夢を見ていた。
時折泡沫のように浮かんでくる僕の記憶とは違って、細部まで鮮明に思い出すことは出来ない夢。「そうか、これは夢だ。夢なんだなぁ」と気づくまで、僕はたった一人、その世界に立っていた。どこか遠くから、いつか聴いた懐かしい音がおぼろげに……小川のせせらぎ、草の葉のそよぐ音、雲の向こうでうねる風の轟音、細かい雨の雫が頭に肩に落ちる音、降り積もる雪の静寂。土埃の道を踏み締める足音、馬の駆ける蹄の響き、親しい人々の声。どれもこれも懐かしい。どれもこれも全部、僕の手の届かない所から僕を呼んでいた。悲しくてもどかしい、いとおしい夢だった。
【ありがとう】
………………
意識が現実のものになっても、しばらくの間は目を閉じていた。
さっきまで見ていた夢が恋しかった。
暖かい寝床の中で、緩やかに考えを巡らせる。
夢の終わるその瞬間、僕は感謝していた……きっと、僕がかつて居た世界のすべてに。おそらく色んなことがあって、たぶん辛い出来事や悲しい思い出もたくさんあった。それでも僕はその世界を、手の届く限りで愛していたのだろう。何故ならば……
目を開く。数メートル上に木の天井が四角く広がっている。ここ数日ですっかり見慣れてしまった、他人の家の天井だ……二、三度瞬きをすると、やや不明瞭だった視界が良くなる。部屋の隅から柔らかな光が射し込んで、僕の右頬に当たっている。手で触れてみれば、部屋のちょっと肌寒い空気に晒されていた顔の肌の、そこだけが少し暖かかった。暖かい陽射し……光の加減が、昨日までとは少し違っているような気がした。
ゆっくりと身を起こすと、胸の辺りが引き吊るように傷んだ。よれよれのシャツの上から触って確かめてみると、何やら布のようなものが巻いてあった。それが包帯だと気づくまでに、少し時間が掛かった……そういえば、僕は怪我人だ(バカみたいな話だが、本当に今、思い出したんだ)。肌に張り付く違和感と、ごわごわした包帯の感触が、忘れかけていた事実を想起させた。この世界で初めて目を開いたときには、指の一本すらまともに動かせない状態だったのに、もう大昔の事のようだ。どうしてこんなに傷の治りが早いんだろう? 不思議だ……
座ったまま腕をぐるぐると回すと、凝り固まっていた関節が解れていく。寝返りも打たずにずっと同じ姿勢で眠っていたのだろう。回すたびに小さくパキパキと骨の鳴る音がする。ついでに首を回す。もっと派手な音がした。
仕上げに思いっきり首を捻って、身体ほぐしを終わる……
と、枕元に何か紙切れのようなものが畳んで置いてあるのが目に入った。腕を使って向きを変え、畳の上へ無造作に落ちているそれを手に取り、広げてみる。触った感じ上質な紙の一番上に、可愛らしい大きな丸文字でこんなことが書いてあった。
【プリズムリバー騒霊楽団 夏期
【日時:7月○日 午後6時より】
【会場:太陽の畑特設
【参加費:無料】
どうやら、夏に行われるコンサートの案内書きらしい。紙の上半分には日時や場所についての記述と、演奏者の写真。もう半分には、「終了時刻については延長する可能性があります」だとか、「行き帰りの安全については責任を負いません」……といった注意書。最後に、主催者であるという「プリズムリバー三姉妹」のコメントが載っていた。「プリズムリバー」……? だめだ、覚えているようで覚えていない。どこかで聞いたことがある名前なのに。
……はて、自分はなぜ、こんなモノを持っているのだろう。
そもそも昨日は……何をしていたっけ……と考えようとした瞬間、意識の奥底から沸き上がるようにして、大量のイメージが頭の中に溢れた。ごちゃ混ぜになったそれらのイメージは、全て昨日起きた出来事のものだった。暗闇に浮かび上がる紅い壁の館……どこまでも続く長い廊下の灯火……薄暗い部屋の片隅に佇む吸血鬼、レミリア・スカーレットの湛える微笑……そして、記憶を辿った短い旅路が……「STEEL BALL RUN」の文字。
スティーブン・スティール。ジャイロ・ツェペリ……ジョニィ・ジョースター……百年の時を経て掘り出された死人、そして同時に生者でもある名前。
