#35 さむけ (霊感)
先月の終わりから降りだした雨は、時折小休止を挟みながら、深い緑に覆われたこの土地を潤すべく、しとやかに降り続いていた。地を穿つような強さになることは決してなく、ただただ白い絹糸のような細雨が、人とあやかしの生きる大地へ、静かに染み入っていく。低く立ち込めた雲、その下に望む地平もまた、陰鬱な灰の色をしていた。
そんな、梅の実の薫る日々のひとこまである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
【記録】
……山の麓に広がる、樹海と見紛うほどの深い森の、その一角である……
人の立ち入ることを拒み続ける森。命の気配すら稀薄なこの場所……木の葉がつくる暗緑色の屋根の下をさまようもの達がいる。旧い時代の木霊たち、年を重ねた屈強な獣、あてもなく漂う霊魂、妖と怪。外界ではとうに死に絶えてしまった原風景と、当然そこに息づいていたはずの存在が生き延びている、ここは最後の楽園。誰かの約束した安息の地。人と妖、神々が棲む土地。
だが今や、この地は彼らだけの所有物ではなかった。
【*** * *** *】
『それ』 は、雨に濡れそぼる苔の上をとぼとぼ歩いていた。
もしかすると「歩いて」はいなかったのかもしれない。『それ』には自分の行動を定義づけたりする知性はなかったし、触覚を一とする五感のいずれも持たなかった。転がっていたのかもしれず、這っていたのかもしれなかった。ただ確かなことは地を進んでいるというだけで、それ以外はまったく何も……何一つ分からないままに、『それ』は進んでいた。
『それ』に与えられた役割は今のところただひとつ、進むことだけだったのだ。一挙一投足は信号化され、信号は他のものには感じとることのできない伝達手段によって空に放たれ続けていた。誰へ向かって?
これは果たして生き物であるのか、ただの無機物であるのか? 彼――ここでは仮にこう呼ぶ――は、その答えを持たなかった。なにせ彼を造った者も理解していないくらいだったから、無数にある
【*** * *** *】
一定の距離を進むごとに、彼は口ずさんだ。彼が知っている唯一のヒトの言葉であり、彼を生み出した母の名前だった。声を出すのには不向きな身体を震わせて、彼は発声する。*** *、*** *、時には叫ぶように、大抵は歌うように名前を呼んだ。呼ぶこともまたひとつ、彼に与えられた使命のようなものであったのかもしれない。誰かに存在を気づいてもらいたい、それが母の……母体と呼ぶべき現象の「意思」であった。
苔の上をどのくらい進んだだろうか。彼は不意に、森の終わりが近いことを悟った。雲の隙間から漏れる日を感じ取ったわけでも、眼前に広がる霧のかかった湖を見たわけでもなかったが、突然「森を出た」という……啓示がひらめいたのだった。
同時に「森の外に進め」という指示を、彼は受信した。指示が送られてくるのはこれが初めてだったが、彼の身体はその指示に喜んで従うように造られているようだった。彼は進む速度を早め、出口へと邁進しようとした。
あと数メートルで木々の陰から脱しようとした、ちょうどその時だった。彼の身体は突然、えもいわれぬ妨害の力を受け、前進を停止せざるをえなくなった。自分がこれ以上進めないことを彼は知る。身体を軋ませる圧迫に耐えながら、彼は「指示」を待った。しかしいつまで待っても指示はなく、代わりに (遠い次元のはざまにいるはずの母体から) 伝わってきたのは、狂喜にも近い高揚の気配だった。
これだ。これだ。求めていたもの、一番必要なものはこの力だ……と……
まるで「場所」そのものを歪めてしまうような力。
