「えーっと、数学は小テスト、古典は宿題の答え合わせが中心でしたまるっと」
とある放課後。オレンジ色に染まった教室の中で俺は一人黙々と日誌と向かい合っていた。早い話が日直の仕事って奴だ。
俺個人はこの役目は嫌いじゃないが、ダラダラと長引かせる理由もない。日誌以外の仕事にも早く手をつけるため、丁寧さを心掛けつつも迅速に空欄を埋めていく。
そんな俺の元へとトコトコ歩いて近づいてくる小柄な女子生徒が一人。
「ねえねえ桜井君、桜井君にばかり仕事させちゃってるの良くないと思うから、せめて戸締まりだけでも私がしておこうと思うんだけど」
あいうえお順で"さくらい"の一つ前の"こうさか"であるために俺と日直のコンビになっているクラスメイトの高坂穂乃果女史が俺に話しかけてくる。俺は日誌から目を離さずに記入作業を続けつつ、左手で振って彼女の提案を断っておく。
「ああ、いいよ。後は全部俺が一人でやっとくからさ」
別にフェミニストを気取って女の子からの印象を良くしておきたいわけでもない。俺は単に日直の仕事のような地味で細々とした作業が大好きなのだ。
特に黒板を消したり、教室の戸締り確認なんかは典型的なルーチンワークって感じで楽しい。これイマイチ周りに理解してもらえなんだよね。なんでだろう。
「え、いくらなんでもさすがに悪いよそんなの。桜井君って確か生徒会に入ってるんだよね?遅れちゃうんじゃない?」
これが希先輩なら大喜びで俺に任せて帰っていきそうなものだが、高坂さんは他人に仕事を押し付けることに躊躇いを感じるお人好しのようだ。
「いいっていいって。どうせ今日は急いでやらなきゃならない仕事なんて無いからさ。それに日直の仕事も大して残ってないんだし」
全ての記入欄を埋めたのを確認した俺は日誌をパタンと閉じる。後は黒板をみっしりと埋め尽くしているチョークで書かれた英文を綺麗さっぱり消し去り、教室にの戸締まり確認をして鍵を掛ける。そして、この日誌を担任の机に置けば、俺は晴れて日直の仕事からお役御免ってわけだ。
「うーん。でも」
まだ遠慮してんのか。
「高坂さんこそ、一年生が沢山入ってきて剣道部大変なんじゃないの?」
普段のほんわかとした雰囲気に反して意外や意外、この高坂さんは去年は一年生にして秋の大会を制覇した剣豪だったりするから世の中わからないもんだ。
運動場を一周走るだけで息が上がってしまう超絶貧弱もやしっ子の俺が言うのもなんだが、高坂さんは他の同世代女子と比較しても華奢な部類に見える。そんな彼女が竹刀でバッタバッタと敵を薙ぎ倒していくなんていまいち想像がつかないな。
「早く行きなよ。次の大会も期待してるからさ」
てっきり『そうだね。じゃあお願い』みたいな返事が来ると思っていたのだが、返ってきたのは予想と違う彼女の取り乱した姿だった。
「えっ!?えええっ!け、剣道!?あー、剣道……かあ。あははは……」
「ん?」
普段は竹を割ったような快活な言動が持ち味の彼女らしかぬ歯切れの悪い反応に、俺は思わず疑問符を浮かべてしまう。
「いやー、実は私、ちょっと前に剣道部辞めちゃったんだよね……」
「えええ!?なんで!?次のインターハイ出場も夢じゃないとか言われてたのに勿体ない!」
思わず声が裏返ってしまった。
正直言って俺は高坂さんのことはよく知ってるわけでもないし、日直以外ではまともに会話すら無い程度の関係でしかない。が、彼女がよりにもって剣の道を捨てる選択をしたと聞いて驚かない二、三年生などおそらく校内には存在しないだろう。
クラブ活動で特に目立った功績を持たない我が校において、突如現れた天才剣道少女の『二人組』の片割れ、学校の名を全国に轟かせるであろう希望の星として大々的に表彰されていたのはまだ記憶に新しいからだ。
というか校門や廊下には未だ高坂さんの業績を讃える垂れ幕が掛かっているしな。あれで彼女に憧れて剣道部に入った新入生もいるのではなかろうか。
「ええっとね。それがね。私、これからはスクールア……」
高坂さんの話は教室の扉が突如開けられたために途中で途切れた。入ってきたのは一人の少女だ。教科書でも忘れてたのか?
