桜花妖々録   作:秋風とも

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第120話「パラダイス・ロスト#5」

 

 自分は一体、これまで何の為に生きてきたのだろう。何の為にここまで藻掻いてきたのだろう。

 自分を騙して。周囲を騙して。本当の気持ちを押し殺して。ただ、贖罪という義務を果たす為に。ずっと、ずっと。足を止めずに、ここまで駆け抜けたつもりだった。──いや。後戻りが出来なかっただけ、とも言えるかも知れない。この選択に足を踏み入れた時点で、後はもう駆け抜けるしかないのだと。そう覚悟は出来ていたはずだった。

 

 けれどもその覚悟だって、茨の道のその先に、理想の未来があるのだと信じていたからこそのものだった。あの姉弟を、救う事が出来るのだと。罪を償う事が出来るのだと。そう信じていたというのに。

 実際はどうだ。救う事が出来たのか。

 ──否。救うどころか、その逆だ。もう一度、壊した。しかも今度は、完膚なきまでに。

 

 彼女は。

 北白河ちゆりは、最早償いようのない罪を、犯してしまった。

 

(罪……)

 

 その日。その日は久しぶりに、ちゆりは引き篭っていた部屋の外へと足を踏み出していた。そして心配性なお燐に送られる形で、大学まで足を運んでいた。

 一ヶ月前のあの出来事から立ち直った──という訳では無い。家に引き籠もり続けても、ネガティブな事ばかりを考えてしまうから。気分を変えたかった、という意味合いが大きい。

 

 それに、判っていた。夢美もまた、あの日からずっと塞ぎこんでしまっている事を。故にこの研究室は、ここ一ヶ月間殆ど無人である事を。

 一人になるのにうってつけだ。予想通り誰もいない研究室に足を踏み入れたちゆりは、何かをする訳でもなく、ただパイプ椅子に座ってぼんやりと虚空を眺めていた。

 

「…………」

 

 もうどのくらいそうしていたのだろう。朝にこの研究室へと足を運んだはずなのに、太陽はすっかり上に昇ってしまっている。とは言え、時間を確認する気にはならなかった。──時間なんて、今のちゆりにとってどうでも良い事だった。

 もう、戻れないのだ。取り返しのつかない所まで到達してしまったのだ。

 だから、もうどうでも良い。これからの時間なんて、ちゆりにとってはどうでも良い事だ。

 

 あの姉弟を救えなかった、()()()()なんて──。

 

(……ああ、そうだ)

 

 ぎゅっと、ちゆりは思わず下唇を噛み締める。

 

(私なんて、もう……)

 

 そう。

 最早ちゆりに、何かを信じる資格なんてない。誰かを頼る権利なんてない。それは自分自身の事にさえも当てはまる。

 自分の事なんて信じられない。自分自身なんて頼れる訳がない。だって自分は、取り返しのつかない事を二度もしてしまっているのだから。

 

 良かれと思って取った行動が全て裏目に出ている。全てあの姉弟に不幸として降り掛かっている。

 文字通り、疫病神だ。自分という存在が、あの姉弟を苦しめている。

 

 だったら。だったら、自分は。

 もう──。

 

「どうやら非建設的な事を考えているようだな、人間」

「……っ、は……?」

 

 不意にちゆりの耳に届く声。彼女は唐突に現実へと引き戻された。

 何だ? 今のは恐らく、女の子の声? 今の今まで、この研究室には誰もいなかったはずなのに。一体全体、誰が?

 

 聞き覚えのある声だったなと思いつつも、ちゆりはおもむろに振り返る。そして、視線の先。声が流れ込んできたその場所に佇んでいたのは。

 

「クク……。随分と酷い顔をしているな」

「っ。あんたは……」

 

 やたら尊大な声調でそんな事を口にする相手は、人間ではなかった。

 ストレートに言ってしまえば、黒猫。それ以外に表しようがない。どこからどう見ても、何の変哲もない黒猫にしか見えない存在が、ちゆりの目の前に佇んでいる。

 

 だが、たった一点普通の黒猫では有り得ない事が──人間の言葉を話している事だ。

 目を疑うような光景。それを目の当たりにすれば、普通は真っ先に自分の正気を疑う事だろう。だが、ちゆりの場合はそうではない。彼女は既に、数多の幻想に触れているのだから。

 そして、この黒猫の事だって。

 

「どこから入ってきた? いや……そもそも今更何をしに来たんだ? 私を嘲りに来たのか?」

「おやおや……。随分なご挨拶だな。まるで私の事を歓迎していないようだ」

「まるで? はっ……。比喩なんかじゃない。私はあんたを歓迎していない」

「ほう? その声色……。どうやら冗談ではないようだ」

 

 ちゆりは黒猫を睥睨する。けれど黒猫は、そんなちゆりの事など意に返さずといった様子で、飄々とした態度を続けた。

 

「解せないな。なぜそこまで私を忌避する? 私はお前に力を貸した事はあれど、危害を加えた事はなかっただろう?」

「それは──」

「ククク……。私がお前に手引きしたあの地獄鴉──いや、正確に言えば八咫烏と融合した地獄鴉か。まぁこの際どちらでも良いが、とにかく良い働きをしてくれただろう?」

「…………」

 

 黒猫の言葉が耳に入り、ちゆりは反射的に想起する。

 ──あの日。

 

『私が言いたい事、分かるよな?』

 

 ゴーストタウンと化した京都。街中を徘徊するキョンシー。

 計画も最終段階といった局面で。

 

