驚いたことに、その名前はごく自然に僕の中にすっぽりと収まった。
「やはり固有名詞とはあって然るべきだね。ジョニィ・ジョースターよ」
「ああ……ああ」
渇ききった喉を、冷たい水が流れていく。まさにその感覚だった。
記憶の清水を、たったの数滴。この干からびた身体がかつて湛えていた水は、湖のように広く、深かっただろうに。けれどもその水滴は、僕が
初めまして。旧き友、ジョニィ・ジョースター。僕の大切な呼び名だ。
レミリアが、さて、呑むかな、と呟いて、空になったグラスにこぽこぽと紅い液体を注ぎ始めた。手元を見ると、「出かける」前に僕が少し飲んでほったらかしにしていたぶんが少々、ガラスの器の底に不平たらたらで佇んでいた。どちらからともなくグラスを掲げて、乾杯。心地よい芳香が広がった。
「……結局のところ、大したことは分からなかったなぁ……いや、君、ジョニィ・ジョースター にとっては大きな一歩の前進だ。私が言っているのは、私の興味の対象についてだよ」
しばらく黙って酒器を傾けていたレミリア。ふと深いため息と一緒に、そんな言葉を吐き出した。「興味の対象」とは……確か「幻想郷で今、何かが起こっている」。その「何か」。
「さて、我々は一通り深淵を彷徨い、答えを求めて記憶の木々のなかを歩いたわけだが……残念 なことに、『どこか』にたどり着く前に森から出ざるをえなくなった。何故なら森はずたずたに 引き裂かれていて、あちこちが荒れ野になってしまっていたからだ。さぁ、『なぜ』森は、貴方 の記憶は欠け落ちている?」
思わず目を見開いた。
非常に基本的な疑問なのに……「なぜ記憶が無くなったのか」、僕は今まで考えたことがあっただろうか。どうやら今までは記憶を取り戻すことばかりを考えていたようだ。
覚えているのはただ、あの底抜けに暗く虚しい場所で、息をすることもできずにいた僕の中から少しずつ、何かが漏れ出していった感覚だけ――あの時、僕はどこにいたのだろう。
その疑問を口に出すと、レミリアはゆっくりと首を横に振った。
「長い長い間、虚無のなかにいた? 私が思うにね、ジョニィ・ジョースター。君はその時、『どこにもいなかった』んだよ」
「どこにもいなかった――?」
「思い出せ――STEEL BALL RUN。あれは何年の開催だった?」
その数字はしっかりと脳に刻まれていた。
一八九〇年九月二十五日。その日の午前十時から。でもなぜ、そんなことを今訊く? そう言いかけて、僕はある不吉な可能性に思い当たり、戦慄した。
「あぁ……レミリア・スカーレット。今はグレゴリウス歴で何年だ?」
「……
横っ面を思い切りひっぱたかれたような衝撃を感じて、僕は卓に手を突いた。
卓の上で、ワイングラスが細かく波打ち始めた。
百二十五年……途方もない、途方もない時間が過ぎている……僕の生きた、あの記憶の欠片から、百二十年以上が……だとしたら、既に「ジョニィ・ジョースター」は……
「死んでいる、のか」
「十中八九、いや九分九厘ね……百二十五年プラスアルファ――その期間ずっと続くだけの命の 強度を、人間は与えられていない。残念ながら、と言っていいのかな……ジョニィ、貴方は既に 一度死んでいる」
心臓が脈打つ。
息が詰まる。
それなのに僕は今、死んでいるのだ。
だが、目の前の
「いや、そうじゃない。確かに貴方は一度死んだのだろう。しかしここにいる身体、魂、どれひ とつとして『死者』のモノではない。誇り高き生物、生きた人間のものだ……つまりジョニィ、 貴方は『生き返った』んだ。この幻想郷という箱庭に」
生き返った?
それは奇跡だ。そしてペテンだ。そんなことがあるはずがない――
――本当に?
