「この地に住まう少女たちの力を、お前は見誤ったのだ」
「……!!」
弾ける鎧。砕け散る呪いの欠片。月明かりと粉雪の入り混じる残酷なまでに煌びやかな光景は、スカーレット卿の喉を干からびさせた。
スカーレット卿の魂に、鎧の基点を任せていた分身たちの最期がリアルタイムで体験したかのように伝わってくる。
いいや、魂魄同士がリンクしている卿は、タイムラグこそあれ確実に
一刀のもとに魂魄を切り捨てられた感触や、一切合切を叩き潰される鬼の奥義の衝撃も、紛れも無く卿自身の死に他ならない。玉の汗を無尽蔵に浮かび上がらせるには十分すぎる結末だ。
それも主要な魂だけではない。有象無象に取り付かせた魂たちも次々に消滅を迎えていた。
永遠亭の薬師が怨霊を摘出し、花畑の大妖怪が鎮圧させ、妖怪の山と守矢の神々による浄化が進み、更には騒ぎに乗じて暴れまわっている天人や妖精一派までもが悉く配下を無力化させている。
時間稼ぎの為に配置した駒の全てが、尋常ならざる速さで解体されつつあった。
統率を見た。ただ闇雲に対処しているのではない、明らかな頭脳の活躍を見た。
語るまでも無く、ブレインの正体は分かっている。たった数分足らずで魑魅魍魎を百鬼夜行に纏め上げ、それら全てを把握しながら適切な処置を下し続ける叡智の化身は、八雲紫以外にあり得ない。
(あの女郎どもめ……! まさか、これ程とは!)
体が震える。真の恐怖の顕現と、連続する消滅のヴィジョンに、どうしようもなく震えあがってしまう。
見誤っていたと認めざるを得なかった。目的である『時間稼ぎ』と『一部大妖怪の無力化』は成功したものの、ここまで早く活路を開かれるとは思っていなかったのだ。
妖怪は群より個を重んじる。独立した社会を築き上げた山の妖怪は例外中の例外と言っていい。縁も所縁も無い妖怪同士が手を取り合うこと自体が非常に稀なのだ。
それを織り込んでいたからこそ、スカーレット卿はナハトと紫の前に姿を現す暴挙に出られた。仮にその決定的場面を露呈されたとしても、まさか大妖怪同士が結託するなんて夢にも思っていなかったのだから。
「さて」
魔性の声が染み渡る。
太古より遺伝子の奥深くに隠れ潜み、忌避され続けてきた概念の具現体が、木枯らしすら凍り付かせる眼差しを卿へと向ける。
臓腑を直接掴まれる錯覚が、無慈悲に体内を侵害した。
「敢えて、敢えて最後に一つ聞いておこう。スカーレットよ、
「――――ハッ」
四年前からちっとも変わらんな、と卿は胸の中で吐き捨てた。
この男はいつもそうだ。どれだけ悲惨な目に遭わされようが、裏切られようが、大切な存在を傷つけられようが、必ず和解の道を提示してくる。例えそれが、ナハトにとっても怨敵であるスカーレット卿であろうとも変わらない。
吐き気がするほどの博愛と慈善の心。それが無ければ、こんな甘ったれた言葉が出て来る筈が無いだろう。どこまでも歪な吸血鬼だと、改めて評さざるを得なかった。
しかし、しかしだ。
例え己の劣勢を覆す事の叶わぬ地にまで堕ちようとも。万に一つも生き延びる道筋が無くなろうとも。
怨讐に溺れ、狂気と恐怖に呑まれた鮮紅の悪魔は、宿敵に屈する事など決してない。
「まだ粗末な希望に縋るか? まだ私に情状酌量の余地があると宣うか? 無論ノーだ。私の半身たちは敗北したが、しかし当初の目標は既に達成されている。やっと、やっと貴様をこの最高の舞台で嬲り殺せる時がやって来たのだ。ここまで来るのに一体どれほどの代償を払ってきたと思う? 引き返すなぞ、万に一つもあり得んよ」
「そうか。それは良かった」
瞼を閉じた吸血鬼は、どこか安堵したようにそう告げた。
まるで、スカーレット卿が降参しなくて良かったとでも語るかのように。
「実を言うとな。お前に白旗を上げて欲しくなかったのだ。許してくれ、私が悪かったなどと、贖罪の言葉を口にして欲しく無かったのだ。それこそ、柄にもなく神頼みをしてしまいそうになる程に。だから……その言葉が聞けて、とても安心した」
――この男、四年前と何かが違う。
薄目を開けたナハトの顔貌に、スカーレット卿は戦慄した。
紫の瞳に怒りがあった。四年前の夜と同じ、いいやそれ以上の、燃え尽きる事の無い絶対的な憤怒があった。
灼熱地獄がぬるま湯にすら思える、物質化さえ果たしそうな絶対の怒り。それは禍々しい瘴気となって大気を掻き混ぜ歪みを生み出すと、局所的な豪風を産み落とした。
風の中央に君臨する吸血鬼は、激情と反して静かに語り結んでいく。
「この齢にもなって子供の癇癪のような真似など、恥ずべきとは自覚している。だが今の私はな、スカーレット卿。この怒りを晴らすためにお前を葬れるんだと、一抹の安堵を覚えたんだ。これでお前を許さなくて済むのだと、恥と知りながらも安心したんだよ」
言の葉は魔の結晶だった。耳から脳髄へ捩じり込み、体中の神経をズタズタに引き千切らんばかりの恐怖を植える邪悪な脅威だった。
闇夜の恐怖は衰えず、スカーレット卿の体躯を侵食し、乗っ取らんばかりに纏わりつく。血肉と屍で出来た龍が牙を剥き、大口を開けて息を吹きかけてくるような幻覚を覚える。
本能が叫ぶ。魂が泣き喚き、この災いから早く逃げろと全力で訴えかけてくる。
だが動かない。体の支配権を悉く破壊され、ただ震えるだけの壊れた人形になってしまう。
それでもなお、悪魔は嗤った。
聖誕祭の贈り物を前にして喜ぶ稚児の様に、満面の笑顔を張り付けた。
「はっ。ははは、ハハハハハハハハハッ!! そうか、お前もやっと
四年前のような誅罰執行の代理人と化した時とはまるで違う。今のナハトは純粋な怒りに焼き焦がされ、烈火の感情に従うまま殺意を振るう吸血鬼だ。親愛なる者達を傷つけた悪逆の徒を全霊をもって撃滅する、ただそれだけの執念に囚われた真正の怪物だ。
ぐちゃりと、スカーレット卿のナニカが拗れていく音がした。
歓喜。悪夢を目前に卿が抱いたそれは、絶望による歓喜だった。
最果てに至るまで歪んだ憎悪は、一途に紡がれる永劫の愛と変わらない。かつて己を虫けらの様に屠った最強の吸血鬼が自分を殺す為に憤怒の感情へ囚われたと知って、卿は悦楽を感じずにはいられなかったのだ。
それを心底侮蔑するように、闇夜の支配者は雪雲と共に外道を見下ろす。
