その瞬間、僕を含む四人の動きは静止していた。誰も声を発しない。
……五秒ほども経っただろうか。
その沈黙を破ったのは、魔理沙の鋭い声だった。
「おい、霊夢!」
「……いや……」
しかし、霊夢は微動だにしない。手の上の鉄塊を見つめたまま、眉根をよせて集中しているように見える。
やがて、呟いた。
「……もう、何も感じない。ヤバい気配は一瞬だけ現れて……またすぐに消えた……」
懐から怪しげな文字が書かれた退魔の札を取り出して、「これ、効くのかしら?」などと危なっかしいことを言いながら、物言わぬ小さな鉄塊に貼り付け、握りしめる。そのまま顔を上げると、魔理沙の方を向いた。
「さっきの『声』聴こえた?」
「……ああ、多少聞き取りにくかったが……『いい始まり』だとかなんとか……」
「……そう」
霊夢は頷くと、今度は阿求の方へ向き直る。
「アンタは?」
「いえ……何かしら言っているのは判りましたが、何を言っているのかまでは」
「ふむ」と唸った霊夢が、遂に僕を見据える。
「あなたはどうかしら?」
あの声に、そして刺すような霊夢の視線に戸惑いつつも答える。
「あぁ……はっきりと、こう言った……」
「『いい始まりだね、ジョニィ』と?」
「……そうだ」
彼女らも、程度の差こそあれ「声」を聴いたらしい。特にこの少女、博麗霊夢には一言一句違わず聴こえていた。
いや……いや、それは問題ではない。今最も重要なことは――
【いい始まりだね、ジョニィ】
【ジョニィ……】
「ジョニィ」
アレは……「名前」を言った。誰の名前を呼んだ?
僕たちの間に立ち込める、ただならぬ気配。道行く人々が歩きながらこっちを見ている。ここにいる四人が四人とも目立つ格好をしているが。
彼らの視線を無視して、霊夢がゆっくりと口を開く。
「『ジョニィ』確かにそう聴こえた……これはあなたの『名前』かしら?」
名前。僕の名前が『ジョニィ』?
それは……わからない。
だって、だって僕は何にも覚えちゃいない。聞き覚えのない音で【ジョニィ】と呼ばれた。けれど、それが僕の名前だなんていう保証はない。そもそも「あいつ」は誰だ。小さいくせにガンガン響く気持ちの悪い声で喋って……
「あの、顔色が悪いですよ?」
心配そうな声に顔を上げて見れば、霊夢の代わりに阿求が僕の顔を覗き込んでいた。頭が痛い。ブゥゥンと唸るような耳鳴りと頭痛がしていて、冷たい汗が背中を流れ落ちていくのがわかる。
きっと酷い顔をしているんだろうな、僕は。
再びうつむいて、流れる汗を拭っていると、どこからか霊夢の声が聴こえる。
「……そうね、コレが呼んだのがあなたの名前かどうか、まだわからないものね……まぁいいわ。それより、『コレ』どうするの?あなた、鉄球に用事があるんじゃあなかったの?何か起こらないように私が見張っていれば、鍛冶屋で鋳型にするくらいはできると思うけど」
辛うじて答える。喋るのがつらい。
「……お願いする……鉄球があれば、分かることがある気がするんだ……」
「はいはい。お代はもちろん……阿求?」
「私が出しますからね、霊夢さん」
「霊夢、それちょっと見せてくれよ……」
……なんだろう。皆の声が遠くに聴こえる。皆近くにいるはずなのに、手を伸ばしても届かない気がする。
あぁ、やっぱり何かがおかしい。背を丸めて、肘掛けを掴む。
気持ちが悪い……
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ずっと黙ってるけど、大丈夫?」そう訊こうとして振り向いた霊夢は、項垂れている車椅子の青年の頭上に奇妙な物体を見いだした。
薄い桃色をした、何かの動物の赤子のようなシルエット――さては妖怪か、もしくは先程の怪異が姿を現したか、と一瞬身構えたが、すぐに警戒を解いた。ふんわりとした光を纏っているように見えた「それ」からは、少しの害意も感じ取れなかったから。
「それ」は小さなヒレで己の頭を押さえていた。そして苦しそうに二度三度身をくねらせた後……青年の体内に溶け込むように消えていった。
後ろで「声」の正体について話している魔理沙と阿求は、彼の頭上にいたモノを見ていなかったらしい。「特殊な力を持っているって、アレのことかしら」と霊夢は考える。見たところ妖精か何かが憑いているように見えたが。
魔理沙の話では、一昨日、一瞬だけ姿を現した紫が「彼を連れてきたのは私」というような事を言っていたとか。それが本当だとして、紫がこの人を連れてきた理由は?連れてきておいて放り出している辺りにもなにかしら裏は有りそうだし、里に現れた妖怪虫の件もひっくるめて、あのスキマ妖怪には問い詰めてみる必要がある……霊夢は心に留めておくことにした。
◆◇◆◇◆◇
