「……………」
先ほどから師匠は何も言わず、ただ患部を見詰め続けている。
それをサポートするために、鈴仙・優曇華院・イナバは集中している。
「波長を操る」力を持つ彼女にとっても、医療に用いる内視鏡の代わりを務めるのは非常に困難を極める。可視光や脳波の大雑把な操作はお手のものであり、戦闘やその他非日常生活において頻繁に行使している。だが今は『大雑把』では許されない。預かっているのは命……たとえ『ただの』人間であっても……
と、患者の頭の傷を覗き込んでいた永琳が首を捻る。
この偉大な頭脳に師事してからそれなりに長い年月が過ぎているが、永琳が首を傾げた場面に遭遇した回数は少ない。よほど難しいのか……
「…………?」
「どうかなさいましたか、師匠?」
「…………うどんげ、もういいわ」
どうやら診察(もっとも、頭に穴の空いた人間を前にして診察というのはおかしな話だが)は終わったらしい。鈴仙は波長操作を解除する。
「鉗子……いえ、もうピンセットでいいわ。そこに並べてあるから取って頂戴」
「え?ちょ、師匠、いくら容態が安定しているからってピンセットで手術って!」
永琳は汗の浮いてもいない額を手で拭い、ため息をつく。
「これはもう『手術』ですらない。いいから早く」
言われるままに鈴仙は医療用のピンセットをつまみ上げ、永琳に手渡す。
瞬間、永琳は無造作に男の頭の傷へ手渡されたそれを突っ込んだ。
「………………へ?」
あまりの衝撃に鈴仙が声を無くしていると、ものの一秒もしないうちに永琳は血まみれの傷からピンセットを引き抜き、何かをつまみ出した。
形は板状。その大きさは縦に二センチ、横に一センチほど。
永琳はその謎の物体を側に置いてあった皿へ放り出し、懐から取り出した「軽い骨の損傷に」とラベルに書いてあるビンの中身を患部に振りかけた。
この様子を見て鈴仙は考える。こんな感じの師匠を、私はどこかで見たことがある。それはどこでだろうか。
傷口から軽い煙が上がり、みるみるうちに塞がっていく。永琳は人差し指を唇に軽く当て、「もうちょっとかしら……」などと呟きながら更に薬を振りかける。
思い出した。これは永遠亭の台所に立って煮物を作っているときのノリだ。「お醤油を少々」みたいな。目眩のようなモノを堪えつつ、鈴仙は自らの師匠を見ていた。脳ミソにピンセット突っ込んで異物除去。あげくに薬を目分量でぶっかけて、まさかこのまま終了なんてことは……
姫様、確かに師匠の肉じゃがは美味しいですけれど、つまみ食いはダメだと思います。
永琳はフラフラしている鈴仙に向き直る。
「処置終了。あとは全身にある切り傷やらの縫合だけよ」
「えぇ……?」
「言いたいことは分かるわ」
見上げると、彼女の師匠は真剣な顔をしていた。
「後でちゃんと理由は話すから。今はとりあえず里の先生を呼んできてね。簡単な縫合は手が多い方がいいし……傷薬で塞いでしまっても良いのだけれど、あんまり薬使うのも考えもの。だから縫うのよ」
今、自分の口は「ぽかん」と呆けたように開いているのだろう、と鈴仙は思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
稗田屋敷の数多い部屋の一つでは、霊夢、魔理沙、阿求、小鈴、慧音、それに人里の医師が気を揉んでいる。手術室の中で繰り広げられている出来事など知るよしもない。
囲炉裏の灰はまだ十分に紅いというのに、部屋は冷えきっていた。
用意された座布団の上に足を組み、自らのこめかみのあたりを揉んでいた魔理沙がポツリと呟く。
「なぁ、霊夢」
「どうかした?」
「ここにさ」
こめかみを指差して言う。
「穴が空いたら、死ぬよな……?」
「アンタだったらきっと大丈夫よ」
魔理沙と霊夢以外の全員が軽く吹き出した。
ややおいて、魔理沙も微笑む。
「……そうだな。『私も』不死身だ」
「殺しても死にそうにないものね」
ともすれば重く沈みそうになる雰囲気を溶かした、霊夢流の清涼剤。
「やっぱり霊夢さんは凄いですね」
そっと、阿求がこぼす。
霊夢が何事か返そうとしたとき、廊下の襖がするりと開き、疲労困憊といった体の鈴仙・優曇華院・イナバが姿を表した。途端に浮き足立つ一同。
