再生と追憶の幻想郷   作:錫箱

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#32 Hello,world!! (昼と夜との境目で)

 鈴奈庵を出た僕は、往来の眩しさに目をすがめた。

 もうお昼前なのだから明るいのは当然としても、やっぱり貸本屋の中は薄暗かった。店番の娘の朗らかさとは裏腹に、店内には何か冷たくて暗いものが渦巻いていたようだ。きっと僕の想像も及ばないような力が――幽霊や妖怪のような――気味の悪い存在が居着いているのだろう。小鈴は大丈夫なんだろうか?

 まぁ、あの子も何処かしら「普通じゃない」ところがあるような気もする。それが阿求の言っていた「能力」とやらの産物なのかどうかは、判らないけど。

 

 借りてきた本を見つめてみる。「シェークスピア戯曲集」。目についた所では、僕の国の言葉で書かれている本はこれくらいしかなかった。他はほとんど全てが難しげな漢字だらけの本で、中には漢字しか印刷されてないものまであった(信じられるか? あんなトゲトゲした文字が何処までも続くんだぜ)。

 この本に別段興味があったわけでもないけれど、折角彼女の店に来たのに、何も借りていかないなんて悪い……と思って、とりあえずといった感じで借りてきてしまった。いや、いずれ読むんだけどさ。

 

 とにかく、いつまでも店の前に居てもしょうがない。

 僕は巾着袋に戯曲集を押し込んで、代わりに「人里散歩」の小冊子を取り出した。

 地図によれば、鈴奈庵は人里のかなり中心に近い場所に位置しているらしい。近くには常設の市場があったり、飲食店が並ぶ通りがあったりして、地図を見ただけでも賑やかな場所なのがよくわかる。眼前の通りも人の往来が激しい。また時間があれば、そういうトコにも行ってみたいな……などとぼんやり考えつつ、僕の目は今日の目的地である、里の鍛冶屋を探して地図上を滑っていく。 

 

 紙の上の鍛冶屋は、ここ鈴奈庵からそう遠くない場所にあった。そこの角を右に曲がって、二つ先でもう一回右に曲がれば、すぐだ。見た感じ(のろい車椅子でも)、十分もあればたどり着けそうだ。

 地図から顔を上げて空を見る。

 僕の思い出の中の空は……いつか大昔にも見上げていたはずの青い天井は、もうどこか遠くに消えてしまったけれど、こんなにも気持ちの良いものだっただろうか。今日は本当にいい天気だ。

 今思い出せるのは、記憶をたどった短い旅のなかで見上げた、あの夏の終わりの空。焼けつく砂浜、白い逆光、底抜けに青い空は雲ひとつない眩しさ。情景がありありと浮かんでくる。耳を澄ませば、さざ波と蹄の音が……サンディエゴ・ビーチ。思い出の、そして旅路の始まり。

 

 地図を閉じて前を向く。

 僕はもう一度、「あそこ(過去)」に戻らなければいけないんだ。

 その足掛かりになるはずのものが、僕を待っているはずだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 暖簾の前に立った(座った? と言えばいいのか?)だけで、息の詰まるほどの熱気が全身にぶち当たった。当然のこと、鍛冶屋ってそういう場所だ。いつだって炉には火が轟々と燃え盛っているし、その周りではむさ苦しい男たちが汗水流して働いているのだろうから。そんなイメージだ。

 鈴奈庵とはまた違った意味で、入るのに勇気が要る店だなぁと思いつつ、僕はおそるおそる中を覗いてみる。予想通りの分厚い熱気のこもった工房だ。広い土間に炉やら金床やらがあって、所狭しと工具らしきものが置いてある。そのごたごたの奥に、壮年の男が一人、こちらに背を向けてしゃがみこんでいた。短い、白いものの混ざった頭髪。小柄ながら引き締まった身体。彼の手元の辺りから、何かを擦るような音が聴こえてくる。

 

 どう声を掛けたものか迷いながら、暖簾をめくって中へ入ろうとした時だった。

 

 「何か用かね」

 

 男――恐らく鍛冶職人――が声を発した。明らかに僕に向かって放たれた声だったが、彼は僕に背を向けたままだった。辺りにはまだ、何かを磨くようなガシガシという音が響いている。