圧迫は徐々に強さを増し、彼は自分の肉体が限界に近いことを感じ取った。五体の全てがはじけ、裂かれ、肉団子のように潰れてしまうまで、彼は辛抱づよく「指示」を待った。だが、伝達されるのは依然として母体の喜悦のみ。自分が消滅してしまうことを、彼は何とも思わなかった。ただ最後までこの圧迫を計測し、シグナル化して送信した。
凡百の生物がするような生きるための努力も放棄して、彼はついに消失した。散らばった肉体の欠片は砂のように崩れて土に還った。この森の一画にはもはや、彼が存在したことを裏付ける証左は何一つない。したがってこの主観的記録もここで途切れる。
【暗転】
目的を達した「スキマ」は辺りを睥睨するようにゆっくりと回転し、そして閉じた。全てを観測し得るというラプラスの悪魔の不完全な形であるこのスキマは、幻想郷を監視し、術者である八雲紫の能力の及ぶ限りで稼働しつづけ、脅威を未然に取り除いていた。だが、発生してしまったイレギュラーを取り除いているだけでは、根本的な解決にならないことを、境界の賢者は十分に知っており、既に……少数ではあるが……知己を集めて奔走している。
全能に程近い彼女の力をもってしても見つからない「何か」の正体と在処を突き止めるために、事態は深層で動き出していた。水面に波紋が現れる時、それがいつになるのかを知るものは、誰一人としていない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
本居小鈴が浅い眠りから覚め、鈴奈庵のカウンターテーブルの上に突っ伏している自分を発見したとき、店の外からは細かい雨音が聞こえていた。
(んー……寝てた、かな)
テーブルの上の置時計は午後十時あたりを指している。最後に文字盤を見たときは九時半だったから、かれこれ三十分ほどは居眠りをしてしまったようだ。目を二、三度擦ると、ぼやけていた視界が明瞭になり、薄暗い店の照明と本棚が形づくる陰影をはっきりと捉えた。店内に人影がなく、正面の引き戸も閉まったままで、誰かが入った形跡がないことを確認すると、小鈴はふっとため息をつく。「店番が寝ていたので客を逃した」とあってはコトである。
丸椅子からゆっくりと立ち上がり、両手をめいっぱい上に挙げて伸びをする。蓄音機のラッパの下に置いてあった眼鏡を掛けて (別段視力が弱いわけではない、ただ掛けていると落ち着くだけだった) 、気が抜けたようにもとの椅子へ座り込むと、誰に話しかけるでもなく一人ごちる。
「ねむ……睡眠不足? ってやつかなぁ……身体に障るらしいし、うーん」
ここのところ、床に入ってもすぐには寝つけず、ついつい本に手を出して夜を更かしている小鈴であった。普段から必ずといっていいほど寝床に書物を引っ張りこんでいる彼女ではあったが、最近は真夜中まで行灯を点けて読書に耽ることが多くなっていた。油が勿体ないと判っていても、一通り読み終わってしまっても、次のページへ、次のページへと捲る手が止まらない。
一昨日など、無心で外来雑誌を読み進めているうちに時間感覚を失い、気がつけば屋根裏部屋に青い夜明けが訪れていた。こんなことではいけないなぁ、と考えている。昼間に眠気が訪れるのも避けたいが、今の小鈴にとって何より気掛かりなのは、外来の雑誌に組まれていた「不規則・不摂生な生活はお肌によろしくない」という内容の特集である。誰だっておばあちゃんになどなりたくはない。
そういえば、例の雑誌を鈴奈庵へ持ってきた「お得意様」は外見こそ若いが、言動は老獪な年配者のそれだ。深く考えたことは無かったが、一体彼女は何者なのだろうか……。
(……「余計な詮索」の範疇ね、これ)
顧客の
