レミリア・スカーレットが考える、未来を変える為の計画。それを盤石なものとするために、ちゆりが行った要求──霍青娥への協力は、訳あって妖夢が取り付けてくれる事となった。
元々は夢美がレミリアに話があるとの事で、パチュリーが使い魔を使ってコンタクトを取る予定だったらしいが、そう時間も経たない内に彼女もレミリアに呼び戻されてしまった。何でも、重要な要件が出来たのだとか。
悪い意味での想定外のトラブルという訳ではなかったようだが、パチュリーも手が離せなくなると、青娥とコンタクトを取る要員がいなくなってしまう。そうなるとだいぶ不都合な事になってしまうのだが、代わりに名乗り出てくれたのが妖夢だった。
『私としても丁度良かったんです。彼女には、色々と話しておきたい事もありましたから』
そう口にしつつも、妖夢は自ら代わりとなる事を買って出てくれた。
魂魄妖夢と、霍青娥。ちゆりは少し話に聞いた程度ではあるが、二人の間には簡単には推し量れないくらいの深い因縁があったはずだ。そんな彼女が一人で青娥に会いに行って、果たして本当に大丈夫なのか。
──等といった考えも一瞬だけ頭を過ったが、最終的には心配ないだろうという結論に至った。
彼女には、色々と話しておきたい事もある。そう口にする妖夢の表情は、毅然としていた。迷いを振り払い、自分なりに腹を決めたかのような。そんな印象。
彼女の心は、既に固まっている。そしてその心は、恨みだとか、復讐だとか、そんな負の方向には少なくとも向いていない。とはいえ、必ずしも正の方向を向いているとは言い切れないほどに、彼女の心境は複雑なのだろうが──。
それでもきっと、今の妖夢は青娥を真っ向から拒絶はしない。彼女なりに理解して、そして折り合いを付けようとしている。
今の彼女なら、最善の結果を手繰り寄せる事が出来る。
そう思えたから、ちゆりは妖夢に青娥の事を任せる事にした。
(あのパチュリーって奴も同じ感覚だったみたいだし、私の目も曇っちゃいなかったって事だよな)
そして。結果として、その試みは上手くいったとの報告を聞いている。
妖夢は青娥を説得し、そして協力を取り付ける事に成功した。理想の未来を掴み取るため、最低限の
これで、ちゆりが考えていた懸念点はほぼ解決だ。後は青娥が『能力』の
(いや。終わりというか、始まりなのかも。……なーんて、そんな感想はあまりにもクサ過ぎるか?)
ともあれ。明日が、文字通り運命の日である事に変わりはない。この未来を変えるための、一世一代の大勝負。それを決行する時だ。
そして、夜。明日に備えて、ちゆり達は博麗神社で一晩を過ごす事となった。
一度外の世界に帰る事も考えたが、流石に博麗大結界を何度も行き来するのは手間だ。こいしは普通に往来しているように思えたが、あれは彼女がたまたま都合の良い『能力』を行使できる故の、裏技のようなものである。意図的な『能力』の行使はそれなりに精神力を消耗するようだし、彼女ばかりに負担をかけるのも悪い。
そんな理由もあり、この方針だった。現状の博麗神社を管理しているらしい、藍という九尾の狐が提案してくれたのも大きい。明日に備えて、博麗神社で一晩休んでも良いのだと。
という訳で、お言葉に甘えさせて貰った。ちゆりだけでなく、今回の計画の鍵を握る秘封倶楽部の二人も一緒だ。今日は博麗神社で一晩を明かし、明日改めて紅魔館に戻る事となる。
紅魔館に滞在するという選択肢もあったが、あそこは豪邸すぎて逆に落ち着かないし、吸血鬼が住む事に特化している為か、窓がほぼなくて息苦しい。外の世界の人間であるちゆり達にとって、疲れを残さないという要素を考慮すると博麗神社の方が適任だった。
「落ち着かないかなぁ? 私の家の方がもっと凄かったよ?」
「……そう言えば、お前も実は結構なお嬢様だったんだっけか。地霊殿、だったっけ?」
春の夜風が心地良い博麗神社の縁側。そこでちゆりと共に腰掛けるのは、今日は殆ど行動を共にしている古明地こいしだった。
彼女もまた、今夜は博麗神社で過ごす事にしたらしい。この計画の行く末を最後まで見届けたいという、こいし本人たっての希望だった。
拒む理由なんてない。そもそも、一緒に行こうと提案したのはちゆりの方だ。ちゆりとしてもこいしが側にいてくれた方が心強いし、何より彼女にはこの計画の結末を見届ける権利がある。青娥にも、レミリアにも、そしてちゆりにも、散々振り回されたのだ。これくらいの希望、叶えてあげられなければ報われない。
「そうそう。何たって旧地獄の、それも灼熱地獄跡の上にあるからね。灼熱地獄の温度管理はお空が頑張ってくれてたんだよ」
「へぇ……。改めて聞くととんでもない場所だな、そこ」
実家の凄さマウントを取っている、こいしの言葉にちゆりは耳を傾ける。──どちららかと言うと、豪華だとかそういったベクトルとは違う意味での
「お空が灼熱地獄の温度管理をしていたって事は……。お燐の奴は何をやってたんだ? お空と一緒に温度管理をしてたのか?」
「いや、お燐は主に怨霊の管理かな。怨霊と会話ができるんだよね。だから、怨霊の心が読めるお姉ちゃんと一緒に……」
一瞬、こいしの言葉が詰まる。何かを口にしようとして、けれども声が詰まってしまって。すぐに、気を取り直したように。
「と、とにかくっ。お燐も地霊殿にいた頃から、お仕事を頑張ってくれてたってことだよっ」
「…………」
察する。お姉ちゃん、とは言葉通りの意味だろう。彼女には、『死霊』による被害の犠牲となった姉がいる。実家の事を思い出せば、そんな姉との記憶を連想してしまうのは自然な事だ。
この場合、真っ先に思い出してしまうのは、往々にして辛い記憶。つまり、彼女が『死霊』の手によって──。
「……そうか」
そこまで想像して、止めた。
「つまりお燐は、地霊殿にいる頃から生真面目な奴だったって事か。印象通りだぜ」
「でしょ? お燐ったら、昔から全然変わってないんだよねー」
徒に心の傷を広げる必要はない。辛い記憶は、時には前に進む為の原動力になる事もあるかも知れないが、その逆もまた然りだ。心が壊れてしまったら、元も子もない。
今は、明るい未来を胸に抱くべきだ。明日の計画が上手くいけば、この基準世界を可能性世界で上書きする事が出来る。そうすれば、彼女の姉だってきっと助ける事が出来るはずなのだ。
バッドエンドを否定して、ハッピーエンドを掴み取る。
希望には、既に手が届いているはずだから。
「──ちゆりさん」
──と。こいしとのやり取りが一段落した辺りで、不意にちゆりは第三者に声をかけられていた。
