【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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38.「対極の再会」

「アンタ――吸血鬼の!」

 

 果ての無い白銀の世界に、たった一つの純黒が降り立った。

 黒ずくめの装束を纏う、見上げる程の背丈に、流れ落ちる灰の髪。死人の様な白塗りの肌は雪すら霞んで映えるだろう。深い闇色を湛える紫水の眼は、死骸を見つけた猛禽の様に魔理沙を見つめていた。

 放たれる波動は生物の命を押し潰し、脳髄の奥底まで漆黒に塗り潰す根源の恐怖。古来より人々が受け継ぐこの世全ての恐れを凝縮した、二つとなき概念生命体。

 

 見間違えるはずがない。かつて永夜の晩に暴れ回った闇夜の支配者がそこにいた。

 

 彼は静かに膝をつくと、魔理沙の額に手を当てて。

 水色の魔法陣を、暗闇の中で灯す蠟燭の様に発動した。

 

「あっ、おいお前! 魔理沙に手を出すんじゃ――――!」

「案ずるな」

 

 お祓い棒を振るい、札を展開し、陰陽玉に力を込め、封魔針を指間に携え、今まさに飛びかからんとしたところを、吸血鬼の大きな手で制された。

 数秒もしない内に光が止み、満足したようにナハトは立ち上がる。見ると、心なしか魔理沙の顔色が良くなっている様に思えた。更には衣服に染み込んでいた冷や水の跡が無くなっていて、周りの雪も少し溶けている。暖房と乾燥を備えた魔法でも施したのだろうか。

 

 ナハトは顔を一切霊夢に向かわせず、ただ淡々と事実を語り結ぶ。

 

「少女の中の憎悪を消した。正確には、スカーレットに関する不要な記憶を削り落としたと言った所かな。これで目が覚めても君を狙う事は無い。いつもの霧雨魔理沙に戻っているよ」

「っ……何で、アンタがそんな事を?」

「少し前に私はここへ着いていたんだ。全部この眼で見ていたよ。偽物の憎悪に焦がされながら真の友を見誤らなかった鋼の友情の行く末を。見事だった」

「――何を、偉そうに。こうなったのも、元を辿ればアンタたち吸血鬼組のせいでしょうが!」

「その通りだ。四年前、私が奴の狡猾さを見誤らなければこんな事にはならなかった。これが償いになるとは思っていない。許してくれとも言わない。しかし私に最悪の未来を防ぐことが出来るならば手を下すのに何の躊躇もありはしない。だからこそ、彼女の記憶を消させてもらったんだ」

 

 言い終えて、ナハトはゆっくりと周囲を見渡した。

 不意に、ある一点で目を止めた。そのまま男は、ざくざくと雪を踏みしめながら一直線に進んでいく。先には一本の木があった。雪の積もる大木の下には、よく見るとレミリアと咲夜が寄り添うように横になっているではないか。

 彼は雪を払いのけ、今度は赤い魔方陣を展開した。周囲の雪が諸とも蒸気となって溶け消えていく。先ほど魔理沙に使った類の魔法なのだろう。

 水気まで飛ばしきったナハトは黒い穴を傍に出現させると、二人を抱えてそのまま中に放り込んでしまった。

 

「何をしてるの」

「我が家に二人を送っただけだ。ここは冷え過ぎる」

「……アンタ、確か紫の仲間なのよね? それもアホンダラ妖怪の中じゃ比較的まともな奴。ねぇ、ついでに魔理沙も同じように紅魔館へ送ってあげてよ。このままじゃ凍えちゃう」

「駄目だ」

「えっ……?」

「その子は君が連れて行くんだ」

 

 初めて、霊夢はナハトと目が合った。

 底の見えない、真夜中の海のような暗黒があった。かつて訪れた月の大海とはまるで違う、見つめていると魂が吸い込まれそうになる果ての無い深海があった。

 闇の奥に業火が見えた。今の霊夢と同じ、いや、それ以上の怒りの炎。このまま闇を食らいつくし、眼球から飛び出さんばかりの憤怒が、男の中で轟々と燃え盛っていたのである。

 永夜の異変とも、秋の事件ともまるで違う。今まで目にした事の無い吸血鬼の真の怒りを、博麗霊夢は垣間見たと思う。

 

「もし私が魔理沙を転送すれば、君は心置きなくあの男と戦うだろう。それはいけない。これ以上あの男の邪悪に第三者を巻き込むわけにはいかんのだ。だから魔理沙は運ばない」

「……じゃあ、さっきの暖かそうな魔法で守ってあげるのは」

「断る。一応言っておくが、保温の魔法で彼女の体温を保護してはいるものの、じきに効果は切れ、再び氷点下へ晒される事となる。その前に君が連れて行かなければ大事となるだろう。選択は一つだ。君はここから離れなさい」

