桜花妖々録   作:秋風とも

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第113話「死を弄ぶ程度の能力」

 

 時はほんの少しだけ遡る。

 春なのに低すぎる気温。突如として降り始めた雪。そして異常な動きを見せる、淡紅色の奇妙な霊力。地球温暖化だとか、エルニーニョ現象だとか。そんな異常気象だけでは説明がつかない現象を前にして、東風谷早苗もまた居ても立っても居られなくなっていた。

 

 春も佳境とも言える時期なのにも関わらず、真冬のようなこの寒さに暗雲から舞い落ちるこの雪。それだけでも十分に異常と言える状況なのに、極めつけはこの奇妙な霊力の流れである。守矢神社は妖怪の山の高所に位置しているだけあって、余計に認識しやすかったのかも知れない。

 いの一番に守矢神社を飛び出した早苗は、そのまま奇妙な霊力を追いかけて飛翔。やがて魔法の森の上空付近まで辿り着いていた。

 

「す、凄い……。何、これ……?」

 

 思わずそんな言葉を零す。早苗もこれまで何度か『異変』を経験しているが、今回の『異変』はこれまでと比較してかなり規模が大きいように思える。

 春であるのにも関わらず雪が降り続ける幻想郷。そんな大地から、淡紅色の霊力が次々と滲み出ているのである。そしてそんな霊力は上空へと漂い始め、やがて一点へと集中しているように見える。その一点とは──。

 

「冥界、ですよね……。一体何が起こって……」

 

 淡紅色の霊力が集中するその先にあるのは、おそらく冥界の入口である。つまりこの奇妙な霊力は、冥界に集められているという事になり。

 

(霍青娥さんがいよいよ動き出したって事……?)

 

 はっきりとは判らないが、そういう事である可能性が高い。兎にも角にも、行ってみれば判る事だ。こんなところで考察を続ける時間も勿体ない。

 

「よし……」

 

 意を決し、冥界へと足を踏み入れる事にした早苗。

 そのまま霊力を込めて、淡紅色の霊力が集まる地点へと一気に──。

 

「ちょっと待ちなさい」

「うひゃあ!?」

 

 ──飛翔しようとした、その瞬間。不意に誰かに肩を掴まれて、早苗は素っ頓狂な声を上げてしまう。びっくりし過ぎて心臓が止まるかと思った。

 慌てて早苗は飛び退いて、そしてガバッと振り返る。一体、どこの誰なんだ。気配もまるで感じさせずに背後へと立ち、あまつさえ急に肩を叩いてくるなんて。

 

「……驚き過ぎじゃない?」

「へ……? あっ! あなたは……!」

 

 結論から言ってしまえば、そこにいたのは早苗も知る人物であった。彼女の『能力』を考えれば急に現れたようなあの感じも納得だが、態々そんな『能力』を行使して近づいて来たのだろうか。だとしたら、中々どうして質が悪い。普通に声をかけてくれれば良かったのに。

 

「さ、咲夜さん……! もうっ、驚かさないで下さいよぉ!」

「え? 別に驚かすつもりはなかったんだけど……」

 

 早苗が思わず抗議をすると、彼女──十六夜咲夜はきょとんとした表情を浮かべていた。

 何だろう、この反応。まさか早苗が驚くとは微塵も思ってなかったのだろうか。明らかに狙ったとしか思えないタイミングだったのだが。

 

「咲夜さん、『能力』を使いましたよね? 急に現れるんですもん。そりゃびっくりしますって……」

「ああでもしないと、貴方はさっさと冥界に向かっちゃいそうだったじゃない」

 

 肩を窄めつつも、咲夜はそう言い返してくる。早苗を呼び止めたいのなら、急に肩を掴むのではなく一声かけて欲しかったとは思う。

 咲夜の持つ『能力』は『時間を操る程度の能力』。文字通り、時間の流れに干渉する事が出来る『能力』らしい。流石に時間を遡ったりする事は出来ないようだが、周囲の時間の流れを極端に遅くする事で、自分だけ超高速移動をするような芸当も可能である。こうして早苗の背後に突然現れたように見えたのも、そんな風に『能力』を応用した為であろう。

 

 ──それにしても心臓に悪い。お手柔らかにお願いしたいものだ。

 

「えっと……。それで、私に何か用ですか? 今すっごく急いでいるんですけど……」

「急いでるって……。冥界に行くつもりだったんでしょう?」

 

 一先ず彼女の要件を訊き出そうとすると、そんな確認が返ってくる。早苗は頷いてそれに答えた。

 

「そう、そうです! 咲夜さんも気づいてますよね? 春なのにこんな風に雪が降り始めて、しかも奇妙な霊力が幻想郷から滲み出ていて……。それが冥界に集まっているんです! きっと首謀者は冥界にいるはずですよね?」

「まぁ、そう考えるのが妥当ね。だからそんな『異変』を解決する為に、冥界へと向かおうと?」

「その通りです。私、黒幕に心当たりがあるんです! 早く止めないと、何をしでかすか……」

「そんな事をした所で無意味よ」

「え……?」

 

 早苗が状況を説明し終えるよりも先に、不意に咲夜の口から飛び出した言葉。その意味が一瞬理解出来なくて、早苗は思わず言葉を呑み込んでしまった。

 そんな事をした所で無意味。何だ、それは。早苗が冥界に向かった所で、『異変』を解決する事なんて出来る訳がないと。彼女はそう言いたいのだろうか。

 

「どういう意味ですか……? 私じゃ手に余るとでも思ってるんですか……!?」

「そうじゃない。今更横から介入した所で、最早一つの結末は覆らないのよ。貴方だけに限った話ではなく、他の誰であろうともね」

「な、何ですかそれ……」

 

 訊き返してみると、ますます意味が分からない返答が返って来た。

 最早一つの結末は覆らない? まさか、既に手遅れだとでも言うつもりなのか。それ故に無意味なのだと、そういう事なのだろうか。

 

「そんなの、やってみなきゃ判らないじゃないですか! まだ何も終わってません! それなのに、今から諦めるなんて……!」

「冷静になりなさい。そんなに熱くなった所で、空回りするのがオチよ」

「──ッ! どうして、咲夜さんはそんなに冷静なんですかッ!? 私達は、ずっとこの『異変』の黒幕を追いかけ続けていて、でも全然上手く行かなくて……! 文字通り、五里霧中だったんですッ! これから何が起きるかなんて、そんなの判らないはずなのに……!」

「いいえ、判るわ」

「は……?」

 

