【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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 さとりんパートだけで9千字超えちゃった……



26.「古明地さとりは静かに暮らしたい」

 私は本が好きだ。

 

 本は良い。知的生命体と違って醜い心を持たない本は()()()()嫌な気分にならない。それに奇想天外な活字の世界は『(さとり)』の性を持つ私にも先の展開を読むことなど叶わないから、ページを捲るたびに心地いい刺激を与えてくれる。なにより静かだ。これは大きい。今の私の部屋の様な、ただページが裏返っていく音だけがBGM代わりの素晴らしき静寂の世界で本が口煩く喋ったりなんかしたら、折角の清涼な雰囲気もぶち壊しだろう。

 

 おほん。

 

 私の名は古明地さとり。種族は覚妖怪。年齢は秘密。無論独身だ。

 巷では心を無作為に読み取るこの第三の眼(サードアイ)を使って、他人の心を抉る趣味を持ついけすかない妖怪だと囁かれているけれど、実はそんな事は無い。いや、昔のやんちゃしてた時は確かにそうだったかもしれないが、誰にでも若さ故の過ちはあるものだろう。黒歴史と呼ばれるアレだ。日夜ベットで己を苛むほろ苦い毒である。私の黒歴史がソレなのだろう。まぁ、それで痛い目を見たお蔭で平穏の尊さを実感できたのだから、私専用に黒教材と名前を変えておくとしよう。

 

 話がそれた。ええと。つまり今の私は、人を弄ぶ意地悪妖怪を卒業した身なのだ。そもそもパワーイズジャスティスの風潮が未だこびり付いている旧都で私の様な貧弱もやしがあまり大きな顔をすればどうなるか、想像に難くないでしょう? 

 

 さておき。だからと言うか、私は本と同じくらい平穏な生活が好きだ。

 朝八時を目標に起きて一杯の珈琲から一日を始め、ペットと和やかな時間を堪能したら仕事へ取りかかり、きっちり十七時に仕事を止めて、午後の余暇を本と共に静かに過ごし、自前の温泉で垢を落としたら、無垢になった体をホットミルクで更に浄化して床に就く。そんな生活こそが私の生き甲斐であり、今後も保ち続けていきたいと願う数少ない目標なのだ。

 

 だが最近は、平穏な生活が乱されてしまうイレギュラーな日々が続いてしまっている。

 

 と言うのも、近々ここ地霊殿へ新たな入居者がやって来ることになったからだ。なんでも諸事情あって地上を追放されてしまった妖怪が来るらしい。更にまた諸事情あってその妖怪は人口の多い所へ住めないらしく、そこで人気が少なく居住スペースを持て余している我が地霊殿に白羽の矢が立った訳だ。

 

 これを聞いても、それの何が問題なのかと首を捻られる事だろう。

 私が頭を抱えているのは、件の妖怪の素性にある。

 

 閻魔様が言うに、種族は吸血鬼らしい。地底引き籠り選手権栄えある第一位を獲得し続けている私でもその種族名は知っている。色んなフィクションに登場するし、この間妹が地上から持って帰った幻想郷縁起なる本にも細かく記載されていた。

 

 というか、思いっきりその人物がデカデカと取り上げられていた。

 

 曰く、常に命を蝕む邪気を放ち続けている凶悪な妖怪で、吸血鬼の逸話の元となったような怪物らしい。心を読む事しか能の無いちっぽけな私と比べれば、まさに蟻と象の如き対極位置に立つ存在と言える。しかも男だとか。吸血鬼は色物家が多いと噂されている上に縁起には子供を虐げる趣味を持つと書いてあるから、幼児体系の私が狙われないことを祈るばかりである。

 

 ただ不思議な事に、閻魔様はこの本に書かれている事の九割が眉唾で、実際は非常に礼儀正しく人畜無害な紳士だと言っていた。彼女は頭の中も白黒はっきりしているので、第三の眼でも会話から脳内に連想されるはずの吸血鬼ナハトを読み取る事が出来ず、本当にそのような人物なのかどうかは分からなかったのだが、まあ閻魔様がそう評価したのならそうなのだろう。

 

 が、だからと言って私が安心出来る理由にはならないわけで。そもそも上を追放されるなんて、余程の事をしでかすか私の様に嫌われるかしないと有り得ないわけで。仮に性格は良くてもヤマメさんの様に能力が凶悪極まりないような人物かもしれないわけで。

 つまるところ、どっちにしたって問題児を引き受けることは確定なのである。

 

 問題児じゃないと謳うならせめて件の人物が追放された理由を聞かせて欲しかったのだが、『地底に必要以上の情報を流してしまうと、もし漏れた場合彼らの作戦が破綻しかねない』とかなんとか心から訴えられて教えて貰えなかった。まず作戦とはなんぞや。もう既に不安要素バリバリである。

 

「まったく、どうしてこんな事を引き受けちゃったのかしら……」

 

 もう何年分吐いたかも分からない溜息が、ぽろりと口から零れ落ちる。

 憂鬱だ。閻魔様相手じゃあ引き受ける以外の結末から逃れる事など出来ないと、相談を持ち掛けられた瞬間から心得ていた筈なのに、やっぱり気分は憂鬱だ。

 

 そもそもの問題。この地霊殿――ひいては灼熱地獄と怨霊の管理を引き受けたのだって、立地やら生活環境やら仕事やらその他諸々が、私の欲する至高にして至純の孤独生活とマッチしていたからこそに他ならない。なのに訳の分からない同居人が増えては意味がない。

 同居人なんて、ペットと違って気を使わないといけないから嫌いだ。おまけに私を癒してくれないじゃないか。もふもふの妖獣だったなら、まだ救いはあったのだけど。むしろゴッドハンドさとりと恐れられた撫でスキルに賭けて懐かせてみせるのだけど。

 

「はぁ」

 

 ああ、忌々しい、忌々しい。お蔭で最近は全然本の素敵世界に入り込めない。そもそも同居人はいつやって来るんだろう。さっさと新入居者をマイルームから一番距離のある部屋へ割り当てて、元の安寧な生活へ戻りたいのに。

 

 やはりどうにも気分が晴れないので、私は仕方なく椅子を引いた。コーヒーでも飲んで気分を変えようと自室のミニキッチンへ向かい、湯を沸かす。

 

 むふふ。やはり自室に台所を増設した私の判断は間違っていなかった。わざわざお燐に持ってきてもらう必要も無いし、気分に最も合った飲み物を自分で淹れられる。それに豆の香ばしさが鼻腔を擽るこの一時は、私のお気に入りの時間でもある。

 

 暫くして、出来上がったコーヒーをカップへ移し、一口啜る。香り豊かな苦みと酸味が口いっぱいに広がって、脳がフレッシュされていく爽快感が訪れた。

 

「うーん、美味しい」

 

 不思議なものだ。昔はこんな苦いの絶対飲めないと思っていたのに、今じゃ一日一回は飲まないと落ち着かない。ちょっぴり大人な気分になって、奇妙な優越感が湧いてくる。

 

