【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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32.「空亡」

「では、確かに受け取りました。責任をもってお渡ししておきましょう」

「ありがとう、恩に着るわ」

 

 光も、音も、物体も、果てには境界すら存在しない、人間の感覚では到底把握不可能な空間があった。

 その中で不自然に浮き上がる輪郭が二つ。まるで闇夜の中に漂う火の玉の様に、相対する彼女たちだけが、確かな形としてある事を許されていた。

 

 影の一人、四季映姫・ヤマザナドゥは八雲紫から手渡された便箋を懐へ仕舞い込みながら、

 

「ところでそちらの調子は? 二週間ほど経ちますが、何か発見はありましたか?」

「お恥ずかしながら、さほど進展は……。彼からも特に連絡はありません」

「左様ですか……。妙ですね。これだけ時間をかけて足取りすら掴めないとは」

 

 別に挑発している訳ではない。むしろ紫の事を評価していると言ってもいい。

 映姫は目の前の妖怪がどれほど有能な人物か、嫌気が差すほどに知っている。本来滅びゆくはずだった妖怪たちの未来を幻想郷という形で切り開き、運命を繋ぎ止めた女傑なのだ。その行いが閻魔の眼から見て白か黒かはさておき、八雲紫の手腕は十分すぎるものだろう。そんな彼女が未だ例の犯人を突き止められていないときている。紫の抱える仕事が膨大であり、事件ばかりに構っていられない点を考慮してもあまりに苦戦し過ぎている。だから映姫はこう言ったのだ。

 

 ほうっ、と紫は灰色の溜息を零しながら、

 

「どこかに見落としがあるのは解っています。けれどそれが何処にあるのかが分からないのです。過去の日常風景のほんの一欠片なのか、あるいは主要な出来事なのか。それとも全く関係のない要因なのか。生物なのか。無生物なのか。物質なのか。非物質なのか」

「…………」

「例えるなら、そうね。まるで初心に戻ったような気持ちとでも言うべきかしら。もしくは、浅い叡智特有の視野の狭さ。花の名を知っているのと知らないのとでは花畑の景色が違って見えるように、視野を変えるパーツが欠けているせいで、見えるモノに限界が生まれている気がするの」

「そう感じざるを得ない違和感がどこかに存在すると?」

「半分は勘ね。確信をもって言えるものではありません」

「意外です。あなたが勘の様な不確定要素を信じるなんて」

「あら、勘を信じるのは大事よ? うちの可愛い巫女さんもそう言ってたわ」

「裁判で勘は通用しませんので」

 

 確かに、と紫は含み笑いを零し、扇子を軽く仰いで風を招く。

 

「紫様」

 

 声と共にスキマが現れ、そこからぴょこんと二股の帽子が飛び出した。

 次いで、中華風のドレスに身を包んだ、黄金色の髪に琥珀色の瞳をした少女が姿を現す。尾部から伸びる巨大な稲穂の様にふさふさな九つの尾は、(あやかし)事情に疎い者であっても、彼女が九尾の狐と気付くだろう。

 名を八雲藍。紫の右腕的存在であり、直属の式神である。

 

 彼女は映姫にも一礼すると、肩に止まる小さな真っ赤な鳥を差し出して、

 

「お話し中失礼します。至急、目にして頂きたいものが」

「それは……使い魔?」

「はい。紅魔館からの使いです」

 

 紫は使い魔と藍をそれぞれ見て、差し出された鳥を手に取った。

 赤い鳥は口を開くと、小さな巻紙を一つ吐き出す。すると、役目を終えたが故か風化した粘土の様にボロボロと崩れ去ってしまった。

 

 紫は手紙を開き、目を通す。

 眉が動く。それも、決して吉報とは言えない方向に。

 内容は、紫とナハトが血眼になって探していた犯人の正体とそのトリック。能力の正体。地底で起こった犯人の暴走。

 そして、ナハトの敗北についての情報が、紙の隅々にまで綴らていた。

 ……どうやら、差出人は紅魔の吸血鬼ではなく魔法使いの方らしい。筆末に、救援を要請する旨が綴られていた。これがレミリアであったならば、口が裂けても助けを請う様な真似はしないだろうから。

 

