再生と追憶の幻想郷   作:錫箱

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Intermission:HAPPY
色は匂へど


 

 

 

 一陣の風が境内を駆け抜ける。

 春の陽気をいっぱいに孕んだ、暖かく柔らかなつむじ風である。

 鎮守の森には微かな桜花の匂い。

 風が運んでくるのは桜の香気にとどまらず、ときおりその花弁をも、幾つかさらってゆく。

 博麗の名を冠する社に渦巻くは、桜花の風車。

 まさに桃源郷の装いであった。

 

 社の裏手に並び立つ桜の林はとみに華やかで、見るものの心を奪い去るかのようである。現に、ここに一人……魂を奪われた少女がいる。社の縁側にちょこんと腰を下ろし、膝に牡丹餅の皿など乗せている。その手にも牡丹餅がある。が、口元まであと数寸の地点で静止しているところを見ると、牡丹餅(こころ)ここにあらずといった風情である。

 

 春風に揺れる蜂蜜色のお下げ髪。

 霧雨魔理沙はお花見の真っ最中である。

 

 彼女にとって、この桜は特に目新しいものではない。親友というべき (腐れ縁と呼称すべきか) 知己、博麗霊夢の住居兼職場である博麗神社。陽当たりの良く、不可思議な力に満ちたこの場所は、他所よりも随分開花が早い。サクラサイタ、だから魔理沙はお花見に参上した。ただそれだけのことである。

 一昨日から、この神社で花見の会が催されており、今夜が最終日である。立地の都合上、気軽に人間が訪れることの難しい場所であるため、あまりまともな人間は集まらない。夜になると集まってくるのは、酒だ肴だ大騒ぎだ……と、お祭りごとの好きな妖怪やそれに準ずるモノが多数、及び「まともでない」人間が少数。後者の列に身を置く霧雨魔理沙ではあるが、本人曰く「いたって普通の魔法使い」とのこと。無論冗談の範疇ではある。

 

 毎年毎年、桜は春と共に訪れる。

 斜に構えた魔理沙の理性は「見飽いた」と吐き捨てる。感性はそれを振り切って、視界一杯に広がる桜の林の満開に惹かれ、吸い込まれ、そうして時の経つのを忘れている。絢爛たる桜林には魔力があった。人を惹き付けて止まない、一種の魔力が。

 ふと、魔法使いの少女は気づく。

 

 

 (……私が欲しいのは、これか)

 

 

 彼女が目指すもの。それは空のむこうに煌めく星の輝きや、にわか雨のあとに掛かる虹の半円に似ている。人の目を奪うような光。ひとたび脳裏に焼き付けば、二度と忘れることが出来なくなるほどの、強烈な輝き。

 ――皆をあっと驚かせる、スターダスト( 星 屑 の )レヴァリエ( 夢 想 曲 )

 ただそこに在るだけで、理由もなく心を惹き付けられるような、そんな魔法を操りたい。

 ……魔性の魅了(チャーム)は、目の前の桜に似ているのだ……

 

 いい加減存在を再発見した牡丹餅を頬張りながら、物思いに耽る魔理沙であった。

 己の将来や世の世知辛さを憂い、また同時に「なぜ桜餅じゃないんだ」などと浪慢もへったくれもないことをも同時に考えている。

 

 背後で、床板の軋むわずかな音がした。魔理沙が振り返ると、腰に左手を当て、畳を踏みしめて仁王立ちする、巫女装束の少女がいた。右の手には大振りの虫籠らしき物体を提げている。面白くもなさそうな顔で、魔理沙を見下ろしていた。「こんな仏頂面でも絵になる奴だな」……魔理沙はちょっと悔しいような、妬ましいような、自分でもよくわからない複雑な気分になった。

 

 博麗霊夢。それが巫女の名前。素敵に自堕落な、幻想郷の護り手。

 魔理沙は、心中に渦巻く想いを意識の奥に押し込めながら、道化たように言う。

 

 

 「良い眺めだ。なぁ、ちょっと早いが始めないか? 花見で一杯」

 

