【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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36.「捲土重来」

 時は少しばかり遡る。

 端的に言えば、血の池地獄は干からびた。

 

 地獄は咎人に罪障を清算させるための拷問施設である。血の池地獄はその一つに相応しく、煮だった血液が地の底から無限に供給されており、広大過ぎる池の面積も相まって、例え放棄された跡地であっても枯渇する事など未来永劫起こり得ない筈だった。

 それが今では見る影もなく枯れ果てている。池が文字通り底を尽きる一部始終を目にしたお燐は、開いた口が塞がらなかった。あーこれは顎が外れているかもしれないなぁと、死んだ目で現実逃避をするお燐である。

 

 血を全て吸いつくした怪物は、静謐な面持ちで池の中心に佇んでいた。

 太陽に全身を爛れさせられ、五体不満足となった惨たらしい姿はもはやどこにも見当たらない。

 黒装束と灰の髪。闇を孕む紫水晶の瞳。そして真珠の如く白い肌。疑い様も無い、完全な回復を終えたナハトがそこにいた。

 

「ナハト! ……よかった、傷は治ったのですね」

「さとり」

 

 遅れてやってきたさとりは一瞬だけ地獄の惨状に目をやって、私は何も知らない見ていないと言わんばかりの素振りでナハトの前に降り立った。

 そそくさとお燐もさとりの傍に立つ。ナハトは少女たちへ礼を述べた。

 

「さとり、お燐。君たちのお陰で助かった、心から感謝を。……そしてすまない、いきなり言い訳になってしまうのだが、私の再生効率が極端に落ち込んでいるせいかどうも血を吸い過ぎてしまったらしい。池が枯れてしまった」

「そこは取り敢えず突っ込みません。ええ、私は何も見ておりませんとも。あなたを血の池地獄へ先導した私が始末書を書かされそうだなんて全然ちっとも知りませんとも」

 

 さとりの持つ三つの目が全て死んだ。ナハトは選ぶ言葉が見つからなかった。

 しかし少女はすぐに光を取り戻し、

 

「まぁ血の池地獄は無限ですからその内元に戻ります。とにかく、ご無事でなによりでした。具合の方は?」

「……ああ、全快だよ。本当になんと感謝をすればいいか」

 

 違う。ナハトは一つ嘘をついた。

 ()()()()()()()全快になった。それは本当だ。今なら萃香との闘い以上に魔法や魔剣を多重展開出来るし、一部ならば物理法則を完全に捻じ曲げる手段だって行使できる。

 しかし、ナハトは自分の中のどこかが()()している様な違和感を感じていた。外装は整っても肝心の中身が無い――そんな決定的過ぎる違和感だ。

 ナハトはその事実をベールに包んで懐に隠した。この胸の中で不足感を訴える空白が血で埋める事の出来ないナニカだと、本能で理解していたからだろう。不要な心配までさとりにかける訳にはいかないと、そう判断したのだ。

 

 そんな時だった。

 カッターで紙に切れ込みを入れていくように、なんの前触れもなく空間の裂け目がナハトとさとりの間へ割り込むように発生したのである。

 切り口が広がり、数多くの不気味な目玉がぎょろぎょろと蠢く異空間が露わになる。その亀裂――否、スキマの持ち主を脳裏に思い浮かべた瞬間。亜空の中から、倒れこむようにして八雲紫が現れた。

 

「紫!」

 

 ふらつく彼女を咄嗟に支える。ナハトは触れた手から伝わる異常な熱に表情を強張らせた。風邪なんて次元ではない。そもそも妖怪は風邪をひかない。だというのに、紫自身が熱された鉄と化したかと錯覚するような、尋常ではない体温となっていた。

 顔を伺う。まるで吸血鬼に血という血を全て抜き取られてしまったかのように血色を蒼白させていた。瑞々しかった筈の唇は青紫色になり、髪の艶も失われている。それこそ、軽く引っ張れば抜け落ちてしまいそうなほどに。

 魔性を振りまき、万物に恐怖を叩きこむナハトと出会った時ですら顔色一つ変えなかったあの八雲紫が、完全に憔悴しきっている。

 ただ事ではない。その場の誰もが体の芯から凍り付く様に実感した。

 

