴を前にして私に余裕の字なんてあるはずもなく、下手をすれば一瞬で撃墜されてしまいそうだとさえ冷や汗を背中に掻いてしまった。

 だがそんな事、異変の時は日常茶飯事だ。いつだって私は乗り越えて来た。今回も超えられる。その確信に、一片の曇りなどある筈もない。

 激戦の覚悟を腹に決め、私たちは光と共に、紅い悪魔へ突撃した。

 

 

 

 

「レミリア」

 

 

 

 ――歩幅にしてわずか三歩ほどの距離で、急ブレーキがかかる。

 

 階段の上から突然全身を撫でた声の正体を見極めるよりも早く、まるで熱い鍋に触れた途端手を引っ込めてしまうかの様に、私の体は、反射的に動きを止めてしまったのだ。

 それに伴い、心臓が驚くほど躍動していくのが分かった。飢えた熊に追われ続けた後の様な、僅かな爽快感も含まない拍動。全身に血を行き渡らせ、常に酸素を確保しておかなければ取り返しのつかない目に合うと、体が本能で察知しているかのような、血潮の温かさがまるで感じられない、底冷えしていく心臓の働きだった。

 

「ま、まりさ、さん」

 

 喉に手を掛けられているかのように、掠れた声で早苗は呻く。硬直を解かない体を動かし、必死に早苗へ視線を移せば、五芒星の印も風も消して、くりくりとした眼を限界にまで見開く早苗の顔がはっきりと見えた。

 

 驚愕と衝撃に心を塗り潰されている彼女の視線は、レミリアの後ろ、ただ一点へと注がれていて。

 

 そこには、感じた事も無い圧迫感を放つ、規格外の化け物が居た。

 

 汗が瞼に入り込み、ピントのブレた視界では鮮明にその姿を捉えられないが、たったそれだけの情報で私は大きな確信を得た。

 稗田阿求自らが警戒を呼び掛け、例外の縁起増版を行う程の極悪妖怪。

 賢者の手によって封印されている筈の吸血鬼。

 階段の頂上から私たちを見下ろす、漆黒の衣に身を包んだ奴こそが、魔王ナハト本人であるのだと。

 

「騒がしい様だが……お客さんかね」

 

 たった一言放たれただけで、全身の毛穴が引き絞られる。体を巡る血の流動が鮮明に感じ取れて、けれども温度は感じなくて。奴が階段の一歩を踏みしめる度に、私の呼吸器が悲鳴を上げた。

 それは早苗も同じだった。それどころかレミリアさえも霧と蝙蝠を引っ込めて、困惑の色を浮かべているではないか。

 

「おじ様、どうしてここへ? 部屋に居る筈じゃ……!?」

「図書館へ野暮用が出来ただけさ。偶然通りかかったんだ、別に邪魔をしに来た訳では無いよ」

「……なら、今すぐ部屋へ戻って貰えないかしら。おじ様がここに居るのは少し、いやかなり不都合だわ」

「別に参戦するつもりはないよ。ここを通らせてもらえるだけで良いんだ。引き返すと図書館まで遠いからね」

「いいから、戻って頂戴。こいつらは私が相手をするから、おじ様は部屋に戻って。お願いだから」

「……ああ、彼女達の集中が乱されるのか。それは失礼した。配慮が足りなかったな――」

「おい」

 

 こちらを無視してレミリアと談話をする怪物に、私は全霊の勇気をもって声を投げた。すると奴は、暗い洞窟の奥に生える水晶を固めて作ったかの様に冷たい眼球をこちらへ向けて、どこまでも冷酷に見下ろした。

 

 レミリアの威圧感が春のそよ風にしか思えなくなるほどの圧力を前に胃の中身を全部吐き出してしまいそうになる。絶対に勝てない、早く逃げろと本能が必死に訴えかけてくる。視線が刺さるとはまさにこの事を言うんだろう。体感した事も無い膨大な恐怖を前に、私の細足は情けなく爆笑する始末だ。

 だが私はそれを全て気合で封じ込め、漆黒の魔王へ戦意を向ける。

 

「お前が、ナハトって吸血鬼か?」

 

 質問から、一拍の余白が空いた。何を考えているのか分からない黒ずんだ紫色の瞳は、目を合わせ続けていると魂を吸い込まれてしまいそうだった。

 やがて異形の男は、静かに口を動かし始め、

 

「そう、私の名はナハトだ。初めましてになるのかな、人間の魔法使いと……守矢神社のシャーマンで合っているかね?」

「っ」

 

 矛先が向けられた途端、早苗は極度の恐怖と緊張からか、全く声が絞り出せなくなってしまった。そう言えばこいつは『外』出身の人間だ。私や霊夢と違って、人外に対する免疫が圧倒的に少ないのだろう。神奈子や諏訪子も相当な部類に入るだろうが、あの二人は早苗の味方だ。目を合わせるだけで心臓発作を起こしそうになる化け物から、皮膚の上から骨の髄まで侵食してくる様な悍ましい敵意を浴びせかけられた経験など皆無に違いない。

 

 こいつは動けない。敵の強大さが予想外過ぎた。今の早苗が、比喩や二つ名でも何でもない正真正銘の魔王を相手するには余りにも荷が重過ぎる。

 私が、守らなければ。まだ動ける私が、この怪物から早苗を守ってやらなければ。

 両手で身を抱きながら体を震わせ続ける早苗の前に立ち、私は魔王へ向けて八卦炉を構えた。

 

「そうさ。こいつは東風谷早苗。守矢神社の新参巫女だよ」

 

 魔力を貯め、八卦炉の火力を底上げしていく。帽子の鍔を押さえながら、私はナハトへ射線を引いて、

 

「そして私が霧雨魔理沙だ。お前を退治する為にやってきた、ごく普通の魔法使いだぜ」

 

 威力を一点集中に引き絞ったレーザーを、私は思い切りぶちかました。

 白線が空間を切り裂き、黒い吸血鬼へと襲い掛かる。しかし奴は微動だにせず、そのままレーザーの通過を動揺すら見せずに見過ごした。

 だがそれでいい。私の標的は奴自身じゃあない。

 今は昼前。つまり日はまだ空を見下ろしている。私が狙ったのは紅魔館、吸血鬼を日光から守る防護壁だ。

 

