【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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EX2「フ エ ル カ ゲ」

―――執務室に一枚のメモが落ちている。

 

 

「おねーさまー、ひまー」

 

 執務室での事。だるーん、という表現が似合いそうなくらい力の抜けた声でそう言い放ったのは、七色の翼をぱたぱたと羽ばたかせながら私の座る机の周囲をくるくる飛び回っている妹のフランドールである。

 唐突な妹の発言はさておいて、手も足も何もかもをさも無気力ですと言わんばかりに垂れさせて、飛ぶというよりはホバリングするのは如何なものだろう。傍目から見ると、西洋人形の様な容姿と幼気な丸みを兼ね備えた彼女の飛ぶ姿は妖精と言う表現がぴったりかもしれないが、吸血鬼と言う事実を織り込んでみると、手足を投げ出してホバリングしているところから巨大な蚊トンボが飛んでいる様にも思えて情けない。はしたないので襟首を引っ掴んで無理やり床へと立たせた。

 彼女は床に足を付けても腕の筋肉を弛緩させたままダレており、間の抜けた声で九官鳥のように繰り返す。

 

「ひまー」

「ひまーって、あなたね……」

 

 フランは私と違って、当主だのなんだの、堅苦しい肩書も立場も持ち合わせていないので当然仕事など無く……つまるところ、何もする事が無い。それは分かる。反面、私にはフランと違って仕事があるのだ。八雲紫と契約した月一の『配給』に対して必要な書類作成から始まり、館の備品管理表の記入とチェック、修繕費用の見積もりエトセトラ、エトセトラ。こう見えて私は意外と多忙な身の上なのである。自分で意外と言うのは何だかおかしい気もするが、それは言葉の綾であって、決して普段怠けている自覚があるからではない。決して。

 要するに、そう簡単に彼女と一日中遊んでいられる身分ではないのである。私はこれでも立派な紅魔館現当主なのだから。

 

「フラン、お姉様は仕事で忙しいの。美鈴とかパチェと遊んでて頂戴」

「うーん、それも良いと思うんだけど、ほら、私たちって一緒に何かをやることがあまりないじゃない? だからさ、たまには皆で遊びたいなーって」

「だからはこっちの台詞よ、もう。私はお仕事があるの。遊んでられないの。アンダースタン?」

「……私、知ってるよ。オシゴトが面倒になった時、時々咲夜に丸投げしてるの」

 

 んー、さっきお風呂に入った時、耳の中に水が入ったままになっているのだろうか。誠に残念ながら妹の声が聞き取れやしない。

 聞こえないものは仕方がないので、書類の記入を進めるために羽ペンへ墨を付けていると、痺れを切らした妹は私の背後へと立ち、肩を鷲掴んで激しくゆすり始めた。傍目から見ればじゃれついているように見えるかもしれないが、鬼の怪力に天狗の速さを持つと言われる吸血鬼の腕力は伊達ではなく、がくんがくんと頭が振り子の様に揺れて視界がスパークし始める。

 

「ねーねーねーねーねー、あーそーぼーおーよー」

「うぇっ、ちょっ、ふっ、ふらんっ、まちなさっ、やめ、止めなさいってばぁ! あーもう。あちらにおじ様がいるでしょう。おじ様に遊んで貰えばいいじゃない」

「おじさま……おじさま……そうだ! おじさま!」

 

 何を思い付いたのか、フランはパッと目を輝かせて肩から手を離し、まるで玩具を見つけた猫の様に走り去っていった。言うまでもなく、この部屋の談話スペースで置物の様に本を読みふけっているおじ様の所である。おじ様は時折、こうして執務室にまで出向いて本を読んでいる。というより、図書館だったり自分の部屋だったり色んなところで本を読んでいる気がする。昔はおじ様の事を避けていたから知らなかったけれど、意外に読書家らしい。それもかなりの雑食だ。

 今読んでいる本も確か、『モンキーでも友達が出来るコミュニケーションガイドブック』とかいう名前だったか。あんな本が図書館にあったのかどうかはさておき、やはりおじ様は凄い。どれだけ力を蓄え吸血鬼の頂点に上り詰めるまでに至っても、その力の根幹を形成したのだろう初心を忘れていない。常日頃、ああして基礎を叩き込んでいるからこそ、鶴の一声だけで相手の心を縛り付ける話術を身につけられたのだ。おじ様は能力のせいだとか言って謙遜していたけれど、こうして一緒に暮らし、四百年前と違って避けることなく観察してはっきりと分かった。おじ様が、どれ程長い間研鑽を重ねて、あの魔性にも近いカリスマ性を手に入れたのかが。私も力を手に入れるための貪欲さを見習わなくてはなるまい。

 

「ねぇおじさま。お姉様が遊んでくれない」

「まぁ、レミリアも忙しいのだ。その意図を汲んで身を引いてあげるのも、良き妹となる一歩だと私は思うよ」

「だけどおじさま、私も漸く外に出られるようになって、おじさまもこうして一緒に暮らせるようになったじゃない? だからここで一つ、もっと紅魔館の皆が仲良くなれるように館の皆と親睦を深めるゲーム大会とか開けばいいんじゃないかなと思うの」

「…………ふむ。親睦会、か」

 

 考え込むように背後で相槌を打つおじ様。何だかとっても嫌な予感がするのは気のせいだと願いたい。そう、気のせいである筈なのに、何故かこれから私はおろか館の全員を巻き込んで盛大な催し物が開かれる運命が見える。私の能力を使えば逃れられると思うけど、おじ様相手だと強引に捻じ曲げられそうな気がするのは何故だろう。運命とは全てにおいて万能ではないのだなとこんな状況で悟りを開く私であった。

 が、予想外な言葉がおじ様の口から飛び出した。

 

「……実に魅力的ではあるが、仕事の方が大事だ。やるべきことは先にやらねば、ズルズルと惰性に呑み込まれてしまうからね。今日の所は諦めなさい」

「そんなぁ」

 

 悲痛な妹の声とおじ様の発言に、内心私はガッツポーズをする。流石おじ様。公私混同がどれだけ非生産的な結果しか生み出さないかをよく理解している。全くもってその通りだ。より良い生活を手に入れるために、仕事というものはちゃんとこなさなければならない。だから私はのんびりと、重要な生活の糧となるお仕事にとりかからせてもら――――

 

「しかし今日中に、レミリアが仕事を終わらせてくれれば、結果的には何も問題ないと思うのだ」

 

 ―――おうとしたその瞬間、『のんびり』の部分を無理やり引っこ抜かれてしまった。

 ああ、振り向かなくても分かる。今、我が愛しの妹はぐるんと勢いよく顔をこちらに向けて、ギラギラとした眼を忌まわしき太陽の如く輝かせているに違いない。だって背中が夕日を当てられたようにチクチクするのだ。これは間違いなくあの子の熱すぎる視線のせいである。視線とは本当に熱エネルギーを伴うものだったのかーそうなのかーと思いがけない発見に目が虚ろになっていく感覚が確かにあった。もし鏡に姿が映るのなら、眼からハイライトの消えたビューティーバンパイアが優雅に机と向き合っている姿が映るに違いない。

 

「聞いていたぞ、レミリア。君は咲夜に仕事を丸投げする事があるそうじゃないか。いけないな。咲夜はよく働いてくれている。その負担を無意味に増やすのは、主のする事ではないと思うのだがね」

 

 ざわざわと産毛が逆立っていく。防音室で大音量の音楽を拝聴している時に、耳から首筋にかけて何かが這いずり回るような、痺れとも痒みともつかない感覚が走り抜けた。

 やばい。これは、やばい。おじ様の声が全身の骨を撫で、末梢から中枢までの神経に纏わりつき始めている。数多の悪魔が誰一人として逆らう事の出来なかった魔法の声が、私へと向けられているのだ。それの表す所は、つまり。

