霧雨魔理沙の実態は、極めて普通な少女である。
確かに、彼女は少しばかり特殊な生い立ちの持ち主ではある。大きな古道具屋の娘に生まれ、ひょんな事から魔導に憧れを見出し、家を出奔して魔法の森へと住み着いて、日々理想の魔法使いになるべく研鑽を積み重ねている不思議少女なのは間違いない。傍目から見れば、普通でも何でもないんじゃないかと思えてくる。
しかし、それでも霧雨魔理沙は普通である。平凡な人間のそれとは大きく逸れた道を歩んでいたとしても、霧雨魔理沙はいたって普通の少女なのである。
彼女が普通ではない経験を積み重ねても『普通』であり続けるその訳は、彼女の内面にこそ存在する。
彼女は風来の捻くれ者だ。他人をいつもからかってばかりで、吐き出す言葉は掴み所のない雲のよう。
彼女は謙虚な野心家だ。理想の力を得る為ならば血の滲む努力だって欠片も惜しまず、しかしその姿を晒すことを美徳としない。
けれどそれは表の話。彼女の秘めたる根幹は、唐竹の様に真っ直ぐで、花にも勝る可憐な乙女のそれなのだ。
彼女は羞恥心を持っている。普段がどれだけ粗野でお洒落に頓着しなくても、肌を無暗に晒すのは普通に嫌いだ。
彼女は恐怖心を持っている。勇猛果敢に怪物たちへ立ち向かっているように見えても、怖いものは普通に怖い。
彼女は嫉妬心を持っている。唯我独尊を貫く人物像でも、自分に無い才能の持ち主を普通に羨ましく感じている。
ただ、霧雨魔理沙はそれを表に出さないだけ。だから、霧雨魔理沙は流れ雲の様な態度をとる。普通な内側が表へ裏返れば、自分が『ただの古道具屋の娘』に逆戻りしてしまうと思っているから。
それだけは嫌なのだ。それだけは断じて我慢ならないのだ。
霧雨魔理沙には叶えなければならない夢がある。古道具屋の娘で終われない理由がある。
それは、誰にも負けない弾幕を作れる最高の魔法使いになること。それこそが、彼女の望む唯一無二の目標地点。その夢を叶える為に、霧雨魔理沙は己の『普通』を表に出すことは決してない。
だが、一つだけ。
一つだけ、どうしても魔理沙が表を出してしまう瞬間がある。
隣を歩いているようで、常に一歩先を進む巫女の影。魔理沙はその影に追いすがろうと、全力疾走で駆け抜けてきた。
いつかその影に追いつきたい。追いつくだけじゃなく、隣を笑って歩いていたい。
自分には無い大きな才能を持ち、やっと魔理沙が追い着いたと思ったら軽々と距離を離していく……そんな天賦の才を持つ少女と並び立つ事が、霧雨魔理沙の持つ、もう一つの小さな夢だった。
博麗霊夢といる時だけは、霧雨魔理沙はどうしても『普通』になってしまうのだ
霧雨魔理沙と博麗霊夢は陰と陽の関係だ。けれど霧雨魔理沙にとって博麗霊夢は、そんな単純な一言では語りつくせない間柄だった。
幼馴染であり、腐れ縁であり、親友であり、他人であり、好敵手であり、共闘者――幾つもの色と側面を持つ、際限のない関係性。魔理沙が抱く感情もまた、友情や親愛、尊敬に羨望と、淡いものから濃いものまで多岐に渡る。
単純だけれど複雑で、若齢の少女が持つ言葉だけでは満足に表現できない、楽園の素敵な巫女との関り。
そこに嫉妬や嫌悪が欠片も無かったかと聞かれれば、魔理沙は迷わずノーと答えるだろう。だってそんなの当然だ。彼女はどう足掻いても『普通』なのだ。自分には無いインチキ染みた才能や能力を何度も何度も見せつけられれば、『どうして私には才能が無いのか』なんて僻みを枕にぶつける日があったって不思議じゃない。
けれど魔理沙は平気だった。彼女は反骨精神が心の中枢を担い、滝登りを常とする鯉の様な少女だから。僻みや妬みすら自分を伸ばすバネへと変えて、高みに向かい邁進してきたのだから。
だがもし、その嫉妬や逆恨みの感情が
絶対に花開く事の無かった負の気持ちが、突如醜悪な華を咲かせたとしたら?
