「お、おはよう」
「お兄ちゃん、なんで朝からキョドってるの?ま、まさかそのベットの下には例のアレが…」
「な、なわけねーだろ。もういいからリビング行ってろ!俺もすぐ行くから!」
「…なんか怒ってる?心当たりないな〜。…と、とにかく、早くしてね!」
バタンとドアが閉まる。彼女の足音が遠ざかっていくのを確認すると、俺は部屋中を荒らした。
―あいつの名前を探すために。
俺は忘れた。妹の、一緒に笑い、辛い時には心の支えとなっていたあいつの名前を忘れた。うっかりだとか、そんなものじゃない。記憶の中でその部分だけすっぽりと抜け落ちたように感じる。一緒に遊んだこと、勉強を教えたこと、専業主婦宣言をしてあきれられたこと…思い出は全く消えていない。名前だけが俺の頭から消えていた。
彼女の名前の確かな証拠は見つからない。
当たり前だ。そんなものが用意されている道理はない。妹の名前を忘れる、なんていう状況を想定してるような奴は、もっと別な意味でやばいだろう。ここにいても埒が明かない。俺は仕方なく、彼女の部屋に入った。
ーーーーーーーーーーー
リビングに降りると、朝食をとる少女の背中が見えた。俺は立ち止まる。刻々と時を刻む秒針。食器の当たる音。殺人事件を伝えるアナウンサーの声。あたりのすべてのものが俺を追い込む。冷や汗が流れてきた。俺は一度目を瞑ると息を吸い、発声した。
「こ、小町」
彼女は、ゆっくりと振り返る。
「ん?どうしたのお兄ちゃん。早く食べてよ」
一気に緊張がとけた。こいつの部屋にあったノートに書いてあった名前、比企谷小町。俺はとりあえずその名前で呼んでみたのだ。
「ふう…そうだな。とっとと食って学校に出勤するか。重役出勤だとドヤされるからな。あーあ。俺、社畜性質持ってんのかな」
「お父さんの子供だもんねー」
「いや、こ、小町、もだろ…」
「いや、小町はお母さんの子供だもん。」
「キリストかよ」
「は?お兄ちゃん何言ってるの?お兄ちゃん時々意味わかんないよね〜。あ、割といつもかも」
「いや、分かれよ」
この掛け合いがなんだかとても懐かしい。白黒のようだった景色が色づいていく。俺は残業を終えた社畜のような心持ちで、牛乳を煽った。
「小町、か」
1度口に出したから思い出すということはなかった。その証拠に俺はまだ、あいつが嘘を付いているという可能性も捨てていない。しかし携帯にも同じ名がある。嘘の可能性は低いだろう。妹から商品紹介のメールは来ないだろうしな。
「小町…小町…小町…」
まだ今の俺にとって言い慣れない単語を口の中で転がしていると、後ろからトンと肩を叩かれた。
そこには、起伏豊かな豊穣の地、改め由比ヶ浜。
「ヒッキーなにブツブツ言ってるの?なんか変な人みたいだよ」
「いやまずこのクラスで俺、人扱いされてないから」
「だからってブツブツ言ってたらダメだよ!ますます気持ち悪いって思われちゃうよ!」
あ、否定はしてくれないんですね…。はちまんちょっと悲しい。
「なぁ、由比ヶ浜は、大事なことを忘れるってこと、あるか?」
「え?…うーん。友達が好きだって言ってた歌手の名前が出てこない時とかならときどきあるかも」
「いや、俺は大事なことって聞いたんだが…」
「はぁ〜!?ヒッキー何言ってんの?めっちゃ大事だし!もし自分の言ったことが次話した時全然覚えられてなかったら嫌じゃん!」
「お、おう。そうだな。そんでもうちょい声量をおとそうな。俺、まじ敏感肌だから。視線怖い」
「あっ、ごめん…って怖いってなんだし!ヒッキー生きていけないじゃん!」
「俺の人生気にしてくれるとかお前何者だよ。母性がすでに俺の母親超えてんぞ」
いやでも、悪意を持った視線ってめっちゃ痛いから。もはや弁慶的な意味で立ち往生しちゃうまである。それにしても頼朝の嫉妬深さはすごい。多分女体化したらヤンデレ属性。
「べ、別にヒッキーのこと気にしてるとかそんなんじゃないし…じゃ、じゃあまた後でね!」
なんだかんだ由比ヶ浜も視線が気になるのだろう。パタパタと豪炎の女王の元へ走っていった。