振り返る。声のした方向。そこにいたのは、見知った二人の少女だった。
ちゆりも勤務する大学。そこに通う学生でもある二人。この『異変』を解決する為の、重要な鍵となる少女達。そう言えば、
「……よう、お前らか。まだ寝てなかったんだな」
視線の先。そこにいる秘封倶楽部の少女達。──宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンに向けて、ちゆりはそう答えた。
月明かりが差し込む博麗神社。夜もそこそこ更けてきているが、彼女達もまだ休むつもりはないらしい。ふふんと鼻を鳴らしつつも、何故か得意気に答えたのは蓮子だった。
「いやいや、ちゆりさん。夜はまだまだこれからですよ? もう寝ちゃうなんて勿体ない!」
「勿体ないって……。明日は色々と重要な日になりそうなんだぞ? 夜更かしして疲れを残さない方がいいんじゃないか?」
呆れ気味の口調で、ちゆりはそう返す。相も変わらず元気な事だ。幻想郷に来てテンションが上がっているのだろうか? 明日までに体力を使い切らなければ良いが。
「……夢美さんは、まだ戻ってないんですか? 紅魔館で、レミリアさんに用があったんですよね?」
「あー……。夢美様はなぁ……」
メリーにそう尋ねられ、肩を窄めつつもちゆりは答える。
「今夜はずっと紅魔館らしい。何でも、さっき見たタイムトラベルの魔法に関して色々と確かめたい事とか、調整したい事があるんだと。あの人もテンション高かったぜ」
「魔法……。あー、成る程……」
納得した様子のメリー。夢美が魔力や魔法に関して色々と執着というか、陶酔している事を知っているが故に、察する事が出来たのだろう。
「私も手伝おうかとしたんだけどなぁ……。なんつーか、レミリアがそれを拒んでるっぽいらしく? お前達と一緒に明日に備えて休んでろと言われちまった」
タイムトラベルやタイムパラドックスに関するちゆりの知見は借りたい癖に、魔法の内部構造まではちゆりに知られたくないという事だろうか。何ともフェアではない気がするが、それならなぜ夢美は許されているのだろう。
(夢美様の奴、一体何をやったんだ……?)
またとんでもない事をしでかしてそうだが、夢美の事だ。この状況で、事態が悪化するような行動は取っていないはず。寧ろ少しでも有益に繋がるように動いてくれているはずである。
それならば今は、助手として、夢美の事を信じよう。──彼女ならきっと、ちゆりが気づいていないような
「……ひょっとして、夢美様に何か用だったか? だとしたら今は都合が悪いかもな……」
「あ、いえ……。夢美さんも一緒なら尚良かったんですけど、今は……」
ちゆりが尋ねると、メリーがそう答える。それに続くような形で、蓮子も口を開いた。
「一度ちゃんと、ちゆりさんとお話しがしたかったんです。だって、私達が東京旅行から帰ってきてから、一度もまともにお話し出来てませんよね? ……色々と、聞きたい事もあって」
「……そうか」
静かに、そして観念するかのように、ちゆりは納得する。それと同時に、考えて見れば当然の事だよなと、気を利かせられなかった自分自身に呆れてしまった。
夢美とは、元の関係性に戻る事が出来たけれど。蓮子やメリーとは、まだ何も話せていない。このまま何も行動に起こさず、なあなあになんて出来ないはずだ。ちゆりだって、そんなのは許せない。
全てを明かすのなら、今しかない。メリー達が旅立つ前に、絶対に必要な事だ。
「え、えっと……。私、席を外した方が良い……?」
「……いや」
遠慮がちに確認してくるこいしに対し、ちゆりは首を横に振って答えた。
「一緒にいてくれないか? 全部を説明するには、お前の存在が必要不可欠だ」
北白河ちゆりにとっての、全ての始まり。それを説明する為には、どうしてもこいしの存在に触れざるを得ないから。
「……よしっ! それじゃあ、洗いざらい白状する事にしよう」
意を決して、ちゆりは秘封倶楽部の二人に向き直る。
「全部、話すぜ。お前達の疑問も含めて、一切合切包み隠さず、な」
それからちゆりは、蓮子とメリーに向けて、文字通り全てを説明した。
十三年前のあの日から、今日に至るまで。ちゆりが何に直面し、何を経験し、何を感じ、何を思い、そしてどのような選択をしたのか。その過程で、どのような出会いと別れを経験したのか。その全てを、彼女達に告げた。
とても長い話だった。何せ、自分の半生を説明しているようなものである。自分でもよくここまで話せるなと感心するくらい、それらははっきりと言葉で紡ぐ事が出来た。
蓮子やメリーの疑問にも答えた。彼女達からしてみれば、最も気になっていたのはちゆりと青娥との関係性だっただろうが、それも含めてだ。──まぁ、青娥本人の事に関しては、ちゆりとしても知らない事が多すぎて、あまり話せる事はなかったのだが。
そして。一通りの話が終わって。
「…………」
どう言葉を返すべきか、それが分からなくなっている様子のメリー。あの蓮子さえも、話を噛み砕くのに時間がかかっているようだ。
まぁ、こういう反応になるよなぁ、とちゆりも思う。中々に特殊すぎる状況である。一気にこんな話をされて、すぐに理解しろという方が無理な話ではないか。ちゆりが同じ立場でも、同じ反応になると思う。
「……あの、取り敢えず」
半ば強引にちゆりの話を飲み込んだ様子で、蓮子が口を開いた。
「ちゆりさんの本当の名前は、朝ヶ丘絵理子、という事ですか……? 北白河ちゆりは、偽名……?」
「……まぁ、そういう事になるな。 でも、私の事は今まで通りちゆりって呼んでくれて良いぞ。急に変えるのもややこしいだろ? まぁ、絵理子の方で呼びたいってのなら、それでも別に構わないけど」
「は、はあ……。えっと、それで、ちゆりさんは子供頃に、教授や進一君と会った事もあって……。その上で、こいしちゃんとも昔馴染み……?」
蓮子としては、そこが一番気になっているようだ。
確かに。一ヵ月前にちゆりが取った
「そうそう。でも絵里子ったら酷いんだ。私の事すっかり忘れちゃってたし、あんな部屋に監禁してくるし」
「い、いや、それは……! ま、マジで悪かったって……。あの時は、私も必死で余裕がなかったというか……。で、でも、忘れてたのはお互い様だろっ」
まさにその事をこいしに突かれて、ちゆりは思わずそんな弁明を口にする。とは言え、あの件に関してはちゆりが全面的に悪い。例え余裕がなかったのだとしても。──よくよく考えたら、普通に犯罪ではないか?