『あらあら、一体どうしたのですか?』

『とぼけるな』

 

 ちゆりと協力関係を結んでいたはずの、あの邪仙。

 

『夢美様と進一には危害を加えない……。そういう約束だったはずだ! それなのに、奴らは無差別に襲い掛かって……!』

『うふふ、何を言い出すかと思えば……』

 

 霍青娥。夢美と進一には手を出さないという約束を反故にした彼女との協力関係に、綻びが生じ始めた後の事だ。

 最早青娥の計画は覆らない。それでもどうにかして、少しでも奴を出し抜く事は出来ないのかと。そんな子供みたいな意地を抱いて、一人知略を巡らせていた時の事だ。

 

『私が手を貸してやろうか、人間』

 

 唐突に、彼女はちゆりの前に現れた。

 今回と同じように、黒猫の身体を使って。

 

『お前に強力な助っ人を託してやろう』

 

 そう言って引き渡されたのが、あの地獄鴉の少女──霊烏路空だった。そしてちゆりは黒猫の助言も加味して、青娥の鼻を明かす為に一度は拉致した古明地こいしを解放した。

 まぁ、結局それも何の意味もない行動に終わったが。

 最終的に辿り着いてしまった結末は、ちゆりが望むものどころか──。

 

「また表情が曇ったな。ネガティブな事を考えているだろう?」

「うるさい……」

「ククッ、その反応は図星か」

 

 相変わらず人を食ったような態度を続ける黒猫。その傲慢な物言いはちゆりの精神を逆撫でするが、それでも彼女に食ってかかる事は控えた。

 感情のタガが外れれば、どこまでも泥沼に嵌ってしまう気がする。──そんな予感が、ちゆりの激情を押さえ込んだ。

 

「質問に答えてやろう、人間。まずは……どこから入ってきた、だったな。なに、なんて事はない。私は普通にドアから入って来た。この姿だと開けるのに苦労したぞ」

 

 身を翻して自らの身体を示しつつも、黒猫はそう口にする。この黒猫はあくまで彼女の使い魔であり、本人は別の場所にいるとは聞いていたが、ドアを開ける等といった行為は普通に物理的らしい。

 相変わらずよく分からない存在だ。このような使い魔を使役して、彼女は一体何が目的なのだろう。それもちゆりの質問に答えてくれるのなら分かる事なのだろうか。

 

「そして、私が何をしに来たのか、という質問に対してだが」

 

 そして不信感を募らせるちゆりに対して、ギラリとした瞳を向けて彼女は答えた。

 

「私はお前の見解を確認しに来たのだ、北白河ちゆり」

「見解、だと?」

「ああ。お前は確かに外の世界の人間だが、その発想力は私達の世界にも通用する。いや──より正確に言えば、私の計画と合致しているのだ。故にこちらの世界の専門家であるお前の意見も組み込み、より磐石なものにしようかと考えている」

「専門家? 私が?」

「ああ、そうだろう?」

 

 「保険をかけておく事に越した事はないからな」と、黒猫は付け加える。だが、ちゆりは彼女が言っている事がイマイチ理解できなかった。

 専門家とは、一体何を示しているのだろう。

 そんなちゆりの疑問が顔に出ていたのか、黒猫は鼻を鳴らしつつも補足する。

 

「ふん……。何を惚けている? お前は自分の研究分野も忘れたのか?」

「何を言って──」

「可能性世界論」

 

 ちゆりの疑問は、黒猫の言葉によって遮られる。

 

「お前はそれの専門家なのだろう?」

「…………」

 

 そしてちゆりは、黒猫の言う()()()の意味をようやく理解した。

 可能性世界論。それは元々哲学、または論理学で用いられる用語であるが、この黒猫はちゆりの事を哲学の専門家だと示している訳では無いだろう。──可能性世界論は、ちゆりが元々行っていた研究テーマにも関連する。非統一魔法世界論を唱える学者の助手ではない。北白河ちゆりという物理学者として、研究を続けていた題材。

 

 夢美達にも話していない事だ。なぜこの黒猫がそれを把握しているのか疑問に思ったが、それを追求するのは止めておいた。

 思えば、霍青娥だってちゆりの研究テーマを知っていたのだ。彼女を通して、この黒猫を使役する術者にも伝わったのかも知れない。

 

「……私の理論は不完全だ。結局は酔狂な物理学者の妄言に過ぎない。現に未来を変える事なんて出来なかったんだからな」

「卑屈な人間だな。確かに可能性世界の上書きには失敗したが、少なくとも、お前とあの邪仙は魂魄妖夢のタイムトラベルには成功しているではないか。その時点でお前の理論は、有象無象の妄言とは一線を画していると思うがな」

「何だよそれ。慰めているつもりなのか?」

「まさか」

 

 投げやり気味に言葉をぶつけると、黒猫はすぐに首を横に振った。

 

「気休めに慰めを言っているつもりはない。私は素直にお前を評価しているのだ、人間」

 

 相も変わらず、尊大で癇に障る態度だが。

 

「言っただろう? 私は私の計画を磐石なものとする為に、お前の力を借りたいのだと」

 

 その言葉には、成る程、確かに気休めは含まれていないように感じる。

 

「人間の意思というものは、運命を変革させるのに最も有効な武器と成り得るのだからな」

 

