【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

48 / 55
40.「誠の刀」

「うう~~~寒っ!」

「……くないわね。あれ、死後の世界はこの世より寒いって聞いてたんだけど、なにこれ? 下界より全然暖かいじゃない」

 

 スキマを抜け、冥界へと辿り着いた蓬莱人たちが最初に感じた空気は、幽世特有の生気の無い香りではなく、魂魄が安寧を満喫する死後の憧憬でもなく。青々とした若葉が一面に生え揃い、満開の桜並木が全面を彩る、およそあの世とは信じがたい暖かさに溢れた光景だった。

 

「これ本物? 偽物じゃ……あ、引っこ抜いたらちゃんと根っこ着いてる」

「あらほんと。生き物が居ないはずなのにちゃんと命があるなんて、あの世って不思議な世界ね」

「……って、こんな事してる場合じゃないわ。西行妖を止めに行かないと」

 

 確か白玉楼ってお屋敷にあるのよね――輝夜は周囲を見渡しつつ、目的地の目印を探していく。

 ふと、遠方に頭一つ抜けた桜が見えた。妖しい薄桃色の光を散らす樹冠が、遠くから覘くと富士山の様に映って見えた。

 あれが西行妖に違いないと、疑いも無く確信した。大きさもさることながら、眺めていると魂を吸い取られそうになるのだ。妖怪と化し、生者を死へ誘う化け桜となったならそれも道理だろう。

 

 二人は地から足を浮かせ、桜目がけて飛んでいく。距離は無く、数分もしない内に大きな屋敷へ到達した。冥界の管理人たる西行寺幽々子の住処、白玉楼である。

 途中、屋敷全体を覆う薄紫色の膜の様なナニカがあった。軟体動物の様に蠢きながらも、決して内部を漏らさない柔和な境界だ。これが西行妖を封じる八雲紫の結界なのだろう。恐る恐る触れてみると、すんなり手がすり抜けた。どうやら内部の力だけを逃がさないよう調節しているらしい。

 

「行くわよ」

「ええ」

 

 先陣を切った輝夜は、一息に内側へ入り込んだ。

 

「……ッ!? か、はっ!?」

 

 前触れも無くそれは起こった。体が境界線を跨いだ瞬間、まるで布切れを思い切り引き絞るかの様な過負荷が心臓へ襲い掛かってきたのだ。無理やり脈を阻まれ、血流が停滞や逆流を引き起こし、筆舌に尽くしがたい激痛が体を蝕む。堪らず胸を抑え、肺から抜け出す酸素を取り返そうと必死に呼吸を繰り返した。だが筋肉が神経を遮断された様に動かない。呼吸しようにも、呼吸器そのものが動かせない。

 酸欠のせいか、視界が闇に塗り潰されていく。明滅する頭では飛翔能力を統率できず、引力に従うまま体が傾いていくのが分かった。

 直後、輝夜の意識はブラックアウトした。

 

 

 ――蘇生(リザレクション)

 

 

「ぶはっ! はぁっ、は、ゲホっ、うぇぇ……」

 

 まるで死線期呼吸の様な息吹と共に、輝夜は飛び上がって目を覚ました。じわじわと嫌な汗が噴き出して、自分が今死んだのだと実感する。

 

 次の瞬間、輝夜の体に再び異常が訪れた。今度は頭蓋の内側が、まるで火かき棒に掻き混ぜられたかのように痛むのだ。鼓膜や三半規管を引き抜きたくなるような耳鳴りと眩暈の大合唱が鳴り響き、頭を押さえて蹲ってしまう。

 隣から同じような呻き声が聞こえてきた。言うまでもなく妹紅だ。彼女もこの力に囚われてしまっているらしい。歯を食いしばりながら地面を搔き毟っている。

 

 だがしかし、輝夜と妹紅は永劫を生き抜くことを約束された蓬莱人であり、しかも互いに殺し合う事を生活の一部として組み込んでいる様な異端児だ。痛みと死には妖怪以上の耐性を持ち合わせている。故に、常人ならば発狂するような苦痛を注ぎ込まれる状況でも、頭を十分に回転させることが出来た。

 

 この症状は十中八九西行妖の仕業だろう。事前に聞いていた『死へ誘う性質』がこれなのだ。西行妖の伝説からして自殺に導かれるのかと勘違いしていたが――いいや、実際はそうだったのかもしれないが、想像以上に苛烈な力だったらしい。もしかしたら永い時間によって力が変質したのかもしれない。

 

 つまるところ、死へ誘うのは精神面ではなく()()()の方だったのだ。

 

 言い換えるならば全身規模の自殺機能(アポトーシス)。それがこの結界内で強制的に誘発され、否が応にも生き続ける限り無限の死を与えられてしまうのである。

 紫を手こずらせる理由が分かると言うものだ。妖怪は死に疎いが、それでもこれは熾烈極まりない苦痛を呼ぶ。拷問を超越した死の連鎖は、精神的に脆い妖怪の心をいずれ瓦解させ、魂を西行妖へ捧げてしまうには余りある力だろう。

 

 だが。

 

「づ……ゥッ……は、ははっ。んにゃろ、痛いだけで降参すると思ったら大間違いよ。蓬莱人、舐めんじゃないわ」

 

 この程度で音を上げるなら、輝夜はとっくの昔に死に絶えている。むしろ痛みは生の証拠。永遠の住人にとって苦痛など、ただの気付薬程度にしか働かない。

 

 時の歯車を緩めるように、輝夜は能力を発動した。

 

 永遠と須臾を操る程度の能力。時の間隔を操るその力は、()()()()()()()()()()を永遠に変えた。

 例えるなら、ウイルスが体を蝕むまでの時間を未来永劫のものとしたのである。能力が降りかかっても、発動するまでに途方も無く時間を食うならば意味が無い。それを応用し、輝夜は疑似的に自殺機能(アポトーシス)を無効化させたのだ。

 自壊が止んだところで即座に蘇生(リザレクション)を行い、体をリセットする。妹紅も同様に復活を果たすと、服に着いた土埃を払いながら立ち上がった。

 

「妹紅、平気?」

「ええ。ちょっとびっくりしたけど、この位どうってことないわ。そっちは?」

「大丈夫。…………しかし、これが例のお化け桜か。想像以上に曲者だったわね」

 

 前を見る。悍ましい赤紫の灯を心臓に似た鼓動と共に放ち続け、血肉が寄り集まって花弁となったような生々しい樹冠を携える桜があった。春の到来と命の息吹を一番に伝え、人々の心を暖める桜ではない。生けとし生けるものを死の暗闇へと引きずり込む正真正銘の化け桜、西行妖だ。

 

「……ん?」

 

 ふと、桜の根元に人影があった。どこか見た事のあるシルエットで、輝夜は近づきながら様子を伺う。その距離が縮んでいくごとに正体は克明となっていった。

 水色を基調とした着物に身を包み、頭にはちょこんと丸い帽子が乗っている。頭部を覆う山部分(クラウン)の前面には魂らしき渦巻き模様が彩られていて、帽子の下から見える桃色の髪は、輝夜に負けるとも劣らない濡れ髪の様な艶を湛えていた。

 輝夜はいつの日か参加した宴会で、彼女を目にした覚えがあった。八雲紫の傍でほわほわとした笑顔を浮かべながら日本酒を嗜みつつ、戦慄するほどの料理を口にしていた亡霊姫、西行寺幽々子である。

 

 ふと。こちらを見つけたらしい幽々子は手をひらひらと振りながら、朗らかな笑顔を浮かべてきた。

 

「まぁまぁ。あなたたちは確か、蓬莱人の方々よね? 紫が遣わせてくれたのかしら。良かったぁ、この桜が突然咲き始めちゃって、どうしていいか分からなかった所なのよ」

「幽々子、あなた無事だったのね! 待ってて、直ぐそっちへ行くから」

「だめ!」

 

 妹紅から肩を掴まれ、駆け寄ろうとした行く手を阻まれる。何だと後ろを振り向けば、険しい表情を浮かべる妹紅が視界に映った。

 

「あんた忘れたの? 西行妖の封印が解かれたなら、封印の要でもある幽々子さんに異変が起こっていても不思議じゃないと妖怪の賢者が言ってたでしょう。それにここは怨霊の支配下になっている。うかつに近づいては駄目」

「いやでも、あの姿も雰囲気も、前に見た幽々子そのものよ? 彼女は紫並みの使い手らしいし、何らかの方法で難を逃れた可能性だって」

「確かにそれも一理ある。でも、()()は根本から違う」

「違う……?」

「本人だけど本人じゃないのよ、あの亡霊姫……いや、()()()と言った方が正しいかしら? なんというか、()()の匂いがする。大昔から嫌ってほど感じてきた、命を失くした血と臓腑の香り(けはい)。それがムンムン伝わってくるわ」

 

 ――二人の蓬莱人は、この地へ赴く前に西行妖に纏わる伝説を耳にしていた。

 

 人々を死の暗闇に誘う己の力を憂い、呪われた桜の下で自決を果たした一人の少女の哀しい物語。呪詛に等しい能力は転生後も付き纏うと知り、それを憐れんだ紫と閻魔が彼女の魂を冥界の管理者へ定め、安寧を与えたという儚い経緯。

 そして、西行寺幽々子の死体を要とした、西行妖の封印術についてを。

 

 八雲紫はスカーレット卿が西行妖を開花させた事について、疑問を幾つか抱いていた。太陽の力を利用し、疑似的な春を到来させたことで『春度』を掻き集めた理屈は分かる。恐らく怨霊を凝縮させた()()も注いで活性化させただろうとも想像がついている。

 だがそれだけでは満開など有り得ない。何故ならかつての春雪異変において、幻想郷中の春を掻き集めて開花を試み失敗したという前例があるからだ。その程度で満開になる事は無いと証明されたも同然なのである。

 

 ならばどうして、桜が開花寸前にまで至ってしまったのか? ――この不可解に対し、紫はとある仮説を立てた。

 即ち、封印の核たる西行寺幽々子の遺体になんらかの干渉があったのではないかと。

 例えば、そう。自らの分霊を含んだ怨霊を桜を通して遺体の中へ流し込み、依り代として拝借したとか。

 

「あれは西行寺幽々子であって幽々子じゃない。()()()()()そのものなのよ」

 

 妹紅は札の髪留めを一つ解くと、力を込めて投げ打つように解き放った。呪印が光り、猛々しい大火を帯びて形を作る。姿を得たそれはさながら不死鳥だった。火の鳥を模した陰陽の札は、迷うことなく幽々子へ襲い掛かる。