無論、少女はそれを見て戸惑うだろう。こんな物が自分の中にあったのかと、さぞや困惑する事だろう。
――悪魔の真髄は、その
絶佳の華は棘を持つからこそ可憐に開く。だが棘を備えた毒華とは、美しさに取り憑かれた者へ致命的な病魔を与えるのだ。
◆
「無敵の巫女よ。哀しい事だが、貴様の弱点は人間なのだ」
轟音が休む間もなく炸裂する。光線が夜の闇を幾度も切り裂き、輝く玉の雨は流星群の様に煌めき飛び交う。
絶景と称する他にない少女たちのイルミネーションを観賞しながら、鴉を模した悪魔はクスクスと笑みを浮かべた。
「認めよう、博麗霊夢。貴様は幻想郷で最も強大な人間だ。私の様な化生には万に一つも勝ち目のない現代の英雄だ。神も仏も妖怪も、この楽園では絶対に貴様には敵うまい。仮に苦戦したとしても、貴様は最後に必ず勝ちを捥ぎ取ってみせるだろう。まさしく運命に愛されていると言っても過言ではない女。それが貴様なのだ」
冷静に、客観的に。狂っているとは思えないほど冷え切った頭脳で、悪魔は波風一つ立たない瞳を眼下の少女たちへなぞらせる。
獣が如き獰猛さで襲い掛かる霧雨魔理沙と、目に見えて困惑しながらも必死に応戦する博麗霊夢の姿が、水晶体へ鮮やかに映りこんだ。
「だから随分と頭を悩ませたよ。異変となれば必ず貴様はやってくるだろう? ナハトを葬る前に退治されては笑い話にもならんからな。どうしたものかとあぐねていたが……しかし、私も負けず劣らずの幸運の持ち主でね。ある日突然、解決策が向こうからやってきたんだ」
それが魔理沙さ――卿の口元が歪に捻じり曲がる。
「彼女は素晴らしいぞ博麗霊夢。基盤は凡人のそれなのに、精神強度と向上心はまさしく英雄の器ときた。大器晩成型と言った所かな。順調に成長すれば間違いなく貴様を下すほどの魔法使いと成るだろう。――だから、先人のお節介として、少々手伝いをさせて貰ったよ」
スカーレット卿が魔理沙へ施した姦計は、今までの陰謀と比べるとそう大したものではなかった。
単純に、言葉と魔法と能力を使って負の心を増大させたのだ。霧雨魔理沙が塵屑程度に持っていた、博麗霊夢に対する嫉妬などの感情を膨らませただけである。
かつて魔理沙が早苗と共に紅魔館へ忍び込み手に入れた――否、
霊夢に対する負の感情が増大したことで持ち前の逆境精神が遺憾なく発揮され、魔理沙は霊夢を打倒する為だけに努力を重ね続けた。その結果、魔理沙は強力な対巫女用の決戦兵器として生まれ変わってしまったのだ。
「巫女よ、貴様は魑魅魍魎、悪鬼羅刹、神々と悪魔に対しては無類の強さを発揮するが、人間だけは話が別だ。何故なら貴様にとって人間とは庇護の対象だからだ。博麗の巫女は闇夜の魔から民草を守る象徴だからだ。だから貴様は、人間にだけは絶対強者として成立し得ないのだよ」
卿は魔理沙の潜在能力に驚かされてばかりだった。小さな嫉妬が悪魔の囁きによっていつしか大きな憎しみへとすり替わり、打倒霊夢へ魂を燃やし始めた魔理沙は、スカーレット卿の指導によって圧倒的なスピードで芽を伸ばした。卿の計算よりも遥かに早く、魔理沙は潜在能力を果実として実らせるに至ったのである。
しかし当然ながら、
当たり前だが今の魔理沙は平常心ではない。感覚、価値観、精神性を強制的に狂わされたに等しいメンタルと、本来なら長い年月をかけて辿り着くはずの境地へ短期間で至った程の猛特訓は、過度なドーピングを施した決壊寸前のアスリートに等しいダメージを魔理沙に与えてしまっていた。
悪魔の魂もまた、人間にとって猛毒だ。だから卿は、今までと違って完全な乗っ取りを施してはいなかった。してしまえば、人間の魔理沙は一瞬で壊れてしまうから。
それでは駄目だ。魔理沙は対霊夢用の切り札であると同時に人質なのだ。完全に妖怪から乗っ取られた人間を博麗の巫女がどうするかは想像に難くない。だから卿は、魔理沙の精神を弄るまでに留まった。
言うなれば今の魔理沙は暴走状態にある。しかし妖怪に成ろうとしている訳ではない。精神操作といくらかの魔力増幅を施されただけの魔理沙は、霊夢にとって退治の対象に当て嵌まらない。
故に、霊夢には鎮静化させる以外に選び取れる道などない。だが時として鎮圧とは殺害よりも難しい。如何に博麗の巫女といえども、苦戦は約束されたも同然だった。
それこそが、スカーレット卿の真の狙いでもあるのだが。
「という訳だ、存分に競うが良い人間ども。共倒れか? あるいは片方が倒れるか? どちらにせよ私の勝ちだ。ゆっくり刃を交えてくれたまえ」
悪魔は宙に印を刻むように指を動かす。なぞられた空間は光を帯び、空間をゼリーの様に掻き混ぜると、ほんの拳程度の小さな穴を生み出した。
卿の胸元から一体の霊魂が飛び出していく。すると、吸い込まれるように穴の中へと姿を消した。
「さてさて、もう直ぐ本命の準備が整う頃だな。期待しているぞ? ナァハト」
◆
「れぇぇぇえええええええええいむゥゥうううううううううううううううううううううううううううううううううう――――――――――――――――――――ッ!!」
「魔、理沙……ッ!」
流星雨が降り注ぐ。爆音は多重し、さながら一つの音楽となる。
静謐な夜は打ち砕かれ、砲台と化した魔法少女と一方的な防戦を強いられる巫女の戦いは、時を刻むごとに激しさを飛躍させていた。
「ほらほらほらほらどうしたどうしたァッ!! まだ試合開始のゴングは鳴ったばかりだぜ!? なのに息切れなんてよぅ、日頃の運動不足が過ぎるんじゃないかァーッ!?」
「づッ――!!」
霧雨魔理沙は獰猛な笑顔を嵐の渦中で覗かせながら、一切衰える気配の無い魔力弾幕を霊夢へ放射し続けていく。齢十数程度の少女が撃てるとは思えない質量と物量を伴った砲撃の数々は、まさに
針穴の様にか細い隙を間一髪で搔い潜りながら、巫女は正気を失った親友へ向けて叫ぶ。