弱い雨音、時計の針が一秒を刻む音、時折母屋の方から物音が聴こえてくるのは、おそらく父親が在庫の整理をしているためであろう。その音すら寂しげに聴こえるくらい、店内はいつだって陰鬱だ。古びた紙の薫りは大好き、雨はあんまり好きでもない (本が駄目になる)。あと二、三週間はこんな天候が続くことを考えると、余計に昏い気分になってくる。何か気分転換になるものはないか。少女は辺りを見回す。
(あ、そういえば)
小鈴はおもむろに、傍らの貸出台帳を手に取った。
ページをぱらぱら数枚めくり、顧客の名前の羅列を指でたどっていく。その中のある一人に貸した二十冊ほどが、今日で返却期限を迎えていることを確認すると、「よっし」と気勢を吐いて立ち上がった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
父母に「回収、行ってきます」と言い残し、小鈴は番傘を携えて雨のなかを歩き出した。灰色の雲の下で、町並みはくすんで見えはしたが、所々に顔をのぞかせる紫陽花の濃淡、夏へ向けて色濃くなりつつある木々の緑などは、かえって鮮やかな彩りを見せている。道行く誰もが雨を逃れるように顔を伏せて往き来する中を、少女は浮き浮きとした足取りで歩く。柿渋色の円い傘がくるりと回る。
小雨の降る街道を二十分も歩けば、小ぢんまりとした人家の群れの中で圧倒的存在感を放っている建物に着く。この古風な御館こそが里で一番大きな建物、「稗田屋敷」であり、鈴奈庵のお得意様の一つであり、何よりも小鈴の親友・稗田阿求の住まいであった。大きな門の片隅を、一呼吸置いてから叩く。
何度ここを訪れても慣れない、使用人の女性による出迎え。仰々しく主張する玄関の広さ。古びた柱と、真新しい畳の匂い。通されるのはただっぴろい応接間。数えたことはないが三十畳どころの話ではない。真ん中にぽつねんと置かれた長卓の前の座布団で畏まり、小鈴は出されたお茶をちびちびと飲みながら、大邸宅の主人が「お越しになる」のを待つ。しんとした座敷へ僅かに漂う雨の匂いで、ようやくここが外と地続きであることを思い出せるほどの別世界だった。わけもなく息を潜めて待つ小鈴。
さいわい、程なくして襖がするりと開き、見慣れた顔が客間に入ってきた。鴬色と浅黄色の振袖に赤い袴の小柄な少女が、小脇に本を抱えてやってきたのである。
「おっ、阿求久しぶり」
「いつもご苦労さま。今週の返却分、これで全部だったかしらね」
長卓の上へ本を山と積んで、稗田阿求は一息ついている。小鈴は数十秒ほどかけて手元の貸出帳簿と書名を照らし合わせ、頷いた。
「うん、数も題も合ってるわ……それにしても、今回はずいぶん変わったものを読んでたのねー。詩とか推理小説とか、子供向けとか……やっぱりアレ? 『Q』として使う知識のため?」
言いながら、小鈴は本の山の一番上を手に取る。手のひらに収まるほどのサイズのその本は、鈴奈庵にある本の中では比較的新しいもののひとつで、外の世界では名の通った (もっとも、幻想郷ではまったくもって意味のない肩書きだが) 作家の手による推理小説だった。阿求は「まぁね」と言った。
「やっぱり旧態然とした文体じゃあ読者が取っつきにくいと思うのよね。思いっきし文語体で書くこともできるけど、これはお堅い記録じゃなくって娯楽だもの。だから、より新しくて大衆受けする表現の模索として、外の流行りとか、名作と言われているものを取り入れてみよう、ってね」
「それで、どうだった? 参考になったかしら」
小鈴がそう訊くと、阿求は本を一つ一つ取り上げて解説を始めた。
「そうねぇ……ん、これなんかは文体で煙に巻いて、さらに複雑な
「題名からしてね」
「うんうん。でもってこっちは」
「子供向けの童話集みたいだけれど?」
