【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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45.「楽園拒絶」

「お空!」

 

 光の波が瞬く中、猛スピードで落ちゆく影が一つ。邪悪の束縛から解き放たれ自由の身となった霊烏路空が、重力に従うまま墜落の一途を辿っているものだった。

 こいしが叫び、必死で後を追いかける。だが距離が遠すぎた。全力で飛翔しても冷たい湖への落下は免れられないと、こいしの表情が青ざめていく。

 あと一秒もなく着水する刹那の際、(うつほ)の姿が忽然と消えた。

 仰天のあまり急ブレーキをかけるこいし。瞬き一つしていないのに見失ったと気付いた途端、猛烈な不安が襲い掛かり、ドクンと一際強く心臓が胸を押し上げた。

 が、それは直ぐに解消される事となる。お空を抱き上げた咲夜が、真横に佇んでいたからだ。

 

「ご安心を。バイタルを確認しましたがいずれも正常です。気を失っているだけですよ」

「あ……ありがとう!」

 

 安全な地面に着地して、お空がゆっくりと降ろされる。こいしは彼女を揺り動かしながら、何度も何度も名前を呼んだ。

 玉を転がすような声がお空の耳に沁みたのか、『う~ん』と寝ぼけ頭で絞り出される呻きと共に、霊烏路空が覚醒して。

 

「んにゃ? あうー、こいしさま。おあよーございまふ……あれ、どこですかここ? なんか右腕が軽い様な――あーっ!? 制御棒が無い! ど、どうしましょうこいし様、制御棒どこかに落っことしてしまいまし」

「……!! お空ーっ!!」

「ぎゅぴっ!?」

 

 タックル同然の衝撃がお空を襲う。事件の記憶が無く、気付けば地上で目覚めたに等しいお空には、こいしが何故泣きじゃくりながら抱き着いてきているのかがいまいちよく分かっていたなかった。

 

「ごめん、ごめんね、酷いことしちゃってごめんねお空っ……」

「え? え? ど、どうして泣いてるんですかこいし様ぁ。そんなに泣かれたら私まで悲しくなっちゃうから泣かないでくださいよ~」

「ごめんなさい……! 本当にごめんなさい……!」

 

 ぽろぽろと涙を零すこいしに釣られて、お空までわんわんと泣き始めてしまった。

 悪魔の束縛から解放された者達の再会を見守りながら、フランドールは姉の下へと歩いていく。ズタズタになった腕を背中で隠すレミリアを見て、フランドールは「ん」と手を差し出した。

 

「診せて。その手、滅茶苦茶なんでしょ」

「え? い、いいわよ。満月だし、すぐ治るわ」

「だーめ。今日はすっごい無茶したんだから傷痕が残るかもでしょ? そうなったら大変じゃない。さっさと診せる、ほらほら!」

「いっ!? ちょっ、フラ、お願い優しくしていたたたたっ!?」

 

 手首を掴まれ、引っ張り出される。流石は吸血鬼と言うべきか、過負荷で肉や骨が弾けていたにも関わらず、既に原型へ戻っているほど再生が進んでいた。しかし深い裂傷や剥げた爪は未だ治らず、少女の華奢な腕に相応しくない壮絶な痛々しさを帯びていた。

 そっとフランドールは手を添えて、瞳を閉じつつ呪文を唱える。淡い新緑色の光が瞬けば、まるで逆再生の様に傷が塞がり爪が生え変わってきた。

 

「パチュリーから習ったの。いつか使える日が来るかなって」

「フラン……」

「またお姉様には無茶させちゃったわね。……結局、おじさまにも助けられちゃった」

 

 申し訳なさそうにフランドールは俯く。姉を守ると言ったのに大して役に立てなかったと、自責の念に駆られているのだろう。どこまでも優しいから、ズタボロになった姉の手を見てそう感じてしまったに違いない。

 そんなこと無いよ、と。レミリアは空いている手をフランドールの頭へ置いた。

 

「貴女はよく頑張ったわ、フランドール。こんなに立派な妹を持てて、姉として誇らしいくらいよ。……おじ様も、きっと同じ気持ちだと思う」

「……っ」

 