 レーザーは館の壁を容易く貫き、一筋の光を館の中へ注ぎ入れた。

 無論レミリアに対してではなく、階段の上で仁王立つ、黒い悪魔の頭上に降り注ぐよう計算して。

 

「むっ」

 

 退魔の光線が、容赦なく吸血鬼へと覆い被さった。阿求の縁起通りこいつはどうやら規格外にも程がある大妖怪らしいが、弱点が無いなんてことは無い筈だ。まともに陽の光を浴びれば、幾らなんでもタダで済むはずが――――

 

「成程……これは素晴らしい」

「は?」

 

 ――はず、が……。

 

 予想を遥かに裏切る光景に目を疑い、八卦炉を持つ手が力を失くした。心を奮い立たせる希望の柱がメシメシと悲鳴を上げ、ひび割れていく音が鮮明に聞こえる。代わりに、腹の底からヘドロの様な粘質と臭気を纏った何かが込み上がってくるような不快感が、私をぞぶぞぶと侵食していた。

 

 効いていない。

 

 破魔の光に焼き焦がされ、苦痛に悶える筈の吸血鬼が。カーテンから漏れた朝日を鬱陶しがるような仕草を見せただけで、欠片もダメージを受けていないのだ。

 嘘だ、と私は目の前の光景に向かって怒鳴り散らしたくなる衝動に駆られた。有り得ない。吸血鬼が直射日光を食らって無事でいられる筈がない。レミリアだって、特注の傘と日焼け止めの重ね塗りで漸く昼の神社に行ける程なのだ。屋内に居て何の対策もしていないだろうナハトが、ダメージを受けないなんて、有り得る筈がない。

 

「レミリア、無事かい?」

「当たってないから大丈夫よ。それよりおじ様は? モロに浴びたように見えたけど」

「少し焦げたが問題ない。ああ、君はそのまま日陰にいなさい。すぐに壁を塞ぐから」

 

 日常の光景とでも言わんばかりに、吸血鬼は柔らかな対応を繰り広げる。奴は壁へと手を振れると、一体全体どんな術を用いたのか、一瞬で穴を塞ぎきってしまった。

 ゆらりと、男は緩慢な動作で振り返る。その仕草にすら、私は内臓を引き絞られるような思いだった。

 

「……さて。どうやらレミリア、君の言う通り私はこの場に居てはならない様子だ。忠告通り大人しく迂回する事にするよ」

 

 だがしかし、と男は不気味なほどに白い人差し指を天井へ向け、

 

「魔理沙。君にどんな理由があって私を倒しに来たのかは分からないが、周りには気をつけたまえよ。レミリアは君の友人でもあるのだろう? ちゃんと計算をして弾を撃ち込んだのだろうが、もし彼女が火傷をしたらどうするつもりだったのかね」

 

 ――――奴の言葉が鼓膜に触れたその瞬間、強烈な幻惑が、私の脳髄へ襲い掛かった。

 泥の様に不定形な姿を持った化け物から無数の腕で掴みかかられ、臓物を引きずり出されていく。

 鮮烈で身も凍る様な悍ましいヴィジョンが、確かに網膜の表面へと広がった。それは奴の言葉が錯覚となって具現化された結果、引き起こされた幻だったのだ。

 確かに軽率な行動だったと反省はしたが、はっきり言ってそれどころじゃない。口から私の中身を全て戻してしまいそうな吐き気が込み上げ、細胞一つ一つが絶叫した。もし早苗が後ろに居なかったら、私はそのまま紅い絨毯へ突っ伏していたかもしれない。

 

 しかし、何だ? この強烈な違和感は。

 

 私は、以前にも似た経験をした事があるような気がする。奴とは今ここで初めて対面したはずなのに、妖怪と言う常識から考えても逸脱しているとしか思えないこの不気味さを、どこかで体験した覚えがある気がするのだ。例えるなら、夢で見た内容が現実と合わさった感覚。俗に言うデジャヴと言う奴だろうか。

 謎の既視感がこの身を震え上がらせてくれる。そんな中、私は瘤のように大きく育った違和感のしこりへ、猛烈な不快感を膨らませていった。

 

 

 ()()が何かの引き金になったのか、私にも分からない。

 けれど、()()は今この瞬間、確実に引き起こされたものだった。

 

 バキン、と鎖が引き千切れたかの様な高周波が、突如頭蓋骨の内側で鳴り響いたかと思えば。

 私の脳の奥底から川の鉄砲水の如く、身に覚えの無い記憶の濁流が一気に圧しかかって来たのだ。

 

「―――――――いづッ!!?」

 

 瞬間、脳漿が破裂したかと錯覚した。経験したことも無い強烈な痛みに襲われ、平衡感覚があっという間に消し飛ばされる。堪らず両膝を折り、頭を抱えて蹲った。

 じくじくと、ズキズキと。火傷の様な、打撲の様な。苦痛という苦痛を掻き混ぜて作った煮凝りの様に混沌とした痛みが、頭蓋の内側で渦を巻く。しかし私は衝撃と共に現れた不可解な映像に、痛みを塗り潰す程の驚愕を覚えさせられていた。

 

 四年前の夏の夜。明けない宵の小さな異変。

 あの時の私は、霊夢に負けて我が家へ帰宅し、そのまま不貞寝していた()()()()。なのに今脳裏で再生されている映像は、本来正しい筈の記憶を大きく逸脱していたのだ。

 映像の中の私は、突如頭上から降って来た胴体と思わしき物に襲い掛かられ、そして次の場面では、

 

「ぁ――――」

 

 体の持ち主らしい生首が、満天の星空から肉薄して。

 

「――ああ……思い出した」

 

 あの生首。

 紫と幽々子の弾幕演武が繰り広げられた不気味な満月を背景に、生者を妬む魂魄の如く揺らめきながら迫って来た、あの恐ろしい顔。

 月明りすら跳ね返す、石灰を被ったように白い肌。闇夜の中で尚輝いていた、暗紫色の薄気味悪い瞳。死人を想起させる灰色に染まった頭髪。なにより、産毛の毛先から神経の中枢まで蝕まんばかりの邪気を孕む、圧倒的な負の波動。

 

 そっくりどころの騒ぎではない。見知らぬ記憶の中で恐怖の刻印を私に刻み込んでいるその男は、紛れもなく踊り場に君臨するこの男なのだ。

 

 間違いない。私は、この男と一度出会っている。

 

 この男を――――紫と幽々子を相手に平然と一人で立ち回ったこの邪悪な怪物を、私は以前から知っている!!

