【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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33.「無辜の咎へ、優しい破壊を」

「私とお友達になってくれると嬉しいなっ」

「…………」

 

 花畑で燥ぐ子供の様に朗らかな笑顔のフランドールと、魂すら凍結しきった無の表情で立ち尽くすこいし。

 太陽と月。それを彷彿させる温度差だった。二人とも姿は可憐な少女のそれなのに、まるで別世界に生きる存在とすら思えてしまう。

 挫けず、フランドールは続ける。凍てつく氷を優しく溶かすように、陽だまりの声で、ゆっくりと。

 

「そんなに怖い顔しないで。私は敵じゃないわ。ただ、あなたとお話がしたいだけなの」

「嘘でしょ」 

 

 拒絶。

 返ってきた言葉は、氷の様な冷ややかさ。

 石像が無理やり体を動かしているかのように唇を蠢かせ、こいしはフランドールを一蹴した。バキバキと、唇から頬に亀裂が入る音さえ聞こえそうなほどだった。

 視線はフランドールから動かない。表情筋も微動だにしない。

 無我の少女はただ、言葉を吐く必要最低限だけを稼働させながら、

 

「赤の他人のあなたが名前を知ってるってことは、私が何をしたのかも知ってるんじゃない?」

「……うん。知ってる」

「だったらほら、やっぱり違うじゃん。私はあなたのおじさんを殺す為だけに暗躍して、幻想郷を滅茶苦茶にした張本人なのよ? どこからどう見たって、あなたとお姉さんには紛う事なき敵になるでしょう? フランドール・スカーレットさん」

「ううん、それは違う」

 

 首を左右へ振りながらフランドールは切り捨てた。

 それだけは認める訳にいかないと言う、少女の意思表示だった。

 

()()()()()、敵になんてなりえないのよ、こいしちゃん」

「――そんな、世迷い言をッ!!」

 

 絶叫と共に、桃色の光弾がこいしを起点にして一斉放射される。ハートを模した夥しい弾幕豪雨はフランドールを瞬く間に追い詰めるが、彼女は網の目をかいくぐるように小さな躰を駆使して弾の間をすり抜けた。

 しかし追撃は止まらない。溢れんばかりの妖力を惜しみなく放出するこいしの攻撃は、まるでフランドールを遠ざけるかのように波状の陣形を組んで接近を阻む。

 近づけない。波を超えても次の波が遮ってくるのだ。力技で切り抜けられない事も無いが、それではリスクが大きすぎる。

 だから届かない体の代わりに、フランドールは言葉をこいしへ投げた。

 

「世迷い言なんかじゃない! 心から誓って本当よ!」

「そんな訳ないでしょ!? 私はっ、あなたの大切な人たちをいっぱいいっぱい傷付けたんだから!!」

「――確かにそれは許せないと思ってる。小悪魔とおじさまが傷ついた事を思い出すだけで(はらわた)が煮えくり返ってくる。でも、この怒りは決してあなたに向けて良いものじゃないって事くらい分かってる!」

「なんの根拠があって、そんなッ――」

()()()()()()()()()()()

 

 

 砲撃の津波が止んだ。

 歯を剥き出し、眼を見開き、耳を塞ぐように帽子を握り締めながらフランドールを遊撃していたこいしの顔が、まるで冷え固まった溶岩のように硬直する。

 好機だと悟ったフランドールは逃亡を止め、静かに、しかし燃える薪のように、熱を込めた言霊を放った。

 

「四年前まで私はあなたと全く同じ境遇だった。お父様の甘言に惑わされて、大切な人をたくさん傷付けてしまった。――あなたも見ていたのよね? 私が、暗い地下室で()()()を呟いていたところを」

「……っ」

 

 その言の葉だけで、こいしは十分な理解を得たのだろう。かつて虚空に話しかけていると思い込んでいた吸血鬼の相手が、一体何者であったのかを。

 それが、一体何を示しているのかを。

 

「だから私には分かるの。あなたがどんなに心を痛めているか。どんなに辛い思いをしているか。今の自分は間違ってるって頭の中じゃ分かっていても、あの人から離れる事の出来ない心の弱さも、全部理解できる」