「…………僕には保証がない。自分が生きているという保証すら……」
「私が保証しよう。そのくらいの区別は付くものだ。根拠は――そうだな、死者や化け物は制約 が多い。例えば幽霊は精神的存在だから、この世に留まっている理由が揺らげば存在も揺らぐ。 貴方の精神は穴だらけで不安定だ……だが貴方は確固たる存在だ……彼らは土地に縛られ、怨念 に縛られるんだよ。だが君を縛るもの、それはほら、君の脚だけだ。代わりは車椅子でも馬でも 務まるし、いずれは治るかもしれない」
二杯目のグラスを空にして、レミリアは立ち上がった。
「私とて
自信たっぷりに言い終わると、彼女は音高く指を鳴らした。
「咲夜。客人を会場へお連れして」
その瞬間まで、確かに部屋はレミリアと僕の二人きりだった。
だが、彼女が指を鳴らし、「咲夜」そう呼んだ瞬間――気がつけば間髪すら入れずに、そこには影が現れていた。「移動」してきたのではない。その女性は全く忽然と出現した。編んだ銀髪に青いドレス、白いエプロン。
メイド長は深々と頭を下げた。
「藪から棒に失礼しました。お嬢様、そしてお客様」
「彼の名は『ジョニィ・ジョースター』だ。咲夜、聴いてなかったの?」
「生憎と厨房から接客まで大忙しでして。今しがたこの部屋の前を通りがかった時分でした。 あ、もちろん、持ち場の方はしっかりと。そのために、一時間前と一時間後の私がてんてこ舞い で切り盛り中です」
真顔で訳の分からないことをすらすらと言ってのけると、「咲夜」は僕に向き直った。
「さて、ジョースター様。お嬢様が『お連れしろ』とおっしゃっているので、私は貴方を強制連行せねばなりません。宜しいですね?」
「連行って……パーティー会場へ、だろう?」
「そう。明るく楽しい宴と語らいの場ですわ」
大真面目な顔に接客用の笑みを貼り付けてでそんなことを言うものだから、思わず吹き出しそうになる。そこへレミリアがとことこ歩いてきて、咲夜のスカートの裾を引っ張った。いやに子供っぽい仕草だな、と思って彼女を見ると、頭の上に帽子が乗っかっていた。ドレスの色と同じ、丸くてフリルのついた帽子。横っちょで紅いリボンがひらひらしていた。
「咲夜。私も一緒に会場へ行くんだよ。客人との対談もまだ終わってないし、貴女に聴かせたい話もあるんだ。歩きながら話すからな」
「時間も押してますからね。了解しました」
首肯して、メイド長は主の帽子の角度をちょっと直した。咲夜は女性にしては少し背が高い方のようだから、幼子程しかないレミリアと並ぶと面白い。「主とメイド」と言うよりは、「お嬢様とお世話係」という表現の方がよっぽど、この二人には相応しい気がした。どちらも並外れた美貌の持ち主、という事実から目を背ければ。
僕は車椅子を円卓から引いて、二人の方へ進んだ。すると、突如として咲夜がふっと消える。まただ……この人は一体どんな力を持っているんだ? そんなことを考える間もなく、薄暗い部屋の向こうで、ドアが音もなく開く。紅いカーペットの敷かれた廊下に、メイド長のものらしい影が延びているのが見えた。
ドアぐらい普通に開ければいいのにな、と思う。
レミリアは戸口へすたすたと歩いて行き、僕の方を振り返った。
「さぁ、行こうか。なに、私たちの疑問について考察する機会は、まだ十分にある」
◆◇◆◇◆◇◆◇
またもや、この廊下だ。気の遠くなるような紅いカーペット、オレンジ色の灯火。先頭に立って歩くレミリアのあとを、咲夜と僕が追うかたちになっている(お手伝いしましょうか、との咲夜の申し出は丁重に断った。もう運ばれるのはこりごりだ)。歩きながら、幼い吸血鬼は前を向いたまま、僕たちに話しかけてくる。今はどちらかというと咲夜に、レミリアと僕が夢の中で見たものについて説明している。
「……それで、とんだ尻切れ蜻蛉だ。時間にして三十分もあっただろうか? 引き換えに私が得たものはといえば、皆無に等しかったよ。欲しい情報は欠片ほどしかなかった……まぁ、ぼんやりした全体像の、そのまた端くれを掴めただけで十二分、だったのかもねぇ」
「骨折り損のなんとやら、ですわ」
「私は安楽椅子だったがね。そうだ咲夜、貴女には明日一日の休暇を出そう。諸々ご苦労様、ってことで。羽を伸ばすなり骨を接ぐなり、好きにするといいさ……おっと、話が逸れた」
