再生と追憶の幻想郷   作:錫箱

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#18 サブタレイニアン・サン

 

 

 

 そよぐ風の動きに反して、ご自慢のヒゲがぴくりと動いた。

 

 

 (……ん?)

 

 

 鼻を利かせれば、僅かに硫黄の匂いの漂う風。流れに乗って、どこからか雪が運ばれてくる。

 旧地獄。

 地獄の財政難に伴い、切り捨てられた地獄の一画。そして今は、忘れ去られた妖怪達の安息の地。地上の何処にも住めない彼らが街を造り、泥のような過去を喧嘩と酒精で必死に洗い流そうと試み続ける、どこか虚ろな場所。それが旧都。

 

 街の郊外に、厳めしい造りの洋館が建っている。それほど古くもないが、別に新しくもない。館の正面に輝くステンドグラスが、荘厳な雰囲気を醸し出している……同時に、少々の陰気さも。

 

 広い前庭に、犬や猫、兎に鶏、果てはワニや虎といった様々な動物が佇んでいる。どの獣も落ち着いた雰囲気で、吠え猛る者も居なければ、走り回る輩もない。一般に家畜や愛玩動物と呼ばれる動物も、強靭な肉体を誇る猛獣も、ここでは皆一様に安らいだ空気を楽しんでいるように見える。

 

 多種多様な動物たちの中、最も館の正面扉に近い場所で毛繕いをしていた黒い猫が、ふいに顔を上げ、茶色の煉瓦で積まれた建物を見上げた。

 

 

 (お?なんか今……)

 

 

 黒猫はすっと立ち上がると、半開きになっている巨大なドアの隙間に身を滑らせ、館の中へ足を踏み入れた。昼間だというのに玄関ホールは薄暗く、肌寒い。

 猫の名前は火焔猫燐。その名が示すとおり、妖怪「火車」である。普段は灼熱地獄跡で、炉の燃料となる死体を何処かから拾い集めては、動力源に投げ込んでいる。もはや使われなくなった灼熱の責め苦。それでも彼女は炉に火を絶やさない。それが責務であり、ライフワークなのだから。

 

 

 (あれは……さとり様のお部屋だっただろうか?誰かの気配が……)

 

 

 吹き抜けのホールの一番下から天井を眺めながら、燐は黙考する。

 さっき、館の窓の一つから、微妙におかしな空気を感じた。彼女の主人……この館、「地霊殿」の主である古明地さとりの部屋の窓であった。感知したのは、何かしら異質なモノが現れたような気配……

 

 

 (んー、気が進まないが、様子だけでも探ってみるかね)

 

 

 黒猫お燐は首をぷるぷる振ると、さとりの部屋の前の廊下へと続く階段を登り始めた。

 

 実を言うと、燐は主人さとりが苦手である。さとりが持つ、妖怪としての力……「読心」の能力が、燐とさとりの間に微妙な間隙を生じさせていた。

 当然のことながら、「心を読まれる」というのは、知性ある人間や妖怪にとっては非常に不愉快なものだ。さとりの目の前に立ってしまえば、もはや一切の隠し事や打算、嘘は通用しない。知られたくない内面までも、さとりが少し興味を持った瞬間、丸裸にされてしまう。

 物言わぬ動物達は、自分たちの「したいこと」「してもらいたいこと」を完璧に理解してくれるさとりを主人として愛している。だが、燐ほどの知性とコミュニケーション能力を備えた妖怪にとっては、その能力は嫌われるべきものだった。

 

 

 (でも、親愛とか信頼には応えないとね)

 

 

 これでも、昔に比べれば距離は縮まったのだ。燐の友人、霊烏路空が起こそうとした異変……それを境に、さとりはペットたちに対する新しい接し方を探っているように見える。彼女とて、燐や空に好かれたい気持ちはあるのだろう。 心を読まれるのが嫌なのは変わらないが、主人のそういった姿勢を見て、燐も考え方を変えざるをえない。以前は「用が無いとき以外顔を合わせない」ようにしていた燐だったが、今ではちょいちょい自分から世話を焼くようにしている。今もそう。

 

 さとりの書斎に近づくにつれて、燐は先ほど感じた気配が濃くなっていくのを感じた……というよりは、あからさまに書斎から話し声がする。

 

 

 (隠す気ないなら、正面玄関から入ってくれば良いのにねぇ……お客人)

 

 

 鋭敏な感覚を持つ動物達に気づかれずに、さとりの書斎まで侵入する……このような真似ができる者は限られている。燐にも大体の検討はついていた。あの異変のとき、紅白巫女の陰陽玉(オプション)から聞こえてきた声が、書斎から聞こえてくるものによく似ていた。

 廊下の中程で足を止め、声に耳を澄ませる。部屋の前まで行けばさとりに感づかれる。余計かもしれない配慮をするお燐であった。

 

 

 (立ち聞きがバレるのもバツが悪いしねぇ……どれどれ?)