 薄く、薄く。紫が目を開く。枯れた声を絞り出しながら、彼女は儚く微笑んだ。

 

「ナハト……っ。無事だったのね、良かった」

「こんなにやつれてどうしたのだ? 君ともあろう者が、一体何があったんだ?」

「…………」

「紫?」

 

 答えが無い。ぼやけた瞳はナハトに向いているものの、もはや声を上げる余力すら禄に残されていない様だった。

 ただの憔悴ではなく、何らかの力が働いているのは明白だ。故にナハトは、ひとまず紫を安静にさせられる場所へ移る事を選択した。

 即座に術式を編み、空間魔法を発動。地霊殿ナハトの自室へと空間の座標を接続する。

 

「さとり、燐、手を貸してくれないか。地霊殿の構造は君たちの方が詳しい。濡れたタオルや薬を調達して欲しいんだ」

「……承知しました。ほら、行くわよお燐。看護に必要な物を取りに行かないと」

「えっ、えっ? ちょっと待って下さい、もしかして地上の賢者が弱っているのとお空の失踪に何か関係があるんですか!?」

「話は後! 行きながら説明してあげるから今は動く!」

「は、はいっ!」

 

 少女二人が穴へと消える。ナハトは紫を抱え上げ、後を追うように姿を消した。

 

 

「……西行妖が、解放された?」

 

 三人の働きが功を奏し、上体を起こせるまでに回復した紫から語られたのは、おおよそ信じ難い言葉の数々だった。ナハトは神妙な面持ちでオウム返しをする事しか出来ず、本当に返すべき言葉が見つからない。

 ナハトは椅子に深く寄りかかりながら、思わず天井を仰ぎ見た。ぐるぐると、頭の中で紫から耳にした事実が(めぐ)り混ざる。

 

 ナハトを撃退したスカーレットが向かった先は、西行寺幽々子の住まう白玉楼だった。一体どんな方法を使ったのかは分からないが、太陽を手中に収めたあの悪魔は、封印されていた冥土の化け桜を復活させてしまったのである。

 これが疲弊の原因だった。西行妖は万象の賢人たる八雲紫であっても手に余すほど強大であり、おまけにその力は生者を問答無用で死へと誘う劇毒である。現世に住まう者達にとって西行妖は最悪の天敵に等しく、幾ら紫であろうとも、満開となった桜の力が現世に及ばぬよう食い止めるのは、相当のパワーを必要とするのだ。

 

 加えて、今の時期は冬の真っただ中。本来ならば紫は冬眠に入り、春から完全な状態で活動するのに必要なエネルギーを養う充電期間の筈だった。つまり、この時こそが一年を通して紫が最も弱体化している時期だと言っていい。

 例えるなら、今の紫は連日徹夜で完全に体力を消耗しきった状態にある。冬眠と言う名の休息をやっととれると思った矢先に、スカーレット卿から致命傷になりかねない不意打ちを突かれたのだ。

 万全の紫ならばいざしらず、今の弱り切った紫が西行妖の力を制するのはあまりに骨だ。それこそ、他へ禄に手が回せなくなるほどに。

 

 敗北を学んだあの邪悪は、そこまで計算して行動に移したのだろう。理想の形でナハトを嬲り殺すという、ただそれだけの目的の為に。数多の情報を掻き集め、相性が最悪である紫を封じ込める為の姦計を企てたのだ。そうでなければ、わざわざ西行妖という弩級の危険物を解き放つわけがない。

 

 頭を後悔の念が過り去る。もし、潜んでいたスカーレット卿の存在に早く気が付けていたら。もし、スカーレット卿をあの時止める事が出来ていたら。こんな大事にまではならなかっただろうから。

 最善の行動をとれなかったことへの罪悪感と胸を刺す。それを掬い取るように、紫は濡れタオルを額に当てながらナハトへ言った。

 

「気に病まないで頂戴。正体に気付けなかったのは私も同じよ。……ううん、きっと、誰もあの男を見つける事は出来なかった。安心の隠れ蓑なんて反則のステルスを使われちゃあね。こうなる事は、ある意味運命だったのかもしれないわ」

「……」

「大事なのはこれからでしょう? これ以上あの男の被害が広まらないよう、我々の打てるべき手を打つ方が先決です」

 