……僕は、「ジョニィ・ジョースター」。
どこで生まれたのかも分からない。どのように育ち、どのように過ごし、どのように死んだのかも分からない、文字通り空っぽな人間。……だが、
ただ「名付けられた」だけではない。
僕はヒトであるということ、生きているということを再び手にしたのだ。その意味の、なんと大きいことだろう……僕の内に芽生えた「ヒトたる」意識は瞬く間に大きく育ち、行き場のないエネルギー……熱さ、と言い換えてもいい……が、身体中を駆け巡った。
手にしたままだったチラシをズボンのポケットに突っ込み、布団の脇の車椅子へよじ登る。とにかく身体を動かしていないと、その気持ちは今にも天井を突き破ってしまいそうなくらいに大きかった。部屋の東側の障子を開け、廊下へ出た。目の前には、太陽の光が半分ばかり射し込んだ中庭。その中央の小さな池の水は、朝日を反射してキラキラと輝いていた。空気は冷たいものの、「身を切る」ほどのものではない。昨日まで確かにあった冬の重苦しさは、綺麗さっぱり消えてしまっていた。代わって、春の気配がそこらじゅうに漂っている。屋根のふちに切り取られた、青さの目立つ高い空。屋敷の裏手の方から聞こえてくる、独特のリズムで鳴く鳥の声。昨日までくすんでいた庭の緑は鮮やかさを取り戻し、太陽に向かってすっくと立っている。
何となく、庭の草木に呟いてみる。ハロー、ハロー、僕はジョニィ。僕は
渡り廊下の途中ですれ違った年配の女中さん(よくお膳を持ってきてくれる人だ)に阿求の居場所を訊く。いつもの書斎にいらっしゃいます、との返答に安心して、書斎へのちょっとした迷路を急ぐ。話したいことが沢山あった。僕自身のことや、昨日の出来事について。
◆◇◆◇◆◇◆
……と、思っていたのだけれど。
書斎で僕を迎えた阿求は、頭から布団を被っていた。
頬が熱を持ったように紅く、ただでさえ白っぽい顔の色が余計に色を無くしていた。
見るからに体調が悪そうな女の子が机に向かって座っていた。
「んーむ、何の用ですか? もう十時ですから、特別に頼まないと朝御飯は無しですよー」
ちらりと書き机から目を上げ、こちらを振り返った目は潤んでいた。声も掠れ気味だ。
「昨日までは元気そうだったのになぁ、いつから風邪なんか引いたの?」
軽い調子で訊いた僕がバカだった。言葉が終わるか終わらないか、といううちに、阿求は特大のため息(仕方のないことだが、風邪のために少々熱っぽいため息だった)をひとつついて、持っていたペンを机に置き、こちらへ身体ごと向き直った。僕と彼女の背丈は随分違うが、僕の足を崩した姿勢のせいで、頭の位置は少し阿求のほうが上にあるような気がした。きちんと正座している阿求の視線は、自然と僕を見下ろす形になる。冷たい目だった。
「……貴方、昨日自分が誰のおかげで里まで辿り着けたと思ってるの?」
僕は首を捻った。よく思い出せない。ちっちゃい吸血鬼と話をして――会場に戻って――ステージで何か始まる……と、いうところで僕の記憶はぷっつりと途切れていた。思い出せない……目の前に背筋を伸ばして座っている風邪引きさんの思わせ振りな態度から察するに、僕は彼女に迷惑をかけたらしいが……いや、これ以上考えるのはよそう。阿求がだんだん苛立ってきたのが分かった。素直に謝ったほうがいいに決まってる。
「……ごめん、思い出せないんだ。ステージの前にいた辺りから覚えてない」
「プリズムリバー三姉妹の演奏は?」
その名前には聞き覚えがあった。ズボンのポケットにねじ込んであった紙切れを取り出す。ちょっとよれよれになった演奏会のポスター。主催者の名前は「ルナサ・プリズムリバー」「メルラン・プリズムリバー」「リリカ・プリズムリバー」……写真に写っている少女三人の顔をじっくりと見る。
……おぼろげだが……確か、この陰気な顔をした子はヴァイオリンを弾いていた。楽しそうな笑顔のこの子はトランペット。ちょっと得意げな澄まし顔のこの子は……なんだっけ? そうそう、「シンセ」だ。シンセは空を飛ぶピアノだ。何を言っているのか分からなくなってきたが、だんだん思い出してきた。確か、吸血鬼との対談の後、阿求たちを探して会場を彷徨っていたとき、僕はステージの前で、その三姉妹の演奏を聴いた。不思議な力を持つ彼女たちの演奏はとても蠱惑的で、思わず聞き入ってしまった……だが、そこから先は覚えていない。