「ま、過ぎたことは良いよ。今はちゃんと思い出して、こうして一緒にいてくれる訳だし」
こいしはそう言ってくれている。今更そんな事なんて気にしていないのだと、そんな態度で。
彼女の方も、ちゆりを忘れていた事を棚に上げられている気がするが、これ以上それを突っ込むのは止めておいた。ちゆりのした事の重さを考えると、それを許そうとしてくれるこいしには逆らえない。
何だかとんでもない弱みを握られてしまった気がする。いや、ちゆりの自業自得な訳だが。
「……なんて言うか、本当にちゆりさんとこいしちゃんって昔馴染みだったんですね。その距離感を見せつけられては、納得するしかないと言いますか……」
まだ少し現実感がないとでも言いたげな口調で、メリーがそんな感想を口にする。それでも納得してくれたのは、こいしが取ってくれた態度のお陰であろう。
やはり、彼女を同席させたのは正解だった。席を外していたら、もっと説明がややこしい事になっていたかも知れない。
「……そうですね。こいしちゃんの事は納得するとして、もう一つ気になってたのは青娥さんの事です」
難しそうな表情を浮かべつつも、蓮子がそう切り出した。
「一ヶ月前、ほんの少しだけ青娥さんと話したんです。その時、あの人は言ってました。ちゆりさんとは、たまたま利害が一致しただけで、心から信頼していた訳じゃない。そんな関係を結ぶ権利なんて自分にはない、って……」
「……青娥が?」
そんな事を言っていたなんて、初耳だった。ほんの少しの困惑がちゆりの中を駆け抜けるが、そのまま蓮子の続きを待つ。
「……結局、あの人の目的は何だったんですか? どうして、あんな事を……」
「…………」
霍青娥。結局のところ、彼女の目的は何だったのか。
残念ながら、ちゆりはその問いに答える事が出来ない。彼女との関わりは、協力関係と呼ぶにはあまりにも希薄だった。ちゆりは、彼女の事を殆ど何も知らない。
「……あいつは、自分の事を殆ど何も喋らなかった。私が何を尋ねても、のらりくらりと躱されて。それに私自身、あいつの事を深く知ろうとはしていなかった」
あの頃のちゆりだって、間違いなく歪んでいた。霍青娥と協力して、八十年前の幻想郷から子供の妖夢をタイムスリップさせる。そんな、ある種の偉業を成し遂げても尚、その共同者の真意を探ろうとしなかったのだから。
あくまで自分の理想を叶えられればそれでいい。そんな、傲慢な思考を抱いて。
(……でも)
今になって、思い返して見れば。
「……未来を、変えたい。そんなあいつの理想は、少なくとも本物だったと思う」
これまで青娥がちゆりに見せていた態度や言動。それを思い出しながらも、ちゆりは続ける。
「多分、あいつにはあいつなりの
「願い……」
「ま、あくまで私の勝手な想像だけどな。生憎、私もあいつの真意は測りきれてないんだ」
けれども。今のちゆりは、こう考えている。
「少なくとも、目的が一致している限りは、あいつの事は信用しても良いと思う。今回のレミリアの計画で、お前達をより磐石な状態で過去の幻想郷に送り届けるためには、あいつの力が必要なんだ。──そういう状況では、あいつは絶対に手を抜かない」
青娥が抱いていた
彼女だって、この理不尽な運命に翻弄された被害者の一人だ。その事実だって、変わらない。
「……こいしちゃんは、納得してるの? 青娥さんには、色々と酷い目に遭わされたんでしょ?」
蓮子がそう問いかける。尋ねられたこいしは、ほんの少しだけ思案顔を浮かべた後に。
「うーん……。まぁ、正直あいつの事は許せないし、許すつもりもないけど……」
そしてちらりと、ちゆりを一瞥して。
「絵里子が信じるって言うのなら、私も信じるよ。水には流さないけど、納得はする」
「こいし……」
こいしのそんな言葉を聞いて、ちゆりは感慨深い気持ちになる。
彼女は、ちゆりの事を信じてくれている。十三年間も思い出を忘れてしまっていた、こんなちゆりの事を。
素直に、嬉しい。次の言葉が出てこなくなってしまう程に、感情が高まって──。
「……まぁ、万が一何かあったら絵里子の所為にすれば良いし」
「……おい。それは一言余計じゃないか?」
──思わず突っ込んでしまった。
何とも締まらない雰囲気になってしまったが、実際、ちゆりの責任は重大だ。こいしの信頼に答える事は勿論だが、蓮子達に関しては身の安全もかかっている。失敗なんて許されない。
全力を尽くす以外の選択肢はない。ちゆりに出来る事ならば、文字通り何でもする覚悟だった。
(……そうだな)
ここまで蓮子達と話して、改めて思う。
本当に、ここに至るまで、紆余曲折あった。決して真っ当な道のりではなかった。その道のりの中で、許されぬ事をしてしまった自覚はあるし、それを棚に上げるつもりはない。それ故にちゆりには、どうしても青娥だけを責める事が出来ない。
ちゆりだって、裏切ってしまっているのだ。彼女を信じてくれていた者達の、信頼を。
「……蓮子。メリー。改めて、お前達にも謝らさせてほしい」
「えっ……?」
今更、かも知れないが──。それでも。
「私は、今まで、お前達の事も騙してた……。迷惑だって、沢山かけた。謝って許される事じゃないのは分かってる。でも……」
今、この場で。けじめをつける為にも。
「それでも、一度きちんと謝らさせてくれ。お前達の信頼を、裏切っちまって……」
ちゆりは、頭を下げた。
「……本当に、すまなかった」
「そ、そんな……。頭を上げて下さい、ちゆりさんっ……」
慌てた様子でそう声をかけてきたのは、メリーだった。
「私達は、別に、ちゆりさんを責めたりするつもりはなくて……。謝って貰おうとなんて思ってた訳ではないんですっ。ただ、その……」
彼女の性格を考えれば、こんな反応になってしまうのも無理はない。気を遣わせてしまっただろうか。けれども、このまま謝罪もせずに流してしまうのも不誠実だ。