「映姫からは身の程を弁えろと窘められたものだが、やはり貴様の悪行を見過ごすことは出来ん。もはや審判は必要なし。ここが野望の果てと知るがいい、スカーレット」
「……フン。まるで自分が正義の味方とでも言わんばかりの口振りよな」
忌々しさをふんだんに含んだ顔色で、スカーレット卿は唾を吐き捨てるように言い放った。
角柱状の制御棒を突きつけながら獰猛に牙を剥き、男を糾弾する。
「
言葉には今までとは違う色があった。憎しみとも、狂気とも違う。どうしようもないやるせなさを孕む様な、そんな褪せた言霊だ。
最も近いのは憤り。鈍い怒りが悔しさと混ぜ合わさり、段々と波立ってゆく気持ちに歯止めがきかなくて、それを吐き出す事で鎮めようとしているかの様な声だった。
「殺めた者の数を言っているのではない。そも、貴様は殺生など殆どしなかったからな。私が言っているのは、その身から滲み出る魔性のカリスマ、恐怖の覇気で、一体どれほどの者たちを狂わせてきたか考えた事があるのかという、細やかな疑問だよ」
「……」
「公平な閻魔の事だ、きっとこう言ったのではないか? 『自分の行動に自覚を持て』などと。……その顔、当たっているな。ああそうだろうさ。閻魔がお前に投げる言葉はそれ以外にあり得んだろうさ。無自覚に人を
声圧で大気が揺れ動いた。
ビリビリと音の波が皮膚を打つ。けれどナハトは微動だにしなかった。
「ある者は貴様を見てあまりの絶大さに心を折られた。ある者は貴様を見て一生消えぬトラウマを刻み込まれた。ある者は貴様を見て絶望し、己の存在意義の全てを失った」
「…………」
「分かるか? ナハト。貴様が素知らぬ顔で歩み続けた旅路のすみではな、お前のせいで生を狂わされた者が大勢蹲っているのだよ。貴様が気紛れに語りかけた者も、貴様が何気なく過ぎ去った道で偶然いあわせた者も、貴様が狂わせた者が養う家族でさえも! 全て犠牲になったんだ! この私のように!!」
腕を思い切り振り払いながら、スカーレット卿は絶叫した。泣き喚く子供の様に、ただ感情を叩きつける事に没頭した。
「このスカーレット、善悪でいえば迷わず悪道の果てに堕ちていると宣える自信がある。私はどうしようもない屑だ。真正の悪だ。だがそれで苦悩した事は一度も無い。何故なら私は生まれついての邪悪だからだ。……だが、そんな私であっても、貴様は悪にしか見えないよ」
腕を下ろし、手のひらに爪が食い込むほど固く握りしめながら、スカーレット卿は振り絞るように言い放つ。
涙の無い、悪魔の慟哭がそこにあった。
「私が邪悪であるならば、貴様は紛れも無く原罪だ。全てを狂わせた諸悪の根源だ。自覚無き害を振りまき、ただそこにあるだけで負の要因となる悪性新生物。それが貴様なのだ。……なにが消滅の概念だ、なにが友人探しだ! 貴様の様な
――スカーレット卿の言い分は、ナハトには決して無下にする事の叶わない告白だった。
卿の解釈は正しい。ナハトは正しく諸悪の根源だ。本来生まれる事の無かったイレギュラーであり、だからこそ、この世界に不要な波紋を生み続けた。
まるで無尽蔵に増殖し、正常な組織を侵す癌細胞のように、ただ在るだけで悪と呼べる存在なのだ。
見方によっては、スカーレット卿も一人の犠牲者なのだろう。彼だけではない。ナハトという元凶が居なければ、フランドールが実父に利用され紅魔館との間に溝を生む事も、小悪魔やこいし、他にもたくさんの人々が利用される事も無かった。多くの者達に不幸が訪れる事は無かったのだ。
どうしようもなく、この吸血鬼は毒蝶だった。羽ばたきは波濤を生み、鱗粉は万物を害し、果ての未来にまで悪影響を及ぼしてしまう負のバタフライエフェクト。その根源的存在こそが、吸血鬼ナハトという男の本質なのだ。
「……それを否定はせんよ、スカーレット卿。私は決して善たる存在ではない。私もまた、お前とは違った性根からの悪なのだろう」
八雲紫から素性を耳にした時、ナハトは一番にそれを理解した。これまで先天性の病だと思っていた瘴気は病魔ではなく、むしろ真なる病魔とは、己自身を指す言葉であったのだと。
「だが」
それでも。例えこの身がどうしようもない巨悪であったとしても。歩んできた道筋の中で、多くの不幸を生んでしまっていたとしても。
ナハトにそれを悔いる事など許されない。それは狂わせてしまった者達への最大の冒涜に他ならないからだ。それは今まで己を支えてくれた者たちに対する最悪の裏切りに他ならないからだ。
「その嘆きが、お前の非道を帳消しにする理由とはならん」
生者は大なり小なり必ず犠牲を生み出している。しかし犠牲全てに懺悔しながら生を歩むものがいるとすれば、それは聖人の皮を被った狂人だけだ。全生命を救済すると宣う世迷い言の極地と変わらない。
かつてナハトは教わった。際限なき博愛を持てば平凡な人間であっても友達になれると妄信していたナハトに、切り捨てる事や嫌われる事も必要で、受け止めなければならない試練だと、
「ここに住まう者達を見てきたお前ならば分かるだろう。卿よ、私を前にして心を壊した者がこの地にいたか? 生の道筋を狂わされた者がいたか? 狂気に駆られ、自暴自棄に陥って、やたらめたらに暴れ回った者が本当にいたのか?」
「――――」
「いいや、居ない。ただの一人たりともだ。一度は挫けたとしても、皆一様に立ち上がった。それは彼女たちが勇敢だったからだ。誰しもが持ちうる
だから、吸血鬼ナハトはサー・スカーレットを肯定しない。
「悲劇を騙る屍よ。ただ一度の挫折で王道からも覇道からも逃げ出したお前の言い分は、そんな我が友らへの侮辱と変わらぬ」
理解は出来る。『消滅の概念』などという途方もない理不尽が世に生まれたせいで被害を被ってしまったならば、本当に淘汰されるべきはナハトの方なのだろう。
けれど、それを理由に第三者を災厄の渦へ巻き込むことは許される事ではない。
逃げても良い。挫けても良い。立ち止まっても良い。泣いても喚いても、どうしようもないからとその場に座り込んだって、糾弾される謂れは決してない。
ただし、己が不幸になったんだから人へ不幸を強いて良いなどと癇癪を起こし、ましてや自分そのものが第二の災禍に変貌してそれを正当化するなど、童の我儘より稚拙で下等な傲りである。
なによりそれは、災いを逞しく跳ね除け王道を歩み続ける者たちに対しての、最高にして最低の凌辱に他ならない。