その旨を阿求に言ってみると、彼女は頷いて言った。
「まぁ、注意しておかなかった私も悪いんだけどねぇ」
時折咳の混じる阿求の説明によれば、例の三姉妹は騒霊楽団(ポルターガイスト、って言うらしい。幽霊の一種だってさ)のメンバー。それぞれ膨大な魔力を持っていて、奏でる音色には、人の心を極端に昂らせたり静めたりするチカラがあるらしい。もっとも、普段は三姉妹の末が上手くそれらの音を中和しているから、大事はないそうなのだけれど……
「どうも、貴方はのめり込み過ぎたみたいね。一部の音――弦楽器だけ、とか――に集中しすぎると、その音色の影響をモロに受けるのよ。小鈴も同じでね……あの子と貴方と、二人して笑ったり泣いたりを繰り返してたから。終いには二人ともダウンしちゃったし」
「じゃあ、僕は……」
「私が押して帰りました。車椅子からずり落ちないように気をつけながらね」
おかげで余計な体力使っちゃった、と阿求は恨めしげに呟いて、布団をかぶり直した。かなり根に持っている。でも、楽団の事なんて知らなかったんだから……仕方ないだろう? なんとか許して貰えないだろうか。どうしようか迷っているうちに、僕の心を先読みしたかのようなセリフが飛んできた。
「別に怒っちゃいません。それより、ここに来たのは何の用ですか?」
そうだ。昨日のことを話しに来たんだった。
僕は気を取り直して、館に着いてから起きた出来事をかいつまんで語っていった。
着くやいなや、怪しげなメイドに連れ去られたこと。レミリア・スカーレットとの対談。暇をもて余した彼女が興味を抱いている対象は、現在この地にゆっくりと対流している得体の知れない雰囲気であること。その解明の為に、「発火点のようなもの」と推察される僕の記憶を覗いたこと。精神の形……不思議な精霊の中へ潜ったこと。
阿求はこの場面に強い関心を示した。
「へぇ、あの吸血鬼、そんな芸当もできるのねぇ」
「『妖怪は半分精神的存在だから』……みたいな事を言ってた気がする。たぶん」
「さもありなん。特に吸血鬼は人心掌握に長けているから、ない話ではないかな……それにしても、危ない事をしたものね。妖怪に心を開放するなんて……向こうがその気になったら、たちの悪い契約を強引に結ばされることだって有りえたのに」
「怖いな。でも、向こうにはその気はなかったんじゃ……ないかな。最後まで楽しそうだったし」
「楽しそう……って貴方、一体何をしたんですか」
「それを今から話すところだよ。続けてもいい?」
頷く阿求に、吸血鬼と二人で記憶の水底に飛び込んだ後の体験を話していく。
焼けつく砂浜に並んだ、三千頭の馬の群れ。遠い遠い昔の……1890年9月25日の記憶。広大な大陸を横断しようとする、勇敢な冒険者達の長大な戦列。その最初の15,000メートルを、レミリアと僕は列車に乗って追いかけた。スティール・ボール・・ランという名前のレース、その最初の15,000メートルを……。
「鉄球の男」ジャイロ・ツェペリ……不思議な術を使う彼もまた、荒れ野を疾走する一人だった。そして……最終盤の凄まじい加速で一位をもぎ取った彼の後塵を拝する騎手たち……の……中には、かつての僕が、ジョニィ・ジョースターが居た。何かに喰らいつくように、また何かに追い立てられるように走る僕が。
あらかた語り終えると、僕は言った。
「ここで記憶は途切れていた。レミリア・スカーレットの使った表現を借りるなら、『ずたずたに』……裁ち切られていた、らしい。裁ち切ったヤツがいる」
「……人の心に干渉する能力、ってこと?」
「分からないけど、多分そうだ……レミリアはこうも言った。『今の幻想郷に蔓延する悪しき気配の源は、ソイツかもしれない』って」
「悪しき気配?」
「それも、判然としない。でも、『貴方が発火点だから』……この異様な空気は、貴方が出てきたタイミングで始まったから……そう言っていたよ。彼女はそう言っていた」