 この黒猫を通して伝わってくる意思。遠隔から使役しているのであろう術者の思想は、ちゆりにも何となく理解できた。彼女の言う計画とやらが何の事なのかは知らないが、少なくとも本気でそれを成し遂げようという気概は伝わってくる。──理想を手にする事が出来なかった、中途半端な物理学者さえも引き込もうとしているのは、まるで理解出来ないが。

 酔狂なのはどちらの方だ。自らの姿を晒さず、こんな使い魔を寄越してくるような奴が、運命を変革させるなどと。

 

「……何が運命だ、馬鹿馬鹿しい」

 

 ちゆりもまた、彼女の事を一蹴する。

 

「私はあんたに協力しない。──もう、何もしない。可能性なんてそんな眉唾、私はもう信じない……」

「ほう……? 全てを放棄すると?」

「ああ、その通りだぜ」

 

 矢継ぎ早に、ちゆりは告げた。

 

「私なんて──いなくなった方が皆の為だ」

 

 ああ、そうだ。いっその事、自分が消えてしまえれば。それで少しでも、これ以上の不幸を広げる事が防げるのなら。

 ちゆりは、喜んで──。

 

「お前……。本気で言っているのか?」

「ああ……。本気も、本気だ」

「ふむ……」

 

 ちゆりは頷いて答えるが、どうにも不満気な反応を黒猫は示している。考え込むような素振り。だが、真正面から断られた割に、黒猫はそれほど動揺していないようにも見える。まるで、ちゆりのこの答えをある程度予想していたかのような。

 

「いやはや……。卑屈になっているとは思っていたが、それにしてもまさかここまで重症だったとは。流石の私も予想以上だな」

「は……。何が予想以上だ。その反応、最初から私が断る事を見越していたんだろ?」

「そうだな。だが、予想以上という言葉は別に嘘ではない。本当に予想以上だったのだからな。いなくなった方が皆の為などと、まさかそんな愚かな事を……」

「何だと……」

 

 黒猫の物言いに、ちゆりの神経が逆撫でされる。

 そして。

 

「岡崎進一の死を、未だ受け入れる事が出来ていないのか?」

「……ッ!」

 

 黒猫が言い放った言葉。その一言が、ちゆりの激情を堰き止めていた心のダムを瓦解させた。

 

「にも関わらず、お前は全ての責任を一人で抱え込もうなどとしているのか?」

「何だよ、それ……」

 

 淡々と投げかけられる黒猫の言葉。そこから拾う事の出来る意味は、決して数が多い訳ではないのだけれど。それでも、その全てが核心をついているようだった。

 伝わっているのだ。彼女には、ちゆりの感情が。そして知っているのだ。ちゆりがここまで腐ってしまった原因を。けれども、この黒猫はきっと理解できていない。幾ら伝わっていようとも、知っていようとも、その真意を彼女は理解出来ていないのだ。──理解なんて、出来る訳がないじゃないか。

 

「あんたに……。あんたに、何が判るってんだ……!?」

 

 ちゆりは声を荒げてしまう。ずっと抑え込んでいたはずなのに、遂には我慢が出来なくなってしまった。

 一度そうなると、もう駄目だ。後戻りが、出来なくなる。

 

「私が今まで何の為に研究を続けてきたと思ってる!? 何の為にここまで駆け抜けてきたと思ってるんだよッ!? 私は、ただ、助けたかった……! 未来を変えれば、可能性を変えれば……! あの姉弟が苦しむ事だってなくなるんだって、そう信じてきたのに……!」

 

 判っている。この黒猫にこんな事を言った所で、何の意味もないのだという事くらい。

 けれども、やっぱり、止まらない。

 

「あんたなんかに私の気持ちが判って堪るか! あんたみたいな化物に、人間の気持ちなんて判る訳がないんだ……!! 判ったつもりになって、知ったような口ばかりを利いて……! 所詮、あんたは……!」

「ふっ……。成る程、お前は私の物言いが気に食わなかった訳だ」

「…………っ!!」

 

 動揺も何もしていない。そんな至極冷静な印象で黒猫に淡々と返され、ちゆりは大きく息を呑む事になる。何かを言い返してやろうかと思ったが、言葉が出て来なくなってしまった。

 黒猫の瞳に再び射抜かれる。迷ってばかりのちゆりとは対照的な、どこまでも真っ直ぐな意思がその瞳から伝わって来て。

 

「確かにお前の言う通りだ。お前は人間で、私はお前達人間が言う所の化物。思想も理想も、全部を全部理解しようなんて不可能な話なのかもしれない」

 

 ちゆりを肯定するような言葉の数々。けれども黒猫は、「だがな、人間」とそこで前置きを挟んで。

 

「例え完全に理解出来ずとも、私は私なりに人間の事を解釈しているつもりだ。その上で、私は人間の持つ可能性を評価している。──人間の持つ意思は、時には私達怪異のそれを遥かに凌駕する。少なくとも、私の見てきた人間達はそうだった」

「…………」

 

 黒猫の言葉には相変わらず嘘は感じられない。傲慢な物言いだが、人間を評価しているという彼女の言葉は、決して出任せではないのだろう。

 だが、だとしてもだ。

 

「……そうかよ」

 

 そんな事、ちゆりにとっては関係のない事だ。

 

「あんたの見てきた人間とやらは、きっと特別に強い奴らだったんだろうな。──悪いが私はそんな連中とは違う。弱いんだよ、私は」

 