 だが肝心の紫は行動不能だ。これ以上無茶をして紫が倒れようものなら、西行妖の力は現世にまで及び、少なくない犠牲を生んでしまうだろうと容易に想像がつく。

 加えて、スカーレット卿は幻想郷中に()を蒔き、それを発芽させたらしい。今この瞬間も、あちこちで暴動が起こり始めているのだ。

 卿に乗っ取られている魑魅魍魎を放置するのは危険だ。幻想郷のルールなど無に等しい卿ならば、この暴動に乗じて何をしでかすか分かったものではない。下手をすれば人里へ雪崩れ込む可能性だってある。事情を知らない勢力が見れば、人里の支配権を一方的に強奪しようと試みるナニカが現れたと解釈されかねないからだ。こうなったら終わりだ。混戦が乱戦を呼び、果てには大戦へと姿を変える。

 異変なんて範疇には収まらない。それはかつての吸血鬼異変を遥かにしのぐ、妖怪大戦争の幕開けである。

 

「だがどう手を打つ? 君の式神に任せられるか? もしくは、萃香はどうだ?」

「いいえ。藍には別件を任せてあるの。しばらくは幻想郷に戻ってこれないでしょう。橙は……あの子に任せるには荷が重すぎる。萃香は四年前に力の九割を封印していて、それを解くのに相当な時間がかかるから間に合わない。鬼の四天王を封じ込めるには、私が苦戦するくらいのレベルにしないと駄目だから」

「ならば現状、助けになってくれるのは永遠亭と紅魔館だけだ。しかし紅魔館の皆はスカーレット卿への対策で既に手が回らない状況だろう。永遠亭の裁量にも限界がある。私単身で赴いたとしても、犠牲は確実に避けられない」

「……そうね。今の状態じゃあ、ね」

 

 雪だるま式に膨らんでいく事態を前にナハト達が打てる手立ては、まさしく稚戯に等しい有様だ。首魁たる紫はまともに動けず、代わりにナハトが行こうにも、地上は秋の一件で完全にナハトを敵とみなしていて大々的に動けない。この混乱の原因がナハトにあると勘違いしている大妖怪も少なからず存在するからだ。地上に戻った瞬間、数多の勢力から首を狙われ、それが更なる混乱を呼び起こしてしまうのは目に見えている。

 そうなっては、スカーレット卿の思う壺だ。

 

「……紫」

 

 けれど、簡単な打開策が一つある。

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 それは、ナハト=敵の方程式を崩すこと。

 単純な話だ。ナハトが地上に忌々しい存在と認識されているから行動が出来ず、有効な手が打ち辛いのであれば、それを無くしてしまえばいい。スキマを使って連絡を繋ぎ、真の敵はスカーレット卿だと知らしめて、彼らの矛先を一つにだけ絞ればいい。

 そうすれば無用な混乱を避けられる。効率も上がる。上手くいけば、他の勢力も味方について応援を頼めるようになるかもしれない。

 

 でも。

 

「それは……」

 

 ナハトの命を削る代わりに得られる代償である。

 この作戦の大前提として、ナハトへの敵意を削がなければ始まらない。即ちナハト自身を蝕み侵す、彼にとって諸刃の剣に等しい選択となる。今のナハトの()()を鑑みるに、それが致命打となってもおかしくない。

 

 幻想郷をとるか。それとも一人の友人をとるか。

 

 紫が今まで積み上げてきたものを考えるなら、迷うことなく前者である。それが最良の選択であることは容易く理解できる。ナハトだって、それが正しいと喝采を送るはずである。

 

 でも、と。紫は水面を漂うように思うのだ。

 来るものを拒まず、去る者を追わない、全てをあるがままに受け入れる幻想郷が。

 来るものを拒み、剰え大きな理不尽を押し付けた上で保たれて良いのだろうかと。

 

 青臭い綺麗ごとなのは分かっている。けれど紫はそんな綺麗ごとを叶えたくて幻想郷を作ったのだ。誰もが自らの意思で生活を営み、人と妖怪が共存する理想郷を作るために、血の滲むような努力を重ね続けてきたのだ。

 大局的に見てナハトを見捨てることは完膚無きまでに正しい。誰も紫を責めはしないだろう。しかしそれで本当に良いのかと、紫の心が僅かながらに訴えるのだ。

 