それからの事を、僕はよく覚えていない。
気がついたら、阿求の家の部屋で寝かされていた。そのうちやってきた阿求に「鉄球の件、どうなった?」と訊いてみれば、「二、三日で仕上がるそうですよ」とのことだった。
待つ分には構わない……けど、できるだけ早く手に入れたい。まだそれで何か思い出せると決まったわけではないが、だ。なぜなら「あの声」、あれは危険なもので……思い出せなくて苦しんでいるとき、僕にまとわりつく不快感にそっくりだ……生理的に受け付けないというのもある。
対して、鉄球の思い出は、そういう危険から身を守ってくれるように思う。「回転は無限の力」そして「回転する鉄球」。きっとこの二つには深い繋がりがあるに違いない。
……どこかで会ったことがあるのだろうか。あの声の主に。さっき、あの声を聞いたとき、僕は「あまりにも遠い」と思ったが、それは本能的なものであって、もしかすると無くした記憶の片隅には「アイツ」に関する記録もあったのかもしれない。
「まぁ何にせよ、今日は休んで下さい」阿求は言う。
「アレが何なのか私にも分かりかねますが、危険な存在であれば、そこからは霊夢さんたちの仕事です。彼女らがなんとかしてくれますよ」
そう……霊夢が強いのは、彼女が纏っている雰囲気というか「凄み」で理解できる。やるときは徹底的にやる、そういう人間の目だった。
でも、彼女たち「だけ」に任せておいて良いものだろうか?
「アレ」が僕の敵だとしたら……それと戦うのは……僕の領域なのではないか?
これも口に出してみようとしたが、どうせ「怪我人はもうちょっと落ち着いてなさい」とたしなめられるのが目に見えていたので、やめておく。代わりに目を閉じて、別の事を考える。
……僕は自分の意思でここに来た。ここには親切な人たちと……敵がいる。僕の過去に絡まっているかもしれない、正体不明の敵が。あれはどうやって生まれて、どうやってここに来たのだろう。
そういえば、僕も自分の脚でここに辿り着いた訳ではない。真っ暗闇の中を漂っていた抜け殻の僕を、この幻想郷まで引き摺って連れてきた人がいる。
どんな人なのだろう。人では無いかもしれないが。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
八雲紫は疲れていた。
ここは八雲家の書斎。時刻は午後の3時すぎ。いつもならティータイムとしゃれこみたいところだが、問題を抱えた状況はそれを許してくれない。
彼女が抱えている問題、それはやはりと言うべきか、例の「二つのものを融合させる事象」についてであったが、ここで別の問題が浮上していた。
(死体プラス虫……あれだけの数のものが誕生したとなると、元々の「素材」は相当の量になるはず……なのに、竹林中をくまなく探しても、そんなものはどこにも無かった)
一昨日の夜から今日の朝にかけて、紫は式神の藍を使って、共に迷いの竹林一帯を調査していた。
結果、見つかったのは小さな妖怪蜘蛛が数匹と、あの合成虫の特徴に合致する骸骨が、ただの一体分だけ。稗田家を襲った虫の数は少なく見積もっても千を下らず、これではまったく計算が合わない。
(これは……認めざるを得ないかしらね)
「もう一つの現象」が働いている。「融合」とは違う、もう一つの現象が。どうやってかはまるで分からないが、それが虫を「増やした」のだ。
しかし、融合の事象も、増殖の事象も、あれだけ探し回ったにも関わらず尻尾すら掴めない。境界に干渉する八雲紫の能力をもってしても、手掛かりは何一つ探し出せなかった。竹林では、藍がまだ調査を続けているが……
(まだ事は何も起こっていない……でも、放置していればいずれは幻想郷を飲み込むかもしれない)
半ば自分が招いた事態。何としても、かの「侵入者」を探し出し、排除しなくてはならない。そのためには、一人の力では限界が有るかもしれない。書き物机に頬杖をついて、紫はため息をついた。
(そうね……天狗衆に頼るのは癪だし――地底の連中も避けたいけれど、場合によっては考えておく必要があるかしら。霊夢あたりに話すのは当然として)
紫が頭の中でリストを作り上げていると、背後のドアから物音がした。振り返ると、見慣れた九尾の狐の姿がそこにあった。
「あら?早かったじゃない。ってことは、何かしら手掛かりを見つけたということかしら……?」
「…………」
返答はなかった。見れば、妖狐は戸口にぼうっと突っ立ったまま、ニコニコと呆けたように笑っている。その姿からは、普段の「八雲藍」から発せられる気配や雰囲気というものが欠落しており、ただただ――
「貴方は――」
