「ありとあらゆるものを破壊する」
――自らが編纂している書きかけの「幻想郷縁起」には、そう綴った。物体の「緊張」を見抜き、引き摺り出して握り潰す。実に単純で、この上なく暴力的な能力だ。そういう知識を持っていた。だが……阿求の目の前で起こった出来事は想像よりもずっと静かで、彼女の心に何の感慨ももたらさなかった。
マッチの火ほどの光が走り、手を叩いたような破裂音がこだました。たったのそれだけだった。しかし同時に茂みの中で「何か」が粉微塵に破壊されたのだ。そのことだけは容易に理解できる。単なる破壊そのものが、一瞬にして味気なく完了したのだ。
欄干に直立し、手を握りしめたままでいたフランドール。ゆっくりと首を回転させてこちらを一瞥し、また前方に視線を戻す。その瞬間に見えた、文字通り「怪物」と呼ぶに相応しい、あまりに甘美な形相。阿求は「この光景も墓場まで持っていかなければいけないのかしら」と無言に呟き、細かく震える身体を腕で抱く。出来れば覚えていたくない光景だった。
「何? 妖精……」
フランドールが訝しげに言葉を漏らした。
妖精?「壊した」のは妖精だった? そういうニュアンスであったように思う阿求。
しかし、植え込み中にいたのがただの妖精なら……なぜわざわざ「壊した」のか。この屋敷には雑用に従事する妖精もいる。霧の湖から入ってくる下級妖精が庭をふらつくことも珍しくはない。それらは総じて無害かつ無力で、フランドールが「敵」と認識する理由はない……はずだった。
阿求が考えているうちに、フランドールは金色の髪を靡かせてふわり、庭へと降り立っている。
何をするのかと思えば、爆発が起こった茂みの辺りを見回している。
「ここのところね、誰かに見られてるような気がしてたんだ」
子どもが大人に悪戯の言い訳をするような口調だった。
「お部屋の中でも、廊下でも、夜の時計台の上でも。棺桶の中からどこまでも一日中、誰かがわたしを見ていた。最初のうちは地下の魔法使いさんが、魔法でわたしを監視してるのかなーって、そう思ってたけど」
芝生や下生えをわさわさと掻き分けていた吸血鬼の少女は、やがてそこから何かをつまみ上げ、しげしげと観察している。阿求の居るところからでは見えない。
「『そいつ』ね、冷たいんだ。どんなに楽しくても、そいつの存在に気づくと一気に気分が冷える。どうにかして捕まえるか、殺すかしたかったんだけど、肝心の姿は見えなくって。今、あなたとお話してたら『見えた』……そして多分、今握り潰した妖精……みたいなのが、『そいつ』だと思う」
再びふわりと飛び、欄干の上へ着地して阿求を見下ろすフランドール。
すっと差し出した手のひらの上に、何か細い糸のようなものが数本乗っていた。
「ねぇ、阿求さん。わたしは『薄気味悪い妖精』を吹っ飛ばした……でも植え込みの中には、奴の残骸の代わりにこれが落ちていた。なぜ? どうしてこんなものが残ってるの?」
白皙の小さな手のひらの窪みに乗っていたのは、金色の毛髪――おそらく阿求の目の前にいる「フランドール・スカーレット」のものであろう、黄金の撚糸。その意味するところを理解しかねて、二人は立ったまま言葉を失った。
吹き抜ける冷たい風。宴席の交歓が遠くに聴こえる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
彼の名は「サンドマン」アリゾナ出身の先住民、いわゆるインディアンだと判明した。
出場名簿に名前があるということは彼もれっきとした選手なのだ。しかし、
「人間じゃあないぞ、アイツは……!」
手足をしなやかに動かし、岩山をシカかなにかのように「跳び登り」、スピードを落とさずに駆け抜ける。降りるときには重力を使い、まるで落下しているかのような速度で疾走する。その速度は……ありえない、馬並みだ。しかも彼は、馬の走行不能な場所(岩山のことだ)を走れるから、ショートカットできる。