 それを察したらしいナハトは、宥める様に言葉を告げた。

 

「迷っているのは、私の冤罪を釈明するデメリットが存在するからだね。幻想郷縁起で操作した情報の裏を言い淀んだ時と同じように。……違うかい?」

「っ」

「良い機会だ。むしろ今しかないだろう。聞かせてくれ、紫。君が何故、私の素性を明かすことをそこまで拒むのかを」

「……」

 

 逡巡が生まれる。

 ナハトの真実が暴かれた時、最も傷を負うのはナハト自身である。他者から恐れを取り除かれれば命が奪われ、本人へ明かすとなれば致命的なダメージを負ってしまう。

 精神に存在の比重を傾ける魑魅魍魎は、人間と違ってトラウマや鬱に滅法弱い。ましてや自分の生きる理由、夢、希望を全て破壊されたとなれば、屈強な大妖怪とて消滅は免れられない。

 

「頼む」

 

 その懸念を差し止めんとばかりの真摯な眼差しが紫を射貫く。刃を突き立てられるように、紫の心が苦悶を上げた。

 話せば最悪、ナハト自身が消滅しかねない。だが話さなければ、彼に納得してもらわなければ。この状況を覆すことなど叶わない。

 先延ばしには出来ない。そんな逃避は許されない。今も刻一刻と、危機は大きく成長している真っ只中なのだから。

 

 決断の時だ。

 一秒が引き延ばされていく。幻想郷の賢者が誇る叡智の力は時の狭間を拡大させ、無数の選択肢を生み出しては塗り潰していく。

 けれど、答えなんて最初から分かっていた。そこ以外に、残された道は存在しないのだから。

 なら、迷う必要なんて無いのだろう。迷うことなんて、あってはいけないのだろう。

 

「……この話を聞いた時」

 

 せめて声が震えぬよう、喉に力を込めて言った。

 

「あなたは、正気を保てなくなるかもしれない。もしかすると……絶望して、今この場で死んでしまうかもしれない」

「……」

「あなたにその覚悟はある? 全てを失うかもしれない、その恐怖に立ち向かう覚悟が」

「ああ」

 

 即答だった。

 紫がここまで言い淀むのは確実に自分の根底を揺るがす何かがあるからなのだと分かっているはずなのに。決して、生半可な心持ちでは無いはずなのに。

 何の迷いも躊躇もなく。瞳の光すら揺るがぬまま、吸血鬼は言い切った。

 

「聞かせてくれ。どんな真相であったとしても、覚悟は出来ている」

 

 ……もはや押し黙るなど、紫に叶う訳も無く。

 重く、重く。闇の真実が、遂に少女の口から紡がれた。

 

 

 

 

 自分の存在意義について考えた事は、誰だって一度くらいあるだろう。

 無論、それは私にも当てはまる。

 ()だからこそ、当て嵌まるとでも言うべきか。

 

 親はいない。兄弟もいない。親族の類すら一人もいない。

 ある日朝露の様に生れ落ちて、それから記憶が不確かになるほどの道を歩み続けた。なんの面白味も無い寂れた道程が、人生の大半を占めてしまうほどに。

 それは排斥と言う名の悪路に塗れた荒野を歩む旅だった。幾年、幾百年、幾千年の時を歩いても、世界は私を一員とみなさなかったのだ。

 

 何時の日か投げられる石に苦痛を感じなくなった。突き立てられる刃に傷付かなくなった。吐き掛けられる罵声は是非も無しと受け流せるようになった。

 ただその度に、心の隅のさらに端で、私は自問自答を繰り返した。私は何のために生まれてきたのか、拒絶される事が私の存在意義なのだろうかと。

 

 自分がイレギュラーだと気付くのにそう時間はかからなかった。この世界に住まう者たちと()は決定的にナニカが違う。違うからこそ人々は私を恐れ、遠ざけていくのだろうと理解した。 

 それでも存在意義を探し続けた。この世に産み落とされた理由を求め続けた。

 しかし、答えは終ぞ見つからず。永劫の時を彷徨うにつれて心は摩耗し、私と言う自己の形はあやふやなものと成り、良くも悪くも、平坦な心へと変わっていった。

 