 そんなほろ苦い癒しにほっこりしていると、連続したノック音が唐突に響き渡った。

 

 このノック、番犬ならぬ番鳥ちゃんのものだ。ずっと鳴りやまないのは、嘴で必死にドアを叩いているからだろう。

 一先ずカップを置き、ドアノブへと手を掛けた。

 

「はいはい。あら、やっぱりあなただったのね」

 

 ドアを開けると、予想通り扇鷲ちゃんが凛とした佇まいで視界の下に居た。

 第三の眼を駆使して彼の心を読む。これのお蔭で動物との意思疎通は得意分野だ。

 

「用件は何かしら? ……ああ、件の人が来たのね。報告ありがとう」

 

 噂をすればなんとやら。例の新入居者が漸く到着した様だった。どうやら勇儀さんがこちらへ向かわせているらしいので、最後に身嗜みでも整えようと扇鷲ちゃんにお礼を伝えて踵を返す。

 しかし何故か袖をつままれ、行動を止められた。ちょっと待てと言っているらしい。

 振り返って再度心を読めば、一緒に居ると彼は訴えていた。事務連絡以外ではあまり自分の意見を示さない寡黙な彼が、積極的にコンタクトをとろうとするなんて珍しい事もあるものだ。

 何かあったのかと、心を観察する。

 

「……なに? あのお客さんが私と会うのは危険だから一人で相手させられない?」

 

 どうやら彼は、やってきた入居者を怖がっている様子だった。威厳のある見た目に恥じない神経の太さを持つ彼がここまで怯えるなんて、一体来訪者殿は何をしでかしてくれたのだろう。

 殆ど妖怪化の進んでいない動物からは、簡易的な感情や意思しか伝わってこないのがネックだ。その場で起こった出来事を鮮明に読み取ることが出来ない。お燐やお空くらい力を得た子ならちゃんと読めるのだけど。

 

 取り敢えず不安を取り除くために腰を下ろす。優しく頭を撫でながら、精一杯微笑みかけた。

 

「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。映姫さんが人畜無害な人格者だって言ってたから身の危険は無いわ。閻魔様のお言葉がどれだけ信用に足るか、あなたも知っているでしょう?」

 

 もっとも、彼女が入居者さんの説明をする時に『精神に影響を及ぼす特異な瘴気を放っているから呑まれぬよう』やら『しかし瘴気自体に害はありません』だとか気になる事を言っていたが、多分大丈夫だろう。こう見えても私はブチ切れモードの鬼と真っ向から対峙出来るくらいタフな精神力を持っているのだ。そもそも精神衛生上よろしくない心ばかりを目にしてしまう覚妖怪が豆腐メンタルでは、色々と問題になってしまう。……妹が、その最たる例だ。

 さておき、精神干渉に関して私ほど耐性のある妖怪は地底に二人といない。腕っぷしに自信は無いけれど、そこだけは胸を張って言える。えへん。

 

「それじゃあ、お客さんをお迎えする準備をするから、あなたは持ち場に戻って頂戴」

 

 どうしても私を一人にさせたくないと渋り続けた彼だったが、宥め続けて漸く折れてくれた。大方、映姫さんの言っていた瘴気に当てられたせいで少し混乱しただけなのだろう。ちょっと休めば回復する筈だ。

 今日はもう休むようにと伝えて、部屋へ戻る。すぐさま自室の整理を始め、姿鏡で身嗜みを軽く整えた。

 これからの共同生活でほぼ関わる事は無いだろうと言えど、私だって女なので最低限の清潔感は保っておきたい。それに何より、力の強い妖怪に第一印象で舐められては非常に不味い。

 妖怪は力でモノを語る脳筋生命体だ。だから私の様な頭脳派モヤシ妖怪はハッタリでも威風堂々としておかなければ、吸血鬼の様な怪物にはあっさり手のひらで転がされてしまう。それは言うまでも無くよろしくない。

 

「……よし。これで大丈夫」

 

 心構えも準備バッチリだ。いつでもどんとこい。そして光の速さで部屋を割り当て、平穏な古明地ライフへ戻るのだ。

 

 と、言ってる傍からノックが鳴った。やっとお出ましらしい。

 

「はい、今出ますよ」

 

 返事を投げつつ、急がずゆっくり歩いていく。

 ドアを。

 開けた。

 

 

 

 でっかい 男が いた。

 黒づくめで 紫の眼の 男が。

 その男の 心は。

 

 心は。

 

「――――――!!?」

 

 ドアを開いた瞬間、第三の眼に飛び込んできたもの。それは途方もない黒によって塗りつぶされた、激しいノイズの応酬だった。

 無間地獄の闇の様に、光すら捕えて離さない純黒の渦。本来形すら保っていられない筈の暗黒が、男の内側でぐじゅぐじゅと胎動していたのである。

 異様な心象風景が第三の眼に焼き付いたその瞬間。まるで黒曜石で出来た砂嵐が第三の眼に突き刺さって来るかのような、筆舌に尽くしがたい激痛が頭蓋の内側に襲い掛かった。それは私の神経をあっという間に侵食、活動をブロックし、動作の選択肢を破壊していく。しかし顔の筋肉だけは、はっきりと歪んでいく感触があった。

 声を張ろうにも喉は震えず。心の中で悲鳴を上げるも、体は石像の様に動かない。今すぐにでも逸らしたい第三の眼は意思に逆らって絶えず男を見つめており、私の頭へドス黒いノイズを垂れ流し続けた。

 

 やばい。これは冗談抜きにやばい。

 このまま見続けたら、間違いなく私のナニカが壊れる――――いや、跡形も無く消えてしまう!

 

 視界が明滅していく。血流の感触が失せた。呼吸なんて、とっくの昔に止まっていた。 

 私が耐え難い苦悶の嵐に喘ぐ中、男は薄く口を開いて、

 

「こんにちは。はじめま」

「ッ!!」

 

 その言葉が私の起爆剤となった。

 声が耳に入り込んだ瞬間。凍り付いていた私の神経が一斉に目を覚ましたのである。すると私は、膨大な熱を湛える鍋を触った時の様に、反射的にドアを閉めてしまった。

 力を籠めすぎたせいか、叩きつけるような音が耳を打つ。

 しかしドアが男と私の間を隔ててくれたおかげか、今の今まで私を侵食していた深淵の底で揺蕩う怨念の如きノイズはピタリと止み。

 痛みが、嘘のように引いていった。

 

「な。なななな、なんっ、なんっ……!?」

 

 一歩、二歩、三歩。私の意思など無関係に、体はどんどん後ろへ下がっていく。来客用のソファーに躓くと、私は見事にひっくり返った。

 視界が天井へ強制移動する。仄かな照明が網膜に染み入り、酷く眩しい。私を受け止めたソファーのクッションの感触が、嫌な現実感を与えてきた。

 と、同時に。まるで間欠泉が噴き出すが如く、心臓が一気に血液を送り始めて。

 血の熱と共に、思考が徐々に加速を開始した。

 

「あばっ、あばばっ、あばばばっ」

 

 何。

 何あの男。

 何あの心!?