「魔理沙、馬鹿な事してないでさっさと目を覚ましなさい! あんな奴に操られてんじゃないわよ!」
「操られる? おいおい、妄言は節度を持って扱わないと駄目だぜ霊夢!」
言葉を断ち切った魔理沙は、小馬鹿にする様に鼻を鳴らす。
帽子の位置を正しながら、少女はニッと純白の歯を覗かせた。
「これは私の意志だ。
「――――」
嘘だ。霊夢は何の迷いもなく確信した。
例え
霊夢は他人に興味が無い事で有名だ。雲の様にその場の風に身を任せ、去る者は家族であっても追わず、来る者は魑魅魍魎であっても拒まない。だれでも平等で、対等で、ちょっぴり冷たい人間だと感じられることもある。だからこそ、霊夢は人外たちから信頼を寄せられていると言って良い。
その公平性は例え長年の苦楽を共にした魔理沙であっても例外ではない。しかし博麗霊夢は知っている。霧雨魔理沙という少女を知っている。
捻くれ者なのに竹の様に真っ直ぐで、笑顔の裏では辛苦の味を噛み締めながら奮闘を重ね続けている努力の人。霊夢が嫌いな努力を信じ、霊夢へ必死に食い付いている普通の人間。
性分はさておき、根っこは似ているかもしれないと霊夢も思う。けれど根本的な部分以外はまるで正反対だと断言できる。自分がコインの裏ならば、間違いなく魔理沙は表だろうと。
霊夢は流れ水の様に生きつつも、それでなんでもこなせてきた。
魔理沙は川を遡る鮭の様に、逆境に立ち向かって今の位置にしがみついている。
霊夢は努力を信じていない。無駄なものだと排斥している。
魔理沙は努力を信じている。それこそが最大の武器だと疑わない。
霊夢にはこれといって夢も目標もない。ただ末永く、日々の平穏が続けばいいと思っている。
魔理沙には大きな夢がある。平凡な村人Aで終わる人生を歩もうとは欠片も思っていない。
ああ、やっぱり。こうして考えただけでも、魔理沙と霊夢は陰と陽の如く対極な存在だ。
それ故だろうか。魔理沙が霊夢という少女を知っているように、霊夢もまた魔理沙という少女を知っている。
だからこそ。
だからこそ、今の魔理沙は――いいや。魔理沙をこんな風にした元凶の存在が、霊夢には到底看過できなかった。
思わず、お祓い棒で真っ二つにしてやりたくなるほどに。
「――らし」
熱いナニカが湧き上がる感触があった。
魔理沙に対してではなく、魔理沙の後ろでニタニタと笑う悪魔へと。言い知れぬ感情が膨れ上がってくるのを感じた。
それこそ、今まで体験したことが無い程の、大きな大きな熱の塊が。
「あん? なんだって?」
「アホらし、って言ってんのよ」
空気が凍る。
冬とは違う冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。
「……あ?」
「だって、言ってることが
次の瞬間、霊夢から噴き出したのは木枯らしの様に静かで冷徹な怒号だった。肌を貫く冬の息吹よりも冷たく、けれど溶岩の様に茹立つ激情の化身だった。
だが霊夢の氷柱の様な言葉の意味を魔理沙は汲めず、ぱちぱちと瞬きをして首を傾げるのみ。
「言ってる意味が分からんな。何が違うってんだ? もしかして私の願いがお前を倒す事だってところか? おいおい、それは主観の押し付けだぜ博麗霊夢。これは間違いなく私の目標だ。ずっと目を背け続けていただけの、長年の夢に違い無いんだよ」
「いいえ、いいえ。今のアンタがそう思っていたとしても、それだけは違うわ霧雨魔理沙」
風切り音と共にお祓い棒の切っ先が向けられる。伴う眼光は刀を越えた鋭さを帯び、纏う覇気は一騎当千の凄味を孕む。
「アンタの夢は私を倒す事なんかじゃない。そんなの、
「――――――――――――は?」
理解不能。ただ一色に塗り潰されたと言わんばかりに魔理沙は目を白黒させた。
それだけではない。今の魔理沙にとってその言葉は、明確な『否定』に他ならなかった。
今の魔理沙にとって打倒霊夢こそが全てである。それを完全否定されたとなれば、即ち魔理沙の根幹に泥を塗られたとなれば。脳漿に熱い血潮が駆け巡るのは自明の理と言えるだろう。
少女らしからぬどす黒い感情を表情筋で彩る魔理沙は、まるで魔女の様だった。
けれど。
そこには怒りの赤黒さだけじゃなく。混乱の色も混じっていた。
「なに言ってんだ? お前」
「なに言ってんだはこっちの台詞よ。そんなくだらないモンがアンタの夢の筈が無いでしょっての、ばーか」
ビキッ――魔理沙の額へ、蛇の様な青筋がくっきりと走り抜けていく。瞼が痙攣し、頬の筋肉が瞬く間に強張った。意識せずとも歯が外気に晒され、皺が目尻を覆っていく。
魔理沙の特大地雷を踏み抜いたと直ぐに分かる有体だった。それでも霊夢は構う素振りを見せなかった。
だってその地雷は偽者だから。第三者から勝手に埋められた、異物に他ならなかったから。
「私を倒す事が目標ですって? ハッ、ちっさ。小さいわよ魔理沙。いつの間にそんなくっっっだらない女に成り下がってしまったのよアンタは。あまりに矮小過ぎて呆れる気力も無くなるってモンだわ。いっそ唾まで吐き捨てたくなってくる。下品だからやらないけどさ」
「オマエ」
「ねぇ魔理沙。アンタの夢って、そんな陳腐で粗末な代物だったかしら?」
毛が逆立つばかりの怒りに身を焦がされる魔理沙へ、霊夢は一転して、優しさを絡ませた声を投げた。それは癇癪を起こした妹を宥める姉の様な、間違いを犯した親友を止めんとする友の様な、慈愛と怒り――そして悲哀の入り混じった声色だった。
返事は無い。その無言を答えと受け止めるように、黒曜石の瞳は哀しみに揺れ動く。
霊夢はぐっと唇に力を入れて、真っ直ぐ彼女へ届くよう、言葉を一つ一つ放っていく。
「アンタはずっと星を見ていたわ。まるで星に恋をしてるみたいだった」
「黙れ」