 潤む。抑えていた蓋が持たなくなったように、少女の涙腺が決壊を迎えていく。静謐な雫が溢れ出て、フランドールは顔を手で覆った。姉に見られないように、という訳ではなく。ゴシゴシと袖で涙を拭うと、目元を真っ赤に腫らせながら顔を上げた。

 

「……今ぐらい、泣いたって良いのよ」

「泣かないわ。お姉様も泣いてないから、私も泣かない」

「…………そう。まったく、気丈な妹を持つと大変ね。これじゃ私も泣けやしない」

「お嬢様、妹様。こちらを」

 

 音もなく傍に現れた従者がそれぞれ一枚のハンカチを手渡す。次いで上着が被さって、冬の寒空から二人を守った。

 

「咲夜、館に戻って暖かいスープと毛布を用意なさい。あそこの二人も連れて行くわ」

「畏まりました。お嬢様たちもお運びしましょうか?」

「いや、良い。皆で歩いて帰る」

「承知しました。……それと、お嬢様」

「なに?」

「命を救って頂いて、申し訳――いいえ、ありがとうございました。またお仕えする事が出来て、咲夜は嬉しく思います」

「……フン。あの時勝手に諦めようとしたこと、まだ根に持ってるんだからね。帰ったらお仕置きよ」

「うっ」

 

 自分の失態を心底恥じるように、珍しくしょんぼりとする咲夜。

 しゅんと反省する従者を見て満足したのか、レミリアは意地の悪い笑みを浮かべて、

 

「と、思ったけど。あなたが来てくれなきゃ勝てなかったわけだし、美味しいスープを作ってくれたら、自分を捨ててだなんて妄言吐いた件はチャラにしてあげる。だからさっさと戻って仕事をしなさい」

「! はい、必ずや皆様の舌を唸らせる一品を作って見せると約束しますわ!」

 

 言って、花が咲いたような笑顔と共に従者の姿が虚空へ消えた。時を止めて先に戻って行ったらしい。

 白い息を一条吐いて、振り返る。そろそろ泣き止む頃だろう。このまま放置していたら、地底の妖怪が現れたと騒ぎになりかねない。無粋と知りながら、レミリアは声を掛けようとして、

 

「二人とも。感動の再会を邪魔する様で悪いけれど、ちょっと移動してもらうわよ。特別に私の館へ招待してあげ」

『認めぬぅぅぅぅ………………認めぬぞぉぉぉ……………』

 

 背骨に直接指を這わせるような悍ましい声が、上空から覆い被さってくるように響き渡った。

 脊髄反射で空を見上げる。レミリアは仰天のあまり目を見開き、口を開けたまま絶句した。フランドールも同様に、二人は夜空の一点へ目を釘付けにされてしまう。

 それは消えた筈の怨霊だった。幻想郷全土から悪霊の分霊たちが次々と集まり、一ヵ所で融合し合って、心臓の如く脈動しながら体積を際限なく膨張させていたのである。

 

『み、み、みどめぬぅぅぅ……ごの、わだじがっ、ごぼっ、ごのすがぁれっどが、ナハト以外の吸血鬼に敗れるなど、だんじでみどめるごどはできぬぅぅ…………!!』

 

 ぶじゅぶじゅと、ぐじゅぐじゅと。生理的嫌悪感を引きずり出す壮絶な怪音波を放ちながら、吐き気を催す執念をもってスカーレット卿は蘇った。否、元から死に絶えてなどいなかったのだ。

 レミリアたちが倒したスカーレット卿は群れの中枢だったのだろう。頭脳が敗北し、その事実が伝播した事で、幻想郷中に潜んでいた全ての寄生体がこの場に集い始めたのである。ナハト以外の吸血鬼に敗北の泥を味わったという、ただそれだけの執着を雪ぐ為に、その泥を拭い落す為だけに。スカーレット卿は妖怪と言う枠組みからすら逸脱したのだ。

 なんという妄執、なんという憎悪か。かつてない程の純黒の塊は、負の汚泥を絞られた柑橘のように巻き散らし、あっという間に湖を侵食していった。

 