 

 心を持つ者ならば神だろうが悪魔だろうが表層心理を読み解くこの第三の眼をもってしても、欠片も奴の思考を読み抜けない。いや、()()()()()()。第三の眼が、あのノイズを解析する事を無意識に拒否している様に感じた。拒否したからこそ、ノイズとして目に映った様にさえ思えた。アレを解読すれば最後、私の心は黒い砂嵐の中に取り込まれて消えてしまう――そう『覚』の本能が告げていたのだ。

 あんな妖怪、今まで出会った事がない。あんな、あんな底の見えない黒を精神へ纏わせて――いや、精神が黒そのものな妖怪なんて、見たことがない!!

 

 ――ふと、胸元に違和感を覚えて視線を向けた。

 絶句。

 

「……は!? えっ、あ、あれ? ふぇっ!?」

 

 第三の眼が白目を剥いていた。

 あの莫大な黒の情報をシャットアウトしようとしたのだろうか。我が体の一部ながらどうしてこんな事になっているのかまるで分からない。こんな事初めてだ。いやそもそも第三の眼は白目を剥けるんですかと、長い覚生の中で今初めて知ったくらいだ。

 

「どうなってンのこれ……!? 戻りなさい、このっ! 戻れ戻れっ!」

 

 ………………戻んない。

 どうしよう。揺すっても、叩いても、引っ張っても、痛いだけで白目が元に戻らない。どうしようどうしようどうしよう。

 いかん泣きそう。これは堪らん。本気で涙腺決壊五秒前だ。この私が不安や恐怖で涙ぐむなんて、大昔に喧嘩した妹から大嫌いだと叫ばれた時以来な気がする。

 いや、いやいやいや。今はそんな事はどうでもいい。それよりも外で放置しているあの男をどう対処するか、そしてこの第三の眼をどうやって元のクリクリおめめに戻すかが問題だ。

 

「どう、どうする? どうすればいいのっ? い、いいえ。パパパニックになっては駄目。かん、考えるのよ。冷静に、深呼吸して考えるの古明地さとりっ。ひっひっふーよ、ひっひっふー」

 

 男から感じた尋常じゃない恐怖とインパクトによるショックのせいか、さっきから舌も頭も全然回ってくれない。それが一層私を焦りの蟻地獄へ沈みこませていった。

 

 落ち着け。落ち着くんだ私。長い妖怪生の中で、こんな危機的状況が今まで一度も無かった訳じゃあないだろう。絶体絶命の時こそ冷静であるべきだ。

 そう、私は頭脳派妖怪の古明地さとり。今までどんなピンチだろうと、相手の心を読みつつ思考を武器にして網の目を掻い潜り、生き残ってきた女だ。今回だって、相手の心を読みつつ、ドライな思考を駆使して乗り切って――――――

 

「乗り、切って」

 

 

 あいつ、心読めないじゃん。

 

 

「ふぇ」

 

 

 ……こ……こんな事がっ。こんな事が、あっていい筈がない……!

 誰にも干渉されず、誰にも干渉しない。小川で暮らすサワガニよりも穏やかな生活を送りたいだけのこの私がこんなッ、こんな中枢神経が処理落ちどころか爆発してしまいそうな不幸に、巡り合っていい筈がないッッ!!

 

「うぐっ、おのれ四季映姫めぇぇ……! 無害な人って言ったじゃん嘘つきぃぃ……!」

 

 彼女の言っていた人畜無害とはどんな意味なのか、脳内辞書で思わず検索してしまう。しかしどう探ってもアレは私の中の人畜無害と違う。人畜無害とは、生まれて間もない子犬のような存在を指すのだ。断じて冥界の三つ首番犬を太郎とか名付けて散歩させてる様な、ぶっ飛んだ怪物を示す言葉なんかじゃあない。断じて。

 

「…………」

 

 人は極度の危機的状況に陥ると、かえって冷静になる時があると昔本で読んだことがある。それは危機に瀕した生命が、その状況を打開しようと一次的に脳をフル覚醒させるが故に起こる現象なのだとか。

 

 例に漏れず、私の頭は木々の生えない高山地帯の様に静まり返っていた。

 

 終わった。ああこれは終わった。

 私の平穏な覚生に今、終了の鐘がごーんごーんと鳴り響くのをこれ以上なく実感した。もう駄目だ。せっかく一歩も地霊殿から出ずとも快適な生活を送れる永久機関コメイジ・システムを完成させたというのに、こんなにも早く崩壊が始まってしまった。まだ五百年もダラダラするノルマが残っているのに。……残っているのに!!

 

「……何か。何か無いのかしら。この状況を打開できる、切り札は無いの……!?」

 

 嫌だ。このままあの男に心を掻き乱されたまま生活するなんて絶対に嫌だ。なんとしてもこの現状を打破しなければ――少なくとも彼と最低限の接触で過ごせるようにしなければ、私はいずれストレスで首を掻き毟って灼熱地獄に身を投げかねない。最大限精神的ダメージを減らす環境を、今から構築しなければ。

 必死に頭を捻る。前頭部が熱を持ち始め、痛みは無いのに頭痛を抱えている様な気分になった。多分、ここ数年で一番頭を働かせているのではなかろうか。今なら新たに推理小説が一冊書けそうな勢いだ。

 

 ふと。

 あらゆる可能性を取捨選択していた私の脳裏に、一筋の光明が射し込んだ。

 

「……そうだ。確かここに」 

 

 ああ、すっかり失念していた。

 そう言えば、閻魔様が私にあるプレゼントをくれていたのだ。新入居者と目を合わせるのが辛かった時はこれを使いなさいと口添えて。

 棚の奥から渡されていた小包を引っ張り出し、我武者羅に袋を開けた。最早丁寧な開封なんて頭の中から消し飛んでいた。

 

 小包から出て来たのは、小さな目薬とかなり大きめのコンタクトレンズが入った瓶だった。

 ラベルには『永』という文字が大きくラッピングされてある。

 

「……なにこのオバケレンズ。これを着ければいいってこと?」

 

 一先ず、付属の説明書を読む。どうやら目薬は第三の眼専用の点眼薬であり、同じくレンズも第三の眼へ装着する専用のものらしい。一体誰が作ったんだこんなの。

 とにかくこの目薬は第三の眼に起きた異常を回復させ、コンタクトはあの男の精神――つまり妖怪で言う所の本体――から放たれている有害な邪気をシャットアウトし、無効化してくれる代物なんだとか。

 

 ……こんな小さな目薬で第三の白目が元のくりくりおめめに治るのだろうか。それにコンタクトも、幾らサイズが大きくたってこんな薄っぺらいレンズであの凄まじい邪気が無効化できるのだろうか。