「時速四十五、いや五十……下級の吸血鬼かなにかかい? ……人の壁を越えてるなぁ。ウチのメイドもあれくらい走れたら面白いのに……実用性は皆無だが」
僕の向かいの席に座っているこのミニサイズ吸血鬼が、そんな間抜けなことを惚けたように言う。彼女自身はどうだか知らないが(きっとメチャクチャ速いに違いない)、サンドマンの走りは吸血鬼のお墨付きで化け物レベルだ。現在一位――これはひょっとすると、ひょっとするかもしれない。
ゴール前の直線に列車が差し掛かる。と同時に、凄まじい大歓声が轟いた。反響で列車が揺れたのではないだろうか、と疑うくらい。その大音響に窓から身を乗り出して、レミリアが感嘆した。
「……ワオ。凄い数の人間の群れだ。オスマン帝国軍もかくや、だね」
見れば、直線の向こう……あれは「廃れた教会」。この一万五千メートルの終着点に設定された、さびれた荒野の教会。その真ん前にゴールが、そして……文字通り山のような数の人々がいた! 二万、三万……大群衆だ。天を驚かし地を動かすような叫び声が鼓膜を乱打する。彼らは待っていたのだ。大陸横断レースの序章、その結末を見届けるために。
そして、無数の人々が形作るその花道へ、騎手たちの土石流とも呼ぶべき集団が雪崩れ込んでいく。言いようもないほど素晴らしく、凄まじい光景だった。
岩山を駆け降りるサンドマン……勝利への自信に満ちるジャイロ・ツェペリ……何か大きなモノを信じて疑わない、真っ直ぐな目をして走るポコロコ……そしてその後ろに続く後続集団……その時、レミリアが声を上げ、そして笑った。
「おや、あれは……ふふ……そうか、そういうことか……だが今はそれよりも……見たまえ、あの後続集団の先頭付近を。野心的な目が素敵な『彼』がいる」
その言葉と同時に、僕も遠目に彼の姿を捉えていた。イギリスから来た天才……
【ディオだァァァ――ッ ディオがいるッ】
前の車両から叫び声が聴こえた。再び車内がざわめく。
そう……ディエゴ・ブランドー。彼は追いついていた。枯れた川に掛かる橋で、あの絶望的なタイムロスを喰ったD・i・o、彼が後続集団の先頭を走っている。フラりふらりと他の騎手たちの馬を「風よけ」にしながら、ここまで追いついてきたのだ。そして今、彼が最終加速を掛け、ジャイロ・ツェペリらに襲いかかろうとしていた。
足元でガタンと音がして、列車が止まった。気づかなかったが、いつの間にか列車はゴールに着いていた。線路が小高くなっていて、ゴールを見下ろす格好だ。誰が一着でゴールするのか、この窓からならはっきりと分かるに違いない。
窓から半身を乗り出した僕の後ろで、レミリアが席に深く身体を沈める気配がした。
「さて、鉄球が着弾するよ……どうやら、私と貴方の短い旅路も、ここまでのようだ」
サンドマンが岩山を越えきり、ジャイロの前に躍り出る――
僕は振り返った。
「……『ここまで』?」
「そう、ここまでさ。貴方の思い出の、ここが一旦の終着点……」
【ここでディオも出たッ! ディオが飛び出したッ……ゴールまでおよそ三百ッ……】
レミリアは眠たそうな目をして、いつもの微笑みを浮かべている。
「分かるんだ。夢から覚めるような感覚が、私のなかにある……このゴールインと一緒に、貴方の夢が終わるのさ。そろそろ帰らなくちゃならないんだよ」
「そんな……まだ……」
【それともう一騎ディオと並んでいる者がいるッ! いや、ディオよりも先に……ゼッケンはつけていない、無名の選手だッ――】
「まだも何も……これ以上は『なにもない』……貴方の精神には、何も……」
「『これ』を見ることぐらいは許されていいはずだッ……黙っていてくれッ……」
僕は彼女のとろんとした目から無理やり視線を反らし、再び振り返ってレースを凝視した。これは僕の、最初で最後の頼みの綱だ。この『誰か』の記憶の濁流! 僕はどこでこの流れに「接している」? これは誰の見ていた景色だ。誰を見るための景色だ――?