 

 

 壁に身を寄せて、ごろりと横になる。こうすれば、声の振動を最大限まで感知できる。

 まず聞こえてきたのは、件のスキマ妖怪の声。

 

 

 「難しいことは言わないわ。身辺に気をつけて、なるべく隙を見せないこと。ヤツらが持つ最も厄介な術式は『複製』よ。こっそりと身体の一部を抜き取って――髪の毛とかね――それを依代にしている可能性が高いわ。そして、万が一複製らしいモノを見つけたら、速攻で潰して頂戴な。放置すると何が起こるか分からないから」

 「……ふむ。私たちの身を守るためにも、それは良しとしましょう。しかし、地上のことまでは干渉出来ませんねぇ……私たちは、受けた悪意を忘れていない、忘れられないのだから」

 「そんなに睨まないで下さいな……貴女と私が完全に和解したとして、すぐさま地上の民草と旧都の妖が手を取り合って仲良く……なんて都合よく行かないのは分かっているでしょうに」

 「半分は愚痴。気にしないで下さい」

 

 

 おや、と燐は思う。どうもさとりは読心を使っていないようだ。あるいはスキマが何らかの仕掛けを自らに施し、さとりの能力を受けないようにしているのか。

 それにしても、なかなか重要な事のようだ。

 

 

 「さてと……貴女の可愛いペット達にも、私から話しておいたほうが良いかしら?烏はともかく、あの猫は物分かりが良いようだから、助力があると嬉しいわ」

 

 

 一拍置いて、さとりが小さく呟くのが聞こえた。

 

 

 「いいえ。私が直接伝えます。空にも伝えておいた方が良いでしょう」

 「愛されてるわねぇ、あの子たちも……ま、そこら辺はお任せいたしますわ。それにしてもあの核融合烏ときたら、これだけ大事にされてることにまだ気づかないのかしら?」

 「……愛されたいなどと、分不相応なことは望みません。私はただ……」

 

 

 声が低まり、そこから先は燐の耳でも聞き取れなかった。

 再びさとりが口を開いたのは、優に二十秒は経ってからだった。

 

 

 「私としたことが、妙な事を口走ってしまいましたね……お茶、冷めますよ?」

 「ん?そうね、折角なので頂きますわ……あら。いい味出してるじゃない」

 「紅茶の淹れ方くらいは知っておいて損はないかと思って。あぁ、それにその茶葉は吸血鬼の館のものよ」

 「へぇ、驚いた。妙な所とコネがあるのねぇ」

 「妹が持って帰って来たの。『貰ったー』とか言ってたけど、本当かしら」

 「相変わらず好き勝手やってるわねぇ、アレも……ん、ご馳走さま」

 

 

 椅子をずらし、立ち上がる音がした。

 

 

 「では、諸々宜しくお願いしますわ。失敬……」

 

 

 その言葉を最後に、部屋は静まり返ったようだった。

 後に残ったのは、主人(さとり)の大きなため息と――

 

 

 「……お燐ですね?出ていらっしゃい」

 

 

 それに混じった、看破の一言だった。

 うげ、と内心驚く燐。さとりの能力の有効射程は見切っていたつもりだったが……かくなる上は仕方がない。さっさと姿を見せる事に決め、人型へと姿を変えた。廊下を少し歩き、部屋のドアを開ける。地霊殿の主は、重々しい古風な机に肘を突いて、こちらを見据えていた。

 

 

 「妙な気配がしたもので……申し訳ありませんでした」

 

 

 さとりの身体にまとわりついているであろう、触手のような第三の目(サードアイ)の視線を避けるように、燐は頭を下げた。「あぁ、心配掛けましたね」と、頭上から聞こえる声。

 

 