「異様な空気……」
暫くの間、稗田阿求はじっと考え込んでいたが、やがてムスッとした顔で言った。
「んーむ……気持ち悪いわねぇ。事態は私たちの手の届かない場所で進展している。この間の襲撃だって、犯人も動機もさっぱり分からないままだし。まぁ、幻想郷はそういう場所なのだけれどね」
「『そういう場所』?」
「妖怪の為の箱庭ですからね。我々人間の預かり知らぬ高みで、上位の妖怪が切り盛りしている……幻想郷ってそういう場所よ? 最後の楽園だの何だの言われるけど、ヒトのためのものじゃないから……ヒトには知らされない真実が沢山ある」
「…………」
「ここの人は皆、ゆるりと生きてるし、妖怪も大体は能天気に見えるけどね。実態は仲良く一緒に暮らす共同住宅なんてものじゃないの。もっと生々しい、これは共生関係よ。流石に家畜と人間の関係ほど、知能の差が有るわけではないから……そうね、油虫と蟻、知ってる? そんな感じかな」
今度は僕が考え込む番だった。
ここが妖怪の為の
ここは心地好い。人は皆おおらかだ。先日街に出たときも、よそ者の僕を見る人の目は好奇のもので、決して敵意や侮蔑のものではなかった。超常の存在である妖怪も――新聞記者だという天狗も、あの闇の妖怪も、幼い吸血鬼も――総じて好意的だった。だが……
「妖怪は皆、『演技』してるのか? 楽園を作るために……」
「皆が皆、そうじゃない……ってところが、余計に問題を難しくしているの。例えばあのレミリア・スカーレットなんかはわりと、箱庭の管理運営については無関心な方ね。楽しければ参加するし、興味を失えば他を探す。こういうタイプのあやかしが大部分を占めているから、表面上は皆ちゃらんぽらんしてるわね」
「支配者側は? どんなのがいる?」
「有名どころで言うなら……妖怪の山――ほら、何処からでも見えるあれです――の天狗団の上層部とか、『境界の賢者』八雲紫だとか」
「八雲紫ってのは……」
「凄まじいまでの実力者ね。幻想郷全体でも五本の指に入るくらい。幻想郷成立当初から管理側に名を連ねる大妖怪で、神出鬼没が売りの胡散臭いお方です。たまーにだけど、里に姿を見せたりする……およそ幻想郷の出来事で、彼女の知らない所は無いでしょうね」
具体的に出てきた「八雲紫」という名前は、僕の頭の片隅にこびりついていた。昨日のレミリアの言葉が、玲瓏な響きで再び浮かび上がってきた。
(なにせあの八雲紫が、境界の賢者が沈黙している)
何かが起こっているのに、八雲紫は何もしていない、という意味だろう。阿求の言う通り、彼女が(また女なのか。いい加減懲りてきた)全てを知っているのなら……僕が「それ」を知るためには……どうすればいい? 答えは決まっていたが、口に出すのははばかられた。何処に居るのかも分からない、「恐るべき」管理者に直談判を仕掛けるなど! 馬鹿げた考えだ、と一蹴されるに違いない。黙っていよう。
僕の口が開きかけて閉じたのをよそに、阿求はそっぽを向いて卓に肘を突いた。
「霊夢さんも秘密主義だしねぇ……人間の内で一番管理側に近いのはあの人なんだけど」
「あの霊夢が?」
「彼女の仕事は異変やイレギュラーの解決と、大結界の管理。その大結界そのものが、八雲紫らの造ったものだからね。水面下で繋がりがあるっちゃあるのよ。具体的にどんな付き合いがあるのかは、話してくれないけど……歴史家を何だと思ってるのかしら」
勝手に話して、勝手にぷんすか怒りだした。風邪の熱のためか、普段より感情の起伏が激しい。「感情の起伏」……そこで、昨日の自分の涙が――館のバルコニーで……阿求の前で流した涙が――脳裏にちらついて、何だかちょっと恥ずかしい気持ちになった。どんな理由があれ、女性の前で大の男が涙を流すのは、少々みっともない。
それにしても、あの霊夢――ミョウジは博麗だっけ――が、そんな立場の人間だったとは、意外だ。しかし、なんとなくだが確信のようなものが、僕の中にはあった。彼女は正しい人間だ。一目姿を見て、声を聴いて、そうしたらすぐに分かったんだ。「彼女は善い、強い人間だ」って。彼女の善さは「秩序」とか「正義」とか(正義! 何だかよく分からないが、忌々しい響きだ。くそっ)、そういう凝り固まった言葉は似つかわしくない、奔放な善さだ。