水に流して、許してもらおうとは思ってない。ただ、それでも誠意を見せて、ちゆりなりのけじめをつけるべきだと。そう思った。
「……うーん、そうですね。そりゃあ確かに、ちゆりさんに裏切られて、凄くショックではあったんですけど……」
慌てた様子のメリーの横で、腕を組んだ蓮子は比較的落ち着いた口調で告げた。
「でも、信じてましたから。ちゆりさんが、意味もなくあんな事をする訳がないって。きっと何か、事情があるんだって。……今、こうして話を聞いて、やっぱり私達の勘は間違ってなかったんだって、そう確信できました」
「……蓮子、お前……」
「……なんて、実は私が一番動揺しちゃってたんですけどね。ちゆりさんがこいしちゃんを誘拐する場面を見ちゃって、それで……」
こいしを誘拐。それは、蓮子達が東京旅行に行く前の事を示しているのだろう。
あの時は、この時代の妖夢をこちら側に引き込むため、青娥の提案もあってちゆりが決行したのだった。
「だけど、それでも私は、ちゆりさんの事を信じたかったんです。……私だけじゃない。メリーも、教授も、お燐ちゃんも。……進一君だって、ちゆりさんの事を信じていた」
「……っ」
「正直に白状すると、心の片隅では、色々と嫌な想像もしちゃってたんです。本当に、ちゆりさんの事を信じても良いのか……。私達の事なんて、最初からどうでも良いと思ってたんじゃないか。そんな想像ばかりが頭の中を支配して、怖くて……」
まさか、蓮子にさえもそんな感情を抱かせていたなんて。つくづく自分は、許されない事してしまったのだと実感する。
けれど。
「でも……、あの時。進一君の言葉のお陰で、私もそんな想像を払拭する事が出来たんです」
どこか吹っ切れた表情で、蓮子はそう口にしていた。
「進一君は言ってました。教授を……、
「……、進一が、お前達にそんな事を……」
「……進一君の真っ直ぐな気持ちに触発されて、私も迷いを捨てる事が出来ました。ちゆりさんを信じたいという、そんな純粋な想いだけを、抱く事が出来たんです」
「だから……」と、蓮子は続けた。
「私は……。
進一が、ちゆりに対して抱いていた感情。それを改めて聞かされて、胸の奥が熱くなった。
ちゆりの事を信じているという、進一の想い。一ヶ月前のあの日に、ちゆりも直接彼の口からも聞いている。しかしあの時は、ちゆりは冷静じゃなくて。差し伸べられた手を振り払うかのように、進一の想いを拒絶してしまったのだけれども。
それでも、彼は──。
「……進一は、さ。私の事を、何の躊躇いもなく助けてくれたんだ」
ぽつりぽつりと、ちゆりは語り出す。
「一か月前の、あの日。私は死ぬつもりだったんだ。自分が囮になって、進一と夢美様を『死霊』から遠ざけて。その結果、自分が『死霊』の犠牲になっても構わないって、そう思ってた」
あの時のちゆりは、文字通り全てを諦めていた。生きる事さえも、どうでも良くなってしまっていた。
夢美と進一の好意が、あまりにも眩しくて。そんな彼らを受け入れられない自分自身が、何よりも嫌で。だから、拒絶する事しか出来なくて。二人の事さえも、突っぱねてしまっていたのに。
「それでも……。それでも進一は、私の事を助けてくれた。最後の最後まで、私の事を諦めないでいてくれた。私は、進一の事をあんなにも拒絶しちまったのに……。あいつは、そんな私の事さえも、身を挺して『死霊』から護ってくれて……」
自分自身が、『死霊』の犠牲になる事さえも、厭わなかった。
──ああ。本当に、無茶苦茶な奴だ。──いや、彼にそんな行動を取らせてしまった自分の方こそ、余程道理に合わない奴だった。
「……進一君らしいって、そう思います。目の前で、苦しんでいる人がいるのなら、進一君は手を伸ばす事を躊躇いません」
「……ああ、そうだな。そういった向こう見ずな所も、あいつらしい」
進一の行動を肯定してくれたメリーに対して、ちゆりは答える。
そう。ちゆりは、そんな進一の向こう見ずさに、救われたのだ。こんなにも過ちを重ねてしまったちゆりにさえも、彼は手を差し伸べてくれて。
「あいつが、いてくれたから……。私は、お前達にも嫌われずに済んだんだな」
進一の真っ直ぐで純粋な想いが、蓮子達とも繋ぎ止めてくれていたんだなと。そう、実感した。
「……なぁ、蓮子、メリー。お前達に、頼みたい事があるんだ」
意を決する。改めて、ちゆりは蓮子達と目を合わせて。
「レミリアの計画通りに事が進んでいるのなら、死んでしまった進一の魂は、亡霊として過去の幻想郷に辿り着いているはずだ。だから、お前達が同じ時代にタイムスリップ出来れば、亡霊となったあいつと再会できる」
本来ならば、死んでしまった人間と再会できるなんて有り得ない。けれども、こんなにも特殊な状況だから。叶えられるなら、願いたい。
「あいつに、私の想いを伝えてくれないか? ……私は、ずっと、あいつに謝りたかったんだ。今まで、本当の事を言えなくて……。悪かった、って……」
蓮子達と同じように、進一に対してもけじめをつけたかった。本来ならば、直接会って伝えたい。けれどもそれは叶わないから、せめて、蓮子達を通じて。
まずは、謝って、真実を告げて。それで──。
「……礼も、伝えたいんだ。こんな私を、信じてくれて……。助けてくれて、ありがとう、って……」
「絵里子……」
もの悲しげな声調で思わずその名を口にしたのは、こいしだった。
彼女だって、ちゆりと同じ想いなのだろう。彼女もまた、十三年間の思い出を共有した当事者だから。同じくらいの罪悪感を、抱いているはずだから。
「わ、私からも、お願いっ……」
少しだけ身を乗り出して、こいしもまた、蓮子達に告げる。
「絵里子の気持ちを、進一に伝えてあげて欲しいんだっ。できれば、私の事も伝えて欲しいけど……。進一は多分、私の事は覚えてないと思うから……。だから、私の事は……」
「──ええ。引き受けるわ」