 「真っ昼間から酒かっ喰らうほど、落ちぶれちゃいないわよ」

 

 

 飽きれ顔で、しかし口調はぴしゃりと痛烈に言ってのける霊夢。じゃあ昼間に炬燵で煎餅噛んでるのはどうなんだ……と、一月ほど前の霊夢の醜態 (平常運転とも言える) を掘り起こして、反撃してやろうか、などと魔理沙が目論んでいるうちに、霊夢が隣へ腰を下ろしている。

 

 

 「はー、疲れた。花見ってわりかし準備がめんどくさいのよねー……ここんとこあんまり眠れてないし。あーあ、時間が足りないわぁ」

 

 「花と客が待ってくれないだろ。まぁ神社としては稼ぎ時だし、精々頑張ることだな。ふはは」

 

 「牡丹餅の分は手伝って貰うわよ。表参道に提灯吊るすの、やってよね」

 

 「はーいはい、わかりましたよー」

 

 

 心底面倒くさそうに生返事をする魔理沙に、霊夢は眉を吊り上げる。

 

 

 「あんたねぇ……このちっこいのだって働いたのよ。酒器の準備で」

 

 

 そう言って、膝の横に置いてある四角い虫籠をぽんぽん、と叩く。

 すると、中から「わぁー」……と、すっとんきょうな声が聞こえてきた。声量こそ蚊の鳴くような大きさだが、声色は年端もゆかぬ少女のもの。ややあって、虫籠の戸が中から開き、小さなシルエットが姿を現す。

 

 身の丈五寸ほどの人間である。

 青みがかった紫色の髪を短く切り揃えた、ミニチュアの少女。色の白い華奢な体躯もあわせて、まるで人形のよう。唐紅の下地に美しい刺繍の入った着物を身につけた姿もまた、人形然としている。しかし、赤く輝く両の眼は、生きている人間のそれである。足元が有機的にふらついている (彼女の仮初めの住まいを突如襲った揺れのためか) のも、この小さな姫君が造り物などではないことを示している。

 

 

 「……んー、働いたけどさ……揺らさないでって何度も……」

 

 

 彼女は名を少名針妙丸という。

 かの一寸法師に端を発する小人族のひとりであり、先に起きた、とある異変の消極的首謀者でもある。天の邪鬼の甘言に乗せられ、一族の宝具である「打ち出の小槌」を持ち出して、多くの古道具を付喪神化し、弱者解放の為に死力を尽くして戦った彼女であったが、結局未完に終わっている (尤も、針妙丸自身が天邪鬼によって騙されていたことが判明したため、最後の決闘は「けじめ」をつける目的で戦われた特殊な例である)。

 

 

 「折角調えたいん……いんて……インテリア? が台無しじゃない、もう」

 

 

 「これだから割れ物は置けないのよ」などと、腰に手を当ててつむじを曲げている。

 そこへ、風に吹かれた花びらがひらり。舞い降りて、見事、小人の姫の横っ面へ貼り付いた。淡い桃色の薄皮の下から聴こえてきた「笑うな!」というくぐもった声に応えて、巫女と魔法使いは大いにクスクスと笑ってやる。

 

 針妙丸は異変後、小槌の魔力の枯渇で、身長が人差し指ほどまで縮んでしまった際に、霊夢によって虫籠で保護された。なんだかんだこれも一つの縁ということで、針妙丸の元々の居城「輝針城」に戻ってからも、こうしてちょくちょく泊まりに来ている。「泊まりに来る」という字面のわりには長期滞在が多いが……事実、霊夢が貸し与えた虫籠の内装は、もはやミニチュアの家と言って差し支えないほどに美しく、また居心地の佳いように改造されている。

 

 

 「いや、こいつが手伝ったからって、私が積極的に提灯を吊らなきゃいけない理由にはならない」

 

 

 誤魔化しに茶を啜りながら愚痴っぽくこぼされた魔理沙の台詞に、何事も無かったかのように薄桃色の膜を顔から引き剥がした針妙丸も同調した。

 

 

 「そうそう、私だってボランチアーのつもりでやってあげたんだから」

 

