再生と追憶の幻想郷   作:錫箱

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#39 燕の巣

 数間先の曲がり角、貸本のいっぱいに詰まった風呂敷包みを背負う小鈴が発した「また今度」の叫びに、阿求はゆっくりと手を振って応えた。白地に唐紅を染め抜いた市松の上着と織部の袴が角の向こうに消えてしまった後も、彼女はぼうっとそこに佇んでいた。何か考え事をするようなそぶりでもあったし、つい今しがた去ってしまった友の後ろ姿にそこはかとない未練を抱えているようでもあった。

 

 この前も、そのまた前も、小鈴はあの曲がり角で私にお別れを言った。

 邸宅へ踵を返しながら阿求は無意識に、もはや誰の姿もない往来へ過去の映像を投影していた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 そう、あの日はちょうど梅雨入りの噂が町に飛び交い始めたころ。お昼過ぎにあなたが来た時にはまだ、空には真夏のように真っ白な太陽が輝き、黒い雲は山際のかなたに少し見え隠れしている程度だった。だから油断したのでしょう、あなたは雨合羽も傘も持たないままここにやってきた。そして、私たちがいつもと同じようにお茶を飲みながら下らないことをお話ししている間に、雨雲は音もなくこの里の上まで伸びてきていた。

 

 雲と風のうねりが客間まで聴こえてきたころになってようやく、私たちはそれが雨と風が、ひいては梅雨の足音がすぐ近くまでやって来ていたことに気づいた。あなたはあわてて本を荷物を纏めて、私が止めるのも聞かずに、降り始めた雨のなかを走っていった。私が傘を持ってこの門のところまで追いかけていったら、あなたはもうあの角のところまで行ってしまっていて、ちょっと立ち止まってこっちを振り返る。それで、

 

 

 (また今度)

 

 

 あの古びた本の匂いがする家に息を切らせてたどり着いたあなたが、どうにか大降りになる前に帰れたことに安堵しながら、濡れた服を乾かしている姿がありありと想像できる。

 

 それから、「これ」はもっとずっと前の景色。

 

 春の穏やかな輪郭を徐々に初夏のものに変えていった太陽の下。あんなにすばらしい日和だったから、あなたはきっと軽やかな足取りでこの道を歩いてやって来た。運河沿いの柳並木を撫でる清風に背中を押されて歩くあなたの姿は、やがてまっさらな田圃の空色の水面に映る。

 

 いつも本の回収に来る時間よりずっと早く私の家にやってきたあなたが話してくれた町の様子も、私は一言一句余さず覚えているから、手に取るように。あの時は、店の軒に巣を作っていた燕の夫婦がよっぽど心配だったのでしょうね。二十分も三十分も彼らの暮らしぶりについて聞かされた。まるで自分が雛たちの親にでもなったかのような入れ込みっぷり。もっとも、私の軒下にも足元のおぼつかないひよっこがいますから、あまり人のことを馬鹿にはできないわね。

 落ちてしまった卵のことは残念だったけれど、その分他の兄弟たちは強くなるでしょう。そう言いながら、この門まであなたを送った。「燕の奥さんによろしくね」って冗談めかしたことを言いながら手を振る。あなたはちょっと悲しそうな笑顔を浮かべて、

 

 

 (また今度)

 

 

 ……ねぇ、このやりとりはいつまで続くのかしら。あなたが大人になって、若い娘とは言えない歳になるまで? それとも、もっと早いうちに破局が訪れて、そのうち顔も会わせなくなるのかもしれない。私はお別れを告げる手間が省けるけれど、あなたには少々酷な思いをさせることになってしまう。

 あなたに限らず、時々、親しくなりすぎた人々を想うたびに、これでよかったのかと思うことがある。私が役目を終えて去らねばならなくなった時に、そういう人たちが「支え」を失ってしまうのではないか……って考えるのはうぬぼれ過ぎかしら。そうね、きっとあなたたちは大丈夫でしょう。私は皆がいなければ生きていけないけれど、皆は私よりよっぽど強いもの。

 

 

 ――――――――――

 

 【手記】

 

 色々と整理が着かなくなったときには、こうして紙の上に文字を吐き出してしまえばいい。それで何かがかわるわけでもないけれど、気は楽になる。

 