 

「自分のやるべきことは自分ですべきだ。明日の晩にでも親睦会を安心して開けるように、頑張りなさい」

「ハイ」

 

 震えるような言葉の魔力が筋肉の力を根こそぎ奪いとり、私に肯定の言葉を吐き出させる。終わった。私ののんびりデスクワークプランが、薄い氷に杭を打ち付けたように呆気なく瓦解した。おじ様は咲夜に私の仕事を手伝わせないよう外堀を埋めるに違いないから、序でに企てていた咲夜へ丸投げ保険も、一緒に音を立てて崩れ去る始末である。

 轟沈する私を余所に、フランは遠足へ行く日を決めた子供の様に燥ぎながら、灰になりそうな私を余所におじ様と親睦会の内容を相談し始めていた。

 

「それで、フラン。君は何かやりたいことはあるのか?」

「皆で鬼ごっこがしたい!」

「ほう、鬼ごっこか。私はやったことは無いが、ルールは知っているぞ」

「でもねおじさま。普通の鬼ごっこだとただ追いかけて捕まえて鬼を交代してーって繰り返しで、大きなゲーム大会としてはつまらないじゃない? だからちょっと特別なルールを設けたいの」

「どんなルールだね?」

「その前にぃー」

 

 声色から明瞭に分かるくらいに上機嫌さを孕ませながら、フランはおじ様へ言った。

 

「おじ様って分身とか出来る?」

 

 

【ルールその1:館から外へ出てはいけない。また、わざと捕まってはいけない。これらに違反した場合、罰ゲームが課せられる】

 

 

 夏も終わりごろに近づいて、ちらほらと季節が秋に成り替わる準備を始めているせいなのか、今頃の夜は蒸し暑くもなく寒くもなく、とても過ごしやすい環境になっている。スズムシやコオロギの鳴き声が静かな演奏となって耳を潤し、空を駆ける際に頬を撫でる夜風の感触がまたなんとも心地良い。

 それ即ち、絶好の借り(狩り)日和だと言う事に他ならない。目的地は言うまでもなく、紅い館の紫魔女さんの住居兼ホームグラウンドたる図書館だ。

 

 普通は、妖怪が活発になる夜にわざわざ悪魔の館を訪れようなど、考えようとすらしないだろう。だが私の場合は話が違ってくる。単身であの館に乗り込んでも無謀とは言わせない程度に力を付けたし、なにより今日はちんまい館の主様を怒らせないようにする為に夜を選んだのだ。以前、昼間に本を借りに行ってパチュリーの奴と交戦した際に、弾幕ごっこの爆音で叩き起こされたレミリアが滅茶苦茶怒った時がある。そんな経緯があって、最近は昼に行くのを自重している訳だ。まぁ、ほとぼりが冷める頃を狙ってまた昼に行くようにするけれど。だって夜更かしは肌に悪いのだから。

 

 そうこうしている内に、月明りのせいで夜でもはっきりと紅く染まり切っているのが分かる洋館が見えてきた。飛行魔法を操作して腰かける箒を降下させ、門の先の入口にまで近づいていく。この館は窓が異常に少ない上に、申し訳程度の窓には大抵罠やら何やらが仕掛けられているから、意外と正門から堂々と入る方が安全だったりするのだ。

 

「……んー? 変だな、仕事熱心な頼れる門番(みどりのおきもの)が居ないぜ」

 

 常に門の傍で寄りかかって寝ているお馴染の門番が居ない事に、少しばかり不審な点を見出したが偶然休憩中の時間に当たったのだろうと割り切った。むしろ好都合だと思考を切り替えて、門の前に箒から降り立つ。

 やたら大きな扉を開いて、周囲を見る。相変わらず中は豪華なインテリアをしているくせに、明かりがランプの蝋燭やシャンデリアの魔力光源程度しかないものだから、昼とは違ってお化け屋敷の様に不気味だ。

 

「こんばんは。邪魔するよーっと」

 

 誰にも聞こえない程度に挨拶の声をかける。礼儀は大事だ。忘れるとロクな奴に成長しない。

 それにしても、やけに館の中が静かだ。いや、元々そんなに賑やかな場所ではないのだけれど、今日は特に閑散としている。妖精メイドの一匹や二匹くらい、見かけてもおかしくない筈なのに。

 まぁ、好都合はあっても不都合は無いので、ありがたく図書館へ足を運ばせてもらおう。時を止めるメイドに気をつけて行けば、図書館までの道のりはイージーモードである。

 善は急げと足を動かそうとした、その時だった。

 

 バタンッ!

 

「ひゃっ」

 

 静寂の空間を砕き割るように、背後から突然響き渡った大きな物音に驚いて、思わず変な声が出た。後ろを振り返れば、重々しい扉がぴたりと閉まっている。風だろうか? 噂をしていたから件のメイド長が私の顔を見に来たのかと思った。

 気を取り直して、足を動かす。カツ、カツ、カツ、と靴の音だけが、長ったらしい廊下の中で嫌に反響した。

 

「だーれも居ないねぇ。大事なお客さんが来てるんだぞー」

 

 対応に来られたら来られたでマズいのだが、余りに人気が無いのでついこんな言葉が口から弾み出てしまう。しかしやはり、誰かが反応した気配は無い。実に奇妙だ。幾ら夜とは言え―――いや、夜だからこそ誰も居ないのはおかしい。そもそも妖精メイドの一匹すら見当たらないのは何故だ。妖精どもが仕事をしている光景は見たこと無いが、子どもの仕事である『遊び』に熱中している光景はよく見るのに、今日はそれすらないと来た。これはいよいよ、館で何かがあったか、もしくは何かが起こっているとみて間違いないだろう。ひょっとすると私は、異変を先取りしてしまったのかもしれない。もしそうならパパッと解決して霊夢に自慢してやろう。アイツの事だから、面倒事が消えて助かったとお茶の一つでもご馳走してくれるかもしれない。おやつが付いて来れば尚グッドだ。

 

 ふと。

 前方の最奥……長ったらしい廊下の曲がり角で、何かが動いたのが一瞬だけだが視界に映った。何か黒い影のようなものが動いていた気がする。はて、紅魔館に紅色をした奴以外いたっけか。よく考えたら沢山いるな。主に紫の魔女さんとか、スカーレットデビルなのに青っぽいお嬢様とか。むしろ紅い方が少ない気がするのは気のせいだろうか。

 

「誰かいるのか?」

 

 しかし何だろう。この、背筋をなぞられる様な感覚に似た悪寒は。あの影を見た瞬間、私はぶるりと震えるような寒気を感じた。いくら夏の終わりに差し掛かって少しばかり涼しくても、肌寒く思える季節ではない。肝試しが最適な時期なのだ。その異常さたるや、語るまでも無いだろう。

 何だか妙に心臓が五月蠅くなって、あの影を追うべきかどうかの葛藤が生まれつつあった。好奇心が私を突き動かそうとする。だがその反面、私の危機管理能力がアレを追ってはならないと警報を鳴らしているのだ。

 私はこれでも魔法使いである。魔法使いとは即ち知識の探究者だ。好奇心は猫をも殺すというものだが、魔法使いは殺せない。私は魔法使いの燃料たる好奇心が燃やされる衝動に抗うことなく、影の正体を突き止めようと動いた。

 

 小走りで廊下の角まで到着し、そっと曲がり角を覗き込む。

 そこには妙なレミリアが居た。

 館の主が廊下を歩いていること自体は不自然ではない。問題はそこではなく、彼女の挙動だ。まるでストーカーにでも狙われている乙女の様に、しきりに周囲を気にしながら奥へ向かって歩いている。故に『妙な』レミリアな訳である。どうやら先ほどの影は、彼女の翼か何かだったらしい。