 ──どこか真っ直ぐな。芯の通った咲夜の言葉が、一瞬早苗を我に返す。

 

「判っているのよ。──いや、知っていると表現した方が正しいかしら。これから何が起きて、そしてどういった状況に陥るのか。遅かれ早かれ、その結末に必ず収束してしまうの」

「な、何、を……」

「だけど余計なイレギュラーは極力混入させたくなかった。収束する運命を変える事は出来ないけれど、その後ならどうともでもなる。最善の運命を手繰り寄せる為には、全てのピースをぴたりとはめる必要があるわ」

「運、命……?」

 

 判らない。咲夜が何を言っているのか、断片的過ぎて殆ど理解が出来ない。

 収束する運命を変える事は出来ない。けれども、その後ならどうともでもなる。それは、一体──。

 

「まぁ、全部お嬢様の受け売りだけど」

 

 だけど。

 

「私は諦めるなんて言ってない」

 

 彼女の瞳は、雲ってなんかいない。

 

「私だって座して死を待つ趣味はない。お嬢様がそれを望むなら、幾らでも運命を変えてみせるわ」

 

 十六夜咲夜は、決して諦観に徹してしまっている訳じゃない。主の命令だって多少なりとも含まれているのかも知れないが、それでも彼女は彼女なりにこの状況を何とかしようと突き進んでいる。

 それくらいなら、今の早苗でも理解する事が出来るから。

 

「だから早苗。私達に協力して」

 

 咲夜に右手を差し出される。

 

「貴方の力が必要なの」

 

 正直、中々どうして理不尽な話だとは思う。運命だとか、いきなりそんな事を言われても正直訳が判らない。状況の説明だって殆どされていないし、そんな状態で協力しろ等と言われても困ってしまう。

 だが、それでも。

 

(咲夜さんは……)

 

 咲夜の芯のある言葉は、確かに早苗の心に響いていた。彼女は決してふざけている訳でも、早苗の意思を妨害しようとしている訳でもない。彼女の根底に存在する想いは、きっと早苗のそれと同種のものなのだ。この状況を放ってはおけない。だから何とかしたいのだと。彼女もまた、そんな想いを抱えている。

 

 ただ、早苗よりもほんの少し、多くの情報を持っているだけで。

 だとすれば。

 

「……説明、ちゃんとしてくれるんですよね?」

「ええ。必要ならば、幾らでも」

 

 東風谷早苗は、意を決する。

 

「……判りました」

 

 差し出された咲夜の手を取って。

 

「私はどうすれば良いですか?」

 

 こうして東風谷早苗もまた、一つの運命に抗い始める──。

 

 

 *

 

 

 早苗が咲夜から出された指示は、突き詰めれば実に単純なものだった。

 要するに救援活動だ。咲夜が合図をしたタイミングで冥界に突入し、取り残された者達を連れて冥界を脱出して欲しいと。つまりはそういう事らしい。

 

 気になったのは、なぜ今すぐ突入しないかという事。冥界に取り残された者達が本当に危険な状態であるのなら、今すぐにでも助けに行った方が良いと思うのだが。

 

「言ったでしょう? 運命の収束は止められない。今すぐ突入した所で、ミイラ取りがミイラになるだけよ。気持ちは判るけど、今は待つべきなの」

 

 訊ねると、咲夜からはそんな回答が返ってきた。

 つまるところ、その運命の収束とやらが終わるまでこちらから手を出せないという事なのだろうか。運命なんて中々に曖昧な表現だが、ここは幻想郷。あまり外の世界の常識に囚われてはいけない。何せ咲夜が仕える吸血鬼のお嬢様は、『運命を操る程度の能力』などという『能力』を申告しているのだから。

 

 いまいち理解は出来ないが、それでも無理矢理納得してしまう事にする。余計な事まであまり深く考えてしまうと、却って混乱のもとである。今はこの『異変』を何とかする事を真っ先に考えるべきだ。

 それからしばらく待機して、ようやく咲夜の指示が出た。早苗は彼女と共に、解れた結界を飛び越えて冥界へと侵入する事になる。

 

 ──そして今に至る、という事だ。

 

 冥界に入った途端、まずは先行して咲夜が白玉楼に向かう。作戦の概要としてはまず咲夜が敵の注意を引き、その間に早苗が他の者達を誘導して救出するという実にシンプルなもの。

 妥当な配置だとは思う。『能力』の事を考えると、敵を撹乱させるには十六夜咲夜が適任だ。彼女ほどの実力者なら、多少の危険も心配ない。

 

 早苗だってその辺りの力量は弁えているつもりだ。余計なプライドなんて抱かない。身の丈に合わぬ死地に自ら足を踏み入れて、それで却って足を引っ張ってしまう方が我慢ならないのである。

 あくまで自分が出来る事を全うする。

 そんな思いを胸に抱き、咲夜からやや遅れる形で早苗も白玉楼を辿り着いた。

 

「霊夢さんッ!」

 

 声を張り上げて彼女達のもとへと駆け寄る。一番に確認出来たのは霊夢の姿だ。名前を呼ぶと、困惑が隠し切れぬといった様子で霊夢が振り返ってくる。

 

「……っ。あ、あんた、早苗……!? どうして、あんたもここに……?」

「ごめんなさい霊夢さん、詳しい説明は後です! 私、今は咲夜さんに協力してて……!」

 

 ちらりと早苗は視線を向ける。咲夜が対峙するその相手──物々しい雰囲気を漂わせる亡霊少女の姿が目に入って、早苗は息を飲み込んだ。

 

「幽々子さん……! まさか、本当に……?」

 

 事前に咲夜からある程度説明されていたが、やはり実際にこの目で確認するまで半信半疑な所があった。けれどもこんな姿を見せられては、最早信じるしか無くなってしまう。

 雰囲気が違いすぎる。本当に、彼女はあの西行寺幽々子なのだろうか。

 

「あら? 貴方も一緒だったのね。意外と珍しい組み合わせじゃない? 二人揃ってどうしたのかしら?」

「言ったでしょう? 貴方の思惑を引っ掻き回しにきたって。早苗にはその手伝いをして貰おうと思って」

 

 幽々子に対して、咲夜が答える。

 

「貴方がこれから何を起こすのか、大凡の事は()()()()わ。だから最悪の事態だけは回避させて貰うわね」

「ふぅん、へぇ……。知ってるなんて、意味深な口振りね。貴方が仕えるお嬢様に、私の運命でも見てもらったのかしら?」

「その辺はご想像にお任せするわ」

 