「ふざけんな。あのクソ野郎をみすみす見逃すなんて出来るわけないでしょうが。この手で百発ぶん殴らないと腹の虫が収まらないわ。それに、私には博麗の巫女としての責務がある」

「では友を見捨てるのか?」

「っ」

「……正直に言うと、こんな下卑た駆け引きはしたくないんだ。頼む、博麗の巫女よ。今回だけ立場を譲ってくれないか」

 

 少女の視線が、ナハトとスカーレット卿、そして魔理沙の間を泳ぎ回る。

 粉雪が降り注ぐ中、霊夢は口の中で苦虫を潰したように下唇を噛んだ。

 

 魔理沙を操り、嘲笑い、貶めた挙句、幻想郷を荒らしまわっている大馬鹿者をとっちめなければ気が済まない。けれど魔理沙の方が大事なのは言うまでもない事実だ。この気温の中、魔法無しの状態で野晒しにしてしまった暁には呆気なく永遠の眠りへ就かせてしまうのは自明の理である。

 本当なら迷いたくない。迷いたくないけれど、それでもあの悪霊が許せない。

 どうしようもない葛藤が、若き少女を苛ませた。

 

「では、妥協案といこう」

 

 その心に逃げ場を作り出すように、吸血鬼が提案を示してきた。

 

「君が魔理沙を安全な所まで運び、戻ってくるまでの間、私たちの決着が着かなかったら君に戦いの場を譲ろう。飛べばここから神社まで十分程度だから、介抱の時間も鑑みれば三十分ほどで戻ってこれる筈だ。どうだね」

「……」

 

 空白が生まれる。ジトッとした眼差しでナハトを睨み続けた霊夢は、ちらりと魔理沙に目をやって、お祓い棒と一緒に視線を落とした。

 舌打ちを一瞥。

 

「二十分よ。それまでに絶対戻ってくるから」

「心得た」

 

 交渉を結んだ霊夢はすぐさま魔理沙を抱えると大地を蹴り飛ばし、博麗神社へ一直線に舞い戻っていく。

 見届けて、ナハトは彼方を見た。太陽熱よりもジリジリと身を焼く怨念の根源が、およそ文字で表現する事の出来ない、壮絶な笑顔を浮かべて待っている。

 地から足を離し、高度を上げる。徐々に徐々に、霊烏路空の体を乗っ取った悪魔に近づいていく。

 

 やがて二人は、雪花の降る夜に相見えた。

 

「待っていたぞ、ナハト。それはもう存分に待ちわびたとも。恋人を待ち続ける生娘の心情はこんなものかと下らん妄想をする程度にはな」

「そうか。不快だ」

 

 瞬間、黒い稲妻が音を切り捨てて一閃した。

 ナハトの肩上から顕現した魔剣が、何の躊躇も無くスカーレット卿を切り捨てたのである。

 だがしかし、スカーレット卿はナハトの切り札ともいえる魔剣対策を怠るほど愚鈍な悪魔ではない。漆黒の魔力物体はスカーレット卿の体に触れる直前、まるでガラスが砕け散るような高周波と共に四散し、果てた。

 

 くぐもった愉悦の音頭が、ナハトの耳を抉るように刺し込まれる。

 

「そう焦らずとも良いだろう。私と貴様の仲じゃあないか。まずは共に語らって、それからじっくり殺し合えばいい」

「お前の嗜好に付き合うつもりはない」

「いいや、無理やりでも付き合わせるさ。それに今の一撃で理解しているのではないかね。貴様の攻撃が、私の元には届かないことに」

 

 両手を広げ、悪魔は喜色を纏って笑う。人生の大舞台に歓喜する若人のように。古き友との再会を喜ぶ老人の様に。

 反して、ナハトの表情は氷河期の大地が如く凍結していた。

 

「……呪いか。それもただの呪いではないな。あらゆる呪詛、あらゆる負、あらゆる怨念を編み上げて作られている。触れれば生物はおろか、無生物ですら蝕み侵す絶対の病だ。……お前が多くの魑魅魍魎に()を撒いた真の狙いがこれか」

「ご名答、流石の慧眼だ吸血鬼。これを編み出すのは相当な苦労を強いられたぞ。外からの攻撃は弾き、内側からの攻撃を通すなんて都合のいいものを造り出す努力は並では足りなかった」

 

 スカーレット卿はただ闇雲に魍魎たちへ己の寄生体を植え付けていた訳ではない。小さな力を掻き集め、大きな盾を造り出すために。混乱を招き、意識を卿へ一極集中させぬよう陽動するために。彼はここまで大仰な異変をやってのけたのだ。

 当然、寄生する人材は選抜してあった。土蜘蛛の病、橋姫の嫉妬、西行妖と亡霊姫の死を誘う幽世の凶器。精神面、肉体面、万物に対するあらゆる負を掻き集め、男は唯一無二にして最強最悪の鎧を獲得するに至ったのである。