 幽々子の手前、およそ五メートル程度まで鳥が近づいたその時だった。足元の砂紋が砕け、どす黒い触手が夥しく生えてきたかと思うと、火の鳥へ絡みついてあっという間に地の底へ引きずり込んでしまったのである。

 瞬間、爆発が起こった。札の爆裂機能が今になって発動したのだろう。庭師の手で整地されていた庭園が大地の内側から抉れ飛び、猛烈な硝煙を巻き散らした。

 

 煙の中で、引き裂かれる笑みが一つ。

 

「惜しい。あとちょっとで姫君を捕らえる事が出来たのに。しかも爆発のせいで折角の罠も滅茶苦茶になってしまったじゃないか。騙し討ちは失敗かな?」

「ほざきな、三文役者。嵌めたいなら被害者のフリでもしてたら良かったのに。秋の人里でやった様なヤツなら、引っ掛かってあげてたかもしれないけどね」

「なに。ちょっとした遊び心だよ、藤原妹紅。元より()()()の目的は時間稼ぎであって邪魔者の始末ではないのでね。別段、これらも意味なんて無いのさ」

 

 乾いた土が剥がれる様な音がした。

 バリバリと、西行寺幽々子の表面からナニカが崩れていく。肌のみならず、髪からも、服からも、まるで蛇の脱皮の様に、余分だった化粧が腐り落ちていく。

 現れたのは、着物に身を包んだ黒髪の麗人だった。死後のフワフワとしたのんびりな印象とはまるで違う、吹雪が人の形を持ったが如き冷たさを孕んだ少女だった。

 恐らく、この姿が生前の西行寺幽々子だったのだろう。全てを悟った妹紅は怒りに震え、わなわなと腕を振るわせた。

 

「……やっぱりか。アンタ、よりにもよって亡骸を乗っ取ったな。尊ぶべき人の死を、最低な形で冒涜しやがったんだな」

「? 何を言っている。魂が抜けて留守になった肉の塊を拝借しただけだ。無様な死を尊ぶなど、人間の価値観はよく分からんな」

「ッ!!」

 

 薄く、薄く。骸を辱めた外道は微笑む。陽によって暖められた冥界の空気が凍り付いていくような、そんな錯覚を覚える微笑(びしょう)だった。

 妹紅の舌剣を援護するように、輝夜が言う。

 

「遺体が封印から外れてしまったら、魂が肉体に戻って諸共滅びてしまうと聞いたわ。なのになんで満足に活動していられるのよ?」

「アレを見れば分かるだろう?」

 

 すぅっ、と。死人の指が方角を指し示す。直線状には屋敷があった。幽趣佳境な日本庭園と浅紅色の桜並木を一望できる白玉楼の縁側だ。ここに座ってお茶を一服すれば、さぞ心の清涼剤となる事だろう。

 だが、涼し気な雰囲気と相反する物体がそこに鎮座していた。

 幽々子だった。蛍の様な淡い光を帯び、奥が透けて見えるほど存在を希薄化させている幽々子が、宙に浮いて横たわっていたのである。

 傍目から見ても意識はない。完全に消滅していないところから見て無事ではあるようだが、しかし、大丈夫とも言えなさそうだった。

 

「……成程ね。こいつは最悪に厄介だわ」

 

 忌々しそうに舌打ちを一瞥する妹紅。眉間に皺を寄せながら、遺体に潜む悪魔を刺し殺さんばかりの視線を飛ばす。

 

「その体、()()()() どんくらい敷き詰められてるのか知らないけど、中はうじゃうじゃ怨霊が巣食っている。だから幽々子さんの魂がそこへ戻れない。ギチギチの密室に人が入れるわけがないもの。けれど封印から外れた遺体に魂が引っ張られて、どっちつかずの状態になっちゃってるってところか、今の幽々子さんは」

「ご名答。中々の洞察力だ藤原の娘よ。流石長生きしているだけはある」

「……ちょっとまって、それじゃあいつを()()()()じゃない!? だって、あいつを倒しちゃったら幽々子が!」

 

 現状、スカーレット卿が数多の怨霊と自らの分霊で()()を圧迫しているが故に、幽々子は遺体に取り込まれず、互いに消滅することなく拮抗している状況だ。

 だが裏を返せば、輝夜と妹紅が何らかの形で遺体を取り返した次点で即座に幽々子の魂が遺体へ取り込まれ、亡霊として過ごした千年余りの時間が一気に圧し掛かり、肉体も魂も纏めて消え去ってしまう可能性を意味している。魂と肉体、その両方を人質にとられていると言っていいだろう。

 

「でも手が無いわけじゃないわ」

 

 そう。展開できる策が皆無な訳ではないのだ。魂を吐き出させた瞬間、肉体へ妹紅か輝夜のどちらかが紫から渡された封印札を張り付け、再び西行妖の下へ還してしまえばいい。肉体から異物を取り除いた瞬間に幽々子の魂が戻ってしまうなら、肉体を『永遠』で固めて魂の帰還を断ってしまえばいい。他にも、解決へ至れる手段は考えれば出てくるだろう。

 

 しかし、これらの手段には大きな壁が立ちはだかっている。それは輝夜の持つ能力の弱点と、遺体の中身に巣食っているだろう怨霊たちの数が原因だ。

 永遠の力を使えば幽々子の肉体は完全に固定できる。それこそ完璧な永久死体の出来上がりだ。しかし逆を言えば、こちらからも一切の干渉を行うことが出来なくなるという事態にもなる。時の流れを久遠に変えて変化を拒絶する力が『永遠』ならば、そこに第三者が干渉する余地は無い。固定すれば事の悪化を防げるものの、状況も膠着状態となってしまう。

 

 ならば幽々子の魂を永久化させれば良いのか? 現状これが最適解だろう。そちらを永遠にしてしまえば、魂と肉体の衝突によるパラドックスという最悪の結果を防ぐことが出来る。

 しかしここで問題となるのが、あの肉体にいったいどれほどの魂が巣食っているのかと言う点だ。全ての怨霊を吐き出させなければ、例え西行妖に戻した所で再び細工をされかねない。けれど相手は千年近く眠り続けていた死体だ。怨霊の摘出は術符を用いるか、直接ダメージを与えて吐かせる必要があるが、加減を間違えれば体が崩れかねないのである。

 一度崩壊が始まってしまえば輝夜であっても止められない。『永遠と須臾を操る程度の能力』は時間逆行を行えないからだ。出来るのは『対象の過程』にかかる時間を極限まで引き伸ばすか、圧縮された刹那の時間で行動するだけ。固定は出来ても修復は不可能である。

 

「輝夜、一先ず幽々子さんの魂を」

「もうやった。……けど、問題はこれからよね」

「作戦会議は終わったかい? なんならもっと時間をかけてくれて構わんよ。私は別に、君たちを早急に撃退しなければならない訳じゃあないのでね。ゆっくりのんびりやっていきたいと思っている程なのさ」

 

 ふざけた口調で悪魔は言った。輝夜は眉間に皺をよせながら、それを弾く様に言葉を繋ぐ。

 

「……時間稼ぎと、八雲紫封じが目的なのよね。ナハトを理想の中で倒す為に」

「そうとも。私の――いいや、()()の目的はあの吸血鬼を計画に従うまま葬る事だ。だがその為には時間と舞台が必要でね。だからこうして、一番厄介な妖怪の妨害工作をしているわけなんだ、働き蟻のようにせっせとね。……ところで、私からも一つ質問良いかな?」

「なによ」

「どうして西行妖を初めから封印しなかったんだい?」

 

 当然の疑問だった。

 紫の能力を削ぎ落し、行動不能にまで陥れているのは他でもない西行妖である。ならば病巣を先んじて『永遠』に固定すれば、根本の原因を取り除くことが出来るのではないか? というものだ。

 だがその問いに対して、輝夜は口を噤まざるを得なかった。

 反し、悪魔は微笑む。喉を打ち鳴らすような引き笑いで、無言の答えへ満足を示した。

 

「成程、成程。やっぱりそうか。『永遠』とはそう単純なものではないという私の仮説がこれで証明された。それもそうよな。時間の操作は対象へ大きな代償をもたらす。君たちの様に永遠を生きる者や、西行寺の様な時間の束縛から解放された死者であれば無問題だろうが、西行妖であればそうはいかない。差し詰め『永遠』として固定しても意味がないか、もしくは後々の反動が怖いか、どちらかではないかね?」

 

 ――この世界ではない()()の永夜異変にて、輝夜は紫の仕掛けた『永夜の術』を破るべく『永夜返し』という大技を行った。

 これは、輝夜曰く半端な永遠である紫の術を自らの魔法、即ち永遠を操る力を用いて上書きし、支配下に置いて夜から引き剥がす事で、終わりなき夜を明けさせたという経緯である。

 この時、夜は時の流れを激流化させ、一気に暁を迎えるまでに至った。術によって堰き止められていた時間が解放された事で、怒涛のフィードバックが巻き起こったが故の現象である。

 

 つまり、永遠を操る能力の弱点の一つが、現在進行形で進んでいる事象を一時的に食い止めることは出来ても、解除した折に止めていた全てが爆発してしまいかねない点にある。即ち、正しい時間と局所的に切り離された時間との間に起こる、膨大なパラドックスだ。

 

 紫は冬眠前だったせいで疲弊を抱え、更に西行妖の制御に多くの力を削がれている。ハッキリ言うとぎりぎりの瀬戸際だ。そんな状態で、永遠に固定し貯めに貯まった西行妖の力を解き放ったらどうなるかは想像に難くない。ダムから吐き出された鉄砲水に呑まれる子供の様に、あっと言う間に死の濁流に攫われてしまうだろう。

 

 それで済めばまだ万々歳な方かもしれない。何故なら紫と言う最後の砦を打ち破った西行妖の力は、輝夜たちが遺体を戻す前に必ず現世へ影響を及ぼすからだ。蓬莱人ですら一度殺されてしまった尋常ならざる死の呪いから逃れられる者は多くない。普通の人間ならば抵抗すら出来ないだろう。最悪の場合、人里が須臾の間に全滅する可能性だって大いにある。

 そうなったら幻想郷は終わりだ。人間と言う存在の要を失った妖怪たちもまた、食物連鎖の影響で死に絶える上位者の様に、次々と消滅を迎えてしまう。楽園の喪失が、現実のものとなってしまうのである。

 

 だから西行妖には手が出せない。完全な不死者である輝夜と妹紅に降りかかる影響はフィードバックを無視して堰き止められるが、有限なるものたちの為にも、桜そのものを固定する選択はあまりに危険過ぎるのだ。

 