 紙を纏め、紫はこみ上がってきた感情を排するように息を吐く。

 それまで静観していた映姫は、悔悟棒を口元に当て、目を細めながら問いかけた。

 

()()()、という点から察するに、その手紙は私も無関係ではなさそうですが」

「ええ。あなたも目を通して頂戴。」

 

 言いながら、手紙を映姫に渡そうとしたその時だった。

 

 

「――――づぅッ!?」

 

 前兆は無く、それは完全な不意打ちだった。まるで鬼から棍棒で殴られたかの様な衝撃が、突如として紫に襲い掛かったのである。

 予想だにしない激痛に顔が歪む。手から手紙が滑り落ち、床を滑走した。視界が掻き混ぜられた絵具の様にぐちゃぐちゃで、バランス感覚は泡沫となって弾け飛んだ。

 まるで貧血を迎えた様に崩れ落ちる。異様な紫の行動に目を丸くしながら、映姫と藍は慌てて傍へ駆け寄った。

 

「紫様!?」

「どうしたのです、八雲紫!?」 

「こ……れ、は。白玉楼の、結界が、ぐぅっ……!」

 

 脂汗がみるみる湧いてくる。血の気はあっという間に引き下がり、女性特有の健康的な柔肌は死人のそれへと変化した。想像を絶する痛みなのか、満足に言葉を並べる事すら叶っていない。しかし断片的に語られた冥界の地名は、映姫の脳裏に稲妻を走らせるには十分だった。

 紫の式神である藍も全てを理解したのだろう。常に冷静沈着な彼女は、そのイメージを壊さんばかりに驚愕で染まり切った声を張り上げた。

 

「まさかそんな……西()()()()()()が解かれたと言うのですか!?」

「なんですって……? どういう事です、説明しなさい八雲藍!」

「や、られたわ。まんまと、してやられた。ぎっ、まずい、まずい。幽々子が、ゆゆ、こ、が、あぐっ!?」

 

 藍に支えられながら、紫は悶絶する苦痛を必死に耐えて踏ん張った。意識を途切れさせぬよう、明滅する視界を繋ぎ止め、どうにか頭を回転させる。

 

 ――八雲紫の仕事の一つに、()()()()としての役割がある。

 紫は幻想郷の結界を管理する大元だ。常識と非常識の結界を始めとした、幻想郷を維持する上で必要不可欠な境界の元請けである。

 勿論、全てを自分で行っている訳ではない。幾ら紫のスペックを持ってしても圧倒的に手が足りないのは自明の理だ。そこで紫は、効率化を図るため『要』を用いる術を選んだ。博麗大結界の要が神社の鳥居となっているように、西行妖封印の要が西行寺幽々子の遺体となっているように。根本的な維持は自動装置や藍に任せ、自身は結界の綻びや傷をメンテナンス、及び修復する役割を担うことにしたのである。

 

 そしてこのシステムには緊急装置が取り付けられていた。結界が何らかの原因で致命的な損傷を受けた時、または幻想郷で最高レベルに危険視されている封印――西行妖などが完全開放を迎えた時。紫の能力が即座に発動し、その傷を塞ぎこむメカニズムである。これが、八雲紫の防御装置としての役目である。

 

 もう語らずとも分かるだろう。八雲紫がここまで憔悴する程のダメージを負っているのは他でもない。死を振りまく災厄の桜が目覚め、幽世と現世の結界を食い破ろうと力を爆発させているからだ。それを堰き止めるために、紫のほぼ全ての力を注ぎ込んでいる副作用である。

 

「よりによって一番力の無い、冬眠前に決起を起こしてくるとは……狙い目とは言え、してやられたわね。今回は、ぐ、う、あなたの勝ちよ。サー・スカーレット……!」

「紫様、私のリソースもお使いください! このままでは西行妖にあなたが食い破られてしまう!」

「いいえ、いいえ。それは駄目よ、藍。あなたにはあなたの役目がある。満足に動けなくなってしまっては、折角練り上げた計画が無駄になっちゃうでしょう?」

「しかし!」

「二度も言わせないで。いい? 藍。あなたはあなたの務めを果たしなさい。映姫に着いて行って()()するのよ。ここは私だけで大丈夫。こんなの、いつもの異変と変わらないわ。ちょっと疲れるだけだから」

