♯?? 負と正のはざまで
【∞】
あぁ、あぁ。
もう、全てを無くしてしまった。
大切な人への『赦し』を。
安息の中に捧げた『祈り』を。
何物にも代えられない『幸せ』を。
自分自身の足で踏みしめてきた『足跡』を。
他ならぬ自分自身の手で、力で拾い上げてきたモノを、全て…………自分の手で。
最高も、最低も。
正義も、悪も、はっきりとした感覚を無くしていく。
夜のとばりよりも、もっと暗い場所。
そこでは時間が少しずつ確実に、身体から何かを奪っていく。
奪われたのはきっと、今まで自分の血となり、骨となり、肉となって生命を支えてきた
もう、あの時の事を覚えていない。なぜ、そこへ向かったのか。
もう、いつの事か、思い出せない。なぜ、自分は決意したのか。
もう、自分が何を為したのかが分からない。確かにあったスタートとゴールは、いつの間にか無くなった。
…………もう、あなたの名前さえ思い出せない。彼女の名前も、彼の名前も、アイツも、あの人も、あの子も…………どこかへ飛んでいってしまったのかも知れない。どこか、越えられない壁の向こうへ…………
…………うぅ…………
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
【―】
最後の一つがはらりと剥がれ落ちる。
あと何が残っている?もしかすると最後ではないかもしれない。だがその保証もない。既に何億年も前に無くしたのかも?ここでは時間さえ真っ黒だ。子どもが黒炭を使って塗りつぶした壁の落書きのように真っ黒で、しかもその落書きには終わりがない。だから、自分が眠っているのか目覚めているのかも分からない。分かりたくもない。
このまま『眠り』だと割りきって楽になってしまいたい。
その時だった。
何かが、誰かが腕を引っ張っている。
無理やりにではなく、むしろ優しく導くように引っ張っている。
自分が持つ肌は既に温度も何も感じることは出来ない、けれど暖かい手が、自分の身体を掴んでいる。
でも、「もう放っておいてくれ」
こんな死体もどきをどうする気だ?
手は、『誰か』は答えない。ただただどこかへ引っ張っていく。
『奥へ』進むにつれ、だんだん感覚が強くなってくる。
苦しい。痛い。身体を裂かれるようにそれらを感じた。
永遠に限りなく近いとも思える闇の真っ只中、痛みを取り戻す。
さらに奥へ導かれていく。
自分の名前は――――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
やや季節外れの雪が、冬の終わりを遅らせている。
ドアに下がる鈴がちりんと鳴り、一人の少女が店のなかに入ってくる。華奢な体つきに血色の良いとは言えない顔、そこに少しだけ、微熱に浮かされたような色が頬に浮かぶ。整った顔立ちに儚い美しさが内在していた。
「小鈴、来たわよ」
カウンターのレジの前で古めかしい本のページを繰っていた少女が声に気づき、顔を上げる。オレンジがかった飴色の髪の下にある顔は可憐で、そして見る者に健康そうな印象を与えている。
「お、阿求じゃん。ちょっと待ってね……ま、その辺座っててよ、今お茶出すから」
「それ、接客用の口上にしてみたら?」
「いいえ、一部のお得意様だけのための特別製よ」
世界の東のほうのどこかにある幻想郷の人里、そこにある『鈴奈庵』。人のいい店主夫婦と、その愛娘である本居小鈴が切り盛りしている平凡な貸本屋である。少なくとも少し前まではそうだった。
小鈴がコレクトしている、大きな力を持つ妖怪が書いた本『妖魔本』。小鈴は常人には読むことの叶わないそれを読める能力を持っているのだ。そして妖魔本にまつわる出来事や、彼女の好奇心が招いた幾つかの事件が、この貸本屋を特別なモノにしている。それは時に迷惑を、そして最後には人やあやかしとの繋がりを小鈴にもたらしていった。
