【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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5.「親愛なるあなたへ、愛の手を」

 壁紙や絨毯といった、部屋を構成する殆どが紅を基調とした洋室。大きなベッドの上には艶やかな棺桶が重々しく置かれており、部屋に一つも窓は無い。人間の視点から見れば、ここは牢獄か霊安室だとでも勘違いする者もいるだろう。

 しかしここは、誰が何と言おうと私の私室だ。

 そしてこの絶対的プライベートゾーンとも言える場には今、私以外にもう一人存在していた。

 かつて闇夜の支配者とまで謳われ、最強の吸血鬼の称号を欲しいままにした亡き実父すら一目置いたと言う義理の父。ナハトおじ様その人である。

 

『レミリア、少し時間をくれないか。フランの事で話があるんだ』

 

 咲夜と共に図書館へ向かう道中だった。丁度入れ違いになりかける形でおじ様と遭遇し、この言葉で私は再び自室へ引き返す事となり、今に至る。無論、従者と言えど咲夜はこの部屋に入れていない。あの子には地下室で、美鈴やパチュリーと共にフランの様子を見て貰っているところだ。

 件のおじ様は相変わらずこちらの産毛が逆立つ様な威圧感を放ちながら、咲夜が去り際に気を遣って置いて行った紅茶を飲んでいる。

 

「それで、フランの話って何かしら?」

「……その前に少しだけ確認したい。君は、あの子の狂気に対してどのように認識しているのかな?」

「狂気ね……。美鈴やパチェと調べた限り、あの子の精神には何か別の精神的存在が寄生していて、それがあの子の心へ干渉し精神状態を攪乱させている。今は共存関係にあるのか侵食はされていない様だけれど、いつ精神的存在が活性化するか分からない。文字通り爆弾を抱えているような状態と言ったところね。分かる事と言えば、それくらいかしら」

「では、その何かの正体については?」

「分からなかったわ。私やパチェの分析魔法や美鈴の『気』を使っても、高度なプロテクトが掛かっていて詳細を見る事は叶わな――――まさか、おじ様はアレの正体が分かったの?」

「ああ。先ほどあの子の心を覗き見た時に、正体が分かった」

 

 ガタンッ、と椅子を蹴り飛ばす勢いで私は立ち上がった。じっとして居られる訳が無かった。妹の心へ巣食い続け、あまつさえ400年前にあんな大惨事をフランに引き起こさせたような奴の正体が分かったと言うのだ。今回ばかりは感情が昂るのも、致し方ないとさえ思えてしまう。

 

「おじ様、そいつは一体誰? どこの馬の骨なの? あの子にとり憑いたどうしようもない愚か者の正体は何!?」

「レミリア、少し落ち着きなさい」

「これが落ち着いていられるものですか!!」

「座りなさい」

 

 おじ様の口調がほんの少しだけ、諭す様に強くなったと思ったその瞬間。ビリッ、と電気のような衝撃が肌を走り抜けた。冷水を脊髄に注入されたかのような寒気が全身を襲い、沸騰しかけた頭が急激に冷めていくのを実感する。

 

 ……熱くなりすぎた。冷静な対話ができない状態では、おじ様も喋りたいことが話せないのだ。まだ、この長年溜まり続けた怒りを爆発させる時ではない。

 ごめんなさい、と謝罪して私は席へ着く。冷えた血の気を少し温めるように、紅茶を口に含んだ。

 

「すまない、少しキツく言い過ぎたね。しかし焦れば思考に膿が生じてしまう。今回の事件……特にその正体に対する対応は、熱を持った判断では到底手に負えるものではないのだ。分かってくれ」

「いえ、私が熱を持ち過ぎたのが悪いのよ。……それで、他に何か聞きたい事はある?」

「最後に一つ。私が館を離れてから、一体何があったのかを教えて欲しい。特に、フランがとり憑かれたと初めて発覚した頃の事を、詳細にだ」

「…………ええ、分かったわ」

 

 フランが取り憑かれたと分かった日。それは紛れもなく、400年前のあの日だ。あの忌まわしい、吸血鬼たちによる覇権争いが起こり、そしてそれが終息を迎えた日だ。

 

 400年前の当時、吸血鬼狩りの影響で同族たちが次々と紅魔館を去り、他の地へ安息を求めて移住していった。結局館にはもう、おじ様に私とフラン、そして最後まで残っていた美鈴だけとなったのである。更におじ様が急遽館を空けると私や美鈴に伝え、そのまま旅立ってから一月ほど経った後の事だ。

 

 突如、様々な派閥の吸血鬼たちが紅魔館へと攻めてきた。

 

 奴らは、おじ様を極度に恐れていた。故に、吸血鬼にとって支配者の証とも言える紅魔館の実権を欲しくても手が出せずにいたのだが、おじ様が館を離れたと知って、紅魔館を乗っ取ろうと我先に舞い戻って来たのである。

 

 それからの日々は、まさに地獄だった。連日の如く攻めてくる吸血鬼や使い魔の対処に、私と美鈴は追われ続けたのだ。

 どうやら奴らはおじ様にこの事件の情報が伝わらないよう情報封鎖を施していたらしく、おじ様の援軍も望めずに私たちはジリ貧へと追い込まれていった。私は特に、齧る程度しか戦う術を学ばなかったので、傭兵家業を本職としている美鈴より疲弊が強く、眠りにつくときは半ば気を失うような形で夢の世界へ旅立っていた。

 

 それでも何とか、おじ様に託され先祖から受け継いだこの家を、そして戦う事を知らず怯えて震えていた妹を守りたい一心で、私たちはずっと戦い続けた。

 しかし、限界と言うものは必ず訪れる。

 数の不利、能力の不利、力の差など、半ば無理やり埋めていた格差は再び開かれ、遂に私たち三人は地下室にまで追い込まれてしまったのだ。

 

 籠城するため、最後の力を振り絞って施した封印魔法が破壊されるまでのタイムリミットが近づいていく極限状態に、私と美鈴は絶望に近い感情を抱いていた。

 もう終わりだと実感した。どう足掻いても死の未来しか有り得ないと理解していた。

 運命を覗き見ても、そこには真っ赤な肉塊の様なものが転がっている光景だけ。この肉塊が誰なのかはわからないが、恐らく自分たちなんだろうな、と嫌に冷静な頭で思い浮かべていたのを覚えている。

 

 ……この時までの私は、実はおじ様の事が嫌いだった。

 憎んですらいたと思う。幼い記憶に僅かだけ残っている、スカーレット卿と称えられた父。そして妻たる母が吸血鬼狩りに殺され、そのまま私はおじ様の義娘となったのだが、当時の幼い私はそれが不満で仕方がなかったのだ。

 

 何故、私の両親が殺されなくてはならなかったのか。

 どうして闇夜の支配者とまで称えられ、最強と誰しもが認めた実の父ですら力を認めたこの恐ろしい吸血鬼が紅魔館に居ながら、親は無残に死の屈辱の味を舐めなければならなかったのか。

 おじ様は私の親を見殺しにして、紅魔館元当主の血筋たる私を駒にしよう等と思っているのではないか。

 

 そんな根も葉もない考えばかりを浮かべていては、ずっとずっと憎んでいた。こいつは、私の両親を見殺しにした逆賊なんだと。

 逆恨みに等しい感情だった。だから常に凄まじい威圧感を放ち、それでいてニコニコと薄気味悪い笑顔で接してくるおじ様の事が、堪らなく嫌いだった。

 館を出て行くと聞いた時は、本当に心の底から喜んだほどだ。やっとあの禍々しい瘴気から解放される。もうあの逆賊の顔を拝まずに済むんだ、と。

 

 それが間違いだった。自身の命があと一歩で消えるという所で、ようやく私は自分の考えが間違っていたのだと気づいたのだ。

 

 おじ様があんな威圧感を常日頃放っていたのは、私たち姉妹に欲深い吸血鬼の魔の手が迫らないようにする為の防護策だったのだ。自身の娘として扱ったのも、闇夜の支配者とまで言われたおじ様の家族に手を出せば、どうなるか分かったものではないと思わせる為の予防線だ。

 

 あの人は常に、私たち姉妹のことを一番に考えて行動してくれていたのだ。例えその結果、娘の一人に嫌われるような事になろうとも。

 そして吸血鬼たちが去って、漸く安全が確保できたと判断し、彼は私たちに安心の出来る生活を静かに送ってほしいと、館から身を引いたのだと悟った。

 

 私の中にあるおじ様の像が、完膚なきまでに崩れ去った瞬間だった。彼の事は、私たちを懐柔しようとして近づいてきているだけの反逆者だとばかり思っていた。だけど実際は、私たちの事を親身に考えてくれていた、ただの一人の義父だったのだ。