「……」
少女の腰まで届く綺麗な黒髪が、少しだけ空いた窓から吹き込むそよ風によってさらりと揺れる。
突如現れた闖入者は不審人物でもなんでもなく、俺も知っているクラスメイトの一人だ。
人形のように整った容貌に収められた琥珀のようにきらびやかな瞳はまっすぐ
「あれ?園田さん?もう教室閉めるから何か用事なら早めに……」
一枚の紙を手にしている園田さんは、表情を一切変えず高坂さんに向かってゆっくりと突き進む。
「海未ちゃん……」
剣道部期待のツートップのもう一人、園田海未さん。彼女と高坂さんはここにはいない後もう一人の女子生徒も合わせて、いつも行動を共にしている。詳しくは知らないが、どうやら高校以前からの付き合いらしかった。
が、今の二人にはそんな仲良しの雰囲気は全く感じられない。
なんせ園田さんはさっきから表情を強張らせたまま高坂さんを睨みつけてるし、高坂さんは怯えた目をしながら戸惑っている。
「……」
「……」
「……」
「……」
え?なにこれ?むっちゃ空気重いんですけど。
ちなみに今の俺は外野らしく、なるべく呼吸も抑えて教室に存在しないかのように振舞っているよ。藪蛇はごめんだし。
教室が静寂に包まれ、時計の針だけが無限に進んだかのように思える中、園田さんが手に持っていた紙を黙って高坂さんに突きつけたことでようやく俺達の時が動き出した。
「これって……」
俺は二人に気づかれないように横から視線だけ変えてこっそりと用紙に覗き込む。内容は一週間後に行われる新入生歓迎会や五月の他校との練習試合。どうやら剣道部のスケジュールが書かれているようだ。
二人の間に走る緊張感から一体何事かと思ったが、こんなもんを渡すだけでここまでギスギスした空気になるものだろうか。まだ四月だというのに教室の気温が急激に氷点下まで低下している気がする。
あれ?そう言えばさっき高坂さんは剣道部を辞めたって……
「顧問の先生から穂乃果にこれを渡すように頼まれただけだから……穂乃果は剣道を辞めたんだからもう関係無いと言ったんですけどね」
「……っ」
「てっきり校庭でことり達と『例のアレ』でもやっているのだろうと思っていたのですが、穂乃果だけいなかったので。今日は日直だというのを失念していました」
教室に入ってきてからようやく口を開いた園田さん。元よりクールなイメージを与える人ではあるけど、今の彼女は寄らば斬りますと言わんばかりに鋭利な刃物を持って近づく者全てを拒んでいるかのようだ。
相変わらず話全体の流れは読めていない俺だが、それでも高坂さんの退部は決して円満な形ではなかったのだろうということは理解できた。
「先生や部長達はどうやら退部は一時の気の迷いですぐに戻ってくると思ってるみたいです。私としては、こんな浮ついた気持ちで今更練習に参加なんてされても、逆に部のみんなに迷惑を掛けるだけだと思うのだけれど」
完全アウェイのはずなのに何故か二人に挟まれる位置にいる俺。とても俺が口を挟める雰囲気ではないし、だから早く逃げたいけど下手に動いて物音を立ててしまうのも想像するだに恐ろしいというもどかしさ。
「海未ちゃん!私……!」
高坂さんが何か言いかけるが、園田さんの氷よりも冷たいひと睨みがそれを制止する。あまりの迫力に言葉を失ってしまったようだ。俺だって怖いと思った。
「悪いですけど、これから新入生の指導を行わなければなりません。誰かさんが急にいなくなったために穴埋めが必要になりましたから」