 

 ――フランドール・スカーレットと古明地こいしはよく似ている。

 家族的な立ち位置だとか、見た目の話ではない。二人の抱える境遇が共通しているのだ。

 

 かつてフランドールはナハトを偽ったスカーレット卿に惑わされ、実に四百年近い年月を孤独の下で過ごしてきた。その呪いは四年前に解かれたが、フランドールはあの夜の激動を、それまでに犯してしまった数々の所業を忘れたことは一度もない。

 

 今まで間違っていたのが自身だったと気付いた時の溢れんばかりの後悔。

 取り返しのつかない事をしてしまったという海より深い絶望感。

 自分を守ってくれていた()()を否定してしまう事への恐怖。

 騙されていたとはいえ、自ら進んで大切な人を傷付けてしまった事実への果ての無い罪悪感。

 

 優しい心の持ち主であればあるほど、悪魔の爪は深く、広く突き刺さる。刻まれた傷は一生消えない痕となり、心の表面に残ってしまう。

 事の全てを理解し、自分が間違っていたのだと受け入れた当時のフランドールは、その痛みに耐え切れず自害を図るまでに至った。もしあの場に紅魔館の家族が――ナハトが居なければ、きっとここにフランドールは存在していなかっただろう。

  

 今、こいしは四年前のフランドールと同じ崖に立っている。

 被せられた罪の意識に苛まされ、現実を受け止めきれるキャパシティがとっくにオーバーしていて、もう自分でも何をすればいいのか分かっていない。際限のない不安は疑心暗鬼を膿の如く溢れさせ、誰の言葉も信じることが出来なくなってしまう。

 例え、それが最愛の家族の声であったとしてもだ。

 

 バギリ。

 砕き割れたように、噛み締められたこいしの奥歯から悲鳴が上がった。

 ぎゅっと、布に皺が刻まれるほど胸元をきつく握りしめる。胸の痛みは、無涙の震えとなって表れた。

 

「うるさい」

 

 ただポツリと漏れ出た拒絶。氷柱の様なそれを解きほぐすように、フランドールは会話を続けていく。

 

「怖くて、辛くて、寂しくて、でもどうしていいか分かんなくて。誰かに頼ることも出来なくて。まるで自分は世界で独りぼっちなんじゃないかって思えてきちゃって。涙は一粒も出ないのに、胸が握り潰されそうなくらいジクジクして。この苦しみが無くなるなら、いっそ消えてしまった方が良いとすら思えてしまう」

「その口を、閉じろ」

「私にはそれが痛いほど理解できる。だから私は、あなたの敵になんてなれないのよ」

「うるさいって言ってるでしょ!! 聞こえないの!?」

 

 声帯が破裂せんばかりの絶叫だった。音波は空気を殴りつけ、フランドールの鼓膜へ甲高くて鋭い贈り物を叩きつけた。

 こいしの口元が震えて歪む。瞳がわなわなと揺れ動く。心は微弱な振動に引っ張られ、哀しく引き裂かれていく。

 

「分かる? ははっ、分かるですって? いいえ、いいえ、いいえいいえいいえ!! あなたには分かんないよ……っ……分かるわけがないよ!! だって、だってあなたはっ、私と違って逃げてなんかないじゃない!!」 

「……逃げてない……?」

 

 一瞬、フランドールはこいしが何を訴えているのかが分からなかった。

 小さく首を傾げながら眉を顰めていると、こいしは古錆びた刃物の様な眼光でフランドールを睨みつけ、

 

「見て!」

 

 胸元から何かを掴み取って、突きつけるように差し出した。

 それは覚妖怪の証たる、第三の眼であった。

 ただし瞳は固く、冷たく閉ざされてしまっている。瞼を糸で縫い付けているのかとすら錯覚するほど重苦しく、光を拒み、闇の底で眠っているかのような眼球だった。

 目にするだけで、フランドールは言いようのない哀しみに駆られてしまう。

 

「昔、私はこの眼を閉じて、一緒に心も閉ざしたの。…………これが何を意味するか分かる? 分かんないよね?」

 

