もうこんなもの書く資格はないかもしれない
雨上がりの白い光線が辺りに漂う霧を不思議に輝かせて、虹はひっそりと地上にまで降りてきていた。
森からの帰り道、僕たちは湖の縁に沿って、その虹のただ中を進んでいるように思える。霧は――のっぺりと湯気のように立ち込めている間は――僕の足元や、車椅子の車輪までやってきて物憂げにまとわりつくだけの水滴だというのに、時々陽が射し込んだ途端、無数の色彩を持つガラスの粉の集まりのようになる。服や髪は冷たく濡れそぼっているが、僕の体にくっついてしまえばもう、虹色に光ることはない。魔法でも万華鏡でも、理屈は何でもいいが、綺麗なのは大気に漂っているときだけで、あとはもうただの水だ。
「……そこ、木の根が張り出してるからな」
前を歩く魔理沙のシルエットの方から聞こえてくる声は確かに彼女のものだったけど、この霧のなかでは音の響きが普通と違うのか、四方から分かれて同時に聴こえてくるような感じだ。木の根を避けて少し進路を変えながら僕はこう考える。「左から水音が聴こえてくるようで、そっちが湖だと思っていたが、実はそうじゃなくって、湖の位置は前後左右どちらでもあり得るんじゃないか?」
一メートル前を行く山高帽の少女の影くらいしか、はっきりと見えるものがない。もし彼女を見失ったらと思うと、自然と腕に力がこもる。
でも、まだ終わるわけにいかない。
――(……and then there were none)――
ふと、どこか霧の彼方から歌が聴こえた、ような気がした。か細い女の声。
少しスピードを上げて、前を歩くとんがり帽子に並ぶ。
「なぁ、今の聴こえた?」
「何も? お前の耳がおかしいのか、私のがそうなのかは知らんが」
彼女には聞こえていなかったらしい。しかし、聞こえてきた歌の文句と声の特徴を言うと、魔理沙は口の端を吊り上げて、にっと笑った。
「懐かしいなぁ。あいつ、元気にしてるかなぁ……元気に決まっているか」
そうして一人得心顔で頷いていた魔理沙は、僕の表情を見て「いや、そこそこ古い知り合いのことを思い出してね、たぶんあいつの歌だろう」と言った。そのあとに付け加えるようにして、
「なに、ただのひねたお子さまさ」
と呟いて、それっきり黙ってしまったので、僕は遂に彼女の「古い知り合い」について追求する機会を失ってしまった。というのも、魔理沙がずんずん先へ歩いて行ってしまうので、並んでのんきにお話をすることなどできそうになくなったからだ。
この娘は自分の昔の話をするとき、はにかんだように、遠慮がちに語り始め、そして大抵の場合途中で切り上げてしまう。話を聞いている僕からしたら、そんなに恥ずかしいことを聞いた覚えはないのだが、あまりそういったことを話すのは不得意なのかもしれない。自分の過去の話を他人に伝える……というのは恐らく、自分というものを形作っている材料、土台を陽の元にさらけ出すことなのだろう。
……知ってるかい。巷で噂の霧雨魔理沙、あの子がいつも余所行きの時に着けてるシルクの黒い手袋。あの下にある手のひらは胝だらけで、古傷にまみれてるんだぜ。知らなかっただろう、彼女だって知られたくないだろうからな。僕だって初めに見たときは驚いたさ! ……でも、今じゃ「手の綺麗な魔理沙」の方がよっぽど違和感アリなんだ。
僕の手のひら。ずっと車椅子の車輪を握っていたせいで胝が出来た。
右手の親指の付け根にあるのは、これはつい一週間前、森の薮で茨に引っかけたときの傷。木の枝から急に小さな蛇が顔を出したもんだから、つい手を振り回しちまったんだ。カサブタを剥がしていたら阿求に怒られた。
裏に回って手首の近くを見ると、みみず腫れの痕みたいなのがある。これも森のキャンプ地の近くで、変テコな蟻に噛まれた痕だ。魔理沙が言うには、あと五分手当てが遅れていたら毒で頭がおかしくなってしまうところだったらしい。蟻は魔理沙がガラス瓶に入れて持って帰った。