「っ……分かりました」

「では、八雲紫。幻想郷の代表代理を八雲藍に一任するという事でよろしいですか?」

「結構よ」

「承知致しました。……それでは、八雲藍。着いてきなさい」

「……映姫。よろしく、お願いね」

「ええ。なるべく早く済ませられるよう努力します。あなたもどうかご武運を、八雲紫」

 

 パチン、と四季映姫が指を鳴らせば赤髪ツインテールの死神が現れて、藍と映姫と共に再び姿を消し去った。距離を操る力なのだろう。三人は既に彼方へ移送された様だ。

 紫も震える指を動かしながら床にスキマを切り開いた。地獄の跡地、その奥底。吸血鬼ナハトが居る場所をサーチしてこじ開けられた異空間に、八雲紫は倒れ込む様に身を投じた。

 

 

 

 

「ところでお姉様、お父様を見つけるアテはあるの?」

「簡単簡単。居場所は()()で分かるわ」

 

 吸血鬼は強大な力を持つ種族である。それは生まれついて持ち得る天性の才であり、だからこそと言うべきか、彼ら吸血鬼が扱う魔力には他種族には見られない独特の癖がある。かつてアリス達が怨霊の内部へこびり付いていた微細な魔力から吸血鬼を特定出来た訳がそれだ。

 フランも姉を見習い、眼を瞑って感覚を研ぎ澄ませていく。

 瞼の裏に、赤い靄が遠くで燻っている様な光景が見えた。恐らくこれが姉の言っている匂いなのだろう。

 

「……あっ、ほんとだ、私たちと似た力の残り香がある」

「でしょ。これに沿っていけば、お父様の所へ自然と辿り着けるってわけ」

 

 彼女たちの鋭い五感が示す先は、かつて隣の従者が赴いたという、冥界に繋がる方角へと続いていた。

 

「なら早く行こう。お父様を止めなくちゃ」

「分かってるわよ。これでも結構急いでるわ――、ッ!? 危ないッ!!」

 

 咄嗟。その一言に尽きる瞬間だった。

 フランの背後で薄緑の閃光が瞬いた。既に着弾寸前まで迫っていたソレを弾かんとレミリアは防御魔法を発動させる。しかしそれよりも早く、咲夜が時間を止めて二人を救出し、どうにか事なきを得た。

 あと一秒レミリアと咲夜の反応が遅ければ、フランドールは被弾していた事だろう。唐突な奇襲に、三人の精神コンディションは一気に緊張状態へと突入した。

 

「咲夜、どこから撃たれたか分かる?」

「それが……分からないのです。時間を止めて光弾が放たれた方向を探ってみたのですが、手掛かり一つ無く……」

「てことは、あの子よね。確実に」

 

 無意識を操る覚妖怪、古明地こいし。

 スカーレット卿に半ば洗脳される形で傍へ置かれているあの少女ならば、誰にも気配を悟らせずに奇襲を仕掛ける事だって十分可能だ。

 ただ、言うまでもなく有意識の住人であるレミリア達が彼女を意図して見つけることは不可能に近い。

 故に、確実にやってくる次の襲撃は1%だって予測できない。

 

「フラン、咲夜、こっちへ集まりなさい。バラけている方が危険だわ」

「かしこまりました」

「……うーん」

「何してるの? 狙い撃ちにされるわよ!」

 

 レミリアの催促にも耳を貸さず、腕を組み首を傾げたまま微動だにしないフランドール。

 ぽく、ぽく、ぽく――何を考えているのかは不明だが、フランドールの脳内で思考の木魚が叩かれ、発想の音を奏でている事だけは見て取れた。

 やがて、少女は答えを導き出す。

 

「うん、ぶっ飛ばしちゃおう」

「は?」

 

 予想だにしない言葉が飛び出してきたかと思えば、フランドールは誰かが止める暇すら与えず、両手を広く夜空へとかざした。

 ドクン、ドクンと、莫大な紅蓮の光が鳴動する。小さな少女の手のひらを砲身とするかのように、圧倒的な吸血鬼の魔力が装填されていった。

 