 「うん。やらないとは言ってないんだ。きびきびと働く私には期待できない、って意味だよ」

 

 「めんどくさい連中ねぇ……わかったわかった、手伝うなら何でもいいから」

 

 

 諦めの色濃いため息をついて、一区切り。霊夢は牡丹餅の皿へ手を伸ばし、大振りな一つを取った。膝元で「私にも寄越しなさい」と要求する小人に端っこをちぎって押し付けると、自分は一口で半分ほど口の中へ押し込む。大きな塊を呑み込みかねて、魔理沙の手から湯飲みを奪い取って中身を干す。

 切羽詰まった親友の様子に、魔理沙は苦笑しながら問う。

 

 

 「大体なんで牡丹餅なんだ。三色か桜餅が筋だろうに」

 

 「……葉の塩漬けが間に合ってないのよ。里で元玉兎がやってる団子屋も品薄だったし」

 

 

 美味しければ何でも良いでしょ。

 そう言って餅を飲み下す霊夢。まぁそうかな……と曖昧に頷き、茶を淹れ直す魔理沙。二人の会話を聴いているのかどうかよくわからない針妙丸、春だねぇ、と呟いて空を見上げる。

 彼女の瞳に写るのは、華麗さを争うかのように咲き乱れる桜。

 その向こう側に広がる、白く霞んだ空の薄青さ。

 低く立ち込めた群雲……遠く鳶の飛び交う……

 

 静かに、鮮やかに、幻想郷は穏やかな春を迎えていた。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 このところ、町のあちこちを散策して回るのが、半ば僕の日課になっている。

 

 あまり遠くまでは行かない (車椅子で長距離を移動するのはもうこりごりだ)。 当然、里の外にも出ない。ただ、畑の間を繋ぐ道を延々と、飽きるまで辿ってみたり、町の中心部に流れる運河に沿って進み、にぎやかな市場を見に行ったり、漫然とふらふらしているだけ。稗田の御家にずっと腰を据えているのも何だか居心地が悪くって、どうにか時間を潰そうとしたのが、そもそもの始まりだった。一度探索を始めれば、あとはもう流れに乗って進んでいく。気の向くままに、心が指し示す方へと行く。

 

 この試みが日課になってしまってから、もう二週間経ってしまった。初めての道を通れば、まったく新しい発見があり、あるいはこの間通ったことのある道でも、日ごとに……気づかないうちに、少しずつ変わっていく様子を見ることができる。日に日に青々と繁ってゆく草木はもちろんのこと、道を行き交う人々は代わり映えのしないようで、実は多種多様な表情と振る舞いを見せている。皆と一緒に喜んだり、悲しんだり、大騒ぎしたり、愚痴をこぼしたり出来る彼らが、一人で町をうろつく僕には……少し……羨ましくもある。

 

 ある日の朝、運河沿いを散策していたときのことだった。それまで道端に雑然と平たく繁っていて、気にも止めずにいた雑草が、その日を境として一斉に、長い茎の先へかわいらしい黄色の花を付けていた。風に吹かれて、どこか愛嬌のある感じでゆらゆら揺れている丸いやつ……名前がわからない。何処かで見た覚えもあるのだけれど、やっぱり思い出せない。僕の国にも咲いていたのだろうか? 無事だったはずの、僕の「思い出ではない、知識としての記憶」も、もしかしたら抜けている箇所があるのかもしれない。

 ああ、思い出せない。もどかしい。こういう時にはどうすればいいのか……最近、やっとその答えが分かってきた。(思い出は仕方ないが) 知識が足りないのなら、埋めればいいのだ。

 

 

 ==========

 

 

 手の届く所に、書物を取り扱う場がある……というのは良いものだ。何かちょっと気になることが出来た時に、解決の糸口がたやすく見つかる。

 というのは、百メートルも離れていない近場に、例の貸本屋……「鈴奈庵」があるから。

 そんな訳で、早速かの古書店を訪ねてみる。

 

 

 「植物図鑑ですか。えー……たしかこの辺……よっ、と。これなんかどうでしょう?」

 