 声の震えは止まらない。二つの宝石のような瞳も、真冬の水面の様に揺れ動く。

 こいしは理性と恐慌の狭間を泳いでいる――尋常ではない凄味を称えるその(まなこ)は、容易くフランドールへと悟らせた。

 決壊寸前の心を少しでも鎮めようとするかのように、浅く、広く、こいしは息を振り絞りながら、告白した。

 

「私はね、逃げたのよ。『覚』である事から逃げ出した臆病者なの」

 

 

 

 第三の眼とは、覚妖怪の持つ心を覗き込む為の器官である。彼らはこの眼を駆使して他者の心を読み、相手を翻弄する事を生業としている。

 

 故か、嫌われ者の多い妖怪の中でも特に嫌われやすい種族と言える。当然だろう。人間であれ妖怪であれ神仏であれ、知られたくない秘密の一つや二つを抱えているのは自明の理だ。それを丸裸にされ、あまつさえ羞恥に晒されるとあってはたまったものでは無い。特に精神攻撃に弱い妖怪にとって『覚』の特性は、尚のこと危険視されるべきものだろう。

 こうした背景と『覚』の行いが手伝ってか、覚妖怪は人間からも妖怪からも疎まれる存在となっていった。『覚』たち自身もそれを十分に理解していたし、別段苦とも思わなかった。現実を受け入れられる精神強度を持ち合わせていただけでなく、そもそもの話、それが生きるために必要な業なのだから。

 

 だが、例外とはいつ如何なる時であっても必ず現れるモノである。

 

 古明地姉妹がまさにそうだった。『覚』でありながら心を弄ぶ宿業へ積極性を見出さず、疎まれ排斥される事を嫌って他人との関係を断ちながら、しかし寂しさから来る孤独を許容できない性の持ち主として生まれてしまったのである。時には醜悪な心の内を嫌でも覗き見てしまう第三の眼を、憎いとすら感じてしまう事さえあった。

 姉のさとりはまだ良かった。彼女は自らが『覚』である事も、周囲から無条件に忌み嫌われる事もある程度受け入れられたのだ。だから映姫から持ち掛けられた地霊殿の仕事を承諾した。大きな屋敷の小さな部屋へと引き籠り、癒しのペットたちに囲まれながら、穏やかな時間を過ごす生活を選べる強さがあったのだ。

 

 問題は、こいしの方にあった。

 

 彼女は『覚』に不相応な、誰よりも優しく無垢な少女だった。傲慢不遜を地で行く筈の吸血鬼にも関わらず朗らかな心を持ってしまったフランドールと同じ様に、古明地こいしもまた、心を読み人を誑かす所業を良しとする『覚』でありながら、あまりに物柔らかな性分を持って生れ落ちた少女だったのだ。 

 もう一度繰り返そう。古明地こいしは温和である。争いを嫌い、姉や動物と無邪気にじゃれ合う時間が大好きで、心を弄ぶことなんて思いつきもしない女の子である。

 

 だがそれは、『覚』という種族にとって不幸以外の何物でもなかったのだ。

 

 種族が『覚』と言う事実だけで向けられる、灰と泥に塗れた嫌悪の視線。醜悪でどす黒い、血と汚物で出来た沼のような心の囁き。そしてそれを嫌でも目にしてしまう無情な第三の瞳。

 一体彼女がどれほどの醜さを目にしてきたのかは誰にも分からない。どれだけ凄惨な目に遭ったのか知る由もない。

 

 ただ一つ確かに言える事は、古明地こいしはドコカで限界を迎えてしまったという事だ。

 

 一人の少女が追い込まれるのに十分な理由があったのかもしれない。度重なって降りかかる粘ついた視線が、真菌の様にゆっくりと精神を蝕んだのかもしれない。

 今となっては、真実を知る者など本人以外に存在しない。しかし過程はどうあれ、古明地こいしは心の臨界点を超えてしまった。自ら種族の証たる瞳を閉じ、同時に心にも鎖を掛けた。もう二度と醜いモノを見なくても良いように。もう二度と心が痛い思いをしなくていいように。

 