 

「私の頭を弄って、記憶を封じ込めていやがったな……!? ぜんぶ、全部思い出したぞ、吸血鬼!!」

「…………」

 

 灰被りの吸血鬼は答えない。しかし幾らか動揺しているらしく、僅かに瞳が揺れ動いた。奴の図星を突いたらしい。どうやら、私の記憶が蘇る事は計算外だった様だ。

 吸血鬼は、興味深そうに顎へと手を当て、呟く。

 

「驚いたな、まさか私の魔法が解けるとは思わなかった。やはり、人間の成長とは早いものなのか。たったの四年で打ち破れるようになるまで力を上げるとは」

「てことはやっぱり、私の記憶を弄ってやがったんだな? あの晩、何の目的で、私に何をしやがったッ!!」

「……先ずは、勝手に君の記憶を操作した非礼を詫びよう。すまなかった、霧雨魔理沙」

 

 目を疑う光景だった。傲慢で誇り高いと知られる吸血鬼が、いともたやすく人間に頭を下げ、謝罪の言葉を口にしたのだ。

 萃香と互角に戦ったレミリアすら比にならない瘴気を纏いながら、表すは作法の模範の様な仕草。それがどうしようもなく、奴の不気味さを跳ね上げていく。

 

 私が呆気に取られている最中、けれど誤解しないでほしい、と奴はつなげて、

 

「私が記憶を改修したのは、君にトラウマを植え付けないようにする為なのだ」

「なに……?」

「君が今一番よく分かっていると思うが、私を目にした者は皆、私の意思に関係なく途方もない恐怖を植え付けられてしまうのさ。それにあの夜の会合は、はっきり言って最悪の出会いだった。妖怪のパーティータイムである満月の下、それも異変が起こっている状況で、あんな形の出会いを迎えてしまっては、君は確実に私の悪夢によって苛まされていた事だろう。それを避けるためなんだ」

 

 

 ……何を、言っているんだこいつは?

 つまり、こういう事か。自分は問答無用で他者を怯えさせてしまう性質の持ち主であり、私の記憶を弄ったのは不可抗力で怯えさせてしまったからで、その記憶を消してトラウマを植え付けないように配慮した結果なのだと、そう言いたいのだろうか?

 

 馬鹿にしているのか。それともそんな言い訳で、私を丸め込めると本気で思っているのか。

 

 有り得ない。奴は完全に遊んでいる。五感から染み込んで来る悪魔の魅惑(チャーム)を使って、問答無用に納得させようとしているに違いない。

 確か、縁起にも書いてあったな。奴の甘い見た目に騙されるなと。それは暗に、荒唐無稽な理論でも無理やり納得させられてしまいそうになる、この魅惑と恐怖の瘴気に屈するなと伝えたかったんじゃないだろうか。

 

 ――甘く見られたもんだ。この百戦錬磨の霧雨魔理沙を、人間の底力を。舐めて貰っては困るぞ、人外。

 

「そんな大根役者以下の安っぽい演技じゃあ騙されねえよ。私を丸め込みたけりゃ、閻魔の口を塞ぎこめる程度の説得力を持ってきな」

「……いや、当然の反応だ。君の猜疑心は正しいとも。記憶を弄られた相手からこの様な言い訳を述べられて、そうですかと素直に納得出来るわけが無い。全ての非は私にある。君は何も悪くない。……だからその疑いを晴らすか否かは、君の一存に委ねよう」

「あん?」

「君には私を嫌悪する権利がある。勝手に怯えさせて、勝手に事実を消したのだ。これは私の身勝手極まりない行動故に生まれた擦れ違いと言えるだろう。故にこの状況を受け入れ、選択を君に託す。望むならば擦れ違いを埋める助力は惜しまないし、君が私と会話もしたくないと跳ね除けるならそれでもいい」

 

 だからここで選んでくれ、と奴は言った。

 薄黒い爪で階段を指差しながら、奴は地獄の審判のように選択を迫ってきたのだ。

 

「私は今から上へ戻る。私の言葉が欠片も信用できなければ、流石に退治されるわけにはいかないのでそのままレミリアと遊んで貰う。逆に私の言葉を一ミリでも信用できると思えたのなら、そのまま階段を上って来てくれ」

 

 ……それは、どういう意図を孕んでいるのか。

 長く生きた妖怪は、言葉遊び染みた頓珍漢なワードを使って人間を惑わせる事がままある。人外は文字通り人から外れた場所に立つ存在なのだ。容姿や思考回路が人間と近い者はいるものの、決して同じではない。故に、言葉が直訳として働くことは意外と少なかったりする。この様な張りつめた状況においては特に顕著と言えるだろう。

 更に大前提として、こいつは一般に浸透している幽香のイメージが可愛く思えてしまうほど凶悪極まりない妖怪だ。紳士然とした態度の裏には、縁起に綴られていた残酷無比な性格が隠れているに違いない。能ある鷹は爪を隠すように、賢明なヴァンパイアは易々と牙を見せず、獲物を安心させてから毒牙に掛けるのだ。

 

 つまり奴の言葉は、そのままの柔らかな意味合いではない。一見すると礼節を重んじているかのように受け止められるが、そうではない。私に頭を下げたのは、印象を操作して隙を作らせるためのカモフラージュだろう。ならば裏側から見えてくる奴の隠された真意は、『今なら見逃してレミリアに相手をさせる。命までは取らない。しかしこれ以上深追いするならば命を貰う』と言ったところだろうか。

 

「………………、」

 

 裏側に仕込まれた暗黒の選択を私が導き出している最中、奴は這いずる影のように、音もなく階段を昇って行った。視覚から奴が完全に消えると、体を蝕んでいた途方もない重圧が解けて、鋭敏になっていた五感が徐々に和らいでいく感覚が訪れてくる。

 途端に、早苗が床へ崩れ落ちた。あまりの緊張から解放されて腰を抜かしたらしい。無理もない。早苗よりも経験豊富な私でさえ下腹部の紐を解いてしまいそうになったのだ。むしろよく持った方だと思う。

 

「な、何なんですかっ、あの妖怪は……っ!? あ、あんな、あんな禍々しくて気持ちの悪い瘴気、私の知っている妖怪じゃない……っ!」

 