発言を両断。八卦炉から放たれた金色の一閃が豪速を伴って夜を切り裂き、息を吸う暇すら与えず霊夢の右肩へと着弾した。
打ち上げ花火の如き炸裂音が響く。小さな体が反動に揺れる。肩から白煙がぼうっと漂い、焦げ臭い匂いが鼻腔を突いた。
だが霊夢は苦悶の表情を浮かべない。今の一撃は敢えて受け止めたと言わんばかりの堂々たる振舞いだ。
「アンタの目指している場所はそこだった。空に輝く星の海だった。――決して、決して私みたいなちっぽけな
「黙れと言ってるだろうが」
二閃、三閃。果てには数えきれないほどの流星群が降り注ぐ。
掠るものもあった。削るものもあった。焼くものもあった。打つものもあった。
それでも、博麗霊夢は倒れなかった。
だって、目の前には霊夢よりも倒れそうになっている、友達の姿があったから。
「アンタの夢は私を倒す事なんかじゃない。アンタの……霧雨魔理沙の持つ夢は。誰よりも凄い大魔法使いになって、誰よりも綺麗な弾幕を作ることだった」
「ッ」
「思い出した? それとも胸の中のどこかに引っ掛かった? どちらにせよ、あんな阿呆にあっさり惑わされて本分見失ってんじゃないわよ馬鹿魔理沙。私を倒すなんて、夢の過程のそのまたツイデで出来ちゃう事でしょ? ……だから小さいって言ってんのよ。だから、それは違うって言ってんのよ」
核心を抉り取り、それを眼前へと突きつける。
気付けば砲撃は止んでいた。
魔理沙は目を剝きながら、ほんの数センチ後退していく。
霊夢は最後に一言、添えるように言い放った。
「アンタさ。自分の夢をあんな奴に汚されて悔しくないわけ?」
◆
『キリサメマリサ。君は悔しくないのかい?』
心の声、というものがあったとすれば。それはこんな声を指してるんじゃないか思う。
あの日……早苗と共に紅魔館へ足を運んだ日。私はまるで提灯の火に吸い寄せられた羽虫の様に、宝物庫で一冊の本を手に取った。
自分でも何故そんな行動をしてしまったのかは分からない。少なくともほんの数秒前までは罠を警戒して、何も触ろうとは思っていなかった。けれど金貨を見ていたら奇妙な安心感が芽生えてきて、私は誰かへ誘われる様に本を手にしてしまった。
その時までは何もなかった。ただ凄い本を手に入れたかもしれないって言う変な達成感しか感じなかった。
きっかけは、あの吸血鬼に出会ってからだと思う。
身を縛る恐怖。心を掻き混ぜる恐怖。私という存在を吹き消してしまいそうな、絶対的な恐怖の暴圧。
灰被りの吸血鬼を見た瞬間、今まで感じた事も無い絶望感が私を包み込んだ。情けないくらい膝が笑って、血が冷えて、眼を逸らしたくて堪らなくなった。おまけに頭の中の錠前を壊されたかのような痛みがいきなり突き刺さってきたかと思えば、封印されていた記憶なんてモンが呼び覚まされる始末だ。早苗が傍にいたからとはいえ、我ながらよく粗相をしなかったなぁと褒めてやりたい。
きっと、この恐怖が始まりだった。あの男の瘴気で精神を乱されてから、まるで愛娘に囁く様に優しい声が私の中から語り掛けてきたのだ。
始めは幻聴だと思った。男を殺せ、殺せ、殺せと、優しい声色の癖に怨霊よりも負の色に塗れた呪詛が脳ミソの中心から呟き続けて来たんだから。
そこから記憶は曖昧だ。どっかで心の線がぷっつり切れたと思ったら、いつの間にか守矢神社で手当てを受けていた。
目覚めてからも……いいや、眠っている間も声は続いていた。けれどそれは、呪いの言葉じゃあなくなっていた。ただそいつは――
悔しくないのかと。惨めには思わないのかと。見返してやりたいとは考えないのかと。
私は更に強くなれると。その高みに上らせてあげようと。君のサポートを担おうと。
始めは勿論戸惑った。悪霊にでも憑かれたかと勘繰ったさ。けれど彼の言葉はまさに甘言の体現だった。どうしてか分からないが異様に安心するんだ。言の葉の一枚一枚が赤子の時に身に着けていた毛布の様な、慈しみを孕む親の笑顔の様な、抗いがたい安心感を持っていて、私はついその言葉に従ってしまった。
すると、だ。嘘みたいに私の力は上達していったんだ。魔力のコントロールも、困難だった術式の証明も、読めない魔導書の解読も、瞬く間に進んでいった。それこそ、自分自身ではっきりと成長を実感出来るくらいに。独学の非効率性を噛み締めたくらいに。
でも事はそう簡単なモノじゃなかった。先生の指導は苦行と荒行を乗算したような無茶にも程があるプログラムだったんだ。体中は痛いし、眠れないし、死ぬほど疲れた。睡眠なんて気を失う事と同じで、食事はただの栄養摂取に変わった。けれど、それを差し引いても素晴らしいと自慢出来る成果が出たから、私は死ぬ気で頑張れた。
これで私は飛躍出来るんだって。立派な魔法使いになって、幻想郷一綺麗な弾幕を作れる一歩を刻めるんだって。霊夢と一緒の景色を、早く見る事が出来る様に――
『もう一度問おう。君は悔しくないのかい?』
出来る様に、
『博麗霊夢は才能に溢れている。君には無い才能を沢山持っている。君が一日かけて登る山を、彼女はほんの数時間で登りきる事が出来る。同じ人間なのに理不尽とは思わないかい? 羨ましいとは思わないかい? 妬ましいとは思わないかい?』
出来る、様に。
『隠さなくていい。それはごく普通の事なんだから。誰だって才ある者を僻む。当然さ。隣の芝生は青く映るものだろう? けれど、霧雨魔理沙。君はただ指を咥えているだけで納得出来る人間なんかじゃあないよね』
違う。
『その悔しさ、晴らしてみたいと思うだろう。見返してやりたいと思うだろう。いいや、そんな生易しい感情だけでは終わらぬよ。君は、そう、憎んでいる。才能溢れるあの巫女を憎んでいる。怠けていても成すべきことを成せる天性の才を、それが自らに備わっていない不条理を、どう足掻いても打ち破る事の叶わない不条理な壁を。君は歯軋りをしながら憎んでいる』
違う!