 

 渡されたのは、豪華な装丁の分厚い本。本居小鈴の明るい笑顔。

 初めて訪れて以来、三回ほど顔を出したが、未だに店内の重苦しい雰囲気 (他に客が入っていればそうでもないのだが) には慣れない。最近など、本棚の隙間からこちらを見ている、好奇の視線……のようなモノ……すら感じ取れるようになってきた。別に何かしてくる訳でもないのだが、やっぱり気にはなる。ちろちろと動き回るそれらを極力気に止めないようにして、店の片隅のソファーに座り、受け取った図鑑をめくってゆく。厚みのせいもあってか、なかなか例の花に似たものは見つからない。

 結局、僕は図鑑上でその花を見つけるよりも、小鈴が答えを携えて、頼んでもいないお茶と一緒にやって来る方が早かった。

 

 

 「タンポポでしょう? その辺に幾らでも咲いてますよ」

 

 

 僕の話を聴いて、彼女はすぐにその名前を口にした。やっぱり、名前自体は聞いたことがあった。ぼんやりとだが、何処かで僕が「タンポポ」を見たことがあることも、同時に思い出す。

 セイヨウタンポポ。実際、別に珍しいものではないらしい。

 

 

 「欧州原産。世界中に分布。外来種にあたり、生態系への影響が懸念されている……ですって」

 

 

 紅茶の香気を唇にあてがいながら、小鈴は解説を読み上げている。

 それにしても、「オウシュウ」って世界のどのあたりに在るのかしら、と小鈴は首を傾げる。

 僕は少し考えて、日本のことを極東って言うらしいから、きっと西の果てにあるんだよ、と言った。本当はもっと妥当な説明があるのかもしれないが、今、この幻想郷においての僕たちにとっては、どうでもいいことだった。

 

 

 

 ===========

 

 夕方あたりから天気が崩れ始めて、僕は灰色の空の様子を窺いながら、急ぎ足で帰った。

 

 阿求の書斎に顔を見せに行くと、彼女はいつものように書き物をしていた。

 下らないことだとは思いつつも、今日の散歩で起きた出来事を話す。これも日課になっていた。

 

 

 「へぇ、もうタンポポがねぇ。うちでは庭師が全部抜いてしまうから、最近は見てないなぁ」

 

 

 たかが野草のことでも、それなりにしっかり話を聴いてくれる。「今は忙しいから、後でね」……そう言われた時でも、後でちゃんと時間を取ってくれるのだから、本当に優しい。

 この間彼女が引いた風邪は、今ではすっかり良くなっていて、どうにか「健康そうな」という表現を当てはめることが出来そうだった。それでも病弱そうな印象は拭えず、僕は時々心配になる。パタパタ小走りに廊下を駆ける彼女の、華奢な手足が折れてしまいはしないか……強風で何処かに飛ばされてしまわないか……とか、ちょっと馬鹿げたことを心配したりする。

 でも、この少女は、外見からは想像もつかないくらい強靭なこころを持っている。積み重ねた知識に裏打ちされた、とても強い自信と、歳に似合わない冷悧さ。

 

 

 「それにしても、もうすっかり春ねぇ。この分だと……」

 

 

 見た目だけは僕の方がずっと大人なのに、僕が彼女のために出来ることは何もない。ただ一方的に慈悲を受け取り続けるだけで、何も。もうずいぶん沢山のことを教わったけれど、お返しに僕が教えられることはといえば、記憶の断片だとか、今日の出来事だとか……僕にとっての宝物、でも彼女にとってはどうでもいいことばかり。しかもそれだって、まだ数えられるほどしか見せていないのに、もうネタ切れだ。僕の持ち物は、哀しいほど少ない。

 

 

 「ん……何をぼけっとしてるの。聞いてますか?」

 

 「……ぁ、いや、ごめん」

 

 「……ふー……」

 

 

 阿求は呆れたように長い息を吐く。

 何を聞き逃したのだろうか。問い直す必要はないようだった。

 

 

 「表の桜ももうすぐ見頃だから、花見でもしようかな、って言ったのよ」

 

