「ジャイロ・ツェペリ」
僕はどうしていいかわからなかった。
そう、僕はその名前を知っている。そして失っている。彼の風貌を、人格を、生きざまを知っているはずだった。だが、「知っているはずだった」、それ以上のことは何も知らなかった。
押し寄せる波のように駆ける騎手たちの先頭、無人の荒野を行くがごとく、まさに傍若無人に馬を操る姿。僕があの時死に物狂いで手を伸ばした「鉄球の男」、その名は【ジャイロ・ツェペリ】……ああ、ほんの数百メートル先を走っているはずの彼の影があまりにも遠い。僕は悔しくて、情けなくて、今にも泣いてしまいそうだった。
たとえ僕が今すぐにこの列車を転げ落ち、彼の後を追おうとも――血まみれになり、泥濘に身体を埋めても、いくら足掻こうと――追いつくことはできない。僕があの荒野で蹄鉄の痕をなぞっている間に、彼は山脈を越え、河を渡り、砂漠を耐え、雪原を踏破して……
そうして、どこか遠くに行ってしまうだろう。自分の脚で立つこともできない僕を置いて。
項垂れて目を閉じる。
……嫌だ……
「あの男が」
頭上からレミリアの声が聴こえた。
「あの男こそ、貴方の『鍵』に違いない。この状況で三千の騎手の前に躍り出る、どうしようもなく無謀で大胆で傲慢で不敵で勇猛な人間……この埃を被った記憶の中で、彼こそが最も明るく、不透明に見える……そうとも、あれが貴方のゴール、その一つに違いない……さぁ、顔を上げなさい」
視線を上げると、すぐさま紅い眼光に射抜かれた。
「貴方には、あれを見届ける理由があるはずよ」
そう――そうかもしれない。いや、そうだ。何のためにここに来たんだ、僕は……双眼鏡を握りしめ、再び目に押し当てた。溢れそうだった涙はもう、どこにもない。
見ると、先ほどとは少し状況が異なっていた。ジャイロ・ツェペリは完全な独走状態にあるわけではなく、その後ろに食らいつかんとする幾人かの騎手の追撃を受けていた。やはりこの群れ、根っからの競争馬だ……ツェペリの走りに触発されて、全体が苛立っているのが見てとれる。
そして、ツェペリを追う先頭集団の、さらにそのトップを行くのは――
「なんだアイツは……?」
あからさまに攻撃的な走りをする男だ。最初はそう思った。
だがよく見ると、お手本通りのフォームが見ていて非常に気分の良い、優秀な騎手であることが分かった。それに……大した加速を掛けている訳でもないのに、徐々にツェペリとの差を縮めてきている。恐らくは相手の癖を読んだ微妙な加速、凄まじい技術だ。
「ディエゴ・ブランドー。通称D・i・o……
レミリアが何処かから新聞を調達してきて、テーブルの上に広げていた。レースを大々的に取り扱った特集記事らしく、注目選手たちの顔写真と経歴が細かに書かれているようだった。
「凄まじい攻撃性だ。あれは文字通り天才かもしれない」
「貴方がそう言うなら正しいのかな? ……それはさておき、私にはあれが『野望の果てを目指す者』に見える」
彼女は意味ありげにそう言うのだが、正直に言って意味を図りかねた。
もっと分かりやすく言ってくれても良いのに。考えている間に列車の中がどよめく。「Dio」が「ツェペリ」を追い抜いたのだ。すでにレースは三キロメートル地点……列車の行く手には枯れた川が見える。先頭を行くDio、ツェペリはその川に架かる橋を渡ろうとして――――
橋が砕けた。
【橋がッ!? どうしたんだああッ!?】
列車の先頭の方で、実況がメガホンでがなっている。一瞬の出来事だった。一体何が起こった? ……Dio、ツェペリが三馬身差で橋に突っ込んで――そうしたら、橋木が爆発するように跳ね上がり、割れて――その中を恐れず、ツェペリの馬は突っ込んでいった。Dioは立ち往生している。偶然――いや、何をした?