 彼女が一体何を警戒しているのかは分からないが、どうやら私の緊迫感は夏の夜に当てられただけかと胸を撫で下ろす。見つかるとまた面倒なので、私はレミリアを無視し図書館へ向かおうとした、その時だった。

 

 突如、レミリアの向かう先――――さらに奥の曲がり角から、黒い人形(ひとがた)の影が顔を覗かせたのだ。

 一瞬にして、私の全神経が乱れに乱れた。ぶるりと体が震えあがり、足ががくがくと小鹿の様に情けなく主張し始める。影を視界に捉えた刹那から、フランと弾幕ごっこをしたときと似た、命の危険を感じさせる類の恐怖感が私を包み込んだ。心臓が跳ね、喉が干上がり、視界が酷く鮮明になる。妙に頭が冴え切っているのは、走馬灯と同じ原理なのだろうかと変な思考が湧いて出てくる始末だった。

 恐らく、レミリアも似た心境だったのだろう。影を見た瞬間、全速力でこちらへ向かって走ってくるのが分かった。しかし彼女も激しく動揺していたのか、足を(もつ)れさせて派手に転がってしまう。

 人形の影が、レミリアに追いつく。それは二本の腕を伸ばしてレミリアを掴むと、そのまま奥まで素早く連れ去ってしまった。

 ほんの一瞬……レミリアが腕に捕まった瞬間に私と眼が合ったが、彼女の眼はどこか、絶望にも近い虚の色を浮かべていた様に見えてしまい、思わず唇を引き締めてしまう。

 

 訳が分からないが、とにかくヤバい……!

 私は一歩、二歩と後ろへ下がった。レミリアが何に捕まったのかは分からないが、明らかに危険だと言う事は直観で理解できた。嘘の様な静寂に館が包み込まれ、加えて影が蠢きレミリアを攫うだなんて馬鹿げた光景を目の当たりにしてしまえば、この館がいつもの紅魔館ではないと誰だって理解できるだろう。

 私は元来た通路を走った。私は妖怪と違って脆弱な人間だ。頭を弾かれれば当然死ぬ。引き際を間違えると言う事は自殺をするという事と同義なのである。ここが引き際なのだ。今日の所は霊夢に救援を要請するために撤退するのが得策だ。

 

 もう少しで正門へ続く扉が見えてくるところまで走り抜ける。ものの数秒で、私は館から脱出できる。

 しかし、私は外へと出る事は叶わなかった。突如横から伸びて来た白い腕が私を絡めとり、部屋の中へ引き摺りこんだのだ。

 

「っ!!? 離――――」

「落ち着いて魔理沙。私よ」

 

 反射的に強化魔法を発動した箒の柄を握り締め、掴んできた相手を叩きのめそうとした瞬間。冷たい手で口が塞がれ、さらに箒を持つ手も魔法障壁で拘束され、身動きを封じられてしまう。

 何が起こったのか分からないままその手の持ち主へと顔をやると、意外な事に犯人は、ここに居る筈のないパチュリー・ノーレッジ本人であった。

 何故、動かない大図書館と名高い少女がこんなところまで出てきて、私の口を塞いでいるのだろうか。そんなどうでもいい疑問が、混乱で支配された私の頭に沈静剤として働く。影を見た恐怖とレミリアが攫われた現場を目撃してパニックになっていた頭が、まるで針を突き刺された風船のように萎んでいき、どうにか面と向かって会話できる程度に落ち着きを取り戻す。

 

「冷静になれた様ね」

 

 パチュリーが私の口から手を離し、腕を拘束した魔法を解除すると、慎重な手つきで部屋のドアを閉じた。まるで誰かに気付かれる事を防いでいるかのようだ。憶測だが、正確にはあの影に居場所を知られないようにしているのだろう。

 

「なぁ、パチュリー。さっきレミリアが……っ」

 

 連れ去られた、と口に出しかけて、パチュリーの今までに見た事の無いような深刻な表情を目にし、押し黙ってしまう。

 数拍の沈黙が私たちの間を占有し、部屋に置かれた古時計の秒針の音が、何かのタイムリミットを示さんばかりに五月蠅く聞こえた。

 

「いつの間にか、とは正にこの事を言うのかしら。まさかあなたまで巻き込まれていたとは思わなかった」

「巻き込まれるって、なにに?」

「無意味にとぼける必要は無いわ。見たのでしょう? レミィが攫われたところを」

 

 パチュリーに言われて、脳裏に、あの黒い影が思い浮かぶ。ただでさえ背の低いレミリアがさらに小さく見えてしまう位大きくて、視神経が影の映像を受信し脳へ送り込んだ瞬間から警報が発せられた、生理的な恐怖感を覚えるあの姿が。

 鳥肌が布を擦る感覚を出来るだけ意識しないようにして、私は言葉を引き出した。

 

「一体全体、紅魔館で何が起きているっていうんだ?」

「さぁ。私にもわからない」

「おいおい、そいつは変な話だぜ。何かしら物事が起こるには導入が必要不可欠なはずだろ」

「私はその導入を省かれたクチなのよ。気が付いたら、追われる事になっていたわ」

 

 パチュリーは部屋の中の適当な椅子に腰かける。私も習って、テーブルの上に座り込んだ。

 

「魔理沙、いい? 今紅魔館は完全に閉鎖されている状況にある。日付が変わるまでは絶対に外へ出る事は出来ないわ。だから、あなたは日付が変わるその時間まで捕まらずに逃げなさい。自分の身の為にも」

 

 …………閉鎖、だって?

 それはおかしい。この館が出入り不可能にされているのだったら、私がエントランスに入る事など出来なかったはずだ。閉鎖と呼ぶにはあまりにも優しすぎる。外からつっかえ棒をドアに掛けて鍵を掛けているんですって言う位滑稽な話だ。

 

「私は普通に入ってこれたぜ? 正門からなら出られるんじゃないか」

「この館に張り巡らされた閉鎖魔法は、『とおりゃんせ』と似た性質を持っているの。あなたが入る事が出来たのは多分そのせいね。でも出る事は叶わない。私も魔法で壁を破って脱出しようと思ったけれど、どれだけやっても傷一つ付かなかったわ。試すのは自由だけどお勧めしない。魔力の残り香を探知されて見つかるのがオチよ」

 

 とおりゃんせと言えば、あの有名な童話の事で間違いないだろう。成程、入れるけど出られないって性質は、行きはよいよい帰りは恐い、の歌詞を指しているのか。

 しかし、そうなると非常に厄介だ。パチュリーは皮肉をよく口にするが嘘を吐く奴じゃない。おそらく今言ったこと全てが本当の事なんだろう。理由は分からず仕舞いだが、この館からは日付変更時まで出る事は叶わず、紅魔館のメンバー全員が、あの黒い影に追われているという奇奇怪怪な状況下に置かれている。そして私は、運悪くその事件に巻き込まれてしまったと言う訳だ。

 

「レミリアが連れていかれたが、まさか食われたり、なんて事は無いよな?」

「ある意味それよりも恐ろしい目に遭うわ。それだけじゃない。一人捕まるたびに増えていくのよ。逃げ延びる事がどんどん困難になっていくの」

 

 増える……? 食べられるよりも恐ろしい目に遭う?

 パチュリーが静かに言い放った二つのキーワードが、私の脳内に悍ましい想像を作り上げていく。想像はフラッシュバックの引き金となったかの様に、あの影を見た瞬間に感じとった恐怖を、目の前で体験しているかの如く呼び起こした。

 捕まったら、怖ろしい目に遭う。そして、あの黒い影が増えていく。それが示す所はつまり、取り込まれて眷属にでもされてしまう、という所だろうか。

 そう言えば、パチュリーから借りた本で読んだことがある。何でも『ウィルス』という菌よりも小さな生物に似た存在は、生き物の細胞に入り込むと自分の素を植え付けて、その細胞を材料に仲間を作る事で増殖していく性質を持つと。それに似た能力を持っているのなら、レミリアはもう既に――――!