 どことなく幽々子を煽るような咲夜の口調。思惑通り、幽々子の意識は咲夜に集中し始めている。

 

「はぁ……。まぁ、良いわ。どっち道、貴方の事も殺すつもりだったし。そのタイミングが少し早くなっただけね~」

「そう上手く行くかしら?」

 

 ──タイミングとしては今しかない。

 早苗は改めて周囲の様子を確認する。咲夜から聞いた話では、今の冥界には幽々子以外に何人かの人物が残されたままだと聞いている。プリズムリバー三姉妹と、そして──。

 

「妖夢さん……!?」

 

 プリズムリバー三姉妹の長女──ルナサに支えられるような形で、ぐったりと倒れている少女。彼女の姿を認識した途端、早苗は一気に血の気が引く。

 魂魄妖夢。元より冥界の住民である彼女がこの場にいる事については何も不思議な部分はないが、問題なのはその状態。この場にいる誰よりも満身創痍じゃないか。目立った外傷こそ見当たらないものの、文字通り精根尽き果てたかのようなあの様子は──。

 

「妖夢さん……! どうして、こんな……!」

「落ち着いて。この子の事なら心配ない。命に別状はないみたいだから」

 

 沸騰しかけた早苗の脳裏にそんな言葉が響いてきて、すんでの所で彼女は冷静さを取り戻す。

 声の主はルナサである。幾分か落ち着いた様子の表情。流石に焦燥や困惑がゼロという訳でもなさそうだが、それでも彼女は冷静な思考能力を維持できているらしく。

 

「……あなたって、妖怪の山にある神社の巫女──じゃなくて、風祝だっけ。まぁ、今はこの際どっちでも良い。……あなた達は一応、私達に加勢する為に来たって事で良いのよね?」

「え、ええ。そう、ですね……。手助け、という意味では強ち間違ってはいません……」

 

 早苗は頷いて答える。こちらとしては幽々子と正面からやり合うつもりはないが、少なくともルナサ達とも味方であるつもりだ。

 プリズムリバー三姉妹は、今のところ揃って無事。妖夢は酷く消耗しているものの、命に別状はないとの事。紫と藍は咲夜に任せるとして、後は──。

 

「──っ。岡崎さん……? 岡崎さんは……!?」

 

 もう一人。この場に残されているはずの人物が近くに見当たらない事に気づき、早苗は焦燥を覚え始めた。

 まさかやられてしまったのか──等と一瞬脳裏に過ぎったが、その不安はすぐに杞憂に終わる。視線を泳がせると、早苗達から少し離れたその場所に、件の亡霊──岡崎進一の姿が認識出来たのだ。

 少し顔色が良くないようだが、一先ず大きな怪我は負っていない様子で。

 

(良かった……。取り敢えず、あの人も無事みたい……)

 

 ほっと胸を撫で下ろす早苗。不安感が幾分か解消されていく。

 ここまで確認できれば次のステップに進んでも問題ない。幽々子の意識が咲夜に向いているその隙に、冥界から脱出する為の準備を整えるのだ。

 

 早苗は幽々子への警戒心を緩めずに、霊夢へと言葉を投げかけた。

 

「霊夢さん、今は私達の指示に従ってくれませんか……?」

「えっ……?」

 

 困惑気味な声を上げる霊夢。まぁ、無理もない反応だ。いきなり乱入してきて、満足な説明もないまま一方的に指示に従えなんて。霊夢でなくても、誰だって納得なんて出来ないとは思う。

 だけど。

 

「ごめんなさい、詳しい説明をする時間もないんです。でも、急がないと……!」

「ちょ、ちょっと待って。──あんたと咲夜、何か知ってるの? 今の幽々子の事も……」

「え、ええ……。私も、咲夜さんから少し聞いた程度で、正直殆ど理解出来ていないんですが……。だけど、このままじゃ不味いって事だけは確かなんです。早く皆さんを連れて冥界を脱出しないと、取り返しのつかない事になる……!」

 

 焦りつつも何とかそんな事を伝える早苗。だいぶちぐはぐな言葉を並べてしまったが、少なくとも今の状況が相当切羽詰まったものであるという事は伝わったらしい。

 霊夢は一度、息を飲み込むと。

 

「……判ったわよ。要するに、今は幽々子と戦わずに逃げろって事でしょ?」

「は、はい……! その通りです……!」

「……そうね。尻尾を巻いて逃げるなんて我慢ならない、なんて言いそうな場面だけど……」

 

 霊夢がちらりと幽々子を一瞥する。咲夜と対峙している彼女は、やはり禍々しい霊力をその身に纏っており。

 

「確かに、今はそんな事を言っている場合じゃないかも。一時的に撤退するのも一つの手ね……」

「霊夢さん……」

 

 不服そうな表情を浮かべているものの、それでも納得してくれたらしい。話が早くて大変助かる。

 霊夢の協力を得られたのなら、あとは咲夜次第である。一時的でも幽々子の能力を()()()し、揃って冥界から脱出する。

 彼女ほどの実力者なら多少の危険など心配ないとは思うが、果たして──。

 

 

 *

 

 

 物々しい雰囲気を漂わせる西行寺幽々子を前にして、十六夜咲夜は内心息を飲み込んだ。

 今の彼女がどういった存在で、そして何を成そうとしているのか。これから何が起き、そしてどういった事態に陥るのか。話には聞いていたが、やはりその根源を前にすると筆舌に尽くし難い気味の悪さに襲われる。

 

 幽々子と対峙するのはこれが初めてという訳ではない。だが、これまでの彼女と比較して根本的な何かが様変わりしてしまっているような印象を受ける。その様子は、まるで別人。

 

「ふふっ。さぁて、どうやって殺してあげようかしら。まぁ、知らない顔という訳でもないし、一瞬で引導を渡してあげるのが礼儀かしらね?」

「御託はいいから。遠慮なんていらない。さっさとその絶対的な“死”とやらを使ったらどう?」

 

 咲夜は敢えて挑発するような口調で幽々子に言葉を並べる。自分達の目的を達成する為には、まずは彼女の意識を充分に誘導しなければならない。

 文字通り、一瞬の油断が命取りだ。タイミングを見極めろ。

 

「もうっ、せっかちさんね。良いわ。お望み通り、見せてあげる」

 

 そして咲夜の思惑通り、幽々子は『能力』を行使すべく霊力を込め始める。

 西行寺幽々子は元より生命を一瞬で奪う事も可能な『能力』を持っていたが、今の彼女はそんな『能力』を更に拡張させたような力を有している。文字通り、その気になれば相手の生命を好き勝手にどうこうする事も出来る『能力』である。──いや、厳密に言えば、彼女が操っているのは“生命”ではなく“死”の方か。