スカーレットが心を折ってしまった時、その敗北と屈辱をバネに正しく奮闘したならば、ナハトなんて足元にも及ばない至高の吸血鬼としてこの世に君臨したはずなのだ。あらゆる化生から本当の羨望を向けられ、レミリアやフランドールから一生の誇りだと胸に刻み込まれるような、偉大な父として在れたのだ。
そんな素敵な未来を蹴ったのは。全てを捨てて邪道を歩む事を選んだのは。
紛れも無く、スカーレット卿自身なのだ。
故に。
吸血鬼は強く、強く、穿つように言葉を放つ。
お前はどうしてそんな道を選んでしまったのだと、どうして私を
行き場の無い悲哀と怒り、自責の念を滲ませながら。
「その魂が泥の中を這い蹲っているのはお前の弱さが原因だ。斯くの如き方便、ただの八つ当たりに過ぎんと知れ」
「――――知っているさ、そんな事ッ!!」
ナハトの言葉を払いのける様に、スカーレット卿は怒号を放った。顔中に血管を浮き上がらせ、口元を激しく歪めながら、唾で口元が濡れるなど構わず叫喚した。
「そうだとも、ああそうだとも! これは私の盛大な八つ当たりだ! 最強の吸血鬼と謳われ、偉大な道を歩むはずだった私がポッと出の分際に屈して心を折られた、かつての恥辱を雪ぎ落とすためだけの雪辱戦だ! そうしなければ――このスカーレットの魂はッ! 五百年前の狂気から解放されないからだ! 脆弱で、惨めで、不甲斐ない私から、決別を果たすことが出来ないからだ!」
喚き、叫び、怨念の権化は胸へ爪を立てて引き裂く様に豪語した。
これは止まってしまった己の時計を進めるための戦いだと。自己満足を得るため以外の何物でもない、唯我独尊の死闘だと。傲慢の下に宣言したのだ。
「だから!! 貴様だけはこの手で殺さなくてはならないッ!! 我が魂を永劫縛り付ける
「……それがお前の本心か」
安心を与える力を持ちながら、安心を得ることが出来なかった男。
彼はその渇きを満たすために、ただそれだけの為に、人々へ不幸を植え付ける事を選択した。
エゴの極地。そう称する他に、この妖怪を裁定する言葉は無い。
「たったそれだけの
拳を握り、ナハトは怒りの火力を跳ね上げていく。
瘴気が、ジェットの如く噴出した。
「ああ、ああ、ああ!! 私の中身はそれだけだ! 闇夜の支配者を虐殺し、呪われてしまった我が魂へ平穏を取り戻す、ただそれだけの執念だ! そいつを成し遂げるためなら何だって利用し尽くしてやるさ! 何だって食い物にしてやるさ! それ以外の雑事など、知ったことではないわァッ!!」
「……ならば、もういい。十分だ」
どう足掻いても相容れないモノがそこにある。どう踠いても埋められない溝がある。
然らば、進むべき道は一つだけ。
絡み合ってしまった宿命、全ての因果をここで断つ。
それ以外に、五百年も続いた忌まわしい夜を終わらせる方法は存在しない。
「終わりにしよう。スカーレット」
「終わりをやろう。吸血鬼ナハト」
魔王と悪魔が対立する。一触即発の気を纏う双方へ近づく者は、炉心溶融の如く溶かし尽くされる事だろう。
スカーレット卿は白い歯を剥き大いに笑った。
ナハトはただ、冷厳に外道を見据えるのみで。
――互いの手元に、眩い輝きが発現した。
超常の力は形を持って刃と成す。
片や光を飲み込む闇夜の魔剣。片や闇を討ち滅ぼす日輪の聖剣。
相反する二つの剣は、振るわれずして磁石の様に拮抗した。力の板挟みに遭った大気が捻り潰され、鎌鼬に匹敵する疾風が巻き起こる。
天蓋の月へ叛逆するが如く、悪魔は左腕を掲げ、紅蓮に燃ゆる剣を高く、高く突き上げた。
吼える。執念の憎悪、弛まぬ狂気を迸らせながら。
「焼き付けるがいい、無窮たる日輪の輝きを! ――そして去ね! 我が運命の宿敵よ!!」
◆
「最後の慈悲だ」
黒の気体が蛇の様に絡みつく、魔を凝縮した刃が唸る。軌跡を描きながら空を撫で、切っ先は悪魔の眉間を指し示した。
「首を差し出せ。無用な苦痛を与えることなく、全てを終わらせてやる」
「ハッ。自分の首なぞ、五百年前にどこぞの道端へ捨て去ったわ」
決別は炎の剣が代弁した。万象を焼き焦がす焔が猛り、迅速の一刀と共に吸血鬼へ振るわれる。
ギィンッ!! と金属同士の打ち合いを彷彿させる大音響が耳を貫き、暗黒の粒子と灼熱の火の粉が舞い踊った。剣戟は一度で止まず、二手、三手、四手と、速度と威力を増しながら鎬を削る。
片側が隙を潰すように切りかかればそれを弾かれ、反撃するように突けば身を捩って躱す。重力やフィールドの縛りは無く、三百六十度全ての空間が死闘の為に利用され、縦横無尽の攻防が繰り返される。
「ッはははははははッ!! ああああこれだこれだよこれなんだよナァァハトォォォッ!! 私がずっと求め続けたもの、渇望に渇望を重ねた真の馳走がここに
「下らぬ享楽に興味は無い。付き合うつもりも毛頭ない」
瞬間、十四の剣がナハトの背から花開く様に顕現した。一つ一つが意志を持つ使い魔の如く自由自在に宙を舞い、一切の法則性を持たずスカーレット卿へ突撃する。
一射目を避け、二射目をいなし、卿は歯を剥き嘲った。
そこに諦念の余地は無く、あるのは溢れ出て止まない歓喜と憎悪のみ。
「何度も同じ手が通用すると思ったか愚か者がッ!!」
腕をクロスさせ、咆哮と共に解き放つ。爆発を凌駕する現象が起こった。スカーレット卿を中心に強大な日輪のエネルギーが全方向に放たれたかと思えば、フレアに触れた魔剣が欠片も残さず破砕し、消し炭へと変わり果ててしまったのである。
ナハトは握る刃を振るい、迫る太陽フレアを斬り払った。闇が光を削り取るように呑み込み、太陽の及ばぬ隙間が生まれる。
間髪入れずナハトは空気を蹴って突進する。魔剣グラムを限界まで振りかぶり、全力を込めて叩き斬った。
しかし、陽炎の様なバリアを貼りつけた制御棒に刃を阻まれ、豪快な低周波と共に弾かれてしまう。
「成程。やはり貴様の黒剣は自在であるが、体から離せば離すほど魔力の供給は追いつかずに脆くなるな? 反面、直接振るえば無敵の武具となる訳だ。八咫烏のアドバンテージが無ければ、今の一振りで勝負は決しておったかもしれぬな」
「ぬかせ。防げる確信があったからこそ接近を許したのだろう」
「駈け引きは戦の華だ。特に、貴様との闘いではなッ!!」