 何だかちょっと――いやかなり胡散臭いが、四の五の言ってられる場合じゃなかった。彼をそのまま突き返せば事態がどう転がるか分かったものじゃ無いし、一度結んだ閻魔様との約束を破るわけにはいかない。であれば、このオバケコンタクトを使って邪気が遮断される可能性に賭け、さっさとあの男を私の生活範囲外へ左遷するのが、現状最も改善効果のある選択だろう。

 

 躊躇なく目薬を点眼。すると不思議な事に、さっきまでうんともすんとも言わなかった白目ちゃんが、いつものくりっとした可愛らしい覚の瞳を取り戻したではないか。

 しかしその喜びも束の間に過ぎない。まだ彼と相対する準備は終わっていないからだ。私は保存液に浸ったコンタクトを瓶から取り出し、恐る恐る第三の眼へと装着した。

 

「これでいいのかしら……?」

 

 コンタクトなんて初めて使ったものだから、思わず自問してしまう。眼にモノを被せるのはちょっぴり抵抗があったけれど、案外違和感は無いんだなぁと変な感心を浮かんできた。

 しかしこれでもし効果が無かったら、またあのノイズを見るハメになるのだろうか?

 想像するだけで背筋が凍りそうになる。でもこのまま籠城する訳にいかないのが現実だ。この状況で、逃れる事など出来やしないのだ。

 であれば、いい加減腹を括ってやるしかない。女は度胸である。

 

「…………」

 

 息を吸う。第三の眼の頭を撫で、覚悟を決める。

 よし、と私は頬を叩き、気合を入れてドアノブに手を掛けた。

 回して、ゆっくりと引いていく。

 闇の化生と、遂に二度目の会合を果たす。

 

「すみません、失礼しました。吸血鬼ナハトですね? どうぞお入りください」

 

 私はいつもの調子を崩さぬよう、なるべく冷静を装いながら、外の彼へと声を掛けた。

 と、同時に。すぐさまあの二つのお助けアイテムの効果に驚嘆した。

 まったく痛く無いのだ。

 あれほど私を苛ませていた不条理な痛みが、欠片も襲って来ないのだ。コンタクトのせいなのか未だ心は読めないままだけれど、もうこの際あの苦痛に襲われないだけマシだろう。胡散臭いアイテムの力は本物だったのだ。やはり四季映姫・ヤマザナドゥの助言に嘘は無かった。

 

 

 

 でもえいきっき。この人、それでもめっちゃ怖いんですけど?

 

 

 いや――まてまてウェイト。そう言えば、あの小包の取扱説明書には注意書きがあったじゃないか。確か、『本製品はあくまで覚妖怪の第三の眼を介した害悪から使用者を保護する為の製品であり、恐怖心を抑制する代物ではありません』と。

 成程、アレは第三の眼を通した害は打ち消せるけれど、彼の瘴気がもたらす精神的な影響までは中和出来ないのだ。だから痛みは無くなった今でも、私は尋常じゃない恐怖に襲われているのか。

 

 邪気による苦痛の試練に打ち勝った勇者コメイジを待ち受けていた第二の試練は、魔王の威圧感による恐怖を克服する為の戦いだったって所か。ちくしょうなんだこのデスコンボは休憩させろちくしょう。

 

 待て、落ち着け、取り乱すな。ネガティブに呑まれるんじゃない古明地さとり。ここは痛みが無くなっただけ対処のしようが出来たんだと、ポジティブに考えて心を落ち着かせるのだ。

 

「平気なのかい?」

「ええ。少し、部屋を整理していただけですから」

「では、お言葉に甘えて」

 

 長く外に締め出していたにもかかわらず、苦い顔一つ浮かべない闇の吸血鬼。彼は一礼と共にドアを潜ると、表向き鉄仮面内心錯乱状態な私の催促に従うまま、ソファーへ静かに腰を下ろした。

 同じく、私も対面に腰を下ろす。

 

 改めて、来訪者を見た。

 

 外見だけなら非常に洗練されている印象なのに、何だろう、この、死の淵にまで追い詰められた子兎の様に絶望的な恐怖感は。

 見てるだけで鳥肌が立つ。舌が乾く。生存本能がこいつはとびきりヤベェぞと訴えてくる。今なら私のお尻が乗っているソファーへ黄金の世界地図を描ける自信があった。乙女の誇りにかけて絶対に発行は阻止してやるが。

 とにかく、この心境を一言で表すならば『洒落にならない』が的を射ているだろう。正直予想外中の予想外だった。確かに映姫さんが『彼には人に強い恐怖を呼び起こさせる魔性がある』と言っていたけれど、ここまで強烈なんて一体誰が予想できるのか? 

 

 でも。

 でも、耐えられないほどじゃない。繰り返すが、あの激痛が無くなっただけ遥かにマシなのだ。

 

 心は読めない。素性は知れない。おまけに魂が抜けそうなくらい超怖い。

 けど、言い換えれば怖いだけだ。そう、怖いだけなのだ。さっきと違って、私に直接的なダメージが降りかかってくる訳じゃない。

 初心を思い出せ、覚妖怪。人々の移り変わる心を読み続けて学習したじゃないか。心の機微なんて所詮、持ち主の手綱の握り方次第でどうとでも変わると言う事を。それは自分も例外ではないと言う事を。

 

 ならば、敢えて気丈に振る舞ってやろう。アンタの瘴気なんてへっちゃらなんだぞとこの場で証明してやろう。お前とはあくまで対等なんだと示してやろう。

 大丈夫。もし今の私が『覚』最大のアドバンテージである読心が出来ないと悟られたとしても、嘘と真実を交えた言葉で、有耶無耶の闇に真実を隠してしまえば良いのだから。

 口八丁手八丁なら、私の右に出る者は居ない。

 

 ――さぁ、正念場だ。

 

 踏ん張りどころは見極めた。ここで彼に見下される様な事になれば、私の平穏な生活は完全に崩されてしまうことだろう。しかし逆に体裁を保てば、私の幸せはある程度繋ぎ止める事が出来る。その為に、あとほんの少しだけ頑張ればいいんだ、私。

 

 

「まずは初めまして、吸血鬼ナハト。あなたの来訪を、私は心より歓迎しましょう」

 

 

 ハッタリ上等。ダイヤモンドメンタルの古明地さとりを舐めるなよ!

 

 

「ここか」

 

 案内が無ければ古明地さとりの私室を探すのにかなりの苦労を強いられただろう、広々とした地霊殿を彷徨う事はや十数分。勇儀の助言もあって、思いの外簡単にそれらしい部屋を見つけることが出来た。

 

『さとり ノックしないダメ絶対』

 

 ……まぁ、この様にドアへ大きな看板がぶら下げられていれば嫌でも分かる。勇儀が結構分かり易いと言っていたのはこれを指していたのだろう。随分とポップな字体だが、古明地さとり本人が書いたものなのだろうか? 