 僕は少し面食らった。僕は何も言わずに入ってきたのに、彼はどうやって感づいたのだろうか。

 戸惑いつつも、僕は彼に「用」を話す。出来るだけ敬意を込めて。

 

 「阿求……いや、稗田阿求……が、数日前に注文した『鉄球』を取りに来ました。僕は……」

 

 言葉が終わるか終わらないかといううちに、工房を埋め尽くしていたガシガシという音は止み、男はこちらにゆっくりと向き直った。巌のような肌に刻まれた皺、鋭く黒い眼光。僕はたじろぎ、反射的に口をつぐんでしまった。

 たっぷり数秒間僕を見つめたあと、壮年の職人は口を開いた。

 

 「ふん。事情は聞いておる。お前さん、随分難儀したようだな」

 

 「いえ……」

 

 「難儀した」という言葉が、僕のどの行いに向けられたものなのか判断するのに、少し時間が掛かった。恐らく、僕のこの脚の事だろう。もしかすると、僕が掘り出されたことも、里では騒ぎになっているのかもしれないし。考えている間にも、彼は淡々と喋る。声は掠れていたが、奇妙な力を感じさせた。

 

 「どうして鉄の玉なんぞ欲しがるのか知らんが、稗田様の御注文となればな。何か深いわけが有るんだろう……礼もたっぷりしてもらったしなぁ……ほれ、こっちへ来んか」

 

 言われるがままに工房の奥へ、職人の元に近づいてみる。

 彼の足元に敷かれた畳の上に、黒光りする球体が二つ転がっていた。大きさは握り拳大で、表面に微かな紋様のようなものが刻まれている。艶のあるそれは、夢の中で見たジャイロ・ツェペリの鉄球に瓜二つだった。

 

 「刻み目は、ほれ、そいつを参考にした」

 

 職人が顎で指し示す方を見ると、少し離れた部屋のすみ、床の間のような板敷きに、黒い歪な塊が鎮座しているのが見えた。職人は「よっこらしょ」と立ち上がり、その塊を手に戻ってきた。

 

 「稗田様が持ってきた、『球の片割れ」だ。そんなに複雑な紋様じゃなかったから、真似するのは難しくなかったなぁ……ところでお前さんよ」

 

 壮年の職人は一旦言葉を切った。皺の奥から、射抜くような眼光が僕を指した。

 

 「……本当に、こんなものが欲しいのかい」

 

 「……?……」

 

 言葉の真意を図りかねて、僕は絶句した。

 

 「……どういう意味ですか?」

 

 「言葉通りの意味だよ。(あん)さんは『こんなくだらないもの』が欲しいのかい」

 

 彼は『こんなくだらないもの』を強調して吐き捨てつつ、彼自身が造った物であろう鉄球をピンと指で弾いた。それがまるで、自分が造った道具の中でも一番下らない、実用に耐えないモノだとでも言わんばかりに。

 僕は鉄の球を手に取った。えもいわれぬ重み、皮膚に染み入る冷たさ。薄暗い光源の元でも輝く、球面の無表情な美しさ……。

 

 「何がいけないのですか?」

 

 初老に差し掛かった男は答えた。

 

 「そいつはただの(くろがね)だ。それ以上じゃない」

 

 職人は歪な鉄塊――割れてしまった半分――を、僕の鼻先に突きつけた。

 

 「『これ』は違う。何か知らんが、『念』か『霊』のようなモンが籠っとる。これを真似るという意味では、この鉄球二つは失敗だ。お前さんに感じ取れるかどうかは分からんが、触って比べりゃ分かるかもしれん。ほれ」

 

 差し出された鉄塊に触れようとして、僕は少し躊躇する。

 指先が触れる寸前に、あの声が聴こえてきたような気がしたんだ。

 

 【いい始まりだね】

 【いい始まりだね】

 【ジョニィ】

 

 不気味な音声は、心の中で耳を塞ぐと聴こえなくなった。

 (聴く勇気もあれば、耳を塞ぐ勇気もある)

 あれを聴かないで済むなら、僕はどんな言い訳でも使っただろう。

 指を伸ばして、触れる――

 

 

 ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

 