 

 途端におじ様の事が解らなくなった。私は、あの人の事など何も知らない。知ろうとすらしなかった。格の違う吸血鬼で、私たちを操り権力を手に入れようとする最悪の義父だと、そればかり思っていた私は、子想いの親切な父の姿と、偉大で恐ろしい吸血鬼のどちらがおじ様の本当の姿なのか分からなくなってしまっていた。

 

 でも、その時一つだけ分かった事は。

 

 私がおじ様を信じて、避けたり反抗的な態度さえ取っていなければ、おじ様も身を引いて私たちだけの安心できる生活を叶えようなどとはせず、ずっと館に居てくれただろうという事だ。そうすれば、こんな結末を迎える事は無かっただろうという事だ。

 

 壁に寄りかかり、震えるフランを抱きしめて、私は一人涙した。美鈴がずっと、私の頭を撫でてくれていたのを、今でもはっきり覚えている。

 

『お願い、助けて』

 

 悪魔が言うのも変な話だが、神に縋る思いで私は呟いた。もうそんな事を言ったところで、どうにもならないというのは分かっていたのに。

 しかし、予想に反して事態は一変した。まるで私のその言葉が、運命を逆転させるトリガーとなったかのように。

 変化はすぐ傍で起こった。私が抱きしめていたフランが突如、何かを独り呟き始めたのだ。

 

『おじさま……? え、う、うん。そうだよ、フランだよ。それより、一体どうなってるの? 何でおじさまの声が聞こえるの? うん、うん。えっ!? おじさま、な、なんで!? 何でそんな事に!?』

『…………フラン? どうしたの?』

『うん………うん。でも、でもおじさま。私の力は危ないよ。きゅってしたら皆死んじゃうよ。でも、そうだけど……嫌だよ。怖いよ』

『フラン? フラン!? どうしたの、気をしっかり持って!』

『でも……でも…………うん……そう、だね。このままだと、皆死んじゃうもんね。…………分かった。分かったよ、おじさま。私が守る。私が、美鈴とお姉様を守ってみせる。だからお願い、私に皆を守る勇気を頂戴』

『フラ―――――――』

 

 気が弱くて、大人しくて、虫さえも殺せず優しすぎるとさえ思えたフランが、その会話を境に一気に豹変した。

 私の腕からすり抜けて、まるで何者かから指示を受けているかのように、的確な動きで封印魔法を粉微塵に破壊してしまったのだ。

 突然の行動に、私と美鈴は呆気に取られてしまっていた。

 

『妹様!?』

『フラン! 貴女、何をしているの!? その魔法を壊してしまえば奴らが!』

『大丈夫』

 

 冷ややかな声色だった。いつもニコニコと笑っていて、私の後ろを子犬の様に着いて回ったフランのものとは到底思えない、鋭いナイフの様な冷酷さを孕んだ声だった。

 瞳はどこか別の場所を見ているようで、その眼を見た私は、この子がどこか取り返しのつかないくらい遠くへ行ってしまうのではないかと恐怖を抱いたほどだ。

 

 そして彼女は笑った。いつもの朗らかで、吸血鬼らしくない陽だまりの様に暖かい笑顔を、ふわりと浮かべた。

 

『私が、皆を守ってあげるからね』

 

 それが口火となった。あの子は部屋を普段からは考えられない豪速で飛び出し、私たちが静止を掛ける暇もなく、吸血鬼の戦争が行われている紅魔館の本館へ走り去っていったのだ。

 

 直後だった。男女を問わない凄まじい悲鳴のコーラスが、上の方から喧しく響き渡って来たのは。

 

 私たちは反射的に部屋を飛び出した。長い階段を飛んでいる最中も、悲鳴が止むことは決して無かった。

 地上へ近づけば近づくほど、今度は何か液体の詰まった袋が破裂しているかのような、耳にするのも悍ましい音が鼓膜を突いた。まさか、まさかと頭の片隅に湧き上がってくる想像を叩き伏せて、私は全力で上へ向かった。

 

 やっとの思いで地上へ辿り着き、そして目にした光景に、私は言葉も、動きすらも失った。

 

 アカだった。

 辺り一面……否、視界一面が、真っ赤な液体で染め上げられていた。

 

 紅魔館の元々の装飾ではなく、純粋に生き物の体液のみで、この黒混じりのアカを演出していたのだ。

 だがそれだけではなかった。むせ返るほどの鉄の匂いが充満し、ぶよぶよとした大小謎の塊や、まだ脈を打ち液体を吹き出す心臓。痙攣する単品の手足に、誰の物とも分からないガラス細工の様な眼。顎から下を全て失くし、虚空を見つめる頭だったものさえ、そこら中に散らばっていた。

 

 言うまでもなく、それら全てが、この館を我が物にしようとしていた吸血鬼や、それに従う使い魔たちのもので。

 

 私が運命を覗き垣間見た地獄がまさに、広がっていた。

 

 事態を把握して、突発的に胃の中のもの全てをぶちまけてしまいそうになった私は、口元を抑えて気合で押し込んだ。隣を見ると、それなりの修羅場をくぐって来ただろう美鈴ですら青い顔をしていた。

 

 私は顔を前に向け、惨劇の爆心地へと視線を移す。

 彼女はぼうっと立っていた。役目を終えた機械の様に、血だまりの中で静かに、両手を見つめながら立っていた。

 

『フラン、貴女……!』

『ん? お姉様……。終わったよ』

 

 終わったよ、とは何なのか。何を指して終わったと、フランは言っているのか。

 その時の私は、彼女の言葉を一つも理解できなかった。理解したくなかっただけなのかもしれない。

 

『貴女、なんで。なんでこんなことを……ッ!』

『だって、こうしないと皆殺されちゃうから。皆を守れないから』

 

 仕方ないでしょ? と彼女は言った。ただただ、平坦と言ってのけた。それが私には、どうしようもなく恐ろしかった。

 一体、何が原因だったのか。とにかく彼女は、もうあの優しくて臆病なフランドール・スカーレットでは無くなってしまったと思った。

 美しい金糸の髪すらも赤に染め上げて、虚ろな表情のまま薄く笑う少女が、おじ様よりも恐ろしい怪物に見えてしまったのだ。

 

 館の残骸を全て片づけた私と美鈴は、直ぐにフランを地下へ閉じ込めた。

 理由は二つ。狂気に汚染されてしまったのではと判断したこと。そしてもう一つは、彼女の存在を明るみに出させないようにすることだった。

 

 数多の悪魔を単身で葬った吸血鬼がいるなんて知られれば、当然吸血鬼狩りの矛先全てがフランへと向く。おじ様が居た頃ならばまだしも、今襲撃を受けると確実に殺されてしまうのは明白だ。

 

 だから情報封鎖を徹底して行った。周囲一帯の妖怪は吸血鬼の死骸を投げつけて脅し、紅魔館で死した同族は全て、吸血鬼狩りに遭って殺されたものだという事にした。フランの存在は絶対に明るみに出ないようにした。

 そして自然と、真実を知る周辺の妖怪たちからは、私は紅魔館の当主として認識されるようになり、パチェが訪れるその日まで誰も傍に近づくことは無くなった。

 

 それからフランの狂気の正体を探り続け、何かに取り憑かれていると判断した私はずっと治療を試み続けた。結果は惨敗に終わり、そして現在に至る。

 

 これが、フランの狂気と私が過ごして来た400年の、大まかな概要だ。血みどろに濡れてしまった、悍ましい記憶の一幕だ。

 私はそれを、おじ様が嫌いだったことは伏せ、その他全てを包み隠さず話した。全てを聞いたおじ様は、その目に明らかな罪悪感を湛えていた。

 

「まさか、あれからそこまでの惨事となっていたとは……すまなかった。私の配慮が至らなかったばかりに、随分と辛い思いをさせてしまった」

「いいのよ。私も、自分を過信し過ぎた非があるわ。それに、別に悪い事ばかりじゃない。パチェにも会えたし、咲夜とも会えた。二人に会えたのも、あの事件があって今の紅魔館の基盤が出来たからこそよ。……フランに関しては、ずっと気づいてあげられなかった私の方こそが悪いのだから」

「……ありがとう、辛い記憶を話してくれて。お蔭で合点がいった。奴が何故、フランの心に取り憑いたのかが。出来れば、こうであって欲しくないと思っていたのだが」

 