 

 さておき、私は迷わずドアをノックした。

 

「はい、今出ますよ」

 

 どこかダウナーな気色を帯びた少女の声とともに、さとりの部屋はゆっくりと開かれて。

 地霊殿の主が、姿を現した。

 

「…………」

 

 ふむ。悪感触である。私を見た瞬間、桃色の癖っ毛少女はまるで露出狂に向けるかのような軽蔑と嫌悪感をありありと含んだ表情を浮かべたのだ。

 谷が出来るほど刻まれた眉間の皺。液体ヘリウムよりも冷たい目。今にも舌打ちをしそうなくらい曲がった口。フッ、百点満点である。

 しかしこれでへこたれる様な私ではない。映姫から話を聞いた少女なのであれば、第一印象が悪かろうとも私が如何に無害であるかをよく理解している筈である。なので、誠意を見せ続ければきっと分かってくれるはずだ。

 怖がらせないよう、動作は最小限にしつつ、先ずは挨拶。

 

「こんにちは、はじめまして」

 

 閉められた。

 

「……」

 

 なにやら中でバタバタと音がしている。このまま乙女のプライベートを盗み聞くのも良くないので、私は聴覚を最低レベルにまで落とし込んだ。

 ほぼ無音の世界がやってくる。彼女が開けてくれる暫しの間まで、このまま待つことにしよう。

 

 しかし妙だな。恐らくこの地底世界で最も私に対して詳しい筈の古明地さとりが、何故ああも私に嫌悪を示したのだろうか。道中に出会った勇儀は、まるで敵意など向けて来なかったというのに。

 

「ん? ……待てよ」

 

 彼女の胸元にあった、心臓程度の大きさの眼球を思い出す。

 あれはもしや、他者の心を見透かす第三の眼なのではないか? 

 昔私の首を狙った数多の人外たちの中に、あの眼と同じようなものを持った読心系の妖怪がいた記憶がある。仮にそうだとすれば、彼女の『さとり』と言う名の由来は日本妖怪『覚』から来ている事になるが……。

 

「……しまった。これは最悪だ」

 

 マズい。これは、映姫のフォローなど関係なく非常にマズい。

 何が心配なのかと聞かれれば、それは私と最も相性の悪い相手が、読心の力を持った者達に他ならないからだ。

 萃香や勇儀の様に、妖怪の誇りと仁義が中核を担う者達は性格面で相容れないが、読心者はまず存在的に相容れないのである。原因は不明だが、私の心を読んだ者は皆例外なく精神を破壊されてしまったのだ。精神を本体とする人外にとってそれは即ち死を意味する。

 

 無論、別に何か恐ろしい事を頭に浮かべていた訳ではないし、ましてや心に呪いの類を防護として貼り付けていた訳でもない。彼らが私の何を見て心を失くしたのかは知らないが、とにかくこのまま彼女と相対するのは非常にマズい事に変わりは無いだろう。これは瘴気による誤解だとかそう言ったレベルの問題ではないのだ。水と油、光と闇、神と悪魔の様に、互いに決して相容れられない存在なのである。出会った矢先にさとりが顔を顰めたのも、読心者たる彼女が、私の中のナニカを見て嫌悪したからなのではないだろうか。

 

 どうする? このまま会うのは得策ではない。かと言って地霊殿から立ち退くにしても――そう、思考を繰り広げていた矢先だった。

 キィ、とドアが再び動き出し、私が行動へ移るよりも早く、中から古明地さとりが姿を現したのである。

 

「すみません、失礼しました。吸血鬼ナハトですね? どうぞお入りください」

 

 ――しかし彼女は先程と打って変わって、実に穏やかに私を迎えた。

 私の内側を覗いた者達のように発狂の兆しを見せる事なく、まるで普通の来客を招き入れるかのように。

 

「平気なのかい?」

 

 思わず、こんな言葉が漏れてしまった。

 だが彼女は『ええ。少し、部屋を整理していただけですから』とたおやかに告げ、私の入室を促すのみだ。

 催促されるまま、私は部屋へと立ち入りソファーへ腰かける。

 

「まずは初めまして、吸血鬼ナハト。あなたの来訪を、私は心より歓迎しましょう」

 

 同じく対面に座った彼女は、実に淑やかに、私へ向かって微笑んだ。

 ……どういうことだ? 彼女は『覚』では無いのか?

 いや、それはない。改めて彼女の第三の眼を見て確信した。今まで見てきたものと形状はかなり異なるが、紛れもなく心を読みとく眼球である。彼女は正真正銘の『覚』なのだろう。

 であればますます妙だ。今の彼女から異常がまるで見当たらない。まさしく平静そのものであり、初対面にも拘らず紫や永琳、輝夜、映姫に匹敵――いやそれ以上に落ち着き払っている様にすら思える。

 

 何故だ。何故彼女に一切の害が出ていないのだ。いや、それは本来喜ばしい事なのだが、過去の経験から考えてもあまりに違和感がある。何せ過去の読心者は百%精神に異常をきたしていたのだ。私が相性最悪と謳うのも、それなりの根拠があってこそである。

 そこに来てこれだ。彼女は至って平静かつ平常であり、一般常識から観ればどこにも異常は見当たらない。だからこそ、あまりに大きな違和感が胸の内にしこりとなって生まれてしまう。

 

「話は映姫さん――ああ、四季映姫・ヤマザナドゥから伺っています。なんでも高名な吸血鬼であるとか」

「いや……そんな事は無い。私は、ただ長生きなだけの吸血鬼に過ぎないとも」

「ご謙遜を。まぁそれはともかく、早速あなたの居住についてお話ししましょう。それが終わってからでも、雑談は遅くないでしょう?」

 

 手際よく地霊殿の見取り図を取り出した彼女から分かり易い建物の解説を受け、流れる様に居住区を割り当てられたかと思えば、私がここで生活する上で必要な話はあっという間に終わってしまった。

 あまりに淡々。まるで私の様な存在を相手取る事に慣れているかのようだ。

 

「さて。私が話せる事は以上になりますが、質問はありますか?」

「いや……特にないよ。ありがとう」

「そうですか。では休憩に飲み物を淹れましょう。何かリクエストは?」

「では、紅茶はあるかい?」

「もちろん。甘めがお好みですか?」

「ストレートで構わないよ」

「分かりました。それでは茶菓子はどうしますか? 心臓? それとも肝がお好み?」

 

 ……ん? 