小規模な脱線をごまかして、こほんと咳払いをした。
空っぽの廊下に響くはずのその乾いた音は、足元で絨毯に吸収されて消えた。
「ここからは断片を集めてパズル・ゲームだ。特にジョニィ・ジョースター、貴方にとって一番重要な行為がこれ。分かってるね? ――そう、それならいい。君は君でピースを集めることだ……だが私には疑問がある。そう、『なぜピースは紛失しているのか?』――例えるならば」
僕はレミリアとの距離を詰めた。大事なことを話している気がした。恐らくは目先のパズルピースよりももっと重要なことだ。僕は確信した。
彼女は両手を小さく広げた。
「……一軒の家がある。小さいが心地のよい、貴方だけの家だ。なんのことか分かるね? そう、貴方の記憶の話。生まれてからずっとそこで過ごしてきたから、どこに何があるのか、全て知っている。喜怒哀楽のともなった、全ての思い出がそこにあった。だがある日、貴方はその家を出なければならなくなった。どこか遠くへ向かうために……そうして全てを失ったジョニィ・ジョースターは、その『どこか』で長い月日を過ごした……気が遠くなるほどの長い月日、ただの人間にとっては地獄だ」
吸血鬼は目を閉じているようだった。
「……ある日、まったくの偶然で地獄の責め苦から『なぜか』解放された貴方は、懐かしい我が家に帰った。長い間誰も住まなかったその家は荒れ果てていたが、驚くべきことにまだしっかりと存在して、主の帰りを待っていた――だが、中身は、というと違う。家のドアを開けて足を踏み入れた貴方は愕然とする」
見てきたかのような語り口だった。止まらないように車椅子を前へ進める手を意識しながら、僕は自分について語られている(「はず」の)この物語の続きを待った。
「誰もいない。そもそも『最初から誰かがいたのかどうか』すら思い出せない。混乱した貴方は家中をぐるぐると回って、あちこちを引っ掻き回す。部屋という部屋、引き出しという引き出し、そして全てのクローゼットを見て回っても、何もない――いや、正確に言うなら、『貴方の知 っているものは何一つない』。この家はいつのまにか、知らない誰かの家になってしまっていた。長い月日の間に、どこに何があるかを『忘れてしまったのだ』。貴方は考えた。そして『どうにかして思い出そう』、そう決意した――というのがまぁ、ここまでの筋書きだ――だが、私はそこに疑問を持った」
「本当に記憶を失くしてしまったのか? そうかもしれない。だが、もしかすると『誰かが家の中のものを持ち去った』のかもしれない。貴方は『失くした』と思っているようだが……なにせ百二十五年だ。その間に荒らされた可能性は十分にある。動機はともかくとして……『証拠』? そんなものはない。ただ、貴方のあの記憶は途中で、誰かに毟り取られたように途切れていたから」
なにか冷たいものが背筋を通り抜けるのを感じて、僕は手を止めた。
恐る恐る……
「それが……正しいとして、一体誰が『入ったんだ』?」
「さて、それが問題だ」
折しも、そこは長い廊下の終わり、だが同じように紅い玄関ホールだった。レミリアはその中央へ歩いていく。
「それが何であるか、誰なのかは分からない……がしかし、二つの事件の真相が『同一犯』である可能性を、我々は十分に考慮する必要がある。そう、幻想郷に人知れず蔓延る違和感の根源と、ジョニィ・ジョースターの思い出の墓を暴いた輩の出自は同じではないか……私はそう思う」
その「もの」の正体は不明だが……つまり、そいつが……
「『敵』なのか?」
「決めつけるのは早計かなぁ。『それ』が完全な悪であるとは限らない……現に被害は貴方と、稗田屋敷の一部に及んだに過ぎない……稗田の果たす役割と、人里の大前提である不可侵のルールを鑑みれば、大問題ではあるけれど――いずれにせよ、この問題には『注意』と『敬意』を払わないとね。なにせあの八雲が、境界の賢者が沈黙している。手を出しかねているのか、静観しているだけなのかは謎だ……しかし迂闊に手を出したが最後、何が起こるかすら予測も付かない、これはそういう予感……そして、現に――」
レミリアは左を向いた。
熾烈な、という表現では生ぬるいほどの眼光が、彼女から迸った。
「咲夜――玄関のドアが開いてる。もう客人は受け付けていないはずよね?」
「失敬……私が先程通りかかった際は確かに、閉まっていたようですが」