背後の吸血鬼はため息をついた。
「黙れとは酷い言い種だな――まぁいい、見るがいいさ。君の全てを……」
サンドマンを追って四騎が並ぶ――
ポコロコが飛んだ――偶然に枯れ木を踏んで――
しかし刹那、ジャイロのマントが巻き上がり、まるで帆のように風を受けて加速し――
そのままぐんぐんと速度を上げて、上げて、上げて……
鼻先がゴールラインを割った。一着は――ジャイロ・ツェペリ。『鉄球の男』は大きく拳を突き上げて走り抜ける。それは凱旋する英雄の喜び。歓声が爆発する――二着は誰だ。サンドマン、ディエゴ・ブランドー、ポコロコ、無名の騎手が全くの一列に並び、今まさにゴールへ飛び込む。その蹄が鳴らす地鳴りは連続し、歓声とともに一つの塊となって
ド
ド
ド
ド
ド
ド
ド
ド
ド
と僕の全身を震わせて――僕は見た。見てしまった。『彼』の顔――
レミリア・スカーレットの綺麗な声。
「と、言うわけだ。真実は小説よりも奇なり、ってね。アハハハ…………」
時間が止まっていた。
ゴールラインの上で、サンドマンが、ディオが、ポコロコが静止していた。
そして――ディオにくつわを並べ、歯を食いしばっている少年もまた静止していた。
あぁ、判ってた。心の何処かで判っていたとも。あの日の僕は「ジャイロ・ツェペリ」を追いかける、ただそれだけのために全存在を懸けていたのだから。追いつくためなら、きっと何でもしただろう。例えそれが、想像を絶する過酷な旅路であっても――
ゴールした少年の顔は、僕だった。
それが自分自身であるということ以外は、僕たちはお互いにお互いを知らない、全くの他人でしかなかった。
ゆっくりと闇が降りてきて、僕の視界を覆った。全てを遮断する完璧な闇が。
◆◇◆◇◆◇◆
「もちろん! ……あんたを負かしてみせるさ」
レースの熱狂も冷めやらぬ、廃れた教会の前の広場。ぼくがそう言うと、目の前に立つ相手はニヤリと笑って頷く。ぼくは安堵した。
「いいだろう――LESSON2は『筋肉には悟られるな』……だ」
ジャイロ・ツェペリは自分の左腕の手首を右手でガッシリと掴んだ。
「いいか……たとえば腕をつかむこんな動作……腕をこうやって強くつかめばつかむほど、『筋肉』はこの力をふりほどこうと理解して反応してくる! ……肉体が本能的に身を守ろうとするのは筋肉に
言いながら、腰のホルダーから鉄球を一つ取りだし、そっと左腕に乗せた。そうしただけで、鉄球はひとりでに回転を始め、完璧に腕の上でバランスを取る。
「鉄球の回転はそれを悟らせない。皮膚までだ……皮膚を支配しろ! 皮膚までなら筋肉は異常事態が起こってると気づかない……試してみるか? その気なら……手の中のシャンパン・コルクにすでに回転がかかっている」
――シュルシュル
そう言われて初めて、ぼくはその音に気づいた。握りしめた手の中から漏れる音?
手を開いてみると、はたしてコルク栓が回っていた。いつから入っていた? ――あぁ、そうだった。ジャイロ・ツェペリが「走行妨害の判定」を喰らった腹いせに、来賓用のシャンパンをぜーんぶ暴発させてしまったのだ。これはその時飛んできたやつを、キャッチしたままだったのだ。すっかり忘れていた……あれ? ぼくは今まで何をしていたんだっけ。レースを五位でフィニッシュ……「する、ぼくを認識していた」。
……ぼくの皮膚は「支配されているのだろう」――コルクを握っているというその感触すら感じなかった。
突然、ある啓示が頭の中に輝いた。彼はこれを「LESSON」と言った。なら、このコルクだってきっと何かに結びついているはずだ。ぼくは何をすればいい? その答えは分からなかったけれど。
まるで吸い寄せられるようにぼくの手は動き、乗っている老馬の首筋にコルクを――近づけて、押しつける。回転に巻き込まれ、馬の皮膚が――
世界が反転した。
そして次の瞬間には、ぼくは地面の上にうつ伏せで這いつくばっていた。
「馬から降りた」これがきっと正解。見上げると、逆光でシルエットになった男が頷いている。
「それが馬の『おり方』だ。馬の筋肉は
くるりと背を向け、男は歩き去る。
「ジョニィ・ジョースター。2nd.STAGEは砂漠越えだ。距離も千二百km以上……過酷になりそうだ。協力関係を結ぼうぜ……そしてゴールは1・2フィニッシュだ!」
最後にぼそりと、オレが一位だけどな、という呟きが聞こえた。そのまま向こうへ歩いて行って、ジャイロ・ツェペリは人混みの中に溶け込んでしまった。その背中を見送ったぼくはぼうっとして、しばらくそこにへたりこんでいた。そのうち唐突に、あぁ、走りきったんだな、その事に気づいた。ジャイロ・ツェペリはぼくをある程度のレベルで認めたのだ。ぼくはこれから彼と一緒に大陸を走り抜けるのだ。
思えばたった三十分ほど前には、ぼくは絶望の縁で溺れていた。死なないように、取り残されないようにするのが精一杯で、細い手綱を必死で握りしめていたんだ。それがいまや、見えはじめた希望に向かって走り出そうとしている。彼の助けを借りて……いや、いずれは自分ひとりの力で立たねばならない。
いつだって人は、最後には独りなのだから。
その時、背後から声がした。
「ったく、あの男ときたら……ちょっとシャンパン引っ掛かったじゃない! ふん、まぁいいか……ねぇ貴方、ちょっとよろしいかしら?」
玲瓏な女性の声に身体を捻り振り向くと、美しい少女が立っていた。片方の手で日傘を差して、もう片方の手で車椅子を(ぼくのために?)押して。歳のころは十……いや、十一くらいか? 美しい――いや、綺麗すぎる。ぼくはこんなに綺麗な女の子を見たことがなかった。見たことがない――はずだ。一度でも見たら忘れられないくらい美しいから――でも、なぜか自信がなかった。ついさっきまで、この子と話していたような気もする。なぜ?