紫が「藍の姿をしたなにか」を睨み付けると、「なにか」はヘラヘラと笑うのを止め、少し不思議そうな顔をしたかと思うと、その表情のまま、紫の身体に手を伸ばそうとした――紫は呟く。
「『飛光虫ネスト』……いいわ、切断するくらいの勢いで」
その瞬間、紫の背後の壁がぱっくりと白い口を開き、その内側から鋭い光の線が射出された。
飛び出したそれは、伸ばされた「なにか」の腕をすっぱりと切断し、そのまま消えた。
一拍置いて、重い音と共に、床に腕だったものが転がる。
「許可もなく他人の身体に触れるのは……『失礼』に価する行為ねぇ……それにその面。私の大事なお気に入りの姿を勝手に拝借するとは、いい度胸じゃない」
紫は机に座ったままで、目前の姿を再度確認する。
右腕を切り落とされた「なにか」は、床に落ちた自分の腕を見つめて、泣きそうな顔をしていた。まるでぐずった子供のような表情が、紫の精神を余計に苛立たせる。
境界の賢者が顎で標的を指し示すと、部屋中の壁という壁、空間という空間に口が開き、「なにか」を包囲した。
「……本当に不愉快な奴。お前が今回の件と関係があるかどうかは知らないけれど、取り敢えず――」
死んでおきなさい。
その言葉と同時に、無数の光弾が部屋の中央に殺到した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「はぁ……全く面倒なことね」
自分のほかに何者も居なくなった書斎を見渡して、紫は何度目ともつかぬため息を漏らす。南側の窓からカーテン越しに、やや傾きかけた白っぽい太陽が部屋を気だるげに照らしている。
ふと、床に敷かれた豪奢な舶来品の絨毯に目が止まった。何かが落ちている。紫は億劫そうに机から立ち上がり、それをつまみ上げる。しばらくそれを見つめた後、紫は声を発した。
「橙。橙は居るかしら?」
ややあって、書斎の扉の前に小さなつむじ風が渦を巻き、その中から小さな影が姿を見せる。幼い少女の形に、茶色い猫の耳、二つに裂けた茶色い尻尾の先は白。
「おわぁ?……突然呼び出されてびっくりしました。何でしょう?」
「『居るかしら』と言っておいて強制的に呼び出すのも変な話だけど、許して頂戴……で、要件の方だけど、藍を呼んで来てくれる?ちょうど今、竹林の庵の近くにいると思うから」
承りましたー、と元気よく返事をして部屋を出ていこうとした橙だったが、何か会話に引っ掛かる所が有ったらしく、すんでの所で踏みとどまった。
「あれ、しかし、藍さまを喚ぶだけなら、別にわたしが行かなくてもいいのでは?」
「強引に召喚することも出来るけどね……貴女が行ってあげたほうが絶対喜ぶから」
橙が照れたように頬を掻いた。紫は小さく微笑み、指令を続ける。
「あの子も疲れているでしょうし、移動手段は私が手配する。転移のためのスキマを繋げてあげるから、そこからお行きなさいな」
そう言って、指で虚空に直線を描く。描かれた線は切り開かれ、ぱっくりと口を開いた。向こう側には、微かに竹林らしい景色が見える。本来藍が居るであろう位置から少々離れているのは、「式神二人だけの時間」を少しでも造ってやろうという、紫の要らない配慮かもしれない。
「やれやれ。藍が『なついてくれない』とか言ってたのが嘘みたいね」
猫又が狭間の通路に姿を消してしまうと、紫は可笑しそうに笑った。まあ何分気紛れな猫の事だから、常時藍に甘えている筈もない。たまにドライな態度を取るのだろうと思った。
「さてさて……この『毛』は」
ひとしきり笑いが収まると、紫は握っていた手を開き、その掌の上にある物を見た。
黄金色の、滑らかで絹のような毛。それは、八雲藍の身体から抜け落ちたものに違いなかった。
先ほど、「なにか」は光弾を全身に受けて文字通り「消滅した」。紫がそうしたのではない。床に落ちた腕ごと、「消えてしまった」のだ。遺されたのは、オリジナルの八雲藍のものに相違ない、この金色の体毛。
(これが本体かしらね。毛を依代にした変化の術……にしては行動があまりにもお粗末だったけれど、まだ術者に十分な力がないという事かしら?……いや、私の家にすんなり入ってくる時点で、それなりの力があると考えるべき、か)
掌にふぅ、と息を吹きかけると、美しい柔毛はふわりと飛び立ち、天井まで舞い上がった。
(いずれにせよ、早いところ見つけ出して潰さなければねぇ……霊夢もそろそろ私に突っ掛かって来そうだし)
陽光を浴びてプリズムのように光を反射する九尾の柔毛を見つめつつ、これから取るべき行動について思案する妖怪の賢者であった。
タイトルは日本のロックバンド「MAN WITH A MISSION」が2016年に発表したアルバム「World's on fire」の楽曲名より。
(昔はここにポエムが書いてあったらしいぞ。証拠は隠滅された!)