 いつしか、ふとした拍子に私は悟った。こんな答えを独りで見出すことは不可能なのだと。

 

 だからなのだろう。必然と私は友を求めるようになった。私を理解してくれる、まだ見ぬ友を世界中で探し続けた。

 きっと、その友人に尋ねたかったのだと思う。

 私は一体、何のために生まれてきたのか。――見つける事の出来なかった、闇の中の答えを教えてもらうために。

 

 私の願いは時が過ぎ去ろうとも変わらない。

 永劫の孤独を打ち消してくれる友達がほしい。友に、()と言う存在を与えてほしい。

 願わくば普通の営みを。この世界で普通に生きる事を、誰かに許してほしかったのだ。

 ただ、それだけ。

 本当に、たったそれだけの願い事なのだ。

 

 

 

 

「――――これがあなたの真実。存在の正体。そして……私が、幻想郷縁起であなたを貶めた理由です」

「………………………………そう、か」

 

 全ては語られた。

 ナハトというイレギュラーの実体。能力の根源たる消滅の概念。恐怖による生存。求める親愛は猛毒となり、どんなに友を求めても、それが叶うことは決して無いという残酷すぎる真実たち。

 即ち、ナハトという生命体の根幹からの否定である。

 

「――――」

 

 亀裂の入る音がした。

 バキバキと、まるで崩れゆく石像の様に。首筋から頬にかけて巨大な裂け目が開いていく。放射状のひび割れは瞬く間に全身を侵食し、肌は朽ち果てる寸前のミイラが如き有様へと姿を変えた。

 青白い息が口から洩れる。降りかかった絶望を咀嚼し、どうにか呑み込もうと必死に足掻く静謐な吐息は、見る者の心を青に塗り潰さんばかりの悲哀がこれでもかと言わんばかりに籠められていた。 

 

「ナハト、気を確かに!」

「……大丈夫。うん、大丈夫だ」

 

 魔力の霧が渦を巻いて吹き上がる。それらはヒビへ石膏の様に貼り付くと、体を埋めて瞬く間に修復を始めていく。

 再び息が零れた時には、元のナハトへ戻っていた。

 

「改めて、すまなかった。知らぬうちに多大な迷惑をかけてしまった様だ。……君も辛かっただろうに、ありがとう。話してくれて」

「……こんな時くらい取り乱したって許されるのに。私を糾弾したって誰も責めないのに。むしろ、私も初めはあなたの事を勘違いして追いやり続けていたのよ? 罵倒の一つや二つ、吐かれたって当然の身じゃない。なのに、それどころか笑って感謝だなんて、あなたは、本当に……っ」

「いいや、感謝しかないさ。確かにショックではあるが、考えてもみてくれ。かつての私には無かったモノが、望み続けたモノが今この手にある。私の永い生の中で、共に憂い、苦悩し、理解しようとしてくれる者は一人たりとも居なかった。それが今はどうだ。紅魔館に、輝夜に、永琳。萃香に、そして君がいる。私には贅沢すぎる吉報だとも」

 

 だから何ともないよとでも言うように、薄く微笑む吸血鬼。

 反して、力の入る握り拳。取り繕っているのは明白だった。焦がれに焦がれ、幾星霜の年月を経ても夢見てきた理想が全て叶わぬものだったと突き付けられたのだ。彼にとっての生きる理由が自殺への道筋に違わないと、惨たらしくも気付かされてしまったのだから。

 

 もし、幻想郷へ来たばかりの彼だったら、この場で朽ち果てていたかもしれない。しかし今のナハトには支えがある。紅魔館の少女たちや、初めての友人である輝夜。喧嘩仲間たる萃香からの叱咤激励。なにより理解者となった紫や永琳の存在がある。

 理想の光景は塵へと消えた。けれどこれまで積み重ね、育んできた結晶までは消えなかった。

 得られるはずの無かった(えにし)の刃が、覆い被さる絶望の暗幕を切り裂いたのだ。

 

「だから私の事は気にするな。誤解が消え、存在を削られようとも構わない。今は真の敵を見定め、応援を求める事が先決だ。幻想郷を混乱させたままではあの悪魔の思う壺だからね。奴の人の心を搔き乱す才覚は私の比ではない。今こそ団結しなければ、無用な犠牲が増えてしまう」