「見事な走りだったよ。おめでとう――はい、これ。車椅子と、スティール氏からの贈り物」
傲岸不遜なしゃべり方だが、貴族のような彼女にはそれが似合っていた。からり、と車椅子の車輪が進められ、ぼくの目の前に出る。その椅子の上に、数枚の紙と、布きれのようなものが載っかっていた。手にとってみると、紙には「身元確認」「出場届」の文字が――そして布切れには数字「868」が大きく書かれていた。
「『出場料は後で君の口座から引き落とす。これは特例だ。今後はルールを遵守するように』ですって。貴方選手登録もせずに飛び出したのねぇ……おばかさん? ……さぁ、さっさと必要事項とやらを書いてしまいなさい。すぐ持ってくから」
言われるがままに、差し出されたペンを取る。最初の一枚は権利の所在についての説明書き、二枚目が選手の個人情報を書く紙。「経歴」の欄には何も書かなかった。ぼくが何者かなんてどうだっていいだろ。思い出したくもない。それに、たぶんあのジャイロ・ツェペリだって経歴は書いてない。そんな気がした。……国籍は「アメリカ」馬の名前は――ちょっと顎にペン先を当てて考える。
……そうだ、「
【名前】
その瞬間だけ、ほんの一瞬だけ――ぼくは躊躇した。なぜかは分からない。自分の名を名乗ることが、なんだか久しぶりのような気がして、ちょっと引っ掛かっただけだ。きっと――
フルネームを書こうとして、やめた。長年呼ばれた愛称のほうが、ぼくにとっては大切だ。
【ジョニィ・ジョースター】
書き終わって、目の前の彼女に書類を渡す。それを一見して、彼女は唇を歪めた。紅い三日月のような微笑みが口に浮かぶ。
「ジョニィ・ジョースター……いい名前じゃない。ジョニィ……『ジョナサン』かしら? それとも『ジョン』とか? ちょっと俗っぽいけど」
「『ジョナサン』で合ってる。そう、ありふれた名前だろ? セカンドネームは珍しいんだけどな……でも、結構気に入ってるんだ」
「なぜ?」
「自分の名前だから」
なぜ? そりゃあ、曲がりなりにも自分の名前だ。
ジョニィ・ジョースター。名前を失ったら、ぼくは「ぼく」でなくなってしまう。あの時(一体いつの、どんな出来事だったっけ?)、大事なものはずいぶん減ってしまったけど、まだ少しは持っている。この名前もその一つだろう。
そうだ、この子にお礼を言わなくちゃ。
「……ありがとう。君は……」
彼女はもういなかった。車椅子とぼくだけを残して、どこか雑踏の奥へ消えてしまったに違いなかった。車椅子に這い上って、ため息をつく。よく説明できないけれど、運命の女神かなにかにそっぽを向かれたような気分だった。そう、運命を司る神がいるとしたら、きっと彼女のように美しくて、気まぐれな少女の顔を持っているのかもしれない。
仕方ない、一瞬だけでも微笑んでくれたんだ、感謝しなくちゃ――ぼくは目を閉じて笑った――
◆◇◆◇◆◇◆◇
長い眠りから覚めたような、霧がかった意識。
目を開くと、そこは小さな円卓の前で、僕は車椅子に座っている。薄暗い部屋の灯り……
向かいの椅子でワイングラスを傾けて、レミリア・スカーレットが微笑む。いつの間にか、僕は彼女の、この微笑みが好きになっていた。
「お帰り、ジョニィ・ジョースター」
ようやくここまで。まだまだ先は長いです。
余談ですが、レミリアはオスマン帝国軍を見たことがあるのでしょうか。ヴラド公本人はいやというほど見ているはずですが。