 震える体を押さえようと必死に抱き締める早苗の口から、息も絶え絶えな弱々しい悲鳴が零れ出す。私は早苗に肩を貸しながら、歩行の手伝いを買って出た。なにか励ましの言葉をかけてやりたいが、そこまで私にも余裕はなかった。立たせてやるだけでも精一杯だったのだ。

 

 そんな私たちへ、レミリアは哀れみを含んだ眼差しを向けてくる。

 

「……さて、二人とも。疲れてるところ悪いけど、昇っていくか引き返すか早く選んで頂戴。もっとも、昇っていくつもりなら全力で邪魔するけど」

「………………なぁ、レミリア。一つだけ聞かせてくれ」

「なにかしら?」

「アイツは、お前にとっての何なんだ? 何故お前は、あの怪物が館を歩いても平然としていられ」

「そんな事はどうだっていい。お前には関係ない」

「ッ、レミリアっ!」

「あの方は、お前が感じた通りの存在よ。会っただけでもう十二分に分かったでしょう? 貴女たち程度が幾ら束になって挑もうが、敵いっこない吸血鬼だと本能で理解出来たでしょう? 理解したのなら、あの方の恐怖を刻み込んだままさっさと帰れ。それが双方の為ってものよ」

 

 懇願とも取れる言葉だった。

 冷徹な言動に垣間見れる、温情の様な何か。それは暗に、私達へ精一杯の警告を示している様で。

 

「……ああ、分かった。今回は撤退する。すまんな早苗、どうやら今は依頼に応えられそうにない」

「いえ……」

 

 早苗も現状では遂行不可能だと悟った様だった。復活した魔王とやらがここまで尋常ではない輩だとは、露ほども思わなかったのだろう。いや、例え思っていたとしてもピンと来ていなかったに違いない。幻想郷は妖怪が往来跋扈しているとはいえ割と平穏な世界なのだ。幻想郷は()()()()()()なんだと、やっとこさ納得出来ていたところだったのに、あんな未知の異形と遭遇する羽目になるだなんて想像出来るわけが無い。

 とにかく、今とれる最良の選択肢は戦略的撤退だ。流石に日光が効かないのは想定外過ぎた。一度戻って戦略を立て直す必要があるだろう。

 

 私たちは階段に立ち塞がるレミリアに背を向けて、館の出口を目指すべく歩き出した。

 

 

 魔理沙と守矢の巫女、東風谷早苗との会合後のこと。彼女たちへ伝えた通り上で待っていたのだがこちらへ来る気配が無かったので、現在図書館へ向かっている最中である。

 長い廊下をひたすらに歩き続けながら、私は先ほどの対面について少しばかりの考察を広げていた。

 

 誤解が解けなかったのは致し方無いとしても、記憶の封印を解かれたのは予想外だったと言わざるを得ない。そう簡単に突破できる封印を仕掛けたつもりは無かったのだが、やはり人間の成長は恐ろしく早いものらしい。四年前と比べて相当力を着けている様だった。

 何にせよ、彼女には悪い事をしてしまった。親切と考えて施した過去がこんな形で裏目に出るとは、運命とはよくわからないものである。

 

 しかし、彼女たちは何故絶賛引き籠り中である私をわざわざ倒しに来たのだろうか。今の私は確か、紫の手によって封印されている認識が広まっている筈だ。レミリアの監視のせいで外に出られない以上、その認識は未だ崩れていない筈である。

 

 考えられるのは、例の死体事件の犯人を私だと誤解しているパターンか。一応吸血鬼なので、干からびた死体から封印の解けた私が妖怪を襲い続けていると勘違いされていてもおかしくはない。悪評も相まって槍玉に挙げられやすいのも頷ける。

 

 であれば、私は異変の首謀者として捉えられたと考えていいのだろうか?

 

「……、」

 

 まぁそうなっているのなら、いずれ博麗の巫女が来るだろう。よくよく考えてみたらそのまま退治されてしまった方が良いかもしれない。私が退治された後も事件が続くようならば私の冤罪も証明できる上に、そこを起点に悪評を取り下げる活動を始めるのも悪くないだろう。

 そうなると、ああ、しまった。ならば魔理沙と早苗に退治されておけばよかったではないか。魔理沙に対して非礼を詫びる事しか頭になかったせいで、完全に失念していた。痛恨の失態である。色々な意味で数十分前の私を本気で殴ってやりたい。

 

 そうこう考えている内に、地下図書館へと辿り着いてしまった。何だか複雑な心境のままだが、過ぎた事を悔やんでも仕方がない。気持ちを切り替えて、当初の目的を果たすことに専念するとしよう。

 

 ノックを終え、図書館の扉を開く。

 

「失礼する――っと、ここにも来客か。今日は珍しい日だな」

 

 図書館内の客間には現図書館の管理者たるパチュリーと、いつか出会った魔理沙の友人がテーブルを囲っていた。

 フランドールよりも癖の強い、金糸の様に煌びやかな髪。フリルのあしらわれた赤いカチューシャ。青を基調とした清廉な服装。僅かに滲み出る魔に関する者の気配。

 確か、名をアリスと言ったか。

 

「その口ぶり、上にも客人が来ているみたいね」

「霧雨魔理沙と守矢の巫女が来ていた。つい先ほど帰ったところだがね」

「……へぇ? レミィが人間の立ち入りを禁じていた筈なのだけど、どうやって集中している美鈴の眼を潜り抜けて入ったのかしら。まぁそれはさておき、貴方はここに何の用?」

「このネックレスのお礼さ。先ほど紆余曲折あって日光を浴びてしまったのだが、この道具のお蔭で表皮が焼けただけで済んだ。本当に素晴らしい。代りに私にできる事があれば何でも言ってくれ」

「相変わらず律儀なヴァンパイアね。礼ならいいと言ったのに……」

 

 けどそれなら、とパチュリーは一呼吸を開けた後、

 

「彼女の相手をしてくれる? どうやら貴方に用があるらしいのよ」

 

 対面座席に腰かけている、口を固く結ぶアリスを指し示した。はて、何か彼女と由縁のある様な出来事があっただろうか。

 

「本当かい?」

「…………、」

 