 「そう……聞いていたかもしれませんが、お空を呼んできてくれる?そろそろ地下センターでの勤務が終わるころだと思いますからね」

 「はあ、すぐに……何か重要なことで?」

 「うぅん、どうかしらね。客人の話では、緊急性はないとのことだったけれど……にしては少々憔悴が見られたわ。アイツ、意識と無意識の境界でも弄ってるのかしら?上手く心が読めないのよね」

 

 

 燐は少し顔を上げた。今日に限って、さとりとの間に会話が成立していることに違和感を覚えたのだ。普段は此方の言いたいことを全て先取りしてしまうというのに。

 見ると、さとりの二つの眼は窓の外をぼんやりと眺め、もうひとつのサードアイもそれに追従してあらぬ方角を向いていた。心ここにあらず、といった感じなのか、それとも意識的に読心を使っていないのか。おそらくその両方だろう、と燐は考えたが、口に出すことはしない。

 

 代わりに「はあ」ともう一度芸の無い返事をして一礼し、部屋を出る。

 長い廊下を歩き、階段を降りながら考える。

 

 

 (なんだか知らないけど、色々抱え込んでるみたいだねぇ……あのお方は)

 

 

 それが何に関するものなのか、どれくらい重いのかは、燐には分からない。代わりに背負えるものなら、そうするかもしれない。しかし、それは無理な相談というものだった。この地底で一番臆病で、物分かりの良すぎる者の心に、その重石は沈んでいるのだから。

 

 さしあたって今、火焔猫燐に出来ることは、主の命令を忠実に遂行する事だけであった。

 それが果たして、主の負担を減らす唯一の手段であるのかどうか、彼女自身答えを見つける気もない。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 間欠泉地下センター……山の神が暗躍し、河童が地熱に汗を流して造り上げた、「核融合」エネルギーの実験施設である。最上層は妖怪の山に、最下層は地底に、それぞれ出入り口があり、最下層の出入り口はそのまま核融合炉に通じている。

 現世でさえ、人間の手に余るほどのエネルギー……核融合は太陽の火そのものだ。それを操るからには、術者には神の力、もしくはそれ同然の能力(もしくは科学の力)が要求される。そして、幻想郷に科学の力が入り込む余地は少ない。

河童とて、自力で核融合という現象を発生させている訳ではないのだ。

 

 では、如何にして水素は融合を果たすのか。

 その答えが今、燐の前方百メートルほどの場所で手を振っている。

 

 

 「あ!お燐じゃない!なんか久しぶりだ!」

 

 大人になりかけ、といった体の少女である。

 女性としては長身の部類に入る、すらりとした手足。

 出るところは出ている。

 それを白いブラウスと暗緑色のスカートに包み、やや赤みがかった黒の長髪を、スカートと同じ色のリボンで括っている。

 出るところは出ている。

 無邪気さを丸出しにした笑顔は、それが彼女の「素」だから。

 出るところは出ている。

 

 つまりスタイルがいい。燐の密かなコンプレックスなのかもしれない。

 

 胸元に輝く、紅玉の眼。八咫烏の目。日の遣いの象徴。

 その力を身に宿す彼女こそが、この炉にて核融合を起こしている張本人。

 

 霊烏路(れいうじ)(うつほ)は、核融合炉に通じる入り口の前に立っていた。

 どうやら仕事帰りらしい彼女に、燐は叫びを返す。

 

 

 「お空ー?最近どうさ、ちゃんと食べてるかい?」

 「もちろん!今日のお昼は……」

 

 

 そう叫んだところで、空は背中の白いマントを翻した。翻った布地に煌めく星々は、それがただの布でないことを示している(かといって、何の為にそれが宇宙を模しているのかは定かではない)。その下から出てきたのは、彼女の身の丈を優に越えるほどの、巨大な黒い翼だった。

 地面を蹴り、翼を一つ羽ばたかせただけで、燐との距離を数十メートルは詰めている。瞬く間に、空は燐の目の前に降り立っていた。

 

 

 「……っと。猪の焼き肉だったよ!」

 「わりとしっかり食べてるんだねぇ……ま、お前さんは産業革命とやらの要だからね、待遇も良いだろうさ」

 「伊達に神様の力じゃないからね。ご飯にも畏怖(妖怪の原動力)にも困らないよ」

 「はは……天照大御神が聞いたら、なんて言うか」

 

 