 「サクラ……あの、ピンク色の小さいやつがポツポツ咲いてる木のこと?」

 

 

 特に気にも留めていなかったが、実は今日町でも見かけた。枯れたような木に、ピンクの花が少しだけ付いてて、その下に町の人たちが立って「今年は遅かったねぇ」だとか、「あと四日もすれば……」というような事を言いながら見上げていた。

 

 

 「そう、桜。貴方はまだ見てないから知らないでしょうけど、満開になったらあんなもんじゃないのよ。長く持っても一週間で、直ぐに散る儚い花だけれど、その一週間の間、桜は春の全てをかっさらってしまう。それほどまでに強烈な光景が、もうすぐ見られるのよ――」

 

 

 ま、あと三、四日ってとこかな。

 せいぜい楽しみにしておくと良いかもね。

 彼女はそう言って目を細めていた。

 

 その日の真夜中から弱い雨が降り始めて、三日の間、途切れ途切れに続いた。

 外に出られない僕は、膨れ上がる桜についてのイメージを抱えながら、雨が上がるのをただぼんやりと待っていた。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 その日の朝はあっという間に、驚くほど急ぎ足でやってきた。

 目覚めて、すぐに障子を開けて中庭の縁へ這い出ると、もう雨は止んでいた。上から降り注ぐ光の色は、灰色だった昨日までとは打って変わって、白みがかった透明さを取り戻していた。

 ふと、縁側の板敷きに、何か小さな物が落ちていることに気がついた。小指の爪ほどの大きさで、薄く床板に張り付いている。ひっぺがすようにして取り上げ、よく見ると、白に薄桃色が染み込んだような色の花びらだった。

 どこから運ばれて、ここに来たのだろう。

 中庭の空を見上げる。同じように白い小さな欠片がちらほらと、暖かい風に吹かれて、僕の頭上を流れていく。気流に揉まれて舞い上がり、渦を巻き……

 

 

 「あら、早いのね。珍しい」

 

 

 声のする方を振り返る。

 廊下の向こう側、柱に寄りかかって、紫色の髪の少女が立っていた。

 

 

 「満開よ――御飯が終わって少し休んだら、表にいらっしゃいな」

 

 

 そう言うと彼女は踵を返し、廊下の曲がり角の向こうへ姿を消した。

 一瞬、風に揺られてふわりと落ちてきた花びらが一つ、彼女の後を追おうと試みたように見えたが、それも瞬きをする間に力尽き、板敷きの上へ滑るように横たわった。

 

 

 ==========

 

 妙なことに何だか緊張して、飲み込みやすいはずの粥が、喉に引っ掛かって落ちてくれないようだった。それでも何とか全て飲み下し、急いで表の庭へ向かった。

 

 玄関を出た瞬間だった。今まで体験した、どの感覚にも似ていない何かが、突然僕を襲った。

 風が吹いているのだ。普通の風ではない。

 優しく、それでいて激しい何かを含んだ空気の塊が、僕を包んでいた。空気の塊は僕の正面から吹き下ろすようにやって来ている。

 

 伏せた視界の上端に、どっしりと構えた大樹の根本が見える。

 その周りに何人か人が居るのも見える。

 なぜだろう。この空気の源を見たい、見上げたいのに、僕はそれを――「桜」であろうそれを――見るのが怖かった。ぶつかり合う衝動を抑えて、僕はゆっくりと視線を上げた。

 

 ――逞しく武骨な幹。

 ――徐々に細く、しなやかに伸びる枝々。

 ――それらを覆い隠してなお、余るほどの……?……白い……? 何……

 ……?……?……

 

 それからどのくらい、そこにそうしていただろうか。自分が見ているものが何であるのか気づいた時、胸の奥が鋭く締め付けられるような感覚と共に、身体の芯がひとりでに熱を帯びた。

 一言で表すならば、その景色は「信じがたかった」。確かに目の前に存在する光景だと判っていても、なお真実のものとは思えなかった。例えば天国なんてものが本当にあるとして、桜の大樹が自身の周囲に造り出した、現実の世界と一線を画した幻のような領域は、たぶんそれ(天国)に一番近い。