「それがそうでもなくってね。形こそとびきり易しいけれど、背景にはとんでもない量の情報が埋め込んであって。人の心と田園の素朴さを基盤におきつつ、自然学問や仏教の教義、果ては天文学や物理学とか。それらを全部、説話や寓話の器に納めているの。少々奇抜な言葉遣いがしてあるとはいえ子供受けもするし、知識の伝播や啓蒙のやり方としてはぴったりね」
「阿求、あんたまさか、推理小説以外にも手を出すつもり?」
「ゆくゆくはね。今取りかかってるぶんが終わったら……」
この辺りは物書きと編集者の会話であったが、二人ともそういった実務的なやり取りを続けるつもりは毛頭なかったらしく、しばらくのちには会話の主題が移っていた。
二人は稗田邸の小間使いが運んできた煎茶を呑みながら、とりとめのない話をする。どこそこで出店を開いている某屋の甘味が気に入っただとか、古い書庫で偶然見つけた古書が妖魔本だっただとか、とりとめのないことをくだくだと話し続けられるのは、阿求と小鈴、この二人の間柄が親いものであることを十分に示していた。そしてこの二人は両方とも、お互い以上の「友人」と呼べる存在を、身辺に持っていないのだった。
空になった急須の底の茶葉がすっかり冷えてしまったころ、それまでほとんど絶え間なく続いていた会話に、突如として間隙が生まれた。なんのことはない。鉢に盛られた茶請けの麩菓子、その最後の一本に、二人同時に手が延びてしまっただけのことであった。
一瞬のためらいの後、阿求は「どうぞ」と言った。何となく勝った気になった小鈴が口に麩菓子を入れるのを確認してから、「あんたほど『がっつき』じゃないもの」などと、悪意のない言葉肘を一発食らわせる。小鈴は眉をピクピクと痙攣させながら「はいはい、悪うございましたねぇ庶民の子で」と負けを認めた。それからいつものように、どちらからともなくくつくつと笑い出すのだった。
ひとしきりくつくつやってから、阿求はひとつ大きな息を吐き出した。
「……ふー……『がっつきやさん』といえばね、前にこんなことがあったっけ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
二、三週間ほど前の話である。
ある日の夕刻、稗田家の土地を借り受けて農耕を営んでいる小作人の一人が、大きな麹蓋を抱えて屋敷の台所の勝手口に現れた。台所番が訊いたところによると、日頃何かと世話になっている礼の気持ちだということで、この時は阿求も自ら出てきて小作人を労い、茶など淹れてもてなしたくらいであった。
「西の林沿いの麦畑なんですがねぇ、今年は冬が出鱈目に長かったりで、どうなることかと冷や冷やしとりましたけども、まぁお陰様でなんとか。へェ、ありがとうございます」
小作人はすっかり恐縮した様子でそう言って、幾度も頭を下げて帰っていった。
さて麹蓋の中身はというと、麦粉を練り込んだ丸い餡餅だった。豊作祝の麦手餅というわけである。近ごろは書斎に籠りっぱなしであった阿求だったから (麦穂の煌々とした黄金色を想うと) ちらとでも刈り入れを見ておかなかったことを後悔したのだった。
夕闇迫る書斎に独り佇み「麦秋や 子を負いながら いわし売り」などと呟いてみて、ついぞやお目にかかったことのない海原の魚を思い描きつつ、皿に山と盛られた丸いやつを眺めていると、にわかに表が騒がしくなった。床板に響く、重いものが落ちたような音。大方車椅子を叩きから上げる音でもあろう。阿求は「ははぁ、帰ってきたかなぁ」と身構える。ややあって襖の向こう側からだんだんと、車輪のごりごりと転がる音が近づいてきた。
「帰ったよ。いいかい」
言いつつ、阿求の一の句も待たずに入ってきたのは、すっかり見慣れた洋装の青年だ。昼過ぎから出掛けて、いったいどこをほっつき歩いて (歩けないが) 来たのやら。阿求はあきれ顔を注意深く皮膚の下へ仕舞い込んで、くすんだ金髪の青年の顔を見る。初めて会ったときより少し日に焼けたように見えるが、相も変わらず年齢が解りにくい風貌をしている。