 とにもかくにも、こうして()()してしまった時点で、彼女は自らの『能力』に対する自覚をより確固たるものにしているだろう。自分の『能力』をどう使えば、自分の思った通りの結果を引き寄せる事が出来るのか。それが判っているからこそ、彼女は『能力』を行使する事に躊躇いを生じさせない。結果を確信しているからこそ、彼女は何の疑問も抱く事はない。

 

 その隙を、突く。

 

「さてさて、それじゃあ……」

 

 幽々子が掲げた右手から、黒い霊力が具現化していく。

 そしてそのまま、絶対的な“死”とやらを呪いとして形成して──。

 

「……あら?」

 

 ──だが、幽々子の思い通りには事は進まない。

 “死”が呪いとして表面化する前に、幽々子の右手から霊力が霧散されたのだ。黒い靄のような霊力が順調に集まっていたように見えたものの、それでも『能力』の行使には至らない。咲夜の事を殺す気満々だったらしい幽々子は、その瞬間に虚を突かれたような表情を浮かべる事となり。

 

「どうしたのかしら……? 『能力』が上手く使えない……?」

 

 困惑気味の呟きを零す西行寺幽々子。その瞬間を咲夜は見逃さない。

 直後、咲夜は『能力』を行使して周囲の時間の流れを極端に引き延ばす。自分以外のあらゆる事象が、スローモーションとなっているかのような状態。逆に言い換えれば、自分一人だけが超高速で移動可能となっているような形である。

 このまま幽々子に攻撃を仕掛ければ、ほんの少しでもダメージを与えられるのかも知れないが──。咲夜の狙いはそこじゃない。『能力』の行使を維持した状態で、まずは一気に飛び出して幽々子の脇を通り抜ける。そしてその場にへたり込んでいるスキマ妖怪の傍まで辿り着くと。

 

「えっ……?」

 

 その場で一旦『能力』を解除。突如として目の前に現れた咲夜に対し、彼女──八雲紫は少し間の抜けた声を上げる。けれども咲夜はそんな事など意に返さず、有無も言わせぬ勢いで紫の腕を掴み上げた。

 そのまま再び『能力』を行使。紫を連れて、今度は彼女の式神のもとへと移動して。

 

「なっ……。何なんだッ……!?」

 

 咲夜の取った唐突な行動を前にして、やはり困惑気味の反応を見せる藍。気持ちは判るが、今は時間がない。

 

「悪いけど、説明は後でするから」

「な、何を……?」

 

 紫と同じように藍の腕も掴み上げ、咲夜は三度『能力』を発動。次に向かうは、早苗達が集まる場所。

 

「おわっ!?」

「うっ……」

 

 辿り着くや否や『能力』を解除すると、勢い余ってに藍と紫が振り落とされる事になる。咲夜の『能力』で高速移動が可能なのは、あくまで咲夜本人のみ。引き延ばされた時間の中で物や人を移動させる事は出来るものの、移動させられた当の本人はまるで瞬間移動でもしたような錯覚に陥る事になるだろう。

 

「お、おい……! 何をする……!?」

「悪かったわよ」

 

 藍が抗議の声を上げる。肩を窄めつつも、咲夜は謝罪の言葉を口にした。

 少々乱暴なやり方だったが、四の五の言っていられない。あのまま放置しておけば、最悪幽々子に殺されてしまっていたかも知れない。それだけは避けなければならなかった。

 

「早苗。この二人の事もお願い」

「は、はい……! お任せくださいッ!」

 

 一先ず紫と藍の回収は完了。後は折を見て冥界から脱出するだけだ。

 咲夜は改めて幽々子の様子を確認する。上手く『能力』を行使できない自らの右手。それを怪訝そうに眺めていた彼女だったが、程なくしてどこか納得したような表情を浮かべると。

 

「ふぅん……。ひょっとして、さっき突き刺さったナイフの所為かしら? 私の『能力』を妨害するような魔術か何かが籠められていたという事?」

「ご名答。まぁ、今更気づいた所で遅いけど」

 

 敢えて挑発気味の口調を使って、咲夜は幽々子にそう答えた。

 彼女の認識は間違っていない。咲夜が幽々子の右腕に向けて投擲したあのナイフには、とある魔術の一種を仕込ませていたのである。幽々子の言う通り、平たく言えば彼女の『能力』を妨害するような効力の魔術。これで彼女は『能力』を行使する事が出来なくなり、絶対的な“死”とやらを振り撒く事も出来なくなる。──ほんの一時的には。

 

(そう……。ほんの一時的……)

 

 西行寺幽々子の力は絶大だ。今の咲夜達では、彼女を完全に抑え込む事など出来やしない。今回仕組んだ魔術だって、彼女が覚醒したばかりであるが故に効力を発揮できたに過ぎず、その効力だって一時的である。やがて全く効かなくなってしまうだろう。

 だが、今はそれを幽々子に悟られない方が都合が良い。咲夜の目的はあくまで時間稼ぎ。ここで幽々子を無理に斃す事ではないのだから。

 

「それにしても、勿体ない事をしたんじゃない? 折角隙を見せたのに、私への攻撃じゃなくて紫達の救出を優先するなんて」

「後々の事を考えると、救出を優先した方がプラスになると思わない? あんな所でいつまでもへたり込まれていると、間違いなく邪魔になると思うし」

 

 素っ気ない口調でそう返す咲夜。邪魔になると言われて藍が不服そうに声を漏らしていたが、そんな事は気にせずに咲夜は幽々子を警戒し続ける。

 西行寺幽々子にとって、この場で最も厄介なのは十六夜咲夜であると印象づけるのだ。そうすれば、多少なりとも時間を稼ぎやすくなる。

 

 そうだ、焦るな。

 タイミングを見極めるのだ。彼女の興味が早苗達から完全に無くなったそのタイミングで、一気に皆を脱出させる。

 

「ふふっ。理性的な子ね。流石、完全で瀟洒なメイドさん、といった所かしら?」

「……それはどうも」

「だけど……」

 

 幽々子は不敵に笑う。『能力』の妨害という、自分にとって多少なりとも不利な状況が形成されているのにも関わらず。彼女は未だに、調子を全く崩さない。

 それどころか。

 まるで、この状況を楽しんでいるかのような──。

 

「……あと一歩。残念だったわね?」

「なに……?」

 

 不穏な言葉を口にする幽々子。それに対して咲夜が疑問を呈する、その前に。──状況が、動いた。

 

「さぁ、受け取りなさい」

「…………ッ!」

 

 そんな掛け声と共に幽々子から黒い霊力が放出され、周囲を漂い始めた。

 底の知れない気味の悪さ。咲夜は思わず腕で口元を覆い、そして顔を背ける。この感じ、一体何だ? 少なくとも咲夜を殺す為に放った攻撃ではない。ナイフに仕込んだ魔術の効力はまだ切れていないはずだ。それならば、()()()()()()()という言葉の意味とは──。

 

(いや、これは……!)