「おい待てフラン、アンタなにをッ!?」

「お姉様たちは先に行ってて。ここは私に、任せてちょーだいなっ!」

 

 月輪の美しさすら霞む笑顔を、吸血魔法少女はにぱっと浮かべて。

 瞬間。フランドールは弾幕豪雨の災害と化した。

 鮮紅のスコールが縦横無尽に暴れ回る。物量も密度も速度も、全てが狂的(ルナティック)なまでに暴威を振るう光景はまるで彼岸花の津波のようだ。

 当然、その爆撃が如きフランドールの猛攻に姉と従者への配慮は無く。

 

「ちょっ、危なっ!? フラァァァンッ!? あなた何を考えてっ!?」

「おっとと。ふむ……ああ成程。そう言う事なのですか、妹様」

「ねぇ何!? 何が分かったの咲夜!? あと出来れば時間停止の序に私も安全なところへ連れてって貰えると、お嬢様すっごく嬉しいな!?」

 

 言うが早いか、レミリアは弾幕結界の中から運び出されていた。

 落ち着いたところで、咲夜は瀟洒に解釈を述べる。

 

「アレは炙り出しですよ、お嬢様。妹様の作戦なのです」

「あぶり……あー、成程」

 

 帽子の煤を払いながら、レミリアは納得の表情を浮かべる。

 古明地こいしは近くにいる。これは間違いない。スカーレット卿が差し向けた刺客として、妨害の役目を果たしているのだろう。

 姿は見えない。居場所は分からない。でも近くには必ずいる。

 だからフランドールは単純明快に考えたのだ。敵が透明で見えないのならば、浮き上がってくるまで周りを塗り潰せば良いのだと。

 

「相変わらず滅茶苦茶な子ね、全く。まぁ確かに効果的ではあるけれど」

「同時に私たちを遠ざけようともしていたのでしょう。どうやら、あちらの妹君と一対一で決着を着けるつもりの様子ですよ」

 

 咲夜の言葉へ沿うようにフランを見れば、彼女は笑顔で手を振っていた。ここで一旦お別れだと、語外に語るかのように。

 そういえば、と。レミリアはつい数分前の事を思い出す。

 フランドールは水晶玉を通じてあの日記を読んでいた。こいしがスカーレット卿と出会い、仮初の信頼を植え付けられ、利用されていた全ての過程が記された一冊の日記を。

 アレを読んだ上で、かつて自分が置かれていた状況を知ったフランドールは、果たして何を思ったのか。レミリアはそこを想像したのだ。

 

「そう。今度はあなたの番なのね」

「お嬢様?」

「何でもない。さ、ここは妹に任せて先へ進むわよ。時間も惜しいし」

「良いのですか? お一人にさせてしまっても」

「日輪を操るお父様が相手ならまだしも、そこらの妖怪にあの子が負けるわけがない。それに……覚妖怪の妹を相手にするなら、()()()()()()()あの子以上の適任は他に居ないわ」

 

 翻ったレミリアは躊躇も見せずに羽ばたいていく。

 咲夜はそっと尻目に見てから、主の後を追っていった。

 

 

「さ、これで二人きりだよ」

 

 硝煙が踊る舞踏会で、少女は言った。

 姿も見えない、存在すら知覚できない無貌の存在へ、フランドールは古くからの友人へ語り掛けるように、腕を後ろへ組んで笑う。

 

「古明地こいしちゃん、だっけ? 良ければお顔を見せてほしいな」

 

 ――空白の果てに沈黙が揺れる。

 煙幕の一部が割れていく。いや、霞む視界がだんだんと物の輪郭を捉えていくように、正しい少女の形をフランドールの瞳へ写し始めたのだ。

 やがてハッキリと、奇襲者の正体は暴かれた。

 フランドールと同じくらいの背丈で、シックなダービーハットを被った女の子。胸元にある第三の眼は閉じられているが、それが彼女を覚妖怪足らしめる唯一の証だった。

 

 こいしは、ありとあらゆる感情を排斥した表情を張り付けていた。珠のような眼球も、瑞々しい唇も、可憐な鼻も、一ミリだって微動だにしていない。

 それは虚無の体現だった。無意識や『空』の領域とは全く別の、冷たい無がそこにあった。

 フランドールは彼女と相対して、ほんの一瞬瞳へ悲しみの色を映す。

 