すかさず、卿は攻撃に打って出た。光を圧縮し、必殺の一撃を放たんと手を添える。
しかしナハトの思考は、既に次の段階へ移り替わっていた。弾かれた体を更に捻じ曲げ独楽のように回転すると、剣の持ち手を組み替えて、斬り上げるように刃を煽る。
卿は迅雷の如く迫る凶器を間一髪でのけ反って躱し、バク転をする様に距離を開けた。虚空を蹴り飛ばし何度も体を跳ね上げながら、鮮紅の悪魔は太陽弾を吸血鬼へ一斉掃射していく。
右も左も、上や下さえもが無限の弾丸に埋め尽くされた。一貫性の無い滅茶苦茶な射撃は外れているのではない。外しているのだ。逃げ場を掃射で潰すことで、
迫る凶弾。その数、計測不能。
良い。問題ない。吸血鬼の動体視力ならば軌道は容易く捕捉できる。
剣を振るった。舞い踊るように、鞭打つように剣を振るった。
大気を割り、音を砕き、衝撃波さえ放たんばかりの圧倒的な連打は、一つたりとも打ち損じる事無く光を砕き、力技で活路を導き出した。
けれど開けた視界の先に、スカーレット卿の姿は無く。
「!」
「気付くか! だが遅い、死ねいッ!!」
反射的に上を見れば、彼方から極大のエネルギー体を充填する偽者の八咫烏が目に映った。
空気の焦げる匂いと共に、視界が純白で塗り潰される。世界を焼き尽くさんばかりの光の柱は呼吸の暇すら与える事無く墜落し、ありったけの熱量を伴って吸血鬼めがけて降りかかった。
――その時、男に明瞭な変化が起こった。
絶大な炎熱が体を呑むまで、あと数秒も残されていない須臾の狭間。ナハトは、対抗手段である筈の黒剣をなにゆえか
彼の眼球は、一切の混じり無き純黒によって塗り潰されていた。
真珠の様な莢膜も無く、紫水晶の如き瞳も無い。まるで無間の闇が眼を象っているかの様な深淵がそこにあった。
光のみならず魂さえも吸い込んでしまいそうな、果ての無い黒。
それはかつて、萃香との決闘でも顕現した――――
「――――」
業火の柱がナハトと接触する刹那、それは起こった。
一瞬、ほんの一瞬だけ黒い煙が手のひらから噴出したかと思えば、息を吹かれた蝋燭の灯火の様に、八咫烏の炎が姿を消し去ったのである。
無音が世界を支配する。風の音さえ耳には届かず、無窮の静謐が両者の間を塗り潰した。
「な……ッ!?」
唖然。それ以外に、スカーレット卿が表現できるものは何も存在しなかった。
渾身の一撃だった。一切の手加減も慢心も無い必殺の一撃だったのだ。なのにそれが、火の粉の様に突然消えた。莫大なエネルギーに相殺されたわけでもなく、スキマの様な空間転移でどこかに放られた訳でもない。
ただ
そして。
見晴らしの良くなったその先には。
深淵孕む眼窩の中心に、青とも紫ともつかぬ光を宿らせた、悍ましい吸血鬼が立っていて。
瞬き。
「!?」
瞼を開けば、男はスカーレット卿の一寸先に君臨していた。
上下二対の牙の間から白煙の如き息を吐きだしながら、スカーレット卿の魂魄の欠片までも食らわんと大口を開ける怪物は。
四年前の最期に視た、かつての光景の再来で。
「――――うオああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!?」
瞬間、脊髄反射に従うまま、スカーレット卿はその場から全速力で離脱した。
決してナハトから目を離さず、上空へ、上空へ、幻想の檻を飛び越えんばかりに舞い上がる。
だが瞬きと共に『死』は迫る。
確実に、着実に。正体不明の黒を纏う怪物は、どこへ逃げようとも追ってくる。
灼熱を放った。万物万象を溶融する火炎放射を、焼け爛れる弾の嵐を、超圧縮された光の一閃を。絶えることなく放ち続けた。
冬の晴夜を莫大な黄と赤が覆いつくす。天高くより降り注ぐ熱の余波は季節を破壊し、湖一体の雪や氷が溶解を始める程だった。
赤熱を割り、紅蓮を剥がし、なお歩みを止めぬは闇夜の支配者。
業火が覆う星の海を悠々と闊歩する男の姿は、破滅の魔神の如く禍々しくも、救世の使徒の様に神々しくて。
讃美歌の幻聴さえもが、鼓膜を貫いてきそうな。
「貴様――!
どれだけ弾幕を張ろうとも、太陽の力は消しゴムで揉み消された筆記の様に掻き消えていく。
光も、熱も、その余波でさえも、跡形も無く消し飛ばされていく。あまりに圧倒的で一方的な侵攻は、絶叫を放たねば冷静さを保てない程だった。
トリックは、ナハトの根源に隠されていた。
かつてこの吸血鬼は伊吹萃香との闘いで奇怪な現象を引き起こした。山どころか幻想郷の地盤さえも粉砕しかねない鬼の奥義を、その
これはナハトの中身――それ即ち、『消滅の概念』を吹き付けたが故の帰結である。例えるならば、万物を白紙に変える修正液と言った所か。
だがしかし、これには大きな欠点が存在する。四年前にナハトが崩壊を迎えかけたように、命を削る諸刃の剣なのだ。自らの中身、人間でいう所の臓腑や血肉を吐き出して、それをぶつける武器なのだ。
ましてや今のナハトは中身が枯渇寸前である。さとりと鈴仙、早苗の劇が多少の補正を働かせたが、辛うじて危険区域を脱している状況に過ぎない。再び同じ技を使おうものならば、今度こそ灰と化してしまう程に。
それが、目の前で繰り広げられている。
限界を見せず、ただ淡々と。プラズマの大森林を打ち消しているのだ。
これを、驚天動地と言わずになんという。
「……お前は私を相応しい舞台と台本で始末する為に数多の策を繰り広げたと言ったな。骨髄まで徹した恨みを燃料に、狡猾さと執念の刃を研いで、私では到底想像もつかない数々の罠を仕掛けてみせた。四年前よりも残酷さを
それはある意味成長と言えるのだろう――皮肉を吐くように、吸血鬼は吐き捨てた。
「一つ教えてやる。進化を遂げているのは、なにもお前だけではないという事だ」
「――ッ!?」
パチパチと、静電気の様に走るナニカがあった。炎が丸ごと消え去る刹那、瞬いた残留物が確かにあったのだ。
それが、ナハトの魔力残滓なのだと知った時。
歯を砕き割らんばかりに噛み締めて、真性悪魔は大喝する。
「まさか、まさか! 貴様、よりにもよって
「久しく血を沢山飲んだ。腹は膨れている」
空間を削り、距離を殺して瞬間移動を果たす冥暗の権化は、真横を掠める光線へそっと手を添えた。『その通りだ』と仮説を認めるかのように、プラズマの杭を跡形も無く滅ぼしていく。