「あいつ、まだッ!!」

 

 間髪入れずにレミリアは神槍を顕現した。持ちうる最大最強の魔力を込め、一切の手加減無く怨念の集合体へと投擲する。

 着弾し、爆発が起こった。肉塊の如き魂が砕け、ヘドロで作られたおたまじゃくしの様な破片がボロボロと剥がれ落ちていく。だが敵はあまりに巨大過ぎた。例え一部を粉砕しても止まらない。次々と魂同士を融合させ、延々と空気を吹き込まれる風船のように膨らんでいく。

 フランドールも攻撃に打って出た。あらゆるモノに存在する歪みの()をその手に移して破壊する、絶対不可避の悪魔の一手を。

 爆発が複数回怒号を上げた。その度に鼓膜を引き裂く悲鳴が上がり、怨霊の残骸が崩れていく。

 けれど、致命傷にまで届かない。届かせようがない。

 

「どうしよう、『目』が多すぎる! これじゃ破壊できないよ!」

「一体何をするつもりなの――――まさか、自爆する気!?」

 

 明らかな力の凝縮があった。黒の奥底に紅蓮の熱が潜んでいる。今にも暴発せんと息を潜める超新星のような兆しがあった。収縮しては膨張を繰り返し、際限なく体積を増やしながら脅威を高める光景は、さながら核分裂の具現のよう。

 

 このまま放っておけば大変な事になる。スカーレット姉妹は確信と共に冷や汗を流した。

 もし、もしこの巨大怨霊が爆発してしまったら。既に湖が死海と化している程の猛毒なのに、これが幻想郷全土へばら撒かれてしまったら。果たして何が起こるだろうか。

 運命を視ずとも理解できる。その先には、地獄よりも悍ましい地獄が広がっている。

 

「させるもんか!!」

 

 ありったけの弾幕豪雨を撃ち放つ。七彩の光が絶えず巨大怨霊へ注ぎこまれ、炸裂音と共に黒を焼き潰していく。事態を察した古明地こいしも加わり、三方からの一斉射撃が展開された。

 絢爛で勇敢な弾の嵐は確かに怨霊を打ち壊している。数多の魔法も展開し、考えられる全ての手を投げ打った。だが絶望的に火力が足りない。太陽の盾すら爆砕したレミリアのスピアでも、かつて隕石を粉砕したフランドールの破壊でも、何十何百何千と合体を繰り返す命の苗床染みた存在が相手では、容易く減殺されてしまう。

 まさに焼け石に水だった。足掻いても足掻いても膨張は続き、力が増幅されていく。絶望の色が濃厚となり、焦りが濁流のようにその場の全員を呑み込んだ。

 

「そんな……っ! 結局負けてしまうの……!? どうやっても止められないのっ!?」

「諦めちゃ駄目! 絶対に止めてみせる! ここで止めないと、おじ様の死が無駄になる!!」

「でも火力が足りないよ! もっと大きな力がなきゃ、あの自爆は止められない!」

 

 認めたくは無くても突き付けられる現実。惨たらしい未来を前に吐露された弱音が幻想郷に落ちた、その時だった。

 

「――そうだねぇ。あんだけ集まりに集まって出来た魂の惑星みたいなやつは、幻想郷を吹っ飛ばすような火力がなくちゃあ止められそうにない。でも浮世ってのは上手く出来ているもんで、何事にも相性は存在しちまうものなのさ。鬼に炒り豆、吸血鬼に太陽って感じにな」

 

 はつらつで、豪気に溢れるとある少女の一声が、月夜に凛と咲き誇った。

 けれど常々漂う酒気の抑揚は匂わせず。

 在るのは一人、朧の酔いに微睡むことなき芯を持つ、天下無双の傾奇者。

 

 小さな百鬼夜行、伊吹萃香が虚空の上に君臨した。

 

「萃香……!? あんた、封印されてたんじゃ!?」

「ちょいと色々あってね。まぁそれは追々分かるだろうから割愛するよ、レミリア」

 