 

 落ち着いた筈の頭が、再び火にかけられたやかんの様に熱を持ち始めた。そんな私を余所にパチュリーは、至極淡々とした口調で告げる。

 

「事が始まって五分で小悪魔が捕えられて、さっきレミィもやられたみたいだから、今は少なくとも三体存在している訳ね。厄介極まりない状況だわ」

「……何で、そんなに平静でいられるんだ。お前の大切な親友が、パートナーが()られてるんだぞ!? 何とも思わないのかよ!?」

()られてしまったものは仕方がないじゃない。今は自分たちが生き残る事に集中すべきよ」

 

 こいつ……! クールな奴だとは思っていたけれど、まさかここまで冷血な魔女だとは思わなかった。パチュリーにとっては、私には想像もできない長い時を共に過ごした筈の親友や、あれだけ慕ってくれていた小悪魔がどうなろうが知った事ではないんだ。

 

「お前、そんなに冷たい奴だったんだな。見損なったぜ」

「何を見損なったのかは知らないけど、とにかくここを離れるわよ。さっきあなたの攻撃を止めるために発動した魔法の気配に勘付いて、この部屋に向かってきている筈だから」

 

 パチュリーは椅子から立ち上がってスカートの汚れを落とすと、静かにドアを開けて外の様子を伺った。パチュリーは手で大丈夫だと合図して、さっさと部屋を後にしてしまう。

 

 ……私はもう、何が何だか分からない状態だった。

 いつものように本を借りに来て、いつものように誰かに見つかって、いつものように弾幕ごっこで遊んで。勝負に勝ったらそのまま家に帰って、もし負けたらパチュリーとくだらない雑談をして帰る。それだけの日常の筈だった。何も変わらない、普通の日々の一節の筈だったんだ。

 それが何で、この短い間に二人も命を落としてしまう非日常になってしまったんだろう。どうして、どこで歯車が狂ってこんな事に……。

 

 無意識の内に、ポケットの中のミニ八卦炉へ手が伸びる。香霖から作って貰ったこの魔法道具を触っていると、何だか勇気を貰えるような気がしたのだ。

 すぅ、と息を吸って、吐く。生きるために当たり前のように行っている一息が、私に力をくれた。あの仏頂面で不器用な優しさを持つ店主がくれた八卦炉が、私に勇気をくれた。

 やってやる。

 レミリアと小悪魔の仇をとる。脱出が出来ないなら、この館を密室に仕立て上げた元凶を退治してやればいい。なんて事は無い。いつも霊夢とやってる異変解決だ。それにもしかしたら、元凶を退治すれば眷属にされたレミリア達も戻ってくるかもしれない。

 俄然、戦う意思が湧いてきた。私は部屋を出ようと箒を手に、外へ出ようとして、

 

『えっ、ちょ、そんな、う、嘘でしょむきゅあーっ!!?』

 

 ザザッ! と何かが床に降り立つ音と、聞いたことも無いパチュリーの悲鳴が私の体へ急ブレーキを掛けた。

 

「パ――――っ!」

 

 叫びそうになって、思わず手で口を塞ぐ。

 外に、居る。

 待ち伏せしていたのだ。多分、床に降りた音がしたところからして、天井にでも張り付いていたんだろう。パチュリーが外へ出たのを確認して、襲い掛かったに違いない。

 奇襲をかけて助けよう。今ならまだ間に合う筈だ―――そう考えた矢先に、反対方向から足音が規則正しく聞こえて来た。パチュリーが言っていたもう一体の影だ。

 マズい。流石に二体を同時に相手取るのは無謀すぎる。一体を目にしただけでも恐慌状態に陥りかけたのだ。そんな怪物二体と戦って勝てるわけがない。

 

 落ち着け。打開策を脳ミソから絞り出すんだ。

 ああそうだ。思い返せば、奴は獲物を攫ってどこかへ運んでいた。もしかしたら獲物を持ち帰る巣のような場所が、この館のどこかへ作られているのかもしれない。でなければ捕まえた瞬間から眷属にしてしまう筈だ。

 私はあの影が、獲物を材料に仲間を増やすタイプなのかと考えていたがどうやら違うらしい。獲物を持ち帰る理由を考えると、全く別の答えが頭に浮かび上がったのだ。

 おそらく奴は、獲物そのものを材料にして分身を作らない。捕え、巣に拘束した獲物の持つ強大な魔力や妖力といった力を糧に、分身を作り出している可能性が高いように思える。パチュリーが仄めかしていたじゃないか。奴は魔力の残り香に敏感だと。それは、強い力を持った獲物を見分けるための機能なのだろう。

 だとしたら希望はある。巣があるのなら、そこに皆のエネルギーを吸い出しているマザーが居座っている可能性が高い。力を吸われても命が無事ならば、そいつを叩けば皆を解放してやれるかもしれないのだ。

 

 すまない、パチュリー。後で必ず助け出すからな。

 

 兎に角、救出するにしても今見つかっては元も子もない。私は周囲を見渡して、丁度私一人が隠れられそうなクローゼットを発見した。迷わずそこに飛び込んで、音を立てないよう静かに戸を閉める。口を両手で押さえ、暗闇の中全神経を耳に集中させた。

 フー、フー、と指の間から漏れ出す呼気だけが、クローゼットの中で唯一存在する音になる。それさえも五月蠅く聞こえてしまって、私はなるべく呼吸音を発生させないよう、息を深く吸って控えめにゆっくりと吐く呼吸を繰り返した。

 足音が遠ざかっていく。どうやら気づかれていないらしい。念のため、私は暫くこの中に居座る事にした。

 暗闇の中、気力との勝負が始まりを告げる。

 

 

【ルールその2:捕まった者は拠点に送られる。しかし、鬼の手を掻い潜り拠点へ仲間が辿り着けば解放される】

 

 

 どれくらい時間が経っただろうか。秒針が進む音の回数を数える事を止めてから、随分経過した様に思える。もしかしたら30分も過ぎていないかもしれないが、体感的には一時間弱もここに閉じ込められている様に感じた。別に閉所恐怖症と言う訳ではなのだが、胸の内から湧いて出てくるこの緊迫感を保ったままクローゼットで籠城し続けると、気が狂ってしまいそうだ。

 時間的にも精神的にも、そろそろ良い頃合いだろう。パチュリーの情報から考えて、敵はおそらく現時点で四体だ。数的には相当な脅威だが、ここは咲夜の能力でただでさえ広いスペースが更に広くなっている紅魔館である。四体それぞれが巡回しているにしても、移動にはそれなりに時間を食う筈だ。

 意識を押し殺してクローゼットから脱出しようとした、その時。何かがパタパタとこちらへ向かってくる音がして、私は戸を押しかけた手を引っ込めた。

 奴が戻って来たのか? と冷や汗が滲み、じわりとした感触が手の内側に生じる。

 しかし私の心配に反して、次に聞こえて来たのは聞き慣れた鈴の音の様な声だった。

 

「この『気』は、やっぱり間違いない。魔理沙さーん、そこに居るん……ですよね?」

「…………美鈴か?」

 

 おそるおそる戸を開くと、そこには様子を伺うように首を傾げている、紅い髪の見知った門番の姿があった。

 傷も無く、あの影に取り込まれた様子も見られない。正真正銘、よく昼寝をして咲夜に怒られている、妖怪の癖にお人好しで朗らかな美鈴だ。

 目の前でレミリアとパチュリーを失った反動もあってか、思わず私は美鈴へ突撃し、力の限り抱き締めた。柔らかい感触が腕を伝い、同時に彼女の声帯からぐえっと潰された蛙の様な声が漏れ出す。

 