メイドは僕の横を通り、巨大なドアに歩み寄っていく。その周囲で何回か、鋭い銀色の閃光が走るのを僕は見た。そしてそのドア。確かに、十数センチメートルほどの幅の隙間が開き、冷たい風が吹き込んで来ている。レミリアが懐から何かを取り出した。よく見るとそれは小さな水晶玉であるようだった。
「ふん、侵入者が在れば、警護の魔法式からパチェに、そして私に情報が入るはずだが……なるほどね、もし『あれ』がここに来たなら、並みの網では探知すら出来ないだろう――入られたか――それとも出ていったのか――」
「どうなさりますか?」
咲夜の周りの銀色の閃光が一段と輝きを増し、遂には小さく、何かが風を切る音すら聴こえてきた。何が起こっているのか知るすべは無いが、間違いなく彼女は臨戦態勢にある。周囲の空気は張り詰め、近づいただけで切り裂かれそうなほど鋭い。
しかし吸血鬼は、従者の問いかけに首を振る。
幼い顔に浮かんだ三日月形の笑みがますます広がって、ついには白い牙を剥き出しにした紅い月が現れた。
「好きにさせておけ。その代わり手出ししてくれば潰す――『誇りと血に懸けて、完膚なきまでに叩き潰す』と宣言しておこうかな――聞こえているか……! お前が私に喧嘩を売っているのかどうかは知らん……だがこの瞬間より、この館は、レミリア・スカーレットはお前の敵だ……掛かってこい、正面から背後から――やれるものなら寝首を掻いてみてもいい。出来るものならな……」
語尾は低い忍び笑いに代わり、やがて甲高い哄笑となった。最高の楽器をめったやたらに掻き鳴らしたようなその笑い声とともに、彼女はホールの反対側の廊下へ歩いていく。
同時に空気を震わせる音……それが「羽ばたきの群れ」であることを理解したとき、僕の側を小さな黒い影が薙いで、彼女の元へと向かっていった。見れば、凄まじい数の蝙蝠が周りを取り巻いている。館のあちこちから集まって来たに違いないそれらは数十、数百、それ以上の数となり、ヴラド公の末裔を名乗る少女の姿を覆い隠してしまった。
咲夜はいつの間にか僕の横に立っていた。その冷悧な横顔からは、なにも読み取れない。
後には、空気を席巻する蝙蝠の羽音に混じった笑い声が、いつまでも残っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「……凄いひとなんだな、君の主は」
数分後。
僕は館の外周に沿って、庭の小道を進んでいた。先導して歩くメイドが「貴方は一応パーティー会場に居たことになってますから、裏口からこっそりとね」と言うので、仕方なくこうして外を歩いている。さっき彼女を取り巻いていた、鋭いナイフのような気配は雲散霧消し、もとの柔和な雰囲気が戻っていた。
「ヒトではないのですけどね。それゆえに超常的ですわ」
「分かってる……君は、人間なんだろう?」
彼女が首肯するのを星明かりに見て、僕は訊いてみた。
「なぜ、彼女に仕えているんだ?」
些か不躾な質問だっただろうか。彼女がやや歩調を緩め、顎に手を当てて考え込んでいるのを見て、僕は少し後悔した。だが、当の本人は気にも留めていない様子で、逆に僕にこう訊いた。
「その前に一つ。貴方は『何のために生きてここにいるのですか?』」
何のために生きている……? 絶句し、二の句が継げないままにいると、咲夜はふっと笑った。
「この問いにすっぱり答えられる人間はそうそういないでしょう。私も完璧な答は存じません。けれど……暫定的な答えを言うなら、私は『生きるため』に彼女に仕えているのであり、同時に『彼女に仕えるために生きている』……と、回りくどい言い方をしてみます。つまり『なぜ仕える?』という貴方の問いはそのまま、『なぜ生きる』という意味になるのです」
「よくわからないな。簡潔に言うと?」
「んー、『私は死ぬまであの方の側にいるつもりです。理由なんてない』って感じで……あ、そろそろ着きますよ」
理由なんてない、か。
ずいぶんはっちゃけた答えだったけど、なぜか僕は納得してしまった。
もうしばらく笑い声、大勢の話し声が聴こえてきた。顔を上げると、僕の右手、館の窓から暖かな光が漏れている。きっとそこが宴会場なのだろう……そう思って、すっと視線を滑らせて行くと――両開きのガラス戸と、その外側に張り出したテラスが見えた。そして――人影?