 訊ねると、無言のまま値踏みをするような視線を向けて来るアリス。只ならぬ雰囲気である。どうやら魔法談義だとか、そう言った平和な用事ではないらしい。

 

「まさかアリス、君も私を退治しようと?」

「…………いいえ。厄介事に肩まで浸かる気はないわ」

 

 首を振り、否定を表す金髪の少女。今回に限ってそれは少しばかり残念である。ここで退治されていれば、冤罪の証明を少しでも早めることが出来たかもしれな――――いや、彼女に退治されてもあまり意味がないのか。妖怪が妖怪を屈服させても、それは退治ではなくただの争いとして扱われてしまう。異変解決は人間の仕事なのである。人間に倒されなければ、私の求める結果は訪れ難い。

 

 ほんの少し肩を落としつつ、私は続きを待った。

 すると彼女は、意外な言葉を口にした。

 

「吸血鬼。あなたに伝えたい事があるのよ」

「何かな」

「……私はあなたと戦わない。戦う理由がない。けれど別の者があなたを狙っている。それを伝えるために急いで先回りして来たの。……本当は、色々と備えておくようパチュリーにだけ教える予定だったのだけれど」

 

 …………この数時間の間だけで、私を狙っている人物が少なくとも三人発覚してしまったのだが、巷では私の首に賞金でも掛けられているのだろうか。なんだか、私を討伐しようと皆が奮い上がっていた大昔の雰囲気と近い臭いを感じて、内心げんなりとしてしまう。幻想郷の住人は温和でいて血の気が強いので、下手をすると私の首を誰が一番早く取るか、なんて競争もされていそうだ。

 

「わざわざ警告に来てくれたと言う事は、近い内にかなり厄介な人物が私の元へ訪れると考えて間違いないかな?」

「ご名答。――――そしてやってくる者こそが、風見幽香と言う大妖怪。四季のフラワーマスターって通り名、耳にしたことは無いかしら?」

「……」

 

 彼女の口から飛び出して来た予想外のワードに、私は己が耳を疑った。

 会ったことは無いのだが、その存在は知っている。幻想郷の中でも特に知名度の高い妖怪だ。比較的新参者の私が聞き覚えのある程度に彼女の名が知れ渡っているのは、幻想郷縁起の中でも頭一つ抜けて危険な妖怪だと紹介されているからだろう。

 

 風見幽香は長い時を生きた妖怪らしく、邪魔者や縄張りを荒らした者へは絶大な力を持って滅ぼしにかかる性格の持ち主だという。しかも純粋な妖怪としての能力――即ち身体能力が飛び抜けて高いらしく、縁起の記述から察するに鬼と負けず劣らずの力を持っていると考えられる。

 何故そのような人物が私を狙うまでに至ったのか、その経緯は分からないし心当たりも無いのだが、狙われているとあれば相当に厄介だ。わざわざ他の妖怪の縄張りを侵してまで私を狙っている所から察するに怒髪天を衝いてしまっていると容易に考えられる。仮に風見幽香が萃香と同等の実力を持った大妖怪であるのならば、妖怪の山での様な被害がここで巻き起こりかねないだろう。あの時は紫の補助があったからこそ山はほぼ無傷だったが、今回はそうもいかない。館は良くて半壊、最悪更地にしてしまいかねないかもしれない。

 

 しかし風見幽香はその圧倒的な力を持つ反面、長い時を生きた者としての礼節も持ち合わせている人物と聞く。なので出合い頭に即戦争となる確立は低いだろう。大事に至ってしまうのは変わりないかもしれないが……うむう、今日はただ座椅子探偵の真似事をするだけの日であったはずなのに、どんどんアクシデントが舞い込んで来るな。まるで因果的に事件を招いてしまっている探偵になったかの様な心地だ。

 

「知っているとも。しかし何故、私が彼女に狙われなければならないんだ? 標的にされる様な因縁など、全く思い当たる節は無いのだが」

「これよ」

 

 アリスが視線をテーブルへ――正確には、テーブル上の布を被った巨大な塊りへ――と移す。すると彼女は五指で何かを手繰る様な仕草を取り、背後に控えさせていたらしい西洋人形を巧みに操ると、謎の物体に被せられていた布をすっぱりと剥ぎ取った。

 露わになった物体に、本日三度目の驚愕を叩きつけられた。

 

「これは、」

「例の怪死事件の死体かしら?」

 

 私が答えを出すよりも早く、パチュリーがアリスへと問いかけた。アリスは視線を遺骸へ釘付けにしたまま、首を縦に動かし応える。

 

「このミイラは、幽香のお気に入りの花畑を壊して息絶えた妖怪の成れの果てらしいの。幽香はコレが生前花を荒らした原因が、第三者の介入によるものだと知って怒り狂った。その第三者として槍玉に挙がったのが、紅魔館の吸血鬼だったのよ」

 

 幽香は花を踏みにじられる行為を何よりも嫌悪するから、とアリスは付け足して口を閉じた。怒髪天を衝いているかもしれないと予測していたが、彼女の発言で確定となってしまった様子である。参ったな。

 

「う……む。事の粗筋は理解出来た。だが何故、風見幽香は私の仕業だと勘繰ったのかな? その結論へ至った証拠の出所が引っ掛かる」

「正確には、幽香が疑っているのはレミリアもしくはフランの方なのよ。で、あなたをピンポイントに疑っているのは、むしろ私の方」

 

 人形使いの少女は立ち上がり、快晴の夏空の様に蒼い瞳を私へ向けた。銀の槍を携えた人形を従え、その手には魔導書を抱えている。控えめに見ても戦闘態勢と受け取れた。

 

「この遺体からは西洋魔術の痕跡が見つかったわ。幻想郷で西の技術を使える魔法使いはそう多くない。魔理沙はまだ半人前だし、インドア派の極みみたいなパチュリーもわざわざ外に出てこんな事件を引き起こすとは考え難いし、メリットも見当たらない」

「ちょっと?」

「となると他に考えられる使い手と言えば、異変の元凶(前科持ち)たるあなたたちに絞られるのではないか、と私は考えたのよ」

 

 西洋の魔法……か。確かに極東の地であるこの幻想郷では、中々お目にかかれる技術ではないだろう。西側の色が強い私達へ矛先が向くのは当然の帰結と言える。決め手となった魔法の他にも、西洋の文化が色濃く浮き出ている紅魔館であった事や、死体の惨状から血液を啜り生き永らえる吸血鬼に疑惑の眼が向きやすかった点などが、彼女たちの疑いを後押しする要因となったのだろう。