 

 ――僕が見ているのは、咲き乱れた花の塊だった。数百、数千、いや数えることなど到底出来そうにない、無限とも思える白い花弁たち。一つ一つが緩やかに風に揺れて、無数の群れのように。それらの動きが重なり合い、桜の木は一つの生き物のように蠢いていた。

 

 

 「見事なもんだよな。幻想郷でも一番大きい部類に入るかもしれない」

 

 

 ふいに横合いから投げ掛けられた声で、僕は現実へと引きずり戻される。いつの間にか、僕の隣には小柄な人影が立っていた。

 

 

 「……君か……」

 

 「気づかなかった? 通りがかりでね。塀を越えて入って来たんだ……阿求にゃ悪いがね」

 

 

 霧雨魔理沙だった。

 この前見たエプロンドレスは白黒だったはずだが、今日は同じデザインのまま、濃い藍色と白に変わっていた。胸元に抱えた帽子まで藍色で、それだけで以前とは印象が随分異なっている。他はいつもと変わらないのに。

 でも、腰の後ろで結んだ大きなリボンも、片方だけ三つ編みにした長い蜂蜜色の横髪が肩にかかっているのも同じ。楽しげに輝く瞳だってそのままだ。

 僕は少し安心した。

 不安だったのは、今向こうに広がっている、あまりにも幻想的な光景を前にして、ここが現実だとは思えなくなったから。安心できたのは、いつも自分のペースを崩さない、芯の一本通った人がいてくれたから。妙な話だけれど、知り合ってそんなに時間が経っているワケでもないのに、彼女の側は僕にとって、頼もしさの溢れる安息の場所になっているようだった。

 魔理沙が言った。

 

 

 「さて……私は花見だと思って来たんだが、あれは一体何をやってるんだ?」

 

 

 彼女が指差す方を見ると、そこは稗田家の人々が座っている、桜の木の根元。

 幹の側に細い木の棒のようなものが二本立っていて、間に紐が渡してあり、紐には細長い紙切れみたものが数枚ヒラヒラしている。その前に座っているのは――阿求だった。一枚の大きな紙を両手で捧げ持ち、読み上げているように見える。意味の汲み取れない言葉の切れ端が、こちらにも漂ってくる。

 

 

 「……桜の神に祝詞でも挙げてるのかな? いずれにせよ――」

 

 

 邪魔しちゃ悪いな――魔理沙はそう言って、玄関の軒を支える柱に寄りかかった。

 様々な庭木がそこかしこに配置された、広い庭の敷地。

 大樹から雪のように降り注ぐ、花の欠片たち。その陰に見え隠れする、遠い阿求の背中。儀式めいた雰囲気。二十メートルも離れていないのに、凄く遠くの出来事のように思えた。それこそ幻のようなもので、近づくことすら叶わないような、そんな気がした。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 十分ほど後、僕と魔理沙は花見の席に加わった。儀式を終えた阿求が玄関までやって来て、僕たちを招き入れてくれたのだ。今はお茶 (かなり苦い。香りはいいけれど) と菓子を貰って、皆で桜の木の下に敷かれたむしろの上に座っている。魔理沙は先ほどの儀式に興味津々で、阿求に詳細を訊ねている。

 

 

 「ふぅん、岩長姫ねぇ。妹君のほうは美貌だの何だのでしょっちゅう名前を聞くが、この家じゃ姉の方も祀ってるのか。何か謂れでもあるのかい」

 

 「んー、岩長姫は醜女だけど、不変……不老長寿の象徴でもあるの。つまりそういうことよ」 

 

 「……そうか……長寿祈願ねぇ……お前さんも大変だな」

 

 

 二人の会話の断片から察するに、さっきの儀式は桜の神と、その姉に捧げたものらしい。立派で美麗な桜が神様だというのは分かるけれど……そこで僕は、木の側に転がっている、シメナワを巻かれた大きな岩にちょっと目をやる。まさかこれが祈りの対象だなんて、ちょっと理解し難い。まぁ、自然界には八百万くらい神様がいるらしいし、傘が妖怪になったりするこの世界だから、あり得なくはないのだろう。

 にしたって、と僕は阿求を見ながら思う。

 こんなに若い彼女が、なぜ長寿など願う必要があるのだろうか。考えると少し不自然な感じがしないでもない。そういうのって普通、年寄りの為のものではないのだろうか?