 そのまま、近況報告をし合う二人。久しぶりと言っても、この二人が最後に会ってからは一週間ほどしか経っていない。それでも話に花が咲いているあたり、二人の相性がいいことを伺わせている。かつては頻繁に顔を合わせていたのだが、空が核融合炉で働くようになってからは、その機会が減っていた。

 しばらく他愛ない話に興じていた空だったが、突然「あっ」と、何かを思い出したように、燐に問い掛けた。

 

 

 「そういや、なんでわざわざ迎えに来てくれたの?酒屋でも行くの?」

 

 

 燐は頭の後ろに手を回して、天を仰いだ。

 

 

 「あー……いや、ね……さとり様が呼んでるんだ。大事なお話が有るってさ」

 

 

 空の肩に少し力が入ったのを、燐は見たくもないのに見てしまった。

 少し沈んだ声で。

 

 

 「ん……どうしても、行かなきゃ駄目かなぁ」

 「結構重要な話らしいね……それに、たまには顔見せないと」

 「うん……」

 

 

 空がさとりを避けること、以前の燐より激しい。今は神の力の代理人とはいえ、元はしがない鳥頭。空の精神世界は燐より単純な思考で構成されている。がゆえに、燐のようにさとりとの関係を「主従」と割り切ってしまうことが出来ていない。

 空は「んー」と伸びをして、もう一度翼を広げた。

 

 

 「じゃあ、行くかな。お燐、掴まる?」

 「いや、並んで飛ぼうかな。あたいだって飛べるっちゃ飛べるし。お空よか速くないけど」

 「だよね。じゃ、さっさと行こうか」

 

 

 嫌なことは手早く片付けてしまいたい、とばかりに急いで飛び立つ空。ため息一つついて、地獄烏のその背中を猫が追い掛ける。

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 急いで地霊殿に舞い戻った二人がさとりの部屋に足を踏み入れると、真正面の机に向かって本を読んでいるさとりがそこにいた。

 

 

 「お帰りなさい、お燐。そして久しぶりね、お空」

 

 

 読みかけの本に栞を挟んで、優しげに声を掛けるさとり。空はそれに答えようとして失敗し、何やら口の中でもごもごと呟いただけで終わっている。さとりはちらりと空を見やったが、すぐに視線を戻した。

 

 

 「さて、用件と言っても大したことではないけれど、一応貴方たちには話しておこうと思ってね。直接ここに来てもらいました。先ほど、地上の妖怪の賢者が、私の元を訪れた件についてです」

 「八雲紫……ですね?」

 

 

 一応、という風に燐が確認する。「そうね」と答えるさとり。

 

 

 「なんでも、地上の博麗大結界――幻想郷をすっぽりと幻にしてしまっている、強力な守護結界ですね――それをすり抜けて、彷徨き廻っている者がいるそうです。今のところ被害と言えるような被害は出ていないそうですが、あの八雲の力をもってしても、所在すら掴めないとか。賢者曰く、『放っておくと何を仕出かすか分からないような輩』だそうで、大事になる前に潰そうと、こちらにも協力を要請してきた次第です」

 

 

 聞いているうちに、燐の頭の中に疑問が浮かんできたが、さとりがなぜか反応しないので(普段はこの程度、口に出す前に読まれてしまうのだが)、問いかけることにした。空は黙っている。

 

 

 「でも、それは地上の問題でしょう?わざわざさとり様が動かれる必要は……」

 「ある。らしいのよね……本当に『何処に居るか分からない』ので、もしかすると地底に侵入しているかもしれない、ということです。しかも其奴は変化だの分身だのといった妖術を使う、と。偽物を作り出す術も持っているらしく、紛れ込まれれば我々にも火の粉が降りかかる恐れは十分にあります」

 

 

 さとりは続ける。

 

 

 「相手がどんな姿をしているかさえ分からない以上、対策は無い……出来ることと言えば、今まで以上に身辺に気を付けることとか、挙動の怪しい者には十分警戒することくらいかしら。偽物は見た目こそオリジナルにそっくりだけれど、戦闘能力は皆無に等しく、意味の無い行動を取るとのこと。妙な例えですが、『弱いこいし』がうろうろしているようなものだそうです」

 

 

 その例えに、燐と空は思わず顔を見合わせた。さとりの妹、天真爛漫にして神出鬼没の古明地こいし。誰にも御することができない、空想上の人格を持つ少女。

 いくら力がないといっても、そのようなものが跋扈していては、確かに混乱は免れないだろう。現に、こいしは一人で小さな混乱をばら蒔き続けている。

 