 

 干からびた死体。西の魔法。吸血鬼。縁起による私の風評被害。最悪の第一印象。

 

 成程、私は気付かぬ間にリーチを掛けられていたという訳か。流石にここまで露骨な要素が並べられては、疑わない方が不自然と言えるレベルである。

 

 しかし何故わざわざ私へ教えてくれたのだ? ――と思ったが、言動から察するに、アリスはここで私と相対するつもりなどさらさら無かったらしい。ただ彼女にとって友人であるパチュリーに被害が及ぶかもしれないと配慮した結果、風見幽香よりも早く先回りしたのである。そこで偶然私と鉢合わせた為に、こうして真意を問おうとしている訳か。

 

 彼女は人形に持たせている銀の槍よりも尖った視線を私へ浴びせながら、桃色の唇を操り声を紡ぐ。

 

「正直、あなたの事なんて欠片も知らない。けれど、あなたが常軌を逸した存在である事くらいは理解しているつもりよ。だから……単刀直入に切り込むわ。あなたがこの妖怪に何か細工を施した元凶ね?」

「違う」

 

 人形使いの少女が投げた言葉を、私は両断し切り捨てた。今まで通り曖昧な解答をしていては誤解もまた増えてしまう。直せるタイミングを掴めたのならば、積極的に修正していかなければなるまい。

 眉を顰めるアリスに向けて、私は一息の間を空け、告げる。

 

「私は、諸事情あってつい数週間前まで長い眠りに就いていた。おまけに目覚めてから、レミリアに屋外へ出歩くことを固く禁じられていてね。君や風見幽香を翻弄している怪事件の内容も、つい今朝知ったばかりという程なのだよ」

「……あなたの様な妖怪が長い休眠をとるのは、まだ理解出来なくもない。パチュリーからも耳にはしていたし、紫だって冬眠するからね。けれど、タイミングがあまりに不自然すぎるんじゃないかしら。何故こんな()()()()()()()に目覚められたの? 偶然にしては出来過ぎと考えるのが妥当よね」

「残念ながら偶然と言う他ないのだ。しかし当然、こんな言葉だけで信用を得るのは難しいと理解している。なのでパチュリーに聞くと良い。彼女ならば、私のアリバイを証明してくれるはずだ」

「……」 

 

 アリスの鋭利な疑惑の眼差しは一向に丸みを帯びる気配を見せない。無理もないか。私を知る者は昔から、何かしらの厄災が起こると必ず私へ結び付けてしまうのだ。それもこれも全てこの忌々しい魔性が原因である。この瘴気さえ無くなればとどれ程願った事か。

 だが憂鬱になっても仕方がない。今回は丁度良く、アリバイを証明してくれるパチュリーが居る。彼女の言葉なら、アリスの棘を引き抜く事もできるだろう。

 

「パチュリー、彼の言っている事は本当なの?」

 

 視線と疑問を託されたパチュリーは、静かに唇を開き、

 

 

 彼女が言葉を発するより先に、突如として爆撃を思わせるかの様に盛大な爆発音が図書館へ轟き、揺るがした。

 何の前触れもない突然の爆発は、地上ではなくこの図書館から巻き起こった。方角からして、紅魔館の出口へと続く天井部分。そこから硝煙が逆さキノコのように膨れ上がり、瓦礫の土砂を本の森へ散乱させる。

 急激な事態の変化へ真っ先に反応したのは、私でもパチュリーでもなくアリスだった。

 

「まさか、幽香……? そんな馬鹿な、彼女はまだ人里付近にまでしか辿り着いていないはず。なのに、こんなに早く到着するなんて!」

「? ナハトを狙ってるのなら一目散にここへ来る筈じゃ―――ああ、そう言えば風見幽香って相当マイペースな妖怪だったっけ。月面旅行の記念パーティーの時もかなり遅れていた記憶が……ってそんな事はどうでもいいか。なんにせよ貴重な蔵書を壊されちゃ堪らないわ。早々にお帰り願おうかしら」

 

 手元に魔導書を召還したパチュリーは、空気へ腰かけるようにして浮かび上がると、背後に七色の魔法陣を召還させた。

 応じて、私自身も援護に向かおうと魔力を漲らせる。元より風見幽香の狙いは私だ。ここから去れば図書館への被害も最小限に留められるだろうし、幾らか相手をすれば彼女の機嫌も紛らわす事が出来るかもしれない。

 

 だがそう思慮した私の進行を、アリスの魔力糸が食い止めた。

 その瞳に宿るは、明確な敵対の遺志。

 

「私はあなたを信じている訳じゃない。むしろ、今の私は幽香の味方よ。彼女の代わりに私が相手をするわ」 

「別に、無暗に争うつもりなど無いさ。話をして誤解を解くだけ――――む?」

 

 サファイアの様な双眼へ無実を訴えかける最中、私は、視界の隅に違和感を感じ取って目を向けた。

 アリスが持ち込んだ、ミイラのサンプルが安置されているテーブル。

 しかしそこに、ある筈の物体は存在せず。私の目に映っているのは、どう見てもテーブルの木版のみで。

 

「――――死体が、無い……?」

「!?」

 

 私の言葉に、アリスも驚愕し目を見開いた。私も彼女と同じ心境だったことだろう。

 音も無く、気配もなく。まるで遺体が神隠しにでも遭ったかのように、忽然と姿を消したのである。

 何が起こったのかを把握し終えたその瞬間、私の脳裏に稲妻の様な閃光が走り抜けた。

 

 不自然な爆発。遺体の消失。

 そして、来客があったにも関わらず一度も姿を見せない彼女はどこだ?

 

「まさか」

 

 大図書館中を探るように、四方八方へ眼を向ける。

 そして私は、地下図書館の出入り口で視線を固定させた。

 小悪魔がいた。

 今の今まで姿を見せなかったパチュリーの従者が。脇に大きな遺体を抱えたまま、こちらを生気のない瞳で呆然と眺めていたのだ。

 

 何故彼女がそこに? 何故彼女が遺体を? 