 フランに憑いたモノ。その言葉を前に、私は再び頭が熱くなって、しかし同じ轍を踏まないように深呼吸をした。会話を乱すのは時間の無駄だ。淑女たるもの冷静さを崩すべからず。ただの方便だが、今回はその言葉にあやかる事にした。

 

「私の話せることは話し終えたわ。次は、おじ様が話して頂戴。フランの心に、一体何が食らいついているのかを」

「…………いいか、レミリア。私は包み隠さず、正直に正体について話す。ここに嘘偽りは存在しない。だけど、どんな答えであっても冷静さを失ってはいけないよ。誓えるかい?」

「覚悟はできているわ」

「分かった。話そう。あの子の心に憑いたモノの正体、それは―――――――」

 

 おじ様の口から、長年フランを蝕み続けたものの名が語られる。

 そしてそれを耳にした瞬間。あまりに予想外な答えを前に、私は視界が白く光り、爆発したかのような幻覚を垣間見た。

 

 

 目が覚めて初めに目にしたのは、私を心配そうに覗き込む美鈴の顔だった。

 柔らかい花の様な優しい香りが、彼女の美しい紅髪からふわりと薫る。途端に現実へ意識が向いて、私はベッドから上体を起こし、周囲の状況を見渡した。

 地下室だ。私がいつも寝食を行う場所にいる。と言う事は、あの後美鈴にここへ運ばれたのだろう。

 

「美鈴……?」

「あ、気が付かれましたか。すみません、無礼な真似をしました。お許しください」

「ううん、いいの。美鈴は悪くないから。……アイツ以外は皆、ここに居るんだね」

 

 何を企んでいるのかは知らないが、普段の地下室を知る私からしてみれば、信じられない程の大所帯となっていた。

 

 部屋の隅には咲夜が居て、鉄仮面な彼女にしては珍しく、心配そうにこちらを見ている。その反対側の壁際にはパチュリーと小悪魔が居た。パチュリーはグリモアを展開して、何か魔法を発動させている様だ。

 

 そう言えば、体に力が入らない。手を見てみると、八の字を描くように水が流れている、さながら流水の手錠だ。パチュリーの精霊魔法だろう。これが私の力を封じて拘束しているのは一目瞭然だろう。

 

 と言う事は、だ。私をここに放って帰らず、わざわざ拘束して見張っているところから見て、ヤツがやってくると見て間違いない。

 

 丁度タイミングよく、地下室のドアがゆっくりと開かれた。

 同時に濃厚な力の気配が肌に纏わりついてくる。懐かしいおじさまの気配だ。でも今は別に嬉しくもなんともない。だってこの気配を出している人物は、おじさまを殺して力を奪った最低な偽者なんだから。

 

 ドアが開くと、予測通り偽者とアイツ……お姉様が居た。お姉様の顔が何やら焦りというか、まるで信じられないものを見たかのような顔をしている。一体何があったのだろう。まさか偽者に、色々と吹き込まれたんじゃないだろうか。

 

 お姉様は咲夜の傍に待機して、偽者だけがベッドの近くまで寄る。そして奴は美鈴が差し出した椅子へ腰かけた。丁度、半身を起こした私と対面する形だ。

 

「……一体何をするつもりなの。私をこんな風に拘束して、皆を騙して丸め込んで包囲網まで作って。流石元バンパイアハンターは違うわ、とことん性根が腐ってる」

「何のつもり、と聞かれてもね。言っただろう? 私はフランと話をしたいだけなんだ」

 

 ビキッ、と血管が浮かび上がる様な感触を覚えた。

 こんな風に、本当のおじさまの様に優しく名前を呼ばれると無性に腹が立つ。その声で名前を呼んでいいのは、正真正銘の本物だけだ。紛い物なんかじゃ決してない。ドッペルゲンガーはお呼びじゃないんだ。

 

 唾でも吐き掛けてやりたい気分だった。でも、そんな下劣な真似は絶対にしない。そんな事をしたら、この偽者と同じ格にまで堕ちてしまう。

 

「話……ねぇ。いったい何を話すというの? 私は貴方なんかと一秒でも話していたくないわ」

「なぁ、フラン。信じて貰えないのは分かっているが、私は正真正銘本物のナハトだ。君の幼い頃の事は、この場の誰よりもよく知っている。折角再会したんだ。少し、思い出話をしようじゃないか」

 

 血が沸騰しそうになる。もし枷が無ければ、今の私は爪が伸び、牙が生え揃った吸血鬼らしい容姿へ変異していた筈だ。多少は憤怒の影響が出ているのか、眼が充血して熱くなっている感覚があった。

 

 こいつは、まだ言う気か。まだ私を懐柔しようとしているのか。

 そこまでして私を、私たちを駒にしたいのか。そうまでして紅魔館の権力と財宝が欲しいのか。私とおじさまの思い出を土足で踏みにじりますと、わざわざ宣言まで下して。

 不愉快、極まりない。

 この流水の手枷さえなければ、その減らず口を叩く唇を、頭ごと粉微塵に爆砕してやるのに。

 

「…………れ」

「君は能力の制御が、最初はとても下手だった。私と共に、よく練習したものだ。君は誤って物を壊すたびに、いつも泣いていた」

「黙れ」

「5年もかけて漸く能力を克服して、レミリアと初めて会った日の事を覚えているか? 君は本当に嬉しそうに、何度も何度も私へレミリアと話した内容を報告してきたな」

「黙れ……!」

「レミリアと喧嘩して、どうやって仲直りしたら良いか分からなかった君は、私へ謝り方を聞きに来たのだったか。そしていざ行こうとするとレミリアの方が先に謝りに来たものだから、毒気を抜かれて、姉妹二人でずっと笑い転げていた事もあった」

「黙れ!! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れええええええ!!」

 

 我慢の限界だ。殺してやる。何が何でも、こいつを八つ裂きにして殺してやる。

 生きている事を後悔させてやろう。かつて私とお姉様を利用しようとした同族達と同じ、いやそれ以上に凄惨な目にあわせてやる。地獄が生温いと言う事をその身に叩き込んでくれる。

 

 私とおじさまの思い出を、知った風に語るその口が許せない。笑顔で宥めるように語り掛けて、おじさまの仕草を真似ているのが腹立たしい。だが、そんな事よりも。

 

「その顔で、その声で、その姿で!! これ以上私に話しかけるなッッ!! 消えろ偽者! お前は、お前はおじさまなんかじゃない!! お前は、おじさまなんかじゃ……!!」

 

 偽者なのに、こいつの事が本物に思えてしまう自分が、心の底から許せない。

 400年間もずっと一緒に居てくれた魂のおじさまを否定する様で、400年間を全て台無しにしてしまう様で、私はそれがどうしようもなく許せなかった。なんて、なんて傲慢な娘なのだろうかと。

 

 ああ駄目だ。さっきの戦いのときに生まれた疑いの種が、私を駄目な私にしている。いつも私とお話をしてくれていたおじさまを疑う様な、悪い子に成ってしまおうとしている。

 

 恐らくアレだ。あの眼で覗き込まれたときに何かをされたんだ。精神干渉術でも仕掛けられたんだろう。そうだ。きっとそうに違いない。

 じゃなきゃ、そうじゃなきゃ、何でこんなに辛い。どうしてこの偽者に暴言を吐くことが苦痛に思えてしまう。私がそんな心を抱くわけがないんだ。奴は紛い物、偽者、最悪のドッペルゲンガーでしかない筈だ。そんな相手に、こんな、こんな感情を抱くわけがない。

 

 この感情は、術を掛けられて偽者に騙されているだけだ。私は、フランドール・スカーレットは卑劣な妖術如きに絶対騙されたりなどするものか。

 

「私は騙されない。おじさまは私の中に居る。おじさまの灰を吸い込み、力を奪って姿を真似ただけのお前を、認めてなんかやるもんか」

 

 殺意を漲らせ、私は偽者を睨み付ける。それしかできない自分が、本当に歯痒かった。

 偽者は、私の言葉を黙って聞いていた。噛み締めているのか、何かを企んでいるかはわからない。偽者のくせに、考えを読み取る事の出来ないおじさま独特の神妙な顔つきのまま、ずっと黙り込んでしまった。

 

 暫くして、奴は右手を静かに挙げた。何をするつもりだろうか。

 

「パチュリー。フランの拘束を解いてくれ」

「……あなた、本気? 今のフランは酷い興奮状態にある。解いた瞬間、破壊されるわよ」

「対話とは、話し合う二人が対等の立場となって初めて成立するものだと思っている。この様に縛られたままでは、フェアではないと気が付いてね。フランが話を聞いてくれないのももっともだ。だから、外して欲しい。頼む」

 