霊夢は霊夢、私は私だ。そんな気持ちなんてこれっぽっちも無い。
確かにあいつのインチキ具合を羨ましく思う事だってあった。けれどそんな、そんな酷くて理不尽な嫉妬、抱いた事なんて一度も無い!
『では見せよう。君の頭からは消えてしまった、ナハトとの会合の後の記憶を』
――――――あ。
『さぁ焼き付けるがいい。霊夢と戦ったあの瞬間を、激情を、存分に噛み締めるといい』
嘘だ。
嘘だッ!
こんな、こんなの、私じゃない。嘘だ。嘘だ!
なんだこれは。私が、霊夢にこんな。支離滅裂に、まるで私怨を押し付けて、子供みたいに癇癪起こして……!
『恐れる事はない。君は真っ当な向上心を見つけただけなのだよ。その気持ちは重大なエネルギーだ。黒の感情は燃やせば力となる。私はそれを君に証明した。数週間前の君とは見違える程の成長を実感しただろう?』
それは、
『受け入れよ。恥ずべき事ではない。自らの黒を認め、受容し、誇るのだ。それは即ち、王道たる覇道である』
私は。
『それとも何だ? このまま君はエキストラとしての生涯を選ぶつもりなのか。恵まれた境遇で輝き続ける巫女に立場を奪われたまま、ただ惨めな影としての人生を歩むのか?』
――――。
『憎め、少女よ。黒き炎を焚き上げよ。灰をも燃やし尽くして進軍せよ。それはきっと、君の大きな力となろう』
――――ああ、そうか。
『成すべき事はただ一つ。そう、たった一つだ霧雨魔理沙。君を影に変えた太陽を、その手で地に落とすのだ』
私は、霊夢を。
そうだ、霊夢を。博麗霊夢を。
理不尽の権化を。私に無い物を全部持っている選ばれた人間を。
私は、この手で倒さなくてはならない。
でないと、私は。キリサメマリサはエキストラで終わってしまう。
ただの道化で終わってしまう。夢見の少女で終わってしまう。
嫌だ。それだけは嫌だ。私はエキストラなんかじゃない。古道具屋で働きながら、星を眺めるだけで終わりたくない。
『ああそうさ。それこそが君の掲げるべき真の目標なのだ。今こそ太陽へ叛逆せよ、普通の子よ。主人公になる時がようやくやって来たのだ』
私は、霊夢を。
私は、霊夢と。
私は。わたしは。ワタシは……――――――
「アンタさ。自分の夢をあんな奴に汚されて悔しくないわけ?」
それはまるで。
雲の割れ目から、暖かい光が差し込むような。
◆
「――そうだ、私は霊夢を、違う、私は、魔法使いに、違う、ゆめ? 私の望みは、違う、違う、先生の、先生の言葉が正しい、いや違う、あいつは悪魔で、ああああ、私は、私はぁっ……!!」
「……魔理沙」
記憶の揺らぎ。認識の齟齬。
見つけてしまった頭の中の違和感は、少女の心を大渦の様に搔き回した。
滝の様な汗が頬を伝う。玉の肌が青ざめる。脈打つように体が震え、瞳の焦点は居場所を求めて彷徨った。
増大された魔力が不規則に少女の体から溢れ出す。まるで心臓の鼓動を思わせる波動だった。魔理沙の混乱を、如実に物語っているのだろう。
数拍の末、体の震えがピタリと止んだ。
頭を抱え、遥か下の大地へ顔を向けたまま、魔理沙は吐き下すように言葉を漏らす。
「お前の事が羨ましかった」
その一言には、少女の全てが詰め込まれていたと、霊夢は体で感じ取った。
「お前は私に無い物を全部持っていた。力も、運も、才能も、立場も、全部だ。隣の芝生は青い、なんて言葉があるけれど、まさにそうだった。私はお前の全てが羨ましかった。妬ましかった」
「…………」
「だからだろうな、まんまと乗せられちまったよ。それでこのザマだ。醜い心に侵されて、狂ったように大暴れ。ガキの癇癪と何が違うってんだ。ははは、我ながら笑いが止まらんぜ」
「魔理沙、アンタ」
戻ったの? と霊夢が口にする前に、いいや違うと魔理沙は言った。
「聞いてくれ、霊夢。これは
魔理沙の記憶改修の基盤は、増幅された真っ黒な感情にあった。スカーレット卿は大々的に魔理沙の脳を弄り倒した訳ではないのだ。過度な疲労と、激情と、安心と、眼に見えた実績を叩きつけ、洗脳に似た意識改革を行った。だから魔理沙にとって最も効果のある言葉を霊夢から吐かれた時点で、植え付けられた認識に揺らぎが生じ、幾許かの正気を取り戻したのだ。
だがしかし、それとこれとは別問題な部分が残っている。
それは魔理沙の内に膨らんでしまった黒い感情だ。これは植え付けられたものでは無い。元々魔理沙が――いいや、人間ならば誰しも持っている感情が増幅されただけの代物なのだ。
つまり、一度それを認めてしまえば、心の中から消し去る方法は記憶処理以外に存在しない。何故ならその黒い部分は、紛れもなく自分自身なのだから。
故にスカーレット卿は簡単な改修で済ませたのだろう。認識の齟齬が紐解けても暴走したエンジンは止まらない。溢れる怨嗟は魔理沙と言う本体を突き動かし、変わらない成果をもたらしてくれるだろうから。