 聞き間違いだろうか。それとも歳のせいでとうとう耄碌してきたのだろうか。茶菓子にしては、えらくハードな名前が聞こえた様な。

 私が反応に悩んでいる事を察したのか、彼女はどこか意外そうに目を瞬かせて、

 

「好きなんでしょう? 人の子の臓器。ここは腐っても地獄跡地なので無垢な高級品は提供できませんが、一応ツテはあります。一般品程度なら直ぐに用意できますよ」

「いや、別に人の臓物を好んで喰らう嗜好は持ち合わせていないよ」

「ぇっ?」

「ん?」

「失礼、しゃっくりです。最近横隔膜の調子が悪くて。しかしそうですか、臓器はお好きではないですか。これは想定外ですね……うーん、お燐は血のストックまで持ってたかしら?」

「……意外だな、君は人間主食派なのか。一応手土産に菓子を持ってきたのだが、ふむ。()()()の方が良かったかな? お気に召さないようであれば、コレはこちらで処分させてもらおう」

「ぇっ?」

「む?」

「しゃっくりです」

 

 ……なんだか、独特な子だな。

 ただ、私とコミュニケーションをとっても何とも無さそうな態度といい、幻想郷では今まで出会った事の無いマイペースな雰囲気といい、只者ではない事は確かなようだ。

 彼女はコホンと咳払いをして、じとっとした眼を私へ向ける。

 

「――まぁお気遣いなく。こんなナリですが、私も一人の妖怪ですからね。むしろ妖怪たるもの人を食らわずしてどうします? ましてやここは旧き地獄、そして私はここの管理を任された地霊殿の主。好まない理由がありません」

「そうか、地霊殿の主はグルメなのだな。私は人など、ここ暫く口にしていないよ」

「……ふふふ。私は地霊殿の主ですからね、ええ。これでも管理者ですから? 地位相応に振る舞いますとも」

 

 不気味な笑みを浮かべ、半目でこちらを見やりつつ紅茶の準備にかかるさとり。その笑いからは、彼女の真意を窺い知ることは出来なかった。

 紫や永琳の様な、透明感のある品格を漂わせた賢人の雰囲気とは違う。萃香や勇儀の様な剛の者の貫禄とも違う。映姫の様な凛とした毅然の姿勢ともまた異なる。今まで遭遇した者達の中でも、他に類を見ない異質な気配をさとりからは感じた。言い方は変だが、まるで尻尾を掴めないのだ。

 

 一見すると平凡な少女のそれに見える。しかし彼女は心を読む覚妖怪であり、今までの事例から考えると、彼女にとって私は最悪の天敵となる筈なのだ。しかし私の予想に反してその対応は世間一般の普通の一言に尽き、だからこそ際立った異常として見えてしまう。

 そしてもう一つ言えるのが、彼女は私に対して素で接していないと言う事だ。平たく言えば演技をしている。これは挙動を見れば確実である。彼女は何かを装っているのだ。しかしそれが何を隠匿しているのかが分からない。まるであらゆる悪事の黒幕のような、でも実はそうでもないような、絶妙な雰囲気である。

 

 私の知りうる強者たちとはまた違う、底の知れない妖怪だ。流石は地霊殿の主と言ったところだろうか。

 

「話は変わるが、地霊殿には君以外にも妖怪は住んでいるのかね? 居るならば一言挨拶をしておきたい所なのだが」

「……居るにはいます。完全な妖怪と言えるレベルの存在は、今のところ地獄鴉と火車と妹だけですが」

 

 あとは動物や妖獣のペットばかりです、と彼女は締め括った。なるほど、門にいた猛禽も彼女のペットだったのか。

 

「妹君が居るのかい?」

「ええ。と言っても、四六時中フラフラと外を出歩ているので滅多に帰って来ませんし、帰って来たとしても気付けないのですが」

「……それは、どういう?」

「ちょっと複雑な事情がありまして、普段の妹はその存在を知覚出来ないのです。少なくとも有意識に生きる我々には――――っと、話が過ぎましたね。ええと、何の話でしたっけ? ああそうそう挨拶です。その件に関しては出来ればご遠慮願います。貴方の瘴気は、力の弱いあの子達にとって少々荷が重い。あなたの事は私の方から伝えておきますので、なるべく関わりませんよう」

 

 どうせ短期滞在なのですから、と彼女は言う。言われてみれば、確かにそうなのだが。

 しかしこれで話す事は概ね無くなってしまったな。地霊殿の設備についても十分説明してくれたし、私から彼女へ訊ねる事は今のところ無いだろう。強いて言えば西の怨霊使いに関する情報だが、広大な旧都全域に顔が知れていると謳う勇儀ですら把握していない者を、彼女だけが知り得ているとは考えにくい。捜査が行き詰った時の保険で良いだろう。

 そうなると、他に気になるような事となれば……。

 

「……最後に一つ、質問してもいいかな?」

「何でしょう」

「さとり。君は私の心が読めないのではないかね?」

 

 何てことは無い。読心者たる彼女が、どうして私を前にしても平常で居られるのかが、先ほどから胸に引っ掛かるだけだ。

 無論、この疑問を抱いた根拠はある。

 

 ティーセットを私の前に置いた彼女は、表情を変えぬまま、じっとりとした眼で私を見据えた。

 

「……ふふ、面白い質問ですね。覚の私に、心が読めないのかなんて。どうしてそんな疑いを持ったのかちょっと興味が湧きましたよ。お聞かせ願えますか?」

「なに、ちょっとした違和感さ。挙げるなら……そうだな。君は心を読める妖怪の筈なのに、私の発言を先取りしなかっただろう?」

「ほうほう」

「ついでに言えば、私にリクエストを訊ねた事にも違和感がある。心を読めるならば、私の答えなど聞くまでも無かっただろうからね」

「……ふふっ」

 

 帰ってきた答えは、蠱惑的で掴み処の無い笑みだった。

 まるで幾つもの修羅場を策略で潜り抜けた参謀の様な、そんな微笑みだ。

 

「確かに、言われてみればそうですねぇ。でもこうは考えなかったのですか? あなたの発言を尊重するために、私が敢えて訊ねたという見解は」

「仮にそうだとしても、茶菓子の好みを間違える事など無いだろう?」

 

 あまりにも単純で、簡潔な指摘。それを彼女は暗い笑顔で受け入れた。

 

「…………ふくっ、ふふふふふ。ふふふふふふふふ」

 

 愉快犯の様に、あるいは悪の親玉のように。彼女はどこか退廃的な雰囲気を匂わせる笑いを漏らした。それは図星を表している様な、どこか愉悦を孕んでいる様な、しかしそれでいて逆境に対する執念の様なものを絡めている様な、複雑な色を交えた笑いだった。

 

「くっくっくっ――失礼。ええ、確かにその通りですね。いやはや、試す様な真似をしてしまって申し訳ありません」

 

 直ぐに口を繋ぎ、私に謝罪を述べる。しかし試すとは、何を指しているのだろうか。

 答えは直ぐに、彼女の口から語られた。

 