紫の告白を経て己の素性を掴み、同時に萃香との決戦で起こった不可思議な現象の答えを得たナハトは、それを再び利用できないかと考えた。相性で言えば最悪にあたる太陽との戦いにおいて、消滅の力が大きな矛になるだろうと思い至るのは自明の理だろう。
だが言うは易く行うは難し。そもそもアレは命を削る大技なのだ。もう一度使えば確実に死は免れない。
そこで閃いたのが魔力による
但し、ナハトが禁断の選択へ辿り着くに至った過程を理解する事と、肝心要な原理への納得は全く別の問題だ。
事実、スカーレット卿は
「馬鹿な……そんな真似が出来る筈が無い! 消滅だぞ!? 森羅万象を無に帰す力だ、それを魔力で生み出すなんて矛盾しているにも程がある!」
「魔力を消滅の力へ変えているのではない。これは消滅の力に限りなく似せた贋作だよ。魔法を極めた者同士だ、少し考えればお前にも分かるだろう?」
根本は異なれど、全く同じ影響を及ぼすエネルギーを造り出す。ナハトがやり遂げたのはそれである。完璧な生成ではなく完全な模倣。動物油脂を植物油脂で代用するように、希少な自然物質を化学で真似て生み出すように。
名付けるならば消滅魔導。自らの源泉を解析し、体得に至った破滅の
「機は熟した。終極を迎える仕度をするがいい、スカーレット」
怒涛の猛攻を総て吹き消し、空間を削って光よりも速く挙動するナハトを、卿は止める術を知らなかった。
魔術も、能力も、天敵たる八咫烏の力でさえも意味が無い。反則に等しい絶技の前には一切の小細工が通用しない。
敗北の未来が、濃厚かつ鮮明に脳裏を過ぎ去った。
「――…………ははははははははははっ、あはははははははははははははははははははははッ!! あ―――ッはっはっはっはっはっははははははッ!!」
だが喉から飛び出す怪鳥の咆哮は悲鳴に非ず。それは疑う余地のない悦楽の喚声だった。
これだ。これこそがスカーレット卿の切望してやまなかった吸血鬼だ。五百年前の出会いで刻まれ、四年前の対決で死ぬほど思い知らされた真の絶望、その具現体だ。
理不尽で、理解不能で、圧倒的で、残酷で、憎悪の矛先に立つ者で、肉を持ったトラウマ。神経を狂わせ、魂を穢し、喉から直腸までまとめて干上がらせるような原初の恐怖。
それを――斬って叩いて潰して殴って蹴って砕いて穿いて剥いで削って焼いて奪って嬲って辱めて貶めて殺して殺して殺して殺して殺し尽くす――――ただ復讐を成し遂げるためだけに、スカーレット卿は今日この日まで、生き汚さの最前線を走り続けてきたのだから。
これを、この胸を八つ裂く絶望を。甘受せずにいられるか。
「最ッッッッ高よなぁッッッ!!」
撃つ。無意味と分かっていても、せめて制御棒だけは守らんと無限の弾幕を撃ち続ける。
八咫烏の炎だけではなく、かつて研鑽を積み魂にまで染み込ませた魔法技巧の数々を、演目のフィナーレを飾るようにありったけ叩きこんでいく。
雷撃と劫火の槍撃が繚乱し、豪雨を凌駕する膨大な水の蛇が鎌鼬を纏って突進した。太陽が雄叫びを上げ、夜を塗り潰さんと躍動すれば、暗黒の世界も白に染まる。
その全てが。最強の吸血鬼と謳われた男の全身全霊が。
無慈悲に、不条理に。災害を前に成す術なく呑まれる雛鳥の如く、容易く屠られ消えていく。
まだだ。まだ足りない。
この怪物を殺すには、決定的に火力が欠けている。
悪魔は嗤う。忌まわしき怪物、乗り越えるべき宿敵を撃滅せんと、最大限の殺傷をその手に顕現させる。
ズバヂィッ!! と空を殴り付けるような音と共に、無双の力を全て圧縮して練り上げた、闇殺しの弓矢が出現した。
卿は弦を振り絞り、更に矢へと力を籠める。着弾すれば霧の湖すらまとめて蒸発する一射だが、そんな事は関係ない。一帯への被害だとか、その後の未来だとか、邪魔な配慮は欠片も脳裏を過らない。
目の前の男を殺すという、無二の執念を心魂の底で焚き上げて、悪魔は躊躇なく滅びの一条を撃ち放った。
「消えろ、悪魔め!!」
矢は走る。光に乗り、事象を捨てて、たった一つの影を討ち滅ぼさんと天を割る。
対する吸血鬼は、ただ静穏に。神の一矢へそっと手を添えた。
雲散霧消。天蓋から放たれた死の閃光は、闇に呑まれ灰燼に帰す。
渾身の一撃だった必殺は、呆気ないほどの幕切れで。
気が付いた時には、スカーレット卿の肩に死の手がふわりと乗せられていた。
「辞世である。その穢れた宿業、ここで断つ」
視界一杯に、己が胸を目掛けて迫る漆黒の切っ先が映り込んだ。
ぞぶり、と。血肉をすり抜け、内側へ侵入してくる異物の感触が、吐き気を催すほどに広がって。
「う、あ、あ、ああ……!」
剣が届く。怨み憎しみで煮詰まった、この世ならざる悪意の中枢へと。
無情に。作業的に、ずぶずぶと入り込んでいく。
ぐじゅっ。魔を凝縮した純黒の剣から染み出す黒い粘菌が、卿の魂魄へ触手を伸ばし、突き刺さった。
「あ、お、おおおおおおおおあああああああああああああああッッ!? き、貴様! 貴様貴様貴様ァああああああああッ!! あああああああああああ馬鹿、よせ、止めろ! 魂を塗り潰して砕くなんて、そんな、よせ、やめろ、やァめろおおおおおおおおおおおおッッ!!」
「とでも言うと思ったか?」
――砕けていく。
バラバラと、風化した土器が崩れ落ちていくように。
パチュリーのみならず紫や永琳、輝夜の加護すら付与された至高の
唐突だった。唐突にも程があった。剣を突き刺し、スカーレット卿の魂を抉り出そうとしたその瞬間、まるで自分の体に消滅魔導が降りかかったの如く諸共が消し飛び、全てを転覆させられたのである。
だが、ナハトは内臓を掻き混ぜられるような混乱の濁流には目もくれなかった。そんな考えても分からない事態より、目の前の
卿の懐。魂魄切り裂く魔剣グラムを刺し込んだ胸元にそれはあった。
分厚い、分厚い、一冊の本だ。小口に鋭利な牙が生え揃い、粘液滴る舌がだらりと垂れ下がっている、およそ読み物とは思えない生々しい書物。それが、焚書されていく異端書の様に端から溶け消えているのだ。
白痴と化したナハトの脳髄に、稲妻の如き衝撃が走った。
知っている。吸血鬼はこの本の正体を知っている。
記憶の外に放り投げていた。完全に忘却の彼方へ捨て去ってしまっていた。
いいや、そもそも。