「……ええ、それは私も分かっている」

 

 弾きだされた答えに、紫は瞼を瞑りながら同意を口にした。

 ナハトは運命を受け入れた。世界から全てを否定されても、自ら勝ち取ったものを力に変え、新たに己が道を切り開こうと決意した。

 ここまで覚悟を見せられて、一人揺らいでなどいられるものか。情けなく苦悩に溺れていられるものか。

 

「でも、ナハト。これだけは覚えていて。あなたの行く末は決して暗雲だけではないの。ようやく、()()()()()()()()()

「まて」

 

 紫の言葉を断ち切るように、ナハトの手が広げられる。

 鷹の如き眼光を携え、吸血鬼は虚空を睨んだ。何もない空間に誰かが存在する様な眼差しは、固唾を飲む紫へヒントを与えた。

 

「隠れていないで出てきたらどうだ、スカーレット卿。そこにいるのは分かっている」

 

 魔性の声が、小さな部屋に染み渡る。それが異変の根源を呼び寄せた。

 キリが板に穴を穿つように、何もない空間から小さな綻びが生まれ落ちる。空洞はバチバチと火花を散らしながら範囲を広げ、人間の拳ほどに成長すると、一匹の霊魂が飛び出した。

 火の玉の如き風体。中心に座るは歪んだ髑髏の顔貌。

 スカーレット卿の分霊が怨霊に寄生した使い魔だと、二人は逡巡も無く理解した。

 

 ナハトの右手に、漆黒の剣が黒霧と共に顕現する。

 

「わざわざ分身を飛ばして覗きに来るとは。早くも痺れを切らしたか、スカーレット」

『なぁに、少し様子を見に来ただけだとも。貴様があまりにも遅いから退屈で退屈で仕方が無いんだ。それに、ひょっとしてうっかり殺してしまったんじゃないかと心配になってね』

「無用である。望まれずともいずれ参上しよう。……お前には、お前にだけは、直接会って話したいことが山ほどある」

『ほほう? 珍しい。ああなんと珍しい事もあるじゃあないか、ナハト。貴様が怒りに顔を歪ませて殺気をぶつけてくるなど、四年前のあの日以来ではないかね?』

「――私を無視して、剣幕を飛ばし合わないでくれないかしら」

 

 紫の眼光が怨霊を射貫く。しかし卿のメッセンジャーはケタケタと髑髏を打ち鳴らすのみで、まるで臆する様子が無い。

 紫の弱体化が計画通りにいっていると、自らの目で確かめられたからなのだろう。

 

『これはこれは、愚かな賢者様。ご機嫌麗しゅう』

「ええ、あなたのお陰で随分機嫌がいいのよサー・スカーレット。八雲の名に恥じぬよう、必ずお礼を差し上げると約束しましょう」

『恐悦至極。しかし随分と疲弊されているように見受けられるが? 西行妖のマジックは流石の大妖怪も堪えましたかな。ははは』

 

 西行妖――その言葉は紫の引き金を振り絞り、妖力の津波を爆発させた。

 魂魄を磨り潰さんばかりの暴圧的な怒気が小さな部屋を嵐の如く蹂躙する。ベッドが悲鳴を上げ、絵画や本が膝を抱えて震えあがった。あまりに熾烈な怒りの業火は、満身創痍の紫を鬼神の類と錯覚させるほどだった。

 

「幽々子に何かあってみなさい。あなたには死の安息すら与えないわ」

『フハハ、怖い怖い。流石は大妖怪の中の大妖怪。ナハトの横に居ながら魂の底まで震えを呼ぶ気迫には、敬意を表さずにはいられんよ』

 

 安心など欠片も与えない含み笑いを浮かべながら、だが安心したまえと邪悪は言った。

 

『西行妖は満開になった訳ではない。貴様の頑張りのお陰でな。言うなれば九分咲き……いや、九分九厘咲きと言った所かね。まったく、感服せざるを得んよ。満開同然の西行妖相手にここまで持ち堪えるなど。いくら能力越しであっても、幽世の最終兵器を相手取るのは辛かろうになぁ……』

 