「あっはははは! ……馬鹿だよあの男! 踏み壊させるなんて! こいつは傑作だ」
レミリアは腹を抱えて笑っている。僕はただ、呆然としてジャイロ・ツェペリの背中を遠くに見ていた。
◆◇◆◇◆◇
楽しげなざわめきが満ちる宴会場では、宴の開幕から既に三十分以上が経過していた。未だに登場しないレミリア・スカーレットの話題はそこかしこで飛び交っているが、それらはどこか楽観的な理由の予測であり、むしろ皆、彼女の登場を楽しみにしていた。
彼女は――阿求は、適度に騒がしく、また適度に暖かい人やその他の群れを眺めて過ごしている。
「……あら」
突如、世界が歪んだような気がして、阿求はまばたきをする。何かが傾いているのだが、床が傾いているのか、自分が傾いているのか判別がつかない。自らの細い身体に頼りなさを感じて、そばにあった小さなテーブルに手を突き、体重を半分だけ支えた。目を閉じると、ゆっくりとした速度で意識が回転しているのが分かった。
(うーむ、ちょっと無理し過ぎたかしら)
そう、ともすれば多忙な身は忘れそうになるのだ。この肉と骨の器は、
大きく、深く呼吸をして、目蓋を開ける。まだ不明瞭な視界に、テーブルに預けられた自分の手の甲と、華やかな雑踏が揺らいでいた。
(――ちょっと寒いけれど)
新鮮な空気を吸いたくて、阿求は窓の方を見た。北側の窓の外に、テラスと言うべきがバルコニーと言うべきか、とにかくそれに類する場所がある。
ふと思いついて魔理沙と小鈴の姿を探したが、二人揃って側に居ない。見回して探してみたところ、二人してホールの中央あたりに立っていた。その隣で椅子に座っているのは――あぁ、例の移動しない図書館か、と気づく。眠たそうな顔で魔理沙の話を聴いている。何についての会話をしているのかは不明だが、脇で小鈴が顔に大きく「?」の文字を大書して突っ立っている所をみると、恐らく
回らない頭を意識的に回そうとしながら、阿求はテラスへのガラス戸を押し開けて、ひんやりとした夜の空気の中へ身体を滑り込ませた。
(おぉ、寒……でも、一月前よりは確実に暖かくなって来てるかな)
地上にやや浮いて張り出したテラス。吐いた息は、よく見れなければ気づかないほどわずかに白かった。もう少し時を待てば、そこかしこで木々が芽吹くのを目にすることが出来るだろう。庭の桜が目覚めかけているのを、今朝がた見てきたばかりでもある。今年の冬は長かったが、それも終わりを告げようとしているのかもしれない。
この命が春を数えられるのも、あと何回くらいだろうか。やや熱に浮かされた皮膚を夜気に晒しながら、幾度となく心に浮き沈む問いを繰り返している。「でも、来世がある」……彼女は達観した自分に少しだけ、ほんの少しだけ嫌気が差していた。長くてもあと十数年、短ければ――
背後からの暖かな灯と、冷たい星明かりとに挟まれて、阿求は、今にも自分が空気の中に溶け出してしまいそうな錯覚を押さえ込んでいた。
そのまま、どれくらいそうしていただろうか。
「……どちらさま?」
不意に横合いから投げ掛けられた問い掛けに、阿求は声のする方を見た。
紅いドレスの少女がそこに立っていた。シルエットまでもが血の色だった。
◆◇◆◇◆◇◆
それからも、レースは思いもよらない方向へ二転三転した。
ゴールまで残り六キロメートルというところで、ジャイロ・ツェペリは所定のコースを大きく外れ、常識外の「雑木林越え」を決行した。釣られて何十人かが林に突っ込む。人ですら歩くのに難儀するほど生い茂り、密接に木々が絡み合った林……その中を馬で、しかも全力疾走で抜けようというのだ。これはもう気が狂っているとしか言いようがない――
だが、彼はやってのけた。
無傷で林を突破して、後続集団との差を大きく広げたのだ。見える限り、林越えに成功した者は片手で数えられる程度だ。そしてその中の一人が、ツェペリに肉薄しようとしている――レミリアの新聞にも名前が載っていない、無名の黒人騎手だ。「ポコロコ」とかいう……破天荒というよりやや無謀な走り方だが、不思議と馬はよれずに付いてきていた。
いや、それどころではない。先ほど彼は下り坂を一気に駆け抜けようとして失敗し、確かに『落馬』したのだ。「した」はずなのに――はずなのに、気がつけば、ポコロコは鞍の上に戻っていた。牛の死体がどうとか、解説は叫んでいたが、正直聞きたくもなかった。意味不明だ。それを見て、この小さな吸血鬼は座席から転がり落ちそうなくらい大笑いしている。