 ちゆりは自虐する。いや、事実として、自分は弱いのだ。

 この黒猫が、なぜそこまで人間を評価しているのかは判らない。ひょっとしたら、彼女の傍にいた人間が相当に強い人物だったのかも知れないが、生憎そんな奴と一緒にされてもちゆりは困る。

 だってそうだろう。こんなにも弱い自分が、これ以上の何かを成し遂げるなんて、そんな事──。

 

「成る程。状況は理解した」

 

 そこで黒猫は、嘆息交じりにそう口にする。

 ──そして不意に、言葉を紡いだ。

 

「まったく。何の為に、お前にあの覚妖怪──古明地こいしを助けさせたと思っている」

「……は? 何でそこでそいつの名前が出てくるんだよ?」

「いや、こちらの話だ」

 

 脈絡のない呟き。思わず尋ね返してみるが、どうやら煙に巻くつもりらしい。

 

「ふぅ……。その様子では、やはり何も変化はなかったか。本当に、厄介な『能力』だな。お前も、そして古明地こいしの『能力』も」

「……? 何を意味の判らない事を──」

 

 唐突な言葉の応酬にちゆりは苛立ちを募らせるが、黒猫はそれ以上この話題に触れる事はなかった。

 ぷいっと視線を逸らして、彼女は踵を返す。

 

「どうやら今のお前には取り付く島もないようだ。私が何を言っても無駄らしい」

「ようやく分かったか。それならさっさと帰ってくれ」

「ああ。──()()()()()()()、退散させて貰おう」

「……は?」

 

 妙な物言いが引っかかる。今日のところは、とは何だ。なぜそこを強調する。

 

「また会おう、人間。その時は、もっと良い返事を期待しているぞ」

「なっ……! お、おい、ちょっと待て──」

 

 嫌な予感が的中。しかしちゆりが物申そうとしたその直後には、黒猫は去っていってしまった。

 ちゆりの言葉も聞かずに猫の姿が揺らぎ。まるで闇にでも紛れるかのように、その姿を眩ませて。瞬きを数度挟む頃には、黒猫の姿は完全に消失していた。

 

「…………」

 

 比喩ではなく、本当に消失だった。まるで幻でも見ていたのではないかと錯覚してしまうような光景。

 どう考えても超常的かつ非常識的な現象だ。あんな事が出来るのに、本当に入ってくる際は普通に部屋の扉を開けたのだろうか。

 

 なんて、今更そんなどうでも良い事を考えている場合ではない。

 あの黒猫は言っていた。また会おう、と。その時はもっと良い返事を期待している、と。それはつまり、懲りずにまたちゆりを勧誘するつもりなのだろうか。

 

「……ふざけるなよ」

 

 思わずちゆりは独り言る。

 

(いや、ふざけているのは私か……)

 

 そして改めて自覚する。こうして部屋の外に出て、大学まで足を運んだとしても。ちゆりの心は、未だ塞がったままだ。

 ああ、本当にふざけている。この期に及んで、未だに逃げ続けるなんて。自分なんていなくなった方が皆の為。そう口にしつつも、実際は実行に移す勇気なんてない癖に。

 

(畜生……)

 

 苛立ちが募る。安定しないちゆりの精神状態は、更に荒れ果ててゆく。

 

(本当に、ふざけるなよ、くそっ……)

 

 罪の意識に囚われた彼女は、ただ、たった一人で悶え苦しむ事しか出来なかった。

 

 

 *

 

 

 霧雨魔理沙と名乗る女性と出会ってから、一晩明けた。

 一方的に結ばれた約束。別に、破ろうと思えば幾らでも破れたのだろうけれど、しかしメリーはその約束に従う事にしていた。

 昨日とはちょっぴり早めの時間。メリーはベンチに腰掛けて、ぼんやりと桜の木を眺めている。約束を取り付けてきたあの女性は、まだ現れていなかった。

 

 一緒に来てくれだとか、お前の力が必要なんだとか。正直、そんな事を言われた時点では彼女の事などまるで信用はしていなかったのだが、もしも本当にあの女性が霧雨魔理沙なのなら話は別だ。

 八十年前の幻想郷。その時点で既に妖夢の知り合いだったらしい人間の少女。確かに昨日会った彼女は、少女ではなく大人の女性と呼べるような姿ではあったが、それでも八十年が経過した姿とはとても思えない。見た感じだと、夢美と同じくらいの歳だろうか。兎にも角にも、あまりにも若々しかった。

 

 霧雨魔理沙という同姓同名の存在なのか、或いは正真正銘の同一人物なのか。後者の場合、彼女は既に人間ではないという事になる。元々人外だったのか、或いは後天的に人外になったのか──。

 その点は気になるが、少なくとも彼女が自らを霧雨魔理沙だと称したのは事実なのだ。それならば、聞きたい事がある。

 

「ヒフウレポート……」

 

 ボソリと、思わずメリーは呟く。

 

(あの人なら、何か知っているかもしれない……。宇佐見菫子さんの事を──)

 

 蓮子の実家で発見した古いノートパソコン。その持ち主だったらしい一人の少女。ヒフウレポートという名称で記録を残していた彼女だったが、その実態は未だ不明瞭なままである。彼女は結局、どうなったのか。本当に幻想郷へと干渉する事が出来ていたのか。

 そして、何より。あのレポートに登場した黒い人影とやらが、進一の命を奪った『死霊』の事を示しているのならば。その正体に、一歩近づく事も出来るかもしれない。

 

(そうよ……。きっと、何か……)

 