園田さんが教室を出て行く際の扉を閉める音は、俺と高坂さんしかいないこの部屋でかなり派手に鳴り響いた。うーん、あの様子だと彼女は相当御立腹と見える。クールでお淑やかな美人は怒らせるとギャップが凄いんだな。
俺だってあまりに恐くて軽く足が痙攣してるもの。冷や汗も軽く垂らしてるし。園田さんを追いかけようとしていたはずの高坂さんに至ってはビクッと体を震わせ後、その場で動けなくなっている。
「海未ちゃん……」
女性の扱いに長けたコミュ力の高い男ならば、ここで悲しみに打ちひしがれている高坂さんに何かしら気の利いた慰めでも掛けてやれたかもしれない。
しかし、あいにく俺という男はそんな立派な甲斐性は持ち合わせておらず、彼女との単なるクラスメイトという関係を突破できるような勇気も備えていないのだ。
よって偶然居合わせた目撃者Aにして、ただの同級生A以外の何者でもない俺がやってやれるのことは僅か。せいぜい自分で考える時間をほんの少し分けてあげることくらいのものだ。
「あのさ……やっぱり俺が日直の仕事全部やっとくよ。こういう時は一人でボーッとして時間が過ぎるのを待つのが一番だと思うから」
「うん……ありがとう……」
いつも仲の良い園田さんとの仲違いは相当堪えたのだろう。普段の脳天気な姿からは想像できない程に俯いている高坂さんは、そう言ってトボトボと意気消沈した様子で教室から出て行く。
結局何が何だかさっぱりわからなかった俺だが、女の喧嘩って恐いという人生の教訓だけは得ることができたのだった。
「はあ……」
日直の仕事を終えた俺は、今度は生徒会室にて生徒会役員として与えられていた仕事に向き合っていた。別に難しい内容ではないはずなんだが、さっきの高坂さん達の喧嘩を目の当たりにしたのがまだ尾を引いているのかイマイチ集中できない。
おかげで予定とズレて俺と人一倍の量で仕事を担当している生徒会長以外の生徒会メンバーは早々に自分のノルマを終わらせて帰ってしまった。
当事者でもないのに園田さんの迫力に精神を削がれるとはどんだけナイーヴなんだよ俺。
「ほんとにどうしたの桜井君?さっきから何度もため息なんて吐いちゃって。もしかして任せてた同好会予算まとめの作業が嫌になっちゃったとか?」
幾度もペンの動きが止まってしまっている俺の様子が心配になったのか、我が校の生徒会会長、絢瀬絵里先輩が自分の作業を進めつつも俺の顔を覗き込んでくる。
「いえ、そういうわけじゃないです。ただ、まあ個人的に憂鬱になりそうな事態に直面してしまいまして……」
「まあ、それはいけないわ。せっかく新年度がスタートしたばかりなのに災難だったわね。でも、ため息は駄目よ。よく言うでしょ?ため息を吐く度に幸せが逃げてしまうって」
ポニーテールで纏めた鮮やかな金髪が印象的な絢瀬先輩は人差し指を立てながらウインク。もしも俺が同じポーズを決めたらあまりの似合わなさに噴飯物だろうが、外国人の血が成せる日本人離れした容姿の持ち主であるこの人の場合は逆に野太い声と黄色い歓声が飛び交いそうな程似合っている。
「そんなんじゃ見てる周りの人までも気持ちが沈んでしまうわよ。一人で抱え込まないでたまには吐き出しなさい」
歴代最高の人気を誇っていると言われる生徒会長が俺個人を心配してくれている。この場に校内に存在するという絢瀬絵里親衛隊(構成員は全員百合の花を咲かせた女)に見つかったら全く容赦ないリンチを受けるであろうレベルの幸運な出来事には違いない。