「く、苦じいれす……と言うかあの、いつの間に魔理沙さんも参加したので―――――」

「良かった……! 美鈴は無事だったんだな!」

「―――えぅ? 無事? はい、私はこの通り元気ですよ……?」

「良かった。本当に良かった。レミリアもパチュリーもやられちゃったから、お前も駄目なんじゃないかと思ってたよ」

「それは本当なの?」

 

 ドアの外から、美鈴とは違う凛とした声が部屋へと響いた。ああ、この清水の流れるせせらぎの様に繊細で、どこかふわりとした陽だまりの温かさを含んだ声は間違いない。紅魔館のメイド長、十六夜咲夜その人だ。どうやら部屋の外で、あの影が来ないか見張っていたらしい。

 私は咲夜の方にも抱き付こうと飛び掛かったが、眼前にナイフを突きつけられて拒否された。イケズな奴だ。ここは生き残った者同士、感動の再会を分かち合う所だろうに。

 

「お嬢様がやられてしまったというのは、本当?」

「……ああ。私の目の前で、連れ去られちまった」

 

 レミリアの悲壮感漂うあの眼を思い出してしまい、唇を噛む。心なしか、拳に籠る力も強くなった。

 私の様子を見て、咲夜の氷像の様な鉄仮面が揺らぐ。お嬢様の事になると直ぐに芯がブレるこの少女の仕草が、何だか長い時を隔てて再会した友達の様に思えて、堪らなく愛おしかった。

 

「そう言えば、フランは? フランはどうしたんだ」

「妹様は行方不明よ。追われ始めてから直ぐに飛んで行ったわ。無事かは分からない」

「ご心配なく。『気』で探ってみたところ、敵影の数は現在四つです。小悪魔とお嬢様、パチュリー様が捕まってしまわれているのでしたら、増加数はこれで合います。妹様はまだ捕まっておられないのでしょう」

「じゃあ、一先ずは安心ってところなのか……。なぁ美鈴、咲夜。奴の巣を叩けば、皆を助けてやれる何てことは、有り得ないのか?」

「巣……? ああ、拠点の事ですか。一応可能ではありますが」

 

 美鈴の表情が明らかに曇る。それが示す意味は、私の頭に組み立てられた、巣に居座って高みの見物をしているだろう影の母体を叩きのめし、皆を呪縛から解き放つ奪還作戦が至難の道を極めているとみて間違いないだろう。

 

「拠点付近には、分身が常に徘徊して見張っています。分身とは言え、その眼を掻い潜って突破するのは非常に困難かと」

「……見張ってて邪魔なら、退かしてしまえば良いんだ」

 

 カンッ、と箒で床を突き、私は戦意を表明する。レミリアが攫われた時、そしてパチュリーが奇襲された時。情けなく尻尾を巻いて逃げ出した私だが、今は頼もしい仲間が出来た。人間は、強大な敵と戦う時は力を合わせて打ち勝ってきた。力を合わせた人間が、時として想定以上の戦果を挙げる事は人と妖怪の歴史が証明している。一人より二人、二人より三人だ。

 美鈴は人間じゃないけれど、その分仲間でいてくれたら心強いことこの上ない。咲夜も言うまでもなく、頼もしい味方になってくれる。

 

「別に、敵を攻撃しちゃダメなんてルールは無いんだぜ」

「……言われてみれば確かにそうですが……いや、しかし、相手は―――」

「頼む、力を貸してくれ。私は、あいつらの無念を晴らさなくちゃならない。散っていったパチュリーとレミリアの為にも、これは成し遂げなくちゃならないんだ。それがあいつらを助ける事に繋がるのなら、尚の事。でも私ひとりじゃ到底立ち向かえない」

 

 だからどうか、協力して欲しい――――頭を下げて、私は美鈴へと懇願する。

 暫しの沈黙の後、美鈴は観念したかのような溜息を吐いた。

 

「私としては、はっきり言いますと立ち向かいたくなんてありません。足が竦むほど恐ろしい。ですが、分かりました。引き受けます、貴女との共闘を」

「多分、弾幕ごっこなんかとは違って危険な戦いになる。それでも、一緒に戦ってくれるのか?」

「……魔理沙さん。私はどうやら貴女の事を過小評価していたようなのです。例えどんな些細な事でも全力で立ち向かおうとするその姿勢、強く胸を打たれました。私の十分の一も生きていない子にそんな眩しい姿を見せられて、私自身が縮こまっている訳にはいきませんよ。―――戦いましょう。力を合わせて、皆の勝利を目指すんです」

 

 そう言って私の手を取った美鈴の顔は、今までに見た事も無い闘志に溢れていた。もう、幸せそうに涎を垂らして熟睡している門前の置物としての情けなさはどこにも無い。武勇をその胸に燃やし、仲間の為に身を削って立ち上がる事を覚悟した、一人の戦士がそこに居た。

 頼もしい。美鈴がこんなにも頼もしいと思える日が来るなんて夢にも思っていなかった。私は、この勇敢な妖怪と共に戦えることを誇りに思う。例えその先に、影に囚われ新たな分身を作るための苗床となり果てる未来が待ち受けていたとしても。

 

 私は美鈴と熱く握手を交わしつつ、咲夜を見る。彼女は珍しく、頭痛を抱えている様に額へ手を当てていた。

 

「咲夜も、手伝ってくれるか」

「え? あ、うん。良いわよ」

「サンキュ! 流石は咲夜だぜ。レミリアはさぞかし鼻が高いだろうよ。こんなに立派な従者が付いているんだもんな」

 

 親指を立てて、咲夜に私は精一杯の笑顔を送った。咲夜はふん、と鼻を鳴らして、そっぽを向いて黙ってしまう。素直じゃないな。でも私には分かる。間違いなくコイツは照れている。

 

「じゃあ、早速作戦を伝えたいが……敵の本拠地はどこにあるか知ってるか?」

「二階にあるお嬢様の執務室です。見張りの分身は、執務室と接した廊下を徘徊しています。二階に繋がる階段を昇れば、必ず鉢合わせになるでしょう」

「なら方法は一つだな。二手に分かれて挟み撃ち。どちらか片方が生き残れば、必然的に本拠地を叩ける。そうすりゃ文句なしの王手だ」

「ですね。後はタイミングですが……っ!!」

 

 突然、美鈴の表情が険しくなる。視線は部屋の外へと向き、その行動が自然と危機的状況を告げる警報となった。

 

「流石、と言うべきなのでしょうか。左右から挟み込むようにしてこっちへ向かって来ています。端的に言えば囲まれました」

「何だって!?」

「最早隠れても、意味はないみたいですね」

 

 そう言うと、美鈴は躊躇いもなく室外へ飛び出した。私と咲夜も続いて、外へと出る。

 美鈴の言う通りだった。

 廊下の端と端から、それぞれ一体ずつの影が迫ってきている。走ってはいない。ただゆっくりと、私たちを追いつめるようににじり寄ってきているのだ。

 ただでさえ明かりの少ない上に夜だったために、奴の姿が今の今まで明瞭に見えなかったのだが、廊下の天井を照らすシャンデリアの元を潜った事で、漸く影の確かな輪郭が露わとなった。

 男だ。

 顔は遠く暗くてよく分からない。しかしこの距離でもはっきりと存在が認識できる。影の正体は、後ずさりしてしまいそうな捕食者の圧迫感を背後に携える、およそ190以上はある大男だった。

 

 足が震える。

 貧相なカスタネットの様にカチカチと、歯が情けない音を鳴らす。

 吐きそうになるような威圧感。絶対に立ち向かってはいけないと本能が訴える禍々しい気配。

 どうしよう。怖い。勇気を出して立ち向かうと決めたけど、いざ対面してみると悲鳴を上げて逃げだしそうなくらい怖い。レミリアとパチュリーを抵抗の隙を与える間もなく捕縛した、分身でしかない筈の、男の姿をした影がどうしようもない悪寒を呼び起こす。奴の輪郭を視界に捉えるだけで、恐怖と言う名の粘質な物体が、獲物を取り込むアメーバのように精神を侵食してくる。