左手の甲に……だめだ、思い出せない。だがわりと古い大きな傷がある。土の中に埋まっていた時か、それ以前の傷かもしれない。あと、その近くにちょっと浮いている黒あざみたいなのは…… (あまり思い出したくないが)鈴奈庵の本棚の一番上に置いてあったバカみたいに重たい本が落ちてきた時に、その角にぶつけてできたヤツだったか? 骨が折れるかと思った。店の奥から小鈴が飛んできて「その本高いのに!」なんて叫んだあと、我に帰って手当てしてくれたのをよく覚えている。
語れることはこのくらい、全部最近のことばかりで――しかも大抵くだらない理由で作った傷ばかりで――思い出すたびに苦い笑いがこみ上げてきたり、身体のどこかにいたたまれないむず痒さをおぼえる。あの時は馬鹿を見た、あの時はこんな風に間違った。けど今度はもうしくじらない。僕だってもう大人なのだから。
――――――――――
「僕は大人だ、たとえ一人になっても、いつかは自分の脚で立つ」
ここのところずっと、この言葉は僕の頭の中を渦巻いては、時に僕を勇気づけ、また時には落ち込ませたりもした。
あの阿求の屋敷の、僕の部屋の片隅に小さな鏡台が置いてある。朝は水だらいをその鏡台の前に置いて顔を洗っている。そして日ごとに伸びていく髭を見るたびに、自分がもう子どもではないことを思い知る。
生活は不自由なりに楽しい。たいていは金のなる木を探して魔法使いと森をさまよい過ごし、そうでない日は町に出て本を読んだり、何かを食べたりして、時の過ぎ去っていくのを忘れていく。家で寝てたって誰も咎めないし、仕事とはいっても苦しい以上に楽しさの方が勝っている。
でも、鏡のなかを見るたびに、そこにいる僕はこう言うんだ。
「要するに僕たちは、ひどく無責任なヤツなのかもしれない。町や畑で誰かが汗水垂らして働いているのを見るたびに、自分は苦労などしていないのではないかとさえ思えてくる。脚? 確かに動かせないさ。でも、都合のいい言い訳に使うのは嫌なんだ。おとなしくベッドで休んでいるのはもっと、だ。
それにしても、『思い出探し』なんて不確かな動機で、しかも年下の女の子に頼りっきりでどうにか金を稼いでいる僕たちなど、無邪気に遊んでいるテラコヤ通いの子供たちと、自立の度合いでは大して変わらない」
鏡から目を逸らすことは簡単なように思えても、実際には難しい。朝起きて最初に目に入る「入り口」がそこだというだけで、日々を過ごす途中僕は何度も何度もマン・イン・ザ・ミラーと出会う。彼の表情やセリフは見るたびに変わっているが、たいていは舞い上がっている僕に冷たい水を浴びせてくる。けど彼には――冷静さを取り戻させてくれるという点では――半分感謝している。なにしろ、僕に厳しい言葉をぶつけてくるヤツなんて他に居ないから。
ジャイロ・ツェペリ――あんたが一度でも、僕に辛辣な言葉を浴びせて、目を覚まさせてくれたことがあったか? 今のところは、ない。思い出していないだけ、忘れているだけかもしれないが。
あんたはいつも同じ言葉で僕を勇気づけるだけ。でもあんたについてハッキリ分かっていることは二つだけ、「一緒に旅をしたこと」そして「あんたのことを忘れちゃいけない」、それだけだ。
百年前の人々よ、僕はあなたたちを捜しに出掛けたいのに、そうするだけの力も方法も持っていない。あなたたちも、幻想郷の人々も、鏡の中のジョニィだって、僕に「どうすればいいのか」を教えてくれない。僕はもう
今も誰かの背中を必死で追っている。
――――――――――
霧の湖は思ったよりも小さい。
四、五分も歩けばそこはすでに湖の畔ではない。霧は晴れ、眼前には「玄武の沢」が、その急流を岩の川底に叩きつけるように流れていた。魔法の森の東側を流れるこの川沿いを通るルートは、真っ直ぐ森を抜けて里へ直行するのに比べると随分遠回りなのだが、魔理沙はしょっちゅうここを帰り道に選ぶ。空気が旨いかららしい。
川岸にごろごろと転がっている黒い岩の一つによじ登って、川の様子を見ていた魔理沙が言った。
「長雨でどうなってることかと思ったが……よっと」
ぴょこんと身軽に飛び降りて、曲がってしまった帽子の角度を直しながら続ける。
「どうも大したことはないらしい。案外河童あたりが水をどこかに逃がして、人里に被害が及ばないようにしているだけかも判らんが……この分だと田んぼも大丈夫だろう。河童って知ってるか?」
「阿求に聞いたけど、あまり……」