阿求と呼ばれた華奢な少女は、カウンターの側に置かれた椅子に腰を下ろし、奥へ引っ込む店番の後ろ姿を見送った。ある重大な責務を負わされている彼女、稗田阿求にとって、小鈴は数少ない『気のおけない仲』の人物である。
一分も経たない内に、湯気の立つ湯飲みと急須を盆に乗せて店の奥から出てくる小鈴。客は阿求一人だというのに、その盆の上には湯飲みが3つある。それを見つけた阿求は尋ねる。
「……もう一人。誰が来るの?」
聞かれて小鈴はあぁ、と言う。
「昨日、霊夢さんが来るって言ってたから。10時くらいにね」
小鈴が壁掛け時計を見上げるのにならい、阿求も同じ方を見る。
短針はほとんど「10」を、長針は「11」の目盛りを指している。
「あと五分くらい?」
「うん、そう。阿求は構わないよね?」
「むしろ歓迎よ」
「そりゃ、そうよねぇ」
件の人物、博麗霊夢は言わずと知れた博麗の巫女で異変解決屋(この呼び名は適切ではないが、事実である)。そして小鈴と阿求の友人の一人でもある。こざっぱりした性格とビジュアルと圧倒的な強さが、かの巫女の特徴。人間、さらになぜか妖怪からも集める人望は厚い。
皆の「こうありたい」という願望が脇に穴の開いた巫女服を着ているような存在だ。その博麗霊夢がもうすぐここに来る。もう何度も会っているはずなのに、茶を飲みながら彼女を待つ二人の心は浮き足立っていた。
カチリ、かちりと秒針が時間を刻む。分針は60秒に刻まれる。
9時58分のことだった。
「小鈴、居るか!」
ズバァァン!とドアを吹き飛ばさんばかりの勢いで、何者かが戸を開けた。あきらかに霊夢ではない。
その登場に面食らった二人であったが、数瞬のちには、目の前に息を切らせて立ち尽くす白黒の魔法使いの姿を見いだした。
「ま、魔理沙さん?どうしたんですか、そんなに……」
「どうしたもこうしたもないんだっ!」
この魔法使いは目に見えて焦っているが、普段はひょうひょうとして掴みどころのない人となりをしている。しかし時たまに、こうして周りが見えなくなるほど感情を激しく表に出す。それは例えば……
「ま、また妖怪が人里に侵入を?」
妖怪退治がらみか、と予想する阿求。しかし、
「お、阿求もいたのか!いや、妖怪じゃない、人が……!」
「人……?」
「そう、だ!人が畑に……!」
「魔理沙、ちったあ落ち着きなさい」
ぺしん。
ぜえぜえいいながら話そうとする魔理沙の頭を、その背後から突き出されたお祓い棒が叩いた。「うぁ!?」とすっとんきょうな声をあげて頭を押さえる魔理沙。その後ろに立つ影を見て小鈴が思わず声を上げる。
「あ、霊夢さん!」
時に10時ちょうど。戸口に姿を現した博麗霊夢はそのまま魔理沙に歩みより、小さく声をかける。
「落ち着いた?」
「あぁ、でも!」
「……確かにアレはやばそうだけどね。『助かるか』は私たちが騒いでもどうにかなるもんじゃないでしょう」
霊夢と魔理沙の会話は不透明だったが、不穏さを孕んでいた。阿求はおっかなびっくり、霊夢に尋ねる。
「あの、さっきからお二人とも何の話を……?」
霊夢は一旦阿求たちから目を反らし、鈴奈庵の天井を見つめた。
数秒後、その口が開く。
「里の東の外れにある畑にね、結構な大きさの『窪み』が突然できてね」
この時、ここにいる誰もが知らなかった。
「窪みの底から人間が出てきたのよ。しかも頭に風穴が空いてる……それでも」
これが何かの『異変』の予兆であることを。
「そいつは『生きてる』のよ。何故だかは分かんないけどね……とにかく、もう竹林の医者は呼んであるわ。人里の医者じゃあ手に負えないみたい……人里の連中はあらかた現場に集まってる……あんたたちも行きなさい。なにか大事になりそうな気がするのよ」
窪みから出てきた者が『どこへ向かうのか』のかを。