「――お見通しみたいね。そうよ、私たちにはあの桜を止められない。でも止めなきゃこっちの賢者さんの負担が消えない。そして、止めるにはあなたを倒すしかない」

「的確に、繊細に、しかして早急に私を排除しなければならないなぁ、それでは。果たして君たちに遂行できるかね? 常々の異変の様な力技ではこの問題は解決しないぞ? 一度間違えれば即、ゲームオーバーだ」

 

 嗤う。余裕と愉悦、傍観の享楽を胸に、墓荒らしの悪魔はクスクスと微笑む。

 チッ、と。妹紅の舌打ちが鳴った。最悪に厄介だと判断した妹紅の予測が外れていなかったと、改めて実感させられたからだ。

 

「あいつの言う通りだよ、輝夜。まったく本当に厄介極まりないわ。ここまで計算済みだったのならあの怨霊、時代によっては天下を収める器くらいあったかもね」

「くっそー! ここにきて難題を突き付けられた人たちの気持ちが分かる様になるなんて! あーもー思ったよりムカツクわコレ!」

「とにかくあの体から魂を追い出さなきゃ話は進まないわね。じゃないと封印の札を貼っても意味がない。地道にコツコツ頑張っていくしか道がなさそうだ」

「ええ、とことんやってやるわよ。難題吹っ掛けるだけがかぐや姫じゃないってことを教えてやるわ!」

 

 

「おっと、やる気になってしまったか。是非も無し。ではこちらも精一杯抵抗させて貰おうか」

 

 ボロボロの扇を開き、卿はふわりと風を煽る。

 それは号令だったのだろう。即座に桜から力の漲りが迸り、まるで霊魂が織り成す大祭りの様に絢爛な弾幕が、空を覆いつくすが如く二人目掛けて襲い掛かった。

 ひらり、ひらりと。蓬莱少女は縫うように躱しつつ、膠着状態にある現状をどう打開すべきか、思考を巡らせ取捨選択を繰り返す。

 

「言っとくけど須臾の間に殴ったりしちゃ駄目よ! 幽々子さんの遺体が一発で粉々になっちゃうから!」

「分かってるってーの! ……でも、本当にどうやって魂吐き出させれば良いのコレ!?」

 

 強力な攻撃は使えない。封印の札もまだ早い。かと言って時間操作は意味を成さない。

 打てる手立てがあるとすれば、陰陽術を体得している妹紅の祓いだ。微弱な退魔の力を持った護符を打ち込み、少しずつ怨霊を引き剥がしていく他に打てる手立てはない。

 理想を言えば、肉体へ一切ダメージを与えず、全ての怨霊を一気に切り離す事なのだが。

 

「先ずは行動が吉ね。輝夜! 西行妖の弾幕が濃すぎてアイツを狙えない! だからあんたは私のバックアップをして活路を開いて! そこに私が護符をぶち込んで怨霊を引っぺがす!」

「了解! その代わり絶対命中させなさいよ!」

 

 七つの魔方陣が輝夜の懐から出現する。それは数珠の様に眼前で連なると、夥しい虹の弾幕豪雨を展開した。

 

「難題『蓬莱の弾の枝-虹色弾幕-』」

 

 水に弾かれ結ばれる日の煌めきが如き七彩が輝夜を中心に放たれ、黒とも桃ともつかない蝶型の弾幕を相殺していく。

 妹紅は白絹の様な髪を束ねる護符を引き抜くと、か細い隙間を潜り抜ける様に札を飛ばした。紙札はさながら銃弾の如く真っ直ぐに空間を射貫き、寸分狂わず卿の体へビタリと貼り付く。

 人の悲鳴のようなものが響き渡ると、悍ましい黒煙が幽々子の肉体から噴き出した。同時に札が剥がれ落ちて力なく地面へと横たわる。どうやら幾つか怨霊を除霊出来た様子だが、しかし表情から余裕が消えていないところを見ると、全く痛手では無いらしい。

 

「畜生、全然効いてないわねッ! 札の数にも限りがあるし……もうちょい強くしても大丈夫かしら?」

「妹紅、後ろ!」

 

 キン、と。正体不明が高速を伴って空気を切り裂く音がした。弾幕に紛れて姿を晦ませたホーミング弾が、背後から妹紅目掛けて襲い掛かってきたのである。

 間髪入れず輝夜は能力を発動した。妹紅を狙った凶弾が空間へ縫い止められたように動きを止めると、身を翻して妹紅は躱す。能力を解除すれば弾丸は一気に加速され、他の弾幕へと衝突し派手に弾けて砕け散った。

 

「あれ自由自在なの……!? 面倒だわ、前も後ろも気にしないといけないなんて、これじゃ精密に狙撃出来ない!」

「だったら、そうね。よし! 妹紅、札持って私の手を握りなさい!」

「? 何を――――ああそういう事、了解!」

 

 妹紅は再び髪から三束の札を引き抜くと、二つ返事で輝夜の手を握り締めた。

 瞬間、須臾の世界に輝夜と妹紅は入門する。一秒を細切れにしても満たない時間の中を走り、止まっている弾幕の乱気流を潜り抜けて、文字通り刹那の間に卿の元へと到達した。

 しかしこのまま触れればフィードバックで幽々子の遺体が爆散しかねない。故に時を戻し、正常な世界へ至ってから行動に移った。

 背後を完全にとった妹紅は三つの札へ霊力を注入、退魔の力を存分に働かせ、幽々子の肉体へ貼り着ける。

 バヂィッ!! と落雷の様な衝撃が走り抜けた。しかしそれは肉を殴るモノではなく、体の内に巣食う病魔が焼け焦げた衝撃だった。

 

「う、おお……!」

 

 耳を劈く悲鳴が聞こえた。払われた怨霊たちが、断末魔と共に黒煙と化した証であった。相当な数を削られたのだろう、ここで初めて卿の苦悶が声となって顕在化する。

 よろめき、こちらに目をやりながら、しかしニィッとぎこちない笑みを浮かべて、

 

「は、はは。まったく大した奴らだ。と言うかちょっと予想外だな、まさかこんなにも早く半分近く中身を吹っ飛ばされるとは思わなかったぞ。やはり不死者と死は相性が悪すぎるか。仕方がない、第二プランと行こうかな!」

「何か知らないけど、させるもんですか!」

「いいや無理だね。この場における君たちの戦略の欠点は、攻撃直前に一度必ず能力を解かなければならない事だ。札を張る一呼吸さえあれば次の段階へ進んでいくぞ――――ほうら、もう完成した」

 

 突き出される妹紅の札を隔て、邪悪な微笑みを覆ったのは、突如として大地を刳り貫き現れた西行妖の根だった。少女たちの何倍もの太さを誇る化け桜の根子が瞬く間にスカーレット卿を包み込み、奥底へと隠してしまったのである。

 一重、二重、三重と被さっていくそれは、やがて要塞の如き強靭さを誇るシェルターと化した。

 

「嘘でしょ……!? 西行妖の力だけじゃなく樹そのものまで操れるなんて!」

『数え切れぬほどの怨霊(バイパス)を注ぎ、回路を繋げた今、西行妖は我が手に堕ちたのだ。さて、どうする? 時を永遠にしようが須臾に縮めようが、この盾はそう簡単には突破出来ぬぞ』

 

 瞬間、大砲を打ち込んだが如き轟音が炸裂した。

 輝夜が須臾の間にシェルターを殴りつけたらしい。しかし相当硬いのか、一部が拳の形に凹んでも貫通にまでは至らなかった。月人故に地上人より高い筋力を誇る輝夜のフィードバック込みでの一撃を受け止めたとなると、木の硬さ以上に魔術的な防御や衝撃吸収能力を備え付けられているらしい。

 

「づぅッ……! 木の硬さじゃないわこれ、ぶち抜くのは無理そう……っ」

 

 輝夜は目に涙を貯めながら、真っ赤になった拳に息を吹きかけつつ地団駄を踏んだ。

 

「……輝夜、なんだか永夜異変過ぎた辺りから大分アグレッシブになってきてるよね?」

「そりゃあ私の友達が体張ってるんだもの、負けてらんないわ。女だからって見てるだけじゃ駄目なのよ。……でも、これどうしよう?」

「じゃあ木の天敵と名高い炎で試してみましょうか。そうらッ!」

 

 刻印が結ばれ、妹紅の足元から火が生まれた。メラメラと燃え盛る劫火は翼を授かり、尾羽を賜り、瞬く間に火の鳥となって顕現する。

 それも一羽だけではない。何羽も、何羽も、まるで足元が地獄の釜に通じているかの如く湧いてくる。

 腕を振るった。号令は紅蓮の猛禽たちに染み渡り、彼らは金切り声を上げながら無数の流星となって突撃する。

 爆発音が連続し、怒涛の土煙が舞い上がった。激しい砂と石の嵐に、輝夜と妹紅は思わず前を覆ってしまう。

 

「……嘘でしょ、なんて耐久力よ!?」

 

 視界が晴れると、焼け焦げたシェルターが目に映った。ただし壊れてはいない。一層目の隔壁は粉砕できた様だが、しかし、二層目は表面を炭に変える程度で止まっている。

 しかもみるみるうちに新しい根が隔壁へ伸び、損傷箇所を塞いでしまったではないか。

 

「うわっ!?」

「きゃっ!?」

 

 突如地鳴りが起こった。立っていられないほどの揺れに猛然と襲いかかられた二人は、思わず蹲ってしまう。

 破裂があった。地の底から表層を突き破るように、幾つもの柱が姿を現したのである。

 蛇の様にうねり、切っ先を二人へ向ける正体不明の触手。それは根だった。シェルターを形成するだけでは飽き足らず、まるで動物の様に樹体をしならせながら、自分の一部を焼き焦がした者たちへ迎撃の意思を剥き出してきたのだ。

 あまりに異様な光景は永い時を生き続けてきた蓬莱人でさえ正気を奪われ、白痴化した脳内の辞書は言葉を失ってしまう。

 

「こ、こんなのってアリ? て言うかもはや桜じゃないでしょこれ!? 妖怪桜だからって言っても限度があるっつーの!」

「どうやら本気で怒らせてしまったみたいね……今度は桜そのものが相手ってことひゃああああああああああああああああッ!?」

 

 不意を突いて足元から蔦が伸び、足を這いあがって腹へ絡みつくと、縄のトラップに掛かった兎の様に妹紅を空中へ攫いあげた。炎を操り、怨霊を排除出来る札を持つ者を優先的に潰しに掛かったのだろう。西行妖は不死鳥少女を玩具のように弄り回し、体中に仕込まれていた札を全て奪い去るとビリビリに破り捨て、一瞬の内にそのまま放り投げてしまう。

 

「妹紅!」

「ああああああああああ私の事は良いからそいつどうやって倒すか考えてえええええええええええええええ」

 

 ドップラー効果を引き連れながら高度を上げていく妹紅は、減速が始まると共に恒星と化した。眩い炎を纏い、逆噴射する事で勢いを殺している。戻ってくるのにそう時間はかからないだろう。

 

 ビリッ、と妹紅に気を取られた輝夜に電流が走る。殺気を感じ、間髪入れず須臾の世界へと飛び込んだ。胸を狙って飛び込んできていた根の槍を躱し、翻り際に弾幕を撃ち放つ。

 須臾の世界から離脱する。瞬間、激烈な弾幕と須臾のフィードバックが怒涛の如く根の槍に畳み掛け、豪快な破壊音を伴いながら木っ端微塵に砕き割った。

 

 どうやら西行妖全体に防御魔法が仕掛けられている訳ではないらしい。むしろシェルターへ一局集中しているからこそ、あの尋常ならざる堅牢さを発揮出来ているのだろう。容易く破壊された根を見て、輝夜はそう分析した。

 だがそれは、現状を打開する術が目立って見当たらない事を意味している。

 

(立て篭もられてるこの状況で永遠を被せても意味は無い。なら須臾の間に攻撃し続けた方が――駄目ね、あんな硬いシェルターを破っちゃうくらい攻撃したら反動で中身もぐちゃぐちゃになってしまう。ああもう、加減が難しい!)