 ふよふよと、怨霊は喜色に溢れた舞踊を踏む。心の底から楽しそうに、カラコロと髑髏を破顔させながら部屋を漂う。

 男の余裕は、絶対的に安全な位置にあるが故の慢心なのだろう。例え激昂した紫やナハトにこの魂を切り裂かれても端末の一つが破壊されたに過ぎないからだ。母体が別にある以上、スカーレット卿が二人を恐れる事など決してない。

 

『正直に言うと、私の計画は賭けの連続だった。仕方あるまい、ナハト以上に貴様が厄介過ぎるのだよ八雲紫。私が西行妖を覚醒させる前に貴様から感付かれればそこでゲームオーバーだった。境界操作や伊吹萃香の疎密操作は私にとって天敵だからな。他にも瀬戸際の駆け引きは沢山あったとも』

「……」

『だがそれら全てに勝利を収めた。プライドを捨て、貴様ら化け物どもの目を掻い潜り、無能な小娘どもを傀儡にして、私自らも道化を演じてここまで来た。まったく、愉快痛快とはこのことよなぁ。安心を与え、無意識に隠れ潜めば誰しもが私から眼を逸らしたのだから。透明人間なんて目では無い潜みぶりだったよ。ああ、特に見物だった演目を教えてやろうか? それはな、私が人里で被害者面を演じたら、幻想郷の妖怪どもがこぞってナハトに殺意を向けたところだ! あははははっ! 思い出すだけで失くした腹が捩じ切れそうになる! どうやら私には俳優の才能があるらしいぞ、ナァハトォ!』

「…………」

『まったく、どいつもこいつも単純なものだ。それでも妖怪かと思うほどに牙が無い。ほんのちょっぴり安心を与えてやればすぐに心の隙間を晒してくれる。分かりやすい不安を与えればこぞってそれを潰そうとする。虫を誘導するより遥かに楽な仕事であったわ。お陰で計画は順風満帆のまま最終段階を迎えてくれた。本当に、心の底から礼を言いたいくらいだね。私に利用されてくれてありがとう、底なしに間抜けな小娘ども! と言う感じにな。ははははははっ!』

 

 

 

 

 

 

「――――だそうですよ。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「我らが郷の同胞(はらから)たちよ。我らが幻想を愛しむ隣人たちよ。暫しの時間を、私の声に預けなさい」

 

 混乱の渦に呑まれる中、幻想郷の妖怪たちは、一つの声に耳を澄ませていた。

 

「ある男がいました。禍々しい瘴気を身に纏い、心を奪う魔性を振り撒き、見るもの全てに恐怖を植え付ける男がいました」

 

 鬼も。天狗も。河童も。妖精も。天人も。蓬莱人も。花の大妖怪すらも。

 突如現れたスキマから覘く、一つの光景に目を奪われていた。

 

「しかし、男は悍ましき外観とは裏腹にとても穏やかな気性の持ち主でした。彼の魔性は邪悪に非ず。それは彼の特別な出自による、いわば先天の病のようなものだったのです。故に彼は孤独でした。誰も己を見る者はおらず、誰もが上辺の彼に恐怖し、排斥しようと試みた。例えば、かつての私の様に」

 

 魑魅魍魎の頂きに立つ女は、凛と澄み渡る声で語り継ぐ。

 見る者の心に訴えるように。聞く者の心へ寄り添うように。

 

「彼は心から友を欲しました。不条理な瘴気に惑わされず、己の芯を見極め、平等に接してくれる友人を探し求めました。何度石を投げられ、何度罵声を浴びせられようとも、決して折れる事無く、歩みを止めませんでした。それが実を結び、少しずつ、ほんの少しずつ、彼には理解者が増えていった」

 

 一拍ばかりの、あまりに重苦しい間が生まれる。

 

「けれど彼には病があった。恐怖を振りまくだけで終わらない呪いがあった。友愛や親愛のような、誰しもに与えられることの許された筈の宝石が彼にとっての毒となり、人々からの嫌悪、憎悪が血肉となって、それが無ければ決して生きる事の出来ない、哀しい呪いが掛けられていた」

 

 誰もが動きを止めていた。誰もが意識を吸い取られていた。

 偉大なる王の演説を聞き入る民草の様に、超常の者たちは眼を離すことが出来なかった。

 