 ――ああ、やっぱりだ。

 この子は()()()()()()()()()()()()

 

 その確信は、きっとフランドールにしか分からないのだろう。

 けれど、だからこそ。彼女の相手を務めるのに、フランドール・スカーレット以上の適任者は幻想郷にいなかった。

 

 フランドールは柔らかく微笑む。そこに欠片も敵意はなく、どころか親愛の香りすら匂わせて。

 

「初めまして! 私はフランドール。フランドール・スカーレット。種族は吸血鬼よ。皆からはフランって呼ばれてるわ」

 

 こいしは答えない。表情筋すら動かさない。

 けれどフランも、全く陽気さに陰りを見せない。

 大雪原を解きほぐす春の日差しの様な笑顔のまま、フランドールは手を差し伸べた。

 

「ねぇこいしちゃん。私と一緒にお話ししましょう? ……できたら、お友達になってくれると嬉しいなっ」

 

 

 

「待っていたぞ、我が娘……とその従者か。独りで来ると思っていたが、まぁいい。しかし存外遅かったじゃあないか」

 

 予期せぬ事態に、紅魔の主従は凍結した。

 レミリアは白玉楼あたりに居ると魔力の香から推測していたのに、元凶は直ぐそこにまで舞い戻ってきていたからだ。

 フランドールと離れてからまだそれほど距離を進んだわけじゃない。やっと視界に捉える事が出来なくなった程度である。他にも刺客を用意しているだろうと警戒していたレミリアたちにとって、拍子抜けするほどあっさりとした()()だった。

 

「あらお父様、四年ぶりの再会ですわね。ご機嫌麗しゅう」

「出会い頭に別れの挨拶とは、随分気が早いなぁレミリア」

「だって、この夜が明ける頃にはもうお互いに顔を合わせることは無いですもの。なら別れ言葉の方が適切でしょう?」

「違いない」

 

 くっくっくっ、ふふふ、と両者は笑う。狂犬と猛禽が互いの牙と鉤爪を剥き出し唸り合うかのように、空気すら歪むほどの敵意をぶつけながら。

 

「お父様」

 

 唇の端を笑顔とは違う形へ歪めながら、レミリアは刃よりも鋭く声を紡ぐ。

 紅い霧が蛇のように細腕へと絡まり、徐々に徐々に、その範囲を広めていく。

 

「おじ様が倒された今、私が貴方へ引導を渡さなければならない。さぁ構えなさい、ここで我らスカーレット家の呪いに終止符を打ちましょう」

 

 ビキッ。

 唐突に、ガラスへ亀裂が入るような音が、幻聴となって鼓膜を削いた。

 

「今、なんと言った?」

 

 声が実体を伴ったかと錯覚した。

 怨念のたった一言が、死神の鎌の様にレミリアの首元へ添えられたのだ。

 低く、重く、どす黒い声質はいとも容易く身震いを引き起こす。純黒の圧力がそこにあった。猛禽に睨まれた野ネズミなどではない。それは理解不能な異形と遭遇した人間の心地に他ならなかった。戦意を挫き、膝を砕き、歯を打ち鳴らせるナハトの恐怖とは違う。まるで異次元に存在する未知の生物と相見えたかのような、耐え難い拒否反応が胸の内で爆発した。

 

 自然と体の動きが止まる。動いてはいけないと本能が少女達へ訴える。

 

 かつてスカーレット卿はフランドールの眼を介して魔眼を発動し、その場にいた紅魔館の住人を金縛りに落とした事がある。しかしこれは術だとか力だとか、そんな軽薄なタネが原因では無い。

 瞼を限界にまで見開いて、憎しみに血走った白目と暗黒の執念を燃やす瞳を剥き出した壮絶極まる表情と、呪詛すら霞む一言が、彼女らの体を縫いとめたのだ。

 

「ナハトが、あれで私に倒されたと言ったのか?」

 

 眼力。純粋な威圧。ただ、それだけ。

 しかしその暴圧的な狂気の、なんと悍ましい事だろうか。

 