 にひっ、と爽やかな笑顔をレミリアへ贈ると、萃香は眼下の悪霊へ、朱天の怒りを込めながら向き直った。

 

「……我欲に従い、飲めや歌えの大騒ぎ。我儘三昧、気儘尽くし。結構結構、それこそ闇の化生、妖怪ってモンの本質さ。――だが、てめえはちょいとばかしやり過ぎた」

 

 小鬼を中心に渦潮が起こる。ブラックホールが惑星を呑み込んでいくように、スカーレット卿から怨念たちが瞬く間に剥ぎ取られ始めたのだ。

 密と疎を操る程度の能力。あらゆる密度を自在に操る伊吹萃香は、巨大怨霊にとっての炒った豆だ。数あっての災害も数が無くなれば意味をなさない。だからこそ、最後の切り札である自爆を防がれないように、卿は伊吹萃香を真っ先に狙ったのだろう。

 スカーレット卿の主人格を成していた中枢以外、その全てが、伊吹萃香に奪い取られていく。みるみるうちに縮小し、人間大にまで縮み切ったスカーレットは絶叫した。

 

『伊吹萃香ァ……!! 貴様、一体どうやって封印から脱出した!? 博麗の巫女も、八雲紫も、あの封印を解く余裕なんて無かったはずだ!』

「ああ、そうさ。一割の私はお前さんから消し炭にされちゃったし、紫も霊夢も七面倒臭い封印解除にゃ手を出す余裕が無いときた。どうしたもんかと壺の中で頭を抱えたよ。そうしてたらよぅ、誰かが突然、封印を解いちゃったんだよな」

『誰が――――』

「そりゃあ、こいつに決まってるさね」

 

 萃香が懐から取り出したのは、小鬼の手にもすっぽりと収まるほどの小さな巾着袋だった。

 彼女は徐に紐をほどいて、袋の口を開いて見せる。すると中から灰色の煙が立ち昇り、萃香の力で凝縮していくと、一本の腕の形へと化けた。

 卿は、その腕の正体を反射的に特定した。

 卿だからこそ、見間違えようが無いと言うべきか

 

「博麗神社に祀られていた、お前さんの大っ嫌いな吸血鬼の片腕よ」

 

 ――秋の事件にて、ナハトはスカーレット卿の姦計に追い詰められ、地上からの撤退を余儀なくされる事となった。

 だが事態はただナハトを地底へ追いやれば鎮まるものでは無かった。人間の里へ氾濫してしまった恐怖を鎮静させつつ、諸方の妖怪たちへ八雲紫の裁断を納得させ、ナハトへ追撃の手が向かないよう抑止する『証』が必要だったのだ。

 その生贄が腕だった。紫はナハトから腕を切り落とし、退治の証拠として博麗神社へ祀らせたのである。かつて人間たちが妖怪退治の象徴として、角やミイラを神社へ封印していたように。

 

 この経緯が、今になって卿も予想だにしない実を結ぶに至った。ナハトは卿との戦いの最中か、臨終の間際に博麗神社の腕を動かし、萃香の封印を破壊していたのである。

 紫が()()()()()まで想定して、ナハトの腕を神社へ控えたのかは分からない。だが確かに言える事は、スカーレット卿は再び、ナハトと八雲紫の手によって最後の切り札を阻まれた。

 認めがたい事実への拒絶が、卿の魂魄の奥底よりボコボコと音を立てて湧き上がる。

 

『――だが、だがッ!! 貴様はどうあっても鬼だろう伊吹萃香! 例え封印が解けたとしても、晩秋まで封じられる契約を違えることはその本質が許さない筈だ!』

「その通り。如何なる理由があっても(わたし)が約束を破る事は無い。だからこそ頭を悩ませたんだ。封印が解けても暫くの間、壺の中で引き籠ってたくらいにゃね」

 

 けど、と。伊吹萃香は犬歯を覗かせながら継ぎ足して、

 

「霊夢が壺をぶっ壊しちゃった挙句、約束主がスキマを通じて期限を破棄したもんだから、私には約束を守れなくなっちまったのさ」

 