 パチュリーは数拍の間迷いを浮かべて、渋々グリモアを閉じた。瞬間、私の両手を封じていた流水の手枷が泡の様に消え去り、自由な両手が露わとなる。

 力が戻り、魔力が漲る。今なら、直ぐにでもこの男を爆砕してやれる。

 

 フェアじゃない? 対話にならない? 私は元より贋作と会話をする気なんてさらさらない。

 吸血鬼の誇りある行動を気取っているつもりか。ならば後悔させてやる。私に好機を与えた事の愚かさを。己の罪深さを。

 

 私は右手のひらを偽者へ向けた。力を右手に集中させ、頭の『目』を奪い取る準備段階へ入る。後は『目』を奪って握り潰せばいい。その一アクションで、この男はただの腐臭漂う屍に成り下がる。

 

 でも、殺意に右手は反応しなかった。手を向けても、『目』を奪う気配すらない。指が一寸たりとも動かず、見えない糸で固定されているのかと思ってしまう。

 

「フラン」

「っ……私の名前を、呼ぶな」

「君がこれから私に何をしようとも、私は決して君を責めたりなんかしない。それで証明されるのは、私が君に本物だと信用されない、ただの不出来な義父だったという事実だけだ。躊躇はしなくていい。君の正しいと思った方向を選びなさい。私はその結果を全て受け止めよう」

「五月蠅い。言われなくてもその口、封殺してやる……!」

 

 手が、震える。

 指が動かせず、『目』が奪えない。頭以外の体がアクションを拒否しているかのようだ。本能とでも言うべきなのか、この男を壊したら、絶対に後悔すると私の心が警報を鳴らしているのだ。それはもう、とても、とても五月蠅く。

 

 これは偽者の放つ威圧感に気圧されたからではない。そんなもの、とうの昔に慣れてしまっている。

 殺意が足りない? 違う。今でもこの男を血祭りにあげてやりたい衝動に駆られている。おじさまの生を奪い、思い出まで踏みにじった相手だ。殺す決意は、十分すぎるほどに溜まっている。

 

 でも、出来ない。

 私は、彼を殺すことが出来ないでいる。

 気が付けば、私の手はだらりと情けなく下がってしまっていた。

 

「なんでぇ……っ……なんで殺せないの……!」

「……それは君が、心のどこかで私を本物なんじゃないかと思っているからだ。そうでなければ、君は今の瞬間迷うことなく私を殺したはずだろう。しかし今の君には、私を本物と認めるだけの材料が、とっくに揃っているんじゃないか?」

「違う……私は、貴方を本物と認めていない!」

「では、何故私が君との記憶をここまで鮮明に知っていると思う?」

「ッ!?」

「吸血鬼の灰を吸い込めば力を得られるのは正しい。でもね、姿や記憶までは一緒にならないんだ。そうなってしまうのなら、それは遠回しの乗っ取りと何の変りも無い。吸血鬼は、そこまで万能な生き物ではない」

 

 彼の手が、私の頬に触れた。大きくて、少し硬い手のひらの感触。それが、どうしようもなく過去のおじさまを思い出させた。

 

「言葉ではまだ確証を得るのは難しいだろう。だから少しだけ……ほんの少しだけ、私の記憶を君に見せよう。どうかこれを見て、事の真偽を見極めて欲しい」

 

 もう片方の手が、私の眼前へ広げられた。手のひらに強い魔力が集中しているのが分かる。黒い靄が渦を巻いて、そしてそれが、布を広げるようにして拡散した。

 

 闇が見えた。一寸先も見通せない、光の無い暗黒の空間がそこにあった。

 でもこれは、決して恐ろしい類の闇ではなかった。病気の時の悪夢の様に、早く逃げださなければと感じる闇ではなく、例えるなら親の毛布の中に潜り込んで目を瞑っている時の様な、絶対的な安心感が体を包み込む、心地の良い闇だった。

 

 目を凝らしていると、光の泡が見えた。それが、闇の中からあちこちと浮かんでくる。遂には満天の星空の様に、美しい光の泡のイルミネーションが飾るプラネタリウムへと変貌した。

 

 泡が一つ、二つと近づいてくる。そこには、私の知らない光景が広がっていた。

 初めに見えたのは、ベッドの上にごろんと転がっている赤子の映像だった。

 まだ完全に生え揃ってはいないけれど、金糸の様にキラキラしていて、指を通せばスルリと通り抜けてしまう様な髪の赤ちゃんだ。何故か凄く泣いている。あんまり皺くちゃな表情で泣くものだから、思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 

 光るシャボン玉が変わり、同時に映像も切り替わる。そこには一歳くらいの子供が映っていた。

 この子も金髪で、背中にはキラキラと輝く宝石の様な羽が揃う、見慣れた翼が一対生えている。

 

 この翼。瞳の色。髪の色。どこか面影を感じる、この顔立ち。

 まさか、この子は、私か?

 

 食い入るように映像を見てしまう。流石に一歳近い時の記憶など、残り屑程度も残っていない。

 まるでホームビデオを見ているような気分になった。この映像が偽者に見せられている事実なんて、いつの間にか頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。

 

 玩具で遊んでいた金髪の子供は、視界の主に気が付くと笑顔で歩いてきた。おぼつかない様子でよちよちと、こちらが頑張れと応援したくなるような足取りだ。

 案の定、途中でこけた。そしたら堰を切ったように泣き出して、視界の主は映像の子へ近づき、優しく頭を撫で始める。

 

 映像が変わる。今度は今までの和やかな雰囲気とは違い、殺伐とした部屋の映像だった。

 壁には穴が開き、絨毯はボロボロで、ぬいぐるみは弾け飛んでいる。そして部屋の中心には、ぬいぐるみの手らしき部分を握りしめて、大泣きしている金髪の子が映っていた。

 

 さらに映像が変わっていく。時間が経ったのか、金髪の子はかなり大きくなっていた。どうやら言葉をもうちゃんと喋れているらしく、視界の主と何かを話している。 

 ドクン、と心臓が一際強く脈打った。全身がざわざわと痒みの様な感覚を訴え、喉が一瞬にして干上がっていく。

 

 知っている。

 私は、この映像の事を知っている。この映像の未来を知っている。

 確か、私はこの時に。

 

 私の思考よりも早く、映像の事態は一転した。突如視界の主が、床に倒れ伏したのだ。

 よく見ると、徐々に床へ赤い染みが広がっていっている。視点が視界の主の足へ移った。そこには、本来ある筈の右足が見当たらず、膝から下にかけて切断されたかのように無くなっている。

 

 ああ、やっぱり、これは。

 私の能力制御の練習に失敗して、おじさまの右足を壊してしまった時の映像だ。

 

 泣きじゃくりながら視界の主へ縋り付く女の子は、声にならないような声でずっとずっと謝り続けていた。

 おじさま大丈夫? ごめんなさい。ごめんなさい。嫌いにならないで。

 まるで壊れたラジオの様だ。延々と、同じことを言いながら視界の主へ泣きついている。

 声は聞こえないけれど何を言っているのか分かるのだ。だってこの時の記憶は、トラウマになってしまうくらい鮮明に覚えているのだから。

 

 この時の私は、おじさまに嫌われれば本当に一人ぼっちになってしまうと思っていた。

 だから、文字通り心底必死だった。おじさまの事も心配だったけれど、幼い私は嫌われる事が何より怖かった。地下室にずっと閉じ込められてしまうとさえ思っていた。まだ会った事の無いお姉様とも、もう永遠に会えないとも。

 

 でも、そうはならなかった。

 視界の主は直ぐに体を起こして、右足を金髪の子へと見せた。そこにはあの惨状はどこにもなく、綺麗に服や靴まで完璧に元通りになっている。

 

 きょとんとしている私の頭を、掴み取れそうなくらい大きな手が優しく撫でた。何が起こったのか分かっていない様子の女の子は、足と視界の主へ交互に視線を動かしている。

 

『心配いらない。何事にも失敗はつきものだよ。ここではどれだけ失敗しても良いんだ。それを次の挑戦に活かせればいい。失敗したくらいで、君を嫌いになんかなったりしない』

 

 唐突に、優しい声が頭へ響いた。今の私に向けられたものではないが、その声が含んでいる感情が、まるで私自身が口にしているかのように伝わってくる。

 それは、春風の様に暖かい慈しみだった。幼い子供が傷つく事の無いようにと願う、精一杯の加護の想い。健やかに成長して欲しいと想う、溢れんばかりの親心。これはまさに、親が子へと向ける慈愛の感情以外の何物でもなかった。

 