 私の家。私の庭。私の玄関、廊下、書斎。

 こうして書斎に座ってぼんやり考えごとをしていると、そのうち私の魂はこの部屋を離れて、積み重なった知識と記憶(エピソード)がどこまでも私を乗せて飛んでいく。遥か大和の都に生まれ始まって、今なお東の空を飛び続ける不死の鳥のように。鳳凰や朱雀なら格好がつくのでしょうが、あいにくと翼は小さく脆く、あまり長い時間浮き世を楽しんではいられない。

 

 いくつもの時代の夜明けと黄昏を見てきた。私たちの役目はその時代の有り様を書いて遺し、次の稗田に渡すこと。そう割り切って隔世の隠者を気取ろうとしても、私の内の人間性はなかなか孤独を受け入れてくれない。対等な友人が欲しい。頼れる強者に守ってもらいたい。父母の優しさが恋しくないといえば嘘になる。

 そんな枠組みすら当てはまらないような関係も確かにあって、あの不自由な青年もそう。いったい私は彼に何を求めて側に置いているのか、それすら分からない。

 

 分からないままに、あの青年は巣立とうとしているのではないだろうか。

 彼の姿を見るたびに私は複雑な気分になる。動かぬ脚への哀れみがあり、子供のような無邪気・無鉄砲さへの危惧と慈愛があり、彼の持つ不思議な力への好奇心があり、そして……背後からぬばたまの闇のごとく打ち寄せる影への予感に畏れを成す。

 

 影。そう、影だ。今やっと気づいた。

 彼自身からではなく、彼を取り巻く(えにし)から、過去へと繋がる糸から、私はときおり影を感じる。影は私と彼を呑み込むばかりか、何かとんでもないことを仕出かすような予感がする。根拠もないただの勘にすぎないけれど、なぜか揺るぎなく正しいような気がする。

 けれど、ああ、その影を除くには、彼そのものを除くしかない。彼も、その影も、今のところ悪ではないというのに、そのようなことを平然と行えるのだろうか。心を鬼にすれば、秩序の護り手が果たしてくれるだろう。しかし……

 

 人を脅かす存在は里の外へ。修羅の道に踏み出そうとしている愚かな人間は誅せ。幻想郷の鉄の掟だ。人の中で最も掟の起源に近い稗田がこれをないがしろにすることは叶わない。ならば私はどうすればいいのだろうか。これまで半ば家族のように、あるいは親しい友人のように扱ってきた彼を――罪なき者を――

 

 

 【不自然な空白】

 

 

 【塗りつぶされているため数行分内容不明】を冷やしたほうが良いのかもしれない。ありもしない影に怯え、不穏な考えを垂れ流していたようだ。

 この箋の残りはもっと有意義なことに使ったほうが良さそう。たとえば、写経とか。

 

 【以下全て梵字】

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 ………………

 

 ふと、額のあたりに風の流れを感じて阿求は書斎の文机から顔を上げた。中庭に面した障子は閉め切られていたはずなのに、この部屋に空気の流れがあるのは妙だった。振り返って見ると、障子には指三本ほどの隙間が開いている。雨上がりの匂いが部屋に忍び込んでいた。

 女中が私の様子を見にきて、そのまま閉め忘れたのかしら。阿求はため息をついた。硯に筆を置き、立ち上がって障子を閉める。

 

 背後から女の声が聴こえた。

 

 

 「あまり閉め切っていると体を悪くするわよ。こんな気候なのだから」

 

 

 何の気配も無かったところに突然投げ掛けられた他人の声。阿求は身を固くし、瞬時に振り向こうとした。しかし、一瞬遅れて、声の主に思い当たる節があったのか、緊張を解いてゆっくりと振り向いた。

 

 

 「……ひとを驚かすのがお好きなのは構いませんが、時と場所をわきまえてくださいますように。お願いできますか、八雲紫様」

 

 

 振り返った部屋の反対側の隅に、畳から二尺ほど宙に浮いている人影があった。普段の古風なドレスを夏の装いに着替えたその姿は、果たして八雲紫である。虚空に腰掛けて、阿求の方を向いて頬杖を突いている。見るものを圧倒する何かを秘めた美貌が、半月型の笑みを浮かべた。