 

 疑問は尽きる事なく、脳髄から湯水の如く湧き上がる。しかしどれもこれも、答えを得るヒントとは成り得なかった。

 ただ一つ言えるのは、あの爆発は陽動だったという事だ。アリスやパチュリーと比べると圧倒的に力の弱い小悪魔がどうやってあの規模の爆発を引き起こし、遺体を私に悟られる事無く奪取してみせたのかは分からないが、爆心地へ向かったパチュリーから何時まで経っても弾幕による戦闘音が響かない事から風見幽香の襲撃でないのは明白だ。

 

「小悪魔!」

 

 司書の名を叫ぶ。しかし彼女は、ただ不自然に頬を釣り上げ不気味な笑みを浮かべるのみで。

 直後、小悪魔は霞に呑まれたかのように姿を消した。

 

「テレポート……?」

 

 傍で一部始終を眺めていたアリスが、ポツリと呟いた言葉。私が知りうる小悪魔の魔法技能では有り得ない事だが、彼女は確かに魔術の類で空間を歪め、転移して見せたのである。座標の特定と空間の操作には、相当高度な魔法技術が要求されるというのに、だ。

 あまりに不可解な現象の連続が、私の脳を驚愕一色に染め上げる。

 

 小悪魔に何が起こったのかは分からないが、彼女の身に異常事態が起こった事は確かだろう。契約でしか結ばれない従者と主人の関係でありながら、主従を超えた信頼をパチュリーへと寄せている彼女が、こんな勝手な行動に出る筈がない。そもそも彼女に遺体を盗む理由が、全くもって見当たらない。

 けれど小悪魔の行動はまるで、これ以上遺体を調べられるのが不都合とでも言わんばかりのアクションだった。仮に小悪魔にとって遺体の秘密を探られるのが不都合なのだとしたら、もしかしなくとも、この事件の黒幕とは……?

 

 ふと、朝方の彼女との会合が、微かに脳裏へ過った。

 

 確か小悪魔は、珍しく不調を訴えていた。それも私を前にして、衰弱ぶりを隠せない程に弱っていたのだ。元々人外が肉体の不調を訴えること自体が珍しいのに、この事態である。偶然とは到底思えない。

 嫌な予感が、水垢のように精神の表面へこびり付くかの様な感触。私はそれを拭い去るように、上空のパチュリーへ向けて声を張り上げた。

 

「パチュリー、その爆発は陽動だ」

「ええ、たった今気がついたところよ。風見幽香は来ていない。――――そして貴方の意図は分かっている。任せて頂戴」

 

 説明は不要。パチュリーは上空に居座ったまま、細く呪文を唱え始めた。

 小悪魔はパチュリーに召喚された使い魔、即ち従者だ。契約者の命令は絶対であり、契約者が特定の魔術記号を唱える事で強制的な命令を施す事が可能となる。つまりパチュリーは、独断行動を行った小悪魔を、この場を呼び戻そうとしている訳だ。

 しかし、呪文の後に訪れたのは、パチュリーの困惑を帯びた声だった。

 

「どういうこと……? あの子から命令を弾かれた」

「なんだって?」

「止まらない……! どれだけ呪文を与えても止まらないのよ!」

 

 滅多な事でも取り乱さない七曜の魔女が明らかな動揺を露わにしている光景は、事の異常性を如実に物語っていた。

 一体何が起こったのか――ただその一言に尽きる出来事だった。あらゆる予測から外れた連続のイレギュラーが、この場に居る全ての者達へ混乱を植え込んだのだ。

 だが戸惑っている場合ではない。如何なる理由があるにせよ、まるで私たちの目から遠ざけたいが為に遺体を奪い去ったかの様な小悪魔は、一度連れ戻さねばならない。

 パチュリーの命令が効果を発揮しない現状、この中で最も素早い私が動くのが最善か。外は昼間だが、首飾りのある今なら多少の無茶は働ける。直ぐに追いついて、直ぐに連れ戻せばいいのだ。

 

 私は空間転移の痕跡を辿りながら、豪速を伴って地下図書館から飛び出した。

 

 

 

 

「レミリアの奴……完全に弱みを握られてやがるな。プライドの高いあいつが館を乗っ取った野郎に『あの方』だなんて敬称を使うわけが無い。あいつは、そう易々と誇りを捨てる様な奴じゃあない。絶対に何かある。待ってろよ、直ぐにナハトをぶっ倒して助け出してやるからな……っ」

 

 紅魔館の館を後にした直後。ようやく抜けた腰が戻った私は、魔理沙さんと共に霧の湖をゆっくりと横断していた。

 今日は視界が普通に確保できる程度に霧が薄く、日輪は湖からも顔を拝むことは出来るけれど、やはり水辺は秋の気候も相まってかなり冷え込む。しかも嫌な汗を沢山かいてしまったせいで余計に寒く感じてしまう。

 その寒さを紛らわせるようと私は唇を動かす。たった今そこで経験した出来事の中で、歯の間に引っかかった小骨のように取れない違和感を、魔理沙さんへ打ち明ける事にしたのだ。

 

「あの、魔理沙さん。少し気になった事があるんですけど」

「……なんだ?」

「彼は――ナハトは、本当に邪悪極まりない吸血鬼なのでしょうか?」

 

 質問を振られた彼女の顔は、何を問いかけられたのか分からないと言う風に、空白の表情を貼り付けて。

 直後、魔理沙さんは血相を変えて私の肩へ掴みかかって来た。

 

「どうしたんだ早苗……!? まさかさっき奴に洗脳でもされて――」

「違います違います! ただ、少し彼に――いえ、正確には彼の現状に違和感を感じただけですよ」

「違和感?」

 

 魔理沙さんの鸚鵡返しに私は首肯を示し、続ける。

 

「縁起の情報によると確か、あの吸血鬼は過去に吸血鬼異変、永夜異変、そして四年前の妖怪の山での事件と三つもの大きな事件を引き起こして、その度に賢者や力の強い妖怪によって打倒されているんでしたよね?」

「らしいが、それがどうした?」

「おかしくありませんか? ここまで前科を重ねていて、しかも筋金入りの悪妖怪であるならば、幾ら何でもこの現状を妖怪の賢者が黙って見過ごしている筈がないと思うんです。ましてや今まで彼を封印していたのは他ならぬ賢者自身。あの紫さんが、封印が解けた事に気付かずそのまま放置するだなんて有り得る話でしょうか?」

 