 温かい。とても、温かい。

 心臓の鼓動が、血と骨を伝い鼓膜へと届いてくる。トクン、トクンと、赤子を守る揺り籠のリズムの様に、心地のいい拍動だった。

 

 この気持ちは、映像の私の気持ちだ。忘却の彼方へ飛ばされていったと疑わなかった古い記憶がこの映像で、そして映像から伝わる視界の主の感情で、火を付けられたように呼び起こされたのだ。

 

『安心しなさい。君が何と言おうと、何があろうと、私は君の味方だ』

 

 撫でられていた女の子が、涙と鼻水で汚れたくしゃくしゃな笑顔を浮かべた。それが、とても眩しいものに思えて、眼がチカチカと痛みだす。

 気が付くと私は、幾重もの雫を頬へ伝わらせていた。

 

 それに気が付いて両手で拭う。でも止まらない。どれだけ拭おうとも、人肌の温かさを持つ雫は留まるところを知らない。あの煩わしい雨の様に、ずっとずっと流れ続けた。

 

 嗚咽が喉を震わせる。鼻の奥がツンとした痛みを訴える。目頭が熱い。肩が震えて、最早自分の意思ではどうする事も出来なかった。

 ここまで来てようやく、素直になれない私は、自分の本当の心を発掘できたかのように感じた。

 もう、認めるしかなかった。

 

 私は怖かったのだ。

 

 私は、彼を本物と認めてしまうのが怖かった。そうすれば、私の中に居るおじさまを全て否定する事に繋がる。

 それだけではない。400年間ずっと私を見捨てることなく、真実を訴え続けてくれた姉を蔑ろにしていたのだと、気づいてしまうのが怖かった。沢山酷い事を言って、沢山酷い事をしたと認めてしまうのが怖かった。

 

 美鈴にも迷惑をかけた。パチュリーや小悪魔が行おうとした『治療』を強引に破壊したことだってあった。咲夜にだって来たばかりの頃に、お前は真実すらも見抜けないどうしようもなく愚かな人間だ、なんてとても酷い事を口走ってしまった。 

 自分が間違っていると、認めてしまうのが怖かったんだ。

 

 でも私だって、最初から彼が本物なんじゃないかと思っていた訳ではない。最初は偽者なんだと、信じて疑わなかった。

 だけど、彼と戦う最中で垣間見えた仕草の一つ一つが。危機的な状況なはずなのに、私へ一切危害を加えず説得を試みて来た事への不信感が。私の中に疑問の種を撒き、徐々に徐々に、芽吹いた種を成長させていった。

 

 多分、本当に切っ掛けとなったのは、『おじさま』が私へ怒鳴って能力の枷を外せと言って来た時だと思う。

 能力の枷を外せだなんて、その力の恐ろしさを、そして私と共に約束してまで何があっても枷を外さないと誓った事を知っていれば、そんな言葉が出てくるはずがないんだ。

 

 おじさまは、私との約束を95年間一度たりとも破ったことは無かった。ましてやパチュリーを巻き込む危険を孕んでまで、能力を行使させることは絶対にない。

 

 お姉様の証言が。偽者の一挙一動が。『おじさま』の不審な発言が。そして、最後に見せられた彼の記憶とその心が。私に真実を齎した。

 でもそれに気づくのが怖くて、蓋をして見ないフリをする為にムキになっていただけだったんだ。

 もう誤魔化せない。気づいてしまった。どちらが本物なのか分かってしまった。

 

 凄まじい罪悪感の刃が、私へ深く突き刺さった。

 本物だと訴えるおじさまを信じなかった事。お姉様の言葉に耳を貸さなかった事。皆に酷い事をして酷い言葉を沢山ぶつけた事。

 そして、事実に気付いてしまうのが怖くて、逃げようとした自分自身の臆病な心。それら全ての事実が、一気に私へ押し掛けた。

 

「あ、あああ……、」

 

 ごめんなさい、と思わず口にしてしまいそうになる。

 こんな言葉だけで、今更許してもらえると、本当に思っているのか? そんな甘ったれた事が、今更受け入れられると思っているのか?

 

 全ては、自分自身の弱さが招いた結末だ。『偽者』と『本物』を見分ける目を捨てて、ただ妄信を抱え込んで己を守る事に徹した、その弱さが原因なんだ。

 

「うァあ…………ああああああ…………!」

 

 壊してしまおう。

 こんなどうしようもない私なんて、もういらない。私の『目』を破壊して、命をもって償おう。それ以外に、もう道なんてない。私は取り返しのつかない過ちを沢山犯してしまった。

 

 たくさんたくさん酷いことを言って怪我をさせた私を、おじさまと皆が許すはずがない。糾弾されて、それで終わりだ。私は一人、この地下室へ取り残される。

 ならもういっそ、自分の手で終わりにしてしまおう。嫌いだって真正面から言われるよりは、その方が良い。

 

 最後の最後まで、皆から逃げようとする自分が本当に嫌になって、更に自己嫌悪を加速させた。

 両手で顔を覆い、力を籠める。頭の『目』を奪う準備を整える。

 

「ごめんなさい、私が、私が間違ってた。ごめ、ごめんなさい。皆を、信じれなくて、ごめんなさい…………!」

 

 ああ、どうしてこんな事になったんだろう。皆に疎まれて、嫌われて、それでも皆は優しいから手を差し伸べてくれたのに、私はその手を払いのけた。

 自分が正しくて、それ以外は全て贋物。ただそれだけが真実だと信じて殻に閉じこもって、結局私は破滅を迎えた。

 

『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。確かに、これは何でも破壊できる代物だ。もしこの力が無ければ、私はまた違った生を歩んでいたかもしれないのに。

 ……いや、そんなものは言い訳だ。私は己の弱さに溺れ、そして壊れる運命を迎えた。それだけだ。我儘な悪魔に相応しい最期じゃないか。

 

「沢山迷惑かけて、ごめん。こんな出来の悪い子でごめん。皆を信じられない弱い子でごめん。そして、ありがとう。こんな私に優しくしてくれて、本当にありがとう。でもこれ以上、皆に迷惑は掛けられない。だから、だから……ごめんね。バイバイ」

 

 でも、一つだけ。

 最後に一つだけ、私の願いが叶うのなら。

 どうか、どうかお願いします。

 こんな出来損ないの私を。弱さに打ち勝てない臆病な私を。壊す事しか能のない愚かな私を。

 

 どうか、最後にもう一度だけ。

 一人の家族として。私のことを、愛してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フラン」

 

 

 

 

 

 

 

 誰かの優しい声が、私を呼んだ。真っ暗な空から光が差し込んで来るかのような、美しい声色だった。

 顔を覆っていた私の手を、誰かの手が優しく触れる。それはゆっくりと私の手を受け取って、顔から剥がしていくように、両手で優しく包み込んだ。

 

 涙で歪んだ視界を向ければ、柔らかい笑みを浮かべた偽者――――おじさまが、そこにいた。私がおじさまの足を壊してしまった時と変わらない、月明りの様に優しい微笑みがあった。

 

「どこに行くというのだ」

「あ、は、離して……!」

「離さない」

「離してよぉ…………! なんで、なんで……!」

「離さない。離せば君は、自分を壊そうとするだろう。違うか?」

「だって、だってだって! わ、私はあんなに皆へ酷い事を、取り返しのつかない過ちをずっとずっと犯し続けたのよ!? もう、どれだけ謝ったって遅いに決まってるじゃない! 皆私を嫌いになるに決まってる。また、独りぼっちになるに決まって……!」

「それは違う」

 

 彼の笑みは、真剣な表情のそれに変わった。真っ直ぐと、一切視線を逸らすことなく私を見つめている。

 

「私が昔言った言葉、覚えているかい?」

 

 涙で視界が霞む。嗚咽が止まらない。多分鼻水だって凄い事になっている。今の私の顔は、到底見れたものじゃないだろう。

 

「安心しなさい。君が何と言おうと、何があろうと、私は君の味方だ。ほんの少しだけ失敗した程度で、私は君を嫌いになったりなんかしない。それにね、見てみなさい」

 

 彼は体を動かして、背後の光景を私の眼に映した。

 そこには、涙を浮かべてこちらを力強く見守る美鈴が。顔を伏せているが肩を震わせるパチュリーが。号泣して顔をぐちゃぐちゃにしている小悪魔が。相変わらずの鉄仮面だが、目元を赤くした咲夜が。

 そして、そして。

 

 いつもの傲慢な態度が嘘のように、大粒の涙を流すお姉様の姿があった。

 