「ふざけた事を抜かすなよ小娘……!! あの怪物がッ! たかが日輪の炎で全身を焼き焦がされ灼熱地獄へ葬られた程度でくたばったと本気で思っているのか!! 貴様は一体奴の何を見てきた、この愚か者めがッ!」

「……何を、言って……?」

 

 ナハトが生きている、という趣旨の発言に対する困惑ではない。そんな事はレミリアにも分かっている。レミリアだからこそよく理解している。

 ただ、心底理解できなかったのだ。あれだけ憎悪し、完膚なきまでにナハトを叩きのめしておいて、何故『自分がナハトを撃退した』事実を突きつけられただけでここまで激昂したのかが。

 

「奴はあの程度で死んでなどいない。くたばるものか! いいかレミリア、奴は必ず私を殺しに戻ってくる。あそこは地獄だ、血の池地獄の栄養をたらふく貪り完全復活を果たして必ず帰ってくるだろう。あの理不尽を体現した十五の黒剣が、脳髄を震わせる純黒の魔性が、万物に縛られぬ絶対王者が、ただ私の首だけを狙ってな!」

 

 唾が飛ぶ。血涙を滲ませそうなほどに、白目へ血管が走り抜けていく。

 ただし口元は、依然壊れた笑顔のまま。

 

 あんなにも憎んでいたのに、それでもスカーレット卿は(かたき)のナハトを信じると、狂信すら霞むほどの妄言を吐き捨てた。

 理屈の物差しでは到底測ることはできない矛盾。無限に等しい怨念の果てに、この男はどこかが完璧に欠落してしまったのだと、すぐに理解する事が出来た。

 

 狂っている。それ以上に、今のスカーレット卿を表す言葉は無い。

 

「私は、向かってきた奴をこの手で殺す。全力のナハトを叩き伏せ、あの澄まし顔を不細工な粘土人形の様に歪ませてやるのだよ! はは、はははは、あははははッ!! 想像するだけで愉快だ、こんなに楽しみな事が他にあるか!? なぁ!? 奴は必ず私を屠りにやって来る。だから私こそが奴の宿敵なんだ。ナハトの眼に適い、ナハトに敵う吸血鬼は、このスカーレットただ一人なのだ! そんな事実が目の前にぶら下がっていると感じるだけで、軽く絶頂すら覚えるよ!」

「お父……様……?」

 

 雷鳴のような高笑いが炸裂する。魔力で修正され男の声色となっている少女(おくう)の叫びにノイズが生じ、それは強烈な不快感をもたらした。

 

 かつてスカーレット卿がフランドールを乗っ取っていると知らなかった当時のレミリアは、妹の不可解極まりない言動の数々から狂気に呑まれてしまっていると推測した事がある。

 狂気とは妖怪にとっての悪性腫瘍だ。精神の調和が著しく乱れる事で、視界に映る全てを敵として破壊せんとする禍々しい衝動に支配され、最終的には自分自身すら壊しつくしてしまう恐ろしい病だ。

 

 今なら分かる。例えスカーレット卿が憑いていなかったとしても、地下室で妹が繰り返していたあんな独り言の延長線を、狂気と呼ぶことなんて出来ないと。

 支離滅裂で、矛盾と不合理こそが王道で。自身の命も魂も、全てに価値を見失ったこの思想こそが真の狂気なのだ。

 魔物の復讐心と鉄壁の意志を併せ持ち、ただ一つの理想を成し遂げる為ならば復讐相手を助け、自らを死地へ送る矛盾も厭わない。論理も何もかもを投げ捨てた純粋な怪物性は、地獄の猛獣よりも悍ましい。

 

「……っ」

 

 かつてレミリアの尊敬の中心にあった偉大な父にして、紅魔館を栄えさせた最強の吸血鬼、先代スカーレット家当主。

 彼の性根がどうしようもない邪悪だったのは揺るぎない事実だが、その手腕もカリスマも、疑い様のない確かなものだった。昔の父は、間違いなく誇り高き吸血鬼だった。

 だがしかし、一時代を築き上げた誉れあるヴァンパイアの姿は、影一つだって見当たらない。

 

 だから。

 レミリアは過去の憧れを、己の原点を。ここで切り捨てると選択した。

 