「霊夢、頼みがある」
残酷な事実を知って、魔理沙は大きく両手を広げた。
降伏とは違う。全てを受け入れると言わんばかりの態勢だった。
それは、まるで自分の終末すらも、範疇に入っているかのようで。
「私を殺してくれ」
一筋の冷たい雫が、流れ落ちて虚空に消えた。
心臓を握り締められるような懇願は、巫女へ重く圧し掛かった。
「もう自分を止められそうにない。お前の事が、大好きだったはずの霊夢の事が、憎くて憎くて仕方がないんだよ。このままじゃさっきと変わらない。今はどうにか抑えられても、いずれ限界がやってくる。そしたら必ずお前を…………そんなの嫌だ。嫌なんだ。自分の醜さで、お前をこの手に掛けるなんて、絶対に絶対に嫌なんだ」
震えていた。
内側から魔理沙を突き動かす衝動か、それを抑える魔理沙の奮闘か。
どちらにせよ、彼女の言う通り、じきに決壊が訪れるのは明白だった。そしてそれは、霧雨魔理沙にとって最悪の結末を招いてしまう。
だから選んだ。どす黒い泥に塗れ、大切な存在へ手をかけてしまう悲劇よりも、黒に塗り潰される前に消え去る事を選んだのだ。
霊夢に終わらせてもらうなら、それも悪くない――飄々と、いつもの様に少女は言った。
「…………」
霊夢は答えなかった。
ただ静かに、ふよふよと魔理沙の元へ辿り着き。
無言のまま、躊躇なく魔理沙を一閃した。
しかしそれは、陰陽玉でもお祓い棒でも、ましてや巫女の秘術でもなんでもなく。
博麗霊夢の放つ、渾身の平手打ちだった。
パァンッ、と乾いた破裂音が頭蓋を揺らす。しかしやってくるはずの鋭い痛みは脳に届かず、何が起こったのか分からない魔理沙は、呆気に取られてクエスチョンマークを浮かべるのみ。
「おい、霊ぶっ!?」
さらに一閃。先の一撃より重みの増した平手の音は、果てしない空にまで響き渡った。
畳み掛ける様に霊夢は胸倉を掴み、引き寄せる。額がくっつき、鼻が触れ合いそうな距離にまで。
「ふざッッけんじゃないわよ!!」
鼓膜を叩き割られそうな怒号が、零距離から魔理沙へ襲い掛かった。
長らく連れ添った間でありながら、今まで一度も聞いた事の無かった霊夢の怒髪天に、魔理沙の黒い感情が一瞬だけ吹き飛び消える。茫然自失に眼を白黒させていると、魔理沙は霊夢の異常に気付き、ハッとしたように意識を取り戻した。
博麗霊夢は泣いていた。
感情豊かでありながらどこか冷たく、流れ雲の様に世を歩き、誰にも自分の奥底を見せる事の無かったあの霊夢が。
年相応の少女の様に大粒の涙をぽろぽろと零し、嗚咽を奏でながら泣いていた。
「こんなに、こんなに心配させておいてっ! 久しく顔を見れたと思ったら、ワケ分かんない奴に頭弄られててさぁっ! いきなり殺しにかかってくるわ、意味不明な事を口にするわ、挙句の果てにはっ、悟った顔をしてこの私に自分を殺せと言ってくる! ふざけるのも大概にしなさいよ馬鹿! この、このぉッ!」
「れい、む?」
「出来る訳ないじゃない……!? そんなのっ、いくら私が博麗の巫女でもっ! アンタを、人間のアンタをっ、こんなに苦しんでる魔理沙を、黙って殺すだなんて出来っこない! 私は機械じゃないんだ!! そんな事、口が裂けても言うな! 二度と言うな! アホンダラぁッ!!」
何度も。何度も。霊夢は胸に拳を叩きつける。力なく、しかし重みを伴った小さな手で、何度も何度も、訴えかけるように叩き続けた。
―― 一つ、大きな勘違いをしていたんだと魔理沙は悟った。
博麗霊夢は人間だった。楽園を守る巫女である前に、魔理沙と変わらない人間だった。
確かに霊夢は超人だ。間違いなく人間の枠組みを超えた逸脱者だ。空なんて当たり前に飛べるし、数々の秘技や奥義をなんとなくで使えるし、『ありとあらゆるものから浮く』だなんて反則染みた性質まで隠しているし、妖怪に成ろうとする人間を躊躇なく木っ端微塵に出来るくらい冷徹な側面も持っている。
けれどそれと同じくらい――いいや、それすら霞んで見える程に、博麗霊夢は誰よりも人間味に溢れていた。したたかと思いきやよくドジをするし、ぐうたらだし、でも頑張る時は頑張るし、子供が好きだし、甘いものだって好きだし、お賽銭を貰えたら飛び上がるくらい喜ぶし、妖精から悪戯をされたら雷を落とすように怒り狂う。
幻想郷のどこをみたって、彼女ほど喜怒哀楽に溢れた人間はそういない。
あの霊夢なら、それなりに親交を育んだ私でも案外あっさりと決着を着けてくれるかもしれない――そんな魔理沙の考えは、どうしようもない驕りだったのだ。
そう。博麗霊夢は機械じゃない。幻想郷のバランサーなんて大層な役割を担い、魔理沙とは似ても似つかない境遇に身を置いていたとしても。前提として、博麗霊夢は年相応の少女でもあるのだから。