 

 

 「ふふ。では、今後は場所と時間を考慮しつつ驚かせに伺おうかしら」

 

 「はあ。ご用件は? できれば手短に。貴女がここにいることを側の者に知られると色々と面倒なので」

 

 「つれないわねぇ。そうやって急くのも器が小さく見えますわ……まぁいいか。私も暇ではないから、さっさと本題に入るとしましょう」

 

 

 音もなく畳へ舞い降りた賢者は、嫌みのない程度に洗練された所作で、憮然として佇む阿求の前に着物の裾を広げて座った。袂から取り出した扇子をぱっと開いて口許にあてがい、流し目で阿求を見やる。憎たらしいほどに涼やかな視線を迎え撃とうと、阿求は眉をしかめてにらみ返した。

 

 

 「おほほ、あまり睨まないで下さいまし。そんなに怖い顔をされると、話せるものも話せなくなってしまいますわ」

 

 「………………」

 

 「あら、いつからこんなに嫌われたのかしら」

 

 

 どこから取り出したのか、私物らしい脇息に身を凭れてころころ笑う紫の目を、阿求は黙然と見返した。この八雲紫という巨大な人格と向き合うときには、大抵の感情が邪魔になることを彼女はよく知っていたから、これ以上前戯に付き合うつもりもなかった。

 

 

 「貴女がわざわざ私『ごとき』の元にお越しになるということは、それなりの理由があってそうしているのだろうと推し測りますが」

 

 「そうね。しかも、かなり重要な案件で来ているの」

 

 

 賢者はまるで他人事のように言った。しかしその一言が二人の間の空気を一変させたのである。阿求は姿勢を微妙に正しながら、扇子の向こうに隠されたスキマ妖怪の表情を思った。しかし想像の中の表情もまた、底知れぬ不気味さを湛えた微笑が延々と続いているのみで、ただそれゆえの畏れと不可解さが自らの中で増大していくのを阿求は悟った。紫が次の言葉を発するまでに要した時間はほんの数秒ほどだったにも関わらず、阿求はその言葉を随分待ったような気がしていた。

 

 

 「先の、妖虫の件を覚えているわね」

 

 「春先の襲撃でしょう。忘れたくても忘れられませんが」

 

 「そうね。あなたの頭のことを抜きにしても、アレに襲われたことを忘れられる人間の方が珍しいでしょうし」

 

 

 雪のちらつく早春の白昼、人の骸と蜘蛛を足したような醜悪な外見を持つ虫の大群に襲われた時の記憶を想起させられた阿求は眉をしかめた。周囲の者の奮戦でどうにか難を逃れたものの、最も安全だとされている人里で、それも自邸で命の危険に晒されようとは、思ってもみなかった出来事だった。

 

 

 「……今さらそんな話を蒸し返してどうするつもりなのです」

 

 「話を蒸し返すまでもないのよ、それがね。向こうからの接触が起こりうるわ」

 

 

 阿求は二、三度瞬きをした。

 

 

 「……まさか、あの虫どもがまたどこかに?」

 

 「それならまだマシだったかしら。ねぇ御当主、実を言うともっと厄介な事が起きそうなのよ。あなたが今まで綴ってきたどんな暦よりも奇怪な出来事が、あるいは起こるかもしれない」

 

 

 背筋が下から上へなぞられるような不快感を、阿求は感じた。急に、それまで意識してこなかった蒸し暑い室内の空気が、肌にまとわりつくような粘性の高い何かに変わったような気がした。

 八雲紫が言わんとしている所が何であるのか、察しはついていた。しかし、今回に限っては――境界の賢者が「警告」を囁いている今回に限っては――

 

 

 「――『異変』、それも未曾有のものが近づいているとおっしゃいますか」

 

 

 異変という、幻想郷においてはある種の固定された意味を持つその単語が、この不安感に対して用いるに相応しいのかどうか、阿求には自信がなかった。

 紫は扇子をはたと閉じ、目を閉じて細いため息をついた。

 

 

 「未曾有。そう、恐らくは……」

 

 「……『過去のこと』ではなく、これから起こる『かもしれない』ことを、歴史家の私に伝えに来た。神算鬼謀を謳われる貴女に限って、理由もなくそのようなことをなさるはずがありません」