このレースは変だ。頭がどうにかなりそうなくらい。
そして――
「ねぇ」
「……ん?」
レミリアが今度はコース外、岩肌あらわな崖を指差していた。
「……上半身裸の褐色男がいるのだけれど」
「……はぁ?」
「見てご覧なさいよ。凄まじい速さでダッシュ中」
言われるがままに見てみると――いた。
インディアン? 先住民族風の男が凄まじい速さで――それこそ、馬と同じくらいの速さで――走っていた。自分の脚で。時速五十キロメートルくらいで。ふざけるな、なんだそれは。
「人間ってあんなに速く走れたかしら?」
「…………いいや」
「そう、そうよね……私の目には、あの男もレースに参加しているように……あ、トップに躍り出たわ。ジャイロ・ツェペリとポコロコを追い抜いて、現在ネィティブ・アメリカンが一位を疾走中……意味わかんない。ファンタジーやメルヘンじゃないのよこれは」
レミリアはなぜか憤慨している。僕は半ば考えることをやめた。
レースは終盤、最後の直線「千五百メートル」に突入しようとしている。
◆◇◆◇◆◇◆
「どちらさま?」
阿求は応えられなかった。目の前に佇む幼い少女のことは知っている。だが、こうしてこれ程までに近くでその姿を目の当たりにしたことはなかった。姉と同様に人の目を釘付けにする美麗さが、阿求の心臓を掴もうとしていた。
「……ん、早く名乗りなさいよ。わたしも名乗れないじゃないの」
そう言われてようやく、金縛りが解けたように阿求は思った。
「……これは失礼…稗田阿求と申します。この度はお招きいただき……」
「へー、貴女が稗田阿求か。歴史編纂だっけ? 仕事……あぁ、いいのよ、そんな挨拶。わたしのパーティーじゃないんだから」
妖艶に微笑して、少女は名乗った。
「フランドール・スカーレット。以後よろしく」
阿求は知るよしもないことだったが、その物言いは姉のモノよりずっと砕けていた。当主ではなく次女という立場上、姉よりはプライドが低く、腰も軽いのかもしれない、と思う。
それにしてもフランドール・スカーレット、一度見たら忘れられないほどの鮮烈な容貌をしている。阿求は素早く観察した。白磁の肌、金無垢の撚糸もかくやというほどの見事な金髪のサイドテール、鷹の目、華奢な少女の輪郭、それらを包む前時代的な赤いドレスに白いフリル。一通り頭に仕舞い込んだところで、
「で、稗田の阿求さんはこんなところで何をしていらっしゃるのかしら?」
「えぇと、少々夜風に当たってみたくなりまして……」
微妙にごまかした阿求だったが、眼前の相手は知ってか知らずか、大して気にとめていないようだった。鳥類の骨格を思わせる翼が「ギシ……」と呻き、虹色に煌めいた。
「そう? まぁいいけれど……それにしても、いい夜ね……」
フランドールはくるりと踵を返し、二、三歩歩いて、テラスの欄干に身体を委ねていた。
警戒心より大きな儚さを、その後ろ姿に感じた阿求は、惹かれるように隣へ立つ。少女の横顔は純粋で、見上げた星空から降り注ぐ光を、ただ一心に受け止めていた。こういうところ、姉には似ていないのかな、と阿求はこっそり考える。吸血鬼というものがいよいよ判らなくなってきていた。
それをよそに、金髪紅眼の吸血鬼はひとり呟く。
「澄みきった空気、群青の空……そして ……『the lights in the sky are stars』……なんてね」
笑みから零れた横文字の意味を、阿求は半ば直感的に理解した。
「『天の光は星』……」
「そう、全て、そう……」
ため息がフランドールの口の端から零れたのを、阿求は信じがたい思いで見ている。
「体が少し熱いのはなんでだろうね」言い残して、フランドールは口を閉ざして長い間開こうとしなかった。
その間阿求は立ち尽くし、言葉の意味をひとつひとつ拾って噛み締めていた。妖怪と人間、生まれながらにして高貴な者とそうでない者という価値観の違いがあっても、「星空」を前にした時の感覚は共有できるのかもしれない。吸血鬼は何一つとして自分の思いを語らなかったが、何故かそう思えた。
「深い淵を覗いているような不安と高揚……」
「それが熱さの理由かな。やっぱり夜は偉大だよ」