どこか遠慮がちに、言葉を並べるこいし。そんな彼女の言葉を、途中で蓮子が受け止める。
進一は、多分自分の事を覚えていない。だから自分の事は、気にしなくて良い。──おそらくこいしは、そう告げようとしていたのだけれども。
「私達が、絶対に……。進一君に、伝えるわ。ちゆりさんの事も……。勿論、こいしちゃんの事も」
「蓮、子……」
「進一君なら、絶対に貴方の事も思い出してくれる。だって……ちゆりさんだって、思い出してくれたんでしょ?」
「う、うん……」
「なら、大丈夫」
さも当然の事であるかのように。心の底から信じきった様子で、蓮子は続けた。
「進一君なら絶対に思い出すわ。こいしちゃんの事も……。かつて絵里子さんだった、ちゆりさんの事も。その上で、二人の想いも受け入れてくれる。進一君の友達として、私がそれを証明するわ!」
「……そうね。蓮子の言う通り」
そして。蓮子に続くような形で、メリーもまた受け止める。
「承りました。私達に、任せてください。お二人の想いは、私達が責任を持って、進一君に届けます」
「……っ。お前ら……」
まさか。こんなにも、真っ直ぐに、ちゆり達の想いを受け止めてくれるなんて。期待はしていなかった訳ではないが、それでも面食らってしまう程だった。
彼女達だって、ここに至るまで、沢山の苦難に直面してきたはずだ。心が折れてしまうような事もあったかも知れない。けれど、それでも、今の彼女達はこうして前を向けている。ちゆり達の想いさえも背負って、足を踏み出して前に進もうとしている。
彼女達は、強い。
それこそ、こんな運命に反逆して、覆してしまうんじゃないかと思う程に。
「……ありがとう。二人とも」
改めて、ちゆりは蓮子とメリーに向けて礼の言葉を口にする。
「私とこいしの想い、お前達に託す」
彼女達の強い意志に、敬意を表して。
「約束する。明日の計画、私も出し得る限りの力を尽くす。そして……」
ちゆりは、宣言する。
「お前達を、八十年前の過去の幻想郷に──。必ず、送り届けてみせるぜ」
ちゆり一人だけの力では、この未来を変える事は出来ない。けれども、希望を繋ぐ事くらいなら出来る。
秘封倶楽部の二人。彼女達を、過去の幻想郷に送り届ける。バッドエンドの回避を願う者達とも、力を合わせて。そして、この大異変の解決へと繋げる。
人間の意思というものは、運命を変革させるのに最も有効な武器と成り得るのだと、レミリアは言っていた。それなら、見せてやろうじゃないか。
運命を変える、瞬間とやらを。
*
翌日。
博麗神社で寝泊まりをしたメリー達は、再び紅魔館へと集まる事となった。
昨日説明された、レミリアが想定する計画の全貌。彼女達が構築した魔法を行使し、メリー達を過去の幻想郷に送り届ける。昨日の時点では少し懸念点があったようだが、それも解決の目処が立っているようだった。
いよいよだ。運命を変える為の大勝負が、始まる。
正直、昨日はあまり眠れなかった。ちゆりとの間にあった心残りは解消されたが、やはり未知の体験を前にするとどうしても緊張してしまうものだ。こればかりは慣れそうにない。
まさか自分が、タイムトラベルを経験する事になるなんて。
──いや。覚えていないだけで、自分は一度そんな芸当を自力で経験した事があるらしいけれど。
「……メリー、緊張してる?」
紅魔館に向かう途中、隣を歩く蓮子からそんな風に声をかけられた。
心配無用だと強がる事も出来なくはないが、そんな事をしても蓮子には見抜かれる。メリーは素直に、自分の気持ちを口にした。
「ええ。少し、ね……」
「大丈夫よ」
そっと、蓮子が優しく手を握ってきて。
「私も、一緒だから。私の『能力』なら、タイムトラベルの魔法を制御出来るんでしょ? 絶対に、妖夢ちゃんや進一君のいる時代に辿り着いて見せるわ」
「蓮子……」
「それとも、メリーは私の事が信用できない?」
「そ、そんなこと……!」
反射的に首を横に振って、メリーは否定する。それを見た蓮子が、ニコッと、太陽のような笑みを浮かべた。
「なら、大舟に乗ったつもりでいてよ。この私にかかれば楽勝だから!」
「……っ」
まったく。やっぱり蓮子は、
それならメリーも、不安感なんて抱いていられない。蓮子と一緒なら、どんな困難だって乗り越えられる。そう、信じているから。
そして。
昨日までと同じように、魔理沙に連れられてメリー達は紅魔館へと辿り着く。今日はそのまま大図書館まで案内されて、昨日も説明されたあの巨大な魔法陣まで辿り着くと。
「待っていたぞ、人間っ!」
真っ先にそんな事を口にしつつもメリー達を向かい入れたのは、レミリアだった。
相も変わらず仰々しい様子。最初の方こそ面食らったが、流石にそろそろ慣れてきた。彼女はこういったキャラなのだと、受け入れてしまった方が色々と楽だ。
「ええ、来てやりましたよ。私もメリーも、今更逃げる訳ないじゃないですか」
「クククッ……。そうでなくてはな。まぁ、お前達が今更怖気付くような下らん人間性だったとしたら、運命を覆す事など到底叶わん。まずは及第点といった所だな」
「……褒めてるのかしら? まぁ、一応お礼は言っておきますよ」
「フッ……。喜べ、人間! この私が認めているのだ! これ以上に名誉ある事はないと知るがいい!」
蓮子の放った言葉に対し、品定めするような様子で返すレミリア。──昨日より若干テンションが高い気がするのだが、気の所為だろうか。
そんな彼女の後ろ。そちらに視線を向けると、そこには昨晩一人で紅魔館に残った夢美の姿と、パチュリーと名乗っていた魔法使いの少女の姿があった。そして、もう一人。
赤を基調としたドレスを身に纏う、ブロンド髪の少女の姿がある。見覚えはなかったが、蓮子から聞いていた話を思い出してメリーは察した。
レミリア・スカーレットには妹がいる。確か名前は、フランドール・スカーレット。蓮子が話していた特徴と、彼女の姿は一致する。
(あの子が……?)