だが、ダメだダメだ。ただでさえ多忙極まりないこの人に、俺のせいで余計な気を使わせるわけにはいかん。
「そう言う会長は新学期が始まってからずいぶんと上機嫌ですよね。何か良いことがあったんですか?」
「もう話を逸らさないの。あ、でも、わかる?実は今年の新入生に仲の良かった後輩が二人もいるのよ〜。まあ後輩というか小学校の頃から妹のように面倒見てた近所の幼馴染達なんだけどね」
「へえ、それはすごいや」
うん、普通にすごいと思う。
今年の一年が一クラス分しか入ってきてないことを考慮すれば二人だけでも多いくらいじゃないかな。俺なんて中学時代に付き合いあった連中すら、みんな別の高校行っちゃったもんね。
「これで二年生の子も足したら全部で五人の幼馴染がこの音ノ木坂に来てくれたことになるわ!」
絵里先輩が指をパチンと鳴らす。さっきのウインクといい、芝居掛かった仕草がお世辞抜きで様になっている。
「ははっ、会長……楽しそうですね」
「もちろんよ。音ノ木坂であの子達が最高の高校生活を送れるように、私ももっと頑張らなくっちゃね!」
だから、と続ける絵里先輩。
「桜井君もいつまでも暗い顔してちゃダメよ。あなただって私達と一緒にこの学校で苦楽を共にする仲間なんだから。私の後輩にまで移っちゃうじゃない」
「うわ、結局そこに戻るんですか」
「当然よ。これはあの子達のためであり、あなたのためでもあるんだから」
上手く誤魔化したつもりだったんだが、俺の誘導程度はお見通しだったか。流石は賢いと名高い人だ。
それにしても、会長その幼馴染とやらが同じ高校に入学したのがよっぽど嬉しいんだな。俺が無理矢理話題を変えたら一瞬不機嫌そうな顔をしたのに、すぐに嬉々として幼馴染の話を始めたのだから。
彼女の笑顔を見ていると、去年廃校の噂が流れてきた頃に責任感の強い絢瀬先輩は一時期暗く俯いていたのが嘘のようだ。最近ではすっかり元の明るくて爽やかで頼りになるお姉さんの姿を取り戻しているわけだが、流石絢瀬先輩は立ち直りと切り替えの早い大人って感じだな。この落ち着きを自由人の希先輩も見習って欲しい所である。
「ふふっ、言われたくないなら次からは幸せを逃す前に相談しなさい♪はい、これはいつも遅くまで手伝ってくれてるお礼よ」
そう言って絢瀬会長は自分のバックから一本の缶コーヒー取り出し、俺の手元へと忍ばせた。おお、ミルク無しの微糖タイプ。ブラックが嫌いで、かつ甘ったるいのも好みではない大変わがままな舌をお持ちの俺にぴったりの絶妙なチョイスだ。
「ありがとうございます生徒会長。機会があったらいずれ僕の人生相談にでも乗ってください」
ありがたく受け取った缶コーヒーの蓋を開けて一気に飲み干す。そんな俺の姿を絢瀬会長は不服そうに眺めていた。
「もう、そう言って悩みを相談せずに適当にはぐらかして一人で抱え込むわよね。茶化して逃げるには君の悪い癖よ」
責めるような口調だが、それ以降会長は追及してこなかった。お節介焼きな面もあるが、なんだかんだで当人の自主性を重んじるタイプなのだ。積極的な人間関係構築を好まない人種の俺としては、この適度な距離感の維持はありがたい。
俺の気も多少は晴れたのか、さっきまでとは打って変わってペンの動きも進み、日が沈む前には書類を完成させることができたのだった。
次回はにこにー登場。漫画版基準なのでアニメ版のツンデレ弄られキャラ要素は皆無です。上手く再現出来てるか不安……