八年前の自分とバトルする日々が始まりました
いったい何故に妖怪の自分が、それも自分の小屋で正座などしてかしこまった態度を取らねばならないのか、多々良小傘は釈然としないままに中空へ視線を泳がせ、傍らの黒い鵺をなるべく意識しすぎることのないようにと努力していた。
横目で招かれざる客人をちらと見ると、囲炉裏を前にして何やらそそくさと酒盛りの手配をしているようである。どこからともなく取り出した風呂敷包みから硝子の細瓶と油紙に包まれた何らかを取り出し、酒器を並べ(吊棚に仕舞っておいた愛用の高杯までもが勝手にその列に加えられていることに小傘は憤然とした)、今にも一献傾けんとする風体であった。
勘弁してくれと小傘は思う。
「まぁそんな辛気臭い顔は止して、どうだい一献」
言葉の終わる頃には既に瓶の中身を高杯に注いで、こちらへ差し出している。へへぇ、と内心渋々ながらも受け取り、覗き込んでみる。ふいと匂い立つ甘い薫が鼻腔へと染み渡った。自然と顔が吸い寄せられる。
「二ツ岩の古狸がね、外へ行ったみやげにくれたのさ。
そう言いながらも自分は洋装の懐から升を取り出して瓶から注ぎ、小粋な所作でくいと呷る。仰向いた横目でこちらを促すように見やって来るものだから、小傘も覚悟を決めて杯を空けるしかなくなった。
毒食らわば、と一念して口に含むと、ややあって舌の上でプツプツと弾ける弱い刺激と果実の芳醇な香りが染みてきた。これはアレだろうか。里で時々話題に上がるらむねというやつだろうか。だが後味へわずかに残る辛味は確かに酒精。外の連中は焼酎を童の飲むよな糖水で割るのか。
「近頃里で商い始めた麦酒とも随分な違いでしょう。ねぇ一ツ目の、外の連中はどういう時にこの手の代物を振る舞うと思う?」
「浅学非才の身にて……」
「そ、酒の妙味も引き際も知らない初心な書生や乙女を狙って酎されるのさ。どうだい欺瞞の味がするだろう」
なるほどこれなら餓鬼の舌でもペロリだなぁ、などと納得させられたのは退路を既に失った初心な乙女付喪神こと多々良小傘である。
同時に鼻孔に勢いよく逆流進入した欺瞞の味。おびえる身体は正直にもケーンケンケンと初夏の雉のごとくけたたましく咳き込んでいたが内心では妙に冷静だった。この身は既にしょうもない金物屋と化した卑小な付喪神だ。史書に名高い大妖怪の歓心を買って変なモノを飲まされたのちにチョメされるのなら上等なくたばり方ではなかろうか。それにしてもなぜこの大悪党は我が仮の住まいに目をつけたのだろうか。くたばり方は上等でもそこへ至るまでの道筋が理不尽極まりない。朝にはベビーシッターありて夕べには白骨とピチュる。南無南無……
「あーあーあー。いったいどうしたっていうのそんなに慌てて。顔を拭うのはいいがそりゃ私の裾だよ」
「……へへ、えへへへへへ」
「気色悪い笑い方だなぁ」
苦し紛れに手を伸ばした先には「どうもこの辺だろう」と予測した自分の空色すかあとの裾ではなく、思ったよりも近くに座っていた大妖怪様の腿の黒布があったらしい。涙と酒交じりの鼻水でべっちょべちょになった自らの顔を、もはや拭う事も叶わなくなった小傘は笑った。ここひと月で一番の笑顔だった。「まあいいやあげる」との仰せとともに手の中に残ったのは三寸四方の黒布一片。魂消て鵺のほうを見やれば、露出した腿を隠すようにかかった薄く黒い靄が徐々に物質として元の衣服のかたちへと還っていく光景を目の当たりにすることとなった。
「う、う、う。わちき、これで首吊ってしにまする」
「あ、おい。やめろ。ひとの長足袋を剥いで首吊る奴があるか。というか結構図太いね一ツ目の。そういうところを買ってるんだよな私は。おい。やめろって。阿呆」
(中略)
誰もが気づかぬ間に降り始めた細雨が窓外の宵を密やかに埋め尽くしていく、今は亥の刻である。遠くに望む里の瓦斯灯も消え失せ、人の眠り妖の巡る時は今ぞとばかりに蛙や木立のざわめきが息巻くような雨夜が更ける。