 

 次々と襲い掛かる根の猛攻を躱しながら思案を重ねていく。正攻法で撃破出来れば話は早いが、事はそう単純ではないのだ。遺体を壊さず、幽々子の魂を戻させず、かつ全ての腫瘍を取り除かなければならない。紫の負担も考えると、時は一刻でも切り詰められるに越したことはないだろう。負荷が強まれば強まるほど紫の力は削がれ、いつか決壊を迎えてしまうかもしれないのだから。

 最もベストなのはあのシェルターを適切に破壊し、その瞬間体から怨霊を纏めて排除して、すぐさま西行妖の封印核へ戻す工程を、流れるようにこなす方法なのだが……。

 

『苦戦しているようね』

「紫?」

 

 庭園を走り続けていると突如真横にスキマが開き、紫の声が耳を撫でた。

 彼女は「死の境界線が濃くなってるわ」と呟きながら、

 

『少し余裕が出来たからサポートするわ。何がお困りかしら?』

「取り敢えず全部! あのかったいシェルターを良い感じにブッ壊すのと、幽々子さんの体を傷つけずに怨霊を取り出す方法って何か無い!?」

『ふむ、少々お待ちを……成程、あの外殻には多重結界と似た防御魔法が組み込まれているのね。今の私じゃ直ぐとはいかないけれど、剥がせそうだわ』

「本当!?」

『ええ。ただし、剥がせてもほんの数秒よ。その間に決着をつけて頂戴』

「でも除霊の札が破られて無くなっちゃったの! どうやって剥がせばいい!?」

『――そこに、魂魄妖夢という名の庭師は居ない?』

 

 見知らぬ名前が飛び出して、思わず「魂魄妖夢?」と鸚鵡返ししてしまう。

 

『幽々子に仕えている真面目な半人半霊さんよ。彼女は同時に剣士でもある。その子が持っている白楼剣を使えばいい。魂魄家の家宝たるその刀は迷いを断ち切る幽世の刃。振るえば中に巣食っている塊――怨霊だけを斬り伏せることが出来るかもしれない』

 

 白楼剣。霊魂に対して斬り付ければ無条件で迷いを断ち、成仏へと導くこの世ならざる冥府の短刀。魂魄妖夢の持つ二対の刀の片割れである。その刀は殺傷能力を高められた楼観剣とは異なり、戦闘よりも儀式的に使用される事を目的として製造された神具に等しい宝物だと言う。

 幽世の性質を色濃く宿すその刃は、肉を裂き骨を断つ鋼の剣とはやや異なる。能力は魔剣グラムのそれに等しく、正しく扱えば邪魂を払う破魔の武具として力を発揮するのだ。

 

 だが、肝心の刀を持つ少女は今、この場のどこにも存在しない。

 それを耳にした紫は、シェルターを解析したように再びサーチを行った。白玉楼全体にまで境界の網を広げ、少女が今どこにいるのかを虱潰しに探り当てていく。

 やがて、

 

『見つけたわ。幽々子の魂がある縁側の、すぐ傍にある障子裏に隠れている』

「分かった、ありがとう!」

『私は術の解除に取り掛かるわ。なるべく急いで』

「任せて、急ぐのは誰よりも得意よっ」

 

 須臾の中へ身を投じ、停止したも同然の空間を全力で駆け抜ける。幽々子の横をすり抜け、輝夜は縁側から飛び込むように白玉楼へ侵入した。

 畳が敷き詰められた和室が現れる。達筆な掛け軸と生け花が植えられた鉢のみが置かれ、中央に質素なテーブルだけがレイアウトされた空間は、まさにワビサビと呼ぶに相応しい。

 横を向くと、紫の情報通り妖夢と思わしき少女がいた。透き通るような白糸の髪。傍に携わる人の頭程度の魂魄。壁へ立てかけられた大小二つの刀。半人半霊の剣士とくれば、彼女以外に有り得ないだろう。

 

 しかし様子がおかしい。外では乱戦の轟音が絶えず聞こえていたはずなのに膝を抱えて蹲っているのだ。顔は完全に伏せられていてその表情は伺えず、認識の外にある世界から見ても、鬱屈した雰囲気がありありと感じられる。青菜に塩とは、まさにこのような風貌を指すのだろう。

 一先ず須臾から抜け出して、輝夜は少女に声をかけた。

 

「魂魄妖夢さん」

「ひゃあっ!?」

 

 気配も無く現れた輝夜に心底驚愕した妖夢は、跳ね上がるように態勢を整え刀を抜いた。刀身が襖の間から漏れ出す月光を反射し、白銀の輝きを瞳へ贈る。

 面を上げた少女の顔を一目し、輝夜は言葉を失った。

 蒼白だった。肌の無垢さから元々色素が薄いのだろうと容易に推察できるが、それでは弁護のしようがない程に、妖夢は血の気を失っていた。

 まるでどうしようもない災害を前に震えるしかない子供の様な、悲観の先に辿り着いた者の表情だ。目にするだけで、言いようのない同情を抱いてしまう程に。

 

「面と向かって挨拶するのは初めてかしらね。私は蓬莱山輝夜。あなたたちの助っ人として参上したわ」

「すけっ、と……?」

「そうよ、あの八雲紫から頼まれて来たの。外の状況は……あなたも知っているよね?」

 

 ハッとしたように視線を向ける。しかし、ナニカが彼女の胸に歯止めをかけているのか、妖夢は唇を強く噛み締めながら、力なく俯いてしまった。

 輝夜は膝を折り、一向に頭を上げない少女と同じ高さへ目線を調節する。

 

「……あなたに何があったのか私には分からない。ただ、そのままで良いから少しだけ話を聞いて頂戴」

「っ」

「今、幽々子さんが絶体絶命の危機にある。西行妖から遺体が解き放たれて、魂の在り方が不安定になってしまってるの。私の力で食い止めているけれど、事は一刻を争うのに変わりはない。だからあなたの力を貸して欲しいの。あなたの使う、その白楼剣が必要なのよ」

「どうぞ。持って行ってください」

 

 迷う素振りを欠片も見せず、妖夢は短刀を輝夜へ向けて突き出した。早く受け取れと言わんばかりの予期せぬ勢いに、輝夜は思わず面を食らって瞬きをする。

 輝夜は漢の侍魂だとか、勇ましき武士道に精通している訳ではない。けれど剣士にとって刀がどれだけ大切な代物かは理解しているつもりだ。ましてや白楼剣が魂魄家の家宝ならば、会ったばかりの他人においそれと貸し出すなんて到底考えられない蛮行である。

 

 紫が「真面目」と評する人物が、家の誇りや主人への忠誠などを全てかなぐり捨てる様に刀を渡した。それは、輝夜へ妖夢に何が起こっているのかを紐解かせるヒントとなった。

 

 折れているのだ。

 心の支柱がポッキリと、真っ二つに折れてしまっているのだ。

 

 西行妖が目覚めてから妖夢にどんな災難が降りかかったのかは分からない。如何なる過程を踏んで喪心の谷底へ落ちてしまったのかは想像もつかない。けれど、彼女の心が限界を迎える出来事が確かにあったのだろう。それも代々受け継がれてきた秘宝をあっさり手放して、主人の危機にも馳せ参じる事が叶わなくなるほどの深い傷となり、妖夢の心へ南京錠を掛けるほどのものが。

 

 絶望している――というよりは、考えることを拒絶していると輝夜は感じた。

 その姿はまるで、どこか昔の自分を眺めているかのような。

 

「……ねぇ、妖夢さん」

 

 刀をそっと押し返しながら、輝夜は能力を発動した。

 時間の最小単位たるフェムトが輝夜の手によって掻き集められ、須臾と言う名の箱舟が二人を包み込んでいく。

 外からは決して認識する事の出来ない僅かばかりの時の中で、輝夜はそっと座り込んだ。

 柔らかに開く花の様に、輝夜は静謐な面持ちになって。

 

「いきなりで困惑するかもしれないけれど。もし良かったら、あなたに何があったのか、私に話して貰えないかしら?」

「…………何言ってるんですか。早く行ってください。紫さんの助っ人なんでしょう? 時間だって無いんでしょう? だったら、早く幽々子様を、助けてあげてください」

「……主を想えるって事は、忠誠心を失くしたって訳じゃないのよね」

「っ、それは当然です! 私は今でも幽々子様へ忠誠を誓っている! それだけは絶対に揺るぐ事なんてない! ……でも、もう私には、幽々子様の為に刀を振るう資格なんてっ……」

「妖夢さん」

 

 ビクンと、妖夢の肩が勢いよく跳ねた。

 怯える子供の様に顔を曇らせ、カチカチと歯を鳴らす少女の姿は、抱きしめれば崩れてしまいそうに儚くて。

 そんな少女にへばりつく膿を掬い取るように、輝夜は玉を転がすような声で、そっと語り掛けてゆく。

 

「私の能力は、簡単に言ってしまうと時間に干渉する力なの。一秒を何度も何度も細切れにしてようやく見つかるくらい小さな時間――須臾を集めて出来た箱の中に、私は入ることが出来る。それを被せる事だって造作もないわ」