 この一ヵ月間、メリーはずっと悶々とし続けていた。進一の死と向き合う事も出来ずに、自分もずっと逃げ続けて。だが、それでも心のどこかでは理解していた。このままでは、いけないのだと。このままズルズルとこの状況を続ければ、必ず駄目になってしまうのだと。──自分も、そして秘封俱楽部も。

 だから、変えたかった。一歩踏み出すきっかけが、欲しかった。

 故にメリーは、少しだけあの女性の話を聞いてみる事にした。

 

(信用、しても良いのかどうかは判らないけど……)

 

 無論、メリーとてそこまで無警戒という訳ではない。少し話を聞いて、怪しいと感じた時点ですぐに逃げるつもりである。幸いにも、ここは大学のキャンパス内。相手だって、そう易々と妙な行動は実行できないはず。

 きっと大丈夫だ。『死霊』に追い回された時と比べれば、このくらい──。

 

「おーいっ!」

 

 緊張しつつも暫く座って待っていると、そんな声が流れ込んできた。

 メリーは視線を向ける。聞き覚えのある声と共に登場したのは、昨日と同じく、黒と白の衣服を身に纏った女性。──霧雨魔理沙と名乗った彼女だった。

 人の好さそうな笑みを浮かべて、手を振りつつも彼女はこちらに歩み寄ってくる。

 

「悪い、待たせたか? でもちゃんと来てくれたんだな。いやぁ、良かった良かった」

「……昨日、同じ時間に来いって言ったのは、貴方じゃないですか」

「ははっ。それもそうだな」

 

 爽やかな表情だ。昨日は警戒してばかりであまり彼女の事を観察する事が出来なかったが、今の所はメリーを騙してどうこうしよう等という考えは抱いていないように思える。

 

「約束通り、連れてきたぞ。お前でも信用できそうな奴をな」

 

 そして、もう一人。

 この白黒の女性に連れられて、メリーの前に現れたのは。

 

「……お久しぶりです。メリーさん」

「……っ。貴方は──」

 

 成る程。

 確かに、彼女であればメリーでも充分に信用を寄せる事が出来る。

 

「妖夢、ちゃん……?」

 

 メリーは思わずベンチから立ち上がり、そして彼女の名前を口にした。

 見間違えるはずもない。()()()()の彼女と正面を切って会話したのは、ほんの少しの時間だけだったけれど。それでも、彼女なら。秘封倶楽部にも加入してくれた彼女であるのなら、メリーは心を許す事に躊躇いはない。

 魂魄妖夢。魔理沙と違い、こちらの世界でも馴染むような衣服に着替えていた彼女は、どこかバツの悪そうな表情でそこに佇んでいて。

 

「妖夢ちゃん、よね?」

「……はい」

 

 改めてそう確認すると、彼女は頷いて答えてくれた。

 

「あの時は、急にいなくなってしまってすいません。色々と、確認したい事が出来てしまって、それで……」

「…………っ」

 

 そんな彼女の声を聞いて、彼女の姿を認識して。気がつくと、メリーは脱力していた。

 腰が抜けてしまったような感覚だった。重力に引っ張られるような感覚に逆らう事が出来ず、へなへなとベンチに座り込んでしまう。ごとんと、ベンチが軋む鈍い音が響いた。

 

「メリーさん……!? だ、大丈夫ですか……?」

「ち、違うの、ごめんなさい……」

 

 心配そうな反応を見せる妖夢だったが、メリーはすぐに首を横に振って答える。

 

「な、何だか、妖夢ちゃんの姿を見た途端、安心しちゃって……。それで、急に力が抜けちゃったというか……」

「……っ。そ、そうですか……」

 

 へにゃりとした笑みを浮かべながらもメリーがそう告げると、妖夢の表情が安堵の念に包まれる。その表情には、メリー達と共に過ごしていた、子供の姿の彼女の面影が色濃く表れていた。

 ああ。やっぱり彼女は、魂魄妖夢だ。疑う余地なんてどこにもない。そう痛感できる雰囲気が、今の彼女からは漂っていた。

 

「何だよ。判っていた事だけど、それでも私の時と随分と反応が違うな。そこまで信用されてなかったのか、私」

「メリーさん、凄く不安そうだったみたいだけど。一体どんな声のかけた方をしたの……」

「いやぁ、別に普通だったろ。至って普通。なぁ?」

「え? そ、それは……」

 

 白黒衣服の彼女に同意を求められるが、メリーは精々苦笑いを浮かべるくらいしか反応できない。正直、普通に不信感バリバリだった。

 

「第一、どうしてこっちの世界でもその服装のままなの? 悪目立ちするでしょう、それ」

「へっ! 私はなぁ、妖夢。正統派魔法使いで通ってるんだ。服装に至るまで、いつ如何なる時もそのスタンスを崩しちゃいけないんだよ!」

「そんな熱弁されても……」

 

 呆れ気味な表情を浮かべる妖夢。至ってフランクな雰囲気で、彼女はその女性と言葉を交わしてる様子だった。

 どうやら、本当に妖夢はこの白黒の彼女とは知り合いのようだ。例えば無理矢理連れてこられた、という訳でもないように思える。だとすれば──。

 

「ねぇ、妖夢ちゃん。その人、自分の事を霧雨魔理沙だって言っていたけれど……」

「ええ。その通り、です。彼女は魔理沙──霧雨魔理沙」

 

 ぶいっと。何故だか得意顔でメリーへとブイサインを向ける、白黒の魔法使いに向けて。

 

「……私の、友人です」

 