 そうして生まれたのが『古明地こいし』と言う少女だった。心を閉ざし、自我を棄て、『覚』でありながら『覚』でなくなった、何者でもない妖怪の成れ果てだ。

 人々の無意識に潜み、誰にも覚られず微笑む少女。それは古明地こいしが求めた安寧だったのかもしれない。この形こそが、こいしが欲してやまなかった真の平和だったのかもしれない。

 

 けれど、だからこそ。

 

 こいしの封印された心には罪の意識がこびり付き、水場のカビの様にじわじわと、密かに蔓延していったのだ。

 唯一無二の肉親。かけがえのない家族。古明地さとりへ、私は心配や迷惑を掛けてしまっている――本当に、たったそれだけの、優しく健気な無意識の罪悪。

 自我も意識も無いこいしがひっそりと抱き続けた戒めの気持ち。空っぽの心であっても、いつかきちんと清算しようと忘れなかった無垢な覚悟。

 

 

 それを不安の種へと変え、樹木まで育てた悪魔がいた。

 

 

 無意識の自分が姉に掛け続けていた我儘。『覚』であることから逃げてしまった後ろめたさ。永い時をかけて埃山の様に蓄積したそれらの()を邪悪は加工し、彼女を縛る首輪へと変えた。

 結果、事態は最悪な方向へと転がってしまった。悪魔の手助けによって瞳を閉じたまま幾許かの自我を取り戻したこいしは、自分が犯してしまった過ちの茨に絡めとられ、不安の沼へと引きずり込まれてしまったのである。

 ミイラへと成り果てていく名も無き妖怪たちの悲鳴が。血に濡れた小悪魔の凄惨な姿が。無実の罪を被せられ、大勢から迫害された吸血鬼の面影が。

 優しき少女の心に罪悪の有刺鉄線となって絡みつき、血が滲むほどに食い込んだのだ。

 

 もはや古明地こいしは、苦悩の恐怖と悪魔の鎖から、逃れる事の叶わぬ身へとなっていた。気付いた時には帰れる場所も道筋も、こいしの後ろから無くなってしまっていた。

 それを悟ったこいしの選択は、ただ一つ。

 『覚』にすらなれず、愛しい家族に負担を押し付け、沢山の人を傷付けてしまったこの愚かな身を、相応しい人の手でこの世から葬り去る事。

 

 四年前のフランドールと同じ()()を、彼女は払おうとしているのだ。

 

 

 

 

「フランドール。あなたは自分を辞めたことがある?」

 

 片腕を抱き締めながら、こいしは振り絞るように言葉を発した。

 胸元に漂う第三の眼から、赤黒い雫が垂れていた。

 

「私はあるわ。私は『覚』である事をかなぐり棄てた。心を読むのが怖くて、もうこれ以上傷つきたくなくて、全部を放り捨てて逃げ出した。……お姉ちゃんも同じ思いをしてきたはずなのに、弱い私は自分が『覚』である事を受け入れられなかった」

「――――」

「その結果がこれよ。心は読めず、今じゃ無意識にもなれやしない。挙句の果てに姉の気持ちと信頼すら裏切った、救いようのない大馬鹿者が出来上がった」

「こいし、ちゃん」

「騙されてたんだから無罪、なんて甘い言い訳は通用しない。通じても意味が無い。だって、もうお姉ちゃんたちは私の事を嫌いになったに決まってるんだもの。あんなに酷い事をしてしまった私が、嫌われない道理なんて、っ、無いんだもん……!」

「こいしちゃん!!」

「こんな、こんな私がさぁっ!? 今更どの面下げてお(うち)に帰れるって言うのよっ!? 何もかも滅茶苦茶にしたの、この手で全部ひっくり返しちゃったの! 今更後戻りなんて出来っこない、ごめんなさいで済む問題じゃないんだから!!」

 

 耳にするだけで血が冷めていくような、凍てつく激情の吐露があった。

 それは、フランドールが彼女の心を真に共感できたからなのだろう。四年前、絶望と悲哀に暮れたかつての自分と、鏡合わせの様に重なったからなのだろう。

 