「……?」

「あんまり実感が湧かないかもしれないけれど、あなたも今その世界に居るの。つまり、どれだけここで過ごそうとも、外じゃ一秒にも満たないってわけ」

「!」

「ね? 凄いでしょ。だから、ここでは焦らなくていいのよ。ゆっくりで良いから、何があったか教えて欲しいの。……これ、大事な家宝なんでしょう? それを簡単に渡しちゃうくらい酷い事が、あなたにはあったのよね」

「……なんで、あなたに言わなくちゃならないの」

「放っておけないから」

 

 一言に、輝夜の全てが込められていた。

 放っておけない。それだけだ。今の輝夜が妖夢を捨てて悪魔へ立ち向かいに行かないのは、ただそれだけの理由なのだ。

 

 例えこのまま剣を受け取り、全てを解決したとしても、きっと妖夢は救われない。そのまま陰鬱の森を彷徨い歩き、果てには大切なものを失くしてしまうだろう。根拠なんてどこにもないけれど、そうなってしまう確信が輝夜にはあった。

 だって、どうしようもなく似ているのだ。四年前、擦り減りきった心の果てに大切な感情(モノ)を失っていた輝夜と似ているのだ。

 程度の差はあるかもしれない。けれど今、魂魄妖夢という少女の柱はどうしようもなく摩耗してしまっている。例え異変が終わった後に幽々子や紫が励ましてくれるだろうとしても、ここで輝夜がアクションを起こさなかったら、彼女はきっと、永い悪夢に苛まされてしまう。

 

 それだけは、見過ごす訳にはいかないのだ。

 

「お節介だってのは分かってる。鬱陶しいわよね。赤の他人から急にこんな事を言われたって、なんだコイツって感じよね。……でも、それでも、私はあなたの力になりたいと思ったの」

「どうして、蓬莱山さんが私の為にそこまでっ」

「……私も、似た様な事があったんだ。助けてもらったの、殆ど見ず知らずだった人にね。何の見返りもないのに、自分も沢山傷付くと知ってただろうに、それでもその人は私を助けてくれた。お陰で今の私がある。だから今度は私の番。そう思っただけ」

「……!」

 

 真摯だった。誠実な真心だった。

 一点の曇りも無い、ただただ純粋な善の心。苦しみに喘ぐ人を見捨てることなく、例え偽善や自己満足と罵られようとも、自分と人にとって最良の選択を選ぼうとする確固たる強さ。

 それを、輝夜の歪み無き真っ直ぐな瞳から、妖夢は感じ取ったのだろう。

 主人であり、家族であり、母であり、姉でもある幽々子から向けられていた無償の親愛を、半人半霊の少女は、なよ竹の姫君から微かながら見出した。

 

「っ、わたし、はっ……」

 

 気が付いたら、震える声で、妖夢は言葉を絞り出していた。

 外の時間からしてみれば、欠片も認識する事の出来ない時の中で。

 

「怖くなったんです……あの幽々子様と戦うことがっ、どうしようもなく怖くなってしまったんです……。私は、私は、救いようのない愚か者だ……!」

 

 目頭から溢れる雫と共に吐き出された魂を、輝夜はしっかりと受け止めた。

 

 

 西行妖に、一羽の禍々しい鴉が降り立った。

 鴉は最悪最低の栄養剤を大木へ注ぎ入れるどころか、春を先取りして『春度』を無理やり掻き集め、封印されていた忌まわしき怪物を解き放ってしまう。

 妖夢は突如白玉楼を襲ったその脅威に立ち向かった。未曾有の敵に刃を振るい、西行妖の復活によって存在を希薄化させつつある幽々子を助けるため、たった一人で奮闘した。

 

 だがしかし、妖夢の前に立ちはだかったのは、全ての元凶たる鴉ではなかった。相手が鴉であれば、どんなに良かった事だろうか。

 現実は無情にも、魂魄妖夢の天敵を生み出してしまう。眼前に立ちはだかった怨敵は、敬愛する唯一無二の主人、西行寺幽々子そのものだったのである。

 

 春雪異変の後、西行妖の伝説は紫から耳にしていた。桜の下には生前の幽々子が埋まっていて、それが化け桜を封じ込める鍵になっているのだと。

 故に妖夢は、目の前で刃を食い止めている幽々子の正体が、悪魔に乗っ取られた主人の遺体だとすぐに悟った。

 

 形容し難き怒りが腹の底から込み上がってきたのを覚えている。人々を死に誘う西行妖を封じるために、同じく死を呼ぶ怪物となってしまった己の業を道連れに命を捧げ、その悲劇に幕を下ろした哀しくて優しい主人の覚悟を、鴉の悪魔はこれでもかと言わんばかりに辱めたのだ。墓石に唾を吐きかけるよりも悍ましい、吐き気を催す邪法で、幽々子の高潔な最期をいとも容易く踏みにじったのだ。

 

 怒りが刃を強くした。敵を討たねばならぬと意地を見せ、主の体を取り返さんと粉骨砕身を胸に戦った。

 だけど、悪魔はどうしようもなく悪魔だった。

 

 幽々子と同じ姿、幽々子と同じ仕草、幽々子と同じ声、幽々子と同じ表情で。

 かの邪悪は、妖夢を真っ向から否定し続けたのだ。

 

 思い出すだけで胃を引き絞られ、五臓六腑を裏返してしまいそうになる罵倒と蔑みの数々を、事もあろうに()()の口から放たれる現実は、妖夢の心を真菌のように蝕んだ。

 それが悪魔による幻覚幻聴だと言い聞かせても、妖夢の一番聞きたくない言葉の数々は、残酷に胸を穿ち抜けた。舌剣は楼観剣よりも鋭利に、無情に、魂魄妖夢をじわじわと削ぎ落していった。

 

 妖夢は未だ半人前だ。剣術指南役なんて肩書ではあるけれど、自覚を持つくらい腕前は未熟な部類である。剣聖と謳われた祖父の様な、不動の精神には至らない。

 だから、どんなに割り切ろうとしても。白楼剣の力を借りて、迷いを断ち続けても。

 幽々子の肉を被った悪魔が一度でも幽々子に見えてしまったら、もう、妖夢にはどうする事も出来なくなってしまったのだ。

 

 気がついたら刃を振るえなくなっていた。気がついたら弾幕を撃てなくなっていた。

 

 ごっこ遊びじゃなく、殺す気で主人に刃を向けなければならない錯覚が生まれた。腹の底に力を込めて薙いだ一閃も悪魔の言葉に絡み取られ、心にヒビを刻み込まれる幻覚を鮮明に植え付けられた。

 

 残酷な悪魔の仕打ちが、魂魄妖夢という少女の柱を、完膚なきまでに圧し折ってしまった瞬間だった。

 

 

「分かってるんです。あの幽々子様は幽々子様じゃない、別のナニカに乗っ取られてしまった幽々子様なんだって。無礼者に凌辱されて、一刻も早く私がどうにかしなくちゃいけない幽々子様なんだって、頭じゃ分かっているんです」

 

 嗚咽の無い号哭がそこにあった。不甲斐なさと悔しさがごちゃごちゃになって胸を縛り、どうする事も出来ない己の弱さに涙する少女の姿があった。

 

「でも戦えなくなってしまった。刃を振るうたびに、幽々子様が私を蔑むんです。侮蔑と失望の眼で私を見ながら、私を斬るためにその剣を学んだのかって。お前は私の妖夢じゃない、どうしようもない不敬者だって。何度も、何度も、何度も何度も囁くんです」

 

 ぎゅうっ、と。膝の上で握られた拳が、スカートをくしゃくしゃに巻き込んでいく。震える手の甲に、パタパタと雫が落ちていく。

 

「ち、違うと、何回も自分に言い聞かせました。あれは本当の幽々子様じゃないって、心に刻み続けました。でも、それでも苦しいんです。幽々子様が冷たい失望を向けてきてるって、私を見放してるって思えてしまって、とても胸が痛くなるんです。その度に、剣を振るえなくなっていくんです。迷いも、断ち切れなくなって……」

 

 ごめんなさい――少女は悲痛な叫びを封じる様に、両手で顔を覆い隠した

 

「悔しい……! わ、私はっ、幽々子様をお助けする為に、今まで一生懸命頑張ってきたのにっ……こ、こんな簡単に折れてしまってっ! 怖くて何も出来なくなっちゃってっ! じ、自分が情けなくて、恥ずかしくてたまらない……っ! 立てない、立てないんです。どうしても立てなくなっちゃったんですよぅ……! 凄く、凄く、弱くて、惨めで、悔しくて、ふ、ぐ、ううううう……!」

 

 肩を震わせ、指の間から嗚咽を漏らしながら、魂魄妖夢は哀哭を上げる。爆発した哀しみと悔しさが堰を切って溢れだし、月光差し込む一室を、濃い青色で塗り潰していく。

 

「消えたい……消えて無くなってしまいたいよぉっ……! ごめんなさい幽々子さま、ごめんなさい、ごめんなさい、弱い妖夢で、本当に本当にごめんなさい……あなたの為に、私は戦えなくなってしまいました……!」

「…………」

 

 魂魄妖夢は誠実で、直情的なのが玉に瑕と言われるほど、竹の様に真っ直ぐな少女だった。祖父から誉れ高き庭師と剣術指南役の座を譲られ、未熟で至らぬ身だと弁えながらも、それでも懸命に頑張り続ける事の出来る少女だった。

 きっと、主を想う忠誠心は幻想郷の誰よりも強かった。魂魄妖夢は剣の様なひたむきさで、西行寺幽々子を慕っていた。白玉楼の従者で在り続けた。

 だからこそ、妖夢にとって幽々子こそが最大の弱点だったのだろう。信じているからこそ、敬っているからこそ、悪魔のまやかしであったとしても言葉の刃は深く刺さる。そしてそれに屈してしまった自分自身の不甲斐なさが、妖夢を一層強く責め立てたのだろう。

 

 輝夜は黙って耳を傾けていた。少女の懺悔を、少女の無念を、沈黙の器で受け止めていた。

 

「私にはっ、もう、幽々子様にお仕えする資格なんて無い……私にこの剣を振るう資格なんて……っ」

「妖夢さん」

 

 ふわりと、体を包む暖かい感触が訪れる。

 優しく、柔らかく、頭を撫でる手のひらの感触。唐突に訪れたそれに動揺し、妖夢の思考は白紙と化してしまった。

 

「そんな事、口が裂けても言っちゃダメ」

「っ」

 