 何の迷いも躊躇いもなく、妖夢はきっぱりとそう言い放った。

 友人。霧雨魔理沙。だとするとやはり、あの霧雨魔理沙だという事か。ヒフウレポートにも登場した、八十年前の幻想郷にも存在していたという──。

 

「えっと、それじゃ……。魔理沙さんは、人間じゃないの……? だって、八十年前にも……」

「……そうでしたね。子供の頃の私が、既に魔理沙の事はお話していましたね。確かに、八十年前のあの頃は、魔理沙は間違いなく人間でした。だけど今は、状況が違います」

「状況……?」

 

 思わず妖夢に聞き返すが、それに答えたのは白黒の彼女──霧雨魔理沙本人だった。

 

「ああ。私としちゃ、人間のまま魔法の限界にも挑んでみたかったんだけどな。でも『死霊』が現れて、そうも言っていられない状況に陥った。だから私は、完成させたんだ。──捨食の魔法と、捨虫の魔法をな」

「捨食と、捨虫の、魔法……?」

「昨日も言っただろ? 今の私は、ちょっとした魔法使いだってな。つまりはそういう事だ」

 

 困惑するメリーに向けて、魔理沙は改めて自らを示して告げた。

 

「捨食の魔法を完成させた時点で、私は人間である事を辞めた。そして捨虫の魔法を完成させた時点で、人智を超える長寿の肉体を私は手に入れた。──故に、今の私は最早人間と呼べる存在じゃない。『魔法使い』という名の、言わば妖怪の一種ってところだ」

「魔法使い……」

 

 魔法使い、という言葉は、ひょっとしたらメリーが想像するよりも広域の意味で扱われているのかも知れない。単に魔法を使える存在という意味だけではなく、妖怪の種族としての『魔法使い』という意味。魔理沙が自らを示して口にしたのは、後者だという事になる。

 元人間の魔法使い。しかも彼女の口振りから察するに、彼女が魔法使いに至るきっかけは不本意なものだったと読み取る事が出来る。

 

 『死霊』が現れて状況が変わったのだと、魔理沙はそう口にしていた。それはつまり、彼女もまた『死霊』によって人生を狂わされた被害者の一人だという事になる。

 

(また、『死霊』……)

 

 そして昨日、魔理沙によって告げられた言葉。それを思い出し、メリーの心臓がどくんと大きく跳ね上がる。

 意を決して、聞いてみた。

 

「あの、魔理沙さん。貴方は昨日、言っていましたよね? 私の力が必要だって」

 

 その言葉は、果たして何を意味しているのか。

 

「それって……私なら、『死霊』を何とか出来るって……。そういう、意味なんですか……?」

 

 昨日、魔理沙は言っていた。メリーが、鍵なのだと。メリーという存在が文字通り道を切り開き、そして運命を変えるのだと。運命というのは、恐らく今この状況の事を示しているのだろう。

  『死霊』と呼ばれる存在が蔓延る世界。『死霊』によって狂わされた運命の歯車を、メリーなら元に戻す事が出来るのではないかと。そう思ってしまうのは、些か買い被りが過ぎるのだろうか。

 

「……まぁ、そうだな。でも、厳密に言えば少し違う」

 

 そんなメリーの言葉に、魔理沙は答えた。

 

「お前は、あくまで鍵なんだ。勿論、お前の力は私達にとって必要不可欠だが……。だけど、それだけじゃない。お前だけじゃ、足りないんだよ」

「足りない……? それって……」

「ま、詳しくは私を使いに寄越した()()()に訊いてくれ」

 

 あいつ。確かに、昨日も魔理沙はそんな事を口にしていたような気がする。

 メリーの力を必要としている人物が、魔理沙達を手引きしているという事だろう。そして恐らくその人物は、『死霊』をどうにかする算段をつけている。だけどその計画を遂行する為には、要となる鍵が足りないといった所か。

 そしてその鍵の一つが、メリーだったという事だ。故にこうして魔理沙達に接触させ、メリーを勧誘している。鍵を揃えて、この理不尽な運命をひっくり返す、“切り札”を切る為に──。

 

「……私は、はっきり言って賛成できません」

 

 ──と。不意に苦言を呈したのは、妖夢だった。

 

「一ヵ月前……。私は初めて、()()から計画の全貌を聞かされました。だけどそれは、決して人道に従っているとは言えない内容で……。こちらの世界の住民であるメリーさん達を巻き込むなんて、そんなのは正しい選択とは到底思えません。これは、本来ならば幻想郷の問題なのですから」

「ったく。まだそんな事を言ってんのか? 覚悟を決めろよ、妖夢。私達には、他の選択肢なんて残されてないだろ?」

「それは……」

「けど、お前の気持ちも判らなくもないけどな。()()()から聞いたけど、喧嘩別れみたいな感じだったんだって? だからこの一ヵ月間、お前はあいつに反発するような行動を取っていた訳だ。他に何か方法があるかも知れない、ってな」

「…………」

 

 どこか得心していないような、苦し気な表情を妖夢は浮かべている。

 一ヵ月前。何も言わずにメリー達の前から姿を消し、そしてそれ以降何の音沙汰もなかったのは。彼女なりに、メリー達を巻き込まない方法を模索していたという事だろう。

 でも、駄目だった。事態は最早八方塞がりで、他にどうする事も出来なくて。だから、妖夢は。

 

「まぁ、あれだ。恨むんなら、あのスキマ妖怪の事でも恨むんだな。あいつが種を蒔いたから──」

 