 

 尋ねてみると、彼女は咳払いを一つし、茶を一口啜ってから答えた。

 

 

 「誰だって長生きはしたいに決まってます。それに私は生来、あまり丈夫な質ではないから」

 

 「……辛気臭い話は止めようぜ。それより何より団子だよ」

 

 

 魔理沙が笑いながら言う。それでこの話はお終いになった。

 確かに、彼女はいかにも虚弱体質だ。僕は納得した。同時に、無理をさせてしまっているなぁ、とも思う。何かと世話を焼いてくれているが、それだって阿求にとっては多少ならず負担になっているに違いないんだ。

 

 僕が目を覚ましたあの日、「頼ってくれ」と、強い彼女はそう言った。だから僕は頼らざるを得なかった。そうしないこと――彼女の制止を振り切って、独り善がりに生きること――は、彼女への信頼を得る前から完全に捨ててしまうことと、同じだと思ったから。でも、こうして、僕が彼女の枷になっていやしないかと考える度に、本当にこれで良かったのか……今からでも、独りで生きて行く覚悟を決めた方がいいのか……と……苦しくなることがある。

 

 

 「ごめんなさい、遅くなったわー」

 

 

 背後からの声。誰かと思って振り向くと、小鈴がこっちに走って来ていた。両手に抱え込むようにして、四角い風呂敷包みを持っている。阿求が思い出したように「あら、そういえば呼んでたわね」と、何気なく少々酷いことを言った。小鈴は「性悪。覚えてた癖に」とおどけたように言って、団子を食んでいる魔理沙の隣に収まった。

 

 

 「折角お花見なんだからと思って、色々作ってきたんだー。お母さんにも手伝ってもらってね。だし巻きとかチラシとかお握りとかー、金団もあるわ」

 

 

 小鈴の包みの中から出てきたのは、黒い弁当箱が三段重ねになったものだった。彼女が蓋を開けるとその度に、色鮮やかな料理が姿を現した。色々とごたまぜになった香り。遠慮なく食べてね、と小鈴。言われたそばから何かを一つ摘まんで口に放り込んでいる魔理沙。ふっと顔を綻ばせる阿求。後ろの方では、阿求の家の人たちがそちらはそちらで楽しそうにしている。

 

 なんとなく、頭上の桜を見上げる。遠くから見ていた時に感じた一種の恐ろしさはなく、ただただ、どこまでも白い花が重なりあってさわさわと揺れている。揺れるたびに、いくつかの花びらが芯から離れて、気ままに何処かへ飛んで行く。散るもの……死んでゆくものがこんなに美しいなんて、昨日までは想像もしなかったことだった。

 記憶を取り戻そうとして右往左往するうちに、僕は思いもしなかった方へ少しずつ変わっていく。良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど、今こうして、暖かい人々と居ることを許されているのは、紛れもない幸運に違いなかった。いつか、この与えられた幸運を――少しでも――誰かに贈りたいものだ。

 それが出来るだけの力があればいい。

 

 

 「これ、一つ食べていい?」

 

 

 弁当箱のおにぎりを指差して小鈴に問うと、「もちろんです」とにこやかに笑ってくれた。一抹の気恥ずかしさと一緒に口に入れたそれは、何とも言えない優しい味がした。

 

 

 

 

 

 









 桜の季節からはやや外れた感がありますが……ドウシヨウもないので投稿します。
 今回のイメージはあの有名なアレンジ曲から、と考えて頂いて結構です。

 間章は大体三~四話の構成になる予定です。
 タイトル「HAPPY」は例によってBUMP OF CHICKENのアルバム「COSMONAUT」
の収録曲より。


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