 立て板を流れる水のようにサラサラと。さも当然のことを口にするように輝夜は言った。

 妖夢の心が壊れて散ってしまわないようしっかりと抱き留めながら。赤子を宥める様な慈愛を孕みつつ、教え子を律するように厳しさを交えた声で。

 

「幽々子さんの事、本当に大切だと想っているのよね。貴女の告白から胸が痛くなるほど伝わってきた。だったら怖くて当然よ。だったら辛くて当然よ。例え操られている偽者だとしても、大切な人の現身を躊躇なく切り捨てられるのは狂人だけだわ。ましてや、酷い言葉を吐かれて何も思わない訳がない。どこも傷つかない訳がない」

「……っ、う」

「自分をあまり責め過ぎないで。悪いのは全部、あなたの日常を壊してしまった怪物なんだから。幽々子さんもきっと、今のあなたを糾弾したりなんかしない」

 

 輝夜も従者を持つ一介の主だからこそ、この言葉を伝える事が出来たのだろう。

 妖夢の心は未熟なのかもしれない。割り切って行動できないのだから、半人前もいいところなのかもしれない。けれど、不完全だからこそ映える誠実さが、輝夜にはとても美しい物のように映った。

 元を辿れば我欲に走って平穏を引っ搔き回し、崩壊させたあの悪魔が原因だ。魂魄妖夢はあくまで一人の被害者に過ぎない。心を弄ぶ下劣な手段に翻弄され、尊ぶべき忠誠心を凌辱された少女に過ぎない。

 それなのに、どうして彼女を責め立てる事が出来ようか。

 

「かぐや、さん」

「……白楼剣、ちょっと借りていくね。安心して、傷一つ着けずにお返しすると約束するわ」

 

 これ以上、この子を悪魔の食い物にさせる訳にはいかない。そう判断した輝夜は、不安を煽らぬよう微笑みながら白楼剣を受け取った。

 鞘の上に指を這わせる。永遠の魔法が刀を包み、不変の守りを張り巡らす。

 

「大丈夫、あなたは何も悪くない」

 

 嘘偽りも、虚飾だって一つも無い励ましの言霊を添える様に傍へと置いて、蓬莱山輝夜は姿を消した。

 残された妖夢は、入り混じる感情の行き場を探すようにスカートを握り締めながら、吐き戻すように独り言ちる。

 

「……私は」

 

 涙は既に、枯れていた。

 

 

 ずっと背中を追い続けていた人がいる。

 魂魄妖忌。先代白玉楼庭師にして剣術指南役。

 私のお師匠様で、祖父でもある剣聖だ。

 彼は厳格な人だった。朧げな幼少期の記憶の中でも、未だ色褪せないくらいには厳しくて優しい人だった。

 

 ……けれど、お師匠様はある日突然、白玉楼を出て行った。まだまだ幼かった私に座を譲り、雲隠れのように姿を消した。

 戸惑った、とは思う。なにせ小さい頃の記憶だから、些細な感情がどうだったかなんて曖昧だ。勿論、お師匠様が出て行ってしまった時は幼い身の私からすれば肉親を亡くした様に悲しかったし、幽々子様も理由をあまり説明してくれないものだから、終ぞ混乱に呑み込まれたままだった。

 でも、そんな私を支えてくれる祖父の言葉が胸にあったから、私は庭師兼剣術指南役として頑張れた。『今日からお前が幽々子様と白玉楼をお守りするのだ』と、頭を不器用に撫でられながら力強く掛けられた言葉が、私の柱となったのだ。

 

 幽々子様は私にとって御主人様であり、姉であり、母でもある不思議な方だ。そんな方の傍に仕え、守る事を許された自覚が強まるにつれ、誇り高い名誉に振り回されぬよう、私は鍛錬を積み重ねた。

 とても苦しかったけど、辛くは無かった。幽々子様が私を褒めてくださる度に、私はお師匠様からも認められた様な気がして、二重の喜びを噛み締められた。

 何があっても幽々子様を守るという想いが強くなった。何があってもお師匠様から譲り受けた名を穢さないという誓いが強くなった。

 

 そんな覚悟が、たったの半刻足らずで呆気なく打ち砕かれてしまった。

 

 悔しい。とても、とても、とっても悔しい。

 悔しくて、五臓六腑が融けてしまいそうなほどに。

 

 私の決意も、覚悟も、たかがこの程度だったのかと思い知らされた気持ちだった。怨敵に刃を振るえなくなった事実が、幽々子様を守ると誓っておきながらグズグズ鬱屈していく自分の不甲斐なさが、どうしようもなく私の心へ突き刺さり、罪悪の情を昂らせた。

 

 ――それでも輝夜さんは、こんな私を悪くないと言ってくれた。

 

 私の忠義は本物だと。自分を責め過ぎるなと。全ては悪魔の仕業だと。私の心を解きほぐすように言ってくれた。

 救われたと思う。彼女にとっては小さな励ましだったのかもしれないけれど、どこにぶつけていいかも分からない感情を、輝夜さんが汲み上げてくれたように感じた。

 

 でも。それでも。私は立ち上がることが出来なかった。白楼剣を持っていく彼女の手を引き留めて、私が斬ると言えなかった。 

 だって。彼女の言葉が正しくても、悪魔に負けてしまったのは本当なのだ。邪悪な言霊に魂を絡めとられ、屈してしまったのは歪めようのない現実なのだ。

 

 そんな私が再び剣を取った所で、果たしてあの幽々子様を斬れるだろうか?

 きっと、無理だ。また剣を止めてしまって、足を引っ張るに決まってる。

 

「幽々子さま……お師匠さま……」

 

 ああ、本当に。

 綺麗なはずの月明かりが、今はこんなにも憎らしい。

 

 

 

『これ妖夢。竹林の姫君から励ましを頂戴しておきながら、何時まで萎れた花の様に呆けておるつもりか』

 

 

 

 ………………ふふっ。遂に幻聴まで聞こえる様になっちゃったか。

 こんな時に限って、懐かしいお師匠様の声が聞こえてくるなんて。

 

『妖夢ッ!!』

「はい!!」

 

 脊髄へ峰内を叩きこむような喝に、私は文字通り飛び上がって正座した。さっきまで鳴りを静めていた心臓が早鐘の様に打ち鳴らされ、暖かな血を届けられる感触が全身を駆け巡る。

 障子には、記憶の底にこびりついている紋付き袴の影がくっきりと映り込んでいた。長身痩躯で、佇まいから達人と知れるシルエットが、月明かりに照らされ焼き付けられていたのである。

 

「え、あ、あのっ……お、お師匠様……です、よね? いつお戻りに」

『聞け、妖夢』

 

 有無を言わさぬ皺がれ声に、自然と背筋が引き伸ばされる。

 何で、どうしてお師匠様が――――と言った疑問や戦いの悔恨は、この時ばかりは吹っ飛んだ。

 

『迷いを捨てろ、とはまだ言わぬ。お主は若い。故に惑い、悩む事も多かろう。――しかし、斬るべきものを見誤る事は許さぬ』

 

 静謐になった空間に、祖父の言葉が玉鈴のようにさぁっと広がる。

 どこまでも鋭い剣の如く、老成ながら凛とした真っ直ぐな声が。

 

『剣を視よ。万事清廉なる剣を視よ。真実を眼で捉えることは出来ぬ。耳で拾う事は叶わぬ。だが己の剣が真実を見誤る事は決して無い。ただひたすら、玉鋼の鳴動を聴くがよい』

「――――」

『忘れるな。お主は白玉楼の懐刀だということを。魂魄の名を継ぐその意味を、決して忘れるな』

 

 ……ずっと、彼の影から目を離していないつもりだった。

 けれどその言葉を皮切りに、障子に色濃く映っていた影法師は、霧散するように姿を消してしまった。

 一連のお説教は、私の心が生み出した幻であったかのように。

 

「……幻覚、だったのかな」

 

 けれど、夢か現かなんて今となってはどうでもいい。

 ただ、進むべき道は示された。そのように思う。

 

 昔から耳にタコが出来るくらい聞かされた、真実を知りたいならば斬って知れと言う言葉。宴の異変で何度試みても、いまいち答えが分からなかったあの言葉。

 これは、斬るべきものに刃を通せば真実が知れる、なんて意味じゃなかったんだ。思っていた順番がまるで違っていたんだ。

 

 玉鋼の鳴動を聴き、心の中で相手を斬る。剣は無想の境地でその是非を応えるのだろう。私の斬る真実が善なのか悪なのか、そのどちらかを見極めるだろう。

 

 楼観剣の鞘を握り、ゆっくりと引き抜く。

 白銀に瞬く刀身が露わとなり、曇りなき刃が私の顔を映しとった。

 念ずるように、瞳を閉じる。

 私が斬るべきものは一体何か。私が斬った先に広がるものは何か。

 共に修羅場を駆け抜けてきた、魂魄家の家宝へそっと訊ねる。

 

「私が、剣を振るうべき相手とは」

 

 ――ああ。そんなもの、決まっているだろう。

 

 悪魔に乗っ取られた幽々子様――じゃない。それよりも先に、斬るべき相手がここにいる。

 それは輝夜さんに口が裂けても言っては駄目だと叱られた部分。幽々子様にお仕えする資格など無いと自分勝手に決めつけて、役目を放棄した弱い自分だ。

 お仕えするかどうかなんて、幽々子様が決める事だったのに。そんな事にすら気付かずに、私は自暴自棄へと陥った。 この脆弱さを、私は今、ここで両断しなくてはならない。

 

 瞼の裏にススキ野原の心象風景が形を成す。風の音、草の唄、それらも全て鮮明に思い浮かべて、私はかつての自分と対峙した。

 悪魔に惑わされ、無様に怯え切った魂魄妖夢。烏滸がましくも資格の有無を己自身で裁量した愚かな自分。

 それを、閃光の下に斬り捨てた。

 剣を鞘へと戻すまでの、一連の想起が幕を閉じ、私は深く呼気を吐いた。

 過去との決別はこれで終わり。乱れに乱れていた心をイメージの砥石で研ぎ澄ませ、私は己の使命を刻む。

 

 私は妖夢。魂魄妖夢。幽々子様の庭師にして剣術指南役。白玉楼に置かれた懐刀。

 次にこの刃を振るうのは、敬愛なる主人に仇成す輩のみ。

 

 なればこそ。一度は敗北した者へ切っ先を向けるからこそ。

 敢えて。敢えてこの刹那の時ばかりは、身の丈に合わない虚飾を騙ってやろう。

 臆病な私へ別れを告げる為に、偽物の最強を心に植えよう。

 あの悪魔が、偽物の絶望を私に与えてくれたように。

 

「――私に斬れぬものなど」

 