恐らく、間違いない。そんな彼女は、何やらコソコソとパチュリーに耳打ちするように話しかけており。
「お姉様、何であの調子に戻ってるの……?」
「私達以外の前では体裁を保ちたいんでしょ。そっとしておきましょう」
「…………」
──上手く聞き取れなかったが、あまり深掘りしない方が良い内容だった気がする。
「夢美様。あんたの気になってた事は解消できたのか?」
そんなレミリア達の事は意に介さず、そう夢美に尋ねていたのはちゆりだ。一晩ぶりに再会した夢美は、レミリアに負けず劣らず気分が高揚している様子で。
「ええ、完ッ璧よ! これで限りなく万全! 心残りも何もないわッ! ふっ、ふふっ……。まさか自分に、こんな才能があったなんて……! ああっ! 我ながら恐ろしいわ……!」
「……夢美、何かやたらとテンション高くない? 徹夜明け……?」
こいしが若干引くくらいにはハイになっている。一体何をしていたのだろうか。
「……この魔法、昨日から若干構成が変わってるな」
その横で。まじまじと魔法陣を観察していた魔理沙が、そう口にする。
「根本的な効力までは変わってないっぽいが……。何か方針を変えたのか?」
「……ええ。まぁ、そういう事になるわね。そこの彼女も言っていたでしょ? 限りなく万全だって」
魔理沙の疑問に答えるパチュリーは、疲労感を滲ませながらも、同時にどこか呆れた雰囲気を漂わせていた。
「まったく……。ある意味、末恐ろしいわ。外の世界の人間が、こんな『能力』を持ってるなんて」
「……能力?」
「まぁ、彼女のお陰で、切り捨てるしかないと思ってた要素が解決できたのだけれど。安心しなさい。レミィの計画に狂いはないから」
「『能力』……。あー、成る程……。何となく、察した」
夢美を一瞥した魔理沙が、どこか納得したような声を上げている。メリーにはよく分からなかったが、要するに夢美がこの魔法をより完璧なものに仕上げたという事だろうか。
直向きに魔力の研究を続けていたお陰、という事だろうか。本物の魔法を前にして、遂に夢美の研究の成果が出た──と理解しておこう。
「それで、吸血鬼。昨日、私があんたにお願いしてた事だが……」
夢美との話を終えたちゆりが、レミリアにそう切り出す。
「妖夢が協力を取り付けてくれたんだろ? 青娥はどこにいる?」
「──呼びましたか?」
──と。狙っていたかのようなタイミングで、
声の方向へと視線を向ける。メリー達の後ろ。おそらく、少し遅れて紅魔館に到着したのだろう。特徴的な群青色の衣服を身に纏う女性の姿が、そこにあった。
一ヶ月前。それまで『先生』としか認識出来ていなかった彼女を、初めて個として識別する事が出来た。あの時から、メリーの印象としては変わっていない。どこか、くたびれているような。気力を使い切ってしまったかのような。そんな印象の女性。
「青娥さん……」
「お久しぶりです。ふふっ……。今日は『先生』ではないんですね、メリーさん」
──霍青娥は、薄く笑みを浮かべながらもそう答えた。
ちゆりから、計画遂行の為に青娥を呼び寄せたとは聞いていた。勿論、ちゆりのそんな言葉を疑っていた訳ではないが、実際に前にするとやはりどうしても驚いてしまう。
まさか彼女が、本当に協力してくれるなんて。
そんな霍青娥の傍らには、彼女を説得して連れてきてくれた最大の功労者の姿もある。
「青娥さんには、ある程度こちらから説明しています」
傍らにいた彼女──魂魄妖夢が、口を開く。
「ちゆりさんの頼み事、引き受けてくれるそうです。──蓮子さんの『能力』。それを拡張する為の手解きをしてくれる、と」
「……ああ。ありがとな、妖夢。無茶な頼みを引き受けてくれて」
「……いえ」
ちゆりの言葉に対して、どこかすっきりした表情で妖夢は答えた。
「私も私で、
「……そうか」
妖夢も既に、青娥とは一つの決着をつけたのだろう。既に迷いは無くなっている。
彼女も腹を括った、という事か。
「あらあら……。その無茶な頼みとやらの為に、実際に頑張るのは私ですのに。そんな私には何もないのでしょうか?」
「何だよ? 礼でも言って欲しかったのか? そんな関係でもなかっただろ、私達」
「そうだよ!」
ちゆりに続いて、食い気味な様子でこいしが声を上げていた。
「今まで、散々……、散ッ々! 好き勝手やってたんだから……! この程度の協力で許されるなんて思わないでよね!」
「おやおや……。相変わらず、貴方にはほとほと嫌われてしまっているようですね」
「好きになる要素なんてないでしょ? 今は絵里子に免じて、仕方なくお前を信じてあげてるってだけ。絵里子に感謝してよね!」
「そうですか。ありがとうございます、ちゆりさん」
「いやマジで礼なんて言われても……」
殆ど心が籠っていない青娥の礼を前にして、ちゆりは困惑していた。
──心が籠っていない、というよりも、無気力になってしまっているという表現の方が正しい気がする。
実際のところ、青娥がどのような感情を抱き、何を思っているのかは分からない。ちゆりが想像していた通り、たった一つの
それは、とても悲しい事なのだと。メリーは思う。
「さて、無駄話はここまでだ。こうして我が居城に必要なピースが揃った今、遂に計画の最終段階が遂行可能となる」
程なくして、話を中断させたレミリアがそう仕切り出す。メリーも改めて気を引き締めて、彼女の言葉に耳を傾けた。
レミリアは最初に、青娥の方へと視線を向けて。
「邪仙、まずはお前だ。そこの半人半霊から事情は聞いたのだろう? 宇佐見蓮子の『能力』を成長させろ」
「……ええ、分かってます。まぁ、厳密に言えば、成長という表現は少し間違っていますが……」
そう口にしつつも、青娥が視線を向けてくる。
「蓮子さん。そして、メリーさんも。こちらに来てもらえますか?」
「……え? メリーも? 私だけじゃなく?」
「はい。まぁ、ついでですから」
ちょっぴり疑問に思いながらも、一先ず青娥の指示に従う。メリーと蓮子は、揃って青娥のもとへと近づいた。
「ええ、そうです。失礼ですが、少し上着をはだけさせて貰っても? 直接肌に触れた方が効率的ですから」
言われた通りにすると、青娥が両手を伸ばしてメリー達の胸元に触れる。──丁度、心臓に近い位置。他人に触れられるむず痒さを感じていると、集中した様子の青娥が再び口を開いた。
「……成る程。やはり問題なさそうです。少し、気分が悪くなるかもしれませんが、我慢して下さいね」
「えっ……?」
何の事だと、そんな疑問を呈する暇もなく。メリーの全身に、
「……ッ!?」
まずは、心臓。どくんと、一度だけ大きく鼓動が跳ねる。苦しいだとか、痛いだとか、そんな感覚ではないが、それでも異物感のようなものを感じる。まるで、外部から何らかのエネルギーを流し込まれたような。
そんな感覚が、心臓を中心として波紋のように広がってゆく。ゆらゆら、ゆらゆらと、全身に。
(うっ……! な、なに、これ……?)