 もう自分が戻れる場所なんてどこにもない。どう頑張ったって絶対に取り返しはつかない。戻ったところで、最愛の人も憧れの人も、大切な人全員が自分を拒絶するに決まってる。それこそが、己を守る事に徹し、『偽物』と『本物』の区別すらつけられなかった愚かな弱虫に相応しい末路なのだと。

 古明地こいしは、張り裂けそうな胸の内で震えているのだ。

 

 フランドールは知っている。涙で瞼を削られるような絶望の先に、彼女がどんな選択を手に取るのかを知っている。

 それは破壊だ。自分自身へ刃を向けた徹底的な破壊だ。

 自暴自棄に、我武者羅に、古明地こいしは全てを壊す。号哭を滅びの槍に変えて、己の命も勘定に入れず、もろとも粉砕を果たしていく。

 後に残るのは後悔と苦痛の血溜まりだけだ。抱え切れない罪の重さに押し潰され、「ごめんなさい」と繰り返し続ける哀れな人形の残骸だけだ。

 昔の自分(フランドール)が歩んだかもしれない最悪なイフの結末が、目の前で再現されてしまうのだ。

 

 自然と、拳に決意が籠っていく。想像するだけで、今まで感じた事も無い大きな塊が腹の底からこみ上がってくるのを感じた。

 絶対に見過ごせない。見捨てるなんて出来っこない。

 そんな最後、何が何でも迎えさせてやるわけにはいかないのだ。

 

 かつてフランドールは思い知った。どんな大逆を犯してもやり直す機会は必ず存在するのだと。例え見つけることが叶わなくても、自分が信じた人達が暖かい手を差し伸べてくれるのだと。

 その役目は、本当ならこいしのお姉さんやペット達の務めなのだろう。こいしが嫌われる未来を恐れて涙を流すくらい愛している人たちが、彼女を叱咤激励して、元の世界に引っ張り戻してくれるに違いない。

 

 けれど、今この場に彼女たちは居ない。あるのはフランドール・スカーレットただ一人。

 

 だから、その役割を少しだけ肩代わりする事に決めた。

 今にも崩れて消えちゃいそうな、泡沫の彼女を支える。耳を塞ぐ冷たい手をそっと退かして、希望を受け入れられるようにする。

 

 きっと、おじさまならそうするに違いない。

 

 今度は私の番なのだと、フランドールは覚悟を固めた。

 こいしが四年前のフランドールと同じ場所に立っているのなら。

 今度はフランドールが、四年前に貰った希望の光をお裾分けする番なのだ。

 

 瞳を閉じ、刹那の覚悟を嚙み締めながら、フランドールはかつて授けられた恩義を胸の内に想起する。

 息を吸って、吐いた。

 

「違うよ、こいしちゃん。それは絶対に違う」

 

 あの晩に渡された光の欠片を、フランドールは言葉に換えて彼女へ捧ぐ。

 

「……最初に謝るね。ごめんなさい。日記、使い魔越しに覗いちゃったんだ」

「っ」

「でもお陰で分かった事がある。こいしちゃんはお姉さんの事が大好きなのよね? 日記でも一番にお姉さんと出来事を共有しようとしていたあなたが、お姉さんを嫌いだなんて到底思えないもの。多分ペット達の事もそう。あのお屋敷の皆が本当に好きなんだって、あなたの日記からひしひしと伝わってきた」

「何が、言いたいわけ……?」

「その気持ちはきっと、お屋敷の皆だって同じなんだと思う。皆もこいしちゃんの事が大好きで、大切だって思ってるよ。これは希望論なんかじゃない。だって私、この眼で見たんだもの。うちのおじさまがあなたのお部屋へ入る前に、あなたが恥ずかしい思いをしないよう、お姉さんが先導切って部屋の中を確認してた所とか。おじさまの瘴気があなたへ悪影響を及ばさないよう、接触を阻止する区切りを交渉して設けた所をね」

「ッ!」

「おじさまはね、神様からも妖怪からも怖がられる凄い吸血鬼なの。慣れない人は出会っただけで発狂しちゃう。そんなおじさまと、あなたのお姉さんは対等以上に渡り合って、必死にあなたを守ろうとしたのよ。絶対に、こいしちゃんの事を大切に思ってるに決まってるわ。思っていなきゃ、あんな行動は出来っこない」