 深刻な表情を浮かべる妖夢の気を楽にしようとしたのか、冗談交じりといった口調で魔理沙がそんな事を口にする。だが、当の妖夢は、ますます表情を険しくしてしまって。

 

「……出来る訳がない」

 

 ぴしゃりと、魔理沙の言葉を否定する。

 

「紫様を恨むなんて、そんな事……。出来る訳が、ないじゃない……」

「……わ、悪い。今のは、流石にマジで失言だった。すまん……」

 

 しまったと、後悔した様子の魔理沙。ややあって気まずい雰囲気が漂い始める。

 和ませるつもりが、地雷を踏んでしまったという事だろうか。スキマ妖怪とは誰の事を示しているのかは判らないが、ひょっとしたら妖夢にとって大切な人なのかもしれない。

 

「よ、妖夢ちゃん……?」

「…………」

 

 おずおずと名前を呼ぶと、視線を向けた妖夢と目が合う。

 その瞳から伝わってくるのは、憐憫。いや、後悔だろうか。マエリベリー・ハーンという少女に対して、彼女はそんな感情を抱いている。

 どういう事だ。なぜ、妖夢はそんな目を向けてくる──。

 

「……すいません、メリーさん。お見苦しい所を、お見せしました」

「へ? あ、いや……。いいのよ、気にしていないから……」

「兎にも角にも、私はこの計画にはあまり気乗りしないんです。だけど魔理沙の言う通り、他に選択肢がない事も事実で……。だから、メリーさん」

 

 そこで妖夢は、改めてメリーに向き直る。

 先ほどのような、憐憫が漂うような瞳ではない。真剣で、どこまでも真っ直ぐな。そんな彼女の瞳に、メリーは射抜かれて。

 

「私達と一緒に、来てくれませんか? 勿論、協力を強要するつもりはありません。ただ、話だけでも聞いて欲しいんです」

 

 もう、後悔なんてしたくない。そんな気概が、妖夢から伝わってきた。

 

「貴方には、真実を知る権利があると思うから」

 

 決意に満ちた妖夢の瞳。そんな瞳に反射されて、困惑したメリーの顔が映っている。

 ああ、そうだ。確かに自分は、困惑している。真実とは、何の事だ。なぜそれを知る権利が自分にあるのか。判らない。だが、それでも何か奇妙な感覚がある。

 それは、不思議な義務感。自分も知らない自分の事を、妖夢達は知っている。そしてそれを、自分は手繰り寄せなければならないのだと。真実を知らなければならないのだと、自分の中の何かが叫んでいるような気がする。

 

「……ッ」

 

 無論、単なる気の所為という可能性だって存在する。雰囲気に流されて、ただそう思い込んでいるだけではないかと。そんな疑念だって心の片隅には存在している。

 でも。それ以上にメリーは、感じていた。この感覚を、無視してはいけないのだと。今ここで向き合わなければ、きっとこの先、一生その真実に辿り着く事は出来ないのだと。

 だからこそ、メリーは。

 

「……ええ。判ったわ、妖夢ちゃん」

 

 座っていたベンチから立ち上がり、俯いていた顔を上げて。

 

「連れて行って。これ以上、私はもう逃げたりしないから」

 

 覚悟を決めたその瞳で、妖夢達の事を見据えていた。

 

 

 *

 

 

 このままではいけない。何とかしないといけない。踏み出さなければ。前に進まなければ。いつまで足踏みを続けている。いつまで顔を背け続けている。覚悟も決意も、所詮はその程度だったのか。

 ──この一ヵ月間。宇佐見蓮子の脳内は、そんな思考ばかりに支配されていた。

 

「はぁ……」

 

 午後。予定していた講義が全て終わり、蓮子はちょうど講堂から出てきた所だった。本来ならば講義が終わった解放感を味わる所だが、生憎、今の蓮子はそんな気分にはなれそうにない。この陰鬱な感情の根源は、講義とはまた別の場所に存在している。

 一ヶ月前のあの事件。ゴーストタウンと化した京都の街に『死霊』が出現し、蓮子達にも牙を剥いて。そして辿り着いてしまったのは、最悪の結末。

 

 あの日から蓮子は、ずっと無気力気味な日々を送り続けていた。

 何をする気力も起きない。普段ならば秘封倶楽部の活動に勤しむ所であるが、それすらもである。ただ、朝になったら起きて、大学に行って。そして講義を受けて帰宅する。それだけの日々。何の代わり映えのない時間を、ただ惰性的に浪費しているだけ。今の蓮子は、そんな状態だった。

 

 判っている。いつまでこんな状態を続けるんだと、そんな事は誰かに言われるまでもなく理解している。立ち上がらなければならないのだと、そう自分に何度も言い聞かせているはずなのに。

 だけれども、宇佐見菫子は立ち上がれない。前に進めない。

 これまでにないくらい、自信を喪失してしまっている。こんな自分が、皆を引っ張って行けるのかと。秘封倶楽部のリーダーで良いのかと、そんな自問が渦巻いている。

 

 その癖、蓮子は未練がましく先延ばしにしているのだ。メリーから倶楽部活動に誘われた時だって、今日はそんな気分じゃない、今は充電中なのだと。そんな最もらしい御託をせっせと並べて。

 ──結局自分は、逃げているだけだ。

 

「逃げている、か……」

 

 蓮子は思わず独り言ちる。

 