身体中がふわふわ、そしてフラフラとする。例えるならば、海を漂う船の上にいるような感覚が近いだろうか。あまり気持ちの良い感覚ではない。
文字通り、酔ってしまいそうだ。気分が悪くなってくる。
堪らず視線を横に向けると、隣の蓮子も顔を顰めていた。おそらく、彼女も同じ感覚を感じているのだろう。流石の蓮子でも、余裕綽々で乗り越える事が出来ていない。
無理もないだろう。余程鈍感でもない限り、普通はこんな反応になる。
「さて、これでおしまいです」
時間にしては、おそらく二分にも満たない。けれどもやたらと長く感じる時を経て、ようやく青娥から解放される。メリー達は、揃って息を切らせた。
「はぁ、はぁ……! う、おえっ……! ちょ、な、何……!? 何なんですか今の!?」
「私が独自で開発した仙術です。身体に害はないので安心しても良いですよ」
「が、害はないって……。めちゃくちゃ気持ち悪いんですけど……!? 事前に言ってくれませんか……!?」
「ですから、言ったではないですか。少し気分が悪くなる、と」
「いやギリギリ過ぎるのよ!」
不服そうに青娥と言い合いする蓮子。メリーは気持ち悪さの方が勝ってしまって、彼女のように声を荒らげるような余裕はない。
何とか、呼吸を整えようと必死になる。
(仙術、って言っていたけど……)
メリーは胸元を手で抑える。未だに鼓動の速度は早いが、少しずつ落ち着いてきた。乱れていた呼吸も整い始める。
そこで、気づいた。ぼんやりと、胸の奥に普段とは違う感覚がある。上手く形容する事が出来ないが、強いていえばどこかすっきりとした感覚、だろうか。
ずっとぼやけていた霧が、少しだけ晴れ始めているような。そんな、不思議な心地。
「幻想が否定された外の世界の住民は、自らの特異性に無自覚な場合が殆どです」
落ち着き始めたメリー達の様子を見て、青娥が説明を始めた。
「無論、誰もがそんな特殊な『能力』を持っている訳ではありません。妖怪や妖精、神などの幻想と同じように、人が持つ『能力』もまた、非常識として排斥され、否定されている。否定された非常識は常識に飲み込まれ、やがて
幻想の根源。それには、人々が抱く想いの強さが直結している。
かつては当たり前のように存在を信じられ、人々にとって恐怖の対象となり得てきた妖怪達。けれど、物理学が事実上の終焉を迎え、オカルトというかつての浪漫さえも統一的に説明ができてしまう外の世界では、そんな存在を本気で信じている人間なんて殆どいない。存在を否定された妖怪達は力を失い、やがて消滅してしまうだろう。
それは、『能力』だって同じだ。
プランクエネルギーによる限界の観測に成功し、物質的な構造の殆どが紐解かれたと信じられている世界。そんな環境では、特殊な異能力の存在なんて普通の人間は信じない。──例え、自らの中にその種が眠っていたのだとしても。
「そのような状況下でも、蓮子さんのように自力で『能力』を発言させるような例外も存在します。けれどそんな例外でも、世界規模で浸透している“常識”の影響は避けられない。──その結果、『能力』は本来の性能を発揮できなくなり、やがて眠りについてしまいます」
幾らオカルトに精通している蓮子でも、世界の常識からは逃れられない。外の世界に身を置いているその時点で、
「まぁ、要するに、そんな凝り固まった“常識”を解せるのが先程の仙術です。妖怪なんて存在しない。超能力なんて馬鹿げている。そんな大衆の認知から一時的に脱し、『能力』の枷を取り外す。──言葉で説明するとすれば、このようなイメージですね」
「……まぁ、成る程。理屈は理解しました」
取り敢えず蓮子は納得した様子だ。メリーも、言葉で説明されただけではイマイチ理解できなかっただろうが、直接この感覚を体験したが故に、何となく納得出来てしまう。
しかし、だとすれば。
「あの、ちょっと待って下さい。その説明だと、私の『能力』も枷を外したように聞こえたのですが……」
「ええ。その理解で正しいですよ」
きっぱりと、青娥は答えた。
「八雲紫の忘れ形見である貴方の『能力』は、確かに蓮子さんのそれとは異なり、より特異なものだとも言えますが……。けれど、貴方は
「人、間……」
「そういう意味では、貴方も蓮子さんも、私からして見ればそう大差はありませんね。何も変わらない、と言ってしまっても過言ではありません」
「……っ」
どういう意図で、青娥がそのような説明をしたのかは判らない。だが、彼女の言葉を聞いて、少なくともメリーの心はほんの少しだけ軽くなった。
八雲紫という、妖怪の賢者の忘れ形見。あまりにも規格外過ぎるそんな境遇を突き付けられて、正直、自分でもまだ少し消化し切れていなかったから。人間なのだと。蓮子と何も変わらないのだと。改めて、そう告げられて。心の奥底に残っていた孤独感が、薄くなったような気がした。
「ほう? 詳しいな、邪仙。その人間の事も事前に調べ上げていたのか?」
「……偶々です。私は以前、意識を失った彼女の事を診察した事がありましたからね。その時から、気づいていました」
関心するレミリアに対して、青娥はそう答える。
「八雲紫は、やはり自分の娘には人間として生きて欲しかったのでしょう。妖怪としての性質が完全に消失している今のメリーさんは、取り分け特別な『能力』を持っているとは言え、それ以外は外の世界の人間と何ら変わりありません」
「……人間として、ですか」
八雲紫という妖怪が、どういった人物なのかは知らない。──いや、メリーにとっては覚えていないと言った方が正しいのかも知れないけれども。
自分の娘を危険な目に遭わせたくないという気持ちは、何もおかしな事はない願いだとは思う。至極当然な感情である事も判っている。だとすれば、今のメリーはそんな母親の願いとは正反対の方向へと進んでしまっているのかも知れないが。
「……その人の願いが何であれ、私にだって自分自身の意思があります。折り合いをつけて、納得して、そのうえで心に決めたんです」
──そう。メリーにだって、願いはある。
自らの境遇を知っても尚、それでも叶えたい。そんな無垢なる願いが。
「私は、絶対に……。こんな運命なんて、覆してみせます。もう、誰も死なせたりなんかしません」