 

 

 今や、阿求の目に映る八雲紫の姿は普段のものではなかった。幽玄さを気配(オウラ)として纏う美貌と、見る者を自然と圧し、萎縮させる不可視の力の所在はそのままに、彼女の背後から滲み出ている、微かな倦怠と迷いのようなものが見てとれた。

 

 

 「教えていただけますか」

 

 

 沈黙したままの賢者に、阿求は問うた。

 

 

 「……いいでしょう。少々長い経緯になるけれど――」

 

 

 紫は語りだした。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 まず断っておきたいことは、あの虫どもは既に、この幻想郷には一匹も残っていないということです。この地の掟を守る者として、今回の事件は看過しえなかった。だから、里を襲った虫は勿論のこと、その起源まで痕跡を……足跡、というよりは身体を這いずった跡を――追いかけて完全な解決を試みたの。

 

 ――――あれらは竹林の方からやって来たと聞きましたが

 

 そうね。それは間違ってない。

 ……式を総動員して調べた結果、私はあるものを見つけました。竹林の北限、山に程近い藪の中だったかしら。一抱えほどもある大蜘蛛の骸があったのよ。

 

 ――――蜘蛛?

 

 ええ。自然に生息している蜘蛛にあれだけの体躯を持つものは私の知る限り皆無。だから、あれはきっと、竹林の魔力を吸い、本来の寿命を越えて生き永らえた、いわば妖怪蜘蛛の卵のようなものなのでしょう。似たような事例はたくさんあるから、別に珍しいことじゃないわ。

 まぁともあれ、その蜘蛛は既に息絶えていた。数歩ほど離れた所に、迷い子の成れの果てらしい古い骸骨があったところを見ると、大方ヒトの死体から妖力を吸収して生活していたのでしょうね。そして重要な事実は、そこで見つかったモノが、「たったのそれだけ」ということ。

 

 ――――?

 

 痕跡は全てその一地点から伸びたものだった。つまり、あの千を下らない数の虫もどきが、たった一体ずつの遺骸――ヒトと蜘蛛の遺骸――から、自然発生した。

 

 ――――自然に?

 

 疑問の余地が無くなるまで検証したわ。あそこには何らかの妖術を使った痕跡もなければ、蜘蛛たちの巣があったわけでもない。彼らは「降って湧いた」……

 

 ――――しかし、どのようなものであろうと、その成り立ちには必ず因果があるはずです。妖怪や霊、妖精ですら、自然に立ち上ることはあり得ませんから……

 

 ……無から有は生まれるかどうか、ね。

 ごく限られた状況においては、無から有が生まれたように見える場合があるわ。例えば――というか、実例がこのくらいしか無いのだけれど――天地創造はご存知? ……あっ、そもそもあれはあなたの八代前が書き起こしたものだったかしら? ――ともかく、いい例ね。全くの無から天と地と神が生まれ、あめつちは分かたれた。同じように、西洋の古い神を描いた書物にも、無明の暗黒に光が生み出される場面がある。

 最近流行りの科学で考えても、宇宙の始まりには、見かけ何も無かったとされているわ。

 

 ――――実際には?

 

 あくまで見かけだけでしょうね。恐らくは空間に力が内在していて、それが爆発的に広がったのでしょう。空間は、ただ何もない空間であるというだけでも力を持っている。

 天地創造を無理に理屈付けるなら、その爆発的な広がりこそが開闢ということになる。けれど、その最初の一押しはまさに最高神の掌の上とも言える領域にあって、容易に手が届くことはない。

 

 ――――……一体何が言いたいのですか

 

 ……結局、かの虫がどのようにして生まれたのか、あるいはこの地に侵入したのかは私にも分からなかった。「理解していない」「理解できなかった」……非常に危うい状態ね。理解できない以上は、常に最悪を考える必要がある。

 月からの刺客? あの約定はもう時効? 動機は十分、不条理なチカラにも説明がつくけれど、あの連中は穢れを忌む。人の死体に妖怪蜘蛛なんてものを侵略に使う筈がない。地底からの訪客? いいえ、地底に通じる穴は全て押さえてある。それに、あの場から地底の魔力は感じなかった。