 

 次の瞬間、咲夜は理解した。周囲に漂う黒い霊力──否、ある種の“呪い”。呪力とでも表現できるそれが、どこに向かっているのか。

 ──幽霊だ。

 冥界に漂う死者の魂。黒い呪力は、あっという間に幽霊達を飲み込んでゆき。そして、隅々まで侵食する。

 

「くっ……。まさか、もうそこまで……?」

 

 咲夜が焦燥を表面化させる目の前で、呪力に飲み込まれた幽霊達が次々と変貌を遂げていく。悲鳴にも似た声のような音を上げて、幽霊達が次々に堕ちてゆく。

 やがて現れるのは、黒。漆黒に塗り潰された、あまりにも異質な印象を受ける存在。最早あれは幽霊などではない。西行寺幽々子の呪いよって変貌させられた、死という概念そのもの。

 

「な、何よあれ……。どうなってんのよ……!?」

 

 状況が呑み込めずに声を張り上げる霊夢へと向けて、幽々子が説明する。

 

「忘れちゃった? 私、ある程度幽霊を操る事だって出来るのよ。これはその『能力』をちょっぴり応用させてみたの」

 

 言いながらも、幽々子は黒い霊力を更に放出させる。

 

「そこのメイドさんはさっきのナイフで私の『能力』を封じ込めたつもりみたいだけど、どうやら酷く限定的な効力みたいね。新たに死を植え付ける事は、まだちょっと出来ないみたいだけど……。でも、既に存在している死──つまり、死者を呪いで掌握する事なら、この通り」

 

 黒い影として塗り潰された幽霊達から、殺気が放たれ始める。彼らから伝わってくる()()()()()は、今まさに幽々子から感じる()()と同種のもので。

 

「随分と利己的で悪趣味な『能力』ね。冥界を管理する立場であるはずの貴方が、そんな風に死者を弄ぶなんて」

「弄ぶ? ふふっ、言い得て妙かもね。今の私は記憶を失っていた頃とは違う。絶対的な“死”と融和し、私の意思で完全に掌握できているの。ある意味、死という概念そのものを超越しているとも言えるかもね」

 

 皮肉気に言い放った咲夜の言葉に対し、けれども幽々子は怯まない。寧ろ彼女は、満更でもないような様子で。

 

「そうねぇ……。『死を弄ぶ程度の能力』、とでも称しましょうか。これまでの『能力』とは色々と勝手が違うものね~」

 

 そんな風に、幽々子は自らの『能力』を呼称する。どうやらこれ以上、言葉だけで彼女を制するのは不可能であるらしい。

 さて、どうする。少なくとも、西行妖の周囲に漂う幽霊達は幽々子によって掌握されてしまったが、彼女とて意味もなくそんな事をする訳もあるまい。あの黒に塗り潰された霊を使って、幽々子が何をしようとしているのか。そんなの、考察するまでもなく明らかだろう。

 

「それならッ……」

 

 先手必勝。やるしかない。

 ナイフを構え、咲夜が再び『能力』を行使しようと──。

 

「うぐッ……!?」

「えっ……?」

 

 ──魔力を込めた、その瞬間。不意にそんな呻き声が耳に入ってきて、咲夜は反射的に集中力を切らしてしまった。

 弾かれるように振り返る。急に呻き声を上げて苦しそうに蹲り始めたのは、あまりにも意外な人物だった。

 

「──リリ、カ……?」

「リリカちゃんッ!?」

 

 プリズムリバー三姉妹。その長女と次女が、不安と混乱を込めた口調で誰かの名前を口にしている。

 そんな彼女らの視線の先。蹲っている一人の少女こそが、三姉妹の末女。リリカ・プリズムリバーは、被っていた帽子を落としてしまう程に強く自らの頭を抱えていて。

 

「あっ、ぐぅ……!? な、なに、これ……? 頭が、割れるように痛い……!?」

「り、リリカちゃん……? どうしたの、リリカちゃん……!?」

「め、メルラン、姉さん……? わ、分かん、ないよ……! 急に、変になって……! うぅッ!?」

「リリカ……!?」

 

 普段は殆ど感情を高ぶらせないあのルナサまでが、声を張り上げて妹の名を口にしている。それだけでこれが異常事態だと判断するのに十分だった。

 何だ。何が起きた? どうしてあの騒霊の少女だけが、急にこんな──。

 

「──ああ。そう言えば、そうだったわね」

 

 ふと耳に流れ込んでくる。

 それはどこか、酷く冷たい印象を受ける声調。不意に冷水でも浴びせられたかのような、そんな悪寒が咲夜の背筋を駆け抜けて。

 

()()()()()()()()()()()()

「ッ! しまっ──」

 

 意識が逸れてしまっていた。それに気づいた咲夜が改めて幽々子に向き合おうとしたが、時は既に遅かった。

 咲夜が『能力』を行使するような暇もない。気づいた頃には幽々子から黒い霧状の呪力が放たれており、そして気付いた頃にはそんな呪力がリリカの事を拘束していた。

 

 近くにいたルナサやメルランには目もくれない。寧ろ彼女達は吹き飛ばされてしまっていて。

 

「うわ、わわわわ……!」

「なっ……!?」

 

 二人の姉妹は揃って地面に叩きつけられる。唯一拘束されていたリリカだけはそのまま呪力によって持ち上げられ、表情をますます苦痛に染めたリリカは、悲鳴にも似た呻き声を上げ続けていた。

 

「い、いやぁ……! あ、あああああッ……!」

「──ッ! リリカ……! リリカぁ!!」

 

 悲鳴を上げるリリカに対し、すっかり取り乱したルナサが必死になって手を伸ばす。

 だが、駄目だ。伸ばしたその手は届かない。呪力は幽々子によって引き戻され、そしてリリカも一緒に連れていかれる。あっという間にリリカは幽々子の手に落ちる事となり。

 

「はい、キャッチ!」

 