「……れ……」

 

 聞きたくない、とでも言うように、こいしは耳を塞いで唸った。目の焦点を揺れ動かし、奥歯をこれでもかと噛み締めて。

 フランドールは、取り合わなかった。

 声を、張った。

 

「そんなお姉さんが、あなたをいとも容易く見限ると思う? 薄情に、冷酷に、あなたを切り捨てると思う? 故意でやったわけでもない、悪い人に騙されてしまっただけのあなたの事を」 

「黙れ」

「拒絶するわけないでしょう。やり直しが効かない? 後戻りなんて出来っこない? 確かに一人なら難しいかもしれない。けれどそれを支えて、助けてくれるのが、家族や友達ってやつなのよ。――あなたはもっと信じなくちゃいけない。あなたの大好きな人たちの、あなたを大切に思う心の強さを!」

「黙れええええええええええええッ!!」

 

 こいしは体を抱きしめ、胎児の様に身を縮ませた。悲痛な叫びがとてつもない波動を生む。尋常ならざる蛍光色の妖力が渦を巻き、空気をぐちゃぐちゃに取り込んで、少女の小さな体へ集約を始めた。

 

「いくら善説を吐いたってもう遅い! 都合のいい言葉を並べても過去は変えられない! それは当たり前の事でしょう!? 私はもうっ、もうコンテニューなんて出来っこないのよ!! なのにそんなっ……! そんな無責任な希望をっ!! 私に押し付けようとするなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」

 

 瞬間、爆発と見紛うナニカが起こった。

 薄緑の閃光が何重にも弧を描き、一斉掃射の如く放たれる。心の濁流を表現するかの如く散りばめられた緑のそれは、一つ一つが確実なホーミング性能を持ってフランドールへ襲い掛かった。

 

「ッ!!」

 

 虹の翼を煌めかせ、悪魔の妹は空を駆ける。満天の星空に負けない絢爛な弾幕豪雨を弾き、潜り抜け、大気を切り裂きながら旋回する。

 刹那、フランドールは音速と化した。

 天狗の素速さ、鬼の怪力に匹敵すると謳われる吸血鬼のフィジカルは満月の下でこそ真価を発揮する。そして今宵の月加減は申し分ない。フランドールは瞬く間に速度を上げ、七色に輝く羽の軌跡を描きながら徐々に徐々にこいしの元へ距離を縮めていった。

 

「近寄るなッ!!」

 

 こいしの体に絡みつく紫の蔦が蠢きだしたかと思えば、鞭の如くフランドールへ襲い掛かった。

 フランドールへ絡みつき打撃を加えようとする不規則な触手の群れを、間一髪の動作で躱し続ける。

 

「嫌だ!」

「しつこい!!」

「当り前よ、嫌われたってしつこく行くわ、こいしちゃん! 何度だって、何度だってぶつかってやる! 絶対にあなたを()()から引っ張り出す!」

「出来る訳がないってさっきから言ってるでしょ!? 私がやってしまった過去を変えて、過ちを無かったことになんて出来ないのよ!! なら、もうどうしようもないじゃない!? 消えてなくなるしかやり直せる方法なんて一つもない! ううん、やり直せっこないんだよ!! 」

 

 だから! と、こいしは叫んだ。

 追撃が止まる。止めてしまった、と言うべきなのかもしれない。

 こいしは塞いでいた顔を上げ、一瞬立ち止まったフランドールと視線を交差させながら、

 

「早く私を壊してよ!! 出来るんでしょう!? あなたの手なら、妖怪だって木端微塵に壊せるんでしょう!? こんな私に情けを掛ける意味なんて、これっぽっちも無いんだよ!? だからっ……早く、早くその手で終わらせなさいよ! お願いだから終わらせてよ!! フランドール・スカーレットォッ!!」

「ッ――」

 

 瞳から氷の雫を零しながら、少女は心の底から懇願した。

 もう終わらせてほしい、これ以上の絶望を味わいたくないのだと。

 自分には欠片も希望なんて無い。だからあなたの手で終止符を打って欲しいのだと。

 古明地こいしは、確かにそう願いを告げた。

 