 しかもそれが、前だけでなく後ろにもいるのだ。私の命を支える大切な臓器が、過労を訴えて止まるんじゃないかと思うくらい働き始めた。ドッドッドッドッドッと、脈が太鼓の如く胸の内側から勢いを増しつつ叩かれ続ける。状況は絶望的だが、私の心臓は祭りの様に賑やかだった。

 

 ぎりっ、と奥歯を噛み締め、どうやってここを突破するか考えを巡らせていた、その時。

 私を縛り、包み、落とし込んだ恐怖を打ち砕くように。美鈴が一歩、私たちの前へと踏み出した。

 その手には虹色の『気』が立ち込めていて、微かに紅い絹の様な髪が揺らめいている。

 

「ここは私が食い止めます」

「美鈴……!」

「その隙に突破してください。貴女の素早さならここを抜けられる筈です」

 

 彼女の言葉は事実上、進んで犠牲になると表明している事に他ならなかった。

 

「でも、それじゃお前が!」

「行ってください!! 何が何でも皆さんを助けると言ったのは、他でもない貴女自身じゃないですか! 成し遂げるんです。私を踏み越えて、その先の勝利を掴み取るんです! 貴女にはその義務がある!!」

 

 春風がそよぐ原っぱの様に朗らかなイメージとは違う、戦闘の覇気に満ちた怒号が飛ぶ。その激励が、私の心を縫い止めていた恐怖の鎖を打ち砕き、体に活力を取り戻させていく。

 魔女の正装を模した帽子を直し、私と咲夜は箒に跨った。穂の中に八卦炉を挿し込み、魔力を充填していく。

 言うべき言葉は、ただ一つ。

 

「―――必ず助ける」

「これも修行の成果を示す良い機会です。さぁ行け! 霧雨魔理沙!!」

 

 美鈴の腕から、眩い虹色の弾幕が一斉に放たれた。それが影の動きを絶妙に牽制し、弾幕の波に乗った私たちを廊下の最奥へと突破させる。怖ろしい速度のまま突き抜けた私たちは、目的地へ続く方向へ飛行魔法の流動性を調節する。

 止まるような事はしなかった。美鈴の助言通り、私は魔力を操作して莫大な推進力に任せるまま、二階の執務室へ迷うことなく一直線に突き進んでいく。

 階段を抜け、執務室へ続く廊下へ差し掛かった時。分身の姿が視界に映った。奴らの母体が居座る巣を守る、番人的存在だ。

 八卦炉に接続した魔力の噴射を切り、停滞して浮遊状態を保つ。丁度、影と睨みあう様な形となった。相変わらず相手の顔は暗すぎて見えないが、心なしか驚いているようにも見える。そうであれば、してやったりと言ったところだ。

 

 だがしかし、どうする。このまま突っ込んでもおそらくただ捕まるだろう。だってあの分身は、いくら足を縺れさせてこけたとはいえ、吸血鬼であるレミリアを一瞬で追い詰めるほどの敏捷性を持っているのだ。いくらスピードに自信があるとはいえ、妖怪が本気を出せば、普通の魔法使いでしかない私がどうなるかは考えるまでもないだろう。ならば機動力を封じるために、美鈴と同じように弾幕で攪乱するか? いや、箒を推し進める為に八卦炉へ力を回せば、奴を圧倒するほどの密度を持つ弾幕は作れない。

 どうする。どうする。

 

「次は私の出番の様ね」

 

 思考の渦に呑まれた私を引き上げるように、腰にしがみ付いていた咲夜が言う。薄く振り返れば、彼女は何か妙案を思いついた切れ者の眼をしていた。

 何をしようとしているのか大体は予想できる。時間を操るという反則に近い能力を持つ彼女が、時間を止めて避けようのないナイフの弾幕を展開する気なのだろう。

 しかしそれを実行するには、大きな問題が壁となって立ちはだかる。

 

「いくら時間を止めても、唯一能力の対象外であるお前自身は、時間を止めた瞬間のエネルギーの影響をモロに食らうんだろ? あの速さの中で時間を止めれば、ワケの分からない方向に吹っ飛んじまうぞ。時間を止めずにナイフを投げても、ナイフが奴に刺さるより私たちが分身の元へ到着する方が速いぜ」

「いいえ、ナイフは投げないし時間も止めないわ。使うのは私自身。分身と接触する寸前で、空間を歪曲させて私を分身の目の前に放り出すのよ。その隙に執務室へ行って頂戴」

「そんな事が出来るのか?」

「知らない様ならこの機会に教えてあげる。時間を操ると言う事は即ち、空間をも支配下に置く能力だという事をね」

 

 十六夜咲夜は、決して自信家と言う訳では無い。彼女は客観的に物事を見る能力に長けていて、己に対して適切な評価を下している。出来ない事は出来ないと言い張り、出来る事は出来ると言うタイプなのだ。つまり彼女が出来ると言った以上、それは能力に対する過信でも何でもなく、必ず成功できるという確証があっての事なのだろう。

 ならば、そいつを信じる事に何の躊躇も無い。

 

「タイミングはどうする」

「そのためのスペルカード宣言でしょ。合図にはうってつけ」

「決まりだな。任せた」

「任された」

 

 八卦炉に魔力を再度注ぎ込み、充填させる。あとは後ろへ撃ち放てば、ジェットの如く私たちを分身の元へと押し流すだろう。

 咲夜が手元にカードを持つ。カードの名を宣言された瞬間が、勝負の行く末を握るカギとなるのだ。

 気合十分。魔力十分。勝利は目前。後退は、無い。

 

「いくぜ」

 

 ドバンッ!! と八卦炉が轟音と共に炸裂した。穂先から背後へ流れる魔力の奔流が爆発的に推進力を生み出し、私たちを彗星へと変えていく。一気に分身との距離が縮まり、それに合わせて風を切る音が私たちを歓迎した。

 勝利への道が、姿を現し始めていた。

 決め手となったのは、カードを手にスペルを囁く彼女の声だ。弾幕を伴わない、ただ合図としての、スペルカード宣言。

 

「幻世『ザ・ワールド』」

 

 私の腰に回っていたか細い腕の感触が消える。空間を操り、私の背後から一瞬にして分身の前に移動した咲夜は、そのまま分身を巻き込み派手に廊下を転がっていった。

 その隙に私は魔力を箒の先端から逆噴射させ、推進力を相殺して執務室の前へと体を放る。宙を舞う中、反動でお尻の下から弾き飛んだ箒を捕まえ、穂の中の八卦炉を取り出すと、ドアを蹴り破る勢いで執務室の中へ侵入した。何時でも発射できるように八卦炉を魔力で満たし、内部のターゲットへ向けて照準を合わせる。

 私は、自身の最も得意とする魔法を―――スペルを、勝利宣告の如く宣言した。

 

「マスタ――――スパァ―――――――」

 

 

【ルールその3:勝利条件は日付変更まで逃げ延びる事とする】

 

 

 紅魔館の皆を捕え、力を吸い出しているだろう巨悪の根源たる母体に向けて極大の閃光を叩き込もうと執務室へ入った私は、信じられない光景を目の当たりにして固まった。

 執務室に広がっていたのは、紅魔館の住人が卑劣な影の母体に捕えられている凄惨な現場などではなく。

 和気藹々とお茶会を楽しむ、少女たちの姿だった。

 