 あっという間だった。黒い霧に捕まったリリカは、満足な抵抗も出来ぬまま幽々子に抱きとめられてしまう。やたらと楽しげな雰囲気を漂わせている幽々子だが、そんな彼女とは不釣り合いな程にリリカの表情は苦しげだった。

 呼吸すらもままならない様子。半開きの瞳からは光が失われ、意識も徐々に喪失していって。

 

「ふふっ。いい子ね、凄くいい子。だけど、可哀想……。貴方もきっと、少し前までの私と同じ……」

「あ、ああ──」

 

 最早呻き声すらも、上げられなくなってきてしまっていて。

 

「……ッ! 止めて! リリカを離して!! リリカをどうするつもりッ!?」

 

 立ち上がり、一歩前に出るルナサ。今にも幽々子に飛び掛からんばかりの剣幕で、怒号にも似た声を上げる。

 そんなルナサの変貌は、幽々子にとっても意外な事だったらしい。彼女は少し驚いたような表情を浮かべると。

 

「まぁ……。貴方、無口で無感情な子だと思っていたけれど……。ふぅん、そんな風に取り乱す事もあるのね~」

「ふざけないで!! 今すぐリリカを解放して! さもないと……!」

「……さもないと、どうなるの?」

「私が力づくにでも──!」

「る、ルナサさん! ちょっと、落ち着いて下さい!」

 

 文字通り飛びかかろうとしたルナサを止めたのは早苗だ。羽交い締めにするような形で、彼女はルナサを制している。

 

「な、何するの……! 離して! 守矢の風祝ッ!」

「だ、ダメです! 前をよく見てください! 今ここで突っ込んでも、返り討ちに遭うだけです!」

 

 早苗の言う通りだ。既に幽々子の周囲には、あの黒い幽霊達が何体も取り巻いている。幾らルナサが強力な魔力を有していたとしても、あの数が相手ではどうにもならない。

 流石に分が悪い。幾ら一時的にでも幽々子の持つ絶対的な“死”を封じられているのだとしても、これでは──。

 

「ちょっと咲夜、どうなってんのよ! どうしてあの子だけが幽々子に……? あんた、何か知ってんでしょ!?」

「それは……」

 

 霊夢の問いかけに対し、けれども咲夜は首を横に振る。

 

「……判らない。私だって、全てを事細かに把握している訳じゃないのよ。だけど……」

「……だけど?」

「確かなのは、リリカ・プリズムリバーの意識は西行寺幽々子に掌握されかけていた。それはつまり、あの子の持つ何かが、西行寺幽々子の『能力』が及ぶ条件を満たしていたという事……」

 

 判るのはそれくらいだ。ここで考察を続けた所で、答えなんか出る訳がない。

 

(こんな話は聞いていない……。()()が変わり始めているという事……?)

 

 リリカがあんな事になってしまった以上、少なくとも()()している訳ではないように思えるが。

 

「ふふふっ。そんなに心配しなくても大丈夫。この子の事は、私がしっかり()()してあげるから。いつまでもずるずると引き摺っている()()()と違って、ね……?」

「ッ! 黙れ! あなたに、あなたに何が……!!」

「ルナサさん……! 耳を貸しちゃ駄目です……!!」

 

 ルナサが酷く取り乱している。このままでは状況が更に悪い方向へと進んでしまう。

 不確定要素が増えてきた。最早悠長な事をしている場合ではない。多少強引だとしても、せめて彼女達だけでも脱出させなければ。

 

「早苗、少し予定変更よ。今すぐこの子達を連れて冥界から脱出して」

「え? でも……」

「隙は私が作る」

 

 一瞬だけ苦い表情を浮かべる早苗に対し、有無も言わせぬ勢いで咲夜は言う。

 

「だから貴方は振り返らないで。後は私が何とかするから」

「何とかって……」

「お願い。私を信じて」

「……っ。ああ、もうっ、分かりましたよっ! 皆さん事は、私に任せて下さい!」

「ええ。……ありがとう」

 

 渋々と言った様子だが、それでも早苗は了承してくれた。咲夜の熱意を汲んでくれるらしい。

 早苗には軽く感謝の念を伝える。彼女が協力してくれるなら、咲夜は出来る事を全うするだけだ。

 

「待って……! 勝手に決めないで! 脱出? 逃げろって事……? そんなの容認出来ない! 私はリリカを……!」

「姉さん……」

 

 頭に血が上った様子のルナサが不平を述べる。そんな彼女を、不安げな様子で妹のメルランが見据えていた。

 まるで普段とは立場が逆転だ。メルランもまた、ショックのあまり言葉を失っている状態なのだろうか。

 

 だが、彼女達には悪いが、あまり我儘を聞いている時間もない。モタつけばモタつく程、それだけ幽々子に時間を与えてしまうという事なのだから。

 

「あらあら、何の相談? 冥界から脱出? 逃げる気? ふふっ。おめおめと、そんな事を許す訳が……」

「── 幻象『ルナクロック』ッ!」

 

 幽々子の言葉を遮るように、咲夜はスペルカードを宣言する。それと同時に『能力』を行使。弾幕を展開し、躊躇いなく幽々子への攻撃を再開する。

 咲夜の『能力』は時間だけでなく空間にも作用する。その『能力』を応用し、圧縮した時間と空間の中から大量のナイフを()()()()()、幽々子の周囲を取り囲んだ。

 

 逃げ道は塞いだ。幾ら西行寺幽々子でも、“死”を操る事が出来ても時間に干渉する事は出来ないはず。彼女からして見れば、大量のナイフが急に現れたように見えているはずだ。

 

「へぇ……? また急にナイフが……」

 

 幽々子が関心したような声を上げているが、そんな言葉に付き合ってやるつもりはない。

 一斉にナイフを射出する。あの黒い幽霊共々、ある程度のダメージを与えられれば御の字だ。今は少しでも、彼女の動きを止める事が出来れば──。

 

「貫け──!」

 

 だが。

 

「でも甘いわ。そう何度も同じ手が通用すると思う?」

「…………ッ」

 

 黒い幽霊が一斉に幽々子の周囲へと集まり、そして呪力を放出する。そうして形作られるのは、言うなれば呪力の盾だ。ナイフの弾幕はその殆どがそんな呪力によって防がれ、運よく突破出来たとしてもあの程度では殆どダメージは期待できない。

 あの黒い幽霊も、そして勿論西行寺幽々子も。咲夜のスペルカードなど微塵も脅威として認識していないようで。

 

「ふぅ。やっぱりこの程度。何だかちょっぴり残念──」

「幻符『殺人ドール』っ!」

 