 これ以外にも違和感を感じた部分はある。咲夜さんとレミリアさんの妹君だ。

 魔理沙さんの言う通り弱みを握られているというのならば、果たしてあの様に和気藹々と生活を営んでいられるだろうか。私には到底考えられない。例え演技に徹しているとしても、あんなに楽しそうに過ごすなんてどう足掻いても不可能だろう。もっと言えば妖精のメイドさんだっておかしい。本当にあの悍ましい吸血鬼に支配されているのならば、良くも悪くも純真無垢と名高い妖精が、平常心を保っていられるワケが無い。

 

 あの様子はまるで、吸血鬼ナハトが最初から『生活環境の一つ』として受け入れられているとでも言わんばかりの風景だった。そこに私は強い違和感を感じたのだ。

 

「……すると奴は、別に放置していても問題ない妖怪だと認識されてるってワケか? 有り得ない。封印を長引かせるために(アイツ)は阿求を介して情報操作したんだぜ? 他ならない、あの紫がだ。お前はあまり知らないのかもしれないが、紫が直接出張ってくるなんて滅多に無いことなんだよ。余程の事態じゃなきゃあ、アイツが表立って行動するのは稀なんだ」

「しかし、それでは尚更彼を放置したままでいるこの現状が、矛盾している事になりませんか?」

 

 私には、今見て体験した出来事の中に、明らかな間違いが紛れ込んでいる気がしてならなかった。それは本当に些細な矛盾の感覚。金魚すくいの水槽の中、小赤の群れに一匹だけ赤い鯉の幼魚が混ざっているかのような、パッと見ただけでは気付けない程度の違和感だ。

 魔理沙さんは顎に手を当てて暫く考える素振りを見せると、徐に帽子の眼深く被り直して。

 

「……なんにせよ、奴を放置しておく理由は無いだろ」

「魔理沙さん?」

「早苗だって、骨身に染みるほど分かったんじゃないのか? あれは危険だ。どう考えても幻想郷に見合った妖怪じゃあない。例え今は大人しくても、いつか必ずデカい事件を引き起こすに決まってる。それも致命的に質の悪い大異変を、だ。ならそうなる前に、私たちの手で一刻も早く始末を着けておかなきゃ駄目じゃないか」

 

 ――雰囲気が、変わっていた。

 

 それは、ほんの僅かな変化だったのかもしれない。気紛れに装飾品の色を変えてみただとか、そんな程度の小さな変化。しかしそれは、私の眼には明らかな異変としてくっきりと映り込んでいた。

 だって、どこか斜に構えた振る舞いを崩さず、しかし冷静沈着で分析能力に長けている魔理沙さんが、考える事を半ば放棄していたのだから。

 

「……ん? 何の音だ?」

 

 ふと、背後から何やら爆発音の様なものが聞こえたかと思えば、魔理沙さんは上空へと眼を向けた。私も釣られて空を仰ぐ。

 すると、青空の中で空間転移を繰り返し、目にも止まらぬスピードで移動している謎の飛行物体と、それを追って空を切り裂く黒い吸血鬼の姿があった。

 何の前触れもなく訪れた突拍子もない光景に目を奪われ、呆然とその光景を見過ごしてしまう。しかしそんな状況下でも、魔理沙さんは嫌に冷静な態度のままだった。

 

「あれは……人里の方角へ向かってるな。野郎、あのまま人間を襲いに行くつもりかもしれないぞ」 

「えっ?」

 

 魔理沙さんから発せられた言葉に、私は思わず疑問符を浮かべてしまった。

 確かにアレは人里の方角へ向かってはいたが、私には吸血鬼が飛行物体を追っている様にしか見えなかった。ただ方角が同じだけなのかもしれないのに、どうして魔理沙さんは、真っ先に人間を襲いに行ってると解釈したのだろう。

 

 確かに、魔理沙さんの言う通りあの吸血鬼は危険なのだろう。それは彼女や霊夢さんのように、百戦錬磨の経歴を持つ方たちと比べて圧倒的に経験の少ない私でも理解できる。けれど、私はあの吸血鬼を取り巻く真実が()()()()()()()()と思えて仕方がないのだ。

 正確には、吸血鬼に対する評価に何処か食い違いがあるように思えてならない。危険なのは百も承知している。だけど、多分それだけじゃない気がする。実際の紅魔館を見ていて、私は確かにそう感じたのだ。

 こんな違和感、普段の魔理沙さんなら絶対見逃さないだろう。彼女の年齢にそぐわない頭の切れに、私が何度舌を巻いた事か。類稀なる努力と持ち前の器用さであらゆる困難を跳ね除けてきた少女が、この程度の疑問を抱かないなんて考えられない。

 

 けれど、今の魔理沙さんは考える事を放棄している。いや、思考の方向性が狂っている様にすら見えた。ハッキリ言って様子がおかしい。まるで一つ歯車を抜き取られた機械のように不自然だ。

 

 あの吸血鬼を前にした時とは別の種類の嫌な汗が、じんわりと背中へ滲む。

 不気味だ。私は、魔理沙さんの事を不気味だと思ってしまっている。

 彼女は。

 私の目の前に居る、この魔法使いの女の子は。

 

 本当に、私の知っている霧雨魔理沙なのだろうか?

 

「そう言えばあの晩、奴は私の八卦炉を触って火傷をしていたな。……奴を打ち負かす術は無いと思っていたが、こいつが使えるかもしれない」

 

 既に見えなくなった飛行物体を未だ視界に収めているかの様に、彼女は一切視線を外すことなく、帽子の中のナニカを握りしめながら呟いた。

 そんな彼女の瞳は、神託の使命感に駆られている狂信者のような、盲目的な光を灯していて。

 吸血鬼ナハトを倒すこと以外は眼中に無いと言わんばかりの、異常過ぎる執念の炎が、傍目から見てもハッキリと感じられるほど、瞳の奥で燃え盛っていた。

 

「奴だけは絶対に始末しなければならない。どんな手を使ってでも、アイツはこの幻想郷から消し去らなければならない妖怪なんだ。絶対に、絶対にだ」

 

 とても、怖い目をしていた。




 
 魔理沙が何やら怪しい雰囲気。
 一応明言しておきますが、普段の彼女なら絶対こんな物騒かつ穴と矛盾だらけの考えには至りません。ナハトに対する考察も含めて。

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