予想だにしない物体の出現が、懐疑の乱気流をナハトの中に呼び起こす。
過程も、道理も、方法も。ナハトには何もかもが理解出来ない。ただただ、『何故』という疑問符だけが脳神経を埋め尽くすのみだ。
―――――
「そうだ。それだよ」
ギギギィッ、と。悪魔の唇が三日月状に引き裂かれた。
爛々と獣の眼が輝きを放つ。待ちに待った映画の名場面をようやく目に出来た熱烈なファンの様に。込み上がる笑いで口元を痙攣させながら、狂気の瞳が照準を引き絞った。
困惑と、驚愕に染まり切った、闇夜の支配者の顔貌へと。
「貴様のその顔が! ずっとずっと見たかったんだ!」
瞬間。必殺の光がナハトを容赦なく包み込み、幻想郷の夜空を一直線に引き裂いた。
◆
閃光が収束し、焼け焦げた影が彼方を舞った。
黒煙が燕尾を引いてゆく。骨肉の燃える刺激臭が散布される。男の一部だった炭が、ボロボロと雪の上へ降り注いだ。
吹っ飛んでいくナハトを追い、スカーレット卿は小鳥を狙う猛禽の様に首根っこを鷲掴んだ。
「ぐッ!」
「ははははッ! いい気味だ、いい様だ! 最高最強最上に爽快な気持ちだ! 追い詰めたと思ったら丸ごと形勢逆転された気分はどうだァッ!?」
六角の制御棒を振り上げ、脳天に、腹に、鼻っ柱に、何度も何度も叩きつけていく。ぐしゃり、べしゃりと。肉体が砕けて混ざる音が連続した。
息を切らすまで殴り続けたスカーレットは、胸倉を掴んで鼻先が触れ合う程にナハトを引き寄せ、渾身の頭突きを見舞う。仰け反ったナハトの腹に向けて、駄目押しに小さな太陽熱波を撃ち放った。
風穴が空き、赤黒い体液がボトボトと零れ落ちていく。
「ハァーッ、ハァーッ、ハァァァ――ッ、フシュー…………おおナハトよ……そんな惨たらしい有様になりおってからに。服はボロボロ、体は滅茶苦茶。髪も古びた箒の方がまだ洒落ているというもの。これでは誉れ高き闇夜の支配者も形無しだな」
「づっ、う」
「痛いか? 苦しいか? 辛いか? 悔しいか? それとも疑問でいっぱいか? 理解できずに思考が真っ白に塗り潰されたか? 素直な気持ちを聞かせてくれよ。貴様のッ! その口からァッ!!」
二度、三度。再び制御棒を叩きつける。その度に、べっとりとした粘質な液体が柱から糸を引いていく。舐めとりながら、ケタケタとスカーレット卿は嘲笑った。
血の泡を吐き捨てて、ナハトはだらりと下がった首を錆びたブリキの様に引き上ながら、声帯から言葉を搾り取る。
「私に、何をした……?」
「む。ふふん。そうだろう、気になるだろう? 私の切り札、秘策中の秘策が気になって気になって仕方ないのだろう? うん、良いぞ。未曽有の権化である貴様から疑問符を放られるのは、存外悪い気がしない」
「…………」
「三下の所業だが、今は気分が良いのでな。特別サービスだ、冥土の土産に教えてやる。――ナハトよ、対消滅という言葉を聞いたことはあるか?」
対消滅。簡単に説明するならば、ある物質とその対となる反物質が衝突し合った時、互いに消滅を迎える化学現象である。
何故そのような単語がここで飛び出してくるのかと、ナハトは内心首を捻った。
だが、どこか盤にパズルのピースが嵌め込まれていくような感覚も確かにあった。魔力を流そうとも再生不可能になった半身と、異常に削り取られた
「貴様を倒そうと画策した時、真っ先に考えなければならなかったのは対抗し得る武器だ。理不尽の権化を捻じ伏せる刃を鋳造する必要があった。結局、古明地こいしのお陰で八咫烏の核融合操作というこれ以上に無い吸血鬼殺しを手に入れられたが、しかし、それでもまだ足りないと思ったんだ。常識破りの貴様を完膚なきまで殺すには、もっともっと強力な武器が欲しかった」
だから、貴様専用の
「悩んだ末に着想を得たのが対消滅だった。厳密には化学の理屈と異なるが……とにかく、私は貴様の
殴打。筋肉と毛細血管が断裂し、割れた皮膚から鮮血が溢れ出る。
スカーレット卿が古明地こいしにナハトの所有物を掻き集めさせていた理由がこれだったのだと、ナハトは鈍い痛みで朧になる意識の中で答えを得た。
ナハトの魔力は少々特殊だ。レミリアやパチュリーが行使する魔力と同一の物も使用しているが、一つではない。根源は似て非なると言っていい。
何故ならそもそもの話。ただ莫大な魔力を押し流した所で、モノが生命体に変わるなんて事は有り得ないからだ。もしそれが可能ならば、アリス・マーガトロイドの夢――完全な自立人形の作成は容易く完遂されていた事だろう。
ではどういった原理なのか。答えはナハト自身の
ナハトという吸血鬼は、存在を有するなら全知全能の神でさえ必ず迎える万物の終焉、即ち『消滅の概念』を核に生まれたバグである。だが一考すればこれが如何に矛盾しているかがよく分かるだろう。だって、
その矛盾を克服した末、ナハトはこの世に立っている。『消滅の概念』、即ち根源の恐怖というエネルギーを転換、利用し、自身の存在を確立させて受肉を果たしているのである。例えるならば栄養の置換。人が人間ではない動物の血肉を食らい、消化し、再び組み直して自らの体へ変える事と同じようなものだ。
つまりナハト特有の魔力とは。消滅のエネルギーを変換する事で獲得した、ナハトの純粋な生命エネルギーという途方もない燃料だったのである。この原理を理解できたからこそ、ナハトは偽物でありながら消滅の力を自在に操れるようになったと言っていいだろう。
特有の魔力と存在の根源。その種類は違えど、素体は同じ物なのだから。
「正直なところ、これは命懸けのギャンブルに等しい暴挙だったよ。貴様が消滅の力を使いこなした時は本気で焦りを覚えたさ。成長を遂げたフランドールの様に、極小さな点のみを消滅させられるようになっていたら、私の魂魄はピンポイントで消し飛ばされ、勝負は一瞬で決していただろう。貴様があと二日……いや、半日早く能力に目覚めていたならば、結末は違うものとなっていたと確信を持って言える。絶望的な相性の差を吹っ飛ばしかねないその脅威度は、相変わらず大したものだった」
「……なる、ほど。魔剣が発動の鍵となっていたのか。グラムを伝い、私の核まで纏めて粉にする算段だったのだな」