 白玉の誓いをここに。冥土の誉れをここに。

 

「――此度は、無い」

 

 今こそ、この一刀にて誠の忠義を証明せん。

 

 

「白楼剣借りてきたわよ! 引き剥がす準備は整った!?」

『終わりましたわ。……が、少々問題があります』

 

 庭園を駆け巡り、迫る根の嵐を再び掻い潜りながら叫ぶ輝夜に、紫が返した言葉はどこか不安を煽るものだった。

 

『あの防御魔法は、言ってしまえば乱数の様なものを使われている。一度剥がすと全く異なる式に変化する仕組みよ。恐らく私を警戒して編んだんでしょうね。おまけに今の私には、二度も大魔法を解呪出来る余力はない』

「つまり、チャンスは一度きりってことね!? 上等よ、やってやろうじゃない!」

『結構。では――藤原妹紅!』

「はいよ!」

 

 雄叫びがあった。天高く突き抜ける雉の囀りがあった。

 空を仰ぐ。冥土の夜を切り裂く様に旋回するは、炎を纏い不死鳥と化した藤原妹紅の姿だった。

 紫は妹紅ともなにか算段を立てていたらしい。合図と共に炎が増し、明確な変化が一部から巻き起こっていた。

 妹紅の右手が燃えている。自身の肉体が溶解する事も厭わず、まるで腕を芯とするブレードのように業火が迸っているのだ。

 赤を超え、蒼白と化した猛炎の刃を携えて、妹紅は隕石の如く墜落する。

 

『シェルターを真っ直ぐ、縦に割るように振るいなさい!』

「合点承知! ずえりゃあああああああ――――――ッ!!」

 

 瞬間、不死鳥の風切り羽が化け桜の隔壁を叩き切った。

 脳天から刀を振り下ろしたように、ブレードは一直線に裂け目を入れる。黒ずみ、炭化した樹木が呆気なく弾け飛んで、貝柱を失った帆立の如くバカンと真っ二つに引き裂かれた。

 壁を組み直そうと、根の大群が地面から這い出し始める。このままでは、ものの数秒足らずでシェルターは完成し、二度と開くことの叶わない天岩戸と化してしまうだろう。

 だが、数秒もあれば十分だ。

 数秒足らずを永遠に変えられる少女が、ここにいる。

 

「とった!」

 

 須臾の間に根の内部へと潜り込み、輝夜は抜刀と共に白楼剣を一閃する。

 刃は寸分の狂いもなく、幽々子の肉体へ巣食う魂を薙ぎ払って。

 

「――!?」

 

 しかし。輝夜の刃は、すり抜ける様に空を切った。

 驚天動地の激情が胸を貫く。何が起こったのか甚だ理解出来ず、硝煙渦巻く隔壁の中枢で輝夜は驚愕の声を上げた。

 幽々子の肉体を奪い取ったスカーレット卿だと思い、輝夜が斬り裂いたモノの正体は、根で編みこまれた木偶人形だったのだ。

 下を見れば大地に穴が穿たれていた。深く、深く、底すら見えぬほどの大穴が。

 

 全てを、察した。

 

 既に逃げられていたのだと。最初の一撃がシェルターを襲った時、万が一を危惧したスカーレット卿はこの安全空間から逃げおおせていたのだと。

 そして、もぬけの殻と化したこの堅牢な防護壁は。

 招かれた客人を捕らえる、生きた檻へと化けるのだ。

 

「ッ!」

 

 反射的に能力を発動し、飛びのく様にその場から脱出を試みた。外に出て能力を解除すれば、蛇の様にのたうつ根たちが鼠一匹すら通さない頑強な牢獄を編み上げて。

 

 ――息つく暇もなく、次手の襲撃が訪れた。

 

 狙撃だった。まるで梟が鼠を攫い取るように、音の無い光弾が輝夜の手元を撃ち抜いて、白楼剣を弾き飛ばしたのである。

 空転する迷い断つ刃は、地面から現れた根に奪い取られ遥か高みへと持ち上げられていく。

 満を持して轟くのは、悪魔に乗っ取られた少女の声で。

 

「惜しかったな輝夜姫。あと一手早ければ、その剣で私を仕留める事が出来ただろうに」

「スカーレット!」

 

 西行妖の大元、樹冠の一部にその姿はあった。生殺の波動を絶えることなく放ち続ける大桜の枝へ腰かけるように、スカーレット卿が姿を現したのである。

 手繰り寄せた剣を眺めながら、クックッと屍を奪った悪魔は嗤う。

 

「白楼剣が無ければこの体から安全に魂を引き剥がすのにそれなりの時間を要するだろう? 時間稼ぎという意味ではこれ以上に無い戦果と言えよう。つまりこの勝負は私の勝ちという訳だな。楽園の女ども」

「――――いいえ」

 

 断言が、スカーレット卿の勝利宣言をいとも容易く切り伏せた。

 唯一の手段を奪い取られ、西行妖を治める方法を潰されたにも関わらず、不敵に笑う蓬莱山輝夜。その異様さに、スカーレット卿も思わず眉をひそめた。

 輝夜は人差し指で射貫くように、スカーレット卿へ切っ先を突きつけ、言い放つ。

 

「私たちの勝ちよ、呪われた怨霊さん」

 

 一陣の風があった。

 疾風、あるいは鎌鼬。そう表現せざるをえない敏捷な物体が、瞬きをする暇もなく石畳の庭を駆け抜けてくる。

 小さな足跡を刻みながら躍進するそれは、瞬発的に展開された紫のスキマに呑み込まれると、瞳で像を捉える事すらさせずに姿を消して。

 

「何だ――いや、このままでは不味い!?」

 

 直感がスカーレット卿の背を押したのだろう。慢心と共に眺めていた白楼剣を根を操作して取り込みながら、尻に帆をかける様に枝を蹴って背後へ跳んだ。

 だが、逃走経路は賢者の計らいにより封じられる。

 

「これは……! 八雲紫、貴様の結界か!!」

 

 ギチギチと四肢を固める障害があった。紫の光を帯びた真四角の結界が関節の役割を封じるように腕や足を覆い尽くし、さながら拘束具の如く動きを縫い留めたのである。

 

「笑わせるなよスキマ妖怪! 万全の貴様ならいざ知らず、死に掛けの蚊トンボ程度にまで落ちたその力で私を御せるとでも――な、に……!?」

 

 そう。西行妖の魔の手が幻想郷に及ばぬよう余力を割いている今の紫に、大魔法をも駆使するスカーレット卿を止める術は無い。せいぜい足を躓かせられるかどうかである。

 けれど、この場に集った猛者は八雲紫だけではないとスカーレット卿は忘れていた。

 永遠の魔法を授け、万物万象へ不変を与える姫君が、ここに居る。

 

 蓬莱山輝夜がスカーレット卿に掛かった結界へ永劫の不壊をもたらした。何人(なんびと)たりとも破壊する事の叶わない永遠の枷は完全に悪魔を縛り上げ、()()()へと作り変える。

 

 ――スキマが開き、それは姿を現した。

 

 銀に煌めく髪が靡き、月夜を撫でる長刀が無音の下に招来する。

 妖怪が鍛え上げた大業物、楼観剣を握り締め、魂魄妖夢は白楼剣を取り込んでいた根の先端を斬り飛ばすように一閃した。

 樹液と共に剥がされた短刀が空を舞う。妖夢は鷹の如く柄を掴み取ると、そのまま体を捩じり独楽の様に回転し。

 

 渾身の力で、主の骸を辱めた外道へ刃を放つ。

 

「魂魄、妖夢ッ――!!」

「はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 電光石火の一振りは、鮮やかな軌道を描きながら奥底に巣食う魂へ、その凶刃を馳走する。

 だが白楼剣は肉を断ち切る刃に非ず。その真髄は、迷える魂へ安らぎを与える極楽への渡し船にある。

 

 光の津波があった。あまりの眩さに思わず目を庇う程の熾烈な光が、冥土中へと広がったのだ。

 それは浄土への架け橋が穢れた魂たちに繋がれた、救いの輝きだったのかもしれない。

 

 

 光が止み、重力がその場を支配する。

 もぬけの殻となった幽々子の肉体と、何故か妖夢も一緒になって落っこちていた。

 

『藤原妹紅!』

「はいよっと!」

 

 スキマからすらりと手が伸びる。白磁質な手袋で覆われた細指の間には、一枚の札が挟まれていた。どうやら西行妖へ肉体を返還する呪符らしく、炎の翼を纏って飛翔する紅は札を受け取ると、落ち行く妖夢を受け止めながら幽々子の体へ貼りつけた。

 何かを念じる声が聞こえる。紫が本格的に術を組み上げたらしく、札を張られた幽々子の遺体が淡い光を纏いながら西行妖へ吸い込まれるように姿を消した。

 

 派手な爆発の様な現象が起こった。樹冠を飾り付けていた莫大な量の花弁たちが一斉に弾け飛んで、さながらブリザードと見紛うばかりの花吹雪と化したのである。

 淡い桃色、濃い紅色。千態万丈の桜花が舞い踊り、この世のものとは思えない――いいや、正しくこの世のものではない絶景が、白玉楼を彩った。

 あれほど熱烈だった死の薫りも、名残り雪のように溶け消えていく。

 

「妖夢ちゃん大丈夫か、――ッ!?」

 

 落ち行く妖夢を受け止めて、妹紅が容体を伺おうとしたその時だった。

 妖夢の物ではない邪悪な瞳が、妹紅の目をぎょろりと睨みつけたのだ。

 悟る。あの瞬間、解脱の津波が一面へ降りかかった時。悪魔は辛うじて難を逃れ、幽々子の肉体から魂魄妖夢の体の中へ乗り移っていたのだと。

 

 抱えていた手を咄嗟に離す。落ち行くのみだった妖夢の体は手際よく体勢を整え、華麗に着地を成し遂げた。

 

「あいつ……まだ!」

 

 妹紅と妖夢の異変に気付き、輝夜も戦闘態勢へ突入する。心を引き絞る恐怖を超え、勇気を振り絞って主の仇を屠った少女と敵対しまう現実に、輝夜は思わず歯噛みした。

 しかし。

 どこか、悪魔の様子がおかしいような。

 

「うぐ……ぐ、うう……! うあああああ……っ!」

 

 頭を押さえ、髪を振り乱し、ナニカを追い出そうとしているかのように暴れている。地に膝をつき、服が土で汚れようが気にも留めず、魂魄妖夢はのたうち回った。

 

「妖夢、さん……?」

「は、早く……! 早く、白楼剣で私を斬って、ください! おねが、おねがいっ、う、あ、あああっ……!?」

 

 妖夢の自我は残っていた。恐らくスカーレット卿は無事に乗り移れたわけでは無いのだろう。白楼剣からは逃れても浄滅の焔に焼かれたのか、万全ではないがために妖夢を完全に乗っ取ることが出来なかったのだ。

 今、妖夢は必死に戦っている。頭の中に潜り込んだ悪霊に囚われ、主人へ刃を向けてしまわぬように。

 

「早く、早く! 私が乗っ取られる、前に、お願い、斬ってっ!!」

 

 乗っ取られる直前に妖夢が遠くへ手放したのか、離れた箇所に二つの剣が転がっていた。白楼剣と楼観剣、魂魄妖夢が常に携える愛刀である。

 須臾の間に剣を回収する。すかさず抜刀、白楼剣の切っ先を向けた。

 だが斬れない。斬れる訳が無い。だって魂魄妖夢は生きている。死者の体を乗っ取った悪霊じゃない。その身の半分が霊体でも、妖夢はれっきとした生者なのだ。

 白楼剣に生者と死者を分別する機能は無い。振るえば最後、スカーレット卿と共に諸共成仏してしまうことだろう。

 それは、明確過ぎる死を意味している。

 

(どうする……どうする……考えろ、考えろ輝夜! 時間を弄るだけの小娘で終わるつもりなの!?)