平均的な日本民族を基準にすれば二十代後半ともとれるが、彫りの深い目鼻立ちは見方によっては十代にも見えないこともない。言動ときたら「若い」を通り越して時折稚気さえ見え隠れするほどで、今も現在進行形ではみ出ている。こちらに来るやいなや
「腹空いたんだ。魔理沙に一日中連れ回されて、いろんな仕事をさせられたから。これ食べていいかな?……食べ物だよね?」
無遠慮に、文机の上の皿に盛られた餡餅を指差すのである。このあたりはその辺の悪餓鬼等と変わらないわけで、何度言っても行儀や礼節が身に付かない。阿求は半ば諦めている。鼻からふんすと軽く息をついて、
「……女中が玄関に手桶を用意していたはずだけれど。手ぐらい洗ったの?」
洗った洗った、と半生な返事。本当かどうか怪しいものだが、この奇妙な居候の性根がだんだん掴めてきている阿求は、もはや匙を放っていた。
「ったく……まぁいいわ、お茶淹れてくる。食べててもいいけど、食べ過ぎないでね」
「ありがとう」
言うが早いか皿に手を伸ばす青年を尻目に、阿求は部屋を出た。廊下にため息が零れる。
ジョニィ・ジョースターの相手をする――というより、「面倒を見る」ことは阿求にとって時折、精神的な耐久値の非常な消耗を伴うのであった。
――――――――――
阿求が再び書斎の襖の前に立った時、部屋の中からはこもったような咳が響いていた。何事かとひとまず麦茶の入った硝子器を床に置き、襖を引き開けると、眼下の畳の上で青年がくの字になって七転八倒していた。一瞬平静を失いかけた阿求であったが、かじりかけの餡餅が青年の傍らに落ちているのを確認すると、すぐさま屠殺場に牽かれていく豚をみるような目つきになった。
「…………」
額に手を当て、一瞬天を仰いだ後、少女は餅の嚥下に失敗した青年の側に膝をついた。
およそ荒事など経験したことのない細い腕が、固く握りしめられた拳と共に、ジョニィ・ジョースターの背中へ降り下ろされた。
回数も力加減も、幾分か余計であったことは否めない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あはは。そっか、そんな感じなんだ、あの人って。いやーなんか不思議な人だなぁとは思っていたけど、まさかそんなに……なんというか、おとぼけ? な感じだとは思わなかったわー」
一通り話を聞き終えた小鈴は、おかしくてたまらないという風体で目元を拭う。「本当にそうよ」と、阿求は目を閉じて首を振っている。
「見てて危なっかしいことこの上無いのよねぇ。あの身体で町やら森やら出掛けるし。家にいても、常識はないわ遠慮はないわでもう、ね。その上『自分のことは自分でやるんだ!』なんて息巻いておいて、厠に落ちたりするんだから世話ないわね」
「……落ちたの?」
「一回だけね。一回で済んでるのがむしろわからないけれど」
小鈴は「あー……」と言ったきり、口をつぐんだままでいる。
「魔理沙さんと一緒にどんな仕事をしているかは判らないけどね、あの調子じゃいずれ怪我するわね。ううん、一度懲りるべきね、彼は。死なない程度で痛い目見ればいいのよ」
阿求がため息まじりの愚痴を吐き出したり、お茶と一緒に飲み下したりしている間、小鈴は黙って座布団の隅を見つめているようだったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「でも、見棄てるつもりはないんでしょう」
その言葉を聴いた瞬間、阿求の顔の皮膚がわずかに動いたのを小鈴は見た。