 暗闇の中だった。

 何回か足を踏み入れた、記憶の淵に通じる闇。

 鋭い痛みが、僕の全身を滅多刺しにしていた。

 ――痛い――呼吸が一つ、一つ、それだけで死にそうだ……

 痛みを堪えようと、僕はますます目を閉じて――

 

 【……知ったこっちゃねぇよォーッ……】

 

 ふいに、身の内側から声が響いた。

 僕のじゃない。これは……。

 目を開くと、オレンジ色の光が目を焼いた。夕焼け……いつか、どこかの夕日。僕はそのただなかに立っている。目の前には、朽ちかけた木のドアがある。「何の」ドアだ? 何かがおかしい。これは本当に僕の記憶か? さっきの声は……?

 

 おもむろに、僕の『片脚』が上がる。

 脚が動いている。それを見た瞬間、「これは僕のじゃない」と確信した。

 脚は身体に引き付けられ、力を溜め……目の前のドアに向かって突き出された。破壊音と共に、脆い木材がひしゃげ、蝶番が跳ね飛ぶ。土埃とともに、ドアの内側があらわになった。

 

 薄暗い、粗末な小屋だ……

 今にも崩れそうな外壁。埃を被った床板。生活感がまるでない。

 部屋の中央に、人影が二つ。一つは倒れ伏し動かない。

 もうひとつは立っている。毅然とした眼差しが、部屋の薄暗がりの中で輝いた――

 

 

 ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

 

 「記憶」は、潮が引くようにゆっくりとフェードアウトしていった。

 気がつくと、あの職人の顔が目の前にある。

 

 「どうだ。(あん)さんにも分かったかい」

 

 僕は大きく息を吸い込んだ。

 

 「……えぇ。少し」

 

 「そうだろう。わしは妖術のことなんぞ何にも知らんが、この道は長いからな。これはがらくたには違いないが、何かそういう力の有るものに違いなかろうよ」

 

 きっと、職人の感じ取ったものと、僕の見た光景は違うモノだろう。僕ははこっそりと思う。察するに、彼の感じた「念」とやらは「雰囲気」のようなもので、漠然としていたに違いない。何かが見えたのなら、それを僕に教えれば良いのだから。この壊れた鉄球は――きっとジャイロ・ツェペリに関係するものだろうが――「何か」のワンシーンを僕にだけ見せてくれた。小屋――あの男は誰だ? 薄暗い部屋に輝いていた、あの強烈な視線が脳裏に焼き付いて離れない。

 

 また謎が増えてしまった。

 まぁ、それはまたおいおい考えていくとしよう。とりあえず……

 

 「鉄球、ありがとうございました。この片割れは……」

 

 「お前さんにやるよ。ここに有ったってどうしようもない。持ってけ持ってけ」

 

 ここを出よう。何だか蒸し暑いし、この親父さんはどうも苦手だ。

 鉄球二つと半分を巾着に放り込んで(もう一杯だ)、もう一度礼を行ってから戸口に向かう。代金は阿求が払っていたみたいだし、もう大丈夫だろう……と出ていこうとした時だった。

 

 「あぁ、訊きてぇことがあるんだ」

 

 背後から呼び止められた。

 立ち止まるが、僕は振り返らない。

 

 「結局、それを何に使うつもりなんだ?」

 

 少し考えて、僕はにやりと笑った。

 

 「化け物退治、かな」

 

 そんな大それたこと、僕には出来やしないけどね。

 でも、「あの声」は……化け物だ。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 鍛冶屋をあとにしてからも、僕は特に目的もなく街をぶらついた。市場を見て回ったり、道行く人々を何となく眺めたりして、それこそ意味のない時間を過ごした。途中でお腹が空いた時は、例の「人里散歩」で良さそうな店を探して食べに行った。

 沢山店があって悩んだが、結局阿求一押し(ご丁寧に丸で囲んであった。行きつけなのかな)の「饅頭屋」にした。読み方がさっぱりだったので、何の頭を売っているのか少し心配だったけれど、結局出てきたのは、もちっとしたパンに甘い何かが詰まっているお菓子だった。普通にイケたからよかったけれど、日本語は難しい。

 