「日付変更まで1時間切っちゃったわねぇ。あーあ、咲夜か美鈴が助けに来ないかしら。ずっと待ってるだけだと暇で暇でしょうがないわ。このままだと罰ゲーム受けちゃうし」

「罰ゲームはともかく、私としては、走り回るよりこうして静かに紅茶を飲みながら本を読める方が好ましいのだけれど―――小悪魔。この紅茶、砂糖と塩を間違えているわよ」

「ひゃいっ!? あ、も、申し訳ありません! 直ぐに取り替えます!」

「全く……あなたもいい加減、ある程度ナハトの瘴気に慣れなさいな。この先やっていけないわよ」

「うぅ、分かってるんです。分かってるんですけど、でも、どうしても眼を合わせると緊張しちゃって……!」

 

 机の上でぶっすーと不貞腐れているレミリアが。本を読みつつ紅茶を啜り、違和感しかない味に顔を顰めて小悪魔を叱責するパチュリーが。何故かカチコチに緊張して狼狽えている、いつも以上に気弱な小悪魔が。

 要約すると、いつもの紅魔館がそこにあった。

 何一つ変わった様子のない紅魔館が―――――、

 

「おい」

「あら魔理沙。さっきぶりね。もしかして助けに来てくれたの? もっと遅くても良かったのに」

「……そう言えば私も、捕まる瞬間にチラッとだけ見たわね。いつの間に参加してたのかしら」

「え? レミィが呼んだ訳じゃないの?」

「違うわよ。多分フランが呼んだんでしょ。あの子魔理沙が大好きだし」

 

 至極どうでもよさそうに結論付けるレミリアと、その可能性が濃さそうね、と適当な相槌を打ちつつ黙々と活字の世界へ没頭するパチュリー。

 私の中の何かに、猛烈に大きなヒビが入り込んだ気がした。

 気がついた時には、私は内側から込み上げてくる激情を晴らすかのように叫んでいた。

 

「―――なんっっっっだよこれぇ!!?」

 

 ビクッ、と小悪魔の肩が跳ねて、レミリアの眼が細くなり、パチュリーが唇を引き締めて耳を塞ぐ。でも今の私は彼女らの鼓膜を心配していられる余裕なんて無かった。

 

「五月蠅いわねぇ。なんだよこれー、はこっちの台詞よ」

「おまっ、お、レミリアッ!! お前は分身を作るための栄養源にされていたんじゃなかったのかよ!? パチュリーも、小悪魔もだ!! 紅魔館が何者かに強襲されて、そんでお前らがどんどん捕まっていって、壊滅の危機を迎えかけてたんじゃないのか!!?」

「……パチェ。貴女、あの黒白が一体何を言っているのか理解できる?」

「残念だけど翻訳できないわ。何となく、若気の至りから妄想を爆発させて変な方向に拗らせちゃったのかなとはニュアンス的に捉えられたけれど」

 

 いやー若いってのはパワーだねーと、吸血鬼とその親友からセットで生暖かい視線を送られた。なんだ。なんだこれは。これではまるで私が、何か盛大な勘違いをして空回りを繰り返した間抜けな道化の様ではないか。

 なんとなく事件の全貌が見え始めて、私は首から顔がどんどん熱を帯びていく感覚を覚えた。

 やばい。もしかしたら私、凄く恥ずかしい奴になってしまったのかもしれない。

 

 思い返すと、不自然な点はいくらでもあった。危機的状況なのにどうして日付が変われば館に掛けられた魔法が解けて解放されるのか。何故パチュリーが、仲間がやられたというのにあそこまで淡白だったのか。普段外に居る筈の美鈴まで偶然館に閉じ込められていたのは何故か。咲夜が私と美鈴の結託を見て頭が痛そうにしていたのは何故なのか。レミリアがやられたと聞いて咲夜がそれほど取り乱さなかったのは何故なのか。

 あぁ、ざっと思い浮かべるだけでもこれだけ不審な点が浮かび上がってくる。普通ならすぐに気づくことが出来たはずなのに、あの影が私に植え付けた理不尽な恐怖のせいで目が曇り、事の真偽を見極める事が出来なかったのだ。

 

「あ、あのさ」

「なに?」

「お前ら、い、一体何をしていたんだ……?」

「何って」

 

 レミリアとパチュリーが、互いに顔を合わせ、首を傾げる。どうでもいいことだが妙に息の合った仕草だった。

 そして、レミリアは蝙蝠の様な翼をパタパタと動かしつつ、言葉を紡ぐ。

 

「鬼ごっこでしょ」

 

 ………………?

 鬼ごっこ? おにごっこ? ONIGOKKO?

 一つの言葉が、私の頭で竜巻の様に回転し、狭い屋内で思い切りゴムのボールを投げたかのように跳ね返り続ける。遂にはゲシュタルト崩壊の一歩手前まで足を突っ込んでしまった。

 鬼ごっことは、アレだ。一人がハンターの役割を担って、ゲームに参加した他者を次々と捕まえていく、至極単純なルールでありながら、少年少女の心を掴んで離さず、過去から黙々と受け継がれているミームに等しい遊びの一種だ。

 何が起こっていたのか。そして自分が今何をしようとしていたのか。それら二つの要素を半ば自動的に理解する。理解してしまう。

 そして唐突に訪れる、羞恥心の津波。顔はこれ以上に無いくらい沸騰し始め、パクパクと金魚みたいに口を動かすことしか出来なくなってしまっていた。

 私は、こいつらの盛大な鬼ごっこの為に、命を賭けようとしていたのか。そんな事の為に、あんなに思い切った啖呵を吐いてしまったというのか。

 美鈴の言葉が、頭の中にふと蘇る。

 

 ――――例えどんな些細な事でも全力で立ち向かおうとするその姿勢、強く胸を打たれました。

 

 例えどんな些細な事でも、全力で。

 つまるところ私は、傍目から見れば鬼ごっこに命を賭ける熱血な女の子に見えていた訳で。

 それを理解した瞬間。心の底から、死にたいと思った。

 ぷしう、と頭から湯気を出して膝を抱えて蹲ってしまった私に、パチュリーが無駄に暖かみを込めた声で告げる。

 

「人生色々よ。気にすると毒だわ」

 

 グサリ、と頭頂部辺りに言葉の刃が突き刺さる。時として励ましはどんな罵倒よりも強力な武器になる事を、この魔女は知らないのだろうか。

 

「~~~~~っ!!? も、もとはと言えばお前があの時ちゃんと説明してくれなかったから……!」

「これはフランの気紛れで生まれた、所謂一つの親睦会みたいなものでね。フランに好かれているあなたなら、レミィかフランに招待されて途中参加をしていても不自然ではないと思っていたの。あなたの事だから壁をくりぬいて時間切れまで逃げようとするんじゃないかと思って、釘を刺す事しか考えていなかったわ」

 

 ちなみに、とパチュリーは付け足し、

 

「あなたの後ろに居る方が、件の増える鬼さんよ」

 

 パチュリーの言葉通りに、ゆっくりと後ろを向く。

 部屋の入り口に、魔王が居た。

 灰色の髪と紫の瞳をした大男が、尋常ではない威圧感を放ちながらこちらを見ている。

 口元から一対の氷柱の様な牙を覗かせ、彼はやんわりと微笑んだ。

 その笑顔が、春が来なくなる異変の時に冥界でほんの少しだけ封印が解け、力を放出した西行妖の如く禍々しく、妖艶で。

 ヒートアップした体が悪寒と恐怖で一気に冷めた反動なのか、私の意識は呆気なくブラックアウトした。

 

 

【ルールその4:勝者は敗者に好きな罰ゲームを課す事が出来る】

 

 

 知らない女の子が執務室に入って行ったと分身から得た情報で気がつき、何事かと見に行ってみると、昔の魔法使いの様な格好をした少女が私の顔を見て気を失って倒れた。面会してからここまで数秒足らずの出来事である。もしかしたら私と顔を合わせて気絶するまでのベストタイム記録を更新したかもしれない。