たっぷり十五秒間、九代目のサヴァンは沈黙していた。空になった茶碗の底を見つめたまま、それだけの時間、阿求は微動だにしなかった。小鈴はただ待っている。
唇から小さく、言葉が漏れる。
「ねぇ小鈴。『貴方は強い』……そう言わなきゃならないのはどういう場合か、分かる?」
質問の意味を図りかねた小鈴は、親友の顔を見返した。伏せた目に表情はなく、そこからは何も読み取ることはできない。小鈴は黙ったまま、次の言葉を待った。
「私ね、『彼』と会った最初の日に言ったのよ。『貴方は強い人だ』って。もう判るわよね? ……本当に強い人にそんなこと……言わなくてもいい。だから、彼は……どうしようもなく……」
「…………」
「……放っておいたらね、きっと自然に死んでしまう。あの時のように、冷たい土に還るのよ。彼が過去を探し当てるよりも、『死』……一度は免れた死が……彼に追い付くほうが早い」
「…………」
「だったら、ねぇ小鈴、私たちはどうすれば良かったのかしらね。あの日、救いを求めて差し出された手を、私たちは掴んでしまった。百年前の地層から――ひと度落ちれば二度と抜け出せない無間の谷から――引っ張り上げてしまった。同じヒトだもの、到底見棄てることは出来なかった。助けた事自体は正しい行為のはず。けど……けれど、彼を見ているとね、時々判らなくなってくるの。彼を取り巻く物事が、何処へ……」
呟くような声をふと途切らせて、阿求は顔を上げた。疲れたような笑みが浮かんでいた。
「私ったら……考えすぎね。忘れてちょうだい」
それは無理だなぁ、と小鈴は思う。
ジョニィ・ジョースターのことは最近、小鈴の頭の片隅に白い霧のようなわだかまりを作っていた。少々読めないところはあるものの温和で、定期的に鈴奈庵に現れては少しずつ本を借りてゆく。時には店のソファーに腰掛けて本のページを眺めながら、図々しくお茶が出てくるのを待っていることもある、足の不自由な若い男。
《ありがとう。でも僕はコーヒーの方が好きなんだよね》
《なあなあなあ、この本虫が食ってるぜ》
《物識りなんだな、君は》
《来週また来るよ》
《また来るよ》
《また……》
もうすっかり溶け込んでしまった。親しいと、言えるかもしれない。
なのに、このぴりぴりとした予感は何だろう。阿求が抱えているのも、これと似たような感覚なのかもしれない。
そして、彼と一緒にいるとき、 (ばかだなぁ)
いや、彼が去ったあとも (みているよ)
しょっちゅう (いつだって)
彼と、自分の背後に (どこへいったって)
誰かが立っているように感じるのは (ここにいるよ)
気のせいだろうか (そこにいるよ)
いや…… (どこにもいない……)
【*** *】
「……お茶、冷めるわよ」
「え? ……う、うん。そうね。あはは……」
頭の中を駆け抜けた弱い電流のような感覚に背筋をひとつ震わせて、小鈴は茶碗の中身を干した。次の瞬間にはきれいさっぱり忘れているくらい、それは弱い痺れだった。
「ふー。そういやさ、今日は家にいるの? ジョースターさん」
「昨日の昼からお出掛けよ。今ごろはお転婆魔法使いと一緒に森を駆けずり回っているわ」
「あら。這いずり回るの間違いじゃない?」
「洒落にならないわねぇ。無事に帰ってくるといいけど」
なんの事はない。阿求は頭が良すぎるから、考えすぎなだけ。私は私で疲れてるんだ。寝不足だし。小鈴はそう考えることにした。喉を鳴らす、冷めても美味しいお茶。
このあたりの呑気さ、鷹揚さこそ、本居小鈴という「読める」こと以外は全く尋常な少女が、危険な妖魔本の蒐集を無邪気に続けられる理由の一つである。周囲は迷惑しつつも、結局は騒動を楽しんでいるから、別に困ることは何もない。
いざとなれば
音楽とカロリーメイトで延々と小説を書くエナジーが胸に