増して彼女は夜に生きる怪物だ。星を前に熱を帯びるのも当然だろう。心の中でゆっくりと揺らぐ「怪物」の文字を見つめながら、阿求はなんとなく頷いた。確かに夜は偉大である。しかし(たとえどんなに目の前の少女が詩的であっても)、それはやはり妖怪の理屈だった。阿求には星々に見いることすら、魔への入り口のように思えるのである。
だから阿求は下を向いた。頭上の星から目を逸らした。
フランドールは大きく口を歪める。
「あなたはそれで良いと思うよ。誇り高き道を行く人間には、太陽の導きがあれば十分」
「私は、そんな……」
「それはさておき、わたしと『あいつ』には生け贄が必要なのさ。少々の娯楽もね……あーあ、わたし『も』誰かとお話したいなー。あぁ、あなたと会話してるか。独り言みたいのに付き合わせちゃって、ごめんなさいね」
「……いえ、興味深いお話でした」
「……も?」
頭を下げてから、阿求はフランドールの言い種に引っ掛かりを見いだした。
「御姉様は今、どなたかとお話中?」
紅の瞳が大きく見開き、牙の覗く唇に手のひらがあてがわれた。
「あら、『黙っとけ』って言われてたのにバレちゃった」
「教えて頂けない?」
別にいいよ、とフランドールは可笑しそうにころころと笑い、翼をはためかせた。
「お連れさんいるでしょ。男のひと」
「……え?」
「お姉さまが連れてったわ。探偵ごっこだって」
阿求は唖然とした。そんな、ついさっきまで一緒に居たのに……言いかけて、青年から感じたあの「違和感」を思い出す。異質なモノが投げ出されているような――
フランドールはますます口を歪めた。
「ふふっ、ウチのメイドは器用だからねー。パーティー会場に『彼』が居たとしたら、それは多分タイムパラドックス的なアレよ。あの子の能力は変に応用が効くから、わたしも『手品』の全部を把握できるわけじゃないけれど」
「……無事に返してくれるのでしょうね?」
「あいつ……レミリア・スカーレットは嘘をつかないよ。『探偵ごっこ』と言ったら、最後までそれをやる。いきなり犯人に回ったりはしないし、ディナータイムに移ったりもしない。安心していいと思うな……あは、『人騒がせな』って顔してるね! そうそう、吸血鬼はとんでもなく人騒がせだ!」
劇がかった口調で小さく叫ぶと、幼い吸血鬼はテラスのタイルを蹴り、欄干の上へ飛び乗った。動作からも音からも、僅かな体重すら感じ取れない。
「さーて、運命を知るとかいう胡散臭げな吸血鬼の元に、記憶のすかすかな人間がひとり――彼は何を手に入れて戻ってくるかな? それとも『失う』? 『拾う』? どちらにせよ、これで何かが変わるかな? 乞うご期待! ……って、わたしも役者の一人だった」
てへへ、と頭を可愛らしく傾ける姿を見て、阿求はシリアスをキープしたほうがいいのか、それとも笑っていいのか分からなくなってしまった。フランドールが言ったその意味を図りかねてもいる。
……結局真剣に訊くことにして、
「貴方は、最近の幻想郷を……『異変のただ中だ』と考えているの?」
「さぁね。ただ、ちょっと空気がピリピリしてる感じかなぁ。あいつは『何かしらの『異変』だ』、って考えてるみたいだけど……さ。よく知らないけど、異変ってのはもうちょっと大がかりにやるものじゃない?」
一陣の風が吹き、フランドールと阿求の間を駆け抜けていく。紅い眼が一層光を増し、金色の頭髪がふわりと舞い上がった。気圧されたように、阿求は一歩退いた。
「妖怪は、神々は争いを求めている。たとえ巫女やなんやに退治されようと構わない。何かを得ようと戦って、結果として敗れても、『闘争のエネルギー』は美味しく戴けるから……ろくな闘いもない今回のこれが『異変』? そうだとしたら、一体誰が得をしてるのよ――小物が……」
眼差しがぎらついていた。だがその紅い光線の向いた先は阿求ではない。
フランドールはゆったりと振り返り、夜の闇に包まれた前庭を見つめる。宴会の喧騒を後ろに聴きながら、阿求は薄暗い芝生に、花壇に、植え込みに耳を澄ませる。
長い長い一瞬の後、テラス直下の植え込みから葉擦れの音が聴こえた――
「逃がすか」
吸血鬼の片割れは小さく早口で呟いて、右手の平を顔の前にかざす。
握り締めた。
「三月のライオン」を見ると更新速度が300%上がります。わりと本気で。
サブタイはフレドリック・ブラウンの長編小説より。某アニメの最終話タイトルに引用されて有名になったそうです。自分もそのクチでした。