 その力は、対非物理ならば絶対的優位性を持つグラムですら、容易く弾いてしまうほどに。

 

「さて、虐殺を始めようか。ああ言っておくが、この鎧は壊そうが無効化しようが即座に作り出せる無限の守りだ。当然だろう? 一回きりで終わりにするような使い捨てのシステムを、貴様の様な化け物相手に採用する訳がない」

「だが力の供給源を断てば話は別だな。そこまで強力な鎧を維持するには、大きな核を複数必要としているのだろう。それらを全て無力化すれば、邪悪な鎧などただの魔力塊に成り果てる」

「だから、どうやってそれを成し遂げると言うんだ。私がみすみす貴様にコアを見つけて破壊させる時間を与えるとでも思っているのか? いいややらん。このまま巫女が戻ってくるまでの狭間で、貴様を徹底的に嬲り殺してくれる」

「……なるほど。先ほどの輝夜の言葉は、実に的を射ていたようだな」

 

 無色の息が吐き出され、夜闇へ空虚に溶けていく。脈絡もなく回想に耽る吸血鬼を、理解不能と言った様にスカーレット卿は眉を顰めて嘲笑った。

 ナハトは言う。狂気に蝕まれ、脳髄から全身の神経に至るまでを復讐心に染め上げられた、哀れな元吸血鬼に向かって。

 

「お前は私に囚われ過ぎた。私への憎悪に塗り潰されたが故に視野を狭まれ、肝心な所を見落としてしまった。かつて偽物の安心に惑わされた私たちの様にな」

「なに……?」

「言いたくはないが敢えて言おう。お前の作戦は見事だった。己の弱点と脅威を緻密に分析し、無意識と安心の虚を突き、対策に対策を重ね、人々の心を誘い導き、影の中の影に身を潜めながら計画を遂行し続けて結果を成したその手腕、狡猾さ、ただならぬ執念は感服の一言に尽きる。まんまとしてやられたとも。敵ながら天晴と言う他に無い。――だが」

 

 ビシリ。

 大きな亀裂の走る音が、二人の間に生れ落ちた。

 ナハトは何もしていない。スカーレット卿も同様だ。

 魔力圧をぶつけ合い、空間に圧をかけた訳でもない。ナハトの魔性が大気を蝕み侵した訳でもない。

 本当に、()()()()()()()()()()()()()()

 

 では、明確にナニカが割れていくこの音は、一体――――?

 

「一つだけ、お前は見誤った」

 

 音の発生源は、スカーレット卿の鎧から起こっていた。

 不可視だった膜が、放射状に刻まれゆく亀裂によって姿を現す。巨大な裂け目から枝葉が生えるように細かい傷が走り回って、遂にはスカーレット卿を覆う全領域にまで広がった。

 何が起こっているのか理解できず、首を右往左往する太陽の悪魔。

 しかし直ぐに、理解の電撃が訪れたのだろう。ハッとしたように、卿の瞼が限界まで見開かれた。

 一筋の汗が伝い、顎から落ちて彼方へ消える。

 

「まさか――まさかッ!?」

「ああ、そのまさかだとも」

 

 ぱちん、と徐にナハトの爪が鎧を弾く。触れれば最後、どんな大妖怪であっても致命傷を免れられない死の鎧を。

 次の瞬間。絶対無敵を誇るはずのスカーレット卿最後の砦は。盛大な破砕音と共に、砕けた宝石の如く四分五散し壊滅した。

 

 謎の答えは示された。

 

 互いに殺気を飛ばし合い、膠着状態にあった両者が鎧を剥いだ原因ではないのなら。

 事象の根幹は、全く別の場所に存在するという事になる。

 それは即ち、八雲紫の元に結集せし、万夫不当の百鬼夜行が悪魔の罠を掻い潜り、力の基点を破壊した意味に他ならない。

 

「あ――――」

 

 そして訪れる、魂を食い潰さんばかりの闇の暴圧。

 両腕でしっかりと身を抱きしめねば気を違えそうになる圧倒的な波動があった。悪夢が形となって触手を伸ばし、全身の穴から魂を冒してくるような、絶望的な忌避と憂虞の再臨があった。

 

 悟る。永きに渡り求め続け、己を苛ませてきた全ての元凶。スカーレット卿の絶望が運命の糸に導かれ、時を越えて再び眼前に現れたのだと。

 心づく。永久(とこしえ)の死を賜るカタストロフが、遂に、遂に完全復活の成就を果たしたのだと。

 

 この時を以て、至大にして偉大なる恐怖が目を覚ます。

 

 絢爛に散りゆく欠片の狭間で、魔王の瞳が光を帯びた。

 闇夜の支配者は黒き瘴気と共に口を開く。

 存在の根幹にまで響き渡る、魔性の声を伴って。

 

「この地に住まう少女たちの力を、お前は見誤ったのだ」

 


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