 では、あれの正体は何? この場合に於ける最悪とは? 本当に無から有を生み出したとしたら? 凶悪な妖の所業か――強大かつ知られていない神の御業か。どちらにせよ備えが必要だ、ということよ。ご当主。

 

 ――――備え、ですか

 

 そう。しかし、もう遅いかもしれない。実を言うとね、私の所にはもう来たのよ。「それ」が。私の式の姿形をそっくり真似た、模倣品がね。

 

 ――――姿形を写し取った……

 

 ……襲撃は一度だけ。後は音沙汰なし……正直、楽観していなかったと言えば嘘になるわ。けれど、私の住み処まで直に踏み込まれた。しかも、模倣(コピー)の能力すら身に付けている。もはや、あの事象を黙認することはできない。この三ヶ月、私はずっと、いつも以上に注意深く幻想郷を観察し、同時にあの事象の正体について考えていた。大体当たりはついたのだけれど、それを話すのにはまだ確証がないわね。ただ、一つだけ教えて差し上げられることがありますわ。

 

 ――――…………

 

 あれは、「チカラ」に引き寄せられている。まず未知のチカラを恐れ、次に愛し、最後には手に入れようとする……言うなれば……好奇心旺盛な子どもってとこかしらね。ゆえに、どうにか監視下に置かねばならないのだけれど、現状は正直お手上げね。「あれ」が引き起こしたらしい現象は――つまりは合成生物や影法師のようなものは――雨上がりの筍のようにポツポツと芽を出しては、またどこかに雲隠れしてしまう。

 奴等を潰すのはわけない。けれど、私の心境としては、潰すのが正しいことなのかどうかすら分からない……というのが正直なところ。後手の対応をいつまでも続けていく訳にも行きませんし、私には他にもやらねばならぬことがある。もう、霊夢を始めとするここ(幻想郷)の管理側の者には、この件について伝え、助力を取りつけてあるとはいえ……今のところ、この件に関して何の取っ掛かりもない。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 「用心なさい。あれはどこからでも現れるし、どこへでも消えていく。身の回りに不自然なものが現れても、決して調べてみようなどと思わないこと。万が一『あれ』だった時に、不用意な接触は禁物。何が起こるか分かったものじゃないから……それと、極力里からは出ないことね」

 

 

 気づけば、書斎の障子の外からは小雨の落ちる音がしていた。二度日は翳り、どこか遠くから雲の鳴る低い唸りが響き、一面の空気をわずかに震わせている。

 紫の語った事態の不穏さを、混乱しながらもゆっくりと咀嚼した阿求は、自分の中に潜んでいた正体のわからない不安の種子が芽を葺いて根を張り巡らし始めたように感じた。

 

 

 「では、あの日、虫たちがこの屋敷を襲ったのは……」

 

 「まだ決まったわけではないけれど、おそらくは屋敷に集まっていた人妖に惹かれたのでしょうね。霊夢に永遠亭の薬師、ハクタク。それに、霧雨の娘やあなたもそうね」

 

 「私が、ですか」

 

 「知識は力よ。それも、ある意味では最も危険な部類に入るかもしれない類いの……記憶もそう。他者の記憶に触れ手に入れることはそのまま、相手を心の奥底から支配するチカラに繋がるから。それに、わかるわね? あなたの場合、他の人間と違って、あなた一人の問題では済まなくなるの。幻想郷の全てを網羅する稗田の記憶が、強い力を持つ妖の手に渡れば……」

 

 「悪用されかねない、と」

 

 

 阿求は額に手を当ててしばしうつむき、このあまりに日常から解離した問題を頭の中で整理した。正体も目的もわからぬ何かが、この地を跋扈している。妖怪か神か、はたまた何らかの現象か……一体果たして、全知に程近いとされる八雲紫の目をも掻い潜るモノなど、在り得るのだろうか?