 買った「饅頭」(阿求に読み方訊いてみなきゃ)を頬張りながらぶらついていると、ふいに道の向かいから、子供たちのはしゃぐ声が聴こえてきた。見ると、大きめの家のような建物が建っていて、そこから着物を着た子供たちが駆け出してくるところだった。戸口に立っている長髪の女性が、はしゃぐ子供たちの後ろ姿を見送っている。何だろう? 立ち止まって見ていると、彼女は僕に気づいたらしく、「おや」という顔をした。

 

 「……おぅい、君」

 

 彼女は向こうから歩いてきた。当然知らない人だし、どうしたものか分からない。仕方がないから、僕は黙って彼女がこちらに来るのを待っている。

 近づいて来るにつれ、女性の人相が細かく判ってくる。不思議な風貌だ。白と銀と青とが混ざり合ったような色の見事な長髪。端正な顔立ち。青いワンピースのような服、変てこな帽子 (レミリア・スカーレットといい魔理沙といい、変なのが流行っているのか) 眼差しは深い黒のようだが、これまた奇妙な彩りが混ざっていた。

 女性は僕の前まで歩いてきてこう言った。どこか安心したような表情だった。

 

 「少しは元気になったみたいだな。見つけた時はどうなることかと思ったが」

 

 「えーと、あなたは?」

 

 「や、これは失礼した。私は上白沢と言ってね。そこで子どもに物を教えさせてもらっている者だ。君が稗田屋敷に運び込まれたとき、偶然私も側に居たものだから。あの時は色々と……んまぁ大変だったが、無事なようで何よりだ、うん」

 

 なんだ、そういうことか。

 そういえば、何処と無く見覚えがあるような気がしないでもない。あの日 (一瞬だけだろうが) 姿を見たのかもしれない。どうも僕を救護してくれたらしいし、お礼の一つでも言っておかなきゃ。

 

 「お世話になりました」

 

 「ん、いいんだよ。当然のことをしたまでだ」

 

 上白沢さん (舌を噛みそうな名前だ) は笑いながら首を振る。言葉遣いや振る舞いは中性的で砕けてはいるが、端々から理知的な雰囲気が滲み出ている、そんなしゃべり方だった。先生……ね、なるほど。

 

 「……さてと、私は居残り組の指導が有るから、ここらで失礼しようかな。見ていないと逃げ出す輩も居るし……君はこれから何処へ行くんだ?」

 

 当てはない、と僕は答えた。本当のことだ。もうしばらく里をぶらぶらして、日が暮れたら阿求の家に帰ろうかな、なんて思っていたのだから。それをそのまま言うと、

 

 「そうかい。ここ()は良い場所だ。ゆっくりしていくといいさ……君、えーっと……」

 

 「あぁ……僕はジョニィ。ジョニィ・ジョースター。どう呼んでくれても構わない」

 

 「すまない。えー……ジョースター君。気をつけてな」

 

 そう言い残して、上白沢さんは道の向かい、どう見ても校舎に見えない建物へと小走りで戻っていった。彼女の後ろ姿が戸口の奥へ消えるのを見送ってから、僕は再び進み始めた。

 

 ……「良い場所」……か……

 辺りは相変わらず賑やかで、活気に満ちている。

 それは他人の群れ。僕の知らない、僕を知らない、でも暖かい人々の生きる気配。

 心地好い感触だった。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 夕暮れが家々を染め上げ、地に黒い影を落としている。

 興味のあるものを見つけては、あっちにふらり、こっちにふらりを繰り返す。そんな風にしてのんびりと過ごしている内に、僕はいつの間にか街の外れに来てしまっていた。ずいぶん遠くまで来てしまったようで、実はそうでもない。地図を見てみると、割に稗田邸が近い。二十分も歩けば帰れそうな距離だ。

 

 空と地平線の境界は燃えるようなオレンジ色。人家もまばらなこのあたりでは、そこかしこに固まって生えている木々 (林、というほどには大きくない) のシルエットが長く長く伸びて、僕の歩く畦道を、風に合わせてざわざわと揺れる不気味な道に変えている。

 