「だから私はあなたたちに偽の情報を流しました。紆余曲折を経て死の淵まで追い詰められた男が幻想の中で生きられるよう、空想の悪事をでっちあげ、皆が男を嫌うように仕向けました。――――しかし、それを利用した者が現れた」

 

 スキマに浮かぶ、全く別の映像があった。

 狂ったように暴れ回る名も無き妖怪や、それから逃げ惑う正気の者たち。そして、地獄鴉の肉体で空に鎮座している、全ての元凶の姿があった。

 部屋に訪れた怨霊を伝い、位相を逆探知したのだろう。口を噤んでいた怨霊の舌打ちが耳を打った。

 

「偽の悪事を本物へと仕立て上げ、男が抹殺されるよう仕向けた黒幕がいたのです。それだけではない。彼の者はヒトの意識の裏に潜み、安心と言う名の劇薬をばら撒いて、仁義も、愛情も、友情も、全てを利用し己が野望を成し遂げようと暗躍した。その結果、多くの血と涙が流れる結果を招いてしまった。……もうお分かりでしょう。十分な心当たりがありましょう。ええ、そうです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――妖怪とは、精神的要素を重んじる存在である。

 

 恥辱を代償に得る勝利より、誇りある敗北を良しとする。粗雑で愚劣な振舞いより、己の美学を重んじて行動する。有限の命を持つが故に目先の利益と功績を優先する人間とは根本的に精神の在り方が違うのだ。彼女たちの根底にある最大の価値は、自分にとって如何に美しく生きられるかにかかっている。

 

 だから弾幕ごっこは受け入れられたのだろう。圧倒的な暴虐で相手を捻じ伏せ、問答無用に屈服させる蹂躙もまた乙なモノなのかもしれない。だが、己の持つ最大の『美』同士をぶつけ合い、競い合い、認め合いながら勝敗を決する……そんな美しさで溢れた決闘に、惹かれるナニカがあった筈だ。

 

 そんな物の怪たちが、最も嫌悪する行いは何だろうか?

 

 暴力を振るわれる事ではない。退治される事でもない。罵られる事でも、排斥される事でもない。

 長い生の中で掴み取った、絶対に譲る事の出来ない美しい『宝』。それを傷つけられ、穢された時。その時こそ、妖怪たちはいとも容易く怒髪冠を衝くのである。

 

 例えるなら、風見幽香にとっての花畑。

 例えるなら、妖怪の山にとっての同胞。

 例えるなら、吸血鬼にとっての紅魔館。

 例えるなら、八雲紫にとっての幻想郷。

 

 紫の言葉は実直なまでに的を射た。皆にとっての大切な『宝』が、たった一人の真性悪魔に利用され、穢されていたのだと知らしめた。

 

「今、幻想郷は危機に晒されております。悪霊の撒いた病原体が妖を狂わせ、各地で争いを引き起こさせているのです」

 

 彼女の言の葉に、沸騰しかけた者がいた。絶対零度と化した者もいた。

 しかしそれらを、紫は清流のような声を持って制御する。

 幻想郷の創設者、その一人に相応しい大妖怪の気迫が、暴走する釜の蓋を押し留めていた。

 

「異変の首謀者はサー・スカーレット。心を操る術に誰よりも長けた無情の悪魔。故に、各々が感情のまま行動すればあっという間に彼の術中へと嵌ってしまう。それが最悪の事態を招くだろうと、容易に想像できましょう。ならば我らの取るべき手段は一つ。今こその団結です」

 

 紫水晶の瞳が、金色の輝きを朧に灯す。

 その眼に映るは、スキマの先の隣人たち。

 

「御覧の通り、私は身動き一つ叶わぬほど弱体化しています。悪魔が咲かせた死の化け桜を抑えるために、力の大半を持っていかれているのです。見ようによっては下剋上の好機でありましょう。秘めたる野望を成し遂げる時でもありましょう。それを否定は致しません。――けれど一つ、私はあなたたちに問いかけたい。悪霊に顎で使われ夜闇の住人から獣畜生へ身を落とすか。常日頃いがみ合う仲でも此の一時だけ背中を預け、穢された宝を取り返す為に戦うか」

 

 意志の固まる音が、聞こえてくる。

 幻想の結束が、一つの声の下に成し遂げられる。

 

「あなたたちの持つ誇りに。魂に。私は問いかけたいのです」

 


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