 

「前言撤回よ。()()()()()()()()()

「なに?」

「貴方は、私たちのお父様なんかじゃない」

 

 

 四年前の晩、意趣返しとして父を否定したレミリアだったが、それでもスカーレット卿はレミリアにとって自らの源流であり、高潔なスカーレット家先代の一側面もあって、最低限の敬意までを捨て去る事は出来なかった。それは吸血鬼としての――スカーレット家としての誇りを奮わせる為でもあったし、一族の名に必要以上の汚名を擦り付けない為の、レミリアなりの防衛措置だったのだろう。

 しかし今、それは塵芥となって無空へ消えた。

 気が付いた、とでも言うべきか。あるいは、巣立ちに似た決別だったのかもしれない。

 

「お父様は死んだ。四年前でもなく、五百年前に、お母様と一緒に死んだのよ」

 

 紅い魔力が迸り、砂嵐の様にレミリアを包む。

 かつて幻想郷を覆った紅い霧が、レミリアと咲夜の周囲だけに展開される。濃密な魔力は空気を容易く歪ませ、何もかもを巻き込んだ。

 

「あなたは残滓だ。復讐に囚われた薄汚い悪霊。スカーレット家から生れてしまった哀れな亡者」

 

 背からは雄雄しい翼が開き、漲る力が波となって紋を刻む。

 

「だから私があなたを止める。もう思い通りにさせはしない。させてたまるものですか。――私たちも、幻想郷も、おじ様も、これ以上あなたに穢させるわけにはいかない!」

 

 決意の雷電が、ルビーの瞳に瞬いた。スカーレット卿の怨念に体は縛られていない。澄み切った覚悟の力が、少女の心に鎧を作り出したのだ。

 一方、卿は神妙な顔つきをして押し黙る。そのままゆっくりと顎を撫でた。眼は上を向いており、何かを思い浮かべるように眼球を右往左往させながら、

 

「……啖呵はさておき、ふーむ、その言葉には一理ある。確かに今の私は『スカーレット卿』とは言い難い。一個人だった『スカーレット卿』は魂魄の群れになったからな。紅魔館先代当主の吸血鬼を『スカーレット卿』と定義するならば、はてさて今の私は一体何になるんだろうな?」

 

 喉を引き攣らせるように打ち鳴らしながら、さも可笑しそうに悪魔は笑った。もはや自分の出自や個性など、心底どうでもいいと嘲るかのように。

 

「ああそうだ、折角太陽の力を持っているんだから……ほら、アレなんかどうだ? 百鬼夜行を追う日の輝き……空亡なんて偶像は。存在があやふやな私にはぴったりだと思わないかね?」

「どうでもいいわ。何であろうとあなたはここで終わる。日の出を迎えることは無いし、ましてやあなたが日の出になる事もない」

「大きく出たな小娘。今の私がどの様な化生かよく理解しての発言か?」

「知ってた? 吸血鬼って自信家なのよ」

 

 ハッ、と嘲笑が空気を薙いだ。

 併せて、スカーレット卿から膨大な熱気が迸る。吸血鬼にとって最大の天敵たる日輪の灼熱が牙をむく。

 刹那。卿はまさしく太陽と化した。

 

「まぁいい。今はとても気分が良いんだ。なにせ今宵の主役は他でもない私だからな。種蒔き(第一面)は終わり、伊吹萃香(第二面)も片付いて、白玉楼(第三面)も幕を下ろした。ならば次のステージはお前だレミリア。決戦がやってくるまでの前座として、父自らが遊んでやろう」

 

 火球が鴉の周囲を躍る。漆黒の翼は伸展され、宇宙のような煌めきを孕むマントが靡く。

 口角は引き裂かれ、白銀の牙がぬらりと光った。眼光は鴉の領域を通り過ぎ、もはやこの世のものでは無い邪な覇気を湛える。

 大気が焦げる。パチュリーの防御魔法やマジックアイテムによる加護をこれでもかと施されておきながら、膨大な熱波は少女たちの白磁の肌をジリジリと苛ませた。

 

「さぁ娘よ、来いッ!!」

 

 暴虐の絶叫が奔る。

 悪魔が今、ここに轟臨を果たした。


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