 

 葛藤が手汗を滲ませる。妖夢の悲鳴が焦りを仰ぐ。須臾の間に入り込もうが、永遠の時を被せようが、根本的解決にはなりはしない。先の難題と同じように、今度は妖夢を傷付ける事無く、悪霊だけを退治しなくてはならないのだから。

 

 だがそんな手が一体どこにある? 紫の力は結界の排除で弾切れだ。他の地区にも力を割かなければならない現状でこれ以上酷使することは出来ない。輝夜にも、妹紅にも、魂を分離させる技能は無い。かといって白楼剣を振るえば最後、魂魄妖夢は消滅する。

 それに時間だって無い。スカーレット卿の魂は宿主の自我が潜んでいればその狂気の影響から逃れられるが、妖夢の様に共存し、どころか寄生の触手を伸ばされている状態では、精神汚染がダイレクトに彼女を苛ませてしまうのだ。時間をかければかけるほど濃厚過ぎる怨念によって心の底まで食い潰され、発狂する結末も十二分に考えられる。

 

 ならば永遠を被せ、凍結する他に道は無い。事件がすべて解決した後に、永琳か紫の手を借りるしか、彼女を助ける方法は無いのだ。

 剣を下ろし、手をかざす。時の歯車を外したベールを、妖夢へ被せようと照準を定めていく。

 

 

「お待ちになって、蓬莱のお姫様」

 

 

 しかし、それを遮る声があった。

 幽雅で、優美で、凛と張りつつも小川のせせらぎのように穏やかな、耳を撫でれば自然と安らぎを賜る女性の声。ふわふわした綿毛のイメージを想起させながらも、氷柱の様な鋭さも帯びた一言が、輝夜の横をすり抜ける様に駆けていった。

 

「剣、ちょっと借りるわね」

 

 気付けば、回収した楼観剣が姿を消していた。

 妖怪の鍛え上げた幽世の名刀を手に輝夜の代わりとして立ったのは、先ほどまで鎬を削り合っていた少女の後ろ姿で。

 

 亡霊を統べる冥土の管理者にして、白玉楼の女主人。西行寺幽々子がそこにいた。

 

「復讐に囚われてしまった哀れな悪霊さん。善き者たちへ安息を与えるこの冥界に、あなたの居場所はありません」

 

 舞い散る桜の花びらと共に、しんしんと、幽々子は庭を歩いていく。鈴の音が聞こえてきそうな程に華やかな闊歩は、その場の全員の目を奪い去った。

 剣を構えず、亡霊の姫はくるりと虚空に指を這わせる。何かをこちらへ誘う様なその仕草は、直ぐに答えを齎した。

 

 スカーレット卿のどす黒い怨念が、妖夢の体からべリベリと引き剥がされ始めたのである。

 

 西行寺幽々子の持つ、『死を操る程度の能力』。この力は文字通り死を操り、生者を幽世へ引きずり込む――だけの能力ではない。死した者たち、特に幽々子の手によって死を与えられた者を操る技能も含んでいる。

 本来、スカーレット卿は幽々子の管轄下には置かれない。数多の妖怪や西行妖とリンクしても自我を潰されない凶悪な『個』を持つのもさることながら、幽々子の力によって葬られてもいないからだ。二つの要素が混ぜ合わさり、例え幽々子の力であっても、スカーレット卿を自在に操作することは難しい。

 

 だが、スカーレット卿は西行寺幽々子に()()()()()()近づく者を死へ誘い、それを憂いて命を絶ったかつての少女と馴染み過ぎてしまったのだ。

 結果、スカーレット卿は幽々子の手中へと収まり、容易く妖夢から剥離されるに至ったのである。

 

「私の従者が世話になったわね」 

 

 音も立てず、残像すら悟らせず。幽々子は剣を構えていた。

 あまりに軽やかで、あまりに玲瓏な少女の動きは、一流の武芸に勝るとも劣らない。

 もしかすると、スカーレット卿も見惚れていたのかもしれない。そう疑わざるを得ないほど、幽々子の仕草は極限にまで研ぎ澄まされていた。

 だって。間近にまで幽々子の接近を許しながら、スカーレット卿は声の一つも上げることすら出来なかったのだから。

 

「去りなさい。生でも死でもない、境界線の向こう側へ」

 

 儚く、そしてどこか妖艶に。

 西行寺幽々子は、落花の一太刀を振舞った。

 

 

 今度こそ、白玉楼に染みついた悪魔の妄執は終わりを告げた。楼観剣は魂魄を両断し、どこともつかない無の空間へ穢れた魂を誘ったのだ。

 亡霊姫は桜と共に地へ着いて、いそいそと妖夢の鞘へ刀を返すと、綿毛のような微笑みを浮かべて輝夜と妹紅に一礼する。

 

「二人とも、駆けつけてくれてありがとう。お陰で誰も犠牲になることなく、白玉楼に平和が戻りました。西行寺幽々子と冥界の名の下に、改めてお礼を申し上げます」

「御礼なんていらないわ。私たちがやりたくてやった事だから」

 

 面と向かって感謝される事になれてないのか、どこかむず痒そうに頬を掻きながら謙遜する妹紅。

 輝夜も安堵と共に頬を緩めながら、幽々子の両手を手に取って。

 

「無事で良かったわ幽々子さん。最初に見たときは本当どうしようかと」

「心配してくれてありがとう。この通りもう大丈夫よ。ちょっとお腹が空いてきたくらい」

『幽々子らしいわね。しかしあなた、その口振りからすると意識はあったんじゃない?』

「うん。全部見えてたし、聞こえてたわ。朧気だったけれどね」

 

 どうやら存在の希薄化を迎えていたことで力を奪われ、身動きのとれない状態だったのは確かな様だが、五感は健在だったらしい。心停止した者でも暫くは耳が聞こえている、という類に近いのかもしれない。

 けれど、それでは説明のつかないところが一つだけ。

 

「ところで幽々子さん。どうしてあなたは動けたの? 私、まだあなたに掛けた永遠を解いていなかったのだけれど」

 

 輝夜が疑問を持ったのは、幽々子の魂が肉体へ還って消滅しないよう輝夜が施した永遠の魔法である。

 輝夜の永遠には幾つかのレベルがあるが、幽々子に掛けた魔法は時間停止に等しい所業だった。物事は始まらず、終点も迎えない、まさしく永久の不動化である。正しい時間の流れから切り離された幽々子が、自分の意志だけで戻ってくるとは到底考えられなかった。

 訊ねられた幽々子は一瞬きょとんとしながら、『あぁ』とクスクス笑いを零し、

 

「懐かしい庭師さんが来ていたみたいなの。どうやら、私を包んでいた時間の揺り籠を斬って行ったみたいで」

「……? 永遠を、斬った?」

「シャイな人よねぇ、まったく。心配なら顔くらい見せていけばいいのに」

 

 いまいち要領を得ない回答のせいで、輝夜はクエスチョンマークを増やす結果となってしまった。内容から察するに他にも誰か来ていたようだが、はて、懐かしい庭師とは一体誰を指す言葉なのだろうか。

 

「……本当に、心配かけちゃったわね」

 

 妹紅に抱かれる妖夢の顔を覗きながら、憂いを帯びた表情を湛える幽々子。どこか申し訳なさそうで、でも微かに嬉しそうで、なにやら色々な感情が混ざり合った面持ちだった。

 愛しむように、幽々子は銀月の髪を優しく撫でながら、

 

「ちょっぴり臆病で、まだまだ頼りない所もあるけれど……あなたは私の誇りよ。お疲れ様、妖夢」

『あらあら。寝てる時じゃなくて起きてる時に言ってあげれば良いのに。妖夢ちゃん喜ぶわよー』

「駄目よぅ。この子、私に仕える資格なんて無いーだなんて勝手にベソ掻いちゃったんだもの。終わり良ければ総て良しとは言うけれど、ちょっとカチンと来たから少しだけ意地悪しちゃうわ。褒めてあげるのはその後ね」

『ほどほどにしておきなさい。泣いちゃうからね』

「何もしなくても、起きたら泣きそうだけどねぇ」

 

 目を覚ました妖夢はまず、幽々子の安否を知って鼻水と涙で顔を滅茶苦茶にしながら主人に向かって飛びかかるだろう。わんわん泣きながら幽々子に宥められて、そして泣き疲れてまた眠るのだ。

 そこまで容易に想像出来て、紫と幽々子は穏やかに笑いあった。老婆心とまでは言わないが、子供はいつまで経っても可愛らしいものである。

 

「……そう言えば、あなたって剣使えたのね。妖夢ちゃんが剣術指南役らしいし、全然剣を振るイメージじゃないからヘタッピと思ってたわ」

「ふふ。代々続く指南役から長~いこと習い続けてたら、嫌でも上達するものよ」

「? じゃあ何で妖夢ちゃんに教えてあげないの? 悪気があって言う訳じゃないけど、あの体捌きは間違いなく妖夢ちゃんより技法を修めてるでしょうに」

「そんなの決まってるわ」

 

 幽々子は人差し指を唇に当てながら、『でも秘密ね?』と付け足して、

 

「子の成長を、より身近に感じることが出来るからよ」

 

 舞い踊る桜にも劣らない微笑みと共に、爛漫な亡霊姫は悪戯っ子のように囁いた。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告