 それはさておき、分身から得た情報を見るに、この少女は人間の魔法使いであることは間違いない様だ。……つくづく思うのだが、魔法使いさんと私は相性が悪いのだろうか。パチュリー然り、顔を合わせると必ず気絶されている気がする。お蔭で弁明の余地も何もなかった。せめてもう少し魔性の効力が薄ければ、大分楽にコミュニケーションをとれると思うのだがなぁ。

 

「おじ様、お帰りなさい。皆捕まったの?」

「いや、フランがまだだ。どこかに隠れているのか、逃げ続けているのかは分からないが全く見当たらない」

「申し訳ありませんお嬢様、捕まってしまいました」

「咲夜さんに同じく……あはは。いや流石にあの状況からは無茶にも程があるかなって弁解してみたりははははは」

 

 私の後ろから、どことなく悔しそうな咲夜と目が虚ろになっている美鈴が顔を出す。あの魔法使いの少女をここまで突破させるために、まさか彼女たちが分身に挑みかかってくるなんて思わなかった。特に咲夜は、外の世界のスタントマンの様に分身へ向かって凄まじい勢いで飛び掛かって来たものだから、いつものクールな印象とは違った一面を垣間見る事が出来た気がする。もしかしたら表はクールで内面はホットな少女なのかもしれない。

 床で伸びている魔法少女を見て、美鈴が目を丸くした。

 

「ありゃ、魔理沙さん捕まっちゃったんです?」

「いいえ。そもそも彼女はゲームに参加していなかったらしいわ。ナハトの事を、紅魔館を襲う怪物か何かだと思ったらしくてね。捕まった私たちが餌にされていると、盛大に勘違いしたみたいなの」

「ああ、そう言う事ですか。だからあんなに魔理沙さん熱くなってたんですね……ってそう考えると私は誤解に誤解を重ねてヒートアップしていただけって事になるんでしょうか。う、うぅ。か、顔が熱いです」

 

 美鈴が顔を茹蛸の様に紅潮させつつ、手を頬に当てて項垂れた。そしてパチュリーからさらりと聞き捨てならない事を言われた気がするが、この際放っておこう。一見で誤解されるのはもう慣れてしまっている。

 が、このまま私に悪い印象を抱かれたままだと、心苦しいのも事実だ。あまりこんな事はしたくないのだがやむを得まい。記憶をほんの少しだけ弄らせてもらおう。元より彼女はこのゲームに参加する事の無かった人物だ。今晩の記憶が抜け落ちても、夢か何かで済ます事が出来る筈である。勿論記憶を弄る代償として、お詫びはさせて貰うつもりだ。

 この子の名は、魔理沙と美鈴が言っていたから、普段パチュリーが頭を悩ませている霧雨魔理沙という少女で間違いないだろう。であれば、またこの館へ訪れる事がある筈である。その時は互いに知らない者同士と言う体で接触させて頂くとしようか。挨拶の後に私の能力の事を説明して、信じてくれれば良いのだけれど。

 だがそれ以前に、彼女に働く魔性の影響は『恐怖』寄りの様子だから、パニックを起こされないよう注意を払わなければならないか。ほとほと難儀な能力である。

 

「ところで、誰かこの少女の家を知る者はいるか? この館で目を覚ましたらまたパニックを引き起こすだろうから、送ってあげた方が良いと思うのだが」

「私が彼女の家を存じておりますわ」

「では咲夜、すまないが案内を頼めるかね」

「お任せを」

 

 彼女を無事に送る算段が整ったところで、どんなお詫びを持っていこうか考える。彼女は魔法使いだから、魔法に強く関係する物が良いだろうか。私が作った魔法道具は……いささか強力過ぎて人間には危険だ。ならば、少しばかり希少な素材をプレゼントするとしよう。喜んでくれればいいのだけれど。

 

 

 こうして、私たちの第一回紅魔館親睦会は、乱入者の出現がバタフライエフェクトとして働き、なんとも奇妙な形で終わりを迎えた。親睦を深めるという点ではよく分からない結果となったが、私としては普段目に出来ない彼女たちの一面を知れただけで満足である。主に、咲夜やパチュリーが意外とコミカルな少女だと分かったのは大変な収穫だ。この調子で少しづつ、あの夜の恐怖を拭い去る事が出来れば素晴らしい。

 

 ちなみにこの直後、日付が変わったと同時にフランが勝った勝ったと喜びの声を上げながら執務室へ帰って来て、一堂に会している私たちを見ると『何でみんな楽しそうに和気藹々としてるの仲間はずれなんてずるいずるいずるいーっ!!』と癇癪を起し、それを止めるレミリアと一悶着が巻き起こる羽目となる。

 言うまでもなく、最初に設定したルール通り、私たちは彼女が下した罰ゲーム……第二回親睦会の開催を約束させられた。そして今度は何故か、紅魔館で一番料理が上手い咲夜を審判に置いた、全員を巻き込む料理対決となったのはまた別の話だ。

 

 

 ぱちり、と目が覚める。

 酷くグラグラする視界が見慣れた天井を映し、二日酔いの後の様な気持ちの悪い浮遊感が私へ襲い掛かった。お蔭で、否が応にも意識が現実に向かわされていく。

 上体を起こして周囲を見渡す。相変わらず散らかりきった素敵な我が家が――――と思ったが、何故か酷く清掃され見違えるようにスペースが生まれた霧雨魔法店の姿がそこにあった。

 

「あっれー……? 私、片付けとかしたっけな……?」

 

 眠る前に何があったのか思い出そうとするが、黒い靄が差し掛かったように昨晩の事が思い出せない。何だか凄く恥ずかしくて怖い思いをしたような気がしなくもないが、それが一体何なのかが分からず仕舞いだった。

 大方、酒でも飲み過ぎて酔った勢いで部屋を片付けたとか、そんなものだろう。そう結論付けて、埃一つないフローリングに足を着ける。こんなに綺麗になるのなら、今度から片付けたいときは思い切り酔っぱらってしまおうか。

 

 しかし、どこに何を片付けたのかまったく覚えていなかったので、魔法の研究材料だとかが知らないうちにどこかへ行ってしまっていないか心配になる。だが、それも杞憂だった様子だ。ちゃんと綺麗に研究机へ、分かり易く分野ごとに分類されて揃えられてある。偉いぞ、昨晩の私。

 

「……ん? 何だ、これ」

 

 魔法薬の調合へ使うために蒐集していたキノコの横に、見慣れない棒が横たわっていた。長さは人差し指から手の付け根あたりまでで、形は金の延べ棒の様だ。色調は金と反対の銀色をしており、しかし普通の銀よりも明らかに光沢が強く、美しい輝きを放っている。

 手に取り、謎の金属塊を眺める。見た目に反してこの延べ棒は驚くほど軽かった。洗い立ての食器よりもつるつるしていて、日の光を当てればキラキラと煌めく鏡の様に私の顔を映し出す。

 こんなものが、家にあったのだろうか。

 もしかしたら昔にどこかで拾って来て忘れていたものを、酔った私が昨晩発掘し直したのかもしれない。そう考えると何だかお宝を発見したような気分になって、無性に嬉しくなった。

 今度、香霖の所へ行って名前を聞いてみよう。どんな物の名前でも分かるあの古道具屋なら、きっとこの軽くて綺麗で不思議な魅力がある金属の名前が分かる筈だ。

 

 部屋は綺麗になっているし、お宝っぽいものも発見できた。朝から何だか調子がいい気がするものだから、今日はこれからも良い事が起こりそうな気がして、私は霊夢の所へ遊びに行こうと決意した。もしかしたらタダでお菓子にありつけるかもしれない。それに、たまには神社の経済状況を支えるのも悪くは無い。

 無くさない様に金属塊を机の中へ仕舞い込んで、お気に入りの帽子を手に取り、玄関を出る。私は文字通りの相棒たる箒と共に、空に向かって飛び出した。

 

 メレンゲの雲と絶好調な夏の太陽が、今日も変わらず水色の空を彩っている。

 

 


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