「実はですね、私は意図的にあなたの心を読んでいないのですよ。ピントをずらすとでも言いましょうか。私のこの第三の眼は今、あなたの中を覗いてません」

「どうして? 勘繰るようで悪いが、心を読める力は妖怪相手に大きなアドバンテージとなるだろうに」

「単純な話ですよ。人の心を読むのがつまらないと感じたから、ただそれだけです」

「……覚の君がかね?」

「覚の私が、です。だって、想像してみてください。心を読めば、会話は常に私で完結してしまう。醍醐味であるキャッチボールが出来ない。心を読めば、相手の裏側が嫌でも見えてしまう。シンプルに疲れたんですよ、この力にね。現に妹のこいしは、私より先に疲れ果てて覚の瞳を閉ざしてしまいました」

「ふむ……先程言っていた妹君か」

「そうです。あの子は『覚』にとっての存在証明でもある瞳を閉ざして力を封じ、あまつさえ自らの心までも閉ざしてしまった。その結果、彼女は無意識のみで彷徨う存在へと変化してしまったのです。故に我々有意識の住人は、あの子が傍にいても故意に認識する事が出来なくなった」

 

 なにせ、我々の無意識の合間を縫って動ている事と同じなのですから――彼女は、どこかもの悲しそうにそう告げた。

 

「っと、また余計に話してしまいましたね。ええとつまり、覚も無暗に心を読むばかりではないと言う事です」

「そうなのか。……すまない。無神経な質問をしてしまっ――」

「まぁ読もうと思えば普通に読めるんですけどね。こんな風に」

 

 ――止める暇など、ありはしなかった。

 彼女の発言の意味を汲み取ったその時には、既にさとりは、自らの第三の眼へそっと手を添えていた。

 それが表す所は、つまり。

 

「止せ、私の心を見るんじゃない!!」

 

 立ち上がり手を伸ばす。強引だが眼の視点を逸らさせようと躍起になった。今までは彼女の言う『ピントをずらす』手法で事なきを得ていたから良いものの、直視すればさとりがどうなるか、考えるまでもない。何としても阻止せねばならなかった。

 

 だが。

 

「そんな怖い顔をしなくても良いじゃあありませんか。暗に見てみろと言ったのは、他でもないあなた自身でしょうに。んふふ」

 

 飄々とした言葉が、私の手を寸前のところで食い止めた。

 声の主は、紛れもなく古明地さとり。眼に手を添えたまま、にやにやとこちらをさも愉快そうに観察しているジト目の少女。

 錯乱も、出血も、恐慌も無い。平常の少女さとりが、私に奇異の視線を向けていた。

 

 波の消えた心電図の様に、脳髄の活動へ空白が生まれる。

『心を見た彼女に何も起きていない』――その結果が私へ大きなインパクトをもたらし、思考を全て焼き払ったのだ。

 呆然自失。それ以外に、今の状態を表現する言葉は見つからない。

 

「……平気、なのか?」

「うふふ。恐らく見たままの状態だと思いますよ」

「…………」

「ええ、ええ、見えておりますとも。あなたの心、あなたの動揺、そして――あなたの抱える()()が、私の眼にはっきりとね」

「……ソレ、とは?」

「さぁ? ふふ、何でしょうね?」

 

 飄々と、霞の様に掴み処の無い笑顔で彼女は言う。

 

 恐らく彼女が見ているモノは、今まで私を覗いて来た者達を苦しめた異物に違いないのだろう。だがさとりはそれを目にしても顔色一つ変えていない。どころか、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()口ぶりをしている。

 信じられない出来事だった。私の内側を見て無事で済んでいるのみならず、私の中に私の知り得ないモノが巣食っていると証明された、この事実が。

 

「気になりますか?」

 

 紅魔館の小悪魔よりも小悪魔染みた少女は、口元を艶やかに釣り上げた。

 当然、その質問にはYesと答えざるを得ない。何故ならそれは今まで他者へ植え付けていた恐怖の根源、魔性の解明に大きく近づく答えかもしれないからだ。長年突き止めようと苦心し続け、終ぞ紐解けなかった忌まわしいアンノウンの正体を知るチャンスだからだ。

 それに……これはまだ勘の領域なのだが、さとりの言う()()が、紫やレミリア達が秘匿する私の()()()に関わっている気がしてやまない。確固たる証拠がある訳では無い。だが恐らく無関係では無いと、私の第六感が告げているのだ。

 迷わず、私は肯定を口にした。

 

「……ああ」

「知りたいですか?」

「ああ、知りたいとも」

「では条件があります」

 

 覚の瞳から手を離し、少女は指をくねらせた。しなやかな五指が収束し、やがて一つだけ突き立てられ、数字の一を指し示す。

 

「一つ。あなたがここに住む間、私に厄介事を持ち込まない」

 

 二つ。

 

「私や妹には何があってもなるべく関わらない、近づかない」

 

 三つ。

 

「ペットに悪さをしない」

 

 四つ。

 

「この提案に異論をはさまない――以上です。あなたが退去するまでこの四則を守って頂けさえすれば、あなたの知りたい事をお教えしましょう。たったこれだけです。簡単でしょう?」

 

 実に簡単な要求だ。そんな事だけで情報が手に入るのならばお安い御用である。

 

 しかし……どうやら私は、古明地さとりと言う妖怪の事を酷く見くびっていたらしい。私を前にしても物怖じすらせず、それはおろか心を覗いてもケロリとしている精神力。おまけにこうして私へ自らの要求を飲み込ませる場を組む誘導力も素晴らしい。仮に出会った瞬間から今に至るまでの全てが彼女の手のひらの内であったのならば、古明地さとりは相当な策士なのだろう。

 

 そう考えると……ああ、成程。私が最初に感じた彼女の『演技感』は伏線だったという事か。敢えて心が読めていない様に演じて疑念を持たせ、私にその疑問を問いかけさせたところから、今のステージへ流れる様に一計していたのだろう。彼女の望む四則を、なるべく平和的に私へ受諾させるように。

 

 ……いや。実のところ、彼女の真の狙いは『立場の確立』だったのかもしれない。

 

 人間はそうでもないが、妖怪は相手との立ち位置を重んじる生命体である。特に力を持った妖怪にその傾向は多い。何故なら、妖怪の上下関係とは一度構築されればそう易々と引き剥がせるものではないからだ。鬼に対する天狗や河童が分かり易いだろう。

 端的に言えば、『見下されたら負け』なのである。特に群れを成さないタイプの妖怪は、これが結構命綱だったりするのだ。高慢ちきな高位妖怪に下手に見られれば、最悪隷属させられる可能性だってあるだろうから。

 

 つまりさとりは映姫から事情を伺いながらも、強豪種族である吸血鬼の私とはあくまで対等なのだとこの場で示して見せたのだ。

 

 あっぱれだと言わざるを得まい。古明地さとりは我が瘴気と内に巣食うアンノウンに耐えうる精神力を持ち合わせているどころか、吸血鬼と対等の位置を言葉だけで築き上げる手腕を持った妖怪なのだ。私がもし傲慢な吸血鬼であったのならば、彼女の策は大きな効果をもたらしていた事だろう。さとりが地霊殿を、ひいては旧都の代表として抜擢されたのも頷ける。

 