 我慢が効かなくなったのか、お姉様は私とおじさまの下へ駆け寄った。そのまま私の首へ腕を回して、もう離さないと言わんばかりに強く、強く抱き締めたのだ。『ごめんねフラン。私も貴女から目を背けていた。真っ直ぐ貴女を見ようとしなかった』と、懺悔の言葉を漏らしながら。

 

 違うよお姉様。悪いのは私で、お姉様は何も悪くないのに。

 言葉にならなかったその感情は、代わりに涙となって溢れ出し、お姉様の肩口を濡らす。

 彼はその様子を微笑ましく見つめながら、優しく、しかし強く、私へ訴えるように語り掛けた。

 

「フラン。彼女たちが皆、君を糾弾し許さないと関係を絶つように見えるか? 君を独りにしようとしている者達の顔に見えるか? ずっとずっと君を守り、支えようとしてきた者達が、そんな薄情に見えるのか?」

「……っ」

「…………それにね、フラン。謝るなら私の方なんだ。私が君たちを置いて行かなければ、こんな事にはならなかった」

「違う!! おじさまは悪くない。おじさまは、私たちを見捨てず立派に育ててくれた。一人で何も出来なかった、弱い私が悪いんだ!」

「君が言うのなら、そうなのかもしれない。それもきっと本当の事だ。私も悪いし、君も悪いのだろう。でも誰か一人が悪いなんてことは無かったのだ。これは、運悪く色々な要因が重なって生まれてしまった、只の勘違いだった。それだけの事だったんだ。だから私は、全て一からやり直そうと思う。思えば、久しく再会した君にこの言葉を言っていなかったね」

 

 彼は笑った。泣きじゃくる私を慰めるように、大丈夫だよと宥めるように。

 そして彼の唇が、ゆっくりと言の葉を紡いでいく。

 

「ただいま、フラン」

「……おかえりなさい……おじさま」

 

 応じるように、顔を真っ赤にしたお姉様が、私へ力強く囁いた。

 

「おかえりなさい……! フラン!」

「……た、だいま……お姉様ぁ……!」

 

 それから、私とお姉様は強く互いを抱きしめた。従者の前だとか、親友の前だとか、そんなものはどうでも良かった。今の私たちは紅魔館の当主と妹様ではなく、ただ擦れ違っていただけの姉妹になれたんだと思う。

 私は、漸くこの館の一員に成れたんだと、心の底から実感できたような気がした。

 

 

 ひとしきり涙し、400年越しに漸く和解できたスカーレット姉妹とナハトさんを見守り続けて、はや10分が経過したか。なんだか、今日一日が凄く長いようでいて短いような、不思議な感覚を覚える。咲夜さんが時間を操ったわけでも無いというのに。

 

 不覚にも、長年の蟠りを見続けてきた分、この光景には少し涙してしまった。昔から脆くていけない。私は笑って二人を迎えなければならないというのに。こんなんじゃ前衛たる門番失格だ。

 

 ……でも、最も重要な部分がまだ解消されていない。言うまでも無く、妹様に取り憑いている精神的存在についてだ。

 

 ナハトさんは正体が掴めていると言っていた。これからその姿を暴く工程が始まる筈である。ずっと気になっていた。妹様が『おじさま』と慕っていた精神的存在が、ナハトさんでないならば一体誰が成りすましているのかと。

 

 まず、成りすませると言う事はナハトさんの事を少なからず知っている者だと判断できる。

 ……のだが、過去にお嬢様と妹様以外、彼の傍へいた者は居なかったように思える。いや、ナハトさんに対して狂信的な崇拝を掲げていた吸血鬼一派が居たか。でもあれはナハトさんに近づこうとはしていなかった。

 恐れ多いと思っていたのだろう。時折遠巻きから跪いているところしか見た事が無い。妹様を騙せるほどナハトさんの口調や人格を再現できるとは、とても思えないのだ。

 

 ならば、一体誰だと言うのか。

 ようやく、400年に渡って私たちを蝕み続けたその謎が解明される。

 

「さて、フラン。済まないが、私にはまだやらなければならない事がある。少し、話をさせて欲しいんだ。……分かるね?」

「……うん」

「君は今日、よく動いてよく泣いて疲れただろう。少し眠りなさい。大丈夫、これは夢ではないのだから、起きたら消えてなくなったりしないよ」

「分かった。信じるね、おじさま」

「ああ、信じてくれ。それじゃあ、お休み、フラン」

「おやすみなさい」

 

 ナハトさんが、何やら水色に光る術を妹様の頭に施した。恐らく睡眠魔法の類だろう。証拠に、妹様の体から力が抜けてナハトさんの体に寄りかかっている。

 しばし、静寂の時が流れた。

 時計は無いけれど、妙に心臓が五月蠅くて、耳元でチクタクと鳴っている錯覚を覚える。

 ナハトさんは、タイミングを計ったように深く息を吐き出した。

 

「そろそろ、出てきたらどうだ」

 

 ドクン、と心拍音が跳ね上がる。遂に来るのだ。長年に渡り妹様へ巣食っていたモノの正体が、露わになる時が。

 ナハトさんの傍にいるお嬢様の顔が、どこか優れない色をしている。もしかすると、先ほどナハトさんと話をしていた際に答えを聞いたのかもしれない。

 

 私も、漸く知れる。手に汗がにじんだ。何故か呼吸が荒くなり、嫌な緊張を体全体が訴え始める。

 

 王手の言葉が、彼の口から語られた。

 

 

「なぁ、スカーレット卿」

 

 

     ……………………………………………………………………………………………………………………………………………は?

 

 スカーレット卿? 今ナハトさんは、スカーレット卿と言ったのか?

 その名前は、間違えようのないあの人の呼称だ。

 紅魔館の元当主にして、お嬢様たちの実の父親。最強の吸血鬼と謳われ、吸血鬼狩りに殺されたと情報が入った時は紅魔館に大混乱を(もたら)した、あの男の呼び名だ。

 

 その呼び名が何故、この場で出て来たのだ?

 いや、取り憑いていたモノの正体がそうだとしても、何故娘である妹様にずっと取り憑いていて、400年もの長きにわたって騙し続けていたと言うのだ――――!?

 

 予想の欠片もしなかった答えを前に、私は目の前が真っ黒になった。お嬢様が顔色を悪くするのも頷ける。

 だって、妹様に取り憑き狂気へ走らせた者の正体が、亡くなった筈の実の父親だと言うのだ。私よりも受けた衝撃は遥かに大きいに違いない。

 

 力の抜けたままだった妹様が、突然目を開いた。しかしその眼は、朗らかな少女の眼ではない。それなりの場数を踏んだ様子を伺わせる、威厳のある覇気に満ちていた。

 

「……流石ですな、ナハト殿。やはり貴方の眼は誤魔化しきれないか。感服致した」

 

 何か音声を組み替える魔法を使ったのか、声が低い。それは決して妹様の鈴の音の様な声ではない。そして私は知っている。紅魔館に属したものとして、お会いしたことが少なからずあるから知っているのだ。

 本当に本当に、正真正銘のスカーレット卿がそこに居た。

 

「して、何故私と分かったのですかな? いや、魂を見たからという事を聞いているのではないのですよ。貴方の事だ、もしかすると私だと勘付いていて、敢えて確認したのではないかと思いましてね」

「……最初に怪しいと感じたのは、フランが私を偽者と呼んだ時だ。偽者と言う事はフランが本物と判断する何かが存在していると言う事。その存在の候補として挙げられるのは、フランが本物と勘違いするほどの演技ができる……つまり、私の事を少なからず知っている者に限られる。私の口調や声などをコピーできるほど近しかったものは、姉妹と美鈴を除けば卿、君のみだ。それだけではない。力が不安定故に誰も近づこうとしなかった幼きフランへ接触し、魂の一部を植え付ける行為が出来た者も、直属の親たる君しか存在し得ない」

「成程、そこまで見抜かれていましたか。しかしよく、フランの内部に潜んでいることまで分かりましたな」

「私が最初に館へ訪れて会ったのはレミリアだ。その時彼女は、私を義父として扱った。しかしフランは、幽閉され接触を絶たれている身でありながら瞬時に私を察知し、偽者として扱った。矛盾しているのだよ。もし実体を伴った偽物が存在しているのならば、レミリアも同じく騙され、私を偽者として対応した筈だ。なのにそれが無かった。加えて、フランが狂気に蝕まれていると言う彼女たちの弁も事実と合致していなかった。実際に話してみれば、フランは理性をちゃんと持っているではないか。だが彼女たちには狂気に侵されたと判断されている。それは、両者の間に何らかの要因によって深い齟齬が生まれていたからなのだろう。ならば『狂気』の正体とは、『フランにしか知覚出来ずにナハト本人だと思い込ませている存在』なのではないかと思い至ったのだ。そんな事が可能となる場所は、術にしろ憑依にしろフランの精神中以外に有り得ない」