 相手の力は文字通り計り知れないというのに、貧弱な人の身が対処し得る相手なのか。「用心」。言うは易きとはまさにこの事であるように思えた。

 

 

 「私一人がどう動こうと、何とも事態は動かし得ないように思えるのですが」

 

 「巫女に事情を説明してあるわ。実は、私の簡易式をいくつか里に置いてあるの。不穏な現象を感知して、神社まで報せが行くようになっている……あの娘のことだから、いざという時に駆けつけてこの屋敷を守ることくらいは造作も無いでしょう。何らかのチカラに惹き付けられるというのなら、幾つか里の要点を押さえておけば守りようはあるからね。私の入れ知恵だけど」

 

 「…………」

 

 「迷わず博麗を頼りなさいな。残念ながら、貴方に出来ることはそれくらいよ……さて、伝えるべきことは伝えたわ。そろそろおいとまいたしましょうか……」

 

 

 ややうつむき、眉を寄せて考え込んでいる阿求の姿を見てにっこりと笑い、紫は軽く一礼した。一旦畳に降り立ち、踵を返しかけて、はたと動きを止めた。首だけで阿求を振り返る。如何にも仰々しく、

 

 

 「ああ、そうだ。思い出した。訊いておかなきゃいけないことがありましたわ」

 

 「なにか?」

 

 「この家に件の外来人がいるのよね」

 

 「……それがどうかしましたか」

 

 「『人が埋まっていた』……里じゃ、あの騒ぎは直後の襲撃のせいでうやむやになっているみたいだけど、彼のことには私も興味があってね。今はどこにいるの?」

 

 

 (どうも、あの外来人は紫が連れてきたようだ。そんなことを言っていたよ)

 あの騒動の日の魔理沙の言葉を思い出す。これが事実だとしたら、今の紫の態度はすっとぼけもいいところだ。自分で連れてきておいて数ヶ月放置し、今になって接近してきた理由は何だろうか。何か事態が変わったのか、それとも単に今の今まで忘れていたのか。阿求が持っている少ない情報から紫の考えを透かして見ることは出来そうになかったが、今回の急な訪問の理由だけは少し見えてきたような気がした。

 

 

 「今は出掛けています。霧雨の娘と一緒に森にでも居るんじゃないかしら」

 

 

 もうすぐ帰ってくるはずだが、という一言は心の中で付け加えるに留めた。何故だか、彼をこの妖怪に引き合わせるような真似をしたくなかったのだ。ありがたいことに、紫はそれ以上の追及をしてこなかった。

 

 

 「そう。なら別にいいわ」

 

 

 スキマ妖怪は阿求の方を見もせずに言った。

 その次の瞬間には跡形もない。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 弱い雨脚が屋根を叩いている。

 

 数十分後、書斎の文机に肘を突いてぼうっとしていた阿求の耳に、邸の玄関のあたりからの物音が届いた。引き戸を開ける音、閉める音。叩きから何か重たいものが廊下に落ち、その後暫くの間静かになった。ここ二、三ヶ月の間に幾度となく聴いた物音は、かの無為徒食の食客が立てる物である。

 車輪が床板を擦る低い音が近づいてくる。

 少女は座したまま部屋の隅の鏡台を見て、自分が普段通りの表情と姿を保っているかどうかを確かめた。どうあっても彼に悟られる訳にはいかないのだ。不安と恐れと迷いが入り交じった心の裡も、つい先ほどここで何があったのかも。鏡の中の青白い顔が阿求を見返した。

 

 車輪の音は徐々に大きくなり、やがて部屋の前で止まる。

 揺れる影が数瞬障子に映り、そして消えた。

 木の軋む音と共に、車輪の音が遠ざかっていく。

 

 潜めていた息をふっと吐き出して、阿求はぼうっと障子を見つめていた。

 たった今障子一枚隔てた目の前を通り過ぎていった人は誰だったのだろうか。阿求の知る彼はいつだって誰かの助けを必要としていた。ここに座っている少女こそ、その「誰か」だったのではなかったか。それとも全て甚だしい勘違いと思い込みだったのだろうか。

 

 (私は彼が怖いのだろうか。それとも、他のものが怖いのか)

 

 もしこの迷いと恐れが彼に向けられたものだったとしたら、この私には資格がない。彼の支えたる資格も、彼の帰るべき巣、憐憫と慈愛に満ちた巣の主たる資格も。

 

 阿求は畳の上に身を横たえた。雨の音が止むまで、彼女はずっとそうしていようと思った。

 

 

 

 








 息抜きのつもりで「蝕」を文章にするという荒行を試みた結果語彙力がボロボロになり、おそくなりました。
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