「私の事、羨ましいって言ったわよね」
鼻を啜りながら絞り出された言葉が、いやに澄み渡って耳へと沁みこむ。
ぽつり、と肌に雫が落ちてきた。二つ、三つと、水の粒たちが魔理沙の肌へ冷感を走らせていく。
絢爛な満月が主役を担っていた冬の晴夜は、まるで霊夢の気持ちに呼応するかのように陰りを見せ始めていた。
「私もね、想像したことあるのよ。博麗の巫女じゃなくて、アンタみたいに自由に、強く生きられたとしたら、どんな人生を送れたのかなって」
雨の激しさが増していく。木々や大地に水滴が叩きつけられる音は、刻一刻と大きさを増していく。
肩口は湿り気を帯び、帽子の鍔が曲がり始めた。
「多分、これが羨ましいって気持ちだったんだと思う。ええ、そう、そうよ。こんなんでも私はアンタと同じ。人の物がとっても良い物に思えて、それでついつい欲しくなっちゃって、でも手に入らない歯がゆさに気分が悪くなって……」
「……」
「この気持ちはきっと、人間なら誰だって持っている物なのよ。だって、この私ですら
いつの間にか、滝に負けない雨模様へと変わっていた。ざあざあと水飛沫の舞踊が絶え間なく辺りを包む。二人とも既に川に落ちたかの様な有様だ。おまけに冬なものだから、異様な寒さが体の隅々まで遠慮なく突き刺してくる。
それでも霊夢の声だけは、はっきりと魔理沙の耳へ届いていた。
「だから負けるな。そんなアホらしい理由で諦めるな。誰だって持っていて、だからこそ誰でも打ち勝てる
「……霊夢……」
「それでも――どうしても自分を止められそうになかったら、私が何度だって止めてやるわ。なんなら毎日寝首を掻きに来たっていい。ええ、上等よ。蓬莱人の二人も似たような事してるし。あの二人に出来て私たちに出来ないなんてこと無いでしょ?」
「……いや、あいつ等は死ねないからこそ出来るんだぜ?」
「死ななきゃ私たちも同じよ、死ななきゃ」
毅然と言い放つ霊夢に、思わず魔理沙は苦笑した。
釣られて霊夢もくしゃっと笑う。もはや涙なのか雨のなのか分からない有様だけれど、それでも、心の灯火が戻りつつあった。
「ははは、全く。流石だよお前は。あーあ、やっぱ霊夢にゃ敵わねえな」
よれた帽子を戻しながら、少女は笑う。
そこには先ほどまでの獰猛な獣性は見当たらない。博麗霊夢の知る、いつもの霧雨魔理沙に戻っていた。
……いいや、これは正しくない。今この瞬間も、魔理沙は悪魔から植え付けられた黒と必死に戦っているのだ。
普通を表に出さず、態度はあくまで飄々と。
どんなに怖くても、苦しくても、辛くても。霧雨魔理沙と言う少女は、笑いながら荒波を乗り切っていく。
「もういい、離してくれ……。ああ、そうだな。ここまでお膳立てして貰ったんだ。私も腹括らなきゃ、恰好がつかないってもんだ」
「……アンタ、一体何するつもり?」
「賭けだよ。いつもみたいに、魔理沙様の悪運を試すんだぜ」
言いながら、魔理沙は懐から一冊の本を取り出した。
年季を感じさせる、古めかしい本だった。染みと汚れがこびり付き、紙は湿気と手垢でよれよれだ。表紙に刻まれた赤茶色の文字は、辛うじて
霊夢には、その本が一体何を示しているのか知る由も無い。
だがこれこそが、魔理沙にとって全ての元凶であり、悪魔の撒いた種の一つだった。
「こいつはな、あそこで笑ってる師しょ――違う。あの悪魔の分霊というかなんというか、とにかく魂の片割れが入ったマジックアイテムだ」
「分霊箱、みたいな?」
「そうだ。馬鹿な私はコイツを手にしちまったせいでこうなった。本の魂がな、操り人形の糸みたいなのを伸ばして私の中へ絡みついてくるんだよ。それを通して私は悪魔の知恵を手に入れてる。代償は傀儡になる事だがな。河童風に言うなれば、バックアップシステムみたいなもんなのさ」
「じゃあそいつを叩き壊すわ。寄越しなさい」
「いいや、渡さない」
「ッ、アンタ」
「こいつは、私がこの手で破壊する」
その言葉には。その瞳には。これまでになかった力強い勇気が籠められていた。
「元はと言えば私の不注意が招いた事態だ。だから霊夢、今回だけは手を出すな。自分のケツくらい自分で拭かせろ」
なんとも思っていない様に白い歯を見せながら、魔理沙は不安そうな表情を浮かべる霊夢に向けて言い切った。
けれど内心は雷雲吹き荒れる嵐そのものだ。霊夢に対する漆黒の情動だけではない。
人間とは心を持つ生物だ。故に安心を求める生き物でもある。食事も、金銭も、人との関りを求めるのも、安心を得る事に帰結する。
言い換えれば、一度手に入れた安心を手放す事を過剰に忌避する性質がある。当然だろう。苦労を重ねてやっとの思いで買った我が家を自ら手放し、路上を住まいにしようとする物好きがいるだろうか? 貧困に喘ぐ者が、大金と引き換えられる宝くじを躊躇なく燃やせるだろうか?