 けれども咲夜は、間髪入れずに次のスペルカードを宣言する。

 先ほどの幻象『ルナクロック』のように幽々子達を取り囲むのではない。今度は一点集中。大量のナイフを弾幕として再び展開し、幽々子目掛けてそれを射出するスペルカード。

 恐らく『ルナクロック』がそうであったように、この攻撃でも大したダメージを与える事は出来ないだろう。まともに正面からぶつかった所で、咲夜では敵う訳がない。()()()()()は、そういう存在なのだ。

 

「おっとと……。もうっ、まだ話してる途中なのに~」

 

 案の定、幽々子は少しの焦りも見せる事はない。意識を掌握した黒い幽霊達を巧みに操り、咲夜の弾幕を易々と防いでしまったのだ。

 呪力による盾は想像以上に堅い。この程度の攻撃では、あの盾を突破する事さえも難しいのかも知れないけれど。

 

(だけど……)

 

 それでも咲夜に諦めるという選択肢など存在しない。主に任されたこの使命を全うするまで、彼女に逃避はあり得ないのだ。例え相手が、どんなに強大な存在であったとしても。

 十六夜咲夜は屈しない。

 

「今……! 早苗! 皆を連れて脱出しなさいッ!」

 

 間髪入れずに咲夜の方が攻撃を仕掛けたお陰で、幽々子は未だに攻撃に転じていない。彼女が防御に徹しているこの瞬間こそが最大にして最後のチャンスだ。

 当初の予定よりもスマートじゃない形になってしまったが、それでも咲夜は早苗に向けて指示を出す。彼女は直ぐに答えてくれた。

 

「はい! さぁ、行きましょう皆さん! 霊夢さんも!」

「え、ええ……! ほら、あんたらも行くわよ!」

「うお……! 待て霊夢……! そんなに引っ張るんじゃない……!」

「あっ──」

 

 チラリと一瞥すると、早苗の呼びかけに答えた霊夢が藍の事を引っ張っていく様子が見て取れた。その後ろに、やたらと大人しい──というよりも酷く憔悴した様子──の紫が続く。未だ納得していない様子のルナサは半ば早苗に連行されるような形となり、それにメルランが続いた。

 そして、満身創痍な状態だった妖夢は、霊夢や藍が手を貸す事で何とか他の皆について行く事が出来ているようだ。──これで一先ず、早苗に任せた少女達は冥界からの脱出を始めた事になる。

 

(よし……。後は……)

 

 後は──そう。

 兎にも角にも、ここで咲夜がギリギリまで幽々子の注意を引きつけなければならない。

 

(任せたわよ、早苗。そして──)

 

 彼女が。

 ()()()が。役割を全うする、その時まで。

 

 

 *

 

 

 はっきり言って、岡崎進一の気分は色々な意味で最悪だった。

 頭が痛い。激しい嘔吐感にも襲われ続けている。今の今まで特に何ともなかったはずなのに、理不尽な程に突然襲い掛かってくる身体の不調。そんな要因も()()()()()に拍車をかけているが、それより何より進一の精神を蝕んでいるのは、突き付けられた受け入れがたい一つ事実。

 

(何だよ……)

 

 それは、八十年後の未来の世界。幻想郷で起きているらしい大異変。

 その首謀者の正体。

 

(何なんだよ……)

 

 信じられない。現実として受け止める事なんて出来る訳がない。

 だって彼女は、進一の事を助けてくれたじゃないか。記憶を失い、タイムトラベルに巻き込まれ、そして幻想入りしてしまって。右も左も分からない進一の事を受け入れて、記憶を取り戻す手伝いだってしてくれて。

 寛容で、優しい心の持ち主だった彼女。誰よりも妖夢が、篤い信頼と尊敬の念を抱いていた主。冥界の管理者にて、白玉楼の現当主だった少女。

 

(どうして、幽々子さんが……)

 

 彼女が──。西行寺幽々子こそが、『死霊』だった。

 忘れもしない。()()()()は、あの時感じた感覚と寸分違わず同質のものだ。ちゆりを庇い、こうして命を落としてしまったあの時の感覚と──。

 

「くそっ……!」

 

 『死霊』と化した幽々子の興味は、既に進一達から逸れてしまっている。宮古芳香を再起不能にした後、項垂れる青娥を無視して紫達のもとへと向かってしまった。そして今は、いつの間にか闖入してきたメイド服の見知らぬ少女と何やらやり取りを続けている。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 激しく呼吸が乱れる。幽々子が『死霊』として覚醒した途端、進一はずっとこの調子だ。一体何がどう作用して自分だけこうなっているのか、はっきり言って訳が判らない。

 

(今、は──)

 

 だが、意外にも冷静な判断力が完全に欠落してしまった訳ではない。今この場で自分がすべき最善は、何なのか。それは既に頭の中では理解していた。

 

「青娥、さん……!」

 

 物言わぬ死体に戻ってしまった芳香の前で項垂れる、群青色の仙人の名を進一は口にする。気力も精神も完全に擦り減らしてしまったかのような様子の彼女だったが、それでも命が失われてしまった訳ではないはずだ。

 名前を呼ぶと、ピクリと反応を見せてくれる。返事は返ってこないが、構わず進一は言葉を続ける。

 

「大丈夫か……? まだ、動けるよな……?」

「…………」

「動けるのなら立ってくれ。今すぐここから逃げるぞ……!」

 

 幽々子が本当に『死霊』と化してしまったのだとすれば、こんな所に青娥を放置しておくのは危険だ。『死霊』は生命あるものを無差別に襲う。殺す事こそが奴らの行動原理。今は何の気紛れか殺されずに済んでいるが、いつまた襲い掛かってくるか判らない。

 そういう意味では、妖夢達の事も心配ではあるが──。あちらには霊夢やルナサ達もいる。今は彼女達の事を信じるしかない。

 

「よし、か……」

 

 ポツリと、そんな呟きが進一の耳に届く。

 動かなくなってしまった芳香を抱きかかえるようにして、青娥が頻りに言葉を零し続けている。

 

「ごめんなさい、芳香……。私……私、また貴方の事を……」

「青娥さん……」

 

 まるで今までの彼女とは別人だ。それほどまでに、この宮古芳香という少女は彼女にとって大きな存在だという事なのだろうか。

 キョンシーは術者にとって単なる操り人形に過ぎないと聞いた事がある。けれども彼女は、そんな傀儡であるはずのキョンシーに対して強い思い入れを抱いているように見えるのだ。それは単なる操り人形だとか、そんなものに対する感情ではない。例えば幽々子にとっての妖夢のように、主と従者──。いや、そんな関係とも違う気がする。