「落ち着いた?」
「へへぇ」
胡坐を組んだあきれ顔の大妖怪が囲炉裏の向こう側からこちらを窺っている。さいはいだかにーはいだか知らないが長足袋を引っ張られたのが効いたようで向こうからすすんで小傘との距離を離してくれた。それにしたって生きた心地はしない。
土間の水甕から柄杓で二杯も三杯も呑水しながら息を整える。先ほど飲み損ねた甘い酒の味はもうすっかり忘れた。今はただただ会話を前進させるべきである、と彼女は金物屋営業やベビーシッターで培った対人能力で察している。とにかくこのアンデフアインドフラインめちゃつよ(※推定)ガールの機嫌を損ねぬように此度の訪問の目的を遂げさせねばいつまでも居座られる可能性が高い。小傘はこの小屋が気に入っていた。先月きゅうりとなすを庭へ植え替えたばかりだし、裏手に仕事用の炉もこさえたし、最近では天狗の新聞も届くようになった。たとえこうしたやくざ者に脅されたって、そうやすやすと引っ越す気はないのである。
ストッキング綱引きでなんだか場の空気が対等に戻ったような気もするので頑張ってこのまま迷惑客をスペルブレークしてやろうと意気込む茄子色の小童妖怪であった。
とりあえず緊張で口が渇きっぱなしなものだから柄杓の水を構えておく。
「……あのぉ、聞きそびれてたんですけどぉ、この度はどういったご用件で……?」
「用もないのに訪ねちゃだめかい」
「いやぁ……接点、なかったかなって」
「私はあんたをしょっちゅう見かけるよ。里の上を飛んでるときとか。今どきね、人家に毎日張り付いて人間どもを驚かせようって気概のある奴なんて滅多にいないんだよ? 皆巫女やあのハクタクが怖いんだ。そんな中でも爺婆や童にも容赦なく絡んでいく、肝の据わった一目入道の顔をば、ここらで一度しっかり拝んでおきたくなったのさ」
「ぶへぇぉわ」
「鼻から飲むのが趣味なの?」
(かっ、かっ、買いかぶり〜〜〜!?)
それも開いた口が塞がらないほど巨大な過大評価だった。
ここのところの多々良小傘の活動内容はひたすらに薄い。起きて、飯食って、鍛冶仕事をして、飯食って、里で草の根をやって、夕暮れに墓地を巡回して、飯食って、寝ている。もはやそこらの町人と大して変わらない生活を営んでいた。
自分で大ごとを起こすほどの実力も度胸もないのであればデカめの異変に便乗したいところだが、だいたいそれもうまく行っていない。前回大会は決起から四十五分で赤い方の巫女に完封されて一回戦敗退であった。
一番厄介なのは──路傍の子供や墓参りの爺婆をたまげさせていること自体は事実であるという点だが。
げっほげほげっほげほ、咳と咳の合間に見出す刹那にて、化け傘はやはり進退窮まっている。立ち往生ならまだ良い、このまま買いかぶりが続けばもしかするととんでもない方向に歩まされるのではなかろうか。たとえば、異変の片棒を担がされるとか。
そうなる前にどうにか自分を卑下し、この鵺の評価を程よく下げねばなるまい。使い捨ての駒にすらなれない、つまらない三下妖怪などほっぽいてさっさと帰っていただこう。
そうして空色あたまの導き出した次なる一手はこうであった。おもむろに板敷きへ上がり、隅の一角に指を掛けるやいなや床板を数枚まとめてパカンと引き起こしたのである。
「……こちらをご覧下さいな」
彼女は剥がした床板の下を指し示した。鵺が覗き込んだ先には四方五尺、深さ三尺ばかりの竪穴が空いていた。何やらごちゃごちゃと小道具や木箱が積んであるところを見ると床下収納というやつであろうか。穴蔵の収蔵品は箱入りのものを除き、全てが金属製品であることにおいて共通していた。
「盥に薬缶に鉈、滑車……なんだこれ、針? おや、打刀まであるじゃないか」
「箪笥の裏には長巻と鉄弓なんぞもありますよ」