魔理沙がやろうとしているのはそういう事だ。実情はもっと酷かもしれない。なにせ
だから安心はこの世のどんな物よりも恐ろしい麻薬なのだ。一度手に入れた安心を自ら破壊し、再び不安定へ舞い戻る恐怖は凄まじい。ましてやスカーレット卿の力によって最大限増幅されたとなれば、魔理沙の心に降りかかる重圧は、年若い少女の抱えられるキャパシティを軽々と飛び越えていることだろう。
それこそ、一歩違えば廃人と化すほどの重圧だ。
手足が震える。脈が蛇の様にのたうち回る。心臓に絡みつく不安は胃を引き絞り、朝食を喉元まで押し上げそうだ。脳裏に渦巻くのは不安の砂嵐で、数多の暗黒が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
正気を保っている事すら奇跡と言える状況だった。泣き叫びながら霊夢に事の始末を頼んでも、誰も責めない有様だった。
それでも、彼女は。
「私の弾幕は
八卦炉を力強く握りしめると。
魔力の弾倉を込めるのではなく、高く、思い切り振りかぶって。
「なら、この霧雨魔理沙も
古本に向けて、八卦炉を思い切り叩きつけた。
無論ヤケになった訳ではない。魔理沙は八卦炉に施された白銀の性質を知っていて、この行動へと打って出たのだ。
ひょんな事から手に入り、八卦炉の強化素材としてコーティングされたミスリル銀。それは闇夜の支配者と比喩されるナハトであっても容易く焼き焦がされるほど、強力無比な破魔の性質を備えている。
つまり、本に込められた吸血鬼の魂に、破魔の力から身を守る術などなく。
であれば必然、本の呪縛は打ち砕かれる。
光があった。オーロラの様に神々しい、白銀に煌めく光輝があった。
打ち付けられた金属が、古びた紙束の黒い染みを輝きと共に打ち滅ぼす。燃え上がる煤煙の様に吹き上がる黒は、やがて光と共に世界へ消えた。
「――っはは。どうだ、ちゃんと見届けたか? やってやった……ぞ」
ぐらり、と魔理沙の体が前へと傾く。
反射的に、霊夢は魔理沙の体を受け止めた。ずしりと圧し掛かる重みを支え、そのまま地面へと連れて行く。
「魔理沙……!」
雪を払い、友を降ろし顔を見る。
どうやら悪魔の干渉が途絶えた事で緊張の糸がぷつりと切れ、気を失っただけらしい。秋にも同じような事があったけれど、今回はどこか血色がよく、以前より不安を感じない。
魔理沙は打ち勝ったのだと、霊夢は確信した。胸を喰いつくす漆黒の蟲に抗い、この世で最も悍ましい闇の魅惑を払いのけ、少女は悪魔との決別を果たす事に成功したのだ。
無論、まだ残っている問題はある。霊夢に対する贋作の憎悪が消えたわけではないのだ。
けれど、それでも。魔理沙は不条理に打ち勝った。博麗霊夢は、しかとその場を目撃した。
「……私に勝つなんて言っておきながらなによ。アンタ、もう十二分に強いっての」
冬に体温を奪われぬよう、アリスから貰った衣をかける。金糸の頭を一撫でして、霊夢は鋭く彼方を見た。
下卑た笑顔で一部始終を眺めていた外道が映る。
お祓い棒を握り潰してしまいそうなくらい、手に力が籠っていく。
立ち上がり、少女は怒りの霊気と共に臨む。かの悪魔との決戦へ向かわんと地から足をふわりと浮かせ。
――首筋を薙いだ強烈な悪寒に、思わず霊夢は振り返った。
「!?」
何の前触れもなく、それは姿を現した。
魔理沙が横たわるすぐ傍に、漆黒の衣に身を包んだ影が一つ。
びりびりと、目を向けるだけで骨から肉を剥がされそうな圧を放つ男が、魔理沙の顔を覗き込むようにして立っていた。
直接面識があったわけではない。けれど間違えるはずも無い。他人に頓着しない霊夢ですら、この男の事だけはよく覚えている。
紫がなにかと気にかけていた、曰く『手こずらせられる』程の大妖怪。
一時期の里を大いに賑わせ恐怖を撒いた、至純の恐怖を纏うもの。
「アンタ――吸血鬼の!」
闇夜の支配者が、純白の雪原に君臨していた。