「……?……貴方は?」
聞き覚えのありすぎる声だった。浮かび上がる小柄ばシルエット、綺麗な紫いろの髪――これはあの人の声――というか、誰かに見つかったらまずいのではなかったのか。咲夜の方を見ると、
「てへっ」
右手は銀髪の頭の後ろでぽりぽり。蒼い双眼を片方だけ閉じて、わずかな星明かりの元でも分かるくらい綺麗なピンク色の舌を出して、僕の方を向いていた。いや、別に僕は構わないんだけどさ。ヤバいんじゃないか? 君とレミリアは僕をこっそり戻すつもりだったんだろう? バレてる。しかも僕の保護者(みたいな人)に。
絵に描いたような「いたずらっ子、失敗する」のポーズを取るメイドをよそに、テラスの上の人物は溜め息をついた。
「まったく……何処をほっつき歩いていたの?」
まるで僕が何処かに行ったのを知っていたような口振り……彼女は、稗田阿求は、僕が実はパーティー会場にいなかったことを知らなかったのでは? 疑問に思っていると、「てへっ」の構えを解除したメイドが先に口を開いた。
「あら、その口振りからするとご存知でしたか。いやはや失礼しました」
「……十六夜さんも十六夜さんです。勝手に誘拐しないで貰えますか」
「いえ、本当に申し訳ございません……主命でしたのでなんともまぁ……あ、裏口はもう少し道なりに行ったらありますので。これにて私は失礼いたします」
言うが早いか、またもや一瞬で消えてしまった。取り繕い切れていなかった気もするが、とにかく不思議で、愉快な人だ。レミリアも退屈しないだろうな……
阿求は咲夜がいた辺りの闇に向かって「躾がなってない」と毒を吐いた後、僕に向き直った。
「色々訊きたいことも言いたいこともありますが……後ですね。ここは冷えるから、さっさとこちらへ上がってきなさいな。中で待ってますよ」
暖かい口調で言うと、彼女は僕に背を向けて、ガラス戸を押し開け中へ足を踏み入れようとした。――そして、僕は彼女を引き留めなければならない。「待ってくれ」――阿求は振り向いた。
「どうしました?」
そう、言っておかなくちゃいけない事があるんだ。
だって、「僕」は彼女と初めて会うんだから。息を大きく吸い込んで、満身の力を声帯に込めるようにして音を出す。それでも出てきた声は震えていて、我ながら頼りなかった。
「僕は……ジョニィ・ジョースター。これから……よろしく……」
その時彼女が見せた表情を、僕は一生忘れることが出来ないだろう。
阿求の目は大きく見開かれ、驚きの波が顔中に満ちた。そして緩やかに、本当に緩やかにその波は引いてゆき、全て通り過ぎたときには――何もかも理解したという思いが、やや潤んだような瞳の下に揺れていた。
「そう……そうですか……我が事のように嬉しい……『ジョニィ・ジョースター』――海の向こうの言葉はよく知らないけれど、いい響きね――貴方にぴったり」
彼女の顔を見て、声を聴いてふたたび実感した。この名前は僕のもので、僕には帰る場所があって――そして誰かにこの名前を呼んで貰える。それはとても幸せなことだった。
僕は声を殺して泣いた。その間阿求はずっとテラスに立ち尽くし、頭上に貼り付けられた、今にもこぼれ落ちそうな星空を見上げているようだった。
改行とか工夫してみましたが、句読点が行頭に来たりとメチャクチャだったので途中から元に戻しています。