 何処かでカラスが啼いている。どこだろう、と空を見上げた瞬間、視界が急に暗さを増した。

 道端に聳え立つ大樹の下だった……

 ざわめく葉の音に耳を傾けていると、わずかずつだが不安がさざ波のように押し寄せてくる。僕の頭上に覆い被さる黒い大樹の、その葉の一枚一枚が擦れ合って立てる音……間断なく続く不安定な……時折混ざるカラスの叫び声さえも掻き消すように囁き続けている。

 僕はどうしようもなく不安になる。

 早くここを……樹の陰を……抜けてしまおう。車椅子の車輪に掛けた手に、一層力を籠めた時だった。

 

 

 『……逢魔が時。斯様な刻に何処へ行く』

 

 

 その声は真正面から聴こえた。

 木の葉のざわめく音を圧して耳に届く、低い女の声。

 

 

 『か弱い人の子が……たった一人でのこのこと。さぁ、どうしてくれようかな』

 

 

 語尾は不気味な忍び笑いに変わっていった。

 これは……ヤバい。何か危険だ。僕の頭の中で、本能も理性も揃ってそう伝えていた。辺りを見回すが、正面から聴こえているはずの声の主は影も形もない。ただ、葉擦れの音に混じって漏れ出てくる暗い笑い声。不思議と激しい恐怖は無かったが、少しずつ背筋が冷えて行くのがわかった。

 今、「あれ」を呼べるだろうか。身を守るために。

 しかし、いざ「呼ぶ」となるとやり方が分からない。どうすればいい? どうやったらあの「精霊」を呼ぶことができる? そもそも、呼び出したところで身を守れるのか? そう考えている間にも、声はだんだんと近づいてきた。

 

 

 『惑うているね……ふふ、私は何処かな……?』

 

 

 恐らく相手は妖怪の類いだろう。レミリア・スカーレットほどのものではないが、確かに空気を圧する「気配」のようなものがある。何が目的なんだ? 「妖怪は人を喰うとは限らない」……阿求はそう言っていたが……まだ相手の出方を見た方が良いだろうか。どのみちこの身体では遠くへ逃げることは出来ないのだから……どうせなら。

 気配に感覚を研ぎ澄ませる……目を閉じて……

 

 

 『おやおや、観念したのかい……それなら……』

 

 

 声は相変わらず僕の正面から。でも気配は……背中を震わせている。

 背後か――

 僕は車椅子ごと無理やり横に倒れ込んだ。

 すぐさま身を捻ると、さっきまで僕の「背後5メートル」だった位置に何か、大きな丸い物体が鎮座しているのが視界の端に滑り込んできた。半ば反射的に、丸いものに向かって指を向ける。やってみる価値は……

 どうすればいいのかは分からない。けれど、『どうにかしたい』――その漠然とした思いが胸の奥から迸り出た瞬間、その名前は自然と口を突いて出ていた。

 

 

 【……タスク……】

 

 

 瞬きをするよりも僅かな時間、僕の右手の人差し指がカッと熱くなったかと思うと、そこから小さな何かが飛び出て、空気をブゥンと切り裂きながら飛んでいった。「出てきて」くれた! あの夢の通りに……感慨に耽る暇もなく、僕の爪は真っ直ぐな弾道を描いて飛び――着弾した。

 

 バスン、という鈍い音がした。

 ややあって、すっとんきょうな叫び声が響いた。

 

 

 『……ぎゃぁぁああああぁぁぁぁ痛ぁぁぁーい! なんか刺さったぁぁぁぁ!』

 

 

 なんだろう。

 その声を聴いた瞬間、全身の力が一気に抜けるような、むしろ安心してしまうような、そんなアットホームな可愛らしい叫び声だった。裁縫針かなにかが指に刺さったのを、大袈裟に騒ぎ立てる女の子の声みたいな感じの、微笑ましい大騒ぎ。僕は一瞬呆然とした。

 

 

 『もぅ何なのさ……って、っとっと……ぬわぁ!』

 

 

 と、僕の頭の上の方、樹上から何か黒い塊が降ってきた。バキバキと小枝を折りながら落下してきた塊は、僕の車椅子の側にこてん、と落っこちた。よくみるとそれは人の形をしていて、「うーん」……と……人の声で、年端も行かない感じの女の子の声で唸ったまま、倒れ伏している。