「流石ですな! いやはや、少ない手掛かりからそこまで辿り着ける洞察力には参りましたぞ。私が勝てるはずがないのも頷ける」

 

 はははは、と妹様――――いや、スカーレット卿は笑った。心の底から称賛しているかのような高笑いだった。

 半面、ナハトさんは一切表情を動かそうとしなかった。何か、思惑があるように思える顔をしている。まるで品定めを行っているかのような、ドライな印象を受けた。

 一方、スカーレット卿は、それで、と会話を繋ぐ。

 

「これから私をどうするおつもりですかな? 貴方の力ならば、私を追い出す事も十分可能でしょうに」

「……スカーレット卿。一つ交渉をしないか」

「何でしょう」

「君は、新しくこの館でやり直す気持ちは無いか? 偽の私としてではなく、レミリアとフランドールの父として、新しい生を歩んでいこうとは思わないか?」

「ふむ」

「フランの肉体に居座るのは不可能だ。今ですら、君らはかなり危うい均衡なのではないかね。元々肉体一つに魂二つは、いくら妖怪とて無理があるのは知っているだろう。三日だけ時間をくれれば、私が君の肉体を作り直してやれる。そこに移って、またやり直そうとは思わないか?」

「……成程。実に魅力的な提案ですな。私は自由を手に入れ、そして新しく平和な人生を歩めると」

「ああ、そうだ」

 

 ナハトさんの提案した策は、和解だった。今までの所業を全て洗い流し、一からまたやり直そうと言うものだった。

 今までのスカーレット卿の蛮行から考えれば、私はあまり受け入れたいものではない。でももし、ここで彼が承諾すれば、お嬢様や妹様は父親を失わずに済む。誰も傷つく事の無い、大団円へと収まるだろう。

 

 だが。

 私はスカーレット卿が浮かべた邪悪な笑みを目撃して、直ぐにその思考を破棄する事となった。

 お嬢様も、その異変にすぐさま勘付き表情を歪めた。

 

「しかし一つだけ、申し上げる事があります」

「――ッ!? おじ様逃げて!! お父様は手を握っている!!」

「私は平和だとかそう言った温いものが、吐き気を催す程に御免なのだよ」

 

 お嬢様がスカーレット卿に飛び掛かった瞬間、バンッ!! と水風船を思い切り地面へ叩きつけたような破裂音が、地下室に炸裂した。

 遅れて、何か重々しいものが落下したような、鈍い音が床を震わせる。

 

 ―――見るまでも無い。そんな行動をとらずとも、一体何が起こったのか鮮明に理解できた。

 

 床には、頭と心臓を木端微塵に破壊された、ナハトさんだったものが転がっていた。

 吸血鬼の弱点を、完膚なきまで破壊されてしまっている。しかも妹様の能力で。

 サァッ、と血液が急激に冷えていく感覚が全身の血管を走り抜けた。

 

「おじ様!!」

「離れろ。鬱陶しいぞ小娘が」

 

 乱雑に腕を振るわれ、お嬢様が弾き飛ばされる。そこを、咲夜さんが俊敏に受け止めた。

 私は『気』を両腕に纏わせて、スカーレット卿を睨む。だが私には攻撃出来ない。あの体は、妹様の体でもあるのだ。奴を仕留めるには、必然的に妹様まで仕留める結果となってしまう。

 それだけは出来ない。そんな真似が、出来る筈もない。

 

 それを見透かしているのだろう。スカーレット卿は低い笑い声を漏らしながら、実に愉快そうにナハトさんの死体を踏みにじった。

 ガツン、ガツンと、肉を叩くにしては凶暴な音が響き続ける。

 

「さっきは心の底から焦った……ああ、焦ったぞ。拘束され、抵抗する術もなく、本当にチェックメイトを掛けられた気分だった……。フフフフフ、だが貴様が甘かったお蔭で、こうして盤は引っ繰り返ったな。ああ、正直ホッとしているよ。最も厄介だったお前をこうして始末することが出来て。やはりフランドールの能力はよく効くな。うん? 再び貴様が現れたおかげでほんの少しばかり予定がズレたが……軌道修正できる範囲だ。材料はこうして揃えてくれたのだからな。はははははははははは!」

「予定……? 貴方が妹様に取り憑いたのも、今までの事も全て企んでの事だったと!?」

「……誰だお前は? ああ、私の館で傭兵をしていた木端妖怪だったな。礼を言うぞ木端。お前がナハトに絆され、覇権争いの時に娘を守ってくれたおかげで、私が娘の恐怖で覚醒する時間を稼いでくれた。実に楽しかったぞ、私に謀反を企てようとしていた愚か者共が、一斉に惨たらしく娘の手で破壊されていく光景は!!」

 

 こいつはまさか、最初からそのつもりだったと言うのか? そのつもりで、妹様へ魂を移植するなどをやってのけたとでも言うのか?

 

 覚醒と、魂の移植。私の浅い知識でも二つのワードから連想できるのは、恐らく分霊の術だ。高度な魔法技術を習得したものは、魂を小分けして様々な器に封じ込める事で、肉体の破滅と死の関連を無くすことが出来ると言う。

 

 その邪法に縋った魔法使いの成れの果てを、確かリッチと呼ぶのだったか。それを奴は応用したのだ。

 本来ならば魔力を持った鉱石で出来た箱などに魂の欠片を封じるところを、妹様に仕立てたのである。おそらく最初は自我すら無かったはずだろう。しかし95年もの間妹様の魔力を吸い続け、覇権争いに巻き込まれた際の妹様が抱いた恐怖という強い感情を受けて覚醒したのだ。

 

 そうでなければ、ナハトさんが妹様の体内に魂が入り込んでいると気づかない訳がない。魂の欠片として潜んでいたからこそ、あの方の視線を掻い潜ることが出来たのだ。

 そして覚醒のトリガーである妹様が非常に強い恐怖を感じる時は、絶対強者たるナハトさんが不在で、何者かから強襲を受けた時に限られる。

 

 しかしそうなると、一つだけ疑問が浮かんでくる。

 彼は、スカーレット卿は本当に殺されたのか?

 

 リッチが分霊の術を行うように保険としてではなく、計画的に魂を移植したのならば、彼と夫人の死は偶然ではなく必然性を帯び始める。

 最悪に近い予想が、私の脳裏を過ぎった。

 

「妹様に魂を移植したにしても、貴方自身は亡くなった。吸血鬼狩りに命を奪われたはずだ。保険として妹様に魂を植えたと言うには、その行動にいささか疑問を拭えません」

「保険? 違うな、本命だよ。あの死も私が仕組んだものだ。野心を燻らせる邪魔な反逆者を炙り出すためにな。そもそも最強の吸血鬼と謳われたこの私が、木の杭と十字架でしか抵抗出来ない人間如きに後れを取ると本気で思ったのか? 呆れ果てるほど能天気な頭だ」

「では……では……!」

 

 咲夜さんから立ち直り、紅い瞳に深紅の魔力を灯らせたお嬢様が、ギリッ、と奥歯を噛み締めながら言った。 

 明らかに怒髪天を突いている。だがそれだけではない。実の父が、紅魔館を守るために誇りある死を迎えたはずのスカーレット卿が、娘を利用していたと言う事実を半ば受け止めきれていないようにさえ見えた。

 

「ではお母様は!? お母様の死は一体何だったのですか!? 何故、お母様まで貴方の偽装の死に巻き込まれたというのですか!?」

「……我が娘ながら愚鈍極まりない。ああ実に不愉快だ。分からんか? あの女は悪魔に最も不要な愛情などという、虫の体液よりも下卑た唾棄すべき感情に惑わされた。私の計画に勘付いて止めようとしたのだよ。奴を生かしたまま私が死ねば、必ずあの女は邪魔をする。だから、私が直々に葬ってやったのだ。共に吸血鬼狩りから子を守ろうと説得したら、嘘のように軽々しく引っ付いてきたなぁ。心臓を抉り出し、首を撥ね、吸血鬼狩り共にくれてやった。そして私は自ら銀の剣で心臓を貫き、自害したと言う訳だ。これで満足か?」

 

 カツ、カツ、カツ、と一歩ずつスカーレット卿はお嬢様へと近づき、強引に顎を掴んだ。

 咄嗟に止めようとした私と咲夜さん、パチュリー様に小悪魔は、彼女―――いや、彼が眼から放った凄まじい紅蓮の瘴気に当てられ、動きを阻害されてしまう。

 吸血鬼の魔眼だ。麻痺効果を持った幻術を掛けられてしまっている。なんて事だ、完全に油断した。

 