 だとすれば──。

 

「うっ……」

 

 そこまで考えた所で、進一の不調が再び強くなり始める。

 底の知れない嫌な予感。弾かれるように振り返ると、その根源は直ぐに認識する事が出来た。

 

「なっ……。あれは……!」

 

 突如として幽々子から放出された黒い靄。それが冥界の幽霊達に襲い掛かり、浸食を始めたのだ。

 物言わぬ幽霊達はロクな抵抗をする暇もなく、あっと言う間に飲み込まれてゆく。悲鳴にも似た音を立てて、“呪い”によって蝕まれて。

 そうして変貌した末に現れるのは──影。黒い人影としか形容出来ぬような、異形。

 

「そ、そんな……」

 

 未来の世界で邂逅した『死霊』の姿そのものだ。あれは元は善良な幽霊だったという事なのだろうか。

 幽々子によって、意識を掌握されて──。

 

「何だよそれ……!」

 

 予感が確信に変わってゆく。頭の中の片隅には“もしかしたら勘違いなんじゃないか?”という僅かな希望も残っていたのだが、それすらもこの瞬間に立ち消えた。

 西行寺幽々子。

 やはり、彼女が。彼女こそが──真の首謀者。

 

「……ッ! 青娥さん……! 頼む、立ってくれ……!」

 

 激しい狼狽に胸中を支配されそうになるが、それでも進一はギリギリの所で堪える。これ以上状況が悪くなる前に、何とか青娥をこの場から離れさせなければ。

 だが、当の青娥はまるで動こうとしてくれない。まさか、最早生きる気力さえも無くしてしまったのだろうか。あんなにも“死”を憎悪していたはずの、彼女が。

 

(ふざけるな……)

 

 ──そんなの、認められる訳がないだろう。

 

「死なせない……。死なせてたまるか……! あんたの事だって……!」

「えっ……?」

 

 身体の不調はまだ続いている。だが、そんな自分の事さえも今の進一には眼中になくなっていた。

 無理矢理身体を動かして、半ばひったくるような形で進一は芳香の手を取る。そのままの勢いで進一は一気に立ち上がり、動かない芳香を()()()()()()

 あまりにも唐突な進一の行動を前にして、青娥は呆けたような表情を浮かべている。対する進一は、そんな彼女に有無も言わさぬ勢いで少し強引に手を取ると。

 

「逃げるぞ……! 立って走るんだッ!」

「ちょ、ちょっと……!」

 

 腕を引いて立ち上がらせ、そのまま進一達は踵を返して走り出す。

 正直、背中に芳香を背負った状態でのこの行動はかなりキツイ。芳香の体重はそれほど重くはないのだが、やはり進一自身の身体の不調の方が無視できない。頭痛も吐き気も酷過ぎて、呼吸だってままならないのだ。お陰で全力で走っているつもりが、下手をすれば普段の歩くペースよりも遅いスピードになっているかも知れない。

 

「くっ、くぅ……!」

 

 だが、そんな事を気にする余裕なんて今の進一にはない。体調が悪いのだろうが何だろうが、こんな所で立ち止まる事なんて許されない。奴らに捕まれば一巻の終わりなのだから。

 

(いや、だが……。既に死んでいる俺が捕まった場合はどうなるんだ……? この状態で更に死ぬ、なんて事はないだろうし……)

 

 最悪自分が盾になればと思ったが、その案は進一の中で早々に却下される事になる。

 不確定要素が多すぎる。推測に確信を持てた訳でもないのに、そんな状態で実行に移すのは返って危険だ。そもそも既に死んでいる進一では、囮になる以前に相手にもされない可能性だってあるじゃないか。そうなると増々青娥に危険が及ぶ事になる。

 ──やはりこんな状態では、今この場で即実行に移すのはあまりにも無鉄砲が過ぎるだろう。

 

「っ! まずいな……」

 

 そうこうしているうちに、『死霊』に堕ちた一部の幽霊達が進一の行動に気づき始めたらしい。

 殺気を肌で感じている。振り向くと、何体かの『死霊』がにじり寄って来ているようで。

 

「チッ……。このままでは……!」

 

 連中の狙いは間違いなく青娥だ。こうして見つかってしまった以上、奴らを撒くのは容易な事ではない。それは八十年後の未来の世界で嫌と言うほど味わっている。

 だが、だからと言って冴えた対処法を思いついた訳でもない。結局は全力で逃げるしかないのだ。『死霊』よりも早く、どこか遠い所へ──。

 

「はぁ、はぁ……!」

 

 だが。

 

(だ、駄目だ……。体力が、持たない……)

 

 膨れ上がる焦燥感とは裏腹に、進一の動きはどんどん鈍くなっている。やはりこんな体調では、芳香を背負った上で青娥の手を引いて走るなんてあまりにも無茶苦茶だったのだ。

 膝が笑っているような感覚がある。酸素が足りなくなってきて、頭の中がボーっとしてくる。その癖、頭痛だけは未だに鋭く響き続けており。

 

(く、そ……)

 

 意識が朦朧とする。気を抜けばあっという間に落ちそうになってしまう。

 限界が近い。幾ら意識を保とうとしても、身体は勝手に逃げる事を諦めようとしてしまう。足が縺れて転びそうになって、その度に何とか意識を引き戻して。

 だけど、それでも。

 

(本当に、このままじゃ……)

 

 今更幾ら足掻いた所で。

 

(もう……)

 

 ──けれど。

 その時だった。

 

「…………え?」

 

 不意に目の前の空間が()()()。丁度進一達が突き進んでいた先の空間だ。

 比喩でも何でもない。本当に()()()のだ。それはまるで、『死霊』から逃げる進一達を迎え入れるかのように。突如として出現した真っ黒な裂け目には、ギョロリとした無数の目玉が蠢いているような様子が見て取れる。それはどこか気味が悪くて、けれども進一にとっても馴染みのある──。

 

「あれ、は……」

 

 そう、あれは。

 

(スキマ……?)

 

 あらゆる物事に存在する境界。それをあやふやにする段階で止める事により出来上がる、ある種の異空間。そんなものを展開する事の出来る『能力』の持ち主なんて、この幻想郷に二人としてない。

 

「紫──?」

 

 混濁する意識。朦朧とする頭の中で、ロクな考えも纏まらないままに。

 『死霊』に捕らえられるよりも先に、進一達はスキマの中に飲み込まれた。


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