「覚えていない? そうだろう、アイツの話は分かりやすいが何しろ長いからなぁ……河童ってのはな、基本的には小柄で、機械いじりが大好きな妖怪だ。趣味は将棋や相撲、あとは人を川に引きずり込むことだな。主食は胡瓜。河のわらべという名前からわかる通り、泳ぎは得意だがたまに流れている。これだけ覚えとけばまぁ、十分だ」
「じゃあ、『ヘノカッパ』ってのは?」
「うん、亜種だな。かなり強がりなやつだが、木片に着いた火よりも弱っちい。その辺をいくらでも泳いでるよ。だが、最近は『余裕のよっちゃん』や『平気の平左』といった人間にお株を奪われてる感がある。つまりは半ば死語だ」
死後、というと、妖怪も死んだりするのだろうか。
それ以前に、何だかからかわれているような気がして、僕はちょっと首を傾げた。そして、阿求なら知っているだろうか、後で訊いて……と、安直に彼女へすがろうとしたことに気づく。何でもかんでもあの子に頼ってしまうのはそれが楽だからで、そしてこの気持ちこそが、僕の成長を阻害しているようにも思えてきた。
そう思い始めると急に、普段から彼女ら彼女にちまちまぶつけられている小言の数々が頭に浮かんできて、なにくそ、という気分になった。これで脚が自由なら足下の小石でも一つ蹴飛ばしてやるところだが、あいにくと今は……。
ふと、僕の横でずっと喋り続けていたらしい魔理沙の話が耳に入った。
「……つまり河童の寿司は安上がりってことだ。あぁ、脱線したな。話をノーマルな河童に戻すが、きゃつらは機械といってもろくなモノを造らない。役に立つモノを数えたほうが早いな。ええと、空中魚雷にロープウェー」
「なぁ」
「光学迷彩……何だ?」
「そいつらが人間の為に物をつくることは、あるのか?」
「金と態度と、両方で誠意を見せればな」
僕が次に口にする言葉はきっと、彼女を困らせることになるだろう。興味から出る言葉だ、出来れば気にしないでほしい。喉元で引っ掛かったセリフを吐き出す。言うぞ、小さく息を吸って――
「例えば『義足』はどうだ?」
彼女は立ち止まった。その瞬間、恐れていた反応が起きた。
魔理沙の頬の赤みや、瞳に宿っていた熱っぽい光が、たちどころに消えてしまうのを僕は見た。
「……前にも言ったように、『私はお前じゃない』から、どうだっていいけどさ」
その表情が語るとおりの冷えきった声だった。
「本気で言ってるなら、もっとよく考えてみろ。分かりやすいように言ってやろうか。お前のその木の棒みたいな脚二本を鋸で落として、代わりを嵌める。それで後悔しないんなら……そのときはもう一度私に言えよ。知り合いに一つ河童がいるから、きっと上等の足を作ってくれるだろうさ。そうまでして歩きたいか」
その時になってようやく、ようやく僕は自分の言葉の意味を本当に理解したように思う。すでに激しい後悔と (自分をぶん殴りたいという) 衝動に苛まれながら、僕はどうにか切れ切れの言葉を発した。
「――軽率だった。何も考えてなかっただけだ、取り消すよ――」
顔を伏せてそう言ってから、ゆっくりと顔を上げて彼女の表情を見た。
そして正直に言っておこう、僕は安堵した。そこにあったのは普段と何も変わらない、自然と人を惹き付けるような微笑だった。
「……分かってるさ。ただ、言葉は口に出すと力を持つからな。そういう事は例え思っても口に出さない方がいいってこと……さっきのセリフ、まさか本気で言ってないよな?」
即座に「もちろんだ」、と返すと、魔理沙はエプロンのポケットに手を突っ込んで短く笑った。
「もし本気で言ってたら、そうだな、『コイツは本当に詰まらない奴だ』ってカテゴライズして、二度と手助けしなかっただろうな。もちろん、脚を切り落とすのだって手伝ってやらない。もしくは、河童に頼んで、これ以上ないくらいヘンテコな義足や義手を造らせようか、なんて思ったよ」
「……ちょっと待て。義手までは頼んでない」
「二本ばかし余計に落とすだけだ。それに魅力的だろ? それ以降お前は踊りながら脚で三味線を弾けるようになるんだし、興奮するとところ構わず敬礼をする体質に早変わりするんだぜ」
黒い冗談だと分かっていても、少々背筋が寒くなった。噛んで含めるような言い方には、単なるジョークの気配以外のものが潜んでいた。