「レミリア……お前は本当に不愉快極まりない存在だった。私をフランドールから引き剥がそうとしている様は、腐肉にたかるハエの様に鬱陶しかったぞ。あの女と同じく本当に邪魔な存在だった。しかも貴様は、フランドールと違って実用性のない能力を持って生まれた欠陥品だったではないか。出来損ないの上に、あの女と同じ水色の髪をしているときた。いつも見ていて吐き気がしたほどだ。どいつもこいつも、潜在能力しか利用価値のないガラクタでしかない」

「っ!!」

「なんだ、その反抗的な目は? 私を殺したいか? 母を殺し、義父を殺し、妹を騙して同族を虐殺させた私が憎いか? ならばお得意の魔力弾で私の心臓を破壊し、首を撥ねて銀の剣で斬り潰せばよかろう。そこの雌の人間が丁度、銀のナイフを持っているではないか。絶好のチャンスだと思わないかね」

 

 悍ましい笑顔だった。全てを手のひらで転がして弄ぶ悪魔の表情。先にある全ての駒の動きを掌握しているイカサマ師の様に、愉悦と支配の快楽に酔い切った表情だ。とても、妹様の顔だとは思えない。

 

 彼は張り裂けんばかりの高笑いを上げる。それは、勝利の角笛を吹き鳴らしているかのようにさえ聞こえた。

 奴は勝ったと確信しているのだ。向こうは手を出せて、こちらは妹様を傷つけられないが故に手を出せない。脅威だったナハトさんは無残に息絶え、私たちも動きを封じられている。私たちが切れるカードは、もう何も残っていない有様だった。

 

「出来んよなぁ。情なんぞに悪魔としての本分を見失わされたお前には、妹を殺す事など到底できた真似ではないのだろう?」

 

 ぐりっ、とスカーレット卿の指が、お嬢様の喉元に食い込んだ。鋭い爪の先が柔肌を突き破り、静かに赤い液体を溢れ出させる。

 

「ぐッ……!!」

「あの男にも呆れたものだ。和平交渉など持ち出さずに直ぐ私を引き剥がしてさえいれば、こんな事にはならなかっただろうに。何が闇夜の支配者だ。ただ年老いて甘ったれただけの老害ではないか。これでは、昔あれだけ警戒した意味も無かったな。あの男の影響力のせいで私が吸血鬼の王として君臨できなかったが故に、こんな面倒な方法をとったと言うものを……」

 

 ……黙っていれば、聞き捨てならない事を言ってくれる。

 ナハトさんがどんな気持ちで、和解の手を差し伸べたのかまるで分っていない。お嬢様がどれだけ妹様の事を親身に想い続けて来たのか、露ほども理解しようとしていない。

 彼はまさに悪魔だ。他人の心などどうでもよくて、己の野心を叶えるためならば自分の命はおろか、妻や娘まで手駒として扱う最悪の悪魔だ。

 

 歯痒かった。すぐにこいつを妹様から引き剥がして、叩き伏せてやりたい気分に侵食されている。お嬢様が味わった精神的苦痛の、ほんの一部でも与えてやりたい。

 こいつは、そんな程度で怒りが収まる悪党なんかじゃないけれど―――いや、悪党ですらない。外道だ。こいつは道を踏み外す事を厭わない真正の外道なのだ。

 

 私と同じ心境なのだろう。咲夜さんも、パチュリー様も、あの臆病な小悪魔でさえ、激怒に表情を染め上げていた。これ程までに明確に怒り狂った彼女たちを、私は今まで見た事が無い。

 

「……解せないわね」

 

 パチュリー様が、絞り出すように言った。

 

「あなたがナハトの存在が邪魔で、吸血鬼の実権を確実に握るためにフランへ魂の移植を行い、死まで装ってナハトの眼を欺いた事は理解できた。でも何故、今の和平交渉を蹴ったの? 従順に従うフリでもしていれば肉体も戻るし、もっと効率よく事を運べたはずよ」

「お前の様に打算的な思考は嫌いではないぞ、若き魔女よ。簡単な事だ、今が紛れもない好機でしかないからだよ」

「好機、ですって?」

「ああ。ところで魔女よ、怨霊が魂を食らい増幅する理論が分かるかね」

「何ですって? ――まさか、あなた!!」

 

 ギイイイイッ、とスカーレット卿の口が三日月状に裂けていく。白い牙の間から覗く、蛇の様な舌の動きが生々しかった。

 

「魂の移植術も、フランドールの魂を侵食する準備もとうに出来ている。後はお前たちの心臓を破壊し、魂が冥界に渡る寸前で、私の増量した魂の欠片を植え付けてやる。他者の能力が操作可能なのは、フランドールの肉体で実証済みだ。私の意思で思い通りに動く、力を持った肉の兵隊が、完成すると言う訳だ!」

「それを繰り返して、ネズミ算式に自分の魂を移植した傀儡を作り続けていく訳ね……最低……! 生きる者に対して冒涜でしかない行為だわ。体を乗っ取り私物化するどころか、魂まで取り込んで寄生の為の材料にするだなんて!」

「フン、光栄に思うがいい。お前たちの肉体は永遠に、私が愛玩道具として可愛がってやろう。貴様たちの起こした吸血鬼異変や紅霧異変のお蔭で、この幻想郷の妖怪の力も、博麗の巫女の力も大方把握できた。改めて礼を言うぞ、間抜けな小娘ども。私に計画のピースを、わざわざせっせと運んできてくれて」

 

 ――――吸血鬼異変。私たちが幻想郷に移住したばかりの時に、在住の活気を無くした妖怪たちをまとめ上げ、革命を試みた大異変だ。

 だがあの異変は直ぐに、幻想郷の管理者である八雲紫を筆頭とした妖怪集団に惨敗し、呆気なく幕を閉じた過去がある。まさかそれすらも、こいつの計画の材料にされていたとは。

 

 奴は吸血鬼異変も、紅霧異変も、ずっと見ていたのだ。幻想郷の住人がどれほどの力を秘めているのか推し量り、その対抗策を練り上げるために。

 そして今、妹様の魂を侵食し、その体積を増やして私たちへ植え付け、強制的に使い魔と化させることで、幻想郷に反旗を翻そうとしている。

 

 乗っ取る気だ。

 こいつは、紅魔館どころか幻想郷を本気で支配するつもりでいる……!

 

「材料は揃い、好機も得た! おまけに、闇夜の支配者とまで崇められた最古の吸血鬼の遺体と血液までも手に入った。ははははははは!! 本来ならばフランドールの肉体が完全に成熟するまで待つつもりだったが、予定が変わった。ナハトよ、天敵だった貴様の血を啜り、私は吸血鬼を超えた更なる高みへと昇華しよう! そして、お前がせっせと育て上げた義娘どもの肉体で、絢爛たる我が夜の世界を、この楽園を礎に築き上げてやろうではないか!!」  

 

 だが、とスカーレット卿はお嬢様を勢いよく投げ飛ばし、壁に叩きつけた。咲夜さんの怒号が飛ぶ。その声を、スカーレット卿はまるで喫茶店で流れるジャズ音楽でも楽しんでいるかのように、愉悦で満ち満ちた表情を浮かべて嗤った。

 ありとあらゆるものを破壊する理不尽な力を宿した悪魔の右手を、お嬢様に向けて。

 

「その前に、奴隷を作る試運転をしてみるとしようか。栄えある人形兵第一号はレミリアッ! 私を(ことごと)く邪魔し続けた、貴様からだッ!!」

 

 完全な、詰みに嵌った。

 動けない。止めようにも、指先一つ動かせない。私の持ちうる全ての『気』を連動させこの幻術を打ち破ろうとしても、スカーレット卿の呪縛から逃れることが出来なかった。それは他の皆も同じだ。この中では真っ先に動きそうな咲夜さんですらも、悔しさと怒りで涙を滲ませ、その場から微動だに出来ずにいるほどだ。

 

 スカーレット卿の指が、無慈悲に折りたたまれていく。右手に魔力が集約されていて、お嬢様の『目』を奪ったのが分かった。それは明確に、紅魔館の終わりを示していた。

 私は思わず、ほんの数秒後に起こるだろう惨劇から目を背け、瞼を閉じてしまう。

 私たちどころか、幻想郷を巻き込んだ破滅へのカウントダウンが、静かに始まりを告げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――ビシッ

 

 

 


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