「なんだ、まさか金物屋でも始める気?」
そのまさかでしてね、へへへと小傘はへりくだりの極致を滲ませたニヤつきを披露してみせた。
「あちきも今や一つ目入道のフリなんぞして世に憚っておりますけれども、元はつまらぬ破れ傘の付喪神ふぜいに過ぎないわけでして、いやーとてもとても大妖怪ぬえ様からお褒めに預かれるようなそんな、大した妖怪らいふは送っておりませんで、この通り普段はほうぼうから金物の修繕を請負ったりなんかしてですね、日銭を稼いでおる現代のなまっちょろい雑魚妖怪でありんしてぇ、えへへへ、いやいや」
方策とはいえ惨めで仕方がない。事実最近の小傘は金物工と化した自らに引け目を感ずるに至る時期であったから卑下としては演技というより本音の自虐に近かった。新時代の付喪神かくあるべし、と信じて進んだ道であっても淋しくなるときはある。
「ふーん。それじゃあこいつらは全部あんたが作ったってことか」
「ははぁー」
兎にも角にも、これで自分の価値の低さを示すことには成功したはずだと確信する小傘をよそに、鵺は穴蔵の内容物をしげしげと観察していた。おもむろにその中から打刀を一振り取り出して三寸ばかり鞘から抜く。あわれ忘れ傘は「ひゃーっ」と飛び上がって背後の壁に貼りついた。
「玉鋼じゃないね」
呟くやいないや胡坐のまま無造作に抜刀して前方の空間に斬りつける。およそ鉄の棒を振ったとは思えないほど甲高い音が割かれた空気の悲鳴を示す。この刀を鋳じた当人ももう一つ悲鳴を上げたいところであった。
「健かにして靭、しかし不気味なくらい芯に歪みが感じられない。私の知ってる戦道具とは随分趣が違うな」
「そ、それは山の白狼の注文でして。なんでも冬の八合目から先は一遍通りの刀じゃ脆くなるって言うもんで、そんならと河童に相談したら満俺を増やして炭を減らせば良いと。そのまま河城某とやらの電気炉を借りて低温で煉りましたるものを心鉄に……」
「ふーん。こっちの鉤棒は?」
「えーと、たしか釵とか言いまして、えー……武闘派の庭師からの注文です。短刀や脇差よりもより組み討ちに向いた道具が欲しいって話だったんで、古書店でそれらしいものを調べて形だけ真似てみました」
「ふーん」
聞いているのかいないのか、鵺は床下から次々と武具ばかりを取り出して眺めては眉を顰めたり頷いたりの吟味仕草。
どうもしくじったらしいのを小傘は実感していた。考えてみれば千年前にお武家とやり合っていたような妖怪が武具馬具の類に興味を示すのは当たり前のことだ。
自負するのもどうかと思うが多々良製の鉄道具は全て良品である。里の老舗鍛冶屋と比べても遜色ないどころか、日用品の類や儀礼用の装具の出来に関しては上回っていると言っていい。小傘はそっと穴蔵に手を伸ばして布包みを一つ取り出し、中から長大な針を取り出した。どっかの巫女が使っている凶器、通称封魔針である。両端を握って思いきり力を込めてみても一粍たりとも曲がる手応えはない。ここから失望してもらうのは難しそうだ。
「ん? これ何だい?」
それまでとはニュアンスと云うかイントネイションの異なるその声に、どうやって道化けた自己紹介をしてやろうかと思案をしていた一つ目ははっと現実に引き戻される。見れば、来客が何やら真っ黒い球状の物体を手にしていた。
数瞬の静寂。やがて小傘はあんぐりと口を開けることとなった。
「あ──!! 納期過ぎてるやつだ!!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
過ぎているどころの話ではない。実情としては後回しにし続けていたらいつしか忘れ去っていたという方が近かった。唐傘お化け一本足打者は両手両膝の四本脚体勢で勢いよく鵺の元ににじり寄った。畏怖と遠慮が職務に対する義務感と突発的憔悴に敗北したかのような瞬発力と、それに伴う昆虫的仕草に此度は鵺のほうが少々動揺することとなる。