 何なのだろう、この状況は。何がなんだかサッパリだ。

 無様に倒れているアレが危険な相手かどうか (とてもそうは思えなくなってきた) はひとまず置いても、不測の自体に備えないという手はない。何はともあれ車椅子に戻ろうと思い立ったところ、地面に座り込む僕の左肩に何かが当たった。恐る恐るそっちを向くと、何か大きな丸い物体がそこにはあった。一瞬ぎょっとしたが、すぐにその物体の正体は理解できた。

 

 

 「……傘……?」

 

 

 それは、大きなこうもり傘だった。近くで見てみると、なんと言うべきかくすんだ紫色をしている。薄暗がりでよく分からないが、布地の部分から大きな細長いものがびよん、と延びている。妙な傘だ。

 開いたままの状態で、風に吹かれて何処からか飛んできたらしい……と、ある可能性に思い至った。さっき僕の背後にあった謎の丸いモノ。これこそがその正体だったのではないか。だとしたら人騒がせな話だ。ただの傘とは……

 ヘンテコな傘をその場に置き去りにして、僕はとりあえず車椅子に這い寄り、そこに身体を落ち着けた。大きく息を一つ吐いて、前を見据える。

 

 どうしよう。

 一刻も早く阿求の家に帰りたいところだが、進行方向にいるのだ。アレが。妖怪だかなんだか分からないアレが。二メートルも離れていないからよく見える。形そのものはどう見ても普通の人間の女の子だ。短めに切った髪、白いブラウス、小さなケープ、シンプルなデザインのスカート。見た目が当てにならないことは、もう十分に分かっているつもりだけれど……

 今まさに、それは起き上がろうとしている。

 

 

 「うぅー……私としたことが、まさか木から落ちるとは……はっ!」

 

 

 妖怪だかなんだか分からないそれ……いや、もうやめにしよう、女の子は突如がばりと立ち上がった。目を丸くして辺りを見回し、目の前の僕の顔をまじまじと見つめ、僕の斜め後ろに転がっている傘を見つめ、僕と傘の間を視線が数往復した。そして――叫んだ。

 

 

 「っ……っ返せぇぇぇえええええ!」

 

 「……何を?」

 

 「傘! あと……誇り!」

 

 

 女の子は相当に動転している様子だった。傘? 彼女の持ち物だったのか?

 少女は最後に「馬鹿ー!」とやけっぱち気味に叫び、転がっている傘を取り戻すべく猛然と駆け出そうとして――その一歩目で見事にすっ転んだ。べしゃん、と盛大な音が響き……数秒後、すすり泣きのような音が顔の下から漏れ出てきた。あとはぶつぶつと恨み言のような何か。

 

 何もない所で良く転んだなぁ、と思って彼女がつまづいたポイントを見てみると、僕の巾着袋が落ちていた。横っ飛びに車椅子から倒れた時に、飛んでいったらしい。なるほど、あれを踏めば誰だって転ぶ。鉄球が入っているのだ。それにしてもまぬけな感じだ。

 

 ……ついさっきまで辺りに満ちていた威圧感のような気配は、すでになごりすらなかった。

 しかし、この子が普通の人間じゃあない事は嫌でも理解できる。あのオーラ。髪の色は鮮やかな空色。それに、さっき一瞬見えた――瞳の彩りが左右で違う。そういう体質の人がいることは知識として知っている。しかし、赤と水色の瞳などあり得るのだろうか? 吸血鬼の眼を思い出す。生きた宝石のような眼光……。

 

 もう一度瞳の色を見てみたい気もする。 (多分だが) 危険はないはずだ。さっきの様子だと。

 というわけで、この無害そうな妖怪少女を観察してみることにした。あわよくば話を聞いてみたい……という願望も抱きつつ、うつ伏せの背中をじっと見る。

 

 結局、少女が立ち直ったのは十分ほど後だった。

 そしてこのささやかな出会いが、僕をまた一歩だけ前へ進めることになる。

 果ても見えない旅路の出発点へ……

 

 

 

 





#30あたりであと二、三話とか言ってましたが、ちょっと延びそうです。
第一章は次回#33「Hello,World (迷い子の歌)」、もしくはその次#34で完結です。これは (流石に) 最終決定です。

その後は間章を挟んで第二章へ。ストーリー展開はもう少しダイナミックになる予定です。
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