 

 「まぁ、あんなのがそこら中駆け回る光景は見たくないので。それに、油断していると私も、貴方たちの身も危ないと思ったのでね。話しておこうと思った訳です……今すぐにどう、という訳ではないのですが」

 

 

 私自身今一つピンと来ませんが、とさとりは言う。

 

 

 「何かが起こっているのは確かなようです。何しろ、あの八雲がこちらにまで干渉してきたのですから」

 

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 「お空、少し待っていなさい」

 

 

 一通り話が終わり、出ていこうとする空の背中に、さとりの声が投げ掛けられた。

 烏が恐る恐る振り向くと、彼女の主人は、一冊の本のようなものをこちらに差し出していた。

 

 

 「今度帰って来たときに渡そうと思っていたのだけれど」

 「これは……?」

 

 

 見れば、地味な色調の手帳のようなモノであった。表面にも裏面にも、タイトルの一つも見当たらなかった。

 訝しげに冊子を受けとる空を半目で眺めながら、大して面白くもなさそうにさとりは言う。

 

 

 「貴方は忘れっぽいですからね。今度から、私の『お願い』や『命令』は、それに書いて渡すことにしました。肌身離さず持ち運ぶように。必ず、ですよ」

 「…………はい」

 「あぁそれと、当然それは熱に弱いから、間欠泉センターに居るときは何処か別のところに置いておくと良いかもね。もし無くしたら、また別のをあげますから……」

 

 

 空は、主人の声を最後まで聞くことなく、ドアを後ろ手に閉めて部屋を後にした。

 あまりここに居ると、胸が苦しくなる。いつもそうだった。

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 「…………」 

 

 

 結局、燐は空を待たずに帰ってしまったようだった。

 ねぐらへの帰り道をひとり飛びながら、空は少しだけ、心の中で友人に悪態をついた。せめて少しだけ待ってくれれば良かったのに。この場所に、あの人の元に、一人残りたくはなかった。

 手には、あの手帳が握られている。

 翼をゆっくりとはためかせつつ、空はなんとなくそれを開いた。最初の方には暦の表が載っていた。横の方に「警察-110」だの「時報-117」だの、変てこな番号がたくさん印刷されたページもあったが、空にも意味が分からない。その次には空白のページがずっと続き――

 

 

 「あれ?」

 

 

 ページを繰る指が止まった。

 手帳の一番最後のページに、手書きらしい綺麗なペン文字が綴られていた。

 

 

 【朝起きたら、烏の行水でもなんでも構いません、必ず身体を洗い清めること】

 【飲酒は過ぎれば周りに迷惑を掛けます。ほどほどに】

 

 

 「何、これ……」

 

 

 【地下センターには、決まった時間に間に合うように出勤するように】

 【河童にも言われているかも知れませんが、核融合炉への侵入者は『殲滅』ではなく『撃退』です。取り違えないようにしなさい】

 【何か分からないことがあれば、奢らずに周りの者の意見を聞き入れなさい】

 【売られた喧嘩を簡単に買わないこと】

 【週に一度は私に顔を見せに来なさい】

 【お燐は頭が良く回ります。貴方に足りないところを補ってくれるかもしれません】

 

 

 書き連ねられた、優しいお節介の数々。冷徹な表現と筆跡で綴られた労り――

 

 

 「こんなの……馬鹿に……!」

 

 

 堪えきれなくなり、手帳を投げ捨てようとした。

 しかし、振りかぶった腕を降り下ろすことはできず。

 

 

 「……な……世話……だ」

 

 

 小さく呟き、震える指で小さな手帳を握りしめた。

 雪の降りしきる地底の空を少しだけ見上げ、霊烏路空は何かを振りきるように思いっきり加速し、あっという間に誰にも見えなくなった。

 

 

 昼も夜もない地底。彼女こそが、地底の太陽(サブタレイニアン・サン)。本当だとすれば、彼女が眠ったとき、そこが昼と夜との境目になる。しかし、その光は決して強くはない。 

 

 日の届かない暗所で、得体の知れない何かが蠢く。

 

 

 

 

 

 







 また主人公いない。
 
 地底は重要です。もっとも、今作は東方キャラほぼ全員登場の流れですけれど。
 まだ先の話ですが、二章以降、地底を中心にしたストーリーもあります。
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