「だって、しょうがないじゃない。秘封倶楽部は、もう……」

 

 自分とメリーだけのものじゃない。今の秘封倶楽部には、四人のメンバーが必要だ。

 妖夢と進一。あの二人が揃ってこそ、秘封倶楽部は完成する。だけど妖夢は幻想郷に帰還し、そして進一はいなくなってしまった。

 

 妖夢の事は良い。だって元々、それが目的だったのだから。でも、進一は──。

 

「……ッ」

 

 そこまで考えた所で、蓮子は吐き気にも似た感覚に襲われる。頭をぶんぶんと振り、必死になって陰鬱な想いを払拭した。

 駄目だ。これ以上は考えたくない。いや、認めたくない、といった方が正しいか。だって、あまりにも現実味がなさすぎるではないか。ちょっと前まで、仮入部とは言え、秘封倶楽部の一員として一緒に過ごしていたはずだったのに。そんな彼が、もう、この世には存在しないなんて。

 

「信じない……」

 

 蓮子は呟く。自分自身にも、言い聞かせるかのように。

 でも。

 

(それでも、私は……)

 

 口だけだ。そんな風に自分に言い聞かせた所で、実際は未だに立ち上がれていないのだ。

 ──リーダー失格だ。最早自分に、秘封倶楽部を引っ張っていく覚悟なんて。

 

「メリー……」

 

 縋るように、蓮子は呟く。

 親友である、彼女の名前を。

 

「私は、一体、どうすれば……」

 

 変な見栄を張ってしまって、メリー本人には相談なんて出来てない。けれども蓮子の内心は、極限まで追い込まれてしまっていた。

 恐らく、メリーは何となく察してしまっているだろう。今の蓮子の内情を。それでも蓮子の方から分厚い壁を作ってしまい、彼女の事を拒絶してしまっている。この期に及んで、これ以上の弱さを吐露する事を蓮子は恐れているのだ。

 

 判らないのだ。一体、どんな顔をして相談すればいい?

 だって、辛いのは蓮子だけじゃない。メリーだって、同じくらい辛いはずなのだから──。

 

「あっ……」

 

 そんな事を考えながら歩いていると、ふと見かけた。──蓮子が頭に思い浮かべていた、当の本人を。

 キャンパス内の一角。桜の花が繚乱する並木道の中に設置されたベンチ。そこに座っている、彼女──マエリベリー・ハーンの姿を。

 

 何という偶然。噂をすれば影、という表現は少し違うけれど。けれども蓮子の心境としては似たようなものだった。

 ちょうど、メリーに関する事で悩んでいたのだ。そんな中で当の本人に内情を読み取られてしまったら、流石の蓮子も居た堪れない。思わず足を止め、蓮子は近くの物陰に隠れてしまう。

 

(……いや、何やってるのよ、私……)

 

 不意に我に返って、冷静になった。

 これでは、メリーに何か疚しい事でもあるみたいじゃないか。──いや、実際はその表現も強ち間違っていなのだが、だとしても。

 流石にこれは、重症が過ぎる。自分の事がもっと嫌いになってしまう。

 逃げるな。これ以上逃げてしまったら、本当に後戻りが出来なくなってしまう。それだけは絶対にいけない。

 

「…………っ」

 

 意を決して、蓮子は物陰から顔を覗かせる。

 そして、気づいた。

 

「え……?」

 

 そこにいたのは、メリー一人だけではなかった。──メリーの他に、もう二人。

 片方は知っている。()()姿()の彼女とはほんの少ししか対面していないが、それでもあの姿を一目見れば何となく察する事が出来る。髪型はだいぶ様変わりしてしまっているようだが、彼女は間違いなく──。

 

「この時代の、妖夢ちゃん……?」

 

 そう。彼女は紛れもなく、魂魄妖夢が成長した姿に違いなかった。

 なぜ彼女がこんな所に。あの日以来、丸っきり姿を消してしまっていたはずなのに。再び幻想郷からこちらの世界に足を運んできたというのだろうか。

 それに。彼女の他に、もう一人──。

 

(妖夢ちゃんと……、誰?)

 

 そちらは見知らぬ女性だった。比較的こちらの世界でも違和感のない服装をしている妖夢とは違って、もう一人の女性が身に纏っているのは黒いエプロンドレスである。はっきり言って、滅茶苦茶浮いている。場違いなコスプレイヤーか何かか。

 しかし、こうして大人の妖夢と一緒にいる事から察するに、彼女もまた幻想郷の住民なのだろうけれど。しかし、解せない。一体なぜ、彼女達がメリーに接触して──。

 

「あっ……」

 

 ──などと考えていると、一先ず話を切り上げたらしい妖夢とエプロンドレスの女性が踵を返す。そしてそんな彼女らの後に、メリーも続いた。

 メリーは二人についていくつもりか。場所を変えて改めて、という事なのだろうか。まさか、大学のキャンパスのような人気の多い場所では出来ないような用事が──?

 

「…………」

 

 気になる。いや、別に妖夢の事を信用していないのだとか、そういう訳ではないが──それでも。

 一体、今更何の用事なのだろう。一ヵ月前のあの件は、既に収束しているはず。『死霊』は消え、ゴーストタウンと化していた京都の街だって、既に元の姿を取り戻しているというのに。

 どうして。

 

「どうして、このタイミングで……」

 

 気になる、気になる。非常に、気になる。

 だから、蓮子は。

 

「よしっ……」

 

 三人の跡を、つけてみる事にした。


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