「その程度で良いなら、お安い御用さ」

「助かります。……それでは紅茶も空になっちゃいましたし、お開きとしましょうか」

「そうだな――と言いたいところだが、すまない。最後にもう一つだけ質問させてくれないか? 本当は質問するつもりなど無かったのだが、今後あまり関わらない様にする方針を執る以上、狙って質問の機会を得る事は難しいからね」

「ふむ、構いませんよ。どうぞ」

「西の交霊術を使う者に、心当たりはあるかい?」

 

 パチパチと、彼女は瞬きをして。

 

「すみません、存じないですね」

 

 今度は本当に知らなさそうに、さとりは肩を竦めた。

 

 

「ふんふ~ん。本日も特にいじょーなし。いつも通り平和な灼熱の空気ね」

 

 灼熱地獄跡。その中層にて。

 漆黒の翼を持つ地獄鴉の少女、霊烏路空は鼻歌を交えつつ、意気揚々と仕事に勤しんでいた。

 彼女の仕事は、地霊殿の中庭から下に位置する灼熱地獄跡の見張りである。かつての最盛期と比べるとほぼ休止に近い状態となっているが、それでも地獄は地獄なので、火の用心が必要なのだ。

 

「そろそろお昼ご飯だなぁ。たまにはさとり様の手作りご飯が食べたいなー」

 

 くるくると、ふよふよと。空は気ままに宙を舞う。右手を覆う長い多角柱状の物体が壁に当たりそうだが、馴れているのか掠りもしない。

 しかしよく見ると、その他にも少女には異彩を放つオプションがちらちらと見受けられた。

 右手を覆う柱。左足を旋回する光球。右足の金属質なブーツ。宇宙空間を彷彿させる模様が、裏地いっぱいに広がる大きなマント。

 そして、胸元の大部分を覆う紅蓮の目玉の様な装飾。

 これらは全て、()()()()を取り込んだが故に発現したパーツなのである。いや、恐らくは空の趣味も若干混じっているのかもしれないが、それはさておき。見ての通り、霊烏路空はただの地獄鴉ではないのだ。

 

 正確には、普通の地獄鴉ではなくなったと言ったところだろうか。

 

 ある日変な神様がやってきて、働き者の空へ大いなる力を与えた。それがなんと、日本神話の中でも高名な太陽の化身、八咫烏その人だったのである。

 具体的な力は核融合を自在に操るという、『外』の技術者が知れば血の泡を吹いて倒れかねない夢の様な能力だ。太陽の力そのものを操作出来ると考えて良いだろう。

 

 そんなドリームパワーを宿す空はご機嫌だった。自分でもよく分からないが凄い力を手に入れられて、もっと敬愛するご主人様の役に立てられることが。そして何より毎日が平和で楽しい事が、空には嬉しいのだ。最近はテンションが鰻登りなせいか、『今の灼熱地獄は寂れてさみしいしこの力を使って地上を灼熱地獄に変えてみようかなー』などと思い始めている程である。

 

 ふと。

 空中遊泳を楽しんでいた空の背中に、突然のしっと重みが増えた。

 

「お空、久しぶり!」

 

 同時に、背中から元気のいい声がした。いつも気だるげなご主人様と違って、子供の様な活力に満ちた声である。

 空は精一杯背中に目をやりながら、喜色満面に声の主へと尋ねた。

 

「こいし様ですか?」

「せいかーい」

 

 答えと共に、空は一回転宙がえり。背中から声の主が離れ、空の前へと舞い降りた。

 空の翼と同じ黒色の帽子。黄色のリボン。薄黄緑色の髪。閉じた第三の眼。

 古明地さとりの実妹、古明地こいしであった。

 

「うわー! お久しぶりですこいし様っ! お元気でした? 空は寂しかったです」

「うん、元気だよー。最近は色々と楽しい事があってね、つい皆と会うのを忘れちゃってんだ。ごめんねー」

「でも会えて嬉しいです。こいしさまー!」

 

 鴉なのに犬の様にこいしへ擦り寄る空。こいしはそれをニコニコ笑いながら受け止めて、空の黒髪を優しく撫でた。

 次いで、耳元でこいしは会話を紡ぐ。

 

「でね、お空。長く留守にしちゃってたからお土産にプレゼントをあげたいの。受け取ってくれる?」

「本当ですかっ」

「本当よー。はいこれ」

 

 こいしは帽子の中から、一つの水晶玉を取り出した。曇り一つない、手のひら大の水晶は業火の光を反射し、幻想的に炎を揺らめかせている。

 空は鴉なので、ピカピカキラキラする光ものが大好きだ。空は水晶に負けないくらい目を輝かせながら、こいしから水晶玉を受けった。

 

「うわぁー、綺麗だなぁ。ありがとうございます! 大切に、宝物にしますーっ」

「うむうむ、そうするがよい」

 

 微笑ましい光景が続く。地獄の真上なのに平和な世界が広がっていた。

 暫く水晶を弄ったり撫でたりしていた空はおもむろにこいしへ視線を向けると、首を傾げながら言った。

 

「ところでこいし様」

「ほいほい」

「なんだか、雰囲気変わりました?」

 

 素朴な疑問だった。空も空で確信があった訳では無いのだが、髪形がちょっと変わっただとか、アクセサリーが新調されてるだとか、そんな小さな違和感をこいしから感じたのである。

 対してこいしは、ゆらゆらと揺れ動きながら太陽の様に笑う。

 

「えーそう? いつも通りだと思うけどなー。なんで?」

「うーん。なんて言えば良いんでしょう? こう、空気が美味しい空気になったような、お水が美味しいお水になったような。そんな気がしたんです」

「あはは、なにそれー。お空は私が美味しそうに見えたの?」

「んー……そうじゃないんですよね。どう例えればいいのやら。……むぐう、ごいりょくが無くてごめんなさい」

「いいよいいよ。今度良い例えが浮かんだら教えてね!」

 

 じゃあ私はもう行くねーと、少女は笑顔で手を振った。すると今の今まで目の前に居た筈のこいしが、まるで最初からそこに居なかったかのように姿を晦ませてしまったではないか。

 古明地こいしは第三の眼を閉じた代わりに、無意識を操る力を体得している。それを使って、空の無意識へ溶け込んだのだろう。恐らくまだ近くに居る筈なのだが、空にはもう感知する術など無い。

 でもまぁ割といつもの事なので、空はどこにいるとも分からない主の妹へバイバイと手を振りながら、貰ったプレゼントを大事に抱きしめた。

 

 丁度良くお腹も鳴った。もうすっかりお昼である。空は宝物を灼熱の業火へ落とさないようしっかり抱えて、お昼ご飯を食べるべく地上層へ上昇を開始した。

 

 数分後、さとりの部屋で何故か真っ白に燃え尽きているご主人様を見つけて大慌てしてしまうのだが、それはまた別の話だ。

 






 なお、心が読めない云々の理由は18.「崩壊」での永琳の発言が答えです。

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