……つまらない奴に用はない……
急に、僕たちの側を流れる沢の音が大きく聴こえてくる。
ざ、ざざざざざずどどどざざ。ざざ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
二人で沢沿いをふらふら進んでいくと、間もなく里が見えてきた。このあたりになると沢も随分流れが穏やかになってきていて、魔理沙は靴を脱いでざぶざぶ水の中を歩いている。いくら緩やかとはいえ、今は雨季 (梅雨、とかいったか) で水の量も多いのに、実に気分よさそうな表情で鼻唄など歌っている。片足立ちしたり、かと思うと川面に飛び出た石へ跳び移ったり、やりたい放題だ。
「そういえばさ」唐突に、背後の空を振り返りながら魔理沙が言った。
「今朝、雷が鳴ってたの、気づいたか?」
「いや」
僕は彼女が背負っている大きな風呂敷包みのような荷物を見ながら答えた。あんなものを背負っているのに、随分と身軽なことだ。
「鳴ってたんだよ。もうすぐ梅雨も終わりだなって言ったのは、それもあったんだ」
「夏か」
「そういうこと。蝉なんか鳴いてたろ」
蝉というものが虫であることは分かっていたが、鳴き声まではよく知らない。どんな声だっけ、と尋ねてみれば、彼女はミーンミーン、じぃりじぃー、つくつくぼーなどと訳の分からない鳴き真似をした。そういえば、里近くでそんな音 (つくつくぼー、ではなかった) を耳にしたことがある。
「盆辺りが一番うるさいかな。こう、そこかしこの木に五、六匹、時々は数十匹もしがみついて、声を揃えて『みーん』……笑うない。本当にこんな鳴き声なんだよ……とにかく喧しい。その上、木の下を通る人間に置き土産をして飛んで行ったりな。つまりは生活排水だ」
「ずいぶん下品な虫だね」
「修辞の問題だな。群れた鳴き声は『せみしぐれ』。ほら、一気にお上品になっただろう」
何のことを言っているのかよく分からない。仕方なく記憶の中へ「しぐれ」という言葉をメモして留めておく。日本語で考えることが出来たら良かったのに……と『日本語で』考えて、いつの間にか幻想郷の言葉が染み着いていることに気がついた。
僕は、僕の国の言葉で考えることを忘れてしまったのだろうか。意識して横文字で考えていると、声を上げて笑っていた魔理沙が、突然足を止めた。こちらを向いて、人差し指を唇に当てている。その意味を察して辺りの音に耳を澄ませると、沢の水が渦巻く音や風の音に交じって、遠くから妙な音が聞こえてきた。何か毛羽だった金属を擦りあわせた音を連想させるその音は、耳の中へ妙に後を曳くような残響を残す。どこが、とははっきり指摘できないが、何となく夏特有の暑苦しさというか、空気を感じさせた。
「な、『みーん』だろ。蝉だよ」
それ見ろ、という顔の魔理沙が言う。
「夏の盛りともなれば、あれが何十も集まって大合唱だ。うるさいったらありゃしないよ」
「寿命は」
「なに」
「寿命はどれくらいか、って訊いたんだ。ほら、どれくらいの期間鳴いてるのかなと思って」
「……寿命は長いよ。でも、鳴いてるのはひと月くらいだ」
んなことは良いんだよ、奴らの大音声は今に身に染みて分かるはずだからな、とどこか不機嫌な声色で言って、彼女は沢から上がった。僕は彼女が脚の水気を手拭いで拭き、靴下とブーツを履くまで待っていた。待っている間にちらと空を見上げると、ついさっきまで空一面を覆っていた黒っぽい雨雲は、すでに半分ほど南の地平線へ押し流されて、晴れ間とは言えないながらも、白っぽい太陽が顔を出している。顔に差し掛かる湿った熱は確かに夏のものらしく、昨日までとはまた違った太陽がそこにはあった。光の力が強い。心なしか、辺りの岩や木の下にできた影たちまでもが、普段よりももっと濃い黒をしているように思えてきた。
「待たせたな。さ、行こうぜ」
長靴を履き終わった彼女の白い顔に浮かんだ、太陽を思わせるあの笑顔もまた翳って見える。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
予定よりずいぶん短くなりましたが、とりあえず投稿しました