「どうだったんだ、彼は!」
真っ先に皆の訊きたいことを訊いた慧音の顔を見上げる鈴仙の表情に、ある種の疲れが浮かんでいる。
「もう、大丈夫です……頭の傷は塞がりました……肉じゃがを作るより簡単に……」
肉じゃが?と、皆が首を傾げた。だがそれも一瞬のこと。すぐに安堵のため息が漏れる。
鈴仙は続ける。
「あとは切り傷の手当てをして、体力の回復を待つだけだそうです。……里の先生、縫合の手伝いをお願いできますか?」
「うむ。できることはなんでもやろう」
頷き、老医は開け放たれた襖から廊下へ出ていく。
老医が出ていってしまうと、今まで張り詰め気味だった空気が完全に氷解し、寒々としていた部屋は急に暖かみを増したように思われた。
「何はともあれ、本当によかった……」
小鈴の言葉が全てを表す。今のところ、他に思いは必要ではなかった。誰にも……
「皆さん、こうしてずっと座って待っているのも何ですし、お茶でも召し上がりませんか?用意は直ぐにできますけれど」
『確認』に皆は頷く。
阿求は戸棚を開き、中から菓子鉢を取り出す。
その時、襖が開いて新たな客が入ってきた。
「ふー、疲れた。あ、勝手にお邪魔してます」
「あ、新聞屋さん……いえ、どうぞお構い無く」
湯を沸かす作業に入ろうとしていた阿求の言葉が半分も終わらないというのに、射命丸文は既に囲炉裏の側に陣取って「おぉ、寒い」などとのたまいつつ手をかざしている。
「アンタねぇ……ちったあ遠慮というものをしなさいよ」
「霊夢、それは煎餅をバリボリ食いながら言う台詞ではないな」
かく言う上白沢慧音はきちんと正座をして眉を潜めている。
「だが射命丸文。君も大概だぞ」
「いや、すみません。ちょいと寒い思いをしたもので」
「そういえばお前」
胡座をかいてかりん糖を頬張る魔理沙が問う。
「外で何してたんだ?スカートの裾に少し血が付いてるぞ」
「あや、落としきれてませんでしたか」
文は慌ててスカートを見る。黒い生地には、目立たないが確かに赤黒いシミが出来ていた。
自分に向けられる不審の目を振り払うように、手と首をぶんぶん振る鴉天狗。
「例の彼が出てきた窪みを掘り返して、ちょっぴり調べていたのですよ。なかなか面白いモノが見つかりましたが、なにせ持って入る訳にもいかない大きさでしたので、今は表に置いてあります」
窪みの底が血まみれであったことは、ここにいる全員が自身の目で見ている。何より、手当てをしていた者の服には多少ならず乾いた血が付着していた。
「…………彼、何者なんでしょう」
小鈴が誰とはなしに問う。
その答えを用意できる者は、この場にも、そしてどこにも居なかった。
そう、手術室で横たわる『彼』本人さえ…………
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
車椅子はあの少年に合ったサイズだったらしく、いささか僕の身体には窮屈に感じた。
しかし、軋む背もたれに背中を預け、引っ掻き傷だらけの車輪に手を掛けてみると、その感覚は速やかに、一種の『心地よさ』すら伴って僕の心に訪れた。
これはきっと、僕の物なんだ。
その感覚が実感となって訪れたとき、背中に一瞬の灼熱が駆け抜け、続いて腰から下にゆっくりと冷たい氷のようなモノが走った。
……それっきり、下半身の感覚は地面に溶けて流れてしまったようだった。もう、叩いてもつねっても、一つの痛みも感じない。
そう、僕が道の途中で『立ち止まった』とき。
つまり、まったく新しい命が始まりを告げたとき。
あのときと今は、ほとんど同じだったように思う。
……始めるんだ。独りでも。
目の前には、霧がかった暗い森が見える。
この先に何があろうと、進まなくては。
僕はズボンのポケットから帽子を取り出す。
右のポケットには水兵のかぶるようなセーラー帽が。
左のポケットには……星の模様が縫い込んである白いニット帽が入っていた。
僕はその子供っぽいデザインの帽子を見て、そっと微笑んだ。
セーラー帽を元のポケットにしまいこみ、星の帽子をかぶる。
そうして、車椅子の車輪を前に進めた。
もっと遠くへ……この夢の許す限り……醒めるまで……