「の、納期?」
「そう! もう四ヶ月以上は預かりっぱなしのまんま納品するの忘れてたやつで! しかも届け先が届け先だから事と次第によっては私巫女か魔法使いにしばかれるかもしれあ痛っっっっっったぁああああ!!」
小傘が鵺の手の中の鉄球に手を伸ばした瞬間、炉端の薪が赤く爆ぜるような音とともにその手が弾き飛ばされた。「んー?」と片眉を吊り上げただけで平気な素振りをしている鵺の目が、恨み言を吐きながら土間の棚から分厚い革手袋を引っ張り出す小傘の姿と己の手の中の黒い鉄球の間をゆっくり交互に往復する。
「……はー、忘れてた。自分で拵えといて尚なんだかよくわからない魔道具に素手で触った私が迂闊だっただけだよね、うう……あっ、あっ、大妖怪大ぬえ様はご無事で!?」
「大ぬえ様ってなんだよ。いや、こっちは別に。むしろ触ってて心地良いって、いう、か……」
いいかげんこの傘妖怪の妙なノリにも辟易してきていたぬえは、そこまで言って唐突に猛烈な違和感を覚えた。この掌の中の球体は──梅雨時の外気のように微温く──まるで在るはずのない旧友と手を握り合っているかのような安心を覚える感触で──ああ、なんと馴染み深い重さなのだろう──
ことり、と床の上に鉄球を置く。
「気色わる」
「わちきの傘がナスみたいな色と仰せられるか!?」
「何言ってんだよほんとに……」
ヒトがケガレに触ってしまったときにそうするように手をさすり、しかし微かに失笑しながら封獣ぬえは呟いた。
「気色悪い。これ、今私に『寄り添って』来た気がするんだ。あんたこれを魔道具とは言ってたけれど──いったいどこの誰が何のために使う代物?」
口を尖らせ、紅葉のように真っ赤っ赤に染まったお手々を手袋に突っ込んでいた小傘はこの問いにぱちくりと瞬きをした。
「あぇ、依頼主は稗田屋敷に居候の外来人です。近ごろ話題の車椅子。何に使うのかは本人もわからないみたいでしたよ。ただ、割れた鉄の球を継いで、元から込められてた微細な術力をちょいと高められないかってご相談でしたねぇ。ちょいと失敬!」
ひょい、とぬえの手から件の鉄球を大胆にも没収しては軽くさすってみせる。手袋越しだからか、今度はパチパチと音を立てこそすれ、傘妖怪の手が無碍に弾き飛ばされるようなことはなかった。
ぬえはゆっくりと腕を組んで「術力?」とだけ呟くように訊いた。小傘はというと、穴蔵から一綴りの木簡(いかな幻想郷といえども古風に過ぎるのではないかとぬえは感じた。おそらくこの変な小童妖怪の趣味であろう)を取り出して繰り始めている。
「ええ。まー、とはいっても何の術なのかはさっぱり。祟りや呪いの類でもなし、寿いであるわけでもなし。さっきの『ばちばち』だって、バリを取ったりヤスリで研いたりしてるうちにだんだん大きくなったってだけで、別に私はなんにもしてないんですよねい。割れてた時は冬場の静電気程度の刺激だったのが、最終的に爆竹くらいの勢いにはなりました」
「…………」
「その、寄り添う? ……みたいなの、手前には全然感じ取れませんが、大妖怪様を気味悪がらせるくらいの効果があるのなら、この仕事は上手くいったってことなのかもしれないなって」
「…………」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
封獣ぬえは先ほどの違和感について思慮と追憶を巡らせていた。
元来鵺たる者はIdentityを持たぬ。undefinedとして存続し、人の震えに満ちる夜をただ無為に過ごすのが彼女のやりようであり、それが至高の享楽と覚え。なんとPrimitiveな妖であろうか。ぬえは己の存在が最も恐怖の根源に近い領域にあることを誇りに思っていた。恐れは未知から来る。人類最初の未知とは夜だ。鵺は真に夜鳥である。であれば、我こそは恐れそのものではないか。