 ああ、だからかと、フランドールは歯噛みした。こいしが何故、みすみす姉と咲夜を見逃したのか、その訳を理解したからだ。

 始めはこいしの事をスカーレット卿の刺客だと思っていた。その推察も正しいのだろう。しかしそれだけでは無かったのだ。こいしはスカーレット卿へ通じる道を阻むだけの、ただのエネミーでは無かったのだ。

 もし彼女が本当の刺客であったなら、あの場のレミリアと咲夜の行く手を、能力を使ってでも食い止めたはずだ。なのにそれをしなかった。どころか、彼女は今の今まで能力らしい能力を使ってきてすらいないではないか。

 

 思い返せばこいしの言動にはどこか願望のようなモノが入り混じっていた。特に『フランドールが敵にならない事』を極度に恐れる様な、歪んだナニカが存在していた。

 その正体がやっと分かったのだ。何故こいしが本気で彼女たちの前に立ちふさがらず、こうもフランドールの言葉を拒絶するのかを。

 

 こいしの真の狙いとは、即ちフランドールの敵討ちによる壮大な自殺。

 贖罪と絶望からの解放。その二つを、同時に成し遂げようとしているのだ。

 

 フランドールの破壊は絶対だ。余程の怪物でもない限り、妖怪だろうが神仏だろうが壊されれば元に戻ることは決して無い。

 その事実を、こいしはスカーレット卿から耳にしていたのだろう。だからフランドールの敵として相対する事を選んだのだ。紅魔館の住人を傷付けた自分ならば、フランドールの手で裁かれて当然だと考えた。それが自分にできる唯一の贖罪であると同時に、胸を切り裂く絶望から逃れる、最後に残された逃走経路だと悟ったのだ。

 

 

 それを。

 ベールが剥がれれば哀しみしか残っていない、どうしようもなく切なる願いを。

 

 

「――――絶ッッッッ対にやだッッ!!」

 

 

 紅魔の次女は、紅き暴風と共に吹き飛ばした。

 怒号の炸裂。魔力嵐の暴動。吸血少女の甲高い叱咤は、僅かにこいしの隙を抉り出す。

 須臾の綻びを見逃さない。フランドールは一気に詰め寄り、こいしの胸倉へ掴みかかった。締め上げる様な拘束ではなく、胸の底から湧き上がる激情を欠片も残さず伝えようとせんばかりの、必死の思念がフランドールの両手に籠っていた。

 

「そんなこと絶対にしない! してやるもんか! 私が迎えたかもしれない最悪な結末を、あなたに押し付ける訳にはいかないんだから!!」

 

 唾が飛ぶなんてお構いなしだ。些細な事情を気にする必要なんてありはしない。

 フランドールは伝えなくてはならない。 この瞳を閉じた少女へ、未来は決して暗黒に塗り潰されてはいないのだという事を分からせてやらなければならない。

 でも、きっと、フランドールの言葉だけではこいしを救う力が足りない。だってフランドールとこいしは他人なのだ。ほんの数分前に顔を合わせたばかりの他人なのだ。そんな人物から突然激励を飛ばされたところで、晴れる靄などたかが知れている。

 

 だったら。言葉だけではこいしを闇の沼から引きずり出すのに不足ならば。

 別の手段を、重ねて用いるだけであろう。

 

「勝負よ、こいしちゃん」

 

 フランドールは片手を離し、懐から数枚のカードを取り出した。

 スペルカード。幻想の少女たちが遊戯に使う、宣言用の遊び道具。

 それをトランプの様に広げ、フランドールは豪傑の笑みを浮かべて突きつける。

 

「幻想郷にはね、とっても素敵な遊びがあるの。喧嘩したり、蟠りが出来た時は思う存分パーッと暴れて、最後は仲良くなれる魔法の遊びが」

「な、なによ急に?」

「やるわよ、弾幕ごっこ。地上でよく遊んでたなら、ルールくらい知ってるでしょう?」

 