「その通り。しかし半身も残った挙句、光線にまで耐えたのは素直に驚いた。トラップの反魔力が極めて微々たる量だったとはいえ、生じたエネルギーを全て跳ね返す特製魔術まで苦心して編んだのに、たったその程度のダメージで済むとはな。本当なら生首一つ残れば幸いなレベルだったんだが……賢人たちの首飾りは大層な役割を果たしたようだな?」
お陰で虐げる楽しみが残ってくれたから結果オーライだがね、と少女の様な微笑みを浮かべる復讐の悪魔。
スカーレットは眼球を上に向け、頬を釣り上げながら何かを思案するように首を揺らした。
「さてさて、次は何をしようか。困ったなぁ、沢山拷問のレシピを考えていたはずなのに、いざ実践するとなるとどれを選べば良いのか分からなくなる。選択出来るが故の贅沢よな。フフ、あぁ楽しい」
「…………っ」
「そうだナハト、リクエストはあるかい? 可能な限り無下にしよう。殺してくれと言ったら殺す気で生かしてやるし、解放してくれと言ったら永劫の束縛をくれてやろう。なに、安心したまえ。これでも黒魔術や呪いの腕には自信が」
ぐいん、と。卿の首が唐突に曲げられ、言葉の枝も圧し折られた。
ナハトの腕が伸びていた。残された片腕が後頭部を掴み、強引に俯かせられたのだ。
二つの瞳が、重なるように交差した。
漆黒に染まり切った深淵ではなく、夜露が月明かりと踊る紫陽花の様に鮮やかな、紫の瞳があった。
「――――ッ!!」
反射的にスカーレットはナハトを突き飛ばした。魔性に脅かされたからではない。瀕死の男が企てた意図に気付き、それを阻止しようと距離を取ったのだ。
だが、もう遅い。
「貴様、まだ足掻くか。そんな
眼とは魂と外界の境を担う関所である。魂は瞳を通して肉の外を眺め、四季折々の憧憬を映し取る器官なのだ。
逆を言えば、瞳を覗かれる行為は魂の曝露に他ならない。特にこの吸血鬼に対してそれは、心臓を抜き出して捧げる過程となんら変わらない。
ナハトが消滅の力を用いてスカーレット卿の魂だけを削り取らなかったのは、繊細なコントロールが必要だった点もある。だがそれ以上に、卿の『内部』が複雑怪奇に入り組んでいるため、下手に手を出せば霊烏路空ごと亜空の外へ放り投げてしまいかねなかったからなのだ。
指向性と特異性を備える為に卿の魂だけを切り捨てられる魔剣グラムと一切合切を消し飛ばす消滅魔導ではまるで勝手が違う。霊烏路空の魂と肉体、八咫烏の分霊の中へスカーレット卿の魂が隠れ潜んでいる以上、やたらめったらな狙撃は愚の骨頂と言える手段だった。
しかし、それは最早過去の話だ。
たった今、ナハトは卿の瞳を覗き見た。絡まる魂魄の網目をくぐり、本丸を探り出したのだ。かつてフランドールの中からスカーレット卿の魂を見出した時の様に。こいしの中からスカーレット卿を見つけ出そうとした時のように。
「フン。認めよう。私を止めんとする貴様の執念は本物だ。体も、魔力も、果てには存在の核さえも諸共削り飛ばされておきながらまだ動けるとは、天晴としか言いようがない。……それで? これからどうする? 弾切れ銃の引き金をいくら引き絞ったところで発砲は起こらん。今の貴様はまさに『無駄な抵抗』の良い教材だぞ、ナハト」
スカーレット卿は余裕を崩さず、どころか呆れた様に頭を掻きながら、やれやれと溜息を零して宿敵を批判した。
それほどまでに、今のナハトはジリ貧だった。潤沢な魔力も、特異な力も、存在を確立させる核も、九割近く反魔力で吹っ飛ばされたのだ。兵士から武具を剝ぎ取った挙句四肢まで捥いだ様に悲惨な有様は、こうして立っていることそのものが不自然に映るほどだろう。
もはやナハトに贋作の消滅魔導は使えない。使うとするならば、正真正銘本物の『中身』をぶつける以外に手段は残されていなかった。
けれどそれは、ショック死寸前の患者から更に血液を抜き取る様なものだ。
即ち、逃れようのない死のレールが、目の前に毅然と敷かれたに等しい状況だった。
「……勘違いしてもらっては困る」
だが。
この上なく絶望的な境遇も、己の立場も。歪みなく把握しておきながら、なお吸血鬼は退かなかった。退くはずが無かった。
半身を失くし、力も奪われ、虫の息に等しい容態なのに。
「私はな、
まるで、戦いの果てにこの結末を迎えてしまう覚悟を、既に固めていたかのような。
「吸血鬼は太陽に敵わない。それは覆しようのない摂理だろう。しかし私が最も懸念したのは八咫烏ではなく、スカーレット、お前のその邪悪さだよ。途方もない怨讐を燃料に次々と生み落とされるお前の戦略は、私の想像をいつも越えていた」
一抹の波濤があった。吸血鬼を中心に広がる微弱な波紋があった。
透き通ったヴァイオレットの瞳が、再び漆黒に染まりつつあった。
「策に策を。保険に保険を。罠に罠を仕掛け、それでも満足する事のない無窮の狡猾さに打ち勝つ術を、悔しいが私は持ち合わせていなかった。だからどこかで必ずこうなるだろうと予測していたさ。私の軟弱な頭では、お前の邪悪を破ることなど出来ないだろうと」
――――だから、覚悟を決めていた。
震える片腕を必死に押し上げ、掌を開く。それを砲台に見立てるように、ナハトは的を引き絞る。
全身に蔓延るヒビが、強烈になっていく。
「此度の異変、全ては私の不始末から始まった。私が居たから幻想郷はこうなった。ならば責務を果たさねばなるまい。――この命をもって、お前の粛清を成し遂げる」
「ナハト、貴様ッ!!」
「だから」
死の明滅と共に。
最期の魔導が、産声を上げる。
「――私と共に消えるぞ、復讐鬼!」
「――消えるのは、貴様一人だ吸血鬼!」
バキバキと、仰々しいクラッキングと共に大仰な裂け目が肉体へ生じた。ナハトの命、残された僅かな雫が掌に圧縮され、万物を吹き飛ばす消滅魔導が姿を成す。
しかしそこにタイムラグがあった。瀕死であるが故に生じたほんの一瞬があった。太陽弾を撃ち込まれかねない隙があった。
だが関係ない。例えこの間に太陽を叩きこまれようとも、スカーレット卿だけは必ず消し飛ばし、冥府の道に連れてゆく。
不屈の覚悟を胸に、ナハトは力を凝縮した。
卿の腕が光り輝く。爛々と、魔滅の炎が雄叫びを上げた。
腕を振りかぶり、スカーレット卿は太陽弾を放出した。躊躇不要の一撃を、肩に全力を込めて投げ放つ。
だが、しかし。
プラズマの杭が穿つ方角は、怨敵ナハトの心臓ではなく。
遥か眼下の、何の変哲もない森だった。
「!?」
視線を誘導され、果てに見慣れたシルエットを杭の着弾地点に発見して。
ナハトは、亀裂を加速させるように全身から血の気を失った。
目の前の光景を疑わざるを得なかった。馬鹿な、と吐き捨てざるを得なかった。だってレミリアは咲夜と纏めて紅魔館へ転送した筈なのだ。睡眠の魔法で意識を奪われていた彼女たちは、今頃暖かなベットに安置されているのである。絶対に、こんな土臭い絨毯の上に転がっているハズが無い。
「知っているぞ。貴様がかつて藤原妹紅の血を元に、精巧な肉人形を錬成したことを」
ギィィッ、と。
邪悪の笑顔が、悍ましくも花開く。
「流石に縁も所縁もない赤の他人を即興で作るなんて荒業は私には不可能だったが、しかし! レミリアは我が血肉、我が魂から産まれ落ちた血族である! 故に奴ならば簡単に肉体を錬成する事が出来た! ああそうさ、すり替えておいたんだよッ!! 本物の咲夜と
「スカー、レットッ……!!」
「おっと良いのか!? そのまま私を殺して貴重な時間を食い潰し、愛しい令嬢を蒸発させてしまっても本当に良いのかァ!? タメになる事を教えてやろう、あの魔方陣は防御用の緩衝材だが着弾しては五秒と持たん! 貴様が私を殺しても、枯渇しきったその体でッ! レミリアを救い出すことが果たして出来るかな!? ナァァァハトォォオッッ!!」
――その通りだ。忌々しいが全くもってその通りだ。歯が砕けんばかりの力が顎に注がれ、ナハトは苦虫を噛み潰したように顔の筋肉を歪ませた。
例え満身創痍の命を絞り、スカーレット卿を消去できたとしても、残された搾りカス同然のナハトでは助けが間に合わない。
ならば取るべき道は一つだけ。天秤でどちらを量るかなんて必要ない。迷う事そのものがおこがましい。小悪魔の時に、ナハトはそれを嫌と言うほど学ばされた。
蹴った。空気を蹴った。僅か一握ばかりに残された魔力を片足に注ぎ、墜落するロケットの様に突進した。
須臾の間にレミリアのもとへ転がりながら辿り着き、魔法障壁をあと一歩で食い破るだろう太陽弾を消滅させる。
そして、己の命を削ってしまえば、フィードバックは瞬く間にナハト自身へと跳ね返る。
「うっ、ぐはッ……!」
バギン。顔を二つに割るように、大きな裂け目がバックリと斜めに開かれた。右目が腐り落ちる様に溶けだして、眼窩から黒い瘴気が漏れ出ていく。どす黒い粘液が顎を伝って零れ落ちると、雪を真っ黒に染め上げた。
地に手を着き、肩で息をしながら上空を見上げる。遥か彼方のスカーレット卿は月輪すら霞む火球を招来し、最後のトドメを宿敵に下さんと大きく振りかぶっていた。
「やはり助けに行ったな吸血鬼! その唾棄すべき情けこそが貴様の真の弱点だ! 食らうがいい、我が積年の恨み、我が五百年の妄執、我が狂気の最果てをッ! 骨髄まで味わいながら地の底まで果てるがいいッ!!」
執念を爆発させた咆哮が轟き、瞬間、大炎熱球の墜落が始まった。
それはまさに隕石だった。地上の一切を無に帰す絶対的な破壊の権化だった。
全盛期ならばいざ知らず、今のナハトは遺骸に等しい容態だ。この痛打は致命となってナハトをこの世から葬り去るだろう。
しかし、ボロボロの吸血鬼の背にはレミリアがいる。ナハトとは違う、母の祝福から生を受け、未来に生きる少女がいる。ナハトのせいで多くの非業を背負うことになった、死んでも詫びきれない義娘がいる。
「ぐ……く……く……!」
バタバタと。血液とも腐り落ちた肉ともつかない夥しい液を巻き散らしながら、ナハトは渾身の力を込めて立ち上がった。
既にこの身は生者に足らず。とうにこの足は善道を歩まず。ましてこの命は、世に望まれた生に非ず。故に、ここで朽ちるも道理である。
だが今はその時ではない。まだ果たさなければならない使命が残っている。まだ守るべき少女が残っている。
ならば、立ち向かえ。
例え髪の毛一つ残さず灰の山に還ろうとも。その命が燃え尽きるまで、少女を邪悪から守り抜け。
それこそが、異端の吸血鬼に許された最期にして最大の
細胞一つ一つを魔力に変える。魔方陣を展開し、黒い息吹を一斉放射した。削り節程度に残された魔力と生命、壊れかけの魂全てをエネルギーに組み変えて、迫りくる隕石を亜空に放り込むが如く抉り飛ばす。
極大プラズマの消滅と共に視界が開く。だが先の空間で視界全体を覆ったものは、北欧の最終戦争を彷彿させる莫大な火柱の雨だった。
炎の中央で鮮紅の大悪魔が絶叫する。瞼を限界にまで見開いて、血走った
「おおおおおおおゥああああああああああああああァァ――――ッッ!! 余力は残さん! ここで貴様に黎明の鉄槌をくれてやるッ! 最後の最後に勝つのはこのスカーレットだッ!! 消えろ暗澹よ、明けよ
「ぐ、うう、お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!」
魂の咆哮が爆発した。最後の最後に残された消滅魔導の残滓を纏い、ボロボロの魔剣を顕現させて片腕を振るう。せめてこの少女だけは守り通さんと、迫りくる火柱を悉く斬り払う。
剣を薙ぐたびに肉は剝がれ、コールタールのような血が噴き出し、裂け目が体を這いずり回る。欠けた体からは土砂崩れの様に中身が漏れ、足元の雪を墨化粧の様に塗り潰していく。
戦いは刹那の間に起こり、しかし過ぎ去る微かな時が、まるで永劫のようにすら感じられた。
けれど終わりはいつかやってくるもの。それはこの激闘も例外に非ず。
度重なる核融合操作の使用でオーバーヒートを起こしたのか。はたまた追撃は必要なしと判断したのか。スカーレット卿から無尽蔵に注ぐ、絶滅の掃射が降り止んだ。
雪は溶け、土は抉れ、木々は吹き飛び、凄惨たる有様と化した湖の畔。辺り一面を一緒くたに溶融されておきながら、しかしナハトの背後には、ただの一つの傷も無い、真っ新な大地に寝転ぶレミリアの姿があった。
安堵が、喘鳴と共に零れ落ちる。
パキン、と。ナニカが砕ける音がした。
パキ、パキ、パキ。音の波は広がり、大きさを増し、同時にメシメシと繊維質なものが折れ曲がっていくような鳴動が、鼓膜へ針を突き刺すように響き渡る。
――ナハトの足が、真っ二つに折れた音だった。
灰に染まり、何千年も野晒しにされた石像の様に枯れ果てた吸血鬼は。
ゆっくりと、焼けた大地へ崩れ落ちた。