そして古来、人は未知を暴くことで生存領域を拡大してきた。未知の権化たる鵺と凡人の衝突は天命の筋書く比喩ということになる。だから彼女はあの都で、全霊を賭して「不明」で在るべく踊り狂い、戦い、逃れ、そうして暴かれた。
往時の事、其は天命であった。
甘んじてやる気はさらさらなかったから、千年経った今になってもう一度暴れている。
そう、戦うのは良い。鵺はヒトの敵だ。
寄り添われては終いだ。微温い相互理解は彼女から最も、最も遠い位置にある。しょぼくれたほうの神社を覗けばしょっちゅう妖怪が巫女と酒盛りなどやっているが、ヒトと馴れ合うなど言語道断であるからして終にあれらと酒席を同じくしたことはない。
そこまでして踏み入らせまいとした領域に、どういうわけかこの
それにしてもあの温度は何故に。指先をついと伸ばして床の鉄球に触れてみる。やはりわずかに温い。そのままチョット力を込めて押してやると、かのモノは黒黒とした軌跡と音を発しながら、立て膝胡座で座って木簡を繰っている多々良某の足元のほうに転がってゆき、やがてスカートの中に潜り込んでどえらい破裂音を轟かせた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「まあ許せって」
「ゆるしません……」
「ほお、許さずばどうする」
「……わかんない……」
「泣くなよ」
膝を抱えた三角形になって座っているナントカ妖怪を観賞しながらぬえは油紙に包まれた肴をぶちりと食いちぎった。セラミだかサラミだかいう辛い腸詰である。不定期に彼女を訪ねてはこういったものを押し付けていく古狸の顔を思い浮かべる。あれがこの場に居てくれれば、この何とも言えないトンチキの情緒不安定妖怪をうまくあしらう事も出来たろうが、生憎今は不明が一匹だ。何となくこのボロ屋に侵入して主を待ち構えていたときは、珍しい酒とツマミで「見どころのある後輩」を適度に揉んでは昔の武勇伝でも語って聞かせてやろうなどと薄っすら計画していたというに、今はもう疾う帰りたくて仕方がない。欲しいのは良い感じの舎弟であって、格上に怠い絡み方をしてくる変な包丁売りではなかった。
ふと、畳み傘の傍らに投げ出されている木簡綴りが目に入る。
どうやら注文書きのようだ。こっそりたぐり寄せて読んでみると、件の注文はすぐにも見つかった。
【装飾品。元来球体であったと思しい二片の鉄片の鋳直し。幾何的紋様の彫刻。御名前、徐而 尉須太。稗田屋敷】
名前に用いられている表音をひねり出すのに二秒ほどかかる。じょうに・じょうすた。外来人の名前は歯切れが良い代わりに音の響きが余韻へ流れ落ちて行かない感じがしてどうも慣れない。
ぬえは隙あらば里の人口に疑心暗鬼を忍ばせてやろうと画策しているのだが、思えばこの謎の外来人についてはノータツチだ。というより前回の牛の首案件からこっち、あまりそういった方面から攻めていないのであった。
(あん、勿体ない。こじつけようと思えばいくらでもこじつけられたのにねぇ)
うろ覚えだが件の外来人は地面の下から掘り起こされたのだという。そんなどこの馬の骨とも知れぬ怪奇現象が、あろうことか里いちばんの名家で養われているということ自体が良い種ではないか。ちょいと下調べして耕してやる、それだけで不明の萌芽が芽生えそうな予感がする。
以上は期待。ここからは──と、ぬえは再び畳み傘の方を見遣る。
鉄の球。
懸案。
今宵、ここに来たのは間違いではなかったなぁと彼女は吐息する。寺の裏手で船幽霊と賽子を振ったり、意味もなく夜空にベントラーを飛ばしてみたりする蒙昧の日々はどうやら終わりそうであった。
「──ねぇねぇ」
「……」
「さっき、この品を届けなきゃならないが稗田の屋敷と退治屋が怖い、って言ったろ」
「……はい」