 四枚で良いよね、と少女は言った。

 突然の提案に、こいしは目を白黒させた。させる事しか出来なかった。

 

「やっぱり、おじさまみたいに言葉だけで心を動かすなんて器用なマネ、私には出来そうにないっぽい。だから私は私のやり方であなたを止める。それにはこれが最適解」

 

 魔力が漲る。吸血鬼の素養が遺憾なく発揮され、周囲一帯へ千紫万紅の光が瞬いた。

 しかしそれは決して恐怖を誘うものではない。闇夜を踊る蛍の様な穏やかさ、祭りに浮かぶ花火のような絢爛さを内包した、幻想的な光が生まれては消えた。

 

「いくわよこいしちゃん。思う存分、自分の心を弾幕にして打ち出すが良いわ。私も私の気持ちを形にしてあなたへぶつける。華々しい弾の舞踊で煤だらけになるまで張り合って、心を濁らせる泥を全部吐き出せるまで付き合ってあげる。そしたら、その後は」

 

 右手を差し出す。こいしの心を繋ぎ止める様に。彼女の心に食いついて離れない、忌々しい呪いの蟲を掴み取ろうとするように。

 

「その後は、私とあなたはもう友達よ。だからあなたを助けるわ。――自分が嫌われてしまう未来がどうしようもなく怖いのなら、そんな未来、私がぶっ壊してやるんだから」

 

 ただただ、水晶の様に透き通った紅の瞳。それは第三の眼を介さずとも容易く読み取れるくらい、邪悪の欠片もない一途な心の表れだった。

 そんな瞳を湛えるから、フランドールの声はこいしの奥底にまでよく響く。自分が引き籠った檻を揺らされている様な錯覚すら覚えてしまう。

 だからだろうか。悪魔の姦計に絆され魂の根元まで冷え切っていたこいしが、フランドールと出会ってから激情を吐露し続けていたのは。

 

「――――」

 

 ぎりっ、と奥歯が擦れた音がした。

 しかしそれは、今までの真っ黒な感情とは少し違うものだった。

 後悔ではない。自虐でもない。悲哀にも感じられない。確かな正体はこいし自身にも分からないのかもしれない。

 ただ、これだけは言える。こいしの心に、光が差し込む僅かな綻びが生まれかけているという事が。

 

 もしかしたらと、少女の脳裏に過ったのだ。自分と同じ境遇を体験したなんて到底思えないくらい前向きで、どれだけ拒絶しても決して見捨てようとしない、このフランドール・スカーレットならば。

 本当に、私を地獄から引き摺りあげてくれるのかもしれないと。

 

 ハッキリと意識したわけではない。ただ、無意識のうちに強く感じるナニカがあった。

『自分が行き付くかもしれなかった絶望を味わわせたくない』と言う、ただそれだけの理由で、出会ったばかりの他人にここまで優しく、全力で向き合う事の出来るフランドールに、古明地こいしは希望を視た。

 

 気付けば、スペルカードを手に取っていた。

 正と負。希望と絶望。二つの相反する感情が混ざりあい、乱気流の如く暴れ狂う頭蓋の中身を、こいしはどうにか押しとどめ――否。

 そうじゃない。それじゃあ何も変わらない。

 古明地こいしは、内に溜まった澱みを全て、解放しなければならないのだから。

 

「う、ううう、ううううううううううううううううううあああああああああああああああああああああああああああー――――――――――ッ!!」

 

 堰を切った様に号哭をあげる。千の色が入り混じる激情を、百花繚乱の弾幕に変えて解き放つ。

 力強くて、優しくて、おどろおどろしくて、哀しくて――そして誠実なまでに美しい、古明地こいしの弾幕豪雨。

 フランドール・スカーレットは、それを泥臭くて快活な笑みで受け止めた。

 心に鎖を巻かれた古明地こいしに一番必要なもの。それが()()に他ならないと、フランドールは知っているから。

 

「さぁ! 泣いて笑って、怒って喜んで、へとへとになるまで遊びましょう! そして心の整理が着いたら、みんなに一生懸命謝るの! 私も一緒についてってあげる! ――あなたを蝕む悪夢なんて、それで消えて無くなるわ!」

 


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