 ――その時、七色の光が彼方より瞬いた。

 

 幻想郷の妖怪ならば誰しもが目にした破魔の輝き。夢想の底へ邪を封ずる博麗の奥義。

 華々しい夢想封印の輝きが、萃香の頭上に掻き集められた怨霊たちを纏めて滅ぼし、退治を果たした。

 煌びやかに舞い散る光の粉。浄化されゆく怨念の黒。だが肝心の霊夢の姿がどこにも無く、突如現れた一閃は、レミリアや卿へ一抹の混乱をもたらした。

 構わず、伊吹鬼は言い放つ。

 

「正直、お前さんには色々と借りがあるし、本当なら直々にぶっ飛ばしてやりたいくらいなんだけど……生憎弱い者いじめは趣味じゃなくてね。あとは紫に任せるよ」

 

 言葉を皮切りに、一つのスキマがレミリアたちの背後へ切り開かれた。

 無数の目玉がギョロギョロと蠢く不気味な領域が露わになる。馴染み深い異空間から先ず姿を現したのは、妖怪の筆頭、八雲紫本人だった。

 

「ご機嫌麗しゅう、サー・スカーレット。幻想郷の代表として参上仕りましたわ」

『スキマ妖怪……!』

 

 最早その身に歯は無くとも、歯軋りが聞こえてきそうなほどに卿は吼えた。計画へ悉く狂いを生じさせた主犯格であり、忌々しくもその手腕を認めざるを得なかった妖怪の賢者。ある意味ナハト以上に卿を苛ませた第二の宿敵。それが、西行妖を筆頭としたあらゆる楔から解き放たれ、満を持して姿を現したのだ。

 

『……ハッ。今更何しに現れた八雲紫。私を四季映姫に代わって断罪しようとでも言うつもりか?』

「いいえ。それを決めるのは、これからの貴方自身です」

『なに?』

「そも、ここに来たのは私だけではないのですよ」

 

 扇を優雅に振りかざす。それが一つの信号となった。

 蓬莱人の二人に始まり、白玉楼の姫君が。紅魔館の住人たちが。永遠亭の薬師と地底の覚妖怪が。氷精と大妖精、宵闇妖怪のトリオが。守矢神社の風祝が。魔法の森の人形使いが。四季のフラワーマスターが。――そして、博麗の巫女が。

 続々と紫の隣や上空へ、スキマを通じて姿を現したのである。

 

「彼女らは皆、貴方の宿敵たる吸血鬼ナハトと縁のあった者たちです。友人、悪友、知人、借りのある者と様々ですが、大なり小なり彼の死へ尾を引く者である事に違いは無い」

『――――』

「まどろっこしい事は抜きに、結論から申しましょう。スカーレット卿、()()()()()()()()()()()()()()

 

 八雲紫の信じ難い申し出に、スカーレット卿は言葉を失った。

 だって、卿は大罪の限りを尽くしたのだ。罪なき者たちを何度も欺き、利用し、辱めた。妖怪たちの大切なものだって踏みにじった。幻想郷の歴史に刻まれるほどの悪行を、僅かな時間でこれでもかと言わんばかりに遂行したのだ。

 なのに、どうして。

 どうしてそんな、ナハトのような唾棄すべき甘い和解の手を差し出してくると言うのだ?

 

「無条件で許す、と言っているのではありません。償いなさい、スカーレット卿。貴方が犯した罪を住人たちへ清算し、一生をここで過ごすのです。貴方がそれを望むなら、我々は此度の異変に目を瞑りましょう」

 

 幻想郷は全てを受け入れる。善も、悪も、受諾も、拒絶も。その者が幻想郷に在りたいと望む限り、この優しくも残酷な世界はあるがままに受け止める。それはスカーレット卿とて例外ではない。

 

 紫はこう言っている。ナハトへの贖罪も含めて、関わった者たちへ償うことで果たすのだと。積み重なった十字架を自責し生き続けろと。望むならばそれを受け入れると、紫は敢えてナハトと同じように和解の意志を示したのだ。