今更、止まろうとは思わない。今の自分に出来る事があるのなら、メリーはそれを全うするだけだ。
「……やはり、貴方も妖夢さんと同じですね。絶望的な状況を前にしても尚、眩く存在し続ける“輝き”を持っている。未来を諦めたくないという強い想いが、貴方からも感じられます」
どこか、眩しそうな表情で。青娥はメリーをそう称していた。
「それを信じていたからこそ、貴方にも蓮子さんと同じ術を施したんです。八雲紫の『能力』の一部を引き継いだ貴方には、同じ芸当を実現出来る
そして改めて、青娥はメリーの事を見据える。
今までとは違う、どこか真っ直ぐな瞳。先ほどまで感じていた、無気力さ。一瞬だけ、それがなくなって。
「その“輝き”で、未来を変えてください。貴方なら……貴方達なら、その理想を掴み取る事が出来ると。そう、信じていますよ」
ほんの少しだけ、青娥の真意に触れる事が出来たような。そんな気がした。
多分彼女だって、心の奥底に抱く理想は、他のみんなと変わらない。奪われてしまった大切な未来を取り戻したいと、そう思っている。その願いが、自分一人の力では叶わないと悟ってしまって。一度は全てを諦めてしまったけれど。
けれども今は、もう一つの可能性を信じてみようと、そんな思いを抱いている。メリー達を信じて、その願いを託してみようと。そう思ってくれている。
(責任重大……。でも……)
尻込みはしない。
蓮子と一緒なら、どんなに遠い理想だって掴み取る事が出来ると。そう、信じているから。
「ククク……。これで最後の懸念点は解決だな。そうだろう、北白河ちゆり?」
「ああ。これで蓮子は、魔法を制御するための情報をリアルタイムで取得する事ができる」
最後の確認。ちゆりとのそれを終えたレミリアが、改めてメリー達へと視線を向けて。
「始めるぞ、二人とも。陣の中心へと行け」
魔法陣を示しながらも、レミリアがそう口にする。
紅魔館地下の大図書館。その一角に構築された、巨大な魔法陣。タイムトラベルを発現できる大魔法。──いよいよ、それを発動させる時が来る。
「メリー」
名前を呼ばれる。
ずっと隣にいてくれた、最愛の親友から。
「行きましょ。……一緒に」
「……ええ」
自然と、手を繋ぐ。そしてゆっくりと、前へと足を踏み出し始める。
静かに、一歩一歩。確実に。
やがては二人は、魔法陣の中心へと辿り着く。丁度同じくらいのタイミングで、魔法を起動させるためにレミリア達も所定の位置についた。
「蓮子、メリー! 改めて、最終確認だ!」
ちゆりが声をかけてくる。手を繋いだまま振り返って、二人は耳を傾けた。
「レミリア達が魔法を起動させたら、お前達の意識は肉体から切り離される。要は、夢を見ているような状態だな。その状態になったら、蓮子が『能力』を行使するんだ」
「ええ、判ってます。目的地の情報は、八十年前の過去、そして幻想郷の紅魔館ですよね。時間と空間を観測しつつも、夢の中で時空の狭間を駆け抜ける。そして目的のタイミングで、狭間から抜け出せば良いんですよね?」
「ああ。──幾ら『能力』を使えるとは言え、繊細な操作が要求される。行けるか?」
「当然!」
即答だ。
失敗する事なんて、初めから考えていないかのように。自信満々な様子で、蓮子は答えた。
「私を誰だと思ってるんです? 秘封倶楽部のリーダーとして、非常識な現象には散々触れてきたんです。この程度、どうって事ないですよ!」
「……そうか。ははっ、そうだったな」
聞くまでもない愚門だったかと、ちゆりは笑う。彼女は既に、蓮子の事を信じ切っているようだった。
それは、メリーも同じ。蓮子なら、絶対に成し遂げてくれるのだと。そんな確信を抱いているから。もう何も、怖くない。
「よし……。フランドール、パチュリー! お前達も準備は良いか!」
「大丈夫。いつでも行けるよ」
「私も問題ない。レミィのタイミングに合わせるわ」
レミリアの掛け声。残りの二人も、準備万端だと改めて答えて。
「ならば行くぞ! 死の運命を覆し、理想の可能性を手繰り寄せるため──!」
大袈裟気味な口上。それを口にしたレミリアが、タイムスリップの大魔法を──。
「今、ここに──!
──起動しようとした、その前に。
「ぱ、パチュリー様ぁ! た、大変! 大変なんですッ!!」
──不意に、そんな声が大図書館に響き渡った。
聞き覚えのない声。それと同時に、慌てた様子でどたどたと足音を立てつつも、こちらに駆け寄ってくる少女の姿が確認できた。
あれは、図書館の入り口方面からだろうか。酷く慌てた様子の少女の姿は、やはり見覚えがない。赤い長髪の頭の上や背中に、蝙蝠に近い羽のようなものが確認できる事から、人間ではない事は確かだろう。パチュリーの名を呼んでいたという事は、彼女の部下だとか、使い魔の類だろうか。
そんな少女の突然の登場により、魔法の行使は一時的に中断される事となる。名前を呼ばれた当の本人であるパチュリーは、少し気まずそうな様子で彼女に答えた。
「そんな大声を出さなくても聞こえているわよ。と言うか、これから大事な魔法を行使すると言っていたでしょう? 手元が来るって失敗したらどうするつもり?」
「あっ……あぅ……ご、ごめんなさい……。で、でも! 本当の本当に大変なんです! 一大事なんです!!」
パチュリーに小言を言われて一瞬落ち込んだ少女だったが、けれどもすぐにまた元の調子に戻る。
鬼気迫る表情。只事ではない、不穏な雰囲気だ。呆れ気味だったパチュリーもまた、彼女の慌てぶりを前にして、流石に焦った表情を浮かべ始める。緊張の糸が、周囲に張り始めた。
メリー達にもまた、その緊張が伝染する。──何か、想定外のトラブルが起きているのだと。そう察するのに時間はかからなかった。
「……言ってみろ。何があった? 小悪魔」
レミリアが続きを促す。彼女もまた、深刻そうな表情を浮かべていて。
メリーは固唾を呑む。胸中を駆け抜ける嫌な予感。杞憂に終わってほしいと願うが、このような状況下では都合よく叶わない事が殆どだ。
嫌な予感ほど、よく当たる。
そして今回もまた、不都合な事に。その例に漏れない、最悪な状況が待っていた。
「し、『死霊』……!」
語られる。少女の口から、その状況を。
「『死霊』が、現れたって……。そう言って、美鈴さんが……!」