そんな、奔放な彼女が維持している
「そう。ちょっと理不尽な気がしないでもないけれど、これがきっと最善なの。外の世界じゃあ、もっと理不尽で非効率的なシステムがまかり通っているわ。『政治』ってね。それに比べたら、ここの人たちは――人間も妖怪も、ね――心から自由な振る舞いを許されている」
一息ついて、阿求は「話が逸れたわね」と言った。
「ともかく、ここは完璧な箱庭です。脅威はすべて、発生した端から排除されて行きます。貴方とレミリア・スカーレットの言う『何か』が『何で』あるかはさておき、それが幻想郷に仇為す存在であれば、大妖怪たちが黙っていないでしょう。下手に手を出さなければ、安全そのものですよ」
「安全」か。
僕だって、別に進んで危険に身を晒すような真似をしたいわけじゃあないんだ。
だけど、「そいつ」が僕の記憶をどうにかしたんだったら……「そいつ」のことを知らなければいけない。記憶を取り戻すこと、それに比べたら「安全」なんてものは大して重要じゃない。分かってくれるとは思わないが……
そういえば、ここに来る途中、思いついたことがあった。そいつを言ってみよう。
「……それとさ、阿求、一つお願いがあるんだけど。いや、今の話とは大して関係ない」
「『敵を探しに行く』とか、『馬でそこら中を駆け回りたい』とか……それ以外なら、とりあえず聞いて差し上げましょうか」
「分かってるさ。分かってる……ただね、外出の許可を貰いたい。里を見て回りたいんだよ。それに、この間の鍛冶屋――ほら、鉄球だよ――あそこにも行ってみないと」
「ふむ」
阿求は掛け布団を被ったままもぞもぞと部屋の隅へ膝で歩いて行き、箪笥の引き出しから何かしら小物を幾つか持って戻ってきた。それらを一つ一つ取り上げて巾着袋に入れていく。
「なら、これを持っていきなさい。地図とか常備薬とか入ってますから。あまり量はありませんが、お金も入れておきましょう。鍛冶屋の親父殿には、私の名前を出せばわかってもらえる筈です。夕方までには帰って来るように。それから、くれぐれも面倒事は起こさないでね」
「止めないんだな」
念を押すように訊いてみると、阿求は首をすくめた。
「まぁ、見たところ傷も良さそう……いえ、とっても元気そうですし、別に問題はないでしょう。それに、ここ数日、貴方のことを見てきて、私も分かったことがありますから」
「何だい?」
彼女はニコッと笑って、僕に巾着袋と「人里案内」と書かれた小さな冊子を放って寄越し、こう言った。
「貴方は本当に忙しない、落ち着きのない人だ……ということです、ジョニィ・ジョースター。今でさえ、こうして『逸る気持ち』を脚の代わりに使って、せかせか歩こうとしているのだから」
僕は苦笑した。
いくら僕の方が背が高くったって、歳が上だからって、この娘には絶対に敵わないようだ。
そうとも、僕は落ち着きからは程遠い人間だ。それは何となく判っている。一度心を決めたら、一分一秒だってじっとしちゃいられない。例え脚が利かなくたって、ずっと歩きたがっている。
だったら、「どこか」に辿り着くまでずっと、歩き続けてやるさ。
「ありがとう。戻ったら、また話したいことが出来ているだろうから……」
「はいはい、分かったわ……気をつけてね。困ったら周りを頼るのよ」
そうしよう、と答えて、僕は彼女の部屋を後にした。
ちょっとお腹は空いていたし、右胸の皮膚が突っ張って痛んでいたけれど、それさえもが、今の僕にとっては喜ばしい事だった。僕は生きているんだ。
すでに日は高く昇っている。庭に面した縁側からもう一度空を見上げて、しばらくの間目を閉じた。身体の奥底から、何か暖かいものが湧き上がってくる。それは身体の隅々まで行き渡り、最後に胸の奥の辺りでぐるぐると渦巻き、日溜まりのような場所を拵えた。
今日はどこまでも行けそうな気分だ。
翻訳ものっぽくしてみました(そういうつもり)。
もうちょっとペースを上げられるよう、頑張ります。