 この提案は、ナハトへの復讐に心血を注いだ卿にとって最大の侮辱行為だった。ある意味極刑の宣告と言えるかもしれない。だからとでも言うべきか、紫たちはこの話を彼に持ち掛けたのだろう。

 しかし、両者は共に知っている。

 示される答えの、その結末を。

 

『ふざけるな』

 

 吐き出されたのは、至極当然拒絶の言葉で。

 紫はただ、悪霊の静観を続けていた。

 

『この期に及んで和解だと……? この期に及んで大団円だと……? 笑わせるのも大概にしろ八雲紫ィッ!! 私が、このスカーレットがそんな言葉に首を縦に振るとでも思うか!? 幻想郷へ混乱をもたらし、無辜の者どもであっても利用する事を厭わず、ナハトを葬ったこの私が――』

「葬った? はて、何の事を言っているのやら」

『――あ、は?』

 

 そんな事実は存在しないとでも言うように。その言葉は偽りだとでも突き付ける様に。紫は扇子を唇へ当てながら、さも当然の如く言い放った。

 お前は何を言っているんだと、卿の表情無き暗黒の顔貌が訴える。けれど紫の態度は変わらない。ただ冷静に、『ナハトの死』を真っ向から否定した。

 感情の波乱が、暴徒となって暴れ回る。 

 

『力の使い過ぎで頭がイカれたのか……? それとも現実を受け入れる力を失くしたか? 何をどう見たらそう宣えるのだ。貴様があれこれ策を弄して手を差し伸べた老害は、雪とも灰ともつかぬほど跡形も無く始末されたというのに』

「……貴方、ナハトの宿敵を名乗る割には彼の事を何も分かっていないのね」

『なに、を』

「忘れたの? 彼の底知れない生命力を。幾度の死闘を繰り広げても滅びなかった不死性を」

 

 魂が凍ったかと、スカーレット卿は錯覚した。

 ドクンと激情の波動が身を震わせる。有り得る筈の無い言葉が精神を容易く搔き乱す。

 だって、ナハトはどう考えても滅び去ったのだ。何度も何度も太陽の輝きをその身に受けて。存在の核を消し飛ばされて。自らの命も絞り尽くして。吸血鬼ナハトという不死の怪物を葬り去ったのだ。

 なのに、どうしてそんな妄言を吐く事が出来る?

 

 紫に虚飾の色が欠片も見えない。それは彼女が本心から言っているのだと、スカーレット卿へ信じがたい事実を叩きつけた。

 

「だから償えと言っているのです。それはナハトに対しても含まれるのよ。もちろん灰ではなく、生きている彼に向かってね」

 

 卿は、一つ勘違いをしていたらしい。

 紫はナハトへの償いを他の者たちへ払う事で成せ、と言っていたのではない。ナハト自身へ直接行え、と言ってのけていたのだ。

 スカーレット卿ですら狂気の沙汰とした思えぬ言葉を、八雲紫は平然と告げていたのである。

 

『――有り得ん。有り得ん有り得ん有り得ん有り得ん!! 奴の不死性をもってしても有り得る話ではないッ!! 寝言を抜かすなよスキマ妖怪、そんな事は不可能だ!』

「そうね。埃よりも小さな粒へと消えた彼が、自力で復活する事はまず無いでしょう。――けれど、不可能を可能にする程度の事が出来なくては、真の賢者は務まらなくてよ」

『ふざ、けるな。ふざけるなッ!! そんな事があって堪るかァッ!!』

「……もし、彼が幻想郷へ辿り着いたばかりだったなら。貴方の言う通り、ナハトには死以外の道筋は残されていなかった」

 

 それは、きっと訪れるべき結末だったのだろう。

 ナハトと言う歪みは、迫害なくして生きる事の出来ない矛盾の実体だ。彼が友を求めても、彼が安寧を求めても、それは世界が許さない。ナハトの根源が許さない。吸血鬼ナハトは恐れられ、忌み嫌われてこその存在なのだから。

 