「ここはひとつ、この古都の大妖怪が力を貸してあげる」
「え?」
膝小僧に伏していた顔を上げて怪訝そうな表情を見せる後輩(仮)に、ぬえは薄い笑みを浮かべて片目を閉じてみせた。あるいは一つ目入道というものへのオマージュであったかもしれない。
「丁度そろそろ里に酒と
嘯く間にも先方の表情がみるみる明るくなっていくのを見て、ぬえは浮かべている作り笑いに嗜虐的なニュアンスが漏れないようこらえてもいた。純粋な輩はとみに扱い易い。
「う、うーん……そこまでしていただけるなんて、願ってもねぇことでげすが、あちきなんぞに……」
「げす?」
喋り方が滑稽なのは置いておくとしても、ここはもう一押し甘やかして骨抜きにしてやろう。
「さっきも言ったが一つ目の、私はあんたを買ってるんだよ。さいしょ鍛冶のことは正直どうかと思ったが……うむ、この刀や鋏なんかも良い出来だ。魍魎とて手芸の巧みなことには風流に違いない。ますます気に入ったよ」
「あ、姐さん! 肩揉ませていただきます!」
「あ、うわ、どこ触ってるんだ。肩は此方だ。私そんなとこまで不明なのか? おい、やめろって。阿呆」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
降り始めた時と同じように、雨は知られず止んでいた。掛布団一枚さえも煩わしいような丑三つ時、地上は腐敗と発汗の匂い立つ明日を夢見て未だ眠りに就いている。
旧い畦道の終わりに佇む雑木林に閉ざされた古屋で、ちっぽけな妖怪は大の字になって湿気た天井を見つめていた。
鵺はもう去った。囲炉裏でほのかに燻る炭のほかに灯りもない屋内は、客人を失った今、何故かかえって狭苦しく感じられる。
「……おなかすいたー」
本当は大して空腹を覚えているわけでもない。それでは明日から恐怖活動に精を出し、里の衆をんべっと驚かせれば腹も満たせようから今宵は我慢して寝よう、と運ぶのが健やかな妖怪であろうが、そうは考えずにとりあえずその辺の床に鵺が忘れ置いた齧りかけの腸詰を取り上げてもぐもぐし始めるあたり多々良小傘は弛んでいる。このあたりも含めて到底、平安のオールドスタイル妖怪に気に入ってもらえるような性根はしていないのだった。
それにしても、最初はどうなることかと思ったが。訪問が終わってみればウソのように気持ちが軽い。寝転がったまま脱衣して白小袖の寝間着に着替え、その感触を素肌に楽しむゆとりと暢気さすら生まれる。何しろ一夜にして大妖怪との縁を拵えた(ぬえの方からしてみれば「道端に落ちていた笑い袋を触ったら存外大きな音を立てた」程度の体験でしかないのだが)上、気まずい納品遅延にも付き合っていただけるというのだ。
今から眠れば明日の巳の刻くらいに醒めるであろうから、午刻にふたたびこの家へ来るという鵺様を迎える準備を調える時間はたっぷりある。去年の水無月から秘蔵している梅漬を供すればたぶん喜んでもらえるはずだ。少なくとも今まで食べさせた夜雀、蛍、半人半霊の半人の方、ろくろ首などは皆驚愕した調合の絶品であるからして。
不安はある。このままの自分でいいのだろうかという思いも変わらず鎌首をもたげている。それでも明日は来るのだから、その場その場で考えながらやるしかないと心に決めて彼女は目を閉じた。
幻想郷の妖怪界隈それなりに広しといえども、明日の自分はどう在ろうかと思案しながら床につく者もそう多くはなかろう。古参が聞けばケツの青いことよと嗤うであろうが、出自と謂れを鑑みれば──その在り方を自らの心ひとつで前後左右できるほど自在たりうる「妖」がどれほどいるのだろうか。名に縛られ、由縁に縛らるるはヒトに倍する、それが怪異というものである。
多々良小傘。空色あたまに茄子色の破れ傘。
里を歩けば自称子守の不審者扱い、
「……刃物、褒められたなぁ……」
色々あったが、極端にちょろいのも彼女の性。