 もしナハトが誰にも頼れなくて、誰からも信を置かれない災厄だったならば、きっと伊吹萃香との戦いで滅びていた。

 仮に生き延びたとしても、スカーレット卿によって敵意を集められた時、幻想郷中の大妖怪から命を狙われ呆気なく奪われていた事だろう。

 けれどそうはならなかった。恐怖を植え付ける根源の瘴気を持ち、拒絶されて当然で、決してこの世界に生きるべき存在ではなくとも、彼は幻想郷に受け入れられた。

 それはひとえに彼の善性があったからだ。彼の善性に動かされた者たちがいたからだ。不条理な真実を知って助けになりたいと願える、知性あるものなら誰しもが持つ親愛を、幻想郷の善き人々が持ち合わせていたからだ。

 

「彼は果ての無い時間の中を運命に嫌われながら生きてきた。世界からバグとして排斥され生きてきた。報われない永遠の生を余儀なくされ、矛盾と理不尽が足元へ絡み付く茨の道を歩まされて生きてきた。きっと、これからもそうだった。その筈だったのよ。――でも、それを変えたのは貴方だ。彼を陥れようとした貴方の悪意が我々へナハトの真の姿を曝け出し、彼の運命を打ち砕いた」

 

 苦難の道ではあったかもしれない。終点の見えない荒野ではあったかもしれない。

 でも、吸血鬼ナハトは勝ち取った。多彩でありながら盲目で、悪性でありながら善道で、偉大でありながら矮小な吸血鬼は、友を得ると言う、ほんの小さな奇跡を成し遂げることが出来たのだ。

 

 だから、彼は死なない。

 友人は、彼が報われぬまま死ぬことを許さない。

 だって。あの吸血鬼はただの一度だって友と宴会をした(夢を叶えた)ことすら無いのだから。

 

「私たちは彼の存在に、瘴気に、根源に怯え、内包されていた真実から目を背けていた。だから彼を疑ったし、攻撃したし、迫害もした。それは紛れもない、覆す事の出来ない事実でしょう」

 

 始まりはスカーレット卿と同じだった。実体不明の異物を嫌悪し、それを排斥しようと躍起になった。けれど恐怖を克服したその先に見えた真実は、とても綺麗なものだった。

 ただ、それを知っただけじゃ何も変わらなかった。一人や二人が彼の真実に気付いたとしても、事態は好転しなかった。

 

「しかし全ての障壁は打ち砕かれた。最後の一枚は、他ならない貴方自身の手によって」

 

 それを覆したのは。最後の砦を破ったのは。

 皮肉な事に、怨敵たるスカーレット卿だったのだ。

 

『だま、れ』

「今まで私たちは勝手に彼を勘違いしていた。でも貴方はそんな状況に置かれていた彼を自らの憎悪に従うまま、擦れ違いが起きる為のマジックを作ってしまった。貴方と言う()()を作り出してしまったのよ」

『黙れと』

「タネが解けた魔法はただの手品へと成り下がる。不可解な現象へ納得のいく答えを作ってしまう。それはもはや幻想ではない。だから私達はここへ集った。貴方という答え(タネ)が彼を覆う暗雲を解き明かし、我々へ真実を齎した。瘴気なんて見掛け倒しでしかない、平々凡々な吸血鬼だと教えてくれた」

『黙れと言っているだろうがッ!!』

「いいえ認めさせてやるわ、憎悪に溺れた哀れな悪魔。貴方がナハトを助け、ナハトに敗北したという事実を。他の誰でもない怨敵の貴方が! 彼が運命に打ち勝つ為の、最後の刃になったという現実を!」

『その口を閉じろスキマァッッ!!』

 

 ボコボコと、スカーレット卿の魂魄の体に不気味な泡が浮き上がる。人型だった真っ黒な魂は、その感情の醜悪さを成すように異形へ変異を遂げていく。

 

『私が、奴に負けた、だと……? 灰塵と化し息絶えたあの老いぼれに、私が敗北しただと? 私が運命に勝たせただと? 笑わせるな境界の小娘めがッ!! 貴様がどれだけ屁理屈の理論武装を重ねようが、奴が葬られた事実は永劫に変わらん! あの男の反吐が出る善良性に気付いてここへ集まったと言ったがな、人の形すら留めず、力も全て失った死骸を見ても、まだ貴様はッ! ナハトが完全勝利したと宣えるのか!?』

「言えるわよ、悪魔の(デーモン)伯爵(ロード)。疑いようもなく我々は――いえ、彼は貴方に勝利した。貴方が奪い去る事の出来たものなんて、この場にこれっぽっちもありはしない」

『……!!』

 

 怒りがわなわなと震えを呼ぶ。憎悪が魂を焦がして猛り吼える。

 手足も、頭も、何もかもが輪郭を失い、ドロドロに入り混じった獣の姿へと成り果てた。

 ぐちゃり、と亀裂が顔を横に割るようにして走り抜ける。歪んだ牙が顔を覗かせれば、月明かりを粘質な輝きと共に反射した。掻き混ぜられ、引き裂かれたその顔貌は、もはや悪霊の範疇を超えていた。

 

『いいや……いいや! それは断じて認められない! それだけは、断じて認めることは出来ない! 例えこの魂が無窮の悪でも、例え一切の血と涙を捨てた身でも! 最後の勝ちはッ! ナハトへの勝利だけは!! 譲るワケにいかんのだ!!』

 

 暗黒の蝙蝠は天高く咆哮を上げる。どす黒い怨念を巻き散らし、憎悪と憤怒を灼熱地獄の如く焚き上げる。

 だが今のスカーレット卿に力なんて残っていない。例え万全の状態であったとしても、この場の全員を凌げる策なんて有りはしない。

 今度こそ、本当の本当に最後の一撃で、最期の一条。この先に歩める未来は無く、スカーレット卿という存在は塵すら残さずに消え果てるだろう。

 

 けれど、彼は欠片も恐怖を抱かなかった。

 レミリアには――幻想郷には敗れ去った。だがナハトにだけは敗れていない。それだけはどう足掻こうとも覆させない。

 そんな虚無の中で叶えた幻想を抱きながら、砕け散る事を選択したから。

 

『刮目するがいい、東方の幻想ども! これが、これこそがッ! 歪み無き我が邪道の最果てである!!』

 

 終幕の墜落が始まる。

 持ちうる全てを解放した、最後の悪あがきが火蓋を切る。

 

「結構」

 

 パチン、と。扇子が音を立てて葉を閉じた。

 切っ先が迫りくる邪悪な隕石へ向けられる。紫の合図に呼応して、静観していた少女たちが、皆一様にカードを取った。

 スペルカード。弾幕の華々しさを競い合う遊戯で使う、宣言用の小道具だ。

 

 しかしそれは処刑の宣告に非ず。それは断罪の判決に非ず。

 それは、幻想郷という楽園の信念である。

 

「ならばせめて……美しく残酷に、この世から去りなさい」

 

 彩り鮮やかな弾幕の舞踊が、スカーレット卿を迎え入れるように華を咲かせた。

 極彩色の豪華絢爛が夜を飾る。しかしそれは決して命を奪う凶器ではなく、少女たちが各々秘める美しさを体現した幻想賛歌の音色だった。

 それでも弾幕に変わりはない。巻き込まれればスカーレット卿の絶命は免れられないだろう。

 反して、悪魔は怯む様を見せなかった。

 過程や方法が決して認められる事の無い悪性権化であったとしても。ただただ邪悪で、ただただ一途な紅魔の悪魔は。身を捧げるように飛び込んだ。

 

『ああ。この手は確かに、真の勝利を掴みとった!』

 

 百花繚乱の瞬きは、一つの魂をあっと言う間に呑み込んでいく。

 空に向かって咲いた無数の華は、やがて夜の闇へ溶けていった。

 

 全ての光が止んだ時、嘘の様な静寂と、冬の侘しい寒々しさと、いつもの幽玄な月が佇んでいて。

 扇子を懐へと仕舞い、花鳥風月のさざめきを、紫は一心に受け止めた。

 

「……認めましょう、サー・スカーレット。我らの怨